金継ぎを受け賜っています。お気軽にお問い合わせ下さい。

陶磁器

肥前陶磁史考

多久系 有田窯 六

岩太郎の石場普請 大正元年泉山磁の普請を始むることとなった。暴きに岩松平吾の督勵にて中央に水道を開鑿したるに拘はらず、再び採掘の困難を來たせしかば、石場事務長城島岩太郎は、管理者町長辻勝藏及助役久富三...
肥前陶磁史考

多久系 有田窯 五

山口代次郎卒去す 明治十九年(1886年)一月十六日岩谷川内の山口代次郎卒去した、行年四十七歳であつた。彼は先代伊右工門の長子にて、ワゲネルについて化學を實験し、陶業の改良に將貿易の伸張に薫すところ少...
肥前陶磁史考

多久系 有田窯 四

徳見知愛有田戸長となる 明治五年四月数町村を合併區割して、大區制となし、有田は中野原に大區扱所を設けられ、徳見知愛(小城藩士にて和歌を薄くした明治二十八年十月十二日卒す)が區長となった。後伊萬里の第五...
肥前陶磁史考

多久系 有田窯 参

北島源吾の朝鮮貿易の一手 文政三年九月十五日(1820年)成松代官は、朝鮮向陶器輸出の権利を、赤繪町の北島源吾が一手營業に許可したのである。赤繪町 北島源吾其方儀朝鮮向陶器注文引請燒立一手に被仰付候に...
肥前陶磁史考

多久系 有田窯 弐

石場採掘支配 泉山石場に於ける磁石採掘は、最初三兵衛の肝煎にて切開き、支配者たる彼のみ、無税切取を許されありしも、他は皆冥加金と稱して僅少宛の上納をすることゝなつた。而して三兵衛は専ら製陶に従事するた...
肥前陶磁史考

多久系 有田窯 壹

李参平の路案内 朝鮮の役鍋島の軍勢が、間道より進みて山路に差かりたるに、岐路ありて行手に迷べる折柄、遙かに一軒家を見つけ、其家にあり三人の韓人をして路案内すべく厳命した。其中の一人二十五六才の男にて、...
肥前陶磁史考

佐賀系 大川内窯

唐人町 戦役の際、我鍋島軍に従ひ来りし韓人の一團にして、佐嘉城下に来りし者百八十人と云ひ、或はたゞの三十人といはれ、其確數に於いては誰ならざるも、今の佐賀驛通りの土橋附近が、其住居の遺跡なりしが如く、...
肥前陶磁史考

伊萬里系 南川原窯

伊萬里灣 西松浦郡の伊萬里沿岸は、九州西北部の一端にて、古代大陸民族の渡せし、土地なることは、其地理的にも考察さるゝところである今遺跡として東山代村の日尾崎と、西山代村の波瀬の小島には、高句麗式の横穴...
肥前陶磁史考

諫早系 矢上窯

諫早町 長崎縣北高來郡諫早町は、平坦線なる長崎への上下通路と、佐世保線及島原線への各通路の要地として、人口二万二千餘を有してゐる。往時は伊佐早と書かれ、始め南高來なる有馬氏の領地であり、西郷氏の采邑な...
肥前陶磁史考

大村系 波佐見窯

朝鮮の役、島原の有馬晴信は二千人を率ゐ、大村の大村嘉前は一千人を率ゐて、松浦鎮信、五島盛季(五島福江城主)等と共に行長の第一軍に属し、奮闘苦戦を経て歸陣したのである。元來有馬氏と大村氏とは同族より分系...