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鶴田 純久の章 お話

漢作 大名物
侯爵德川圀順氏藏
名稱
當初所持者の氏名に依りて此名を得たるならん。諸家名器集には新田左中所持とあれども、其審ならず、又眞書太閤記には次の如き記事あり。
白殿下秀吉公御道具のうち、新田肩衝といふ有り、泉州堺宗及所持志貴肩衝とあるも、後には秀吉公の御道具となる。新田肩衝と云へば、眞田肩衝と書くべきを右筆誤て新田と書きしなり、その新田といふは、尾州瀬戸の住人加藤四郎左衛門尉といふもの、榮西禪師將來の茶入茶壺を栂尾の明恵上人より受傳へて燒出せり、是を世にロ兀手と云ふ、其頃いまだ焼様の口訣もなく、口を下になして焼きしかば、口に藥のかゝらぬ處もあり、また姿よろしからず、然るに四郎左衛門尉、道元師にて入宋し焼様の第一切焼物に土を以て鞘を作り底を下になして焼くことを傳授して帰朝し焼きしかば藥も能く解け土も融和し、脂と見事に出来たり、是を真田といふなり藤四郎は四代まであり、道元禪師と同船して渡宋せしは建暦中のことなれば天正十三年まで三百四十餘年になれり、然るに暦應二年十月三の日、藤四郎作之某判と、肩に銘ある葉茶壺あり、暦應と建暦と凡そ百餘年を隔り、是にてその時代を推考ふべし。
眞書太閤記真田の解は一種の異説なれども固より首肯すべからざる者なり宮内省本天正十三年御茶湯若くは津田宗及茶湯日記には、明かに「まつた」と記し挽家の蓋にも「まつた」とあり、宇野主水記には「仁田」と書し、子爵毛利元雄氏所藏の太閤自筆の茶湯道具書付には假名にて「にんたかたつき」であり左れば「にんた」とは云ふべきも「しんでん」とは云ふべからず。又萬寶全書には「仁田又新田共」とあれば其新田なるや疑ひなし、唯其人の誰なるやを知る能はざるを遺憾と爲すのみ此茶入夙に天下一の名を以て通用せし事あり、利休百會記中に肩衝天下一と所々に散見せるは、即ち此新田肩衝なり、利休百會解といふ書に「肩衝天下一番書に新田肩衝關白様に有り」とあり。

寸法
高 貳寸八分
胴徑 貳寸五分强
胴廻 八寸分
口徑 壹寸五分
底徑 壹寸五分
甑高 五分
肩幅 參分五厘
重量 参拾貳匁

附屬物
一蓋 象牙 一枚 窼 火の薦めに焼けたり
一御物袋 柑地金襴小牡丹菱紋 裏海氣 緒つかり遠州茶
一袋 ニッ
茶地劔先梅鉢純子 裏玉虫梅氣 諸つがり紺
段織鈍す 裏白海氣 緒つがり紫
一袋箱 桐 書付板横目に認む
新田肩衝茶入替袋 墨書
一挽家 墨塗
まった 金粉 筆者不知
包物 白羽二重綿入蒲團つがり白
一外箱 桐 白木
新田肩衝 墨書 筆者不知

雜記
新田肩街 昔珠光所持此壺肩衝の天下一也關白樣に有り。初花、檜柴と共に天下に三名物の一なり、豊後の太守より關白様へ新田肩衝と似たり茄子兩種を一萬貫に賣るなり。 (山上宗二之記)
新田カタツキ 關白様に有、昔珠光所持此壺カタツキの天下一也。 (茶器名物集)
新田肩衝 西國に有之分、大友宗麟所持。(天正名物肥)
肩衝新田 大友宗麟。(友大興廢犯)
仁田 新田共有、大友所持、竪二寸八分、横二寸五分強、廻り八寸一分、底一寸五分、口一寸五分、同高五分、胴一寸三分(茶入圖あり)。 (万實全書)
新田唐物 大名物 水戶殿。 (古今名物類聚)
新田 漢なり勢高不動玉堂棚村と同時代なり而して勢高不動とは同手同藥立なり、瀬戸の平野、山の井、生駒も亦同藥立なり。 (不味瀬戸町各格)
新田 火に逢ふ水戸公(圖あり)。 (鱗凰龜龍)
新田 水戸様書入昔珠光所持秀吉公御物書天下一のかたつきと有り。又書入 大友家より秀次公。 (箒庵文庫本玩貨名物配)
新田肩衝 水戸、昔珠光所持天下一、三好宗三所持、九州大友所持、秀次公所持、又宗三所持。 (古名物記)
新田かたつき 此茶入大阪御城にて火に入、藤重つくろひ直すと云ふ、獻上江戸御城御物なり、又水戸様拜領、新田、初花、檜柴三ヶ名物、公方様御物。  (雲間草茶道惑解)
新田肩衝 新田左中將所持、夫より織田家、豊臣太閤、其後家康公へ拜領也、水府家へ御附属。 豊臣太閤秀吉公御物、正親町院御茶獻納之刻、此肩衝にて宗易御茶獻備と申傳其後北野にて大茶湯の刻、此茶入二而太閤御點茶の由に候、御客家康公御客組也、高二寸八分半、胴二寸六分一寸五分、底一寸五分、肩四分、口より肩衝際迄四分(茶入圖あり)。(諸家名器集)

天文十九年卯月十七日午刻
從剛來候使隆軼宗存兩人
一カタツキ よつた
袋かんとう志はうし心在り 紅の緒
右なりのつっきりとあり、頸たちのび候、ふつくりと志たる心あるなり、肩もきうにいつかぬなり、むつくりとあるなり、土薄白きやうにて、さらりとあり、されどもあるりとある也、藥地藥薄黒くるりの心いささか程在るなり、見る色心も在る也、上藥面にあり、右其藥にて面へ二筋なだれあり壺の左りの方へねぢたるなり肩みじかになだれあり、なだれの筋の縁に二筋ながら米を焼き出候藥高々と止まり候、脇へも藥聊か程つきあいりたる所有也二筋のなだれの先きに、いささか程まじり藥の心有る也。 (津田宗及茶湯日記)

(前略)左馬助ハ馬を上げ、唐崎の一ツ松の下にて下り立、馬に息合をりい其身ハ松の根にこしをあけ濱涯を追求し敵を見て、心静に息をやす敵や五町斗に近付候時馬に打乘具直に坂本城へ乗込大手口に炎魔堂あり、其所にて馬より下り手綱のまがを切て、一方は銀杏の木に結付、一方の堂のこうしに結付、手取紙に札を付矢立にて明智左馬助光春湖水を乗渡候馬也と書付其身坂本城へ懸入候而主の光秀妻子、次に自分の妻子を刺殺左馬助自害、殿主(天守閣のこと)に火を懸終り申候此時天下の名物代々公方家の寶物捨子茶壺蕪なし花入朝山一軸不動岡行太刀、二字國俊刀、鳥丸香爐紐釜薬研藤四郎、乙御前釜新田肩衝松花の壺信貴肩衝天下一振木刀吉光堂墨蹟二輪、骨喰ノ脇差、三好正宗二ツ銘太刀右以上十七色安土城を攻取候時に坂本城へ取候を唐織の宿衣ふとんにつつみ候て、女の尺の帯を繼て、殿主より下へさげ下之手へ申候の明智一類滅亡仕候共天下の名物失事不仁の至と存相渡し候、將軍の若君達へ被指上被下候へと申寄手へ渡候。多門城にて松永が平蛛の釜を打くだき候との別之由にて天下にて申候、其砌二ノ谷の冑、雲龍の白練の羽織を家人に持せ、坂本の西教寺へ遣し、其身の跡の吊を頼候(下略)。 (二ノ谷育由来書)
(備考) 二ノ谷冑由來書は紀州家所藏二ノ谷冑に附属する物なり。
今度豊後の太守大友殿へ秀吉より數寄道具仁田似たり雨穐御所望仁田は肩衝なり似たりは茄子なり銀百二十貫目安井茶碗を添へられて、被遺之御使兩人宮木入道四月に受取て大城へ無事に帰城也、又伝、本使は藝州毛利家の安國寺なり。 (宇野主水記)

天正十三年五月二日朝、上御成宗湯同日暁に豊後より似たり茄子、新田肩衝、秀吉様に参る則拜見申候乍種ならべて拜見申候。 (津田宗及茶湯日記〉
似たり茄子紹悅より豊後の太守(大友宗麟)に賣る五十貫に其後太守より關白様へ、新田肩衝と此茄子と兩種百貫に賣り候也昔は珠光所持天下無双なり、關白にあり。 (茶傳記録)
禁中御様小御所にて利休茶湯
紹鷗茄子金蘭袋 白天目數の
一床に玉の鐘の繪 臺子の上に
茶入 にった はつ花
緑桶の水さし、柄杓立くるみ口水こぼしかねのかうじ、小あられの釜、乳足風爐にすばる、蓋置かねの物、前にソロリの花入に菊入て、大白色のいもかしら水柄杓立かねの物のふた水こぼし、せめひもの釜、蓋置五とく別のわきの畳に、四十石の葉茶壺、口の覆ひ紺地の金襴、紅の緒、松花の壺、白地の金襴の口覆ひ、あさぎの緒。
大名衆何もへ御茶被参候也。 (天正十三)十月七日 宗易判

春屋和尚へは、御前の書付進上候、其方にて御覧被合候て尤に候。
以上 古溪和尚檬 (宮内省本天正十三年御茶湯)

天正十五年正月三日、大阪大城御城にて大茶湯之事。正月三日寅刻より御城に罷出候時、御門外にて宗及御取合候て、宗易に始て懸御目候也、左候へば大名小名かち乘物にて出頭の體おびただしき様子也(中略)御諚にて關白御跡より、各同前に拜見仕候慮、筑紫の坊主どれぞ」と御尋被成候へば是にて候と宗及御申に候、被仰出候には、のこりの者はのけて筑紫の坊主一人に能みせよ」との御諚にて候(中略)「その筑紫の坊主には四十石(茶壺の名)の茶を一服とつくりこのませよや」と被仰出候ほどに宗易手前に参一服被下候也、井戸茶碗又「新田肩衝手にとりてみせよ」と御意にて拝見仕候事、宗湛一人。
御飾
一臺子
似茄子 白天目 炭斗 瓢箪 井戸茶碗 ヤセクリ毛の天目
一中臺子
棗 臺天目 柄杓指 合子 風爐釜 蓋置 綠桶 井戸茶碗二つ重て 宗無手前 松本茄子 内赤の盆に同竹茶杓珠得
一毫子
セメヒモの釜 芋頭 尼子天目 柄杓指備前物 水覆蓋置五德 塗天目 茶筌入て 炭斗 瓢箪 宗及手前
新田肩衝 四方盆に 宗易
面白肩衝 四方盆に 宗無
一臺子前三分 初花肩衝 四方盆に 宗及
新田は肩さのみ衝かず、ムックリと有なだれ二つ面にあり裏にもあ藥はげ高に見えず底は糸切也はそき石二三あり、土靑めに上しらけに、洗ひ立たるやうにあり、口付の筋二つあり、一つはくびの下也、首たちあがる也。
天正十五年二月二十五日朝 大阪にて御城山里之御會之事
山岡對馬殿 宗湛 兩人
(前略)御座敷二疊床四尺五寸壁暦はり左のすみゐろり有、その脇に道籠あり姥口の平釜床に晩の一軸かいる兩人はい入候へば、やがて關白様被成御出て「よくみよや」とで御立ながら御諚なりやがて御振舞出かよい御小性年十五六ほど也、手水の間に一軸をまかされ、新田袋ぬかせて、四方盆に据ゑて有云々。 (宗湛日記)

天正十五年十月一日 北野大茶湯
秀吉公御道具の目録
一虚堂墨蹟
一かぶらなし花生
一鐘の繪
一似たり茄子
一紹鷗天目
一紹鷗茄子
一白天目
一志賀茶壺
一新田肩衝
一めんぱく四方盆
(茶入茶碗の外は略す) (北野茶會肥)

天正十五年十月十四日晝 聚楽にて關白樣御會之事
宗及 宗湛 兩人
(前略)上樣勝手の口より被仰候には「食をくはうか」御申候添と申上也ゐろり 貴紐の御釜五徳すゑ、道能に土水指、新田肩衝四方盆にすゑて云々、新田は口付の筋二つ、蔕一つ、藥あめ色になだれ黒し、蓋つくのもとに高筋一つあり、つくの上平し。 (宗湛日記)

天正十五年十一月廿日朝
四疊半 針屋宗和 伊勢立阿彌
四方釜
新瀨戶水指 中にわさび入て鯉かきあへ 平茸汁
木守茶碗 飯
肩衝天下一
大棗茶桶箱に入床へ置く
後に四方盆出る 菓子 鉄のやき
瀬戸水こぼし とうふのかは
尺八菊花入
肩衝天下一、、舊書に新田肩衝、關白殿に有昔珠光所持天下一也と云々此頃利休の手に有しと見えたり。 (利休百書解)

天正二十年十一月十七日朝 なごやにて
太閤様に御會 山里の御座敷ひらきなり
此御人の事 松浦道可、池田倫中殿場監物船越五左衛以上五人(中略)。
すみをりに捨子の大壺すみより向て覆にて、道籠には新田肩衝四方盆にすゑて、ぬり天目にて土水指下かめのふた蓋置たいこのどう茶堂休夢也。
肩衝の事 新田 表になだれ二つ、双て一つは長一つ短く下によがむなり脇になだれのやうに二つ、後になだれ角なる心にツトあり、底糸切土赤め、そと黒めにして、白けて見ゆる荒いやうなり(底糸切圖あり)、そばによりて切也。 (宗湛日記)

天正二十年十一月十四日 御會 御飾之事
同山里(なごや)の御座敷にて大名衆に御茶被進次第の十一月十四日より始て十七日までに
床に 晩鐘の一輪 前に小茄子四方盆に云々
同十一月十五日 御會 御かざりの事
床に 朝山一軸 前にしぎ肩衝四方盆にすゑて云々
同十一月十六日朝 御會 御かざりの事
床に 落雁一軸 前に初花肩衝 盆にすゑて云々
同十一月十七日朝 御會 御飾の事
床に 夜雨一軸 前にそろりに花生て、薄板にすゑて、すみをりに捨子の御壺覆 金らん 緒紅也。すみより向て御釜おとごせ。新田肩衝、四方盆にすゑて云々。
右は十四日より十七日までの山里の御數寄御かざり也。 (宗湛日記)
二人の勅使 明使謝用梓と徐一貫 竝に蘚西堂、船中にて御約束し給ひ、翌六月十日 文禄三年 の朝、山里にて御茶給はりぬ。露地にはいろいろの藥風などもあり、麓の里おのづから物ふりて、諸木枝を連ね、岩傳ふ流れもいすゞしく、山里の名に應じ、其さま墨ぬ。
四疊半御數寄屋の次第
一玉硝帰帆の繪
一畑口の花入
一新田肩衝
棚の部
一茄子の茶入 内赤の盆に在
一臺天目
一釜
一ゑんをけの水さし
一水こぼし かうじ
一象牙の茶杓
自ら御かよひ物し給へば、何れも不言の居のみにして感じあへりぬ、郎ち御茶も手づから點じ給へれば、其さまをつくし辱なく存する体、異國人のやうになく、今世名の風見えて誹る所もまれなりけり。(眞書太閤記)

秀吉公肥前名古屋に御在陣の折柄、大明の正使副使をもてなさんとて、六月十日山里御數寄にて御茶あり、此御園ひは老松釜えたるを便りとし、石田木工頭が作り奉りしなり、但し本丸より山里への裏の芦路は、寺西筑後守の致せし由なり。
御飾
一玉碉歸帆の繪
一畑口の花入
一新田肩衝

一茄子の茶入 内赤の盆に載す
一臺天目
一签
一水コボン 合子
一抱桶の水指
一象牙の茶杓
五しき鎖の間御飾
一玉碉枯木の繪
一蕪なしの花生
一富士香爐
一肩衝 投頭巾
御勝手の間御飾
一攻紐の釜
一芋頭の水指
一尻膨の茶入
一井戶茶碗
此間にては友阿彌の手前にて、諸大名に御茶を下されし御道具の書附も不案内の者書取候故、慥とは致さずとなり。 (茶事秘峰)
慶長二年丁酉二月二十四日朝 太閤樣御會 御城
御座敷五壘敷、床に暁鐘一軸(中略)向の柱に青磁の筒にうす色生被懸四寸のゐろりふちよし、棚には新田四方盆にすゑて云々。今朝御茶被下候者は、宗堪、宗仁、道哲、御相伴となられ、御意にて青木法印以上四人。夜のほのぼのとあけ時分に参上候へば御座敷椽の口の障子を一枚御明けなされて、御立ながらハイ入ヤと仰せられて、上のあげ窓御明け候也(中略) うす茶友阿彌手前也、四疊半床に定家色紙懸云々、御肩衝は新田、形に委しくあり。 (宗湛日記)

大阪を秀頼公に御譲り、大閤には伏見城を築玉ふべしと相極り、醍醐の奥山科、比叡山雲母坂より大石どもを引出し、石垣高く築上、矢倉多門を組建諸木をさせ、程なく御城出來せり、其結構語るに中々言葉なし。
さて此所に御移り在て、古市播磨守、宗珠、宗悟、紹鷗が風、千利休、北向道陳が茶湯など御吟味あり、山里には沈香の木を以、四疊半の御數寄屋を建られ、爐の縁は伽羅なり、炭火にあたりて異香四方に薫ず、玉礀夜雨の御掛物、蕪なしの御花入、責紐の釜、湛水の水さしなど錺らせ給ひ、其或は虚堂退院の御掛物、細口の花入、小あられ釜、新田肩衝、縁桶の水さし、右さまざまの御錺にて、大小名へ御茶を被下ける。御座敷より見渡せば、宇治川の流が流れ、宇治の里人家軒をならべ、平等院、真木の島、山吹の瀬、おちかたの邊、又辰巳の方より引連り、青山峨々として松柏枝をたれ、醍醐寺甍をならべ、遠寺晩鐘に心を澄せり、其嶺に續きて喜撰ヶ嶽、幷三室戸といふ高山峠が古松枝を垂れ、吹風琴を吟じわたる猿の聲いと佗し、麓に順禮の札所観音堂あり、西は八幡、山崎、狐川、淀、一口より、江口、橋本、平潟邊に至るまで、長流悠々として、船の上下夕照一方ならぬ詠なり、北は洛中に續きて高家幾重ともなく引廻り大小の屋敷あり、町に添て川流れければ船のゆき來よく、實に最上の御城なりと云々。 (會補朝鮮征伐記)

名器寄に、元和元年五月二十八日、藤重藤元、同藤巖父子を二御城に召され、名物焼殘りの物燒跡にあるべし、罷越しよくよく穿鑿いたし可申旨仰付けるにより、夜舟にて下向し、晝夜の差別なく土灰の中を堀穿ちしに、果して名物の茶入五つ尋ね出したり、まづ假艦に継ぎ、六月十二日京都へ持上り申候、御茶入、新田肩衝、志貴肩衝、玉垣文琳、小肩衝、大尻張なり、御褒美として百二十人扶持被下。 (眞書太閤記)

元和元年五月七日大阪落城而後、同五月二十八日二條從御城、藤藤重藤元、藤巖父子兩人被食出本多上野殿(本田正純)奉行にて、今度秀頼公秘藏の茶入名物は敷多可有之也、若自然燒磯之道具一ツ成共於有之者、重實之儀思召候大阪御城焼跡へ急藤巖罷下縦わきくだけたる道具たりと云共随分相尋拾集、少もちらし申まじきとの上意にて大阪へ罷越名物之御茶入有所、大形土藏の邊能々承合可仕御詮被仰付同日夜舟にて大阪へ罷越、數日の間夜分の無差別土灰中を掘穿如案名物の御茶入其外われもの急尋出し、先假継に仕、六月十二日京都へ持登申御茶入
一新田肩衝
一ゑき肩衝
一玉かき文琳
一小肩衝
一大尻張
右五つの名物二條御城持参本多上野守殿以上申處家康被爲成御覽殊の外被成御感則御前之御座間近藤元、藤殿を召出御目見へ仕候鬼扨々希代不思議名物共尋出し申儀前代未聞之上意にて御機能、御前罷立則御褒美米百石二十八之御扶持方被下候旨本多上野守殿奉行にて致拝領事誠家之眉目冥加至極成仕合勝斗云々。 (岩崎家所蔵付茄子附属物)
寛永十二年八月十八日二之九於山里水戸機御茶鄉上ゲ。
御相件 細川越中守殿 毛利甲斐守殿 立花飛驒守殿
數寄道具
.
一掛物 兩筆 俊成 定家
一花生 青磁
一茶入 新田
一茶碗 膳所燒
其外間飾色々
(木全宗儀本山本道句覺書)
傳來
元珠光所持にして、三好宗三に傳はると云ふ。津田宗及茶湯日記天文九年四月十七日の條に、會主の名を掲げず、唯此茶入の實見記のみを載せたれども、是れ或は宗三の茶事なるべしと思はる。夫より織田信長に傳はりしが天正十年本能寺の變後、一旦明智勢の爲めに安土城より坂本城に移され、次で明智光春より他の名器と共に寄手に引渡されたる筈なれども如何なる故か、此茶入は秀吉の手に入らずして、其後豊後の大友宗麟の所有と罵りしかば、天正十三年四月秀吉は宗麟に向って之を所望し、安國寺惠瓊宮木入道を豊後に遺はし、五月一日晩大阪に持帰りしにぞ、秀吉大に喜び似たり茄子と合せて代百貫(百二十貫と云う)を宗麟に興へたりと云ふ、斯くて秀吉の什物となりて後、此茶入の使用せられたる記録頗る多し。先づ天正十三年十月七日、正親町天皇の御前に於て、利休此茶入と初花肩衝とを以て御茶を點じ天正十五年一月三日、大阪城の大茶湯、同年二月二十五日大阪山里の茶會、同十月一日北野大茶會、同月十四日聚樂の茶會に於ても何れも之を使用せり、同年十一月二十日利休百會に此茶入を出したるは、蓋し利休が秀吉に乞ひて之を借用したるものならん。左れば天正二十年十一月十七日、肥前名護屋在陣の際、秀吉は此茶入を用ひて諸侯を饗癒し、文祿三年六月十日使謝用梓徐一貫二人を接待するに借りても、赤此茶入を使用し、慶長二年二月二十四日大阪城の茶會、翌年伏見成の際の茶會にも亦昔な之を用ひたるを見れば、秀吉が如何に此茶入を愛重せしかを知るに足らん。元和元年五月大阪落城の後藤重藤元同藤巖父子が徳川家康の命を奉じて城内焼跡より拾ひ上げたる名物茶入數點中に此茶入あり、籐重乃ち漆を以て之を繕ひ、六月十二日京都に於て家康の上覧に供へしに其賞として百石二十人扶持を賜はりぬ。其後水戸頼房卿之を拜領し、寛永十二年八月十八日同家茶會に於て之を使用せし事あり、代々傳へて今日に及べり。
實見記
大正七年九月二日、東京市本所區小梅町徳川圀順皖邸に於て實見す。
漢作にして初花、油屋、玉堂等と同時代なれども、甑少しく長く肩先に九味を持ちたる工合其趣を異にせり際に沈筋一線を繞らし、口作兩そぎ蛤極めて精巧にして、總體淺黄鼠色釉光澤あり。此茶入は大阪落城の後、藤重藤元父子が灰燼中より拾ひ上げ胴一面の大破損を共色漆にて修補せし者にして、置形の邊釉質溶化して景色薄々と残れり、又或る部分は粉々に砕けたるを漆を以て接ぎ合せたるが爲め、他の同型茶入に比して目方五匁程軽やかなるは原土と漆と比重の相違するが爲めなるべし但し裾以下は鼠色土にて原形の儘残存し、此種の茶入は大抵板起しなるに、此茶入は本糸切なり、而して内部は轆轤続り、底中央に至りて渦狀を成す、形状優秀、品格高雅にして、古來漢茶入中屈指の名物に數へられたるも決して偶然に非ざるなり。

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