尾張藩士。諱は胤臣、字は子隣、通称新丞、のち文左衛門、洲または黙斎と号した。1727年(享保一二)九月生まれ。諸役を歴任してその経世的手腕を現わし、1791年(寛政三)熱田奉行に転じ船奉行を兼ねた。1800年(同一二)七月初めて海浜に墾田し、翌年正月に竣工、ただちに各村の民を募って移住させ、地所を与えて耕作に従事させた。たまたま瀬戸村の陶工吉左衛門・民吉父子らが陶業に窮して耕作者の中におり、文左衛門はその技量の死蔵を惜しみ、国産開発のた彼らに南京染付焼の法を伝授し後援に努めた。
翌1802年(享和二)十二月病没、75歳。
その子七胤貞は父の遺志を継いで染付焼の開発に尽くし、1807年(文化四)加藤民吉が九州から製磁の法を修得して帰った際、藩から文左衛門以来の功によって功分金を年々百両ずつ賜わった。なお1928年(昭和三)十一月、文左衛門は勅によって正五位を追贈された。(『日本近世窯業史』『名古屋市史』)※たみきち