茨城県笠間市笠間の産。
その創業に諸説があります。
明治末年より百十年程以前に信楽焼の陶工が箱田(笠間市)に来て焼いたといい、あるいは同じく百年以前に相馬焼の脱走工が藩命によって同地近傍宍戸(笠間市)に窯を開いたともいい、または天保年間(1830-44)‘に山口勘兵衛(一説に山田甚兵衛)という者の創設ともいいます。
このように初めは箱田焼または宍戸焼といいましたが、明治初年美濃国(岐阜県)大垣の人田中友三郎が移住するに及んで大いにその拡張をはかり、笠間焼というようになりました。
その製品は粗陶器および炻器で、以前は土瓶・土鍋・片口などを出し、明治期に入ってから瓶類を製造しました。
品は益子焼と相似し販売の際に益子焼の名を用いたこともあったようであります。
1960年(昭和三五)頃から生活様式の変化に対処して、花器・食器・酒器などの工芸品に品種を転換。
1965年(同四〇)度の企業数は二〇、生産額8340万円。