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鶴田 純久の章 お話

尾張常滑の陶工。文化・文政(1804~130)頃の人伊奈長三郎(号長三)に始まり、代々襲名していずれも名工といわれた。初代は常滑村(常滑市)の陶工長兵衛の子。家は代々酒甕の製を業としていたが、長三は茶器・酒器などの小細工物に意をひそめ雅致あるものをつくり、のち白泥の法を創意し名を上げたといわれる。1822年(文政五)一月五日没、78歳。二代は1781年三〇(天明元)生まれ。初代の遺業を継ぎ茶器・酒瓶をつくり、精巧であった。1843年(天保一四)藩主の巡視に際し轆轤の技を供覧しその賞賛を蒙った。天保年間(1830~144)板山土を用い白焼を創製し、さらに工夫をめぐらして火色焼(藻掛け)および火焼などを製出した。1857年(安政四)六月没、78歳。三代は1818年(文政元)生まれ。幼名鯉江佐重。二代長三の養子で轆轤の名人。1861年(文久元)九月没、44歳。四代は三代の長男で1841年(天保一二)生まれ。轆轤手捻り共に巧みで、火色および火棒などを最も得意とした。1883年(明治一六)頃中国人金士恒について中国宜興式の急須の製法を伝えた。早く長男初之丞に家を譲り、隠居して多くの製作をなした。1924年(大正一三)四月没、84歳。五代は名を初之丞。もっぱら土管の製造に当たり石炭焼成に努力し、また同業組合長として明治の公共事業に尽力した。自ら手を下す暇はなかったが、轆轤・細工ともに習得していたといわれる。五代長三の没後長太郎が家を継いだ。(『工芸鏡』塩田力蔵 寺内信一)

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