諫早町
長崎縣北高來郡諫早町は、平坦線なる長崎への上下通路と、佐世保線及島原線への各通路の要地として、人口二万二千餘を有してゐる。往時は伊佐早と書かれ、始め南高來なる有馬氏の領地であり、西郷氏の采邑なりしが、龍造寺氏に併合されて、其支族の支配地となり、ついで鍋島氏の配下に屬したのである。諫早氏の略系左の如くである。
茶臼山焼
茶臼山燒或は諫早の甕山焼と稱するは、慶長年間(1596-1615年)朝鮮役より歸陣せし邑主龍造寺七郎左工門家晴が伴ひりし韓人が開始せしとの口碑がある。當時幾許の人数なりしかば不明なるも、諫早に韓人の居住せしことは、今猶此處の町名に高麗小路の名が残されてゐる。而して甕山窯業地は、諫早驛より三十町を隔てし本諫早驛に近く西の郷とするところ即ち今の刑務所の近傍である。
同地は最初より甕類や擂鉢の如き雑器のみを焼きしものの如く、當時盛んに製造せしは今の工場の隣地なる、伊佐早高城と稱せし城跡である。西の郷は西郷氏の釆地にて、城主西郷彈正少弼純久が一千町を領有し、群雄の一人として此地方に勢力を張ってゐたところである。
伊佐早城包圍
天正四年六月(1576年)龍造寺隆信は、嬉野越後守通盆(五百町を祿す)、同淡路守通吉(三百町同)、同大和守通春(百六十町同)、吉田左エ門太夫家宗(三百十町同)を始め上瀧志摩守盛貞、徳島左工門尉等を先鋒として伊佐早に進撃した。城主西鄉石見守純堯迎へて七浦に戰ひ、敗れて伊佐早城は龍造寺軍の包圍するところとなった。又隆信の別軍平戸の松浦及び伊万里、有田、後藤の軍勢は大村を攻め、大村軍は貝の城に防戦せる時しも、純堯の別軍大村を助くるに及んで隆信は總軍を引き返へしたのである。
天正五年龍造寺隆信は、再び西郷純堯を攻む可く大軍を起し、小川武藏守信俊、納富左馬助家景倉町左工門太夫信俊、高木左馬太輔盛房、内田紀伊守信堅、横岳兵庫頭家實、馬場肥前守鎮周を始め、大村、平戸の陣代、草野、鶴田の諸軍を以て先づ有木城を攻めて、西郷玄番允を降せしより、深堀上總介純賢和議を計らひ、純堯の次男次郎三郞純尚を以て、隆信の女婿とすることゝなり、之より全く龍造寺の配下に属したのである。
諫早領地
天正十五年秀吉西下の折、西鄉彈正信尚出迎へざりし爲龍造寺預けとなり、以來南高來に轉住し、諫早は隆信の従兄弟孫九郎鑑の男七郎右工門家晴の采邑と成ったのである。而して家晴の子右近允直孝に至り姓を諫早と改め、北高來郡の全部(深海村古賀村を除く)の外、西彼杵郡喜々津村と矢上村及び藤津郡の多良村と大浦村を領し、表面家祿一万石と稱せられしも事實は二万二千五百石の収穫ありしといはれてゐる。
甕山事業の變遷
茶臼山焼の原料は、此地栗面の褐色粘土にて、西郷産の地土と樫灰を釉薬に用ひしさ稱せらる。元來韓人直系の後なりしが、晩年諫早邑主の支配に帰し、藩士坂口源右工門其の監理役となった。天保五年(1835年)頃より更に事業を擴張し、安政年間(1855-1860年)には、阿蘭陀人のに感じて水を供給し頗る利潤を得しが、邑主一學の時個人に拂下ぐることゝなり、坂口家に於いて代々之を経営したのである。
明治二年斯業彌々盛大となり、同十年には多数の製品を肥後へ輸送せしところ、恰も西南役の戰禍を受けて多くの荷物を破砕され、爾来甚だ振はざるに至った。そして當時の製品は矢張甕壺類の外擂鉢及菊鉢等が其重なる種類であつた。
土管株式會社
明治三十年頃、當地の前代議士木下吉之亟主宰者となり、資本金十万圓の諫早甕土管製造株式會社を設立して、大いに規模を張したのである。
内田伊左衛門
其後二三年を経て、株主の一人内田伊左衛門が、會社一切の業務を引請けて個人經營となり、鐵道用や灌漑用等の土管製作を主として、年産額二万除圓を繋げ居りしも、彼の政府が緊縮政策の普及は、一般に土木事業や耕地整理等の休止となり、近來頗る不振の狀態である。
(現工場主牛一は伊左エ門の男である)
土師野尾
土師野尾は、北高来郡小栗村栗面の一村落にて、戸數百十七戸あり、諫早驛より西二里餘を隔て山間なる、八天岳の麓にある古窯跡である。此地古來土師野尾の名あるより、必ず製陶の遺跡ある可しと察し、土師野尾小學校長松尾春吉等は豫て探索せし折から、昭和八年十月二十四日武雄町の古窯家金原京一に依って始めて之が確かめられたのである。
土師野尾古窯品
發見されし窯跡は、中通の通路端なる樫の木林(小栗村々長山口岩松所有林地)に七尺長さ十五間の登窯跡である。而して現場は古葉の堆積せるのみにて、窯具さへ散見せざる程なるも、実際發掘されし殘缺には、古唐津風の金茶釉や黄瀬戸及び天目並に鼈甲釉などの茶碗があり、又緣淵や九淵の小皿等がある。
又片口や壺及び七八寸以上の大皿の如きも製作されてゐる。それが何れも無釉高臺であり、そして茶碗や小皿の高臺内が篦ゑぐりにて三日月形に成ったのがある。就中珍らしきは擂鉢の外部面を黒茶にて施釉せしものであつた。そして胎土は褐色物もあるが、概して灰色地質の炻器に近きもの多く、作風は慶長年間より稍後代に属するさいふ説がある。
土師野尾開窯者の疑問
此栗面地方多く粘土に富み、農作物の如きも土師野尾米と稱して良質にしてゐる。而して最初此地の粘土を探見せしは朝鮮役歸陣の際、邑主家晴が帶同せし韓人ならんとの説あるも、なほ地理的に研究すれば、此地より江の浦の海岸まで、僅が一里にして達することも一考の価値かある。
故に若しや韓人の一行が、難船漂泊して江の浦へ上陸し、而して後此土師野尾へ潜入せしにはあらざるかとの考察も、強ち牽強附會さのみ断すへきではない。但し此陶山創業に就ていては、勿論邑主諫早氏の保護に成りしものであらう。
瀬古皿山
瀬古皿山は、今の西彼杵郡喜々津より二里を隔てし矢上村の一集落にて矢上宿より五六丁東の山間である。此處は往昔僧空海(弘法大師)の開基と稱せらるゝ通の觀音を祀れる霊場にて、此地皿山の創業はいつの時代なるや詳ならねど、安永(1772-1781年)或は天明(1781-1789年)の頃ならんといはれてゐる。
藤本納吉
其後一旦廢絶に歸せしを、諫早邑主は地元の有力者藤本納吉に命じて、之が復舊を計しかば、納吉は拮倨勉勵、途に瀬古焼の中興者となつた。斯くて彼は文政年間(1818-1831年)に卒し、其子伊助孫市次郎相次いで家を継ぎ、今曾孫笹一なるもの臺北に住してゐる。
元來瀬古の製陶は、諫早邑主が領土内の日用雑器を製作しむる爲めに、奬勵せしもの如く、従つて其産額に於いても頗る僅少なりしと稱せらる。此地明治の初年頃迄は、古窯の登歷然とて存し、藩制時代の庄屋が、土地臺帳へ字皿山として附記し置きしも、明治九年地租改正の時地券の實測をなし、其際より古窯も取毀されて、今や全く耕地と成ったのである。
瀬古の古窯品
製品は天草石の下級物を主料として染附の下手物磁器を焼きしもの如く、種類は食器、煎茶々碗、神佛用花立等である。
瀬古の瑠璃釉
又地質の清白ならざる故か、呉洲顔料を以て、濃諸種の瑠璃釉を應用せしものが多く焼かれてゐる。就中此地の高山普賢岳に、奉祀せる普賢菩薩にありし尺餘の御神酒瓶一對は寛政年間(789-1801年)前記の納吉が奉献せしものにて、中濃瑠璃釉の上に無垢金にて舞ひ鳳凰を書き、裏に藤本納吉と記されてある。蓋し彩金の上繪附だけは、有田か三河内かに依囑せしものであるらしい。
矢上村
優秀なる陶器の産地なりし現川は、西彼杵郡矢上村の一集落である。抑矢上の地は、元島原の有馬仙巌の旗下矢上伯耆守の采邑にて、二百町を領有しが、龍造寺隆信に降るに及び、終に諫早氏の領地となり、矢上分にて二百石の探收地とされてあつた。此地喜々津驛より二里、長崎市より三里の行程なるも、往時より長崎砲台警備の要地帯とされてあった。
現川
喜々津方面よりすれば、矢上宿の入口な平間より右曲して山間に入ること半里餘り、海抜千六百七十三高地にて、戸數百四十戸の閑静なる一農村が現川である。此地四面山岳にて圍まれたる溪間にあるも、玄洋に於ける鎮海の要港の如く、當時長崎街道警備の士を配置して、常時守備に當らせしが故に、今も給人川内などの小字名が残されてゐる。
抑現川燒は、朝鮮役の折島原城主有馬晴信に、従ひ來りし韓人が開窯し、其後打絶えしを、寛永年間(1624-1645年)一度再興され、慶安年間(1648-1652年)また此地の田中利右工門復興せんが、幾許もなく廢窯し、寛文年間(1661-1673年)重富之亟他山の工人を招きて復舊せしも、これ幾年ならずして廢絶に歸せしさの諸説がある。蓋以上の事蹟に就いてはなほ大いに研究の餘地があらう。
有馬氏と韓人渡来説
朝鮮役の當時は、此地に鍋島氏の配下に属し、諫早氏の初代龍造寺家晴の栄邑なりしを以て、有馬氏帶同の韓人が、此地方に來住せしといふ説はなほ考ふ可きである。而して戦役當時に於いて、唐津、佐嘉、平戸、大村等肥前に於ける各諸侯が皆それぞれ多くの韓人を連歸りし中に、獨り島原の有馬氏のみ其事なきが如き観あるは、地理上の關係より前記各領地に比して上陸地の甚だ迂回を要する点を考ふれば、島原半島への渡來韓人少かりし事情が、略明かになる、故に一旦積荷代りとして乗船せしめしとしても、中途寄港の前記各地へ上陸せしものと観る方が穏當であらう。同様に又彼の五島純立の領地五島へも上陸せし韓人少なかりして見るべく此地製陶の遺跡としては、本邦人の瓦を焼きしこの外皆無であるといはれてゐる。
現川窯沿革史の混亂
元來現川焼の發祚に就いては、傳説其他區々にして、正確なる史料に乏し研究者をして五里霧中に彷徨せしむるの感がある。而してその製作せられし器の頗る卓越なるにより、愛陶家は其沿革を識らんと欲し、他山の工人中には、自家宣傳の具に供して、此地の陶技と關係を結びつけんと企らむが如き、歴史をして益々混亂を加へしむる観がある。勿論著者としては多方面の異説を総合して、合理的に記述せるものなるが、要するに他日識者の正確なる検討を待つの外はない。蓋し現川焼とする陶美を發揮せしめしは、前記の開窯期中にあらずして、後代に於ける渡來韓人サンクハンの作品に該當するものと思考せらる。
玄海灘の漂泊船
往年筑紫の北海岸若松の邊りより、津屋崎及玄界灘に面せる肥前の津々浦々へは、屡々唐人の漂泊者があり。又當時はエゲレスや、イタリスなどの黒船が、飲料水缺乏を口實さして、我邦の沿岸に碇泊するもの少なくなかつた。中には漂流を名として、念入りにも内海深く着船し、以て移住を企つる唐韓人があり、彼等は勿論交易を開始せんとの計畫なるも、幕吏は之を厄介視し、一應の取調をなして放遂し、漂泊者は捕へられて放還さるのが定であつた。
故に現川の韓人も、橘灣に漂流して牧島邊より上陸せし者が、蠣道方面より矢上を経て、現川に潜入せしならんの説を成す者あるも、之は土師野尾の韓人が、船津や下釜邊よりの上陸推測説とは異なり、矢上といへる特種の警備地帯あるこ忘れてゐるもので、大いに考へねばならぬことであらう。
護送韓人
而も此地は陸路長崎入りの要宿とて折々此漂泊韓人の護送通過を見ることがあり、そして多くは此矢上に一泊せしめたのである。それは驛馬に乗せて、馬丁か口綱を執る鞍上には、例の長畑管を燻らせる長髯人が、悠々として運ばれたのであつた。斯くて一應長崎奉行所にて取調の上、對州侯宗氏の對馬屋敷へ航送され、次に厳原より便船にて釜山へ送還されたのである。抑も此警備地近傍へ韓人サンクハンの一行は、如何にし潜入せしか、蓋しそれは背面の山路を下りて、現川へりしといはれてゐる。
サンクハンの一行
此一行は母國に於いて、國禁に觸れし爲めに遁走し來りし者か、或は特に我邦へ移住を企てし者かは不明なるも、彼杵半島なる大村灣方面に上陸して、山地へ登りし人數は凡べて一行十三人にて、現川の背面白木峠を下りて此山間に辿りつきしかば、鄉人達は種々評議せしところ、此一行が製陶の目的にて來りし莟へに、嘸かし相當の技量ある者なるべしとて、取敢へず諫早邑主に具申の上、特に其許しを得て、此處に始めて開窯せしは、元祿十三四年(1700年)頃と推考すべきであらう。
鬼木の窯場
そのうち彼等は、片言交りにも、邦語に通することなりしが、此一行中サンクハンと稱する若者が、製陶の棟梁たることが分明した。そして彼等は毎日鄉内の各山を探見して、種々の粘土を試焼するうち、或日西鬼木といへる處の藪中に、鹿毛色を帯びる粘土を発見して大いに喜び、此處に陶窯を築いて面白き陶器を焼出したのである。
斯くて此地の舊家三浦某が窯請元となり、又長崎居留の支那人の手を経て、製陶に要する種々の材料を購入し、之より段々工夫の末、彌々美事な陶器を製作すること成った。依て三浦某は長崎表を始め、擴く販賣の計畫を立てしが、取敢へず此中の製品を、邑主諫早豊前守茂晴に献上せしところ、大いなる賞讃を蒙ったのである。
現川焼の製作數限定
然るに藩制時代の通して、かゝる稀代の名品を、猥りに多く製作する時は却って共價値を損じ、殊に他國へ出すなご宜しからずなし、變則なる非賣品とも稀すべき禁令を下されしも、斯くては多數なる一行の生計上困難なるを以て、再び出願の上製法の秘密を厳守すると共に、邑主の御用品の外製造數を限定し、以て多作を制せられしは其餘りに優品なしが爲にして、今遺品として現存するもの甚だ多からざる理由茲に存するものである。
爾歳月を経るに従ひ、現川焼の進歩著しきと共に、彼等一行は日々郷人と融和を深め、郷人亦此を皿屋として相親しむに至つたのである。此順調が滞りなく過したらんには、サンクハンの研究は一層進歩して、なほ幾多の名器を作り出せしなるべきに、茲に意外なる事件の突發より、遂に現川焼の全滅を來たすに至たのである。
田中宗悦
是より先き島原切支丹亂徒の落人なる一人の武士此現川に流れつて隠棲せしが、其子孫に寺子屋の師匠をなせる田中宗悦といへる慈愛深き一人物があつた。(一説に宗悦は相當の資産ある此の舊家にて、サンクハンの窯元なりといふ説もある)そして其娘の某といへるは容貌鄙には稀なるのみでなく、殊に心立て優しき女なれば、郷土の若者の中には、心密かに想を焦がす者も少なくなかつたのである。
サンクハンと小町娘
宗悦は豫て良き婿料をと物色するうち、自分は會てより大の観世音信者であるが、サンクハンも亦同佛の歸依者であり、且つ氣立ても善く、殊に陶技に於いても無類の器量人なれば、韓人とはいへ行末は我が娘の良人にせばやと考へ一倍彼を愛顧したのである。然るに宗悅が心の中を知るや知らずや娘とサンクハンは、いつしか深き契りを結び、果ては人目を忍びて韓倭の隔てなく打語らへるに、斯くさは宗悦更に覺らざりしも、郷土の若者等は敏くも之を嗅ぎ出して、中には妬ましく煩問する者さへ生するに至つたのである。
七之亟との爭闘
茲に此地の農家に、七之亟といへる者ありて、豫て宗悦の娘を我件の嫁に貰ひうけばやと、一途に目論見いたりしに、近頃サンクハンの怪しき噂を傳へ聞きて、無念やる方なく心密かに恨める折柄、幕行く年の師走半ば、雪頻りに降り積める中を、所用の帰り路尾崎といへる處にて、計らずもサンクハンと行き會ふたのである。此時如何なる言葉の交されしかは不明なるも、途に二人は腕力沙汰となり、七之亟は携へたる朸にて打懸かり、サンクハンは職業用の小刀にて渡り合ふうち、年若き彼は飛び込んで七之亟の朸をもぎ取ったのである。
尾崎の惨劇
此日は雪降る日の事とて農事を休み、師走忘れの酒酌みて、某家に集ひし若者達は今七之亟が救ひを求めし叫び聲に、素破同胞の危急よと蹶起せしは、豫て彼女との關係よりサンクハンに含める者どもにて、何れも夜棒を取つて一勢に押寄せり、有無をも聽かずおつ取り巻き、憐れサンクハンを撲殺したのである。(警備地の矢上地方は豫て棒の一手を習へる者多く、それは五尺位の樫を丸く削りしものにて、現川にて夜棒と稱するは夜警の意味であらう)
鬼木窯元全滅
此時誰かが鬼木の窯元へと聲揚げしかば、それ行けと斗り一同は、濁酒の酔狂に乗じて、どつと押寄せ來るより、韓人等は事の不意に驚き狼狽するを、一人も餘さず十二人悉く打殺し、なほ其餘憤を以て、陶窯より器具一切残さす目茶目茶に破壊し終った。斯くて漸く此興奮と酔狂の夢覺めし彼等は、其の餘りに惨酷なりし所行を悔めるも、それはすでに後の祭りであつた。
群集心裡の特徴として、豫て分別ある者さへも多人數の中に打れは、自己意識を失ひて、無反省的な軽舉妄動を突發すること珍らしくない。況んや像て棒遣いの熟練を自慢せる入野の某の如きに至つては、此時鉢卷草鞋の扮装にて馳せ加はり一番多く韓人を打殺せしといはれてゐる。今此地の白水政恒(豫備中尉)方なる圍爐裡の自在鍵に使用されてゐるものが、當時惨劇用夜棒を切りし遺物と云ひ傳へられてゐる。
人種的嫉妬
蓋し此暴擧の原因は、相手が韓人といふ國別的観念の外に、村小町とも見し彼女の愛を占領されし嫉妬が、人種的に深められし、大主因であらう。かの文久元年幕末の頃米國領事館書記 ヒュースケンが、江戸の三田古川端にて清川一派の為に暗殺されしは、表面攘夷の仕業のみなるが如きも、實は彼の洋妾事件の人種的嫉妬が、其殺害の主因と見る可く、之が爲に幕府は慶長古金一万両を彼の遺族に賠償せしが、扨現川に於ける斯の如き大勢のリンチ事件が、假令ひ山間の奥地にて行はしとはいへ、爾後製品の断絶は、諫早邑主に隠蔽し得る道理がない。然し相手か外國の漂泊人であり、そこは嘆願や何かの運動にて、御目こぼしに成りしものと思はれる。
サンクハン塚
要するにサンクハン一行が、此地に開窯せしより僅四五年目位にして、此美術的なる現川焼は絶滅せしと見るの外はない。曾て矢上村の長崎街道筋である、今の自動車乗場より少しく上手なる前面の田圃に、年久しく石積みにてサンクハン塚とするものありしも、明治十三年頃に取拂はれたのである。
窯観音
現川の大屋敷なる野畑山を登れば志食権現といへる社があり、其左の高丘に窯観音といふのがある。それは五尺四方建位の小堂の中に、三体の石佛を祀りたるが、就中正面の観世音は高さ尺八寸位にて、其蓮臺の下なる四角の臺石に、施主の名前が多數刻まれあるが、何故か佛体も堂柱も、悉く紅柄にて真赤に塗立てあるから、刻字を読むに困難なるのみでなく、此赤塗は當時の惨劇を追想して、肌に粟を生するの想がする。
或郷人の説にては、窯観音と稱するは單に登窯の頭邊りに、陶器火廻りの幸福を祈りしものならんとのことなるも、従来窯頭に祀れるものは多く稻荷の祠か高麗神と称して、簡素なる自然石が多く斯く入念に彫刻せし三体佛など、祀りし慮は滅多にない。而して此處を一名藤八墓とも稱するのは、或は唐鉢墓の意にあらざるやを考ふる時に此三体の観音像が彌々サンクハン始め十三人の冥福を祈る合祀墳と見る可きであらう。
観音像施主の人名
而して此臺石には、元祿十七歲次甲申三月吉(1704年)施主田中宗悦内、田中甚内内、重富茂兵衛内とあり。其次に又施主さして苗字なき名前のみにて、庄之助母、枝伊知母、新左工門母、助五郎母、諸左エ門、千右工門と刻まれてある。察するに宗悦の一家を始め惨殺されし韓人達に同情せる人々が施主となりて此観音像を建立せしものらしく、そして田中甚内は宗悦の舎弟といふ説があり、又重富茂兵衛も此地の有志家であらう。
宗悦の墓碑
田中宗悦は、永八年正月二十日(1711年)前記窯觀音建立の元祿十七年(1704年)より八年目に卒去し、今に窯観音堂の下なる共同墓地に共石碑がある。そして墓碑の頭上に三尺許りの立体観音像が安置されあるも心なき者の悪戯にや、首丈失はれてゐる。此宗悦の後裔といはる人に、現在長崎市上小島町に居せる田中隼人がある。
鬼木窯趾の破片
窯観音の丘を少し下りし處が窯趾にて、此邊にはトンバイや其他の燒具などが轉がつて居り、獪丹念に拾收すれば、光澤美くしき青栗釉や青灰釉に白のかすり刷毛目や霙刷毛目又は栗色釉、栗茶釉、薄墨釉、小豆色釉、赤茶釉などに、同じ刷毛目や点模様など施せし小さき破片がある。又青栗釉の小皿や飴釉の茶碗に、高台部を廣く無釉にして、蛇の目積に焼きしものあるは、此處の最初の作品であるらしい。
現川焼の釉薬と胎土
又此處の古窯品には、前記の諸釉に白盛を施せしものは之に呉須や澁色鉛色及び黒などの顔料にて山水及花卉を文飾し、又は巧妙なる刷毛目を施せるが、それが焼成後茶褐色、又紫釉或は小豆釉の優雅なる色相を題はせるは、一面胎土の影響といはれてゐる。蓋し多くは焼成度余り高からざるを以て、取扱上破損し易き素質なることは否まれない。
此優秀なる名陶も、今や郷土にては見ること難全く他邦のコレクターの手に蒐集されてゐる。
(但し擬物頗る多き由)今此地方に現存する器は、各農家の野良茶碗や台所用の下手物が多い。
檀野の博覽會出品
明治十二年春長崎に於いて我國に始めて博覧會の開催ありしとき、出品勧誘をうけし給人川内の素封家檀野勝次(北海道炭礦汽船會社取締にて前代議士たりし檀野禮助の父)は、所藏せる許多の現川焼の優品を送荷せしてころ、當時の日見峠を越える際、取扱ひの麁忽の爲め取落し、又其後同家の墓所の膳棚に積み置きしを、或夜鼠をへし猫の為に大部毀されしといはれてゐる。
馬場藤太夫の山の神
明治二十八年頃、此地の山の神字比羅に於いて、馬場藤太夫數千圓の資金を投じ、現川の復興を企てしが、鬼木の原料は昔年の儘なるも、燒上げし陶器は到底似る可くもなかつたのである。
給人川内窯
同三十年頃、前記の野勝次、又三河内より工人を招き、給人川内に築窯して復舊を試みが、今其遣製を見れば金茶地に同釉むら掛の香焚や韋登釉の如きに、青楽を流せし小花立などありて、焼締めだけは炻器の如きも、昔年の現川焼とは全く別途の製品である。
檀野の磁器
之がために彼も復舊製作を断念せしものか、次には天草原料を取寄せて白磁を製造することゝなった。之は前の陶器に勝り、中には染附山水繪尺二寸の耳附花瓶の如き、相當見る可き製品出來せしも、磁器を以て舊來の陶山と雁行すべき經營事業は頗る易からざるものありしが、如く、遂に中止するに至り、馬場藤太夫は子息を美術學校を卒業せしめ、熱心に之が研究を志ざしめるも、是亦同三十二年四月相前後して廢窯したのである。
現川の古窯品
なほサンクハン時代の古窯品には、靑栗釉波形刷毛目の深茶碗や、三彩色即ち龜甲手の茶碗があり、或は青海鼠の菓子器に銅釉の窯變物や鶯茶釉の尺口薄端花器に、白にて古代文様を象嵌せしものがある。又鼠色釉隅切四角の五寸皿に、簡素な鳴子繪象嵌の作品があり。栗色釉にて三段筋を繞らし、そして蓮華形に押刷毛目を文せし入寸の徳利がある。
或は薄墨釉に呉洲描あしらひにて、全面に武藏野(穂波模様)を交飾せし分銅切五寸の向附皿や栗茶釉へ鐡線花を描し葉は丹礬青葉にて隈ごり花を白にて象嵌せし物や其他種々の繪刷毛目せし同物がある。其外栗色釉に繊細なる小波刷毛目を施し茶碗、或は三島手や霙又抑刷毛目等の優秀なる作品に乏しくない。又雑器中には二升入の徳利にて、其飴色釉面に所有者の家號などを指先にて力強く彫書し、それに青藥を散ぜしものなどがある。
現川と木原
此現川の優品と見紛ふほどの妙技を振ひしは前述せる木原山である。蓋し木原の作品は單にサシ篦のみ使ひし形跡あるも、現川の作品に至つては、猶其上にチゝラ篦を使ひ、次に又メンボウを用ひしものにて、製作上の相違があり又飾に於いても打刷毛目の手際や、波刷毛目の繋ぎなど對照して、到底他山の追従を赦さぬ優技である。要するに木原の工人は、現川の作品をイミテートするに、巧妙なる手腕を有せし程度なりしことは、斯業者の主張する総合的意見である。