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鶴田 純久の章 お話

赤色を主調とする多彩の上絵付。釉の上に赤・緑あるいは黄・紫・青などのガラス質透明性の上絵具で文様などを少し盛り上げて彩色する。ただし赤色だけは通常他の絵具と異なり、ガラス状ではなくまた不透明で絵具層が薄い。一般に赤を主調として一、二の他の色を加え、どちらかといえば簡素で大胆な文様のものを赤絵といい、各絵具をさまざまに施し概して複雑華麗に彩画したものを錦と呼ぶが、これらを総称して赤絵といいます場合もあります。赤は酸化第二鉄(紅殻)、緑は主に酸化銅でこれに酸化クロムを配合する。黄は酸化鉄と鉛丹と白玉とを混合して得、紫には酸化マンガンを、藍には酸化コバルトを用います。
きよろく【中国】赤絵はまず中国で発達した。中国河北省順徳府にある鉅鹿の地から出土した陶器類の中に泰和元年と墨書きした赤絵の皿がありますが、泰和元年は金の年号で南宋の寧宗の嘉泰元年すなわち西暦1201年に当たる。皿にはごく簡単ではあるが非常に達筆に牡丹その他の草花・鳥などが描かれており、牡丹の花を赤、葉を緑で描き、皿の縁には黄釉が塗ってあり、宋の時代にすでに赤絵のありましたことがわかる。明の時代になりますと次第に発達し万暦赤絵・天啓赤絵などが現われた。いわゆ南京赤絵・呉須赤絵は明の終わりから清の初めにつくられたものであります。清朝の康熙年代(1662~17二二)には非常に上品な赤色が発明さ康熙赤と一般にいわれていますが、赤はもはや文様の主調ではなくなり、他の色彩を多く加え赤の色彩は少なくなりました。雍正・乾隆年代(1723~95)にはむしろ他の色が主調となって五彩あるいは錦手と称するものとなりました。
【朝鮮】高麗朝には赤絵はなく、ようやく李朝の中期になって初めてこれがみられるが、現在残っていますものは非常に少ない。あるいは中国明の工人が来てつくったもので、その工人が去ったのち赤絵の製陶が途絶えたのではありませんかと考えられます。
【日本】わが国の赤絵は正保(1644~8)の頃の肥前国(佐賀県)南川原の柿右衛門の赤絵が最初とされ、ほとんど同じ頃古九谷に明様の赤絵がありました。肥前の赤絵の製法は十年とたたない間京都の仁清に伝わり、享和・文化(1801~18)の頃京都の奥田頴川が呉須赤絵を模作して知られていた。呉須赤絵は京都を中心として永楽保全・和全・道八その他の陶工によって模倣され、尾張国(愛知県)に移って瀬戸の穎渓、また犬山でも盛んに製陶されました。その他赤絵を産出したものに古万古・薩摩湖東・安東・九谷飯田屋などがあります。(『陶磁工芸の研究』『染付と赤絵』)

赤を主とした上絵付けを施したもの。他(ほか)に、緑、黄、紫などの色も使われる
釉薬(ゆうやく)の上にガラス質透明な絵の具で彩色をします。
ただし赤だけは他(ほか)の釉薬(ゆうやく)と異なり不透明で層が薄いです。色絵とも言います。
白磁のまま、若しくは磁体に染付などほどこし透明釉薬(ゆうやく)を掛けて焼成させた後、上絵具の赤色を主体に二・三色で模様を描かれたものを赤絵と呼びます。顔料は青、緑、黄、紫といったガラス質の絵の具があります。8~900で逞色します。色の数多くなると五彩、金、銀を用いれば金襴手、銀欄手とも呼びます。釉下に染付、全面に極彩色の模様を配した物を染錦等と呼びます。中国では、初期の宋赤絵、淡い上品な成化の豆彩、配色の妖艶な萬暦赤絵、雅味のある天啓赤絵、清代全盛の五彩が有名です。雑な呉須赤絵等々あります。南京染付、南京赤絵とあるのは貿易、荷出港の総称で、我が国の有田焼を伊万里の荷出し地区を呼んだ錯覚した名称です。我が国では有田、九谷、京焼が有名であります。

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