中国北宋時代汁京(河南省開封)で宮廷が自ら窯を築いて焼造したものをいいます。
南宋時代すなわち浙江省杭州に遷都した時から顧みれば、北宋の都または官窯は旧京であり旧官窯であることからこの名称が起こりました。
旧官窯の本質については、明以後の諸書の説くところは極めて多岐曖昧で、特に『陶説』は南宋の官窯と混同して説明しているためいよいよ捕捉し難いものとなっています。
北宋の旧官窯については元・明以降これを説くものは少なくありませんが、最も確実な文献として挙げられるものは、おそらく南宋初期の著書である『清波雑志』であるでしょう。
そこには「汝窯は宮中の禁焼なり。
内に瑞瑠末を油となせるあり。
唯だ御に供するのミッ辣び退けられしもののみ、方めて出売するを許さる。
近ごろは尤も得難し」とあります。
この書は周輝の著で、北宋の滅亡後程ない南宋初期の書であるから信憑性があるでしょう。
この記事によると北宋の官窯は汝窯であったものと思われます。
おそらくは汝州(臨汝県)から土および陶工を汁京に送って焼かせたものであるでしょう。
なお大谷光瑞は南宋郊壇窯の破片から推測して汁京の官窯は薄胎厚釉の青器であるはずであるようで、また釉色は瑞珊に似ているはずですから、これは必ずや天青色でいわゆる宋均窯といわれるものであると論じました。
詳細はその著『支那古陶甕』参照。
なお汁京の旧官窯の時代については諸家ともおおむね徽宗の大観『政和年間(1107-17)ということで一致してい芯。
その根拠は『榛耕録』に引用する宋の葉真の『垣斎筆衡』に「政和間京師自置窯焼造名目官窯」とあることによります。
北宋の末期わずかに二十年ほどの間につくったものですので、数量も少なかったようであるようで、南宋の初めには稀少となったことが前記の『清波雑志』からもわかりますが、『武林旧事記』に載る南宋の高宗皇帝が張府に行幸した時の記事の申に献納した宝物の目録があるようで、その中に汝窯の器十数点が列挙されていることからも、当時すでにいかに珍品であったかが推定されます。
いずれにしろ旧官窯すなわち北宋官窯の実態はまだ明らかでありませんが、近時汝官窯と称されるようになった耀州青磁風の釉色で失透気味の薄胎厚釉の青磁が、最もこれに近いといえましょう。