


新田肩衝(にったかたつき)
漢作(中国製) 大名物 侯爵 徳川圀順氏 所蔵
【名称】
当初の所持者の名前に由来してこの名前がついたのでしょう。『諸家名器集』には「新田左中将の所持」とありますが、その証拠ははっきりしません。また、『真書太閤記』には次のような記事があります。
「関白殿下秀吉公のお道具の中に『新田肩衝』というものがある。また、和泉国堺の宗及が所持していた『志貴肩衝』とあるものも、後には秀吉公のお道具となった。新田肩衝といえば、本来は『真田肩衝』と書くべきところを、右筆(書記)が誤って『新田』と書いたのである。その『新田』というのは、尾張国瀬戸の住人・加藤四郎左衛門尉という者が、栄西禅師が中国から持ち帰った茶入や茶壺を、栂尾の明恵上人から受け継いで焼き出したものである。これを世間では『口禿手(くちはげで)』と言う。その頃はまだ焼き方の秘伝もなく、口を下にして焼いたため、口に釉薬のかからない所もあった。また形も良くなかった。ところが、四郎左衛門尉は道元禅師に従って宋に渡り、焼き方の順序や、すべての焼き物に土で鞘(さや)を作り、底を下にして焼くことを教わって帰国し焼いたところ、釉薬もよく溶け、土もなじんで見事に出来上がった。これを『真田』と言うのである。藤四郎(加藤四郎左衛門尉)は四代まで続いた。道元禅師と同じ船で宋に渡ったのは建暦年間(1211-1213)のことなので、天正13年(1585)まで340年余りになる。しかし、暦応2年(1339)10月3日の日付で『藤四郎作 これを判ず』と肩に銘がある葉茶壺がある。暦応と建暦ではおよそ100年余りの隔たりがあり、これによってその時代を推測すべきである。」
『真書太閤記』の「真田」という解釈は一種の異説ではありますが、もとより納得できるものではありません。宮内省本『天正十三年御茶湯』や『津田宗及茶湯日記』には明らかに「につた」と記され、また挽家(茶入を入れる容器)の蓋にも「につた」とあります。『宇野主水記』には「仁田」と書かれ、子爵毛利元雄氏所蔵の太閤(秀吉)自筆の茶の湯道具書付には、仮名で「にんたかたつき」とあります。したがって「にんた」とは言うべきですが、「しんでん」と読むべきではありません。また『万宝全書』には、「仁田」も「新田」も両方あるため、それが「新田」であることは疑いありません。ただ、その(新田という)人物が誰であるか分からないことだけが残念です。この茶入は、古くから「天下一」の名で通用していたことがあります。『利休百会記』の中に「肩衝天下一」とあちこちに見えるのは、すなわちこの新田肩衝のことです。『利休百会解』という本には、「肩衝天下一、古い本には新田肩衝、関白様(秀吉)のところにある。」と書かれています。
【寸法】
高さ:約8.5cm(2寸8分)
胴径:約7.6cm強(2寸5分強)
胴回り:約24.5cm(8寸1分)
口径:約4.5cm(1寸5分)
底径:約4.5cm(1寸5分)
甑(こしき:首の部分)の高さ:約1.5cm弱(5分弱)
肩幅:約1.1cm(3分5厘)
重量:約120g(32匁)
【附属物】
一蓋(ふた):象牙 1枚 裏側は火の気のために煤けている
一御物袋:紺地金襴小牡丹菱紋 裏は海気(絹織物の一種) 紐は遠州紫
一袋:2つ
茶地剣先梅鉢純子 裏は玉虫海気 紐は紺
段織純子 裏は白海気 紐は紫
一袋箱:桐材 書付は板の横目に書かれている
新田肩衝茶入替袋 墨書き
一挽家(ひきや:茶入を収める筒):黒塗り
「につた」 金粉で書かれている。筆者は不明。
包み物:白羽二重の綿入り座布団、紐は白
一外箱:桐材、白木
「新田肩衝」 墨書き。筆者は不明。
【雑記(過去の記録における新田肩衝の記述)】
新田肩衝:昔、村田珠光が所持していた。この壺は肩衝の天下一であり、関白様(秀吉)のところにある。初花、楢柴と共に、天下の三名物の一つである。豊後の太守(大友宗麟)から関白様へ渡った。新田肩衝と似たり茄子の2種類を1万貫で売ったという。(山上宗二記)
新田カタツキ(肩衝):関白様のところにある。昔、珠光が所持していた。この壺は肩衝の天下一である。(茶器名物集)
新田肩衝:西国にあるもの。大友宗麟が所持している。(天正名物記)
肩衝新田:大友宗麟の所持。(大友興廃記)
仁田:「新田」とも書く。大友の所持。高さ約8.5cm、横幅約7.6cm強、胴回り約24.5cm。底径約4.5cm、口径約4.5cm、首の高さ約1.5cm弱、胴の高さ約3.9cm。茶入の図がある。(万宝全書)
新田唐物:大名物。水戸殿の所持。(古今名物類聚)
新田:漢作(中国製)である。勢高不動、玉堂、棚村と同じ時代のものである。そして勢高不動とは同じ作りで同じ釉薬の掛かり方である。瀬戸の平野山の井、生駒もまた同じ釉薬の掛かり方である。(松平不昧公著『瀬戸陶器濫觴』)
新田:火災に遭った。水戸公の図録にある。(麟鳳亀龍)
新田:水戸様と書き入れがある。昔、珠光が所持していた。秀吉公のお道具。「天下一の肩衝」と書かれているものもある。また書き入れに、大友家から秀次公へ渡ったとある。(蜂庵文庫本『翫貨名物記』)
新田肩衝:水戸の所持。昔、珠光が所持していた天下一の名物。三好宗三が所持していた。九州の大友が所持していた。秀次公が所持していた、または宗三が所持していた。(古名物記)
新田肩衝:この茶入は、大坂城で火災に遭い、藤重(漆工)が修復したという。献上され、江戸城の将軍家の御物となった。また水戸様が拝領した。新田、初花、楢柴は三名物である。将軍家のお道具。(雪間草茶道惑解)
新田肩衝:新田左中将が所持し、それから織田家、豊臣秀吉、その後、徳川家康公へ下賜された。
水戸家へ付属した。豊臣太閤秀吉公の御物であり、正親町天皇に御茶を献上した際、この肩衝を使って千利休(宗易)がお茶を点てたと言い伝えられている。その後、北野大茶湯の際にもこの茶入で秀吉が自らお茶を点てたということで、その時の客には徳川家康公もいた。高さ約8.6cm、胴径約7.9cm、口径約4.5cm、底径約4.5cm、肩幅約1.2cm、口から肩の際まで約1.2cm。茶入の図がある。(諸家名器集)
天文19年(1550年)4月17日 午の刻(正午頃)
大友宗麟からの使いとして隆軼と宗存の二人が来た。
一つ 肩衝 「につた」
袋は間道(縞模様の織物)、紗張りで、少し趣がある。紐は紅。
(茶入の様子は)右の通りで、すっきりとしており、首の立ち上がりが伸びやかで、ふっくらと落ち着いた感じがある。肩も急に張っておらず、むっくりとしている。土は薄く白いようで、さらりとしているが、味わいがある。釉薬の地は薄黒く、瑠璃色の雰囲気が少しある。見応えのある色合いである。上薬が表面にあり、その釉薬で正面に二筋のなだれ(釉薬が垂れた跡)があり、壺の左側へねっとりと流れている。肩の近くで短くなだれており、なだれの筋の縁に二筋とも朱色が焼き出ている。釉薬はこんもりと盛り上がって止まっている。脇にも釉薬が少し付いているところがある。二筋のなだれの先に、少し混じり合った釉薬の趣がある。(津田宗及茶湯日記)
(前略)明智左馬助(光春・秀満)は馬を乗り上げて唐崎の一本松の下で降り立ち、馬に息を整えさせ、自身は松の根に腰を下ろした。浜辺を追ってくる敵を見て、心を静めて息を休めた。敵が五町(約545m)ほどに近づいた時、馬に乗り真っ直ぐに坂本城へ駆け込んだ。城の大手門には閻魔堂があり、そこで馬から降り、手綱の結び目を切り、一方は銀杏の木に結び付け、もう一方はお堂の格子に結び付けた。手近な紙に札を付け、矢立(携帯用の筆記用具)で「明智左馬助光春が、琵琶湖の水を乗り渡ってきた馬である」と書き付けた。彼自身は坂本城へ突入し、主君・明智光秀の妻子と、続いて自分の妻子を刺し殺し、左馬助も自害した。そして天守閣に火を放ち終えた。
この時、天下の名物であり、代々将軍家の宝物であった「捨子茶壺」「蕪なし花入」「朝山の一軸(掛け軸)」「不動国行の太刀」「二字国俊の刀」「烏丸香炉」「責紐釜」「薬研藤四郎(短刀)」「乙御前釜」「新田肩衝」「松花の壺」「信貴肩衝」「天下一振の太刀 吉光」「虚堂の墨蹟 二幅」「骨喰の脇差」「三好正宗 二ツ銘の太刀(正宗)」。以上の十七品は、安土城を攻め取った時に坂本城へ収めていたものだが、これを唐織の宿衣(夜着)布団に包み、女物の帯を何本も繋いで、天守閣から下へ吊り下げた。そして下の攻め手に向かって、「明智の一族は滅亡するが、天下の名物を失うことは不仁の極みであると思い、お渡しする。将軍家の若君たちへお届けしてほしい」と言って、攻め手へ渡した。松永久秀が平蜘蛛の茶釜を打ち砕いたこと(信貴山城の戦いで久秀が名物・平蜘蛛と共に爆死した逸話)とは大違いであると、世間では大いに称賛された。その際、二ノ谷(明智光秀の家臣)は青雲龍の白練りの羽織を家来に持たせ、坂本の西教寺へ遣わし、自分の死後の弔いを頼んだ(略)。(二ノ谷冑由来書)
(備考)『二ノ谷冑由来書』は、紀州徳川家が所蔵する「二ノ谷の兜」に付属する巻物である。
この度、豊後国の太守・大友殿へ、秀吉から数々の道具のうち「仁田(新田肩衝)」と「似たり(似たり茄子)」の二種を所望した。仁田は肩衝茶入、似たりは茄子茶入である。銀120貫目と、安井茶碗を添えて遣わされた。使者の二名、宮木入道が4月にこの二種を受け取って、大坂城へ無事に帰城した。また、正使は安芸国の毛利家の安国寺恵瓊であるとも言われている。(宇野主水記)
天正13年(1585)5月2日朝、上様(秀吉)が御成りになり、宗易(千利休)が茶を点てた。同日晩に、豊後から「似たり茄子」と「新田肩衝」が秀吉様のところへ到着した。すぐに拝見した。二種並べて拝見した。(津田宗及茶湯日記)
「似たり茄子」は紹悦から豊後の太守(大友宗麟)に売られた。代金は50貫。その後、太守から関白様(秀吉)へ、「新田肩衝」とこの茄子の二種で100貫で売られたのである。昔は村田珠光が所持していた。
天下無双の品である。関白様(秀吉)のところにある。(茶伝記録)
禁中の小御所での千利休の茶会
紹鷗茄子(茶入) 金襴の袋 白天目(茶碗) 数の台
床の間に玉澗の「鐘の絵」 台子の上に
茶入 「につた(新田)」「はつ花(初花)」
縁桶の水指、柄杓立てはくるみ口、水こぼし、金属製のかんじ(火箸などか?)、小あられの釜、乳足の風炉にすわる。蓋置は金属製、前に「ソロリ」の花入に菊を入れて。大きな白い芋頭の水指、柄杓立ては金属製、亀の形の蓋、水こぼし、責紐の釜、蓋置は五徳。別の脇の畳に、四十石の葉茶壺、口の覆いは紺地の金襴で紅の紐。「松花」の壺、口の覆いは白地の金襴で浅葱色の紐。
大名衆皆に御茶が振る舞われました。
(天正13年)10月7日 宗易(利休)の判
春屋和尚へは、御前の分を書き付けて差し上げました。そちらでご覧合わせくださるのがよいでしょう。
以上
古渓和尚様(宮内省本『天正十三年御茶湯』)
天正15年(1587)丁亥 正月3日、大坂城での大茶会のこと。正月3日午前4時頃から城へ出向いた時、門外で宗及が出迎えてくれて、初めて宗易(利休)にお目にかかった。大名や小名が徒歩や乗り物で出頭する様子はものすごいものであった。(中略)お許しが出て、関白様(秀吉)の御前で皆と同じように拝見していたところ、「筑紫の坊主(神屋宗湛のこと)はどれだ」とお尋ねになったので、「この者です」と宗及が申し上げた。「その他の者は退けて、筑紫の坊主にだけよく見せよ」とのお言葉があった。(中略)「その筑紫の坊主には、『四十石』(という名物の茶壺)の茶を一服、たっぷりと飲ませてやれ」と仰せられたので、宗易が手前に参り、一服くださった。井戸茶碗で、広くゆったりとしたものだった。「また新田肩衝を手にとって見せよ」とのご意向で、拝見したのは宗湛一人であった。(宗湛日記)
お飾り
一 台子:似茄子、白天目、炭斗、瓢箪、井戸茶碗、ヤセクリ毛の天目
一 中台子:棗、台天目、柄杓指、合子、風炉釜、蓋置、縁桶、井戸茶碗を二つ重ねて、宗無が手前。松本茄子を内側が赤い盆に。
同じく竹茶杓、珠得(作か)。
一 台子:責紐の釜、芋頭(水指)、尼子天目、柄杓指は備前焼、水覆いは亀の蓋。蓋置は五徳。塗天目、茶筌を入れて。炭斗、瓢箪。宗及が手前。
新田肩衝を四方盆に。宗易(利休)
面白肩衝を四方盆に。宗無
一 台子の前三分
初花肩衝を四方盆に。宗及
新田は肩がそれほど張っておらず、むっくりとしている。なだれ(釉薬の垂れ)が正面に二つあり、裏にもある。釉薬は剥げており、高台には帯状の跡が見えず、底は糸切りである。細い石が二、三粒あり、土は青みがかっていて上の方は白っぽく、洗い立てのようである。口の付け根に筋が二つあり、一つはくびれの下である。首が立ち上がっている。(宗湛日記)
天正15年2月25日朝、大坂城の山里の茶室での茶会のこと。
山岡対馬殿、宗湛の二人
(前略)お座敷は二畳、床の間は四尺五寸(約1.36m)、壁には暦が張られ、左の隅に炉があり、その脇に道籠がある。姥口の平釜、床の間には「晩鐘」の掛け軸が掛かっている。二人が入ると、やがて関白様(秀吉)がお出ましになり、「よく見よ」と言って、立ったままでのお言葉であった。やがてお振る舞いが出たが、給仕をするのは15、6歳ほどの小姓であった。手水の間で掛け軸を巻き上げさせ、新田(次ページへ続く)
(新田肩衝の)袋を脱がせて、四方盆に据えてあった云々。(宗湛日記)
天正15年(1587)10月1日 北野大茶湯
秀吉公のお道具の目録
一 虚堂の墨蹟 一 かぶらなし花入
一 鐘の絵 一 似たり茄子
一 紹鷗天目 一 紹鷗茄子
一 白天目 一 志賀茶壺
一 新田肩衝 一 面白(めんばく)四方盆
(茶入と茶碗以外は省略する)(北野茶会記)
天正15年10月14日昼 聚楽第での関白様(秀吉)の茶会のこと
宗及、宗湛の二人
(前略)上様が勝手口から仰るには、「食事を食おうか」と仰せられた。ありがたいことと申し上げた。囲炉裏の角に責紐の御釜を五徳に据え、道籠に土の水指。新田肩衝を四方盆に据えてあった云々。新田は口の付け根に筋が二つ、帯の跡が一つあり、釉薬は飴色で、なだれ(垂れ)は黒い。蓋のつまみの根元に高い筋が一つあり、つまみの上は平らである。(宗湛日記)
天正15年11月20日朝
四畳半 針屋宗和、伊勢立阿弥
四方釜、新瀬戸の水指。中にわさびを入れて鯉の掻き和え、平茸の汁。
木守茶碗、肩衝天下一(新田肩衝)。
皮箱、ご飯。
大棗を茶桶箱に入れて床の間に置く。
後に四方盆が出る。お菓子:麩の焼き、豆腐の皮(湯葉)。
瀬戸の水こぼし。
尺八菊花入。
肩衝天下一は、古い書物には「新田肩衝、関白殿のところにあり、昔は珠光が所持していた天下一である」と書かれている。この頃、千利休の手元にあったように見受けられる。(利休百会解)
天正20年(1592・文禄元年)11月17日朝 名護屋にて
太閤様(秀吉)のお茶会。山里の御座敷の開き(杮落とし)である。
この時の出席者は、松浦道可、池田備中殿、宗湛、堀監物、船越五左衛門の以上五人。(中略)
隅炉に「拾子」の大壺を炭より向こうに覆いを掛けて置き、道籠には新田肩衝を四方盆に据えて、塗り天目に道具を仕入れて、土の水指、下は蓋。亀の(水指か)、蓋置は銅。茶堂は休夢である。
肩衝(新田)のこと。正面になだれが二つ、並んで一つは長く、一つは短い。脇になだれのように二つ、後ろに角張った感じのなだれが少しある。底は糸切りで、土は赤めで外側は黒っぽく、白けて見える。荒々しい様子である(図がある)。縁に寄って糸切りされている。(宗湛日記)
天正20年11月14日 お茶会 お飾りのこと
名護屋の山里の御座敷で、大名衆にお茶が振る舞われた次第。11月14日から始まって17日までに
床の間に「晩鐘」の掛け軸、前に小茄子(茶入)を四方盆に、云々。
同11月15日 お茶会 お飾りのこと
床の間に「朝山」の一軸、前に鴫肩衝を四方盆に据えて、云々。
同11月16日朝 お茶会 お飾りのこと
床の間に「落雁」の一軸、前に初花肩衝を盆に据えて、云々。
同11月17日朝 お茶会 お飾りのこと
床の間に「夜雨」の一軸、前にソロリの花入に花を生けて、薄板に据えて、隅炉に「捨子」の御壺、覆いは金襴で紐は紅。隅より向こうに御釜「乙御前」。新田肩衝を四方盆に据えて、云々。
右は14日から17日までの山里の茶室のお飾りである。(宗湛日記)
二人の明国の使節(正使・謝用梓と副使・徐一貫)ならびに通訳の蘇西堂が、船中でお約束なさった通り、翌文禄3年(1594年)6月10日の朝、山里の茶室でお茶を賜った。露地には色々な薬草園などもあり、麓の里は自然と趣深く、木々が枝を連ね、岩を伝う小川の流れもとても涼しげで、「山里」という名にふさわしく、その風情は尽きない。
四畳半の茶室のお飾りの次第
一 玉澗の「帰帆の絵」 一 細口の花入
一 新田肩衝
棚の部
一 茄子の茶入、内側が赤い盆に載せる 一 台天目
一 釜 縁桶の水指
一 水こぼし、かんじ(火箸?) 一 象牙の茶杓
秀吉自らがお給仕をなさったので、皆言葉を発することもできず感嘆し合っていた。そして自らお茶を点ててくださったので、そのもてなしに心から恐縮している様子は、異国人のようではなく、今の世の風雅を解する人のように見え、非難するようなところは全くなかった。(真書太閤記)
秀吉公が肥前名護屋に滞陣中の折、明国の正使と副使をもてなそうとして、6月10日に山里の茶室でお茶会があった。この庭園は古い松が鬱蒼と茂っているのを利用して石田三成(木工頭)が作庭したものである。ただし、本丸から山里への裏の芦の道は、寺西筑後守が造ったとのことである。
お飾り
一 玉澗の「帰帆の絵」 一 細口の花入
一 新田肩衝
棚
一 茄子の茶入、内側が赤い盆に載せる 一 台天目
一 釜、水こぼし、合子
一 抱桶の水指 一 象牙の茶杓
五色鎖の間の御飾り
一 玉澗の「枯木の絵」 一 蕪なしの花入
一 富士香炉 一 肩衝(投頭巾)
御勝手の間の御飾り
一 攻紐の釜 一 芋頭の水指
一 尻膨の茶入 一 井戸茶碗
この間では友阿弥がお点前をして、諸大名にお茶を下された。このお道具の書き付けも、詳しくない者が書き取ったため、確かなものではないとのことである。(茶事秘録)
慶長2年(1597)丁酉 2月24日朝 太閤様(秀吉)のお茶会 大坂城
お座敷は五畳敷、床の間に「晩鐘」の一軸(中略)。向かいの柱に青磁の筒に薄い色の花が生けられ、四寸の囲炉裏の真縁がよく、棚には新田を四方盆に据えて、云々。今朝お茶を下賜されたのは、宗湛、宗仁、道哲が相伴となり、秀吉の意向で青木法印が加わり以上四人。夜がほのぼのと明ける頃に参上すると、お座敷の縁側の入り口の障子を一枚お開けになり、立ったままで「這い入れよ」と仰せられ、上の揚げ窓を開け(次ページへ続く)させられた。(中略)薄茶は友阿弥のお点前である。四畳半の床の間には定家の色紙が掛けられていた、云々。御肩衝(新田)については新田の形に詳しく記されている。(宗湛日記)
大坂城を秀頼公に譲り、太閤(秀吉)は伏見に城を築くことが決まった。醍醐の奥、山科、比叡山、雲母坂から大きな石を運び出し、石垣を高く築き上げ、櫓や多門を組み建て、多くの木を植えさせ、間もなく城が完成した。その立派さは言葉では言い表せないほどである。さて、ここに移り住んで、古市播磨守、村田珠光の弟子たち(珠宗、珠悟)、武野紹鷗の作法、千利休、北向道陳の茶の湯などを深く吟味し、山里には沈香の木を使って四畳半の茶室を建てられた。炉の縁は伽羅の木でできており、炭火にあたると素晴らしい香りが四方に薫る。玉澗の「夜雨」の掛け軸、蕪なしの花入、責紐の釜、清水の水指などを据えさせたり、あるいは虚堂、退院の掛け軸、細口の花入、小あられの釜、新田肩衝、縁桶の水指など、様々な飾り付けで大小の武将たちにお茶を下賜された。お座敷から見渡せば、宇治川の急流が流れ、宇治の里の民家が軒を連ね、平等院、真木の島、山吹の瀬などが遠くに見える。また南東の方角からは山々が連なり、青々とした山がそびえ立ち、松や柏が枝を垂れ、醍醐寺の建物が並び、遠くの寺の夕暮れの鐘の音に心が澄み渡る。その峰に続いて喜撰ヶ岳や三室戸という高い山や峠があり、古い松が枝を垂れ、吹く風は琴の音のように響き、夜を渡る猿の鳴き声はとても物寂しい。麓には巡礼の札所である観音堂がある。西は八幡山、崎、狐川、淀、一口から江口、橋本、平潟の辺りに至るまで、長くゆったりと川が流れ、船が上り下りする夕暮れの景色は格別である。北は京都の市中に続いて高い家々が幾重にも取り囲み、また大小の屋敷があり、町に沿って川が流れているので船の行き来も良く、実に最高の城であるとのこと。(増補朝鮮征伐記)
『名器寄』に、元和元年(1615年)5月28日、藤重藤元・藤厳父子が二条城に召し出され、「名物で焼け残ったものが焼け跡にあるはずである。出向いてよくよく探し出すように」と命じられたため、夜の船で下り、昼夜の別なく土や灰の中を掘り起こしたところ、果たして名物の茶入を5つ探し出した。まず仮の継ぎ(修復)をして、6月12日に京都へ持って上がった。その茶入は、新田肩衝、志貴肩衝、玉垣文琳、小肩衝、大尻張である。ご褒美として百二十人扶持を下賜された。(真書太閤記)
元和元年乙卯 5月7日に大坂城が落城した後、同5月28日に二条城から、藤重藤元・藤厳父子の二人が召し出された。本多上野介(正純)が奉行として、「この度の秀頼公秘蔵の茶入などの名物は数多くあるはずだ。もし万が一、焼け残った道具が一つでもあれば、それを大変重宝に思う。大坂城の焼け跡へ急ぎ藤厳が下り、たとえ粉々に砕けた道具であろうとも、十分に探し集め、散逸させないように」との上意であった。「急いで大坂へ出向き、名物の茶入があるであろう大きな土蔵の辺りをよく調べて探し出すように」と命じられた。同日夜の船で大坂へ向かい、数日間、昼夜を問わず土や灰の中を掘り起こし、案の定、名物の茶入やその他の割れ物を急いで探し出した。まずは仮の修復を施し、6月12日に京都へ持参した。御茶入は、
一 新田肩衝 一 まき(志貴)肩衝
一 玉かき(垣)文琳 一 小肩衝
一 大尻張
右の5つの名物を二条城へ持参し、本多上野介殿を通して差し出したところ、家康様がご覧になり、格別にお褒めになった。すぐに御前のすぐ近くに藤元と藤厳を召し出し、お目通りを許された。そして、「これほど奇跡的に不思議にも名物を探し出し申したことは、前代未聞である」との上意があり、ご機嫌良くお前を退出した。すぐにご褒美として米100石と20人扶持を下賜される旨を、本多上野介殿を奉行として拝領したことは、誠に家の名誉であり、この上ない幸せである。(岩崎家所蔵付藻茄子付属巻物)
寛永12年(1635・亥)8月18日、江戸城二の丸の山里(茶室)にて、水戸様にお茶を差し上げた。
お相伴:細川越中守殿、毛利甲斐守殿、立花飛騨守殿
数寄道具
一 掛け軸:藤原定家の筆(雨筆)、後成
一 花入:青磁
一 茶入:新田
一 茶碗:膳所焼
その他、間の飾り色々(本金宗儀本山本道句覚書)
【伝来】
元は村田珠光が所持しており、三好宗三に伝わったという。『津田宗及茶湯日記』の天文19年(1550年)4月17日の条には、茶会の主人の名前を挙げず、ただこの茶入を実際に見た記録だけが載せられていますが、これはおそらく宗三の茶会であったと思われます。それから織田信長に伝わりましたが、天正10年(1582年)の本能寺の変の後、一時的に明智軍によって安土城から坂本城へ移され、次いで明智光春(左馬助)から他の名器と共に攻め手に引き渡されたはずであるのに、どういうわけかこの茶入は秀吉の手に渡らず、その後、豊後の大友宗麟の所有となりました。そのため、天正13年(1585年)4月、秀吉は宗麟に対してこれを所望し、安国寺恵瓊と宮木入道を豊後に遣わし、5月1日の晩に大坂に持ち帰らせたところ、秀吉は大変喜び、「似たり茄子」と合わせて代金100貫(あるいは120貫ともいう)を宗麟に与えたといいます。このようにして秀吉の宝物となって後、この茶入が使用された記録は非常に多いです。まず天正13年10月7日、正親町天皇の御前で、千利休はこの茶入と「初花肩衝」を使ってお茶を点て、天正15年1月3日の大坂城の大茶湯、同年2月25日の大坂山里の茶会、同10月1日の北野の大茶会、同月14日の聚楽第の茶会においても、いずれもこれを使用しました。同年11月20日、利休百会にこの茶入を出したのは、おそらく利休が秀吉に頼んでこれを借用したものでしょう。そうであれば、天正20年11月17日、肥前名護屋に滞陣の際、秀吉はこの茶入を用いて諸大名をもてなし、文禄3年(1594年)6月10日、明の使節である謝用梓と徐一貫の二人を接待するにあたっても、またこの茶入を使用し、慶長2年(1597年)2月24日の大坂城の茶会、翌年の伏見城落成の際の茶会にもまたすべてこれを用いたことを見れば、秀吉がどれほどこの茶入を愛し、重宝していたかを知るのに十分です。元和元年(1615年)5月、大坂城が落城した後、藤重藤元・藤厳父子が徳川家康の命を受けて城内の焼け跡から拾い上げた数点の名物茶入の中にこの茶入があり、藤重は漆を使ってこれを修復し、6月12日に京都で家康の御覧に入れたところ、その褒美として100石と20人扶持を賜りました。その後、水戸の徳川頼房卿がこれを拝領し、寛永12年(1635年)8月18日、同家の茶会でこれを使用したことがあり、代々伝わって今日に至っています。
【実見記】
大正7年(1918年)9月2日、東京市本所区小梅町の徳川圀順侯爵邸において実物を見ました。
中国製であり、「初花」「油屋」「玉堂」などと同じ時代のものであるが、首(甑)が少し長く、肩の辺りに丸みを持っている具合が少しそれらとは趣を異にしています。首の付け根に沈んだ筋が一回りしており、口の作りは両側を削いだ蛤刃(はまぐりば)で極めて精巧にできていて、全体的に浅黄鼠色の釉薬の光沢があります。この茶入は大坂城落城の後、藤重藤元父子が灰の中から拾い上げ、胴体の一面が大きく破損していたのを漆で修復したものであり、置かれた状態の周辺は釉薬が溶けて景色がうっすらと残っています。また、ある部分は粉々に砕けたものを漆で繋ぎ合わせているため、他の同じ型の茶入に比べて重さが5匁(約19g)ほど軽いのは、元の土と漆の比重が違うためでしょう。ただし、下部から底にかけては鼠色の土で元の形のまま残存しています。この種類の茶入はたいてい板起し(板から切り離す方法)ですが、この茶入は本糸切り(糸で切り離す方法)です。そして内部はろくろの跡が回り、底の中央に至って渦状をなしています。形状が優れ、品格が高雅であり、古来中国製の茶入の中で屈指の名物に数えられたのも決して偶然ではありません。
【原文】
新田肩衝
漢作 大名物 侯爵 徳川圀順氏 藏
名 稱
當初所持者の氏名に依りて此名を得たるならん。諸家名器集には新田左中將所持とあれども其證據審ならず、又眞書太閤記には次の如き記事あり。
關白殿下秀吉公御道具のうち、新田肩衝といふ有り。又泉州堺宗及所持、志貴肩衝とあるも、後には秀吉公の御道具となる。新田肩衝と云へば、眞田肩衝と書くべきを、右筆誤て新田と書きしなり。その新田といふは、尾州瀬戸の住人、加藤四郎左衞門尉といふもの、桑西禪師將來の茶入、茶壺を、梅尾の明惠上人より受傳へて燒出せり。是を世に口兀手と云ふ。其頃いまだ燒樣の口訣もなく、口を下になして燒きしかば、口に藥のかゝらぬ處もあり。また姿よろしからず。然るに四郎左衞門尉、道元禪師に從て入宋し、燒樣の次第、一切燒物に土を以て鞘を作り、底を下になして燒くことを傳授して歸朝し燒きしかば、藥も能く解け土も融和し、脂と見事に出來たり。是を眞田といふなり。藤四郎は四代まであり。道元禪師と同船して渡宋せしは建暦中のことなれば、天正十三年まで三百四十餘年になれり。然るに暦應二年十月三日の日、藤四郎作之某判と、肩に銘ある葉茶壺あり。暦應と建暦と凡そ百餘年を隔り、是にてその時代を推考ふべし。
眞書太閤記眞田の解は一種の異説なれども固より首肯すべからざる者なり。宮内省本天正十三年御茶湯若くは津田宗及茶湯日記には、明かに「につた」と記し、又挽家の蓋にも「につた」とあり。宇野主水記には「仁田」と書し、子爵毛利元雄氏所藏の太閤自筆の茶湯道具書付には、假名にて「にんたかたつき」とあり。左れば「にんた」とは云ふべきも「しんでん」とは云ふべからず。又萬寶全書には、仁田、又新田共に、あれば、其新田なるや疑ひなし。唯其人の誰なるやを知る能はざるを遺憾と爲すのみ。此茶入夙に天下一の名を以て通用せし事あり。利休百會記中に、肩衝天下一と所々に散見せるは、即ち此新田肩衝なり。利休百會解といふ書に、「肩衝天下一、舊書に新田肩衝、關白様に有り。」とあり。
寸 法
高 貳寸八分
胴徑 貳寸五分强
胴廻 八寸壹分
口徑 壹寸五分
底徑 壹寸五分
甑高 五分弱
肩幅 參分五厘
重量 參拾貳匁
附屬物
一蓋 象牙 一枚 裏 火氣の爲めに煤けたり
一御物袋 紺地金襴小牡丹菱紋 裏海氣 緒つがり遠州紫
一袋 二ツ 茶地劔先梅鉢純子 裏玉虫海氣 緒つがり紺
段織純子 裏白海氣 緒つがり紫
一袋箱 桐 書付板横目に認む
新田肩衝茶入替袋 墨書
一挽家 黑塗
につた 金粉 筆者不知
包物 白羽二重綿入蒲團緒つがり白
一外箱 桐 白木
新田肩衝 墨書 筆者不知
雜 記
新田肩衝 昔珠光所持此壺肩衝の天下一也、關白様に有り。初花、楢柴と共に、天下に三名物の一なり。豊後の太守より關白様へ。新田肩衝と似たり茄子兩種を一萬貫に賣るなり。
(山上宗二之記)
新田カタツキ 關白様に有、昔珠光所持、此壺カタツキの天下一也。
(茶器名物集)
新田肩衝 西國に有之分、大友宗麟所持。
(天正名物記)
肩衝新田 大友宗麟。
(大友興廢記)
仁田 新田共有。大友所持。竪二寸八分、横二寸五分强、廻り八寸一分。底一寸五分、口一寸五分、同高五分弱、胴一寸三分。茶入圖あり。
(万寶全書)
新田唐物 大名物 水戸殿。
(古今名物類聚)
新田 漢なり。勢高不動、玉堂、棚村と同時代なり。而して勢高不動とは同手同藥立なり。瀬戸の平野山の井、生駒も亦同藥立なり。
(不昧公著瀬戸陶器濫觴)
新田 火に逢ふ、水戸公圖あり。
(麟鳳龜龍)
新田 水戸様書入。昔珠光所持。秀吉公御物。或書天下一のかたつきと有り。又書入 大友家より秀次公。
(箒庵文庫本翫貨名物記)
新田肩衝 水戸。昔珠光所持、天下一。三好宗三所持。九州大友所持。秀次公所持、又宗三所持。
(古名物記)
新田かたつき 此茶入、大阪御城にて火に入、藤重つくろひ直すと云ふ。獻上、江戸御城御物なり。又水戸様拜領。新田、初花、楢柴三ヶ名物。公方様御物。
(雪間草茶道惑解)
新田肩衝 新田左中將所持、夫より織田家、豐臣太閤、其後家康公へ拜領也、水府家へ御附屬。豐臣太閤秀吉公御物正親町院御茶獻納之刻此肩衝にて宗易御茶獻備と申傳、其後北野にて大茶湯の刻此茶入ニ而太閤御點茶の由に候、御客家康公御客組也。高二寸八分半、胴二寸六分、口一寸五分、底一寸五分、肩四分、口より肩際迄四分茶入圖あり。
(諸家名器集)
天文十九年卯月十七日午刻
從鷗來候使隆軼宗存兩人
一カタツキ につた
袋かんどう去はらうし心在り 紅の緒
右なり、つつきりとあり、頸たちのび候、ふつくりと止たる心あるなり、肩もきうにいつかぬなり、むつくりとあるなり、土薄白きやうにて、さらりとあり、されども心ありとある也、藥地薄黒く、るりの心いさゝか程在るなり、見る色心も在る也、上藥面にあり、右其藥にて面へ二筋なだれあり、壺の左りの方へねちたるなり、肩みじかになだれあり、なだれの筋の縁に二筋ながら朱を燒き出候、藥高々と止まり候、脇へも藥聊か程つきあり、たる所有也、二筋のなだれの先きに、いさゝか程まじり藥の心有る也。 (津田宗及茶湯日記)
(前略)左馬助ハ馬を乘上げ唐崎の一ッ松の下にて下り立、馬に息合をらい、其身ハ松の根にこしをかけ、濱涯を追來し敵を見て、心靜に息をやすめ、敵はや五町斗に近付候時、馬に打乘眞直に坂本城へ乘込、大手に炎魔堂あり、其所にて馬より下り、手綱のまがひを切て、一方は銀杏の木に結付、一方ハ堂のこうしに結付、手取紙に札を付、矢立にて明智左馬助光春、湖水を乘渡候馬也と書付、其身ハ坂本城へ懸入候而主の光秀妻子、次に自分の妻子を刺殺、左馬助自害、殿主(天主閣のこと)に火を懸終り申候、此時天下の名物代々公方家の寶物、捨子茶壺、蕪なし花入、朝山一軸、不動國行太刀、二字國俊ノ刀、鳥丸香爐、責紐釜、藥研藤四郎、乙御前釜、新田肩衝、松花の壺、信貴肩衝、天下一振太刀、吉光、虚堂墨蹟二幅、骨喰ノ脇差、三好正宗二ッ銘太刀 行光正宗。右以上十七色、安土城を攻取候時に坂本城へ収納候を、唐織の宿衣ふとんにつゝみ候て、女の尺の帶を繼て、殿主より下へさげ、下之寄手へ申候ハ、明智一類滅亡仕候共、天下の名物失事不仁の至と存相渡し候、將軍の若君達へ被指上下候へと申、寄手へ渡候、多門城にて松永が平蜘蛛の釜を打くだき候とハ各別之由にて天下にて譽申候。其砌二ノ谷の青雲龍の白練の羽織を家人に持せ、坂本の西教寺へ遣し、其身の跡の弔を頼候(下略)。
(二ノ谷冑由來書)
(備考)二ノ谷冑由來書は紀州家所藏二ノ谷冑に附屬する巻物なり。
今度豊後の太守大友殿へ秀吉より數等道具仁田、似たり、兩種御所望。仁田は肩衝なり。似たりは茄子なり。銀百二十貫目、安井茶碗を添へられて、被遣之。御使兩人宮木入道、四月に兩種受取て大城へ無事に歸城也。又云、本使は藝州毛利家の安國寺なり。
(宇野主水記)
天正十三年五月二日朝上様御成、宗易茶湯同日晩に豊後より似たり茄子、新田肩衝、秀吉様に參る。則拜見申候。乍兩種ならべて拜見申候。
(津田宗及茶湯日記)
似たり茄子紹悦より豊後の太守(大友宗麟)に賣る。代五十貫。に其後太守より關白様へ、新田肩衝と此茄子と兩種百貫に賣り候也。昔は珠光所持天下無双なり。關白様にあり。
(茶傳記録)
禁中樣御小御所にて利休茶湯
紹鷗茄子金襴袋 白天目數の臺
一床に玉礀の鐘の繪 臺子の上に
茶入 につた はつ花
縁桶の水さし、柄杓立くるみ口、水こぼし、かねのかうじ、小あられの釜、乳足風爐にすはる、蓋置かねの物、前にソロリの花入に菊入れて、大白色のいもかしら水指、柄杓立かねの物、龜のふた、水こぼし、せめひもの釜、蓋置五とく、別のわきの疊に、四十石の葉茶壺、口の覆ひ紺地の金襴、紅の緒、松花の壺、白地の金襴の口覆ひ、あさぎの緒。
大名衆何もへ御茶被參候也。
(天正十三)十月七日 宗易判
春屋和尚へは、御前のを書付進上候、其方にて御覽被合候て尤に候。
以上
古溪和尚樣
(宮内省本天正十三年御茶湯)
天正十五年丁亥正月三日、大阪大城御城にて大茶湯之事。正月三日寅刻より御城に罷出候時、御門外にて宗及御取出候て、宗易に始て懸御目候也。左候へば大名小名かち乘物にて出頭の體おびたゝしき樣子也(中略)御證にて關白様御跡より、各同前に拜見仕候處、筑紫の坊主どれぞと御尋被成候へば、是にて候と宗及御申に候、彼仰出候には、そのこりの者はのけて筑紫の坊主人に能みせよ、との御證にて候(中略)その筑紫の坊主には四十石(茶壺の名)の茶を一服とつくりと、のませよやと被仰出候ほどに、宗易手前に參、一服被下候也、井戸茶碗ひろくたれて候 又新田肩衝手にとりてみせよ、と御意にて拜見仕候事、宗湛一人。
御飾
一臺子 似茄子 白天目 炭斗 瓢箪 井戸茶碗 ヤセクリ毛の天目
一中臺子 棗 臺天目 柄杓指 合子 風爐釜 蓋置 縁桶 井戸茶碗二つ重て 宗無手前 松本茄子 内赤の盆に同竹茶杓珠得
一臺子 セメヒモの釜 芋頭 尼子天目 柄杓指備前 水覆龜蓋 蓋置五德 塗天目 茶筌入て 炭斗 瓢箪 宗及手前
新田肩衝 四方盆に 宗易
面白肩衝 四方盆に 宗無
一臺子前三分
初花肩衝 四方盆に 宗及
新田は肩さのみ衝かず、ムックリと有、なだれ二つ面にあり、裏にもあり、藥はげ、高に帶見えず、底は糸切也、ほそき石二三あり、土青めに上しらけに、洗ひ立たるやうにあり、口付の筋二つあり、一つはくびの下也、首たちあがる也。
(宗湛日記)
天正十五年二月二十五日朝 大阪にて御城山里之御會之事
山岡對馬殿 宗湛 兩人
(前略) 御座敷二疊床四尺五寸、壁暦はり、左のすみろろり有、その脇に道籠あり、姥口の平釜、床に晩鐘の一軸かゝる。兩人はいい入候へば、やがて關白様被成御出て、よくみやとて、御立ながら御證なり。やがて御振舞出、かよい御小性年十五六ほど也。手水の間ニ一軸をまかされ、新
田袋ぬかせて、四方盆に据ゑて有云々。
(宗湛日記)
天正十五年十月一日 北野大茶湯
秀吉公御道具の目録
一 虚堂墨蹟 一 かぶらなし花生
一 鐘の繪 一 似たり茄子
一 紹鷗天目 一 紹鷗茄子
一 白天目 一 志賀茶壺
一 新田肩衝 一 めんぱく四方盆
(茶入茶碗の外は略す)
(北野茶會記)
天正十五年十月十四日晝 聚樂にて關白様御會之事
宗及 宗湛 兩人
(前略)上様勝手の口より被仰候には、「食をくはうか」と御申候。忝と申上也。ゐろり角に責紐の御釜五德すゑ、道籠に土水指。新田肩衝四方盆にすゑて云々。新田は口付の筋二つ帶一つ、藥あめ色に、なだれ黑し。蓋つくのもとに高筋一つあり、つくの上平し。
(宗湛日記)
天正十五年十一月廿日朝
四疊半 針屋宗和 伊勢立阿彌
四方釜 新瀬戸水指 中にわさび入て鯉かきあへ 平茸汁
木守茶碗 かはばこ 飯
肩衝天下一
大棗茶桶箱に入床へ置く
後に四方盆出る 菓子 麩のやき どうふのかは
瀬戸水こぼし
尺八菊花入
肩衝天下一、舊書に新田肩衝、關白殿に有、昔珠光所持天下一也と云々此頃利休の手に有しと見えたり。
(利休百會解)
天正二十年十一月十七日朝 なごやにて
太閤様に御會 山里の御座敷ひらきなり
此御人數の事 松浦道可、池田備中殿、宗湛、堀監物、船越五左衞、以上五人。(中略)
すみ炉に拾子の大壺すみより向て覆にて、道籠には新田肩衝四方盆にすゑて、ぬり天目に道具仕入て土水指下ふた かめの 蓋置のどう 茶堂休夢也。
肩衝の事田新表になだれ二つ、双て一つは長一つ短 脇になだれのやうに二つ、後になだれ角なる心にソトあり、底糸切土赤め、そと黑めにして、白けて見ゆる、荒いやうなり(圖あり)、そばによりて切也。
(宗湛日記)
天正二十年十一月十四日 御會 御飾之事
岡山里(なごや)の御座敷にて大名衆に御茶被進次第の事、十一月十四日より始て十七日までに
床に 晩鐘の一軸 前に 小茄子四方盆に云々
同十一月十五日 御會 御かざりの事
床に 朝山一軸 前に しぎ肩衝四方盆にすゑて云々
同十一月十六日朝 御會 御かざりの事
床に 落雁一軸 前に 初花肩衝 盆にすゑて云々
同十一月十七日朝 御會 御飾の事
床に 夜雨一軸 前に そろりに花生て、薄板にすゑて、すみをりに捨子の御壺覆金らん緒紅也。すみより向て御釜おとごぜ。新田肩衝、四方盆にすゑて云々。
右は十四日より十七日までの山里の御數寄御かざり也。
(宗湛日記)
二人の勅使(明使謝用梓と徐一貫)竝に蘇西堂、船中にて御約束し給ひ翌六月十三年(文禄)の朝、山里にて御茶給はりぬ。露地にはいろいろの藥園などもあり、麓の里おのづから物ふりて、諸木枝を連ね、岩傳ふ流れもいとすゞしく、山里の名に應じ、其さま盡ぬ。
四疊半御數寄屋飾の次第
一 玉礀歸帆の繪 一 細口の花入
一 新田肩衝
棚の部
一 茄子の茶入内赤の盆に在 一 臺天目
一 釜 ゑんをけの水さし
一 水こぼし かうじ 一 象牙の茶杓
自ら御かよひ物し給へば、何れも不言の唇のみにして感じあへりぬ、即ち御茶も手づから點じ給へれば、其さまをつくし辱なく存する体、異國人のやうになく、今世佳名の風見えて、誹る所もまれなりけり。
(眞書太閤記)
秀吉公肥前名護屋に御在陣の折柄、大明の正使副使をもてなさんとて、六月十日山里御數寄にて御茶あり、此御園ひは老松鬱えたるを便りと石田木工頭が作り奉りしなり、但し本丸より山里への裏の芦路は、寺西筑後守の致せし由なり。
御飾
一 玉礀歸帆の繪 一 細口の花入
一 新田肩衝
棚
一 茄子の茶入内赤の盆に載す 一 臺天目
一 釜 水コボシ 合子
一 抱桶の水指 一 象牙の茶杓
五しき鎖の間御飾
一 玉礀枯木の繪 一 蕪なしの花生
一 富士香爐 一 肩衝 投頭巾
御勝手の間御飾
一 攻紐の釜 一 芋頭の水指
一 尻膨の茶入 一 井戸茶碗
此間にては友阿彌の手前にて、諸大名に御茶を下されし、此御道具の書附も不案内の者書取候故、慥とは致さずとなり。
(茶事秘録)
慶長二年丁酉二月二十四日朝 太閤様御會 御城
御座敷五疊敷、床に晩鐘一軸(中略)向の柱に青磁の筒にうす色生被懸、四寸のゐろり眞ふちよし、棚には新田四方盆にすゑて云々。今朝御茶被下候者は、宗湛、宗仁、道哲、相伴となられ、御意にて青木法印以上四人。夜のほのぼのとあけ時分に參上候へば、御座敷椽の口の障子を一枚御明けなされて、御立ながらハイ入ヤと仰せられて、上のあげ窓御明
け候也(略)中略)うす茶友阿彌手前也、四疊半床に 定家色紙懸云々、御肩衝は新田形に委しくあり。
(宗湛日記)
大阪を秀頼公に御讓り、太閤には伏見へ城を築玉ふべしと相極り、醍醐の奥山科、比叡山、雲母坂より大石どもを引出し、石垣高く築上、矢倉多門を組建、諸木を植させ、程なく御城出來せり、其結構語るに中々言葉なし。さて此所に御移り在て、古市播磨守、珠宗、珠悟、紹鷗が風、千利休、北向道陳が茶湯など御吟味あり、山里には沈香の木を以四疊半の御數寄屋を建てられ、爐の縁は伽羅なり、炭火にあたりて異香四方に薫す、玉礀夜雨の御掛物、蕪なしの御花入、責紐の釜、清水の水さしなど据らせ給ひ、亦或は虚堂、退院の御掛物、細口の花入、小あられ釜、新田肩衝、縁桶の水さし、右さまざまの御餝にて、大小名へ御茶を被下ける。御座敷より見渡せば、宇治川の瀧が流れ、宇治の里人家軒をならべ、平等院、眞木の島、山吹の瀬、おちかたの邊、又辰巳の方より引連り、青山峨々として松柏枝をたれ、醍醐寺覺をならべ、遠寺晩鐘に心を澄せり、其嶺に續きて喜撰ヶ嶽并三室戸といふ高山峠が、古松枝を垂れ、吹風琴を吟じ、夜わたる猿の聲いと侘し、麓に順禮の札所觀音堂あり、西は八幡山、崎狐川淀、一口より、江口橋本、平潟邊に至るまで、長流悠々として、船の上下夕照一方ならぬ詠なり、北は洛中に續きて高家幾重ともなく引廻り、又大小の屋敷あり、町に添て川流れければ、船のゆき來よく、實に最上の御城なりと云々。
(増補朝鮮征伐記)
名器寄に、元和元年五月二十八日、藤重藤元、同藤嚴父子を二條御城に召され、名物燒殘りの物、燒跡にあるべし、罷越しよくよく穿鑿いたし可レ申旨仰付けるにより、夜舟にて下向し、晝夜の差別なく土灰の中を堀穿ちしに、果して名物の茶入五つ尋ね出したり、まづ假繼に繼ぎ、六月十二日京都へ持上り申候、御茶入新田肩衝、志貴肩衝、玉垣文琳、小肩衝、大尻張なり。御褒美として百二十人扶持被下。
(眞書太閤記)
元和元年乙卯五月七日、大坂落城而後同五月二十八日、二條從御城、藤重藤元藤嚴父子兩人被レ召出、本多上野殿(正本純)奉行にて、今度秀頼公秘藏の茶入名物は數多可レ有之也、若自然燒殘之道具一ッ成共於レ有之者、重寶之儀被レ思召候、大坂御城燒跡へ急藤嚴罷下、縦まくくだけたる道具たりと云共、隨分相尋拾集、もちちらし申まじきとの上意にて、急大坂へ罷越、名物之御茶入有所大形土藏の邊能々承合可レ仕御諚被レ仰付、同日夜舟にて大坂へ罷越、數日の間夜分の無差別土灰中を掘穿、如案名物の御茶入其外われもの急尋出し、先假繼に仕、六月十二日京都へ持登申、御茶入
一 新田肩衝 一 まき肩衝
一 玉かき文琳 一 小肩衝
一 大尻張
右五つの名物、二條御城へ致レ持參、本多上野守殿以指出申處、家康様被レ爲成御覽、殊の外被成御感、則御前之御座間近藤元藤嚴を召出、御目見へ仕候處、扱々奇代不思議名物共尋出し申儀、前代未聞之上意にて、御機嫌能御前罷立、則御褒美米百石二十人之御扶持方被下候旨、本多上野守殿奉行にて致拜領事誠家之眉目冥加至極成仕合難勝斗云々。
(岩崎家所藏付藻茄子附屬巻物)
寬永亥十二年八月十八日、二之丸於山里水戸様御茶御上ゲ。
御相伴 細川越中守殿 毛利甲斐守殿 立花飛騨守殿
數寄道具
新田肩衝
一 掛物 雨筆 定家 後成
一 花生 青磁
一 茶入 新田
一 茶碗 膳所燒
其外間飾色々
(本金宗儀本山本道句覺書)
傳 來
元珠光所持にして、三好宗三に傳はると云ふ。津田宗及茶湯日記天文九年四月十七日の條に、會主の名を掲げず、唯此茶入の實見記のみを載せられたれども、是れ或は宗三の茶事なるべしと思はる。夫より織田信長に傳はりしが、天正十年本能寺の變後、一旦明智勢の爲めに安土城より坂本城に移され、次で明智光春より他の名器と共に寄手に引渡されたる筈なれども、如何なる故か、此茶入は秀吉の手に入らずして、其後豊後の大友宗麟の所有と爲りしかば、天正十三年四月秀吉は宗麟に向つて之を所望し、安國寺惠瓊、宮木入道を豊後に遣はし、五月一日晩大阪に持歸りしにぞ、秀吉大に喜び、似たり茄子と合せて代百貫(或は百二十貫と云ふ)を宗麟に與へたりと云ふ。斯くて秀吉の什物となりて後、此茶入の使用せられたる記録頗る多し。先づ天正十三年十月七日、正親町天皇の御前に於て、利休此茶入と初花肩衝とを以て御茶を點じ、天正十五年一月三日大阪城の大茶湯、同年二月二十五日大阪山里の茶會、同十月一日北野の大茶會、同月十四日聚樂の茶會に於ても何れも之を使用せり。同年十一月二十日、利休百會に此茶入を出したるは、蓋し利体が秀吉に乞ひて之を借用したるものならん。左れば天正二十年十一月十七日、肥前名護屋在陣の際秀吉は此茶入を用いて諸侯を饗應し、文祿三年六月十日明使謝用梓徐一貫二人を接待するに當りても、亦此茶入を使用し、慶長二年二月二十四日大阪城の茶會、翌年伏見城落成の際の茶會にも亦皆な之を用ひたるを見れば、秀吉が如何に此茶入を愛重せしかを知るに足らん。元和元年五月大阪落城の後、藤重藤元、同藤嚴父子が徳川家康の命を奉じて城内燒跡より拾ひ上げたる名物茶入數點中に此茶入あり、藤重乃ち漆を以て之を繕ひ、六月十二日京都に於て家康の上覽に供へしに、其賞として百石二十人扶持を賜はりぬ。其後水戸頼房卿之を拜領し、寛永十二年八月十八日同家茶會に於て之を使用せし事あり、代々傳へて今日に及べり。
實見記
大正七年九月二日東京市本所區小梅町徳川圀順侯邸に於て實見す。
漢作にして初花、油屋、玉堂等と同時代なれども、甑少し長く肩先に丸味を持ちたる工合稍ゝ其趣を異にせり。甑際に沈筋一線を繞らし、口作兩そぎ蛤刃極めて精巧にして、總體淺黄鼠色釉光澤あり。此茶入は大阪落城の後藤重藤元父子が灰燼中より拾ひ上げ、胴體一面の大破損を共に漆にて修補せし者にして、置形の邊釉質溶化して景色薄々と殘れり、又或る部分は粉々に碎けたるを漆を以て接ぎ合せたるが爲め、他の同型茶入に比して目方五匁程輕やかなるは、原土と漆と比重の相違するが爲めなるべし。但し裾以下は鼠色土にて原形の儘殘存し、此種の茶入は大抵板起しなるに、此茶入は本糸切なり。而して内部は轆轤繞り、底中央に至りて渦状を成す。形状優秀、品格高雅にして、古來漢茶入中屈指の名物に數へられたるも決して偶然に非ざるなり。


