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鶴田 純久の章 お話

楽家十代。
九代了入の次男。
初め市三郎、通称惣治郎・左兵衛、のち吉左衛門、譚は喜懐。
旦入の名は吸江斎から宗旦の一字を与えられたものといいます。
1811年(文化八)十七歳で家を継いでします。
作行は父了入に似て素直でありますが、釉掛けは淡いきらいがないでもないようです。
時として坏土の黄色を露呈するものもあります。
また赤釉のものは柿のような渋さがあるようで、濃淡がむらむらとして奇雅であるが黒釉より見劣りがするといわれます。
性来学問的で祖先の考証など書き残したものが多いようです。
また了入のあとを受けて紀州侯の用命をいただきしばしばその西浜御殿の御庭焼に従事し、1826年(文政九)5月治宝から楽の印判を拝領しました。
使用した印は五種あります。
木楽印といわれるものは楽の字の下の木を正しく木の字に書いたもので、禁裏の儒臣小沼日向守の筆であると伝えられます。
次に治宝から与えられた隷書の大小二種の印はいわゆる拝領印であります。
そのうち小印は常慶二百年法要記念の時から用いました。
第四に吸江斎から与えられた小形印は長次郎二百五十年忌に用いたと伝えられます。
第五は拙叟判といわれるもので、これは晩年用で大徳寺玉林院拙叟和尚の筆であるといわれます。
またこれは五十歳の時剃髪して旦入と号して以来の使用ともいいます。
1854年(安政元)11月没、六十歳。
(『本朝陶器孜証』『工芸志料』『工芸鏡』『日本陶甕史』『楽陶工伝』)

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