古伊万里と古九谷 こいまりとこくたに

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鶴田 純久の章 お話

江戸初期の元和年代(1615-24)にわが国で最初の磁器が肥前(佐賀県)有田で創成され、赤絵付もまた正保・慶安(1644-52)頃に有田で成功していたことはほぽ間違いないようです。
同じ頃、加賀(石川県)・の大聖寺藩も陶磁器の焼成に興味をもち、明暦年代(1655-61)には江沼郡九谷村(山中町九谷町)で磁器や赤絵の焼成に成功したと伝えられています。
1970年(昭和四五)秋と1971年夏にはこの九谷窯が大々的に発掘調査され、江戸初期の形式をもった連房式登窯二基が確認されました。
物原の出土品も白磁の大皿や大鉢をはじめ、染付茶碗や青磁・さび釉などの陶磁器が比較的大量に出土しました。
この出土品の中には明暦弐歳(1656)の年号入り小皿もあるようで、1736年(享保二I)に書かれた『重修加越能大路水径』に記載されている「此の山中を九谷と云ふ、明暦年中実性公後藤氏に命じて土器を焼かしめし所なり、其他に焼物あるようで、南京焼に同じ、中頃制禁あるようで、今は絶へたり」の文献が正確であったことが実評されました。
いっぼうわが国には昔から古九谷と呼ばれている色絵群と、藍九谷および吸坂手古九谷と呼ばれているさび釉染付のI群が伝世していますが、近年における有田古窯址の調査により、藍九谷も吸坂手古九谷もその大部分は加賀製ではなくて、初期有田の作品であることが実証されました。
昭和十年代すでに、当時東京国立博物館の鑑査官であった北原大輔は、古九谷と呼ばれている色絵もまた肥前の作品であると喝破していますが、当時は未だ確認が上がっていなかったのでこの説は抹殺されていました。
ところが1962年(昭和三七)有田の山辺田窯から、色絵古九谷「鶴の大皿」の裏面と同じ染付唐草の文様をもった大皿色絵素地や、「布袋の大皿」などの裏面に描かれている鎗梅の枝を染付で描き、あとから赤色で花を描くところが残してあるもの、また染付の二重輪だけが描かれているものなど多数の大皿色絵素地が採集され、北原大輔の見解が正しいことが裏付けされるに至りました。
このたび発掘された九谷の出土品の中にこの種の染付を伴った大皿が一点もなかったことや、古九谷小皿や中皿の特徴ともなっている染付で角眉・太明などの文字銘を入れた小・中皿の破片が出土しなかったのみか、△△□丁×・:RRなどの意外な染付銘が入った小皿や茶碗が出土したこと、古九谷に多い大型袋物磁器の破片が二、三点しか発見されなかったことなどが、この窯の出土破片の火度が極めて低く、摂氏千二百度以上のものは焼かれていなかった(名古屋大学で測定)こととあいまって、加賀で焼かれた磁器と、現在古九谷と呼ばれている色絵群との関連性は、極めて薄いものと判定せざるを得ないこととなりました。
なお1972年(同四七)10月には有田の山辺田窯が本格的に発掘調査されることとなり、古九谷有田説のいっそう有力な証拠が発見されるものと期待されています。
(山下朔郎)

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