玉水焼・大樋焼 Tamamizu Ouhi 解説

黒沓茶碗 一元

玉水燒

 玉水焼は、一人の庶子弥兵衛 (後の一元)が、その母の在所であった山城国玉水村に興した内窯楽焼の窯で、現在の京都府綴喜郡井手町字玉水に当たります。
 一人の妾にこの玉水村八人衆の一家伊縫家の出の人があり、一入二十四歳の時、すなわち寛文二年(1662) にその人との間に一児をもうけました。ところが、寛文五年にいかなる故か判然としませんが、雁金屋三右衛門の二歳の幼児(後の宗入)をもらって養子としたのです。
 そしてその後弥兵衛は母とともに楽家を去り、玉水村に窯を興し、自らの窯を楽家の正統として、長次郎以来五代目として一元と称したのでした。
 その間の消息については、保田憲司氏が著した 「玉水焼史』 と、伊縫家の菩提寺西福教寺にある伊縫家の過去帳裏面に活済上人なる人の手で書された 『日本楽家 伝来』 に詳しいです。それによると、弥兵衛の父一入を四代、五代を弥兵衛一元、六代を弥兵衛一空、七代を弥兵衛任土斎とし、この任土斎は生涯妻がなかったためにあとが絶えましたが、一元母方の伊縫家の人である、玉水焼を補佐していた伊甚兵衛楽翁浄心が、玉水焼の後を継いで八代を称したものらしいです。
 この楽翁は玉水焼初代一元以来のちかしい協力者であったようで、なかなか優れた作品を残し、明和六年(1769) に八十九歳で歿しています。
 さらに「茶道筌蹄』 (文化七年刊 稲垣休叟著) によれば「一入の実子に弥兵衛、後に一元と云あり、是も故有北楽を名乗らず、其子弥兵衛一句 (過去帳に一空とある) と云早世します。其弟弥兵衛任土斎といふ。弥兵衛の家は任土斎にて絶えたり」と記されていて、一元に二児があり、長兄弥兵衛一空が早死したため、次男が弥兵衛と称し、任土斎と号して家を継いだのでした。またこの玉水焼のことを一部人々の間で南楽、宗入以来の楽家を北楽と呼んでいたらしいこともうかがわれます。
 い。
 次に保田氏の記した系譜によって玉水焼代々について述べてみた初代一元の生年は判然としませんが、仮説として寛文二年がとられています。そして享保七年(1722) 正月二十七日歿。寛文二年生年説は、一元の作品で六十一歳作と刻したものがあり、それを歿年として享保七年から逆算したものであって、実際には享年が判然としないため、単なる仮説にすぎません。初めは弥兵衛と名乗っていたらしく、後に剃髪して一元と称したもので、今日現存する作品にはほとんど「一元」の号で刻銘や箱書付を記しています。たしかに優れた手腕の持主であったらしく、光悦写し、道入写し、一入写し等まことに巧みですから、独自の作風もなかなかのものであったにちがいありません。
 二代一空は一元の長男で、家を継いで弥兵衛を称しました。享保五年
170) 四月十三日、二十二歳で早世しました。したがって一空の号は、おそらく死後の法戒名ではなかったかと思われます。一空作と推測されるものに、弟の任土斎が 「兄弥兵衛作」 と書き付けていますが、それは一入風の朱釉黒茶碗で、作行きもよく整っています。しかし、おそらく一元と一空は区別しがたいのではないでしょうか。
 三代任土斎は一空の弟で、兄の歿後家を継いで弥兵衛を名乗り、さらに任土斎と号しました。任土斎と号するようになったのもいつの頃からかわかりませんが、箱書付に 「弥兵衛 (花押)」 「任土斎(花押)」 と二種あり、花押は共通しています。したがって、初期の作品は弥兵衛としていたのでしょう。宝暦十三年(1763) 三月九日に歿しました。生年は不明ですが、兄の一空が四十三年前に二十二歳で歿していますので、おそらく七十歳前後まで活躍したものと思われます。任土斎も優れた手腕の持主で、巧妙な作行きのものを残しています。この任土斎は生涯妻を持ちませんでしたので、一元の血統はここで絶えてしまうのです。一元から任土斎にいたる三人の作品は、印銘や彫銘のあるものはそのまま彼らの作品として残っていますが、無銘の作品の多くは、長次郎、光悦、道入、一入、その他の作として伝えられているように思われます。
 四代楽翁は玉水村八人衆と称された家柄の一人で、初名を伊縫甚兵衛と名乗りました。初め一元に仕えて楽焼を学び、一元の歿後はその子一空、任土斎兄弟をよく助けました。任土斎の死で一元の血統は絶えてしまいますが、その後玉水焼四代を継ぎ、楽翁と号しました。八十九歳銘の作品があることから、長命でかなり多くの作品を残したと推測されます。西福教寺過去帳に「当家楽根本ノ人。子孫永ク麁略ニスベカラズ」と記されていることによってもなかなかの名手であったことが知られます。一入風の朱釉黒茶碗などの作風は、朱釉がいささかさわがしい感がありますが、作振りは巧みです。明和六年七月五日歿。
 五代娯楽斎は楽翁の子で、初名を宗助、後に甚兵衛と称しました。四代楽翁の歿後、玉水焼を継ぎ、五代娯楽斎と号します。安永五年(1776)七月二十九日歿。
 六代涼行斎は初名を惣助、後に弥兵衛と称しました。また別名を一介ともいいます。五代娯楽斎のわずか二年後の安永七年六月十八日にしています。
 七代浄閑斎は初め惣助と名乗り、後に七代浄閑斎と号しました。天保八年(1837) 五月十七日歿。五十七歳。
 八代照暁斎は初名を甚兵衛といい、自ら「伊縫楽甚兵衛」 と書し明治十二年十一月十日歿。南楽家玉水焼はこの八代照暁斎をもって終わります。一入歿後より二百余年です。
 大樋燒大樋焼は玉水焼のように楽家の血統を受けた分派ではなく、楽焼の技術を伝えた支流であり、また楽家のように千家 (おもに不審庵) と盛衰をともにしつつ存続した家ではなく、基本的には加賀藩主前田の御庭焼の一つとして、もっぱら楽焼風の茶陶を焼造した家でした。したがって、楽焼のように京都を中心に広く一般に流布されることもなく、作品もそれほど多量には焼かれなかったように思われます。
 大樋焼の祖、初代長左衛門は、伝えによると河内国土師村の土師氏の出で、土師氏二十三代であったといわれ、初名を長二といい、明暦二年(1656) に京都に出て、二条河原町に住み、楽家の一入の門に入ったといいます。二条河原町に住したとすれば、内窯の焼物を焼いていた押小路焼ともなんらかの関係があったかもしれません。そして寛文六年(1666) に、加賀藩の茶頭であった千宗室仙叟の推挙で 藩主前田綱紀の君に応じて加賀に下ったものといいます。金沢では東郊の大樋村に地を賜ったので「大樋焼」 と呼ばれ、また 「大槌」 を姓としたものらしいです。藩では 「御作事方御壁役所」 という職名で俸を受けました。
 初代大樋の作品は少なく、管見のかぎりでは、一人の陶工の生涯この作陶を語れるほどのものではありませんでした。その多くは「仙叟好み」として伝承されているものであり、それらの作品は、一見、稚拙味を標榜したものが多いです。それが仙叟の好みによるものか、初代長左衛門自らの作陶技術が巧緻なものでなかったことによるものかは判然としません。しかし、彫塑的な作品を見るとなかなか巧妙ですから、やはり仙叟の好みを体したものと考えられます。仙叟は利休好みの多くの茶碗に箱書付を残しており、当時長次郎焼に精通していた一人であったと思われますが、大樋焼ではまったく長次郎風のものや、道入風のものを作らせていないのは興味深いです。やはり藩主の御用窯としての大樋焼に、独自な作風を求めたのでしょうか。そして釉も楽家のような黒や赤ではなく多くは飴色の釉に焼かせています。利休と長次郎以来の関係である、千家と楽家との間柄を考慮して、ことさらに異なった作風を長左衛門に求めたのでしょうか。しかし、稀に黒釉に焼き上がったものが残っています。
 初代大樋の茶碗は、胎土によるのかいったいに薄手に仕上げたものが多く、しかも削跡を荒々しく残し、釉がけもそれほど厚くなく、高台が小振りで、畳付薄く作られているものが多いです。在印のものは稀で、多くは無印です。正徳二年(1712) 正月二十一日に八十三歳でした。元禄十年(1697) に金沢で残した仙叟とともに、金沢油木山光巌山月心寺に葬られています。法名は玄明一乗居士。
 二代長左衛門は初代の長男で、やはり初名を長二といい、後に長左衛門を名乗りました。二代の作も少なく、その作風の全貌をうかがうことはできませんが、二、三碗の作例でうかがうかぎりでは、大樋代々のなかでも優れた手腕の持主であったように思われます。延享四年(1747) 八月二十三日歿、享年八十七歳。
 三代勘兵衛は二代の次男で、独特の大樋印を用い、また二代の楕円形大樋印を用いたものもあるらしいです。享和二年(1802) 三月二十六日歿、享年七十五歳。
 四代勘兵衛は三代目の三男で、文化十三年(1816) 六十六歳で隠居して、土庵と号しました。土庵書付の書が残っています。大樋代々のなかでは名工と称されており、三種の印を用いました。天保十年(1839) 十月二十七日、享年八十九歳。
 五代勘兵衛は四代の長男で、長左衛門とも称しました。十三代藩主斉広の寵遇を受けたと伝えられています。安政三年(1856) 二月十一日歿、享年七十六歳。
 六代長左衛門は五代目の長男で、初名を朔太郎と称したようです。安政三年(1856) 六月二十五日歿。享年四十二歳といいますから、父五代と同年に残したことになり、代々長寿の多い大樋焼としては早世でした。
 七代道忠は五代の四男、すなわち六代の弟に当たります。幕末から明治維新の動乱期に代を受けたため、おそらく労苦が多かったことでしょう。明治二年前田家の出京と前後して一時廃業しましたが、同十七年十二月改めて大槌町の隣地春日町に新しく居を構え、窯を興しました。
 明治二十九年六月五日歿、享年六十一歳。
 八代長左衛門は七代道忠の従弟で、初め奈良理吉といい、後に大樋の家を継ぎました。号を松濤といい、今日庵の円能斎から以玄斎宗春の号を与えられました。昭和二年四月十四日歿、享年七十七歳。三種の印を用いています。なお、代々の略譜については、『大樋窯略記』 『加賀越中陶磁考草』 によいました。
 <ypf_75323_27.txt>玉水焼・大樋焼図版 Ⅰ 解説

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