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鶴田 純久の章 お話

備前焼の初期のものをいう。備前のやきものは上代より続いたもので、付近の熊山々腹などに多くの窯跡があるが、現在の岡山県備前市伊部町に移ったのは応永年間(1394~1428)のことといわれ、当時大窖窯を築き、これは明治初期まで残っていた。以前の製品は伊賀・信楽と同じく水甕・種壺・種浸壺・摺鉢などの類で、茶器・置物などをしたのは天正年代(1573~192)のことと伝えられる。天正以前のものを古備前といい、名工と称されるものに3日月六兵衛らがいる。しかし茶器の名工と伝えられるものの中には、京都を中心に伊部・信楽・瀬戸などに往来していた者がある。古備前は無釉の締焼で南蛮風と評されるもの、それに火棒・松葉焦げ・榎肌などの変化がみられる。後代に至って釉薬らしいものも現われ、かえって古趣味を失った感がある。※びぜんやき※いんべやき

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