酒井抱一 さかいほういつ

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鶴田 純久の章 お話

画家。1761年(宝暦一一)生まれ。姫路城主酒井忠仰の二男。名は忠因。出家して等覚院文詮暉真といった。抱一屠龍・鶯村・雨華庵・軽挙道・人・庭柏子の号がある。西本願寺文如上人の養子となり権大僧都に任ぜられたが、のち寺務を捨てて江戸に帰り根岸の里鶯谷(台東区)に隠居した。
性多能で特に絵画にすぐれ、狩野・土佐・円山・文晁の諸派を移り、ついに尾形光琳の風を尊重しすこぶるこれに傾倒した。また俳諧狂歌を好み、筆道は其角の風を慕い、恵まれた境遇に優遊し奔放自由な一生を送った。著書に『光琳百図』『尾形流略印譜』などがある。1828年(文政一一)十一月二十九日没、68歳。なお抱一の陶器関係としては、久しく忘れられていた尾形乾山の墓碑を下谷坂本(台東区)の善養寺に発見し、大沢文華と図って寺門に碑を建てた。また観嵩月や植木屋の老母から乾山名の譲状と乾山伝書を見出し、のちこれを歌仙堂西村藐庵に譲り渡した。このことから抱一を伊八・呉介と数えて、世間では乾山四世と称する。

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