出雲国(島根県)布志名焼の陶家。代々松江横浜(松江市横浜町)に住み土器職を営んでいたが、元祖善四郎芳方は楽山焼四代加田半六が不首尾のために藩を追われた際、後任として1756年(宝暦六)六月、御給米十俵二人扶持帯刀御免御茶道支配御坊主格を仰せ付けられ御立山焼物師となった。のち1780年(安永九)布志名村(八束郡玉湯町布志名)に移り焼物御用教方などを勤め、1786年(天明六)正月没した。二代善四郎政芳(俗に出吾善と呼ぶ)は、しばしば江戸勤番と大崎の邸内に窯を設けてもっぱら茶器の製作に従事し、また三の丸御殿および楽山(松江市西川津町)・玉造(八束郡玉湯町玉造)においてもでごぜん製陶した。これを御庭焼と称する。藩主不昧公はその技能を賞賛し「雲善」の号並びに瓢形印を賞喝した。1821年(文政四)正月没。三代は善六起徳、1854年(嘉永七)正月没。その弟次助は長岡住右衛門の養子となった。四代は善六1876年(明治九)没。五代伝太郎は1877年(同一〇)に若山陶器会社を起こし、1884年(同一七)の解散後独立して業を営んだ。1899年(同三二)隠居、1906年(同三九)没。六代武次郎は継業したが父より早く1905年(同三八)没。七五あ代は定好。二代政芳以来各代ともに「雲善」の印を用いた。(『本朝陶器攷証』『日本陶磁器史論』『出雲陶窯』)