初花肩衝
漢作 大名物
公爵 德川家達氏藏
名稱
此茶入を花と名けたるは足利義政なりと言ひ傳ふ、蓋し其形状釉色優美妍麗にして天下の春に魅する初番の名花の如しとの謂なるべし。
寸法
高:貳寸七分五厘 所によりて貳寸八分又貳寸七分
胴徑:貳寸六分
胴廻:八寸貳分
口經:壹寸五分五厘
底徑:壹寸五分强
甑高:参分五厘
肩幅:四分五厘
重量:参拾七匁参分
(備考) 此茶入の寸法、名物記、萬寶全書、大銘茶入極秘正圖式、閑居偶筆、徳川家所蔵御道具書畫目録、若しくは箒庵文庫所藏の無名茶書二冊(箒庵文庫甲第一號 箒庵文庫甲第三號)に載する者、多少の異同あるが故に、今度上記の如ㄑ測定す。
附屬物
一御物袋 白羽二重
一蓋 一枚
一袋 ニッ
一唐草龍模樣純子 裏海氣 緒つがり紫
一細九龍鳥襷 (荒目の方珠光飩子 片身の方後渡貂鷗純子) 裏海氣 緒つがり白茶
一袋箱 桐 白木
初花御袋
墨書
御替袋
一挽家 唐木 木地 綠いつかけ金粉
彫銘金粉
初花
袋 唐織丹地黃唐茶 裏金襴花模様 緒つがり紫
一內箱 桐 白木
初花 金粉銘
一外箱 塗黑 口綠金粉
初花 金粉銘
茶地海氣の蒲團にて四方を圍み、其上下に棉浦團を詰め、又其上に茶地海氣の蒲團を載せて、外箱に納む。
一添書付箱 桐 白木
初花由赭書 金粉銘
此箱の内に次の添書付を納む
一添書付 奉書紙 一枚ニッ折表と裏とに認む
表
此度初花壺令所持差上候條甚以神妙也其付而知行可遺之旨候之處及斟酌望之子細言上候間其儀藏役酒役其外一切諸役免許之事。
右子々孫々迄永領掌不可有相違之條如件
天正十二年 三月朔日
家康御書印 念誓
裏
去天正年中小壺初花依進物之子細諸役一免許事任先判旨永不可有相違之状如件
元和三年三月十七日 御朱印 念誓
三河國額田郡岡崎鄉念誓事、任天正十二年三月朔日元和三年三月十七日兩先制之旨諸役免許永不可有相違者也。寬文五己
七月十一日
御朱印
雜記
かたつき天下に名物三つ御座候。ならしば、初花、新田、此三つに候唯今御物にならしばばかりに候、一の御長持に御入可然候
(金森得水署古今茶話及び片桐石州覺書)
未の六月十六日、嘉定(或は嘉祥に作る、幕府年中行事の一)にまかり出で不思御名物三つ拜見す、其あらましを記す事左の如し。初花、遅櫻、朱の衣、右三つの御茶入、御手入に取出し有之處今日不思寄得内々拜見初花は土淺黄の様に見ゆれども、内を れば紫土なり藥たち薄く、堅く出来て、茶ぐすりの色よく冴え、黒の頽れも殊の外面白き事にて誠に將軍の御物と語ふべきものか、底は板起し、口の捻返しは普通の茶入よりもつよく此鑑に引目あり、無難なる品なり。袋二つ何れも古純子なり、世上の寸法相違ある故、後又吟味してしるす。重さ三十七匁三分、高さ二寸七分半、肩四分半、横二寸六分、こしき三分半、口一寸五分半、底一寸五分、(茶入圖あり)
(閑居偶筆)
初花 漢作 元祿十一寅年十二月六日、松平備前守上る。高二寸八分、胴二寸六分、口一寸五分五りん、底一寸五分、六分の所もあり、肩より底迄二寸四分、盆付板起し、地釉柿紫黒景、口返し鑷あはせなるは、初花に限る。
作不恰好上品にして、世上茶入の最第一といふべし肩口際に筋二つ、胴に筋一つ、袋二つ、白極純子 裏かべよちろなつかり白茶、珠光純子片身替 裏かいき緒紫、御物袋白羽二重、蓋象牙洲、挽家唐木木地、袋繻幡子地金襴 裏紅繻珍、箱白木蓋表に金粉字形、外箱黒塗、(茶入圖あり)
(徳川家所蔵御道具書畫目録)
(備考)
徳川家所蔵御道具書畫目録の上巻道具の部といふは明治十五年御道具取調を命ぜられたる古筆了仲より同年三月四日徳川家に差出したるものなり。
初花唐物松平備前守所持、京大文字屋所持、後太閤御所持、後越前一伯所持、へら起し、肩口際へより筋二つ。(寸法、附属物の記事あり)
(茶器圖寸法書)
初花 御物茶入、唐物、最上の作、土紫、極上の古きものなり、捻返しほらしく、甑の所筋二つ、胴に筋一つ、肩少し丸めにして、胴少し張りあり、地茶薄栗色、すき藥至極冴えたり、黒藥を取捲き肩左右よりながれ、藥留りの所にて一筋に落合ふ、如是になだれ、至極見事に働きたるなり、おこし底、挽茶色の藥かつて無し、至極の黒藥、見事にかゝるなり、(寸法、附属物、茶入圖あり)
(箒庵文庫甲第三號)
(備考)箒庵文庫所藏無名茶書中、圖録及び品目類頗る多きに就き、便宜上圖録は箒庵文庫甲第何號、品目類は箒庵文庫乙第何號として掲ぐべし。
初花に關する雑記頗る多ければ、㈠信長時代 ㈡秀吉時代 ㈢徳川時代の順序を以て掲載すべし。
㈠信長時代
初花 內大臣信長公 (東山御物内別帳)
初花肩衝 信長公御所持 (天正名物)
初花 信長公御所持(寸法、茶入あり) (万全書)
永祿十二年己巳二月二十七日
抑も標中御廢壊無正体之間又可被成御修理之旨、御奉行日乘上人村井民部少輔被仰付焼き然而信長金銀米錢御不足無之間此上者唐物天下の名物可被召之由御錠て、先づ
一上京大文字屋所持の 初花
一祐乘坊の 富士茄子
一法王寺の 竹杓子
一池上如慶が 蕪無し
一佐野 鷹の繪
一江村 もゝそこ
〆
友閑、丹羽五郎左衛門、御使申、金銀八木遣被召置天下定目被仰付(信長公記)
眞の古雲鶴筒は此大文字屋に限り候事此大文字屋筒は、宗觀初花肩衝と同様に所持致居り、初花は信長へ上り候へ共此筒は所持致居候事右大文字屋宗親は珠光の弟子松本宗護弟子にて利休の時分は宗親の子宗味に候。
(若州酒井家文書及び疋田筒添書付)
天正二甲良年四月三日畫 於相國寺上標(信長)御會不時
友閑庵 宗易 宗久 宗及
御床 萬里江山の繪玉硝の筆、前にそろり四方盆に、卯の花生けて、御茶入初花、安井茶碗、長盆に二つ置、御茶入初花、高さ二寸七分餘、胴二寸六分半、肩二寸三分、口一寸五分、底一寸五分餘、袋片面かはり珠光純子、紐小牡丹唐草花色網の紋純子、緒紫。(今井宗久日記抜率)
天正二年四月三日畫 於相國寺御會也
御床 玉礀萬里江山之繪。御床 初花御壺安井茶碗、長盆に二つ置、梅雪御茶を被立候、初花かたつき、初て見申候。なだれ三筋あり、口の造りひらりと有り、藥うすかきに厚い柿、上藥に掛りたり、土紫色あり、底へげ底なり、藥の色の内にも土に紫をふくみたる様の心あり、藥一段麗しき也、壺のうしろの方一段奇麗に見えたり、薬は全くしろみたるやうにも、はげたるやうにも見え、色よき比可申様もなく候、なだれ片短しかあり、斯様の事、少し目に立ち申候、形も背高き様には候へども、なれやうたる躰也、口低様には見え候へごも、是もなれやうたる也。(津田宗及茶湯日記)
天正五年丁丑十月二十八日、岐阜中將信忠安土に至て御出、惟住五郎左衛門所御泊、信長公より御名物御道具被候御使寺田善右衛門。
一 初花 一松花
一雁の繪 一竹子花入
一くさり 一藤なみの御釜
一道三茶碗 一內赤盆
八種(信長公記)
城介三位中將殿 (信忠) 御越年の爲御上國(中略)、今度大臣家(信長)より名物茶具、中將殿へ被下之、御使者高田善右衛門。
御道具八種
初花 松花 雁の維 竹の子の花入 くさり 藤波の釜 道三茶碗 內赤盈
以上是なり。翌日又宮内卿法印を使として、周徳茶杓、大黒屋所持の瓢箪の炭入、古市播磨守所持の高麗の火箸、右三種又是を被下、都合十一種の御道具、中將殿御拜領、此御殿として同月晦日の夜御登城畢同月(天正六年正月)四日、萬見仙千代宅に於て、中將殿御茶會有之、是は舊臘御拜領の御道具の御ひらきの會なり。(龍見記)
天正六年正月、家内樣御茶湯、宮内卿法印御茶立る。
御人數
三位中將樣 二位法印
宮內卿法印 林佐渡守
瀧川左近 長谷川興次
荒木攝津守 市橋壹岐守
羽柴筑前守 惟住五郎左衛門尉
以上
三位中將殿様へまゐらせ候御道具の事。
雁の御繪 玉かん筆 御茶壺 松花
平釜 藤波 茶碗 道三
茶入 かたつき初花 内赤の盆
花入 筍 炭斗 ふくべ 紹鴎所持
くさり 古市播州所持 茶杓 宗善
以 上
此御道具を以て茶湯をさせられ、各に見せられ候へと、上様(信長)より被仰出 (宮內省本天正六年茶湯記)
天正六年正月四日朝三位中將御茶湯(中略)
中將樣御手前にて三ふく立させられ、其後宮内卿法印立る、御茶各に被下、御道具取入、後に初花を拜見致したきの由各申上、内赤の盆に据えさせられ御出候、其時松花被取入て、初花を瀧川御床へ上る。
(宮内省本天正六年茶湯記)
信忠卿安土にて御越年あるべきに、同二十八日、佐和山まで御上り有りて、翌日安土山へ着せ玉ひ、即ち歳暮の御祝儀被仰上馬太刀色々進上有りけり。初花、松花、雁の繪、竹の花人、くさり、藤波の釜、道三茶碗、内赤の盆、周徳の茶杓、古市播磨所持の高麗火箸、御使は宮内抑法印也、信忠畏り拝領有て晦日の夜、件の御禮被仰上けり。(太閤記)
㈡秀吉時代
初花肩衝 關白様にあり此壺引拙茄子を取出されて後も、猶一種に樂しまるゝなり天下に三名物(新田楢柴と共に)の一つなり。(山上宗二之記)
天正十一年未七月二日畫 筑州様於大阪御城初而御會
宗易 宗及
床 玉磵暮鐘繪 紹鴎あられ釜 五徳 手桶 初花御肩衝 御茶を入られ候四方盆に
同十五日朝
初花前より小形に見え候、形りも前より下ほそに覺候、能もなき心也、土能く候、藥前より藥うすにかわき心に覺候、口のつくり肩の衝きやうなど、言語道断也、肩の衝きやうなで肩にまるみあり、一段面白候。(津田宗及茶祿日記)
天正十一癸未年九月十六日 秀吉様 御興行、御道具そろへあり。
人敷の事 宮内卿法印 宗易 荒木道薫 もずや宗安 宗及 五人也。 見物之衆 池田勝入 藥師院德雲
四疊半御飾
御床に文琳 四方盆宗及。 初花御かたつき方盆に、御物。香爐 香合 長盆に宗及。香爐方盆に宗易。
御掛物玉碉暮鐘の御、御物後に松本茄子、筑州被成御持御御出也。高屏風の前に投頭巾かたつき、方盆に宗安。小紫肩衝、方盆に宗易。宮王肩衝、宮内法印。(津田宗及茶祿日記)
天正十一年十月七日朝 秀吉御會 瀧川入道殿 宗及
御床 暮鐘御繪、御爐あられ御釜、細くさり、芋頭水指。
御床 四十石、手水の間に御置なされ候。 初花かたつき、手水の間に、屏風の間に置かせられ候。(津田宗及茶祿日記)
天正十二年十月十四日暁、山里に依て、秀吉様、御茶湯
御釜 賣紐 いも頭の水指 御肩衝 初花
尼子天目 たこつぼの水下 御花入は紹鴎ツチ、花は石竹、御茶は静珊壺極上也、一番衆は宗易、幽齋、安津、宗久、二番衆は宮内法印、宗玖、宗二、紹安、其外前の如く。
以上(雲州松平家本古織茶會之記)
天正十三年二月二十四日朝 山里にて御會あり
三介楼 源五殿 秀吉楼御手前也
床 青楓 初花の御肩衝 宗及 宗易御次に在り。
(津田宗及茶湯日記)
天正十三年三月五日に、於大徳寺大茶湯被成御興行京堺の茶湯仕泰茶湯道具持て罷寄候、堺を南北に分而宗易宗及折紙をまはし申候(中略)、秀吉様御馬廻衆、大名衆も茶湯仕衆、何も右の分也、京衆五十八斗罷出候。
一於惣見院方丈 秀吉様御飾
青楓御繪玉礀筆墨蹟虚堂筆、かぶらなし薄板に(中略)。
一宗易請取之茶湯
おとごせの釜、芋頭水指、四十石則御茶被下候、井戸茶碗、ぬり天目、大龜の蓋、花かたつきの茶入候。(津田宗及茶湯日記)
天正十三年三月八日、京於北野 秀吉様御かざり次第
御茶屋にて御茶被下候事。
四十石之御壺、則御茶、初花御肩衝、乙御前小くさり、いもかしらの御水指、るり天目、井戸茶碗、筒の御花入、但宗易さどう。(雲州松平家本古織茶會之記)
禁中様小御所にて 利休茶の湯
一紹鴎茄子 金襕袋
一白天目 敷の臺
一床 玉かんの鐘の繪
一茶入 につた はつ花
一茶壺 四十石 松花
右大名衆何もへ御茶被候也 宗易判
(天正十三)十月七日
春屋和尚へは御前ノヲ書付進上候、其方にて御覧被合候て尤に侯、以上。
古溪和尚樣(宮内省本天正十三年御茶湯)
天正十五年正月三日大阪御城にて大茶湯の事
臺子前三分
初花肩街 四方盆に 宗及
花は口は新田に同じく、首少しつまり傾くなり、下細きやうに見ゆる、土少しく黒めに向けたり、但し新田のやうには白けず、新田より黒めなり、下藥は黒く黄めに、上藥兩方に雲のやうにして、一所に寄りて土の上になだれ一つあり、口付の飾りあり、帯あり。(宗湛日記)
天正十五年六月二十六日未明、關白様へ御茶湯御座候、三帖敷、床有、其内に朝山之御繪被掛床の最中に初花の肩衝が家康が柴田退治を賀して秀吉に贈りたる名器 方盆に据ゑ被御飯過、御茶の時、肩衝水指の前に被置、關白様御手前也、御茶こくむ義久は御ふかなひにて候すると被仰て、三掬也御茶碗は高麗茶碗いど也、いどの始り、此茶碗を聞得候、御釜はせめひぼ也、忠棟 伊集院には五掬也、天王寺屋宗及潜り迄罷出、御案内を被申御茶通御帰り之時も、潜りの外迄宗及送り被申朝山之繪は御座過迄懸けられ候、白御手前之時御安座にては無之候、折膝にて被遊候也此日申御出船。(貫明公上京御日記)
(備考)貧明公は島津義久の諡號なり。
天正十五年十月朔日北野大茶湯
三番 泉州堺 津宗久三千石以下
一枯木 一撫子
一初花松本記ニハ肩衝トアリ 一入道蜘釜
一尼子天目 一高麗茶碗
一折ための茶杓 一竹の蓋
(北野大茶湯之記、北野茶會記、茶事秘祿)
北野大茶湯記事 秀吉公御道具目錄。一にたり、一紹鴎天目、一白天目、一新田肩衝(下略)。三番 泉州堺 津宗久 三千石歌下、一はつ花(下略)。(太閤記)
大茶會
秀吉錺にめんぱく、新田二つ出る、手前の分二錺、宗及手前三、利休同四、宗三同、宗及には花出る、利休には檜柴出る、宗三には鴫肩衝出る、北野大茶會に出る云々。(若州酒井家文書)
天正二十年十一月十六日朝御會 御飾之事
(名護屋山里の御屋敷にて、大名衆に御茶被進次第事、十一月十四日より始て十七日までに)
床に落雁一軸、前に初花肩衝四方盆に据えて、すみをりに、松花壺すみより向て御釜、宮王、尼子天目、其外道具、同,(宗湛日記)
㈢徳川時代
初花 將軍家御物、新田、花楢柴、三ヶ名物、公方様御物、引拙所持、權現様より越前守殿拜領、越後守殿近世獻上、袋詰片身純子。
(雪間草茶道惑解)
雲間草茶解
大阪の賞に少將殿(越前侯松平一伯桜可能)へ神君の賜はせ給ひし初花と云ふ茶入の事は、三河に念誓と云ふ者、神君へ此茶入を蹴りて、楊貴妃の油壺と中傳へて、某がもとに求め候と申たり。初花といふ名物たるよし申ものありしかば、かの念誓に共賞として五百石給ふべしと有りしに、某知行の望なし、望む所は當國の酒入事を某にとらしめ給はば何事か之にしくべきと申ければ、易き事なりとて、御判を給り其機代々の君も先例の如くたるべきの御朱印を賜る事なり。是は少將殿へ賜りしなり。然るに尾張にてなされし御年譜には初花をば秀吉に給はるといふ事心得られず。
秀吉に遣はされし後に當家へ帰りて又少將殿へ賜りしにや覺束なき事なり。細井次郎太夫今は山本藤二郎と改名せしが其座にありていふ、三河國を通りしに馬子申すヒヤサケヤにて酒飲まんといひしをいかなる謂れの名にやと存ぜし、冷酒屋としるし有る家に入りて酒求めて飲みたり、此虢珍敷由申しければ是は神君へヒヤサケを獻りし者にて、諸役免許の者の子孫なりと馬子申しき是念が後か云々。(新井白石著神書)
初花 元越後家松平備前守所持今御城にあり。(寸法、附属物の記事略す)初花御茶入備前守上る。即日金四萬兩被下と御勘定御帳面に有之代金四萬兩。
天正十一癸未五月二十一日以石川伯耆守數正柴田退治を賀し、初花の壺を贈らる此壺は参州長澤浪客松平清藏入道念誓が此度神宮へ獻ずる所なり、念誓最初は清太夫とも云へり、松平兵庫頭勝宗が庶子たりと云へども故ありて民間住居、同十二年三月長澤の松平念督に尊簡を賜ふ是は去年初花壺茶入也を獻する故なり。此節の詞に茶入を壺と稱し壺を葉茶壺と云へり。
太閤秀吉遺物備前中納言秀家所持。(名物記)
石川數正 助四郎伯耆守出雲中 天正十一年五月、豊臣太閤に初花の茶壺を賜りたまふ時數正御使をつとむ數正かつてより岡崎の留守れるのところ、故ありて岡崎を出発し、大阪に至り、太閤に仕ふ小田原落城後信濃松本の城主となり、八萬石を領す、文禄二年歿す、的翁宗書筒三寺と號す。(寛政重修諸家譜)
天正十一癸未年五月二十一日、神君石川敏正を以て秀吉の柴田退治を賀して初花ノ壺 茶入ヲ云 を贈らる。此壺は三州長澤の浪客松平清藏入道念誓が神君に獻する所なり、同十二年 甲申 三月朔日松平念誓に尊簡を賜ふ、去年初花の壺を獻する故也(中略)念督が子無縁にして、台徳公の御時、遠州中泉へんの代官職として、其祿五百石を賜ふ、又羽州延澤領銀山共に支配す。(武館編年集成)
松平親宅 長澤清蔵 剃髮號念誓。永祿六年より東照宮に仕へ奉り、長澤に住して御代官を承り、所々の御陣に供奉す。元龜元年信康君に附属せられ、岡崎に移り住し、天正三年故ありて仕を辭し蟄居し、七年信康君御事ありしを聞き、悲嘆に堪へずして法躰す(中略)天正十一年四月濱松にまるりて。
東照宮に見え奉り、初花と名づけし茶入を獻ず。御よろこびの餘り、知行給はるべしとありしかど、堅く辭し申し、此年御前に召され茶を製し奉れとのたまひしかば所々を見めぐり額田郡土呂鄉によき茶園ありと申せしに、上林竹庵と共に、土呂郷に於て宅地を賜はり之より年々茶を製してる。十二年二月茶壺を献上せしを悦びたまひて、望みとあらば憚なく申すべしと仰あり、親宅酒つくることを許されんと答申せしに、御恩許の御判を下され又二葉の葵を紋とすべしとて、御紋の付きたる茶碗をたまはる。之より代々かはらせ給ふ毎に御朱印をたまふ事親宅が例の如し(中略)慶長九年八月三日死す年七十一。(寛政重修諸家譜)
はつはな 松平一伯殿 (古今名物類衆大名物の部)
初花 御物 松平一伯より上と有之、地くすり柿黒なだれ、板おこし。(麟鳳龜龍)
初花 松平越後守、肩口際へよりて半分筋二つあり、胴に筋一つあり。(寸法、附属物、茶入圖あり)(遠州所持名貨帳)
松平忠直卿 三河守宰相一伯 慶長二十年五月大阪再陣七日乘于大手一番得真田幸村御宿正倫等首、兵士首三千七百五十餘級賜初花壺貞宗刀台君賜牧渓落雁畫。(覺齋竹庵善筑著著幕府祚〉
朝臣(越前少將忠直朝臣)御本陣に参腸せられしかば、朝臣の手を取らせ給ひ今日の一番功名ありてこそげに我が孫なれとていたく御賞譽あり、又二條城へ諸大名群参せし時も、朝臣を召し(中略) 我が本統のあらん限りは越前家又紹絶ゆることあるまじとて、當座の御引出物として、初花の御茶入をたまはり云々。(徳川實犯附祿)
元和元年五月十日、秀忠公二條城に渡御あり、大小名伏見より登營し、大御所に拜謁し奉る(中略)忠直朝臣を召され汝が父中納言孝にして且忠を竭せり其方又大阪の城を功崩し、其功諸將に抽んで英烈天下に雙ぶ者なし、尤も感狀を授けらるべしと難も、家門たる故却て其事に及ばず。
當家子孫の末に至り、汝が苗裔逆心の外は努々疎略あるまじき御遺訓を垂れ給ふべし、恩賞は追て沙汰あるべし、先づ其験にとて、初花の茶入を給へば、秀忠公御取次あつて、忠直朝臣に授けられ乍ら、今度足下の働以て、早速天下平定に属す依之賞の印さして貞宗の脇差を御手づから興へ給ふ。大御所重ねて、汝が父年來有名の士を招き集めたりしが今年天下の耳目を驚かす程の大功を立つる上は、尚以て臣下を哀憐すべしと御諚あり(下略)。
忠直朝臣伏見へ御歸館あつて、家中宗徒の族を呼び、兩君の腸はりし陶器脇差を見せられ、其上に追って抽賞の國郡を授けらるべき旨なれば其間に功を糺し置き賞すべき由、輕卒迄も申聞かせよとありけるが、既に参議官迄は任 しかども増封遅滞しける所性質短慮激烈にして憤甚しく拝領の茶入を徹塵に砕き家臣に分ち興へられしと云々。(編者不知安永二年序新東鑑)
初花肩街 元祿十一戊寅十二月六日、松平備前守上三番御長持袋二、純子紋唐草花紋荒き方珠光純子半分は後渡り、裏海氣。蓋一枚。由緒書一通、但御朱印之寫也。(上御道具)
傳來
前掲雑記に憧れば此花肩衝は當初奈良の島居引拙之を所持し、次に京都の大文字屋こと疋田宗観に傅はりし者の如し而して引拙の爲人に就ては茶人大系圖に引拙一作印雪住南都珠光二男、光歿後稱茶家宗匠年七十稱大福」とあり。織田信長が此茶入を大文字屋宗観より召上げたるは、永禄十二年二月二十七日にして天正二年四月三日信長は相國寺に於て之を使用せり。斯くて天正五年十月嫡子信忠が松永久秀を討平して安土城に来謁するや信長大に喜んで曰く、久秀は老賊なり、然るに信忠一擧にして之を残す、誠に將器と謂ふべしと、乃ち初花茶入以下の名器を賞賜せしにぞ信忠大に面目を施し、翌年正月四日諸將を招きて此茶入を披露せり、而して天正十年六月二日信忠京都妙覺寺に於て自刄の時は、軍旅の事とて、固より之を携帯せざりしならん。兎に角無事にして其後松平念誓の手に入り、天正十一年四月念督より徳川家康に献じ、其賞として酒役藏免除の朱印を興へられたる事諸書に詳なり。
天正十一年四月二十三日、豊臣秀吉の柴田勝家を滅すや、翌五月二十一日、徳川家康は石川伯耆守數正を使者として、初花肩衝を秀吉に贈り、以て其戦勝を賀せり、即ち家康は此茶入を得て未だ一ヶ月を出でざるに、早くも之を秀吉に贈りしなり。而して秀吉が如何に此茶入を鐘愛したるかは、山上宗二之記に「引拙茄子を取出されて後も、猶此一種に楽しまるゝなり」とあるを以て之を知るべく、前掲古緑茶會之記、宗湛日記、北野大茶湯之記等に見ゆるが如く、秀吉は京都、大阪、名護屋の各所に於て之を使用し、九州平定後島津義久上京の節は秀吉自ら此茶入にて點案し、殊に天正十三年十月七日千利休が秀吉の命に依り、正親町天皇の御前に於て茶湯せし時此花を使用したるは尤も著名なる事実にして、此名器の経歴に大光彩を添ふるものと謂ふべし秀吉薨後此茶入は其遺物として浮田中納言秀家の手に入り秀家關原戦に敗れてより、程なく復た家康の許に返り、元和元年五月十日家康は京都二條城に於て更に之を大阪陣の殊働者松平忠直に興へぬ。是より先き忠直軍功に依りて、名物茶入を賞賜せらるべき由を聞き、登城の際に他の茶入を懐中し、扨て愈々初花肩衝を拝領するや是れ我一人の私すべきものにあらず、臣下と共に之を分有すべしとて、彼の持参の茶入を打砕きければ人々大に驚きて、果ては物議の種となり、幕府より其實否を糺されける時、忠直即ち眞物の初花を示して其疑を解きたりと云ふ傳説あり。或は云ふ、是れは忠直の後裔越前松平侯が徳川将軍より賜はりたる初花と云へる葉茶壺に大疵あるに依り後人が假構したる小説にして、初花茶入の事に非ずと。然れども斯かる小説の後世に傳はりしは、當時忠直の頗る豪放不羈なりしと、初花茶入が非常に高名なりしとを反するものと謂ふべし。扨て初花は忠直蹉躓後上總大多喜藩主松平備前守に傳はりし者と覺しく、上御道具記に「元祿十一年十二月六日松平備前守上」とあり、又名物記には「即日松平備前守に金四萬兩被下と御勘定御帳面に有之」とあり斯くて重ねて柳營御物と爲りたる初花は、其徳川家に留まりて今日に及べり。
以上初花肩衝の傳來を略示すれば次の如し。
2
鳥居引拙―大文字屋疋田宗親―織田信長―同信忠―松平念誓―徳川家康―豊臣秀吉―浮田秀家―徳川家康―松平一伯―松平備前守―德川耦吉
實見記
大正七年十一月八日東京府下千駄ヶ谷徳川家達公邸に於て實見す。
大名物漢作茶入數々ありと難も、人をして其氣品の高きに感せしむる事蓋し此初花に如く者なかるべし、今其優秀なる點を擧ぐれば、新に窯を出でたるが如く新鮮綺麗にして渾身の缺損なく例へば鎌倉時代名作の佛面の如く、豊満にして角張らず、肩のムックリとして張りの形好く膨れ、腰以下盆附際まで能く曲線美を保ちて窄まり、如何にも高雅にして且つ精妙なる作行なり、猶は其各部分を熟するに、口縁兩側に細き轆轤目あり、枯り返しキリ、として手も切れんばかり兩そぎの刄先の精作なるは、他の同型茶入に於て殆んど見受けざる所なり甑際を廻れる浮筋二本の内、其一本は少しく高く肩は一面に光澤ある黒釉を以て蔽はれ、胴に稲太き一本の沈筋を繞らせり、總體薄柿色、薄紫色の混合したるが如き地色に少しく金氣を含みたる所あり、他の同種の茶入に比すれば釉色極めて冴えしく、前揭着色圖の如く、置形に長短三條の黒釉ナダレあり、又他の部分に於て横雲の靉靆きたるが如き黒釉の景色あるは此茶入の特徴なり本來漢茶入は黒飴地色濃厚にして、動もすれば置形の鮮明ならざる者多きに引替へ此茶入は地色薄きが上に黒釉極めて濃厚なるが爲め、景色の鮮麗なる事言語に絶せり、裾以下薄鼠色土にて板起しの底面縮緬皺を成し手取極めて軽し。抑も漢茶入の製作年代に就ては古来異説紛々たれども、其中に楊貴妃の油壺など言ひ傳ふるあるを見れば古きは唐代若きも亦断じて宋朝以後に非ず乃ち少 くも七八百年外の物なるに、諸方轉傳の際、幸に幾多の危難を免れ、完全に今日まで残存する事を得たるは誠に奇蹟的僥倖にして、國寶の健在を祝せざるを得ず而して初花肩衝の如き其第一位を占むべきものなれば、余は古人命名の意を體し、先づ此名花を揚げて以て本録の巻頭を飾る事とは爲せり。