伊萬里系 南川原窯

肥前陶滋史考
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鶴田 純久の章 お話

伊萬里灣
 西松浦郡の伊萬里沿岸は、九州西北部の一端にて、古代大陸民族の渡せし、土地なることは、其地理的にも考察さるゝところである今遺跡として東山代村の日尾崎と、西山代村の波瀬の小島には、高句麗式の横穴古墳があり、そして日尾崎よりは、石器時代の鏃や、石鉈刀の如き破片が發見されてゐる。

紀の飯麿
 此灣内の奥地なる伊萬里港は、そのかみ神功皇后出兵の折、此處に御船を寄せ給ひしとの口碑あるを考ふれば、往時は内深き良港なりしと覚しく、其後五百四十年を経て聖武天皇の天平十二年九月三日(740年)藤原廣嗣筑紫に叛するや、武内宿彌十一代の後裔古麿(正三位大納言)の長子紀の飯麿(従三位参議)は、大野東人と共に救命を蒙りて西國に下り、十一月五日廣嗣の誅伐を奏申するに至った。此時飯麿は遠祖彦太忍信命の武勇を敬慕し、此地岩栗に神壇を築きて祀りしより、飯麿の名に因みて爾來此處を伊萬里と解するに至りしといはれてゐる。
 永長元年(1097年)源太夫判官源久、今福に梶谷城を築きて根擄を定め、伊萬里を擁してこの地方に松浦黨の勢力を扶植するや、治承年間(1177-1181年)久の孫公文次郎眞高伊萬里を領し、其子津吉十郎重平之を継ぎしも、其後彼が再従兄弟なる峯源三郎上此地に封ぜられ幸平の城主(此處を今峯の坂と稱するは峯氏の居城下なりし故か)となった。

伊萬里源三郎
 上は後年此處の地名を執りて伊萬里を氏となし、伊萬里源三郎と稱した。然るに上男子なきを以て、従兄弟大河野彌二郎茂を婿養子となし一男を繋げた、之が伊萬里源六留である。

北岡築城
 寛元年間(1243-1247年)留は伊萬里の地頭職となり、斯くて北岡山に築城した(今の城山公園)。 其子源二郎勝入道如性は文永十一年(1274年)同族山代彌三郎階同又三郎父子、及び石志次郎兼(松浦直の舎弟増の裔也)等と共に、蒙古勢を壹岐に防戦し、十月九日の奮闘にて山代彌三郎、石志郎は戦死するに至つた。 伊萬里 山代氏系圖左の如くである。

伊萬里治開城
 天正五年(1577年)龍造寺隆信松浦を攻略するや、北岡城主伊萬里兵部少輔治は、防戰大いに努めしも、戦敗れて途に開城し、治は家來二百人を率ゐて、室の實家なる武雄の後藤氏に頼った。貴明は深く之を憐れみて自領の内大野、宮野、神六の土地三百石を給興したのである。そして後年治の一女に鍋島直茂の甥六左工門茂成を婿養子として、伊萬里治郎五郎純治稱せしが、後又鍋島姓に復し、次に茂成の婿養子が貴明の孫傳兵衛茂成であり、以後代々藤津郡吉田に於いて二千六百六十石を知行したのである。

山代貞捕る
 此時龍造寺の軍は、伊萬里を降して山代に打向ふや、飯盛山の城主山代彌七郎貞は、邀へ出て山の中腹なる、城峰の下方に防禦陣地を構へ、腹乾(福河内付近)斬寄及び禁都山の各所に於いて悪戦苦闘の末、敗れて捕虜となり、遂に隆信に降り、後鍋島氏に属して朝鮮役に従軍した。後年山代領は田尻氏に興へられ山代氏は杵島郡の橋下なる草原に移封されしが、又佐嘉に轉し鍋島姓に改めて喜左工門茂貞と改名したのである。

御船屋
 斯くて伊萬里地方は、鍋島直茂の支領となり、天正十四年(1586年)北岡城は破壊され、今門外や陣内などの地名に、城下の名残を止めてゐる。此は佐嘉藩領唯一の要港にて、宗藩及支藩の御船手が置かれ、近くの牧島には、宗藩の牧場があつた、加ふるに潜入深くして水淺からず、七ッ島を始め許多の島嶼散見せる風光は美しき一幅の畫圓である。而して此伊萬里と有田とは、磁器の市場生産地として、榊車の關係深きのみならず、又此港より韓人陶工の上陸せしことも研究すべき題材であらう。

國一丸
 朝鮮役の際鍋島直茂の軍は、兩度とも此伊萬里より解覺せるが。當時は今の伊萬里驛や女學校方面よりナンサ(渚の訛りらし)邊りまで潮内なりしが如く、又濱町が海岸なりしことは、其時直茂の乗船國一丸を繋留せしは、今の有田町(伊萬里町内の陶器街)稻荷社の樟樹なりしの碑に察せらる。其外濱町には船隠といふのがあり、ナンサには魚釣場の地名が残つてゐる。
 斯くて鍋島軍歸陣の際のみならず、戰役中往復の船に便乗して、此伊萬里港に上陸し、それより領内の各地に移住せし韓人の、少からざりしことを察するに難くない。中に幸善なる者の一家のみ、此伊萬里に居住せしより、其嘘が今の幸善町であるとの口碑あるも詳でない。

人柱
 茲に伊佐線今福驛(北松浦郡にて西松浦郡の堺)のトンネル邊に、人柱と稱する處ありて、此處より種々の陶器の殘缺を發掘せし由なるが、それは山代貞が戦役歸陣の折帯同せし韓人か
らしい。

或は佐嘉軍に従ひりし者が、此地に上陸して、開窯せにあらざるかとの説がある。而して其缺中には、卵色釉に口より胴の半まで白の刷毛目徳利にて、しかも糸切高臺の、一見武內窯の古窯品に髣髴たる作品があつた。

有田茂成の居城
 當時有田の邑主として、有田八工門尉成(須古安房守信周の四男にて龍造寺隆信の甥也)が山谷の唐船城に居住した。而して南側なる北平には二拾戶許りの小村落ありて此處に唐船城の武器製作に従ひし鍛冶職が住んでをり、北方二の瀬がこの城下の家中屋敷であつたらしい。
 城主茂成も、朝鮮役に従軍して各地に奮戦し歸陣の際多くの韓人を帯同せし稱せらるゝも、中には前記の如く屢伊萬里港より任意的に上陸せし者もありしなる可く、而して茂成の領内有田鄉なる廣瀬、黒牟田、小溝、南川原、原明等の各方面に開窯せしものが即ち伊萬里系とするものである。
 是等の韓人が唐船城下二の瀬に於いて開窯し、或は廣瀬山に入り、又曲川の小物成や天神の森等へ開窯し、一面小溝より原明や黒牟田方面へ展開せしが如きも、墓碑の年號より検討すれば、黒牟田の開山は、なほ朝鮮役以前であつたらしい。

中の小路
 又曲川驛の川向ひ向原なる中の小路は、小溝の韓人系が、此處に粘土を發見して開窯せし稱せられ、殘缺には例の飴釉や、灰色釉の無釉高台なる皿茶碗が焼かれてをり、中には簡素な鐡畫を文せしものもある。而して後年には磁器を焼いてゐる。

二の瀬
 邑主茂成は一韓人をして二の瀬に開窯せしめしなるも、今其物原さへ見出されざるは察するにそれが御庭焼程度の小規模なりして此處が全く農村化して開墾されしため湮滅せしものなるべく、而して此韓人の墓碑とせらるゝものが此處の農家岩永善六方の前庭に祀られてある。

高来神碑
 それは夏蜜柑の生り盛る下に、高さ二尺斗りの自然石で、一見舊碑らしく、別に其前面に屋根冦りにて、臺石から二尺五六寸の石碑が建てられ、之には高來と刻して施主岩永定右工門と記されてある。岩永家は今の善六より遡りて父定右工門、其父武平、其父定右エ門、其父善六と成つてゐる、そして碑の方は曾祖父定右工門の代に、碑が余りにみすぼらして建直せしものといはれてゐる。

甘酒と生團子
 此高来神の命日なる十一月十五日には、必ず甘酒と生團子とを供へる古例があり岩永家は、代々此祭を缺がせしことなく続けてゐる。而して此家には以前くろ物の皿や茶碗などありし由なるも、保存することに重きを措かず、使用破れせしまゝ打棄てたものらしい。又此岩永家は韓人の末裔なるか、或は元有田氏の家中にて、此韓人を世話せし縁故の者なるか詳でない。

廣瀬の小森谷
 最初二の瀬に来りし韓人の一行は、別れて廣瀬の山の口なる小森谷に開窯せしといはれてゐる。此處は今俗に要左エ門山といへる杉の木谷にて、今に多くの破片が轉がつてゐる。それは例の灰色釉や飴釉の中に、白化粧を施せる茶碗などで、何れも無釉高台にて、中には縮緬皺を現はしたのがある。又箆先にて高台内を新月形に抉りたる天目茶碗があり、或は唐焼の小花立にて糸切底がある。又小皿類は多く重ね目積なるも、後には小ハマを臺として焼かれてゐる。後代には此處にて磁器が製作され、薄鼠の地肌に呉洲猫の韲物碗や徳利形の油瓶などが残されてゐる。

香茸山
 廣瀬山の諸窯は此小森谷より分窯されしものらしく、其他權現山、香茸山、向窯の如きも、最初陶器を焼きしかも知れねど、今は磁器の破片のみが多く残されてゐる。香茸山には吳洲描の鯨さへぬけ出つべき粗き網畫の丸茶碗があり、概して高台無釉のものが多い。又白の茶碗に高台と緑腰丈け吳洲筋を撓らし、底は四つ目積に重ねて焼いてゐる。高台施釉の物には底廣筋内に下吳洲にて實草畫を描きし中皿、前記の筋茶碗があり、其外染附突底小皿や煎茶碗等がある。

廣瀬の向窯
 向窯の古窯品には、呉洲にて簡勁な實草畫を描きし丸茶碗や、下吳洲猫にて實蔓畫の台付佛飯器があり、又草繪の四つ目積の皿などは小氷裂を現はしてゐる。或は梅底にて内縁には粗地紋を描きし外青磁の丸茶碗や、同手の小丼など此處は多く砧青磁が焼かれてゐる。中にも初期の製品と覺しきものに、茶色や薄青地の底碗にて、磁半器が焼かれてゐる。

廣瀬の権現谷
 権現谷の古窯は、前三窯より数段進步せし本格的磁器のみを焼いてゐる。それには染附八方割水草繪にて、底には岩に片足立鳥を描きし八寸皿や内緑地紋に、外は雄健なる千羽鶴を描きし嗽ひ丼があり。或は垣目畫の大反碗や、又松竹梅畫、四つ手畫、蝶々畫、菊桐外道渲染書、實草畫、九紋詰畫等の反中食碗がある。
 此外突矢の模様の韲物碗があり、此處も亦多くの砧青磁が焼かれてゐる。それは底三方龜畫の八寸皿にて、底筋の外部は青磁が掛けられてあつた。其外梅底畫にて内縁地紋描なる突底の菓子碗や、同畫の丸奈良茶など何れも外青磁か掛られてある。

除け場の石
 廣瀬諸窯の是等の磁器は、勿論有田の製法に傚らひ、最初は地元の原料を以て半磁器を製せしも、成器全からざりしものゝ如く、漸く泉山の下等品を採ることを許されて、之に除け場の地石を加へ、藩制時代には染附の茶漬茶碗や嗽ひ丼、又型打の八角井(四寸五分)へ、簡素な蘭繪を描きし下手物を焼いたのである。

聖門口の釉石
 維新後は、泉山の採石も自由となりて、製品の面目を一新し、今聖門口の山石を採掘して、釉薬料に使用しつゝある。此地勝景龍門の溪湖より、落来る水利があり、且探薪に至便の地と稱せられてゐる。明治初年には窯焼の數十六戸あり重なる者に中島森右工門があり、後年には舘林興助、森孫一等の有力者があつた。現在數八十戶、窯焼には市川喜兵衛外四五戸がある。
 此廣瀬の韓人系が、應法や黒牟田に分窯せしいよ説をなす者がある。然し乍ら現代こそ開盤されし道路なるも往年の廣瀬より黒牟田や應法に往來せしは、猪や兎などの外なかりしと見るの外なく、況んや黒牟田の開窯は頗る舊代に属し、其分系が應法につて開窯せし者と考察すべく、既に此地は磁器製作期の開窯にて、陶器を焼きし形跡は全くない。

應法山
 應法の古窯趾には柿の谷、松山、窯の谷等があり、又應法山とは始め王寶山と書かれてあつた。(二三の陶書には鷹房山と誤記されたのがある)前記の二の瀬や、廣瀬山は大山村に関するも、此應法よりは有田村である。最初此地ば瘤山の地石を原料として、薄鼠色の軟質磁器を焼いてゐた。

柿の谷
 就中柿の谷が一番古く、殘缺には下呉洲にて縁と底部に筋を引き、草の如き文様に、大筆にて点花をうちし小皿があり。或は二重捻ち描き模様や、水草繪、蔓草書等の中皿がある、何れも幼稚を極めし畫描振であり、そして高台低小にて、釉面には小氷裂を生ぜしもの多く又外部丈砧青磁を掛けし茶碗があり、或は内底に一筆菊を描き外のみ天目釉を施せし高台無釉の茶碗がある。

松山
 松山の古窯品は、専ら油瓶のみ焼かれしものゝ如く、それは丸胴形か主なる形にて、白地物多きは共上に赤繪を施せしものであらう。尤も中には例の呉洲猫ギリ詰模様のものや、或は下吳洲にて草繪など描きし油瓶もある。

應法窯の谷
 應法窯の谷の古窯品には、粗蔓に点花をせし中皿や、底筋内草花畫の深皿があり或は眞底に日の字を書きし本皿などありて、何れも高台が小さく出来てゐる。又ギリ詰や二方草畫又は薄瑠璃の小瓶があり、其他雷紋に蝙蝠畫の反形洗面鉢や、八橋畫の茶碗などあるが、是等は既に練熟期時代の染附磁器である。

御神酒瓶
 此の應法山は藩制時代には、神酒瓶及び小瓶専門の下手物製造地とて、有田泉山の最下等石の分配山なりしも、維新後は此差別配給が撤廢されて、他山に遜色なき製品を産するに至つた。明治初年には窯焼十余戸ありしが、現在數五十戸の内窯焼は徳永幸一、武富謙之助、原田重吉、原田千三其他二三戸である。

黒牟田山
 黒牟田山の古窯には、平松、裏山、宮の元、山端の一、山端の二、多々良の元右、多々良の元左、多々良の元山上、局古窯、せめき、黒牟田新窯等がある。此内局古窯とめき及新窯はすでに練熟期に入りし磁器窯である。

西山家の韓人墓
 平松には、以前多くの韓人墓ありし由なるも、残存するもの今は六七基に過ぎぬ、それには加工碑もあり、又は自然石の墓碑もある。就中一番古き年號を刻まれしは、隣村曲川村藏宿の酒造家なりし、西山家祖先の韓人墓にて一基には敷山道夢信士として、文祿二癸巳六月二日(1594年)と記され、なほ並べる一基には、清玉好泉信女として、寛文六丙午八月十日(1666年)とあるは、前者より七十四年後に死去せるものにて、想ふに之は夫婦ではなく、親子か季妹であらう。
 なほ此墓石に、西山氏先祖と記されしは、後年に至つて彫加へしものと見らるゝも、兎も角此墓碑は往時より、西山酒屋の墓碑として知られ、毎年盛んに先祖祭が執行され、又系譜などありし由なるも、先年同家火災の際焼失せしといはれてゐる。そして此西山酒屋より出て、名古屋の養家に入りしものが、松村八次郎である。

西山姓考
 此黑牟田山より藏宿方面に涉り、今に西山姓を冒す者頗る多きは、有田の金ヶ江姓の如く同行の韓人が齢化せる際、皆西山姓を用ひたるにはあらざるか、精しくは考ふ可きてあらう。
 又此墓碑の戒名なる教山とは、最初此地方に陶技を教えて、開山し故かとも思はしめるが、要するに此墓碑に就いて考究すべき焦点は、文祿二年(1594年)の死去である。

韓人最初の来朝期
 鍋島直茂が初度の朝鮮役は文祿元年(1593年)三月の出兵にて、同三年明使つて和議を講せるより、我軍一旦釜山へ退陣し、文祿五年(1596年)の十一月則ち慶長元年(1596年)の正月に歸陣してゐる。故に交戦の初期に於いて、船便に依って早く來朝せし者としても、直ちに死去したのでは開山の意味が消滅する。此遊の消息より推考すれば、此韓人は文祿以前乃ち天正年間に於いて、既に此地に来つて開窯せしもの如く、其後戦役時代に來りし韓人が、又之に倣うて何れも西山姓を用ひしにあらすやと推測されぬこともない。

頓六さん
 黒牟田の一小丘には、頓六さんと稱して高麗神を祀ってあるが、此韓人は此の製陶者中第一の貢献者なりしと見へ、麓の小字まで頓六といふ地名を以て呼ばれてゐる。而して慶長年間(1596-1615年)巨闘と共に、平戸へ上陸せし韓人陶工にも頓六といへる者あるが、或は同名異人にはあらざるか単に此同名のみを以て此地方を平戸系と見るは早計であらう。 又此處の頓六とは亂れ橋に開窯せし清六の如く、彼等が我邦にての帰化名なりといふ説あるも、従来多くの韓人歸化名には、何右工門何兵衛、何太郎、何藏など用ひられ、頓六などの変痴奇な名前は滅多にない。それは矢張韓音の儘を漢字にて譯せしと見る外はない。

金山の大人
 此の小丘の頂きに登れば、屋根形の冠にて三尺位の石塔が祀られてある。之が即ち頓六さんにて、新らしき方は後年建直ほされしもの如く、なほ舊塔時代の石燈籠か片方残つてゐる。そして塔の表面に金山チヤンクンタイハンと刻んである。聞けば金山は韓土の地名にて、チャンクンタイハンとは大人を祀るといふ韓語の由である。兎も角此塔は當時韓人達が建立せしものらしく、金山の大人頓六が、此地韓人中の棟梁なりしに相違あるまい。

平松と裏山
 平松の古窯品には、例の飴釉や鶯色釉の目積皿や、鈍重な茶碗類にて高台際まで廣く無釉である。裏山の殘缺に至つては、平松と相似たる陶器の外、既に此處よりは染附磁器が焼かれてゐる。それは突底三寸の火入や、下吳洲の描茶碗などてあり、最多きは種々の青磁物である。
 此黒牟田山も有田の製法に傚らひ始め軟質の下等磁器を試みしものにて、今此處の東府屋谷及一地谷の原料地を見れば、如何に多量に採掘されしかを、想像するに余りある。

宮の元
 宮の元の古窯趾は、未だ畑堺に窯壁の残部が残つてゐる。殘缺には灰色釉や飴釉の茶碗及び突底の三つ目積皿などが、何れも高台無釉にて焼かれてゐる。又青茶釉厚緑の小皿や七官手靑地の無釉高台皿があり、或は金茶むら掛に牡丹浮出しの破片や、桃色釉の茶碗などがある。磁器には天龍寺青磁突立の火入や、褐色釉に金茶の光斑点を現はせる破片があり、又染附物には蟹繪の茶碗、菊畫の小皿等がある。其他鐵猫とも見ゆる下呉洲にて、粗き網畫を描きし茶碗なども焼かれてゐる。

山端
 山端の窯趾は、其邊一面の物原にて、或は三ヶ所の登にてはなかりしやと思ふ程である。殘缺には灰色や鶯色釉の小皿を、三つ目や四つ目にて重ね積せしものや茶碗があり、何れも無釉高台にて、中には縮緬皺を現はしたのがある。其外糸切高臺の小形茶碗があり、或は灰色釉にて六七すの丼や、又七八寸の大皿を焼いてゐるが、何れも底目にて重ね積なることは申すまでもない。
 此處にも軟質の磁器が多く焼かれてゐる。それは内底に呉洲にて草繪を描きし外錆の丸茶碗や又太白にて無釉高臺の同物があり。或は底筋の内に鳥や草花を描ける小菊形の小皿などあるが、無釉高臺の頗る小さき細工である。

多々良の元
 多々良の元右の窯趾は局古窯の隣にて、殘缺には飴釉及灰色釉に、天目流しの茶碗があり、何れも糸切底である、又灰色釉に金茶を流せし碗もある。此の隣りの小丘が左窯趾に殘缺は概して右窯と同一で、中に變りしものには褐色釉に、白の波刷毛目を施せし茶碗がある。而して此兩とも、又軟質磁器を焼いてゐるが、それは天龍寺青磁の茶碗が、主なるものである。

多々良の神祠
 次に多々良の元山上の窯といへるは、新窯の上なる山深きところにて、此處は染附磁器のみ焼いてゐる。此邊より遠く小溝の古窯方面まで、すべて多々良の元といへる地名でありそして、前記多々良の元左右窯の上を、小笹藪押分けてうち登れば、屋根冠りの古き石祠があり、之が多々良の神といふのである。

多々良考
 椎の峰には、上多々良、中多々良、下多々良に窯趾があり、多々良の神として高麗神を祀つてゐる。武内窯の内田にも多々良の辻、(一名大谷)といへるに大窯があり、又同村の陶器山に多々良の地名がある。又朝日村の繁昌の二窯や、三河内の長葉山を多々良窯と記されたのがある。要するに多々良とは陶器に關係ある名詞と思はるも、其語原は判明せぬ。或は又本窯を焚く松材のことを多々良木さいふことも考査すべき必要があらう。
 太宰管内志に、筑前粕屋郡多々羅郷八十町「香椎と箱崎間の海濱である」(香椎神領記)
六月十日あまりのほどに香椎の浦にまかりて云踊るには船を遙かなる干潟の崎へまはしてたゝらの濱にかちにて行て
いにしへはこゝに鑄物師の跡とめて今もふみ見るたゝらかたかな(細川藤孝道の記)
欽明天皇の御代に百濟國余章王第三の皇子琳聖太子日本に来朝し筑前多々良濱に住給ふ因て多々良の姓を賜はりぬ七世孫正恒と云ひし人始めて多々良姓を改めて大内と號し周防のに居たりとあるは遠へるに似たり周防の國多々良の事周防の内に委しく云ふべし云々(九州軍記)とあり。
 而して山口系譜に依れば、推古天皇の十九年三月二日百濟國より人質として來朝せし、聖明皇帝第三の皇子琳聖太子は、周防國大内に住居し、二代余福昌に至りて我邦に歸化し奥州の國司となる。三代余敬福同地に於いて始めて我邦の砂金を發掘し、之が南部大佛に使用されて、叡感に入りて多々羅の姓を賜ふ。四代か著名の畫家百済河成にて、二十八代目が大内義興とある。蓋し多々良の意味に就ては明かならざるも、砂金を見出せしよりとあるは、要するに治金の爲蹈鞴を用ひしよりにあらざるか。又車のくさびに用ふる金属性の物を、たゝら(館)さいふ名稱あれど嘗てはまらず、前記の和歌なども矢張鞴に因みて詠めるが如くである。

蹈鞴
 按ずるに有田の金山より波佐見方面へは古來金礦を探掘せし遺跡少からず、殊に慶安(1648-1652年)承應(1652-1655年)頃の磯山事業に依り、他郡より此地方へ移住せし者頗る多き由傳へられてゐる。此探金用の坩堝に使用せし鼓風器にて、足にて踏める一種の大吹革を蹈鞴といへるより基因せるか不明である。
 又諫早土師野尾にて、畑中より無数の鐡糞が露出するのは、此地も磯山ありし由にて、今の小學校の脇なる橋を、多々良橋と稱するのは則ち小字であるらしい。或は粘土板を夕ゝラと云ひ、又御庭焼などの陶窯に更に高火度を要する時は、鑪を使用せしにより、炎燒の神に祈願をこむる意を以て、多々良の神を祭るに至りしか、精しくは、識者の数を乞ふ外はない。

黒牟田の製品
 藩制時代の黒牟田磁器は、外尾山と同じく型打角鉢及小判形皿であり、又模様の如きも九枚繪とのみ制限されるしも、事實は有田皿山にも稀に見る優秀なる作品を出せし時代があつた。又前記の小判形や、六角形、八角形、四角形及長角形隅切等の角鉢或は額鉢には、吳洲染附にて山水や、花鳥、又は素描繪を書き、其透間には青磁を流したのがある。それは黒牟田青磁と稱せられ、當時此地の特色ある製種の一といはれてゐた。或は他山の追従を許さゞるものに鯛形鉢の製作物ありしが、就中大鉢の製作は断然黒牟田山獨特の技術と稱せられた。

黒牟田の大鉢
 此大鉢は最初梶原忠藏が、二尺五寸徑を創製せしに起り、次には三尺口に増大され、途には四尺口まで製作し得るに至つた。又鯛形鉢には二尺五六寸があり、小判形(楕圓形)鉢には二尺七八寸のがある。有田鉢は地型を用ひず全く轆轤造りのみなるを以て、手際頗る宜しきも二尺以上の大鉢は不可能であつた。故に其以上の大鉢は、皆此黒牟田に注文して製作し、それに赤を施し、自家の商標を記入して出したものである。

梶原忠藏
 當山の窯焼頭なる梶原忠臓は、宗藩の許可を得て、豊後國杵築(速見郡)の藩主松平家(三萬二千石)の、藩用品を製作せし優秀の陶家であつた。今其子孫に、當時の御用表札が三枚保存されてゐるが、長さ二尺二寸巾が五寸あり、表面には献上壺松平云々と大書され、裏面の下部に、賄奉行の名前を書並べてある。
杵築藩の御用札 上 御用札の表面 下 同札裏面の下部
獻上壺松平河内守用物 賄奉行
渡邊 八郎次
荷宮吉左工門
大山 四五六
獻上壺松平市正用物 賄奉行
渡邊 八郎次
大山 四五六
伊東 三郎助
富來 勝太郎
阿部 五六七
獻上壺松平志摩守用物 賄奉行
元田 甚右工門
木元 尉右工門
三隅 四郎助

 按するに此獻上壺といへるは、杵築藩主より幕府へ進献の御用物らしく、或は特産の豊後梅の實を漬けし容器のまゝ、進献せし梅漬壺にてはあらざるか、武鑑には同家よりの時献上品に、十月砂糖漬梅といふのがある。そして其他諸侯へも贈進せしものであらう。又松平市正とあるは藩主親純ならんと思はるゝ。

黒牟田の窯焼
 明治初年頃には、黒牟田の窯焼十二三戸があり、梶原八百吉、梶原判平等其重なるものであつた。又此地は有田外山の中心地として、磁業組合の出張所があり、古来より名陶家が少なくなかった。現代の窯焼は梶原謙一、梶原貞一、福島性平外四五戸にて、総戸數百戸斗りである。

丸尾の窯
 丸尾の古窯趾は今段々畠に成ってゐる須の谷である。此處の窯頭と見る可き笹藪の中に、小さきサネ石にて、窯の神が建てられてある。此處の古窯品には、有田泉山石を原料として製作せし、染附の小皿があり、又丸紋繪の丸碗などあるが、既に本格的の染附磁器である。

丸尾青磁
 就中主なる製品は、彼の天龍寺靑磁物にて、前述の如く三の股の工人に依り、開窯せし稱せらるゝも、發祥、廢窯ともに詳でない。殘缺には縁淵の八寸丼や、七寸の縁皿などがあり又浮出彫の破片がある。中には小氷裂出に、土垢が喰ひ込んで、七官手の如く成てゐるのも少なくない。而して此丸尾窯は、幾許もなく廢絶せしものと覺しく、そして此青磁釉法が、前記の黒牟田へ傳播せしていはれてゐる。而して今此處には一戸の陶家がある。

外尾山の廟祖谷
 外尾山の古窯趾には、新窯と古窯なる廟祖谷とがあり、新窯趾は、今青木別邸への登り路成つてゐるところの、所謂外尾登である。此處は明治年間まで催合積せしものにて、更に贅するまでもない。廟祖谷も、既に後期の染附磁器のみにて、中には七寸丼の底に、木兎を畫きし物や、白鷺畫の六寸皿、又は見込に、狩野風の山水畫を描きし七寸の淺井等がある。

外尾青磁
 此處には又、丸尾式の天龍寺青磁の丼が頗る多い、中に染附にて、紗綾形模様の墨彈き、接ぎ分けし青磁の優秀なる破片があつた。 此通りは今墓地に成ってゐるが、杉樹の下に高さ四尺余り、巾九寸余りの四角な半自然石が建てられてある。既に石面剥落して、刻字など読むべきものなきも、或は此石が韓人の祀りし廟祖かも知れない。
 藩制時代の外尾山の製品は、角鉢や小判形皿の外、土佐向の縁鉢等であつた。それは尺二寸、尺三寸、尺五寸位までのものにて、中には上吳洲を顔料として、素描模様(千條)が巧妙に描かれたのがある。此等の製品種類より考察して、此處は元黒牟田の分窯らしく思はれる。舊窯焼には、大串覺左エ門、藤本覺助、青木嘉平次、青木太吉等十戸斗りがあつた。

青木工場
 現在は青木甚一郎(兄弟商會)藤本助外二三戸にて戸数六十四五戸である。就中青木工場は、新式機械其の他一切の設備を完整し、此界隈の模範工場といはれてゐる。此外近年開窯せし窯焼には外尾田原に一戸、外尾村の平に三戸、桑古場に一万がある。

以上にて有田村の陶地を終りたるが、之より曲川村に轉じ、小溝方面より南川原に移りて記述すべく、まづ道順として丸尾へ引退へし、此處より二三町西へ下れば小溝原である。

ビク屋敷 小溝の丘の上に二反許りの山畑があり、其處が昔韓人陶家の住ひし、ビク屋敷さいはれてゐる。(原明窯の谷にもビク屋敷があり甞て作品の相似たるところ、或は此の分系であらう)又此丘の麓には五六疊程の古堂ありて、此ビクさんを祀ってある。堂奥の御本体らしきものを檢すれば、上部の細くなりし立体石にて、それに胸掛が幾重にも襲ねられてある外に、何等徴すべきものがない。
 信斯く堂宇まで建設して、祀られ此韓人は、抑も如何なる素性の者なるか不明なるも、此處の製陶者として頗る勢力あり、且特に功勞大いなりし者に相違ない。而して韓人陶家にて比丘(僧侶)といふは當らず、又備君の上に李姓を置て李備君も可笑しなものであり、此調査には如何なる端緒を見出すべきかは大いなる困難であつた。

弓へん
 然るに或る時大阪毎日の西部版紙上に往年の南川原に於ける製陶記事があり、其中に韓人弓氏來り云々、とあるを見るに及んで、始めてヒントを得たのである。それは此地方の古陶の銘に弓へんを用ひしものが少なくない。之より此窯銘の弓へんにつき考査せしところ、多くは乾隆陶の乾の字を篆化せしものにて、未だ問題の眞核に觸れ得なかった。

引くの訛り
 其後考へ出せしは、ビクとは引くの音の訛りにて、この引の字を誰かゞ分解し、其立て棒を勝手に取除けて、之を弓氏としたのではあるまいかと考察した。尤も韓字の中に引の字はなきも、之に似寄りの文字を捜索するうちに、伊といふ字を見出して之なる哉と雀躍した、然し著者は、韓字を読むこと不可能ゆえ、鹿島の友人を訪れて数を受けたのである。

クークヰー
 それに依ると、韓字は組織文字にの字を分解すれば、フはカキクケコの子音であり、一はアイウエオの母音のウであり、そしてーは同母音のイと発音されてある。斯くて此五を組立てしは、韓語の音にてクークヰー音讀するといふのであつた。而して此著書の始めにある日本陶史年譜の「雄略天皇の朝百済のよすゑつくりべ かうていー部の高貴なる者を連來り云々」の記事照して次の如き結論を得た。

高貴氏
 即ち此高貴なる姓が、古代より韓國陶家中の一家系にて、其後裔なる高貴氏が、偶々此地へ來つて開窯せる際に、己が姓とての字を書き示せるを、我邦人が讀み違へて引の字となし、ヒクさんさんと呼びなせるを、さては日本にも同字ありてヒクと讀むものと合点し、彼がおうおう返事せしより通り名となり、歿後數百年のうちにピクさんと訛り、そして途には比丘屋敷などゝ稱するに至りしものであらう。

小溝左窯
 ビク堂の裏なる堤に沿うて谷間に入り、ビク屋敷より勾配下りの山畑が、左窯の跡である。殘缺には飴釉隅切の角皿へ、四方隅へ二筋の立棒を鐵描せし目積物や、灰色釉の小丼、飴釉の茶碗、鶯釉むら掛の壺など、何れも高臺無釉である。又此處の磁器製作に用ひしは、泉山の原料らしく、染附物の破片が夥しく轉がつてゐる。中に蟹の如き岩の上に、芭蕉人家など頗る幼拙な模様が多い。或は薄青磁に呉洲畫を描きし緑反の小皿などありて、底は三つ目積に焼いてゐる。

小溝右窯
 堤の右手の丘なる、稲荷祠の下が右窯にて、此處は左窯と掛持にて焼きしかも知れぬ。製品も殆んど大同小異である。中に天目釉に金茶ちらしの茶碗や、白化粧を掛けし深皿があり飴釉濤縁の小皿などは、原明窯の谷と同じ作風である。磁器も概して左窯と相似たるものにて、皿類には蛇の目積の、四五枚もくつついたのが澤山ある。

南川原方面の古窯
 次は川向ひなる南川原方面にて、其古窯趾には清六窯一、清六窯二、清六窯三、小物成、天神の森上窯、天神の森下窯、窯の辻、柿右工門古窯、柿右工門上の窯、樋口の窯、天目山源左工門林、太右エ門窯 無患子谷等がある。
 亂れ橋の清六一の窯は、多久系の李参平が開窯間もなく立去りし跡を、韓人清六なる者二の窯にて擂鉢や他の雑器を焼き。後に三の窯は、陶器より磁器に移りしものであらう。

南川原の地名考
 抑南川原とは、朝鮮全羅北道南原郡の韓人が、最初に移住せしより名つけられし稱するも、舊き書類には皆南河原とあるを見れば、元ナンカゲンとする處なるべしとの説があり。又南古良或は南高麗なるべしなど區々の説がある。而して此處は一時蓮池藩主鍋島直澄の領地なりしが、慶安四年十月(1651年)直澄は藩に乞うて此處を藤津郡の上久間山と交換せしものである。蓋し上久間は自領の接續地たる地域弥南川原より廣かりしを以てゞある。

小物成窯
 小物成の窯趾は、南川原口左手畑なる棕梠樹の邊にて、山の神を祀れる中を漁ればる古き破片がある。それは例の飴釉や、灰色釉突底の目積小皿や、茶碗などが多く、中に栗色釉の上に、白刷毛目を施せし茶碗や、薄青地の突底皿など、何れも高台無釉である。又反形の煎茶々碗に、白釉を施せしものは後代の作品らしく、既に磁器に達してゐるが、後には磁器を焼きしものらしい。

天神の森上
 天神の森上窯には、例の飴釉や灰色釉、又は鶯色釉等の緑付目積皿が多く、そして同手の茶碗や丸皿も少なくない。此外天目釉や白化粧掛けし四つ目積の茶碗、ドロケ色緑筋彫の茶碗 褐色むら掛の七寸皿等、無釉高台が多い、或は赤胎土に灰色釉を施し、其上に濃飴釉にて芭蕉を刷き、其葉の上を鐡釉にて線描せし大皿があり。又鼈甲釉むら掛の夏茶碗の如きは、既に半磁器に焼かれてゐる。
 天神の森窯は、此地方にて一番最初に、磁器を焼きしの口碑がある。果して然らば何れの原料を使用せしか不明なるも、抜群のテクニックを揮せし韓人の手に成りしことは明かである。其殘缺には、染附梅繪の八寸皿、外シノギ形菊緑の丼菊繪の望料碗があり、又角幅銘ある薄青磁の丼など、其他種々の雑器を焼いてゐるが、全体は本格的なるも、細工の割合に繪模様が頗る麁拙である。

天神の森下
 天神の森下窯も亦同人の開窯らしく、此處も陶器製作から磁器に變つてゐる。陶器の古窯品には、高台無釉の鶯色釉の茶碗や、黒天目の大茶碗など、全く石器質に焼かれてゐる。此外異色あるものに、鐵色釉突底の四寸皿や、又栗色釉に三島手を施し、底に白鷺を象嵌せし五寸丼がある。
 磁器の殘缺には、染附山水畫の五寸丸皿、緑地文松竹梅畫突底の大茶碗、鎬菊形線反の瑠璃釉韲物碗 薄青磁鎬形入にて、四方福壽畫縁付の茶碗又は青磁の繰鉢などの破片があるが、模様は上窯同様麁拙なものが多い、中に好んで菊形菊畫を應用せるは、上下窯ともに共通である。

南川原窯の辻
 窯の辻といへるは、小物成越の丘の上にて、此處には徑三尺位の鏡形石に、天照皇大神を祀ってある。 右側が窯跡にて、此處の製品は、全く後期時代の完成磁器である。殘缺には染附ギリ素描詰尺五寸の鉢、荊緑雲龍底畫の春酣皿、緑地文山水畫の角鉢や、或はクローム青磁らしい大鉢の破片などがある。

柿右衛門上の窯に
 次に年木山といへる山麓に、古窯趾が二ヶ所あり、下のは柿右工門の古窯趾なるも、上のは有田岩谷川内より移轉せし、鍋島藩用の御細工屋窯ならんと推考する。此窯にて染附や或は太白地を製作し、そして白地には柿右工門に赤附をなさしめしものであらう。

柿右衛門古窯
 柿右工門邸の背戶を登れば、即ち其古窯趾がある。殘缺には茶色地に、薄茶釉を施せる小判なぶり形の碗や、飴釉四角なぶり形の碗、或は黒天目深形の茶碗があり。何れも高台無釉にて、中には蜷尻に縮緬皺の生じたのがある。又飴釉の中皿など、五つ目積に焼かれてある。
 或は飴釉のなぶり縁なる小形片口の両面に、鐵描にて井筏を文したのがあり、そして高台が新月形にそがれ、なほ台内に縮緬皺が出来てゐる。又どろけ色や飴釉にて、口附の珈琲碗の如き手附物があり、それの兩面に簡單なギリ模様が鐵描されてゐる。其他灰色釉の煎茶々碗など、何れも高台無釉である。
 以上の陶器は初代柿右工門が、未だ喜三右工門時代の製作物と察せらるゝも、蓋し此中には高原五郎七の作品も、離れるものと見ねばならぬ。其他後期時代の練熟磁器にて、乳白釉則ち濁し手の皿、丼、手附物など数種の破片があり。又染附には繰淵雷紋繋ぎにて、見込に紅葉を描繞らせし六寸皿や、同淵牡丹に雲散文繪の七寸皿、或は縁紅を施せし砧青磁の美しき破片がある。

上南川原の古窯
 以上が下南川原の古窯趾である。上南川原の古窯趾は、幕の頭に樋口の窯と天目山があり、堤の向ひに源左工門林があり、川向ひの麓に太右工門窯があり、其山上に無患子谷がある。

樋口の窯
 樋口の窯は、全く本格的の染附磁器のみなるが、頗る優秀な作品が揃つてゐる。中にも太白の鯉と、隈取りダミの岩を浮出し、外部一面を小波描詰にせし、尺八寸の鉢や、又丸紋繪の玉縁尺三寸の鉢がある。
 或は素畫山水畫の額鉢、瓢箪畫底描尺五寸の縁鉢、青磁交りの染附角鉢、捻形唐草底牡丹畫八寸の丼や、其他五六寸の丼、又は七八寸皿など多種の優品がある。此中に交りて現はれしものに、底に寶蓑を書きて、蛇の目積にせし丸小皿がある。 之は初期の作品ならんも、全体の作振り及び釉相に至るまで立派なものである。

天目山
 幕の頭奥の窯なる殘缺には、天目の肩附花瓶や、内鶯色釉にて外天目高台無釉の茶碗など、多く焼かれたものがある。此の古窯品には、天目釉の製品多きより、發掘者の誰かが天目山と命名せしが如く、此土地にては誰も知らぬ地名である。後年此處にも染附磁器が焼かれ、その殘缺がある。中に九割の内に、下吳洲にて点花枝を畫き、外に粗雑なる網畫を交せる破片があり。又緣山水畫を描き続らし、外は二重ギリ描廻はし模様などの破片がある。

源左衛門林
 此處を下りて堤の向ひに廻り、小さき登跡ある小丘が、源左工門林である。此處の殘缺も全く天目釉のみにて、濃きは黒天目色を呈し、斑なるは鼈甲色を現はしてゐる。中にはむら掛に金茶の飛紋ある油滴天目があり、之等の各種が所謂玳皮釉、烏釉、龜釉などと稱するものであらう。そして多くの種類は茶碗にて、何れも無釉高台内に縮緬皺が現はれてゐる。此外に黒き坏土にて滑肌に磨きあげし無釉徳利などがある。

太右衛門窯
 川向ひなる太右工門窯の跡は、今全く取拂はれて、一面の畠に拓かれてある。此處

の製品は後期に属する練熟磁器にて、尺八寸より二尺の大鉢、又は尺三尺五の縁鉢或は角鉢等があり、素畫や誼染物の、優秀なる染附物が焼かれてゐる。

無患子谷
 此處の雑木林を分けて山上に登れば無患子谷の窯趾である。殘缺には染附緣唐草底に梅丸畫の六寸皿があるが、高台甚廣く裏底より針積せしものにて、細工も縮柄も後期磁器の上部に関するものである。其他縁唐草模様の小皿や、縁観世水流しを墨弾きせし破片など、皆勝作品にて、然も釉色が青味を帯びて床しき色相を呈してゐる。

濁し手製造
 此外に往年柿右工門邸の前面に、南京焼と稱して美事なる濁し手を焼き居りし由なるも、今其邊は人家や畑地となりて、遺跡は全く湮滅に歸してゐる。察するに當時柿右工門の貿易盛んなりし頃、別に此處に築窯して製造せしと見られぬこともない。そして近年此濁し手焼の發掘に依って、猿川窯や水尾窯及筒江窯などに、優秀なる製作品ありしこさが知らるゝに至つた。
 而して彼等は何故に、此方面に驥足を伸ばさざりしかの疑問がある。窃かに推測するに、當時の民度未だ高からず、故に陶家に要する其製作上の勞費に酬ゆる一般用の代償が、甚だ足らざりしものと見るの外なく、換言すれば需要が供給を支配せし結果であらう。

酒井田圓西
 愛に杵島郡白石鄉なる、龍王村(元帥武藤信義の生地)の飯盛山に、酒井田圓西といへる者あり、此頃下松浦郡有田鄉なる南川原山に、韓人多く入込みて、面白き燒物を造る由聞傳へ、元和二年(1616年にて李参平が泉山石場發見の歳)彼は一家を率ゐて、此南川原に移住したのである。
 元來此南川原地方は、往時より土器や瓦など製する者ありしが、邑主は又こゝに渡來せる幾多の韓人をして、諸所に開窯せしめしものゝ如く、其中黒牟田と小溝及小物成等が最古の韓人窯さいはれてゐる。而して圓西が此地に移りしは、一子喜三右エ門をして、十分に陶業を習得せしめんこの考に外ならなかつた。斯くて喜三右工門は熱心斯業を研鑽すること約十年、頗る工夫と経験を積むに至りしも、尚研究すべき幾多の問題が残されてあつた。

高原五七を聘す
 茲に又筑前博多上辻堂町なる、萬松山承天寺(仁治三年聖一国師の開基なる臨済寺)の僧登叔は、先きに圓西が白石にありし頃より、文墨の交ありし間さて、その南川原移住の目的が何であるかを知り、彼は豫て懇意なる陶師高原五郎七を紹介したのである。

以幸便一啓上仕候打絕御無音罷過候處今程愈々御堅榮の由彌重相成奉存候偖先年入湯在候八月七日砌り御蔭緩々見物仕り御世話に相成御全家へも御社中へも可然樣御厚禮乍憚御鶴聲可被下候然れば高原五郎七と申者前懇意に有之候處別紙の成行にて昨年書狀差邃被申候當春より拙寺被參居近頃は肥後表被參只今にては無寄方滯人と相成一体奇用なる男にて樂焼偖又南京白手の陶物等細工被致候處見事なる事にて候故幸ひ貴家(四字不明)御子息陶物方被成候得ば此仁へ御相談被成候義可然と相考申候故肥後より被歸候上相進遣はし可申別紙の儀は昨年拙寺へ被指候大阪一亂文章の寫珍らしき事共にて後世の見物も可相成と存候故書役へ爲寫差上申候又前方よりも申遣候通り御滯留の御積りにて御遊來御出被成候へば久方振風事相樂み可申候故何卒寒冷不相成内御出浮の程偏に待入申候旁々御掛合迄如斯御座候 早々頓首
承天寺愚老
酒井田圓西雅兄
北頃五郎七は唐津領椎の峯にありしが、寛永二年(1625年)一度熊本に旅行し、翌三年(1626年)南川原なる酒井田邸に来たのである。
 圓西父子は大いに喜び、五郎七を師として優遇せしは勿論であつた。是より五郎七は種々の卓越せる技を示せしは申すまでもない。然るに此時李参平が、有田山にての磁器製作繁昌し、他山の韓人は羨望の的として此研究に耽りし折、此の天神の森の韓人又之に倣うて磁器製作に成功せしかば、酒井田父子が要望もこゝにありしことは察するに難くない。
 五郎七は未だ若年の折、秀吉より楽樂邸の陶師に召され程の者、爾来多年の経験を積み來し老功者は申しながら、之まで全く陶器の製作にのみ没頭せし彼が、今卒然白磁の製作を望まれて頗る當惑せしに相違ない。

承天寺の手紙
 彼の承天寺の登叔が五郎七を推選せしてふ手紙の文句中に
一体奇用なる男にて樂焼偖又南京寫白手の陶物等細工被致候處見事なる事にて候故幸ひ貴家口□□□(四字不明)御子息陶物方被成候得ば此仁へ御相談被成候義可然相考候云々
とあり而して五郎七が、南京白磁を焼きし徴證は何處にてもなく、又共製作に資す可き原料は、當時有田の外何れにも発見されてゐない。(向後履歷を作成する者あらんも)故に此手紙の消息は甚だ怪しきものとなるも、察するに斯道に素人なる登叔が、五郎七の技量を信するの余り、斯く思い違ひせしものと見るの外ない。

五良七の白磁成功
 然し天性非凡の五郎七は、目前に製作せる、天神の森の技法につき、何かの構想なくして止む可きや、彼は養なひ来れる多年の蘊蓄を傾けて、喜三右工門を指導する傍ら研

究に全力を盡し、あまたゝび失敗を重ねしも、途に白磁の製作に成功したのである。(其頃三河内の三之亟夫婦が來りし時である)
 此製磁成功に就いては、五郎七が韓人より習得せしといふ説あるも、當時韓人同士でさへ各特技を秘め合ひし時代に於いて、何とて之を洩らす可きや、又一面陶師として乗り込みし五郎七ほどの者が、彼等に教を乞ふ可く沽券を下げしても思はれず、無論多くのヒントは得たるべきも、まさしく、五郎七の研鑽に成りしものと見るべきであらう。

南川原磁器の原料
 此原料を何處より採取せしか酒井田家の記録に因れば、岩谷川内辻の土(今の久富春亭の所有)、岩谷川内谷の土(山ロ代次郎所有にて前のと同質)、舞々谷の土(中保屋谷にて瀬戸口源吉所有)、神六の土(杵島郡西川登村にて後庭木、小田志、弓野等に用ひしもの)、今山の土(佐賀郡川上村横馬場にて後今山焼の原料)等が記されてあり、而して後の二ヶ所の外は有田山中にて、皆泉山石場の系統である。

岩谷川内の石
 此中最初何れの土と土さを調節せしかは不明なるも、既に有田にて泉山の原料を以て、製作されつゝある磁器を模せんとの企圖なれば、先づ何人も泉山系統の石が、此近在に産出するなきや物色するのが、當然であらねばならぬ。此岩谷川内の原料なども、當時より其表皮の一部が外面に露出しゐたりしものであらう。要するに南川原の初期の製磁も、亦泉山と同系と見るべく、蓋し最初此等の原料を試したるは、五郎七なりや又は天神の森の韓人なりしや詳でない。
 此時喜三右工門齡三十一才、大いに彼がテクニックの稀才を伸ばすの時であつた。是より五郎七と共に、益々磁器の意匠を工夫し、或は支那式の青花を書き、又は青磁や白磁に彫刻を施す等、全く舶来の支那磁器を日本化すべく研究した。然るに五郎七は此處に居ること四ヶ年にして、瓢然法つて藤津郡の内野山に往つたのである。

喜三右衛門の乳白磁
 之より喜三右工門は、従来の白磁製作に新工夫を加へて一種の濁し手焼(乳白手ともいふ)を創作した。元來古伊萬里と稱せらるゝ有田磁器の特色は、施釉甚だ厚くして、色相稍青味を含めるも、濁し手(此地方にて洗米の研き汁を濁しさいふ)は之に反し、釉薄くして乳白色を呈せる釉相にて、製法は最上の磁石を選みて一度掛の施釉にて純白に焼き上げしものである。
そして此原料には、前記岩谷川内の石を用ひしさいはれてゐる。而して此石は製作狀態が、天草石に似たる所ありて、頗る純白なるも、選せれば黒味を帯びるあるを以て、普通原料には不適とされてゐるのである。

泉山の原石使用許可
 其後此一帯の各山は、有田泉山の原料を取ることを赦されてより、南川原各窯も染附磁器を製するに至り、喜三右工門の技も長足の進歩を成すに至った。然るに當時長崎を経て、支那より盛んに輸入さる萬曆赤の上繪附法は、如何にしても會得することが出来なかったのである。

支那赤繪の起原
 抑陶器の上繪附法は、古く唐宋時代より創始されしも、當時彩色の種類としては、赤と黒となりしが如く、元代の景徳鎮に於いて、始めて戧金五彩花の文字があり。而してそれが完成せられしは明代にて、永樂の五彩、宣徳の青花させられた。我邦に於いては、聖武天皇の天平六年奈良の宮廷に於いて、唐三彩の繪附をなせしも、法秘して傳はらなかったのである。

東島徳右衛門
 共頃伊萬里の有力なる陶商東島徳右衛門が、白銀十枚の傅授料にて、長崎居留の明人間辰官より、赤繪附の法を習得せしことを聽きし喜三右エ門は、切に之が傳授を懇望せしかば徳右工門もさらば協同して完成すべしと承諾した。之より喜三右工門は、實地試験に取掛かりしに、其中の重要なる赤の発色が、なかなかの困難であつた。蓋し此傳授とても、いづれ四五章の調合書を抽象的に記されしことゝ想像するに難くない。

赤繪附の完成
 其後喜三右工門は寝食を忘れて研究に没頭し、苦心惨憺の結果、途に見事なる赤色の彩釉を完成して、我邦に於ける最初の赤繪法を創始しことは、固定教科書(尋常五年生用讀本の巻十)にまで掲載されしエピソードとて、今こゝにするまでもない。これ寛永二十年(1643年)喜三右工門四十八才の時にての出来事であつた。

最初の五彩調合
 而して喜三右工門が、當時如何なる材料に依って、赤釉を作りしかは確かならねど、矢張緑礬(硫酸鐵)を輕ろく焼き(焼き過ぐれば黒味を帯ぶ)之を湯晒らしせしものであらう。次に青は銅を焼き、黒は酸化満俺や呉洲を多量に調合(少量なれば紫となる)せしものか、黄は前記の赤釉を淡く調合せしものと察せらる。(後年は酸化錫、酸化鉛、硫化アンチモニー等を用ふ)

舶来の薄墨
 後代に於いて一遍黒(黒漆釉)茶萌黄(青即ち萌黄と黄と調合せる緑色釉)群青(空色釉)其他數十種の彩色が造り出されしが、薄墨の上種は本窯用と共に、八代深川榮左工門佛國より詰め歸り、當時此良彩を用ひしは、香蘭社の外、泉山の深海墨之助(宗傳嫡家)岩谷川内の角純一(廣島高等師範學校教授角介の父)等が、何れも茶器に使用せしものであつた。

彩金焼付法
 喜三右工門は、赤の納付に成功せしも、未だ残されたものに、金銀彩焼附法があつた。彼は自ら長崎に出で、直接問辰官を訪れて、件の伝授を得べく目論見しも、辰は容易く之をゆ可き様子がない。適々彼が圍碁を好めるを幸ひ、喜三右工門は数日對手となり、漸く馴れ親しむに及んで、遂に共秘法を習得したのである。

呉洲権兵衛
 斯くて喜三右工門は、歸山の上之を実験しさころ、数回繰返へせしも好結果を得なかつた。愛に高原五郎七の門弟宇田權兵術といふものがあつた。彼は嘗て呉洲縮の良否を鑑定することに長せしかば、人皆彼を呼んで吳洲權兵衛と渾名した。彼は之より喜三右工門に協力して実験を綴る中、斯法の要点を案出し、途に之を完成せしめたのである。

金彩調合
 斯法は純金の粉末に、附着剤として唐の土(炭酸鉛)又は水銀蒼鉛(ビスミット)等を混入し、尚經濟的に銀粉を調合するのである。或は甘汞(カロメル)又は硫化水銀(マーカリツクサルフハイド)等種々の水銀を混入して、光澤を發揮することあるも、早く到落する缺点がある。
美麗なるは水金に舶来の金粉を練合せしものなるが、古伊萬里縮附の彩金としては、銀粉化合が矢張落着きのある光彩である。

金箔使用
 又長崎貿易時代の有田の細附には、間々金箔を用ひしと見へ、田代屋本家の古文書中には左の如きものがある。蓋し近代のメタリコンなごより勝ること萬々であらう。

金箔六匁代拾七圓九拾錢
右遣ひ様は晒しニカワ見合せ少し入れ皿にてか硝子にてか指にて解き丼の様なる物へ水を入れニカワで解きし箔を其れに入れて箔は下に沈むゆへ水を残らず棄てニカワの氣少し残りし様に致し置き夫を直に陶器に用ふべし云々

柿右衛門と改名
 正保元年(1645年)喜三右工門は、柿の蓋物を製作し、先に完成せる赤を以て彩色を施し、之を藩主鍋島勝茂に進献せしところ、精巧雅致兵に名作なりと賞せられ、大いに面目を施したのである。之より喜三右工門は、自ら柿右工門と改名し、代々之を襲名すること成ったのである。

柿右衛門附の畫風
 柿右工門は又、濁し手白磁に調和すべき一種の畫附風を創始した、而して彼が狙ったのは支那明末の馮港ならんといふ説がある。それは當時の萬曆赤繪や、呉洲赤繪とも異なて、地釉に光澤なく而も不透明にて、それに線猫の細かな彩が、淡雅に施されゐる物である。
 柿右工門の上繪なるものは、其濁し手の白地に狩野風とも土佐繪ともつかず、又古代模様でもなく、櫻眞垣などへ鳳凰や唐草文様があしらはれて、彼の古伊萬里の如く、器物の全部を模様にて描き埋むる如き様式はない。然も細き線にて、一種の畫風を工夫せしものにて、其繊細なる構圖と周到なる意匠は、柿右工門式といふ一種のコンポジションを形成し、之が當時世界的に讃美されたのである。

加賀藩主の賞讃
 此赤繪成功の第一期製品を、加賀藩の御用聞塙市郎兵衛が購うて、藩主前田肥前守利常に献上し、大いに其賞を博したのである。此時の赤繪讃美が、後年後藤才次郎をして、磁器製作と共に、此彩法探究の爲め、肥前に潜入せしめし因を孕みしとの説をなす者さへある。

柿右衛門焼の輸出
 正保三年六月(1647年)長崎興善町の明人八官に依って、始て海外に輸出されし此の柿右工製品が、有田焼貿易の嚆矢であるといはれてゐる。蓋し八官は慶長十九年(1614年)より、交趾貿易の朱印を受けおりし者である。而して寛永十八年(1641年)には長崎出島に於いて、既に和蘭人が貿易を開始しつゝありしを見れば、柿右エ門の製品も、正保以前より歐州諸国へ輸出され居しと見るべきであらう。

藤本長右衛門
 柿右工門の製品は、寛文初年(1661年)より有田中野原の陶商藤本長右工門の手に依って賣出された。(其以前は多く東島德右工門)而して此赤附の秘法は、まづ近き足元に洩れ、有田工人の知るところとなりて、頻りに研究され、寛文初年には赤繪町か出来たといはれてゐる。尤も有田にては、天草なる上田家の傳授に因りて工夫せし者あるも、それは何代のことに属する。而して之に要する顔料材料の如きは、當時長崎居留の支那人に交渉して仕入れしものといはれてゐる。

唐石と唐土
 顔料熔和劑なる白玉は、支那より渡せるより、一に唐石と稱し。又鉛丹を精製せし炭酸鉛も、唐の土(當時の白粉)と稱せられた。唐石は明和頃に至り筑後國若津の倉橋某が、長崎の支那人より製法を習得し、同國堺目に産出する硝子粉を以て製造し、之を有田地方に販賣することゝ成った。之は珪石、硝石、鉛より成る軟質の硝子粉である。

日の岡
 此唐石七十%と、唐土三十%を調合して赤彩料のフラックスに使用する。又或種の彩料には、なほ之に日の岡を五%位加入することあるが、それは焼成の節に彩釉の氷裂止の爲である。此日の岡石は、京都東山邊より産出する純粋の珪酸であつた。此時代の各材料は殊に優品にて、就中唐石の如きは、極度の良質なりしを以て、従つて立派なる赤釉が製出されしといはれてゐる。

有田の赤繪屋
 之より有田には金繢業者(上繪附業則ち赤繪屋又錦附業ともいふ)輩出して、銘々其彩料の製法と調合に研究を重ねる外、一面には又古伊萬里附なる物が發展し、後には家元を凌駕すべき赤釉業者が續出するに至つたのである。蓋し材料は他に需めしとしても、赤釉窯の構造や其焼成法に就いては、勿論柿右工門の技法に則したることは申すまでもない。

支那に於ける柿右衛門焼
 柿右工門の陶技は、彌々圓熟の境に達したのである。之まで韓人の手に依って、消極的製作に従事せし陶業が、今や一博して、當時不可能とされし白磁に成功し、其上に抜群なる赤繪まで施されし柿右工門の作品は、世界焼物の代表國とされて、青花も赤繪も、其爛熟期といはれし萬曆後の支那に於いてさへ、相當の地位を占むるに至り、否佛蘭西にては、支那明代の赤繪以上となし、當時柿右工門製品を以て、世界第一と稱したのであつた。

歐洲の窯業と柿右衛門
 勿論其頃に於ける歐州の文化は、今日の科學より見て、未だ混沌たる時代であり、又東洋と西洋とは、元水窯業の進路を異にし、彼等は専ら玻璃器や七賓の如き、低火窯業に針路を執りしが如く、唯伊太利のフロレンス邊にて、火度の弱き陶器を焼成しつゝあるに止まりて、何れの地に於いても、未だ磁器などは全く造り得なかった時代であつた。
 斯かる當時に於いて、純白なる素地に、淡雅な彩畫を施したる柿右工門の製品が、如何に歐州人に賞翫されしかは想像に余りある。斯くて彼等嗜好の焦点は、一に柿右工門焼に集まり、競うて之を購入することとなつた。蓋し柿右工門とて當時の工場組織に於いて、多額の需要に應し得しさは思はれぬ。其に至っては、利に敏き支那人である、彼等は自國に於いて、柿右工門の擬造物を製作して、歐洲に輸出せるもの少からざりしは、察するに難くない。

歐洲の柿右衛門模作
 和蘭のデルフトにては、途に柿右工門式専門の模寫製造を試みるに至り、澳太利のマイセン又之に傚らひ、其他英國のウースター或はボー(共に製陶地)の如きも、皆柿右工門を手本とした。次いで佛、獨、伊の各園も之に追従すべく腐心したのである。蓋しそれは、何れも皆陶器に之を模倣せしに過ぎず、後年獨逸に於いて、始めて磁器製作に成功せしより、各國亦之に傚ふことゝなった。而して其初期の製品は、皆柿右工門をイミテートせしは勿論であつた。
 斯くの如く歐州に於いてさへ、一の驚異として迎へられ程なれば、我邦に於いても、有田の製磯法と共に此赤繪手の秘法に就いて、全國の陶業者が注目の的とせしは當然であつた。去れば此秘法を探る可變装して、此地方へ潜入するもの少からず、鍋島宗藩に於いても、之が取締の法を下して、深く警戒せしめたのである。

碗久物語
 明暦年間(1655-1658年)京都三條河原町に、屋號を壺屋と呼べる、茶碗屋久兵衛といふのがあつた。彼は島原の遊女松山が色香に迷ひ、途に家産を蕩盡して、見る影もなき迄に落魄したのである。松山太夫は此窮状を憫みて如何にもして久兵衛が生活を救はんものと案じ煩へる折柄、幸ひにも父の青山幸兵衛が、肥前有田の郷里より上京したのである。
に於之
 幸兵衛は、豫て有田赤繪附の秘傳を知り居るより、松山は只管父に縋りて、此秘法を久兵衛に授けしめ、久兵衛又之を陶工清兵衛に傅へしより、茲に赤繪附が京都に弘まるに至った。然るところ此傳授の事露はれ、幸兵衛は秘法漏洩の詮議を恐れて自殺せしかば、之を聴きし久兵衛は忽ち精神錯亂して狂人となり、松山太夫世を果敢なみて病歿せしといふ。是が即ち碗久物語の筋書である。
 此ロマンスが、果して何れのまで事實なるかは分明ならざるも、當時は今の硝子でさへ、ギヤマンの珍器として尊重され、和蘭渡りの皿一枚を紛失せし責任を負ひ、潔く切腹せるものさへあつた時代である。まして鍋島藩の厳重なる取締を犯して、其秘法を漏せし結果の出来事としては、頗る首肯すべきことと見るべきであらう。

仁清の赤繪
 陶工清兵衛とは、純日本式の意匠を獨創せし名工野々村仁清(播磨大椽)にて、彼は始め茶碗屋清兵衛と稱し、碗久は親しき間柄なりしが如く、而して幸兵衛の赤繪附法がどの程度まで傳へられしかは揣願し難きも、未だ陶器時代の京焼に、絢爛目を奪ふが如きまで、巧みに應用し得しは、流石稀世の名匠仁清にして、始めて良くし得し技術であらう。當時有田の工人は京都に赤繪の秘法が洩れ、然も陶器に巧みなる構圖を見て、何れも異様の眼を見張りしに相違ない。

柿右衛門卒去す
 初代柿右工門は、寛文六年六月十九日(1666年)名工としての終りを告げた。彼は慶長元年九月二十五日(1596年)の生れにて行年七十一才であつた。墓碑は下南川原の上外づれの道端なる酒井田家墓地にある。二代柿右工門は初代よりも五年前の寛文元年(1661年)に四十二才を以て卒し、嗣子なき故舎弟が三代柿右工門を襲名相続し、寛文十二年(1672年)五十一才にて卒してゐる。
 此二代及三代は共に父初代に劣らざる名工なりしが如く、製品に於いても相當進步せし時代なりといはれてゐる。三代柿右工門も、宗藩主鍋島丹後守光茂へ御目見え仰せ付られしことは、貞享二年十一月(1685年)宗藩へ差出したる、左の酒井田家記録中の口上覺書によりて知らる。

三代柿より本藩へ差出文書
前略伊萬里津に罷在候東島德右工門と申す者長崎にて「シンカン」と申す唐人(此唐人は支那人の意)より赤繪傅習仕り右禮銀白銀十枚差出し一々に習ひ取り罷歸り(此間不明)親柿右工門年木山(南川原にて前記の古窯)にて釜を焼居候處に德右工門と申す者長崎にて唐人よ赤繪附篤くと習取候條赤繪を付け(此間不明)然らば御互に渡世可仕の通り申候につき一々焼立見申候得共終に出来不申大分損失相立候事
一其後絶に取捨不申工夫仕に燒覺へ正保三年カリアン船参り候年長崎持こしコーゼン町(興善町)八くわんと申す唐人(支那人)同宿仕り加賀筑前守樣(前田利常)御用聞塙市郎兵衛と申す人に賣り其後段々おらんだへも賣渡申候事
一赤繪物に金銀焼付に付ても親柿右工門工夫仕付燒覺へ丹州樣(鍋島光茂)初め御入部御滯留の節納富九郎兵衛殿御取にて錦付富士山の鉢猪口杯相添へ御献上御目見得仕誠以難有仕合云々
 前記の正保三年(1645年)カリアン船参り候年云々とあるは、正保四年六月二十四日葡萄牙の使節船二艘、長崎へ入港の時であらう。ガリアンとは船の型式にて、ガリアンアルマタといへば、英語のガレオン艦隊といふ意味なる由である。
 酒井田略系 酒井田家の略系左の如くである。

酒井田圓西 —慶安四年六月二十四日卒 七十八才
柿右工門 初代始喜三右工門 寛文六年六月十九日 卒七十一才
柿右工門 二代寛文元年七月二十七日卒 四十二才,
柿右工門 三代寛文十二年十月十四日卒五十一才
柿右工門 四代延寶七年八月十五日卒 三十九才
柿右工門 五代元禄四年七月三日卒 三十二才
澁右エ門 享保年間卒
柿右工門 六代享保二十年五月三日卒 四十六才
柿右工門 七代明和元年二月二十六日卒 五十四才
柿右工門 八代天明元年三月十日卒 四十八才
實右工門 九代ヨリ十代ヲ補佐ス
柿右工門 九代天保七年正月二日卒 六十一才
柿右工門 十代萬延元年三月十日卒 五十六才
柿右工門 十一代始澁之助 大正六年二月八日卒 七十八才
柿右工門 十三代始政次明治十一年九月九日生
澁雄 明治三十九年九月二十日生

優秀陶家へ藩用を命ず
 鍋島宗藩の御細工屋が有田の岩谷川内にありし時も、なほ傍らに南川原の窯焼中抜群の者へは、折々製品を用命せしものにて、當時優れ陶家は南川原に多かりしが如くそれは柿右工門を始め、徳永常光、中野徳兵衛な其重なる者であつた。而して寛文の末御細工屋此地南川原へ移り來りし當時より、殊に柿右工門への用命多く成りしが如く、とりわけ赤糸附丈は柿右工門の専屬なりしに相違ない。

酒井田の藩用差止
 延三年南川原の御細工屋が、大川内山へ移轉されしと同時に、自然藩より柿右工門への注文が、疎隔さるに至ったのである。之には特に重要なる理由ありしものゝ如くそれは如何なる名家とても、代々名工のみ繼續し得べき道理がなく、柿右工門も四代五代に至つでは技術頗る劣りしかば、藩は大河内にて赤繪附まで創めし物の如く、そして柿右工門へ對し、到底父祖の名を維持し得る資格を認めずとて、貞享二年十一月八日(1685年)附を以て五代柿右工門二十六才の時遂に宗藩の御用を差止めらるに至った。


其方事從以前(不明)御用の御焼物被仰付候處一人に被入數年(不明)相調被差上候殊に赤繪錦手其方焼初め候義其紛無之に付永々其職被差免候條難有可被存候此段中野將監殿より被仰如此候
以上
貞享二年十一月八日 大石軍平判
 又酒井田家記録にある左の歎願書は、當時の柿右エ門より、鍋島宗藩へ差出せしものであらう。

其一節に
一柿右工門南川原へ罷在御用物の儀は不申及方々大名方御誂物相調居候然るに赤繪物の儀釜燒其他のもの共世上クワット(一時に壙がりし意味か)仕候得共共手前にて出来立申迄獅子物(玉取獅子の底繪?)の儀某手本にて仕候事
一親柿右工門家(隠居)仕り某に家を渡し候時節世上燒物大分大のナグレ(零落即ち不景氣なるべし)にて大分の難澁を仕込候上手のもの(不明)すでに混成しばらく家職を相止罷在候然る處に今程燒物直段よく罷成此時親柿右工門江戸上方は不申及大明迄も相知れ申したる珍敷今此時燒立可申と奉存候今新敷申上くるに不及候得共赤繪の義も先年の様に被仰付可被下候此節御上の以御影願の通り被仰付候様に筋々に宜敷仰上可被下様偏に奉願候

酒井田の藩用復活
 従來他の窯焼よりも、多くの御用製品を受けおりし柿右工門は、此の御用御差し止めに思うて、經濟上の脅威に堪へきれず、享保八年(1723年)切なる願書を呈出しで、再び御用命を乞ふこと頻りなるより、宗藩に無之於いてもの關係上全く見捨て難く、依って藩窯にて製作する規定数の外、臨時注文の一部を割いて柿右エ門へ用命すること成ったのである。

名工澁右衛門
 是より先き五代柿右工門は、元祿四年(1691年)三十二才にて卒し歿後四年目に六代柿右工門五才にして相續するや、叔父澁右工門後見となりしが、彼は宗家の家名断絶せんことを恐れ、刻苦勉勵六代を守り立て、絶大の努力をしたのである。此澁右工門は反鉢細工の妙手のみならず、意匠圖案亦抜群の名工と稱せられ、元祿時代(1688-1704年)の優秀品は、此澁右工門の作といはれてゐる。

八代柿の御目見え
 安永三年九月三日(1774年)八代柿右工門は、藩主鍋島肥前守治茂へ御目見えを許された。蓋し當時に於いては、身分なき一陶家として、非常なる光榮なりしことは申すまでもない。

初代柿右衛門へ追賞
 明治十八年六月東京上野に於いて繭絲、織物、陶磁器共進のあるや、時の農商務大臣西郷従道は、初代柿右工門の功績を追賞して、金參拾圓を下附したのである。明治の末年には西松浦郡出身の在京有志、川原茂輔(代議士)松尾廣吉(貴族院議員)松尾寬三(前代議士業銀行理事)藤山雷太(東京商業會議所會頭)森永太一郎(森永製菓株式會社長)等は十一代柿右工門を引立て後援したのである。

和蘭東印度商會のマーク
 初代柿右工門が、和蘭聯合東印度商會(1803年乃ち享和三年「1803年」に解散してゐる)の(Vereengde 「聯合」Oost「東」Indisene「印度」Compagnie 「會社」)
の頭文字を取り、VOICの四文字を模様化してマークとせしもの、及「今里於應求柿右工門」と暑銘せる製品は今歐州に於いて珍重されてゐるといはれてゐる。
 而して今長崎高商の武藤長藏教授が所持せる尺二寸の縁鉢は、支那の古染附風にて、縁は六方割の模様であり、底には柘榴と尾長鳥を書き、中央なる二寸五分程の丸の中に、別圖の如く羅馬字を模様化したのがあるが、Ⅰの一字が足りない。蓋し夫は東印度と略すれば、此方が本當らしく、又四文字としては、模様化するに頗る困難なところもある。
 柿右工門が、宗藩よりの御用命品や其他の特製品と稱すべきものは、多く無銘にて、そして角幅の銘を記入せし分は、普通製品といはれてゐる。
支支那風を模倣せしものには、他の有田焼と同様に、「大明成化年製」や、「奇玉寶鼎之珍」 など記銘せしものに、頗る優秀な作品があり、しかもそれが何代の製作なるかは判明せぬ。

福字銘
 近年まで柿右工門が専用とせし角福銘(別紙参照)は、元來支那古陶磁の銘款にて、祥瑞と同じく、福壽は吉祥文字として多く用ひられてゐる。明陶には表面に福字を書いたのがあり、呉須福学皿と稱せるは、見込の中に福字が大書されてある、又赤釉物には、霊獣が福字を背負うたのがあり、裏銘に至っては、別紙の如く我邦にも廣用ひられてゐる。殊に黒牟田の福島助五郎の如きは専ら角福銘のみを用ひしといはれてゐる。
 而して柿冶工門が、最初此角福銘を用ひしは、何代頃なるや區々の説ありて、或説には九代頃ならんとの推論もある。然るに小城の松ケ谷焼には元祿時代の製品と見る可き物に、角幅の銘品あるを見れば、既に五六代頃の柿右工門が、小城藩主に招聘されしことを立証することゝなる。
 顧ふに前述せる如く、五代柿右工門の時に於いて、宗藩の御用一時差止めの事があり、従つて家計の都合より、松ヶ谷へ出張せしにはあらざるか尤も松ヶ谷焼の創始は、寛永時代なるが如きも、開窯の當時より南川原の工人が、其陶師として招聘されしと見る可く。而して柿右工門は、自己の作品のみに角層の銘を用ひし如く検討さるゝのである。蓋し柿右工門が、松ヶ谷に於ても此銘款を用ひしは、他の有田内外の各窯焼と同じく、單に支那燒模倣の程度にありしことは申すまでもない。

角福銘侵害事件
 然るに十一代柿右工門は、明治十八年に此角福銘を、自家の商標として特許登鎌を受け、此同銘(別紙の最初)を用ひしものは差押へらるゝことゝ成りしより、従来此記銘を用ひたりし斯業者に恐惶を起すに至つた。就中有田赤繪町の今泉藤太が、無反省に此銘を使用しつゝありさて、柿右工門より交渉せしところ、藤太が言ふには、抑角福の銘たるや、支那傳來にて、往時より有田内外は勿論、既に九谷や京都を始め全國山に使用されつゝある。
 然るに今日に及んで、卒然柿右工門が獨占すべき理由なして断然之に應せず、遂に訴訟沙汰となり、東京其他の方面よりも反證に應援せんとする氣勢ありしが、理屈は兎も角、後年たりごも柿右エ門が既に特許の登録を了せし以上は、侵害るべしとの説起りて仲裁となり、藤太より若干の訴訟費を提供して、漸く解決せしは明治四十年頃であった。

柿右衛門邸の碑文
 酒井田邸内に初代柿右工門の胸碑があり、其碑銘の中に左の文がある。

酒井田柿右工門陶碑銘
窮通之無端猶環也、生而窮、死而大通者、吾於酒井田柿右衛門見之。肥前陶器吳洲燒、邃創始於天正年間云、肥前國曲川村南河原之地爲根基矣。元和三年柿右衛門受南京燒之傳於豐公之臣高原五郎七尋察陶器之脆弱而不便日用、發見磁石乎有田泉山是爲我邦磁器之濫觴焉。於是製磁之業大擴焉正保三年企圖錦彩磁器之創製丹精鍊心神苦而發明焉、其名夙與所製錦彩磁器爲所世人之稱讚美舉也、偶會人之來請通好於我邦、一見驚其精巧與銫美購焉而歸矣。是實係乎外國貿易之嚆矢經世十一、至於澁之助、當地交通貿易之法、外於開、而殖產興業之道、內於通。明治十八年當於東京上野有繭絲織物陶磁器共進會之舉、追賞柿右衛門之功勞、賜金參拾圓。嗚呼窮通之無端猶環也、柿右工門所苦心焦思、發輝乎數百年之後者、是非生而窮、死而大通者乎。我澁之助、感泣追慕、不自禁抛賞金建石傳永久之無窮
明治十九年四月 淡水福地源六撰並書
酒井田姓十一世之孫澁之助建之
 右の文中呉洲焼とは、化粧陶器に呉須の染附を飾せるものの如く、それが果して天正年間より南川原にて製作せしや煽る怪しく、而して元和三年(1617年)柿右工門が、五郎七に磁器製法を授かりしとは従来の歴史に比して十年程早きゆえに、彼が二十二才の未熟なる青柿時代となる。就中柿右工門が泉山の磁石を發見して、日本の磁器を創製せしなどは余りに捏造過ぎる。蓋し該碑は後年某官吏が初代柿右工門の徳を頌する余り臆測的に作りしものならんも、斯くては李参平碑を建設せし多数の有志にも相濟まずさして、現代柿右工門が之を撤廃せしは賢明な處置であつた。

柿右衛門劇の出演
 大正元年頃名優片岡仁左工門(十一代松島屋)は、竹柴琴二創作の柿右工門劇を明治座に於いて出演し、大喝采を博したのである。此時在京の西松浦郡出身有志、藤山雷太、森永太一郎、松尾寬三、松尾廣吉等は、此際引幕を贈呈すべく協議を纏め、青木徳一郎(佐賀市出身の日本銀行員)が藤田春吉(西松浦郡大山村出身)と共に之が斡旋の勞を執り、執行弘道(佐賀市出身の美術家)の考案に成る、大壺圖案の優美なる引幕を、仁左工門へ贈ったのである。
 其後仁左工門は帝國劇場に於いて、又柿右工門劇を出演するに當り、柿右工門は此時上京して製品を販売するや大いに仁左工門丈の宣傳に負ふところありしといはれてゐる。

柿右衛門會社
 大正十四年四月福岡縣人小畑秀吉は、十二代柿右工門に對し資金を提出して、二萬五千圓の柿右工門燒合會社を設立し、同山の邊り丸山に洋風の工場を建築して、南川原本邸の工場と協同經營することゝなつた。そして此年には京都に於いて、仁左エ門一座の柿右工門劇興行に困り、大いに宣傳に努め、秀吉は絹地の引幕を仁左エ門に贈呈した(仁左工門は昭和九年十月十六日卒す 七十八才)

御成婚奉祝品
 之より先き大正十三年六月五日皇太子殿下御成婚奉祝品として、佐賀縣より柿右工門謹製の、高足尺口の御菓子器を献上した。

御即位奉祝品
 昭和三年十月御即位御大典奉祝品として、佐賀縣より柿右工門謹製の太白麒麟の置物を献上した。該品は高さ一尺六寸にて、二宮錠太郎が護作せしものである。

柿右衛門會社の分離
 昭和三年十二月柿右工門は、豫備陸軍中將堀田正一の後援を得ることにより、合資會社鮮退を申込みしを以て 小畑秀吉と分離することゝ成った。依つて是れまで使用しつゝあり角幅の商標は、法理上前會社の所有権に移り、之より柿右工門は自邸工場のみにて製造することゝなり、今柿右工門作の銘を用ひてゐる。

柿右衛門古製品
 柿右工門の製品は初代より三代まで、又六代の後見澁右工門作等に優品多しといはれてゐる。現今の遺品は其何れの作品なるか不明にして只その作風と匂ひに依って鑑定する外はない。製品には赤繪五艘船繪の八寸皿、同内龍鳳丸外は岩梅に尾長鳥模様の八角形八寸の丼同真垣梅畫桔梗形三寸の皿、同竹に虎畫八形角七寸の深丼、同真垣櫻尾長鳥嗇桔梗縁八寸丼、同岩梅鳳凰畫桔梗淵浮彫(錆花)八寸丼、同丸紋底龍畫桔梗縁六寸丼に緑紅を施したのがある。
 又十方浮出模様に、赤釉丸紋畫桔梗ぶら緑の縁紅井があり、隅込縁の六寸角皿に錦附稻妻割内九紋龍地文詰にて、外は簡潔なる枯木水禽を描きしものがある、或は錦八角形五寸の水指や、梅鳳凰畫の青磁六角皿に縁紅を施せしものがあり、染附古代鷹畫外青海波詰の墨弾きにて三つ足附桔梗形七寸の菓子器がある。其外錦雲龍畫の長角皿、同南天繪蓋附四方形の手焙があり、又染附臺附六角の火鉢に、割内眞山水繪、外鹿子地猫の呉洲色美事なる逸品等がある。
 之等の圖案を概略すれば、梅と菊の外草花類頗る多く、中にも竹、棕櫚、楓、柏、松、桜等を重なるものとし。動物には尾長鳥をはじめ、龍、鳳凰、鹿、虎、鷹、及人物山水等があり。就中吳洲及赤繪具にて、柴垣が巧に使用されてゐることは色鍋島と圖案の共通が窺はれ、或は和蘭と盛んに取引せし關係上、該地の玻璃器や陶器、又は更紗模様などを、巧に日本化せし圖案がある。

南川原の名陶家
 南川原山には、古来より名陶家少からざりしことは、今其遺品に依って知らるるも、由来此處も有田と同じく自家の製品に、一定の作銘を用ひしもの稀なるを以て、今に及んでは誰人の作品なるか知るよしがない。而して此無銘の逸品は、多く柿右工門作なるべして片付らるゝ風がある。

中野徳兵衛
 當時宗藩の御用品を製せしものに中野徳兵衛といへる名陶家ありて、染附の鉢類などに其優品が残されてゐる。彼は初代柿右工門と同時代にて、寛文元年七月二十一日卒去し、墓碑は下南川原共同墓地にあり、其後裔者に有田白川町に居住する中野久一がある。

徳永常光
 徳永常光は、元武雄藩の武士なりしが、先代より此地に移住して磁器を製し、抜群の名陶家とて、屢宗藩の御用品を製作し大窯焼であつた。然るに或時藩用の日限物を製作して、漸く窯へ積入を了せしところ、密かに窯の器の全部へ砂を振り掛け置きしものありて、燒上げし器物悉く用を成さす、再び之を製するには余日なき申譯と、憤怒の極、彼れ遂に屠腹して相果てたのである。時に寛文十二年(1672年)十月二十四日である。

常光の碑
 今下南川原共同墓地に、約一間角に臺石を積める多寶塔式の宏大なる彼の墓碑があり施主には土肥源左エ門尉とある。此事件は同業者中彼を炻める者の所業と見られ、或は柿右工門に關係あるが如き説をなすものあるも、二代柿右工門は六年以前に卒去し、三代柿右工門は同年の十月十四日則ち常光が自殺せる十日以前に卒去してゐる。

樋口利三郎
 後代の名陶家として、上南川原の樋口利三郎があつた。其製品は前記の如く樋口の窯とて、近年多くの優品が登掘されてゐる。彼れ資性剛膽且機略に富み、曾て此地方の利け者であつた。其頃有田泉山の磁石分配上につき内山(有田)外山(有田外陶山)の悶着生じ、結局内山よりは、泉山の石一塊たりとも、外山へは搬出させまじき氣勢を示すに至った。外山窯焼は大いに之と抗議すべく結束し、其代表者として黒牟田の梶原忠蔵と此利三郎が、談判の街に當ることゝ成った。

忠藏の辯論
 忠藏は豊後杵築藩の御用釜とてやゝ學識あり、且頗る能辯であつた。彼は皿山代官へ面接を乞ひ内山側の理不盡なるを論難するや條理整然滔々として盡きるところがない。代官叱咤して言ふ、汝余りに長廣舌なり、止めずんば一刀に切捨てんと威嚇した、忠臓少しも悪びれずよしと、直に己が首を差し伸べしさいふ、其時の挿話がある。

利三郎の磁石運び
 此時利三郎は、卒然數十頭の牛を雇ひ來り、己れ宰領して泉山石場に到り、採掘し磁石を瞬間に負はしめて、町中を悠々と曳き歸り大膽不敵さには、流石喧嘩速き有田人も、不意を打たれたる余りの早業に調子を失ひ、却つて之を勇ましと賞め通せしといはれてゐる。

船底谷拂下げ
 利三郎は、或時製陶用の薪材として、地元山林拂下の許可を出願するに當り、先づ自製の焼物許多を當路の諸役人に贈り置き、而して後に拂下げの願書を呈出した。それに依れば地元の舟底谷一帯とあるを以て、役人達も名の如く狭隘なる一谷ならんと合点して、直に之を許可したのである。
 然るに利三郎は、何ぞ計らん南川原谷の凡てを是舟底谷なりと稱して悉く探伐したのである。御山方役人衆も、さては彼に一杯喰はされたりと喫驚せしが、左あらぬ体にて、其總山林地に對する稍重き運上を賦課せしところ、利三郎は心得たりと、先に贈りし焼物へ高き代償を附し、其総額と相殺して残りの少額を納税せしといふエピソードがある。

樋口太右衛門
 利三郎は天保十四年(1844年)七月十九日卒去し、其子竹次郎に至つて廢案した。利三郎の舎弟傳三郎の子が太右工門にて、彼は後年太平さ改称し、明治二十七年十二月廿五日八十五才にて卒去し、長子爲吉出藍の器なりしが、父に先立つて卒し、次子三臓に至つて魔窯した。

舘林兵太夫
 維新前の窯焼には、下南川原の舘林峰吉(森之助の祖父)が盛んに製造した、彼は天保九年(1839年)四月六日卒してゐる。又同し下南川原の舘林兵太夫といへるが名陶家であつた。彼は成器を窯出しするや、直ちに之を長持に匿して錠を掛け、何人へも決して見せざりしといふ變り者であつた。蓋し其工夫せし意匠の模倣さるゝを恐れたのである。兵太夫は、天保七年(1837年)十二月二十六日卒去してゐる。

舘林辰十
 兵太夫の嗣子が、有田の禁裡御用燒なる、辻喜平次の次男を養子とせる辰十にて、これ亦頗る名陶家であつた。其他に舘林菊次郎(喜太郎の父)も上手であつた。彼は嘉永四年(1851年)三月十一日四十三才にて卒してゐる。概して上南川原は大鉢類を得意とし、下南川原は食器の如き、小間物が多く焼かれてゐる。

下南川原の名手
 なほ下南川原の名手としては
舘林 森太郎 嘉永三年(1850年)正月二十七日卒二十八才 窯焼にて、花鳥書の名人であつた。
金ヶ江熊五郎 安政元年(1855年)十一月二十三日卒四十九才 窯燒にて、山水稲の名人であつた。
富永 勘九郎 明治七年八月二十八日卒三十九才 畫工にて、花鳥を善くした。
小西 喜太 明治九年八月九日卒四十三才 畫工にて、山水及人物を善くした。
溝上 九郎 明治二十年一月二十日卒 五十四才工にて、人物及花鳥を善くした。
金ヶ江八百吉 明治二十五年七月十七日卒 五十八オ轆轤細工人にて、小間物造りの名手である
小藤 伊與吉 明治三十三年七月十六日卒 七十三才。轆轤細工人にて、小間物の名手であり、柿右エ門の工人なりしが、後窯焼と成った。

藤 伸助
 下南川原に於ける近代の窯焼としては藤伸助(明治二十二年九月三十日卒六十三才)があつた。

南川原の現在
 洵に南川原陶山は、黒牟田及小溝と共に、有田焼の創業地(陶器に於て)として古き歷史を有し、往年の製陶頗る盛んなりしも、衰退し、大正九年の好況時代に於いてさへ、年産額僅に五萬五千圓に過ぎなかった。戸数又從って減少し、今上南川原二十戸中窯焼は一戸もなく。下南川原四十戸の内、窯焼は柿右工門の外、小西忠吾外一戸となり、昔日の繁栄は夢の如く去つて、たゞ天神社の翁碑に、のつと出る旭の梅ヶ香を蒸らして、聊か當時の面影を偲ばしむるのみである。此外前記の南川良原に、丸山工場と草場工場があり、倒れ橋に三河内より来りし中里菜の釜山窯がある。
 以上を以て、南川原山及び其附近を終り、次に同村原明なる、窯の谷の記事に移る可きも、此處は木原窯の發祥關係の爲めに、既に平戸編中に記逃せしを以て省略する。大正三年此地に於いて、釆女甚一(竹林)築窯し、食器、花器、茶器等を製造し、或は柿右工門風の赤を施す等、作品頗る見るべき者ありしが、同六年に至つて慶窯した。

戸杓窯
 上南川原の谷間を登れば、有田村なる戸杓の高地である。此處は向平、一本松、善門谷の三ヶ所に古窯趾がある。向平の丘の上に、岩吉畑と稱する拓き地がありて、陶器を焼きし跡あるも、後には有田の原料にて磁器を焼いてゐるのである。そして此陶器及び磁器製作が、一本松と善門谷へ分布され、又一面には、大村領なる村木窯へ侵入せしていはれてゐる。

戸杓の向平
 南川原韓人の分系と見らるゝ向平の古窯品には、灰色釉突底の茶碗にて、裏は縁邊の外、高台へかけて全くの無釉物がある。又同釉の皿に、白釉にて文飾せしものや、波刷毛目を施したものがあり、或は栗色釉に、白にて獨樂筋を焼らし、内は篩目に沈彫せし、水盤らしき破片などがある。
 磁器には、染附唐山水繪六寸の淺丼、同外縁素描地紋縁反七寸丼、同實蘭畫の茶碗、或は松葉菊の描詰に、外青磁の小皿があり。又は薄青磁の丸茶碗など、多くの種類が焼かれてゐる。

一本松
 一本松の古窯磁器には、染附山水繪の九中皿、同廣底筋内菊蔓畫の深中皿、同荊緑の小皿、同廣底筋內素描牡丹畫の小皿、同海松畫散文の丸茶碗、薄青地突底の中皿等にて、模様が凡て粗拙である。其中木賊繋ぎの煎茶々碗などは、後代の特製品らしく、細工も模様も、前記の品とは別途のがある。

善門谷
 此處の川向ひなる小松の丘に、善門谷の窯趾がある。磁器の殘缺には、染附四方割大筆猫模様の大皿や、廣底筋内へ楓葉を描きし大皿があり、又廣底筋内に、三方花模様を描きし中皿など、何れも下手物にて、無細工を極め、高台叉頗る小さく、繪模様も一本松同様拙劣なものである。今此の戸杓は戸數四十戶、吉島と外二戸の磁器製作所がある。
 偖て南川原焼に就いて考ふるに、時勢の變遷が其地の産業を支配することは、何れの陶山に於いてかれざる現象とするも、世界的名聲を舉げし、柿右工門の發祥地として回顧する時に、吾人は大いに此衰退を惜まざるを得ぬ。而して此名家の子孫と、そして故人を崇拝する多くの者が、ただ故人が残せるクリエートのみに則とり、ひたすら之に相似んことのみに、汲々たる観がある。

時代品模造に就て
 然れども近代の製作者が、時代を離れて二百年や三百年以前の作品を、其時相應に眞寫し得ることは、非凡の名工にあらざれば不可能事である。如何に巧妙にイミテートせしものも、精密に吟味する専門鑑定の照魔鏡に映されては、結局偽りの舌を吐くの外なく、矢張寛永は寛永、元祿は元祿、天保は天保、明治は明治の氣分が現れて居るさいふのである。

名工の氣分
 それは昔の儘の作ゆきと、釉膚の味と、模様の古雅さを渇望して造らしめ、たさひ彩色や細工まで、巧に模倣し得たりとしても、材料から来る味の感覚と、當時の名工の氣分が、なかなか現はれるものではないといはれてゐる。是には一面、其器の生れし時代の雰圍氣が、影響することを考察すべき必要があらう。
 昭和の現代人に、寛永や、元祿の気分と成って製作せよと求むるは、次に生るる自分の子供に、祖先の魂共儘たれさ、強要すると同一にて、系統上容貌のみは相似るとしても、其性質まで全く移すことは不可能であらう。況んや親子や同腹の兄弟間でさへ、氣質が異るのみでなく、容貌や體格まで全然相違するものが少なくない。

造化の原則
 造化の神は、決して同一の物を造らざりしが如く、若し人間が全く同一物に生れたとすれば、我子と他人の子と、又我妻と他人の妻とを、取遠へる混雑が生じて来る。故に相似る程度に止めて、全くは相同じからざる事にせしものであらうと思はれる。 進歩は永遠無窮(或者は轉無窮ならん)と稱するも、同一物の二つ有ることは、其の無窮を止むる不進歩の表現にして、同一物の生れざることが、則ち進歩の原則であり、又生産物にする眞理であらう。

時代錯誤
 然るに後代に於いて、無理に同一品の造に努力しても、結果は現代人の五分刈の頭に、昔の兜を据ゆる困難と不調和な釣合となる。彼の古製の錦地磁器に、現代人の氣分が注溢する後附物を見るとき、それは恰も甲冑着たる時代行列者が、シガレットを咥へ行くと一般にて、其の余りに時代錯誤をせざるを得ないであらう。

超柿右衛門式
 要するに先人の優秀なる構圖は飽までも尊重して之を應用すべきものなるも、其創作の観念形態を掴むこと不可能なれば、新人は先づ自己を発見し、自らの個性に依って、新機軸を創作することが賢明の策であり、そして其研鑽の結果は、茲に新たなるウルトラ柿右工門式の創作されんことを切望して止まぬ次第である。

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