御深井焼 おふけやき

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鶴田 純久の章 お話

尾張徳川家の御用窯。
名古屋城の外廓御深井丸にあったものです。
藩祖義直が産業の保護政策から瀬戸工の分散を惜しみ、1610年(慶長一五)まず美濃国土岐郡郷ノ木村(岐阜県土岐市曾木町)にいた藤四郎十四世の孫仁兵衛(岳翁、古仁兵衛)と唐三郎(利右衛門)を召還し、二代光友公の1660年(万治三)には太兵衛をも帰らせ同様に赤津村(瀬戸市赤津)に住まわせました。
この窯の開設は1616年(元和二)8月で、仁兵衛・唐三郎がまず従業し、のち太兵衛も参加してそれぞれの子孫が相続しました。
その後一旦中絶しましたが、十代斉朝が瀬戸の加藤唐左衛門に再興させ新製染付磁器を製しました。
以後廃藩になるまで継続し、その間の赤津の春岱は名工として賞賛されました。
1871年(明治四)瀬戸の御茶屋と共に窯を取り去られまったく廃絶。
土は以前から私掘を禁じられた祖母懐土で、器は初め古瀬戸風の黒褐釉を主として高雅なものを出しましたが、中頃から特殊な御深井釉が現れ別に御深井青磁とも呼ばれました。
またこの窯では安南焼も写され、陳元1が関係したともいわれています。
製品には初め「祖母懐」の銘を入れましたが、「御深井」の印のあるものは再興以後の製器といわれます。
(『日本近世窯業史』)

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