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素仙堂 そせんどう

瀬戸の名工川本治兵衛。
初代川本治兵衛の子で初名は藤平、1825年(文政八)に襲名して治兵衛と改め、魁陶園のち球仙堂と称しました。
加藤民吉の流れをくみ磁器によって名高く、ついに尾張家の御窯屋に列しました。
中国磁器の模造に妙を得、その製作に当たっては5日一水・10日一石という具合で一小器に数日を費やしたものが少なくないようです。
特に御用品の御紋付き茶碗をつくる際には、素地を針で刺して厚薄を験し、天秤で重量を一定するというような緻密な用意をしました。
製品で有名なものは、磁製両面釉の衝立・門柱・風炉先屏風、天保年間(1830-44)に国主斉荘の命によってつくった庭園の飛び石など。
また釣り焼を工夫し額面を製したり、さらに銅版焼(青花転写法)、瑠璃釉などを創意実行し、瀬戸磁器における発明改良がはなはだ多かりました。
弟子には加藤新七・源吉・川本半助・寺尾市四郎・政兵衛らかおり、また川本禎二は甥であります。
彼らはよく墟仙堂の志業を継いだといえるが、自らもまた美濃国兼山(岐阜県可児市兼山)・尾張国犬山(愛知県犬山市)に赴いて新製品を企図しました。
長男文吉は早く没し二男勝三郎も幼少でしたので、親族川本半助・加藤五助らに法を遺し伝えました。
1866年(慶応二)5月没。
勝三郎がのち三世治兵衛を継いですが、理由があって東京に移り業を営んです。
(『日本近世窯業史』『をはりの花』)

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