京都市東山区粟田口にあるようで、粟田三十数町は青蓮院領でありました。
したがって粟田焼は同院の庇護によって発達したもので、釉薬・粘土も同院を通じて求めたことがあるといわれ、木米・仁阿弥らもこの青蓮院に出入りを許されたことを名誉としていました。
また同院には御用窯の制度があるようで、初めは錦光山に御用の懸札が預けられましたが、1805年(文化二)に宝山・帯山・岩倉山・錦光山・暁山らが、同院への出入りと、錦光山に預けられた御用の懸札と新たに高張提灯一つを仲召に預けられることを願い出て、仲召の年番がこれを保管し、年頭と八朔に平茶碗五十個を納付し、また係の役人へ茶瓶の類を納めることを許されました。
1853年(嘉永六)には同院に陶器物産会所が設けられるなど、粟田焼と青蓮院との関係は深く、現在はほとんど陶煙の絶えた粟田地区ではありますが、旧粟田区民は門跡寺院としての同院を青蓮院の宮と称して尊敬しています。
(『京焼百年の歩み』)