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鶴田 純久の章 お話

尾張瀬戸の陶工。
初名は松太郎、のち父の名を襲って加藤吉右衛門と称しました。
磁祖民吉の兄で、新製染付焼の創始については終始父と力を合わせてこれを助けました。
民吉が成功するに及んで、1808年(文化五)父子ともに苗字帯刀を許され、扶持米を給され、父は景遠、民吉は保堅と称するに至りましたが、その後間もなく松太郎もまた苗字帯刀を許され晴生と名乗ることになり、さらに窯元取締役を命ぜられ、1823年(文政六)まで御用を勤めました。
晴生は別に頴渓とも号し、1853年(嘉永六)正月に没しました。
その次子吉次郎宗仁は叔父民吉の養子(一に民吉の娘りとと結婚したという)となり、二代民吉を称し、養父に劣らぬ良工と称せられました。

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