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油屋肩衝

油屋肩衝(あぶらやからつき)

中国製(漢作) 大名物 伯爵 松平直亮氏 所蔵

[名称]
和泉国堺の町人である油屋常言(じょうごん)およびその子・常祐(じょうゆう)が所持していた茶入であるため、この名があります。「北野茄子由緒書」および妙国寺の文書には『油屋常言が油屋肩衝という茶入を豊臣秀吉(太閤)に献上した』とあり、閑事庵宗信の著書『利休百会解』には『油屋常祐は和泉国堺の人物で千利休の弟子である。彼が肩衝を所持していたため、世間ではこれを油屋肩衝と呼んでいる』と記されています。

[寸法]
高さ:約8.3cm(2寸7分半)
胴の直径:約8.0cm(2寸6分半)
口の直径:約3.9cm(1寸3分)
底の直径:約4.4cm(1寸4分5厘)
肩の直径:約6.8cm(2寸2分5厘)
肩幅:約1.4cm(4分半)
甑(こしき:口の立ち上がり部分)の高さ:約0.9cm(3分)
重量:約117.8g(31匁4分)

[附属物]
(※以下は附属品の目録です。象牙の蓋が4枚、様々な名物裂の仕覆(袋)が6つ、それらを納める桐箱、挽家(茶入を納める筒)、それを包む布や内箱、外箱、さらに利休が添えたとされる若狭盆などが詳細に記録されています。松平不昧公による極め書きや札が添えられていることが分かります。)
[添えられた掛け軸]
利休の手紙:
「昨日はお越しいただきありがとうございました。本日は正午頃に参上する予定です。
さて、油屋(肩衝)の件ですが、今回も申し上げました通り、間違いはございません。あちこち取り乱してしまい、予定が延びて申し訳なく、最近私も困惑してご相談申し上げた次第です。さらに、私共もこの件を忘れるようなことは決してございません。
一笑々々 かしく
十二月八日 抛筌斎(千利休の号)
梅村坊 様 玉座下 易(宗易=利休)」

(掛け軸の表装や箱書きについての詳細が記されています)

[雑記]
(備考)右に図示した笈櫃(おいびつ:背負い箱)は、松平不昧公が参勤交代の際に家臣に背負わせて道中を共にしたものです。また、この笈櫃の中の道具の詰め合わせ配置図は、不昧公ご自身が書き記したものです。

(以下『古今名物類聚』からの引用として、油屋肩衝の寸法や附属品の仕様が再度詳しく記されています。)
油屋肩衝の伝来として、油屋常祐から豊臣秀吉へ献上され、その代わりとして銭三百貫と「北野茄子(別の名物茶入)」を賜ったこと、その後、福島正則(左衛門太夫)が所持し、のちに雲州公(松平不昧)の手に渡ったことが記されています。
下部の帯は細く、肩の部分には金気(金属的な光沢)が強く出ており、まるで青玉のようです。全体的に金気が多く、美しく優れた出来栄えであり、底の板起こし(糸切り跡)は荒々しい方です。
(『麟鳳亀龍』より)

松平出羽守所持の油屋肩衝は、下地が柿色で黒い釉薬が流れています。正面の景色には黒釉の中に黄色い釉薬が所々に見られ、全体的に黒釉のムラがあります。土は濃い薄鼠色で少し赤みがあります。
(『諸家名器集』より)

唐物の茶入は、この「油屋」と「松屋」の両肩衝を手本とします。時代は千年前のもので、まさに中国製(漢作)です。
(『山澄家本茶入控』より)

油屋肩衝は全体が柿色で、口の作りは品が良くすっきりと切れています。口の立ち上がり(甑)に轆轤(ろくろ)の跡があり、肩は真っ平らで精巧な轆轤目があり、少し庇(ひさし)のように張った肩で、胴はふっくらと張っています。底の土に一箇所絞ったような跡があり、全体的に削り跡は高く、土の目は細かいですが、絞った部分だけは荒く見えます。
(『茶入名物記』より)

油屋常祐は和泉国堺の人物で千利休の弟子です。彼が所持していたため世間では油屋肩衝と呼びます。のちに秀吉に献上し、代わりに北野茄子を賜りました。その後、妙国寺へ寄付され、諸堂建立の資金とするため寛永年間に阿知子宗内が買い求め、世に出たといいます。
(『利休百会解』より)

(以下、永禄10年と永禄12年に行われた油屋常祐の茶会の記録(『今井宗久日記』)が抜粋されています。参加者や使われた道具の組み合わせが記載され、この茶入を見た当時の感想として「薬色(釉薬の色)も良く、形も美しく立派に見えた」と記されています。)
「一段と見事な壺である。この壺は特別に作為的に凝っているようには見えないが、かといって古びて枯れすぎているわけでもない。何とも言えず良い壺である。茶の湯の作法からすると際立って特別には見えないが、初心者くさいところもなく、風情を外した面白みのない壺でもない。」
(『津田宗及茶湯日記』より)

元亀3年閏正月25日朝の油屋常祐の茶会(『津田宗及茶湯日記』)
「右の肩衝(油屋肩衝)を見るのは二度目である。良いものである。ただし胴のあたりで少し張り出し、底になると急に細くなっている。他と比べて大ぶりな形である。土は黄赤色で、底は釉薬がかかっていない。釉薬の景色として正面に垂れ(なだれ)が一筋あり、脇に二筋ある。正面の景色が少し見えにくい壺である。」

天正15年3月2日朝、堺での油屋常悦の茶会(『宗湛日記』)
(神谷宗湛が油屋肩衝の寸法や釉薬の垂れ具合、底の土の色、蓋や仕覆の様子を非常に細かく観察して記録した文章が引用されています。「肩は一様に釉薬が濃く、黒の中に飴色がある」「正面には釉薬の垂れが一つ下までかかっている」など詳細な描写があります。)

(後半は歴代の所持者に関する記録です)
この油屋肩衝は、のちに福島正則(左衛門太夫)が所持し、寛永元年にその子・市之丞から徳川将軍家(大猷院=徳川家光)へ献上されました。その後、寛永3年に徳川家光から老中・土井利勝(大炊頭)に下賜され、土井家で将軍を招いた際のおもてなしにこの茶入が使われたことが『寛政重修諸家譜』などに記録されています。
『古名物記』や『雪間草茶道惑解』などによると、この茶入は豊臣秀吉に献上されたのち、福島正則、土井利勝の手に渡り、その後、豪商の河村瑞軒が土井家から二万両の借金のカタ(質物)として預かりました。さらにその後、江戸の豪商・冬木家(冬木小平次、上田宗五)の手に渡ったことが記されています。

冬木小平次が開催した茶会の記録(『木全宗儀本旁求茶会記』)にも、客からの所望により「油屋肩衝」が披露されたことが記されています。

『譚海』という書物には、「信州安中が災害に見舞われた際、領主の板倉伊勢守が復興資金のために家宝を二万両で売り払い、その中にあった油屋肩衝を松平不昧公(出羽守)が千五百両で買い求めた」というエピソードが載っていますが、(備考)によれば、この「板倉伊勢守」というのは「土井家」の誤りであり、安中の災害の話も誤伝であると指摘されています。実際には、天明3年の浅間山噴火と天明の大飢饉の時期に、不昧公が冬木家から千五百両で買い取った事実が誤って伝わったのだろうと推測されています。

『雲州実物伝来書』には、古来より唐物の大肩衝茶入は一万両の価値があると言われており、この茶入に添えられた若狭盆も大変珍しく、中国の元朝の頃(日本の弘安の頃)に若狭に漂着した品であろうと記されています。
宝永の頃に江戸の商人・冬木小平次が借金の代わりに受け取り、その後、天明3年に私が仲介して松平家がお買い上げになりました。付属の「油屋裂」と呼ばれる仕覆は大変珍しい裂地です。(『伏見屋手控』より)

(妙国寺文書や仏家人名辞典の引用)
堺の妙国寺の開山である日珖上人(にっこうしょうにん)は、俗姓を伊達氏といい、油屋常言の息子であり、油屋常祐の弟にあたります。常言や常祐は妙国寺の大檀那(強力な後援者)でした。

(伝来について)
[松平不昧公の遺訓]
「圜悟禅師の墨蹟」と「油屋肩衝(漢作)」のこの二品は、天下の宝物である。天下に名物は数多くあるが、この二品に匹敵するものはない。子々孫々に至るまで格別に大切に保存するように。
(文化8年9月 松平不昧から嫡男の出羽守へ)

「圜悟墨蹟と油屋肩衝は、参勤交代の往来の際に私が駕籠に入れて国元(出雲)へ持参していたが、道中の安全が心もとないため、これからは大崎の別邸の蔵に納めておくように。」
(松平不昧から斉恒へ)

この茶入は元々、堺の町人である油屋常言が所持していました。常言は本姓を伊達氏といい、堺の妙国寺の開山である日珖上人の父にあたります。その子・常祐は千利休の弟子であり、日珖の兄です。さて、油屋がこの茶入を豊臣秀吉(太閤)に献上した年代については、様々な書物に異なる説があるため、次にそれを挙げます。
(1) 北野茄子の由緒書および妙国寺文書には「文禄年中に油屋常言から秀吉に献上した」とあり、(2)雲州宝物伝来書には「慶長のころに秀吉公へ献上した」、(3)利休百会解には「常春のころに秀吉に献上した」とあります。
その後、豊臣秀吉はこれを福島正則に下賜し、その子・正利が幕府へ献上しました。寛永3年には将軍・徳川秀忠から土井利勝へ下賜されました。土井家は長くこれを伝えていましたが、のちに二万両の借金のカタとして豪商・河村瑞軒に預けられました。宝永のころに江戸の冬木家(上田宗五)の手に渡り、天明3年に松平不昧公の所蔵となりました。
当時「一万両の価値がある」と言われていたこの茶入を、実際には一千五百両で譲り受けることができたのは、ちょうど天明の大飢饉の最中だったためと思われます。不昧公はこの時三十三歳で、この類まれな名器を手に入れたことを大変喜び、圜悟禅師の墨蹟と並んで家宝の第一と定めました。新しい箱を作って袋を添え、参勤交代の際には背負い箱(笈櫃)に入れて自ら持ち運び、片時もそばから離しませんでした。晩年に大崎の別邸に隠居した際には、深く蔵の奥に納めてそのまま大切に保存するよう、跡継ぎに厳しく遺言しました。

松平家の古老の言い伝えによれば、ある人が不昧公に「もし将軍家から油屋肩衝を譲ってほしいと望まれたらどうなさいますか」と尋ねたところ、公は「将軍家のご所望とあらば断ることはできない。しかし、その代わりとして領地一国を頂かなければならない」と答えたそうです。
またある時、幕府の老中から「油屋肩衝を一度拝見したい」と求められた際、公は老中を藩邸に招き、自ら幾重にも包まれた箱や袋を解いて茶入を取り出し、若狭盆に載せて恭しく老中の前に差し出しました。そして老中が見終わるのを待つや否や、「もうよろしいですね」と言い終わる間もなく、すぐに元の箱にしまってしまったといいます。
その後、松平家においても、家老クラスの者であっても一生に一度拝見が許されるかどうかという扱いで、普通の家臣には一切見せることなく、全くの「秘蔵中の秘蔵」とされていました。大正6年、松江市で行われた不昧公の百年忌展覧会の最終日に、初めて一般に公開されたため、噂を聞きつけて遠方からわざわざ見に来る人が大勢いました。

[実見記(実際に観察した記録)]
大正7年5月28日、松江市の松平伯爵家事務所において実際に拝見しました。
口の作りは粘土を折り返して内外を削ぎ、先端が鋭くなっています。同種の中国製(漢作)の肩衝茶入と比べると口の直径がやや小さく、たとえば「初花肩衝」と比べると他の部分はほとんど同じ寸法ですが、口の直径が初花より二分五厘(約7.5ミリ)ほど小さく引き締まっているのがこの茶入の特徴と言えます。首の周りに轆轤(ろくろ)の筋が一本あり、腰のあたりにもくぼんだ筋が一本あります。この腰の筋が他の茶入に比べて少し下の方にあるのも特徴です。
裾から下は濃い鼠色の土が見え、底は糸切り跡が荒々しく、少し絞られたような形状です。全体的には柿色で金属的な光沢(金気)があり、その上に黒飴色の釉薬の景色が広がっています。正面の景色(置形)は、肩の下からムラになって広がり、腰紐のあたりで一筋の垂れ(なだれ)となって、盆に接するあたりで止まっています。この景色の右手に小さな釉薬のかかっていない隙間(火間)があります。
全体の釉薬の質は見事で、金気が多く、青みがかった茶色など様々な色彩が混ざり合い、どの角度から見ても見所があります。内部の口縁にも釉薬がかかっており、その下には轆轤の目が巻いています。
作られた時代の古さ、形、釉薬の質、景色のどれをとっても完璧に備わっており、しかも傷一つなく、使い古されたような疲れの跡もありません。古来より大名物茶入の筆頭として珍重されてきたのも決して偶然ではありません。数々の天下の茶入を見てきた不昧公が、最終的にこの茶入の並外れた優秀さを知り、圜悟の墨蹟と共に大切に保存するよう遺言したことからも、この茶入の真の価値がどれほどのものか察せられます。

【原文】

油屋肩衝

漢作 大名物 伯爵 松平直亮氏蔵

名称
堺の町人油屋常言及び其子常祐の所持せし茶入なるを以て此名あり。北野茄子由緒書及妙國寺文書には『油屋常言油屋肩衝と申す茶入を太閤に指上げらる』とあり、閑事庵宗信著利休百會解には『油屋常祐、泉州堺の人にて利休弟子也。肩衝所持して世に油屋肩衝と呼ぶ』とあり。

寸法
高 貳寸七分半
胴徑 貳寸六分半
口徑 壹寸參分
底徑 壹寸四分五厘
肩徑 貳寸貳分五厘
肩幅 四分半
甑高 參分
重量 參拾壹匁四分

附属物
一 蓋 四枚 象牙
 一 窠あり 肩衝に添ふ本蓋
 一 盃つまみ 古來の蓋
 一 窠あり 利休好
 一 窠あり 織部好
替蓋袋箱懸子に入る
 右各白綾袋入 書付 不昧
一 御物袋
 鳥襷緞子緒つがり茶
一 袋 六ツ
 丹地雲紋古金襴 裏萌黄海氣 緒つがり紫
 紺綾地花兎古金襴 裏紫紋海氣 緒つがり茶
 本能寺純子(珠光好) 裏紫紋海氣 緒つがり紫 札書付 不昧
 宗薫純子 裏紫紋海氣 緒つがり遠州茶
 下妻純子 裏紫紋海氣 緒つがり遠州茶 札書付 不昧
 太子廣東 裏紫紋海氣 緒つがり遠州茶 札書付 不昧
 右三つづゝ二箱に入る
一 袋箱 二つ
 桐 白木 銀梅花金物付
 桐 白木 摺はがし梅花金物付
 右各包物紫縮緬袷
一 挽家 黒たゝき 内真塗張木地
 袋 印傳革 紐遠州茶
 包物 白紗綾單
 古挽家袋一つ縫切 緒つがり茶 裏茶純子
 箱 桐 白木 書付 不昧
一 内箱 桐 白木
 袋 ふすべ革 緒つがり藍天鵞絨
 包物 紫縮緬綿入和巾
一 外箱 けやき 鐡金具 錠前附
 包物 羽二重蒲團
一 添盆 若狭盆 利休添置くといふ
方六寸九分 高八分四厘 外青漆内朱底に朱にて徳の字あり
疊付方五寸四分 臺足の幅壹分八厘
袋 空色純子裏浅黄繻子 紐卸懸け
箱 黒塗 金粉字形
包物 紫羽二重袷
外箱 桐 春慶掻合
一 添掛物
利休の文
昨日御出今日午刻可参候
仍油屋の一儀今度も申候
相違事無之候方々取亂て
延申候近比拙子迷惑申談
候更我等も忘申事無之候
一笑々々かしく
 十二 八日
    抛筌齋
 梅村坊
   参玉座下 易
横壹尺四寸八分 竪八寸七分
上下茶卍字盡に一房紋純子、中風帯鶴菱之紋銀紗軸象牙
包物 白羽二重袷
箱 杉 白木
極 一枚 古筆了音
極箱 桐 白木 書付不昧
一 笈櫃 桐 白木 錠前付
 笈中の詰め合せ方次の如し。

(図表部分省略:利休の文掛物、第一下に盆 油屋肩衝、上に挽家古袋箱 圜悟墨蹟 東巖墨蹟などの収納配置図)

雑記
(備考)右笈櫃は不昧公参勤交代の際家臣に負はせて道中せし者なり。又右笈櫃内詰合せの圖面は、公自ら認めたるものなり。

油屋肩衝 松平出羽守 高二寸七分半、胴二寸六分半、口一寸三分、肩二寸二分半、盆附一寸四分半、懸目三十一匁四厘。挽家黒たゝき内真塗張木地、袋あらき七子織のやうなる切、緒つがり茶。御物袋鳥たすき純子。蓋三枚、内二枚スあり、印齋作利休好。箱桐白木袋皮緒つがり茶。外筥春慶、四方鐵金具錠前附。袋二、紺地花兎 緒つがり茶 裏海氣、富田地 緒つがり紫 裏海氣。此切鶴頭織さめ也。箱桐白木、包ものさらさ袷ふくさ。利休文懸物 竪八寸七分 横一尺四寸八分(文略)上下茶万字くづし一房紋純子、中萠黄鶴菱の紋銀紗、輪補綸、一文字風帯中の切、箱杉木地、古筆了音極あり。若狭盆、袋純子、筥黒塗金銘。外箱春慶塗。右二品、油屋肩衝に添入圖あり。
(古今名物類聚)

油屋肩衝 油屋淨祐より秀吉公上三百貫、北野茄子をたまふ。初福島左衛門太夫所持、雲州公。柿の黒のなだれ飴にすき、口作丸ぶさき方、胴の下帯細く、肩金氣つよし、青玉の如し、一體金氣多く、うるはしく上作なり、板おこし荒き方。附属物の記事及説明付の茶入圖あり)。
(麟鳳龜龍)

油屋肩衝 松平出羽守 地柿黒薬流る、置形黒薬の内に黄薬所々に有之、一體地黒薬むらむらむら有之候、土薄鼠濃く、少し赤みあり。盆付板起の事、鉢形むつくりと出来見事(寸法附属物茶入圖あり)。
(諸家名器集)

御唐物茶入は油屋、松屋、兩肩衝を手本とす、時代千年、則是漢作なり。
(山澄家本茶入控)

油屋肩衝 漢なり。
(不昧公著瀬戸陶器鑑寫)

油屋肩衝 惣體柿地口作品能く、すつかりと切る、甑にろくろ有之、肩に真平に上作なる轆轤有之、少々ひさし肩、胴むつくりと張る。底土に一ケ所しぼりの様に、シヨリ/\としぼりたる所あり、一體さくりとも高く、土は細かなれども、しぼの所にては荒く見ゆる。置方あめの上黒薬のかゝりたるものなり、肩にかなけなどあり、甚だ見事なるものなり(附属物の記事、茶入圖あり)。
(茶入名物記)

油屋肩衝 堺在之分、あぶらや淨祐。
(天正名物記)

油屋常祐 泉州堺の人にて利休弟子也、肩衝所持して、世に油屋肩衝と呼ぶ。常春の世に秀吉に獻じ、其代として北野茄子を賜ふ、其後妙國寺へ寄附し諸堂建立の爲め、寛永年中阿知子宗内買求めて、世に出るとなん。
(利休百會解)

永禄十丁卯年五月二日朝 油屋常祐會
宗及 道設 宗久 宗和
一 風爐 長板 五徳 スチ釜
一 床 芙蓉の繪かけて
一 肩ツキ 四方盆にすへて
一 晴元 細川天目 カヅの臺
一 水指 手桶
一 茶杓 アサチ竹
一 水下 合子
(今井宗久日記拔萃)

永禄十二年己正月九日朝 油屋常祐會
丁雲 宗及
爐 釣物 五徳 茶候時常祐出て被立候
床 ちとつき四方盆に
袋 白地金襴
曜變天目 敷臺ニ 水指 手桶
合子水下 薄カウライ茶碗
らとつき始て一見なり。ゴロよし、土藥もよく候、形りも美しく見えたり、此ハ大形ニ見えたり。藥色薄柿に濃い柿藥をかけ候、面ハナダレあり、但ナダレの筋数多あり、面方見定がたし、土のコロ大スグレニハナシ。盆附一段セバシ、ロツカリよし、藥色よし、カタメニハナシ、一段ケクゝミタル壺也。此壺一段コヒテハ不見候、又タフケタル心モナシ。何トモナクヨキ壺ナリ、茶湯方ニ一入ニハ不見候、初心ナルコロハナシ、ブミハヅシ面白ノアヂハナシ。
(津田宗及茶湯日記)

元龜三年後正月廿五日朝 油屋常祐會
醫師宗珠 宗及 ケチヤ慶祐 市琢 宗閑
一 床 カタツキ 四方盆ニ 一 釣物 風爐 後ニ手桶曜變ノ天目
常悦茶ヲ被立候
右カタツキ再見ナリ、善シ、但胴にて少し張り、底ニナルトコロ急ニ細ク也、比中より大形也、土黄赤き也、底ハゲ底なり、藥ラシテ面ヘナダレ一筋あり、脇ヘ二筋あり、面見へにくき壺なり。
(津田宗及茶湯日記)

天正十五年三月二日朝 堺にて
油屋常悦御會
宗言 宗湛
四疊半六尺床に、肩衝袋に入れ四方盆にすゑて云々。肩衝をば手水の間にてすみをりの疊になほしたてらる。
肩衝 惣高二寸七八分口、廣一寸三分、同高三分、肩、廣四分。
一文字につきて、そと中より肩の方丸めあり。肩一様に藥濃くして、黒内に飴色あり、帯は腰よりさがりてあり、藥そとはげ高なるやうなり、表の如くなる藥脇にもあり、脇になだれ二つあり、表にはなだれ一つ下まで懸て、露さきなし、底はたゝきにて作懸なり。土の色青めにあり、左のさきにも藥のチケイあり、表の藥わきに上下に飛びたる上藥あり、帯より下すそ細し。蓋の中つくは上平也、バク古し、袋は白地小紋の金襴、緒つがり紅なり。
(宗湛日記)

油屋肩衝 福島左衛門太夫殿。
(東山御物内別帳)

福島正則正則の子市之丞 寛永元年、大猷院に大光忠の刀、大森義允の脇差、あぶらやの茶入をたてまつる。
(寛政重修諸家譜)

寛永六年將軍家へあぶらや茶入、犬みつたいの御腰物、權現様より拜領の大もりよし、みつの御脇差。福島左衛門太夫遺物。
(諸家遺物得物獻上記)

福島正則遺物覺 あぶらやの茶入、犬みつたいの御腰物、大もりよしみつの脇差、右將軍様、寛永元年七月十五日正則判。
(高木文二郎氏藏福島正則文書)

油屋肩衝 唐物 冬木小平次所持、初福島左衛門太夫所持、後土井遠江守所持、寸法茶入圖あり。
(茶器圖寸法書)

あぶらや 土居遠江殿。
(玩貨名物記)

土井利勝大炊頭 寛永三年九月六日、二條城行幸の時、利勝諸事を奉行す、禁裏より薫物十合、中宮より縹珍甘卷及薫物を賜ふ。其後大猷院殿(家光)本城に召され、油屋肩衝の茶入を賜ふ。六年八月二十八日大猷院其邸に臨む。九月二日又渡御。後台徳院(秀忠)大猷院渡御あり。利勝先にたまふ所の油屋肩衝の茶入を以て饗し奉る。
(寛政重修諸家譜)

寛永三十一年朔日、徳川秀忠より土井利勝へ油屋肩衝の茶入を賜ふ。
(茶事年鑑)

油屋肩衝 土井遠江守、松平出羽守。 豊臣秀吉へ油屋常言より上る、代り鳥目三百貫、北野茄子たまはる(此北野茄子松平隠岐守にあり)。福島左衛門太夫所持、故あり河村瑞軒へ來る、卯年に於て冬木小平次所持。
(古名物記)

油屋肩衝 昔中頃土井大炊頭殿御所持、代々有之、川村平大夫渡、其後冬木小平次所持。此肩衝と蔓付茶入兩種を河村随軒、金貳萬兩質物に、土井氏より取と云ふ。蔓付唐物冬木宗五求之、名物記に出る道具なり、添盆巳らさ盆添ふ。
(雪間草茶道惑解)

油屋肩衝 土井大炊頭殿、川村隨見、上田宗五、今雲州公。
(千家中興名物)

油屋肩衝 川村瑞軒より來る(寸法附属物茶入圖あり)。
(遠州所持名貨帳)

油屋肩衝 川村瑞見所持、後冬木小平次。
(名器便覽)

油屋肩衝、唐物 江戸冬木寸寸法、附属物茶入圖あり。
(藤庵文庫甲第六號)

(年號不明)九月十七日 冬木小平次茶會。
廣島屋平十郎  鼠屋半兵衛
一 掛物 佐理卿文
一 水指 南蠻物
一 茶入 唐津 袋珠光純子
一 茶碗 三島
一 花入 名物 園城寺 花、菊
一 書院掛物 雪舟布袋
一 香爐 せと向獅子 利休所持
一 屏風 古法眼七賢人
所望 油屋肩衝
(木全宗儀本旁求茶會記)

信州安中驛泥土うづみ破滅せし故領主板倉伊勢守殿重大の什器を沽卻し、國中を再興せられぬ。其價二萬兩也。その内に油屋肩衝と云ふ茶入をば、松平出羽守殿千五百兩に求められけり。此器は太閤秀吉公秘藏のものにて、東照宮へ賜り給へりしを、又板倉伊勢守殿先祖拜領ありし事にて、天下無双の名器といひ傳ふ。
(譚海)
(備考)譚海の著者津村正恭は不昧公時代に生存せし人なれど往々誤傳を載す。右の文中板倉伊勢守は土井大炊頭の誤にて、随て安中驛の事も誤聞なり。但し天明三年淺間嶽噴火、東北饑饉の際、不昧公の購求せしを誤り傳へたる者なるべし。
油屋肩衝 油屋淨祐所持。慶長頃秀吉公へ差上其後御上御物に相成、寛永頃土井大炊頭利勝拜領、實永頃冬木小平治御用金替りに戴き、天明三年私方より御取次申上、御買上に相成、御代金千五百兩。古來は惣體唐物大肩衝御茶入は、位金一萬兩の御座候。御袋油屋と申至て珍敷御品に御座候。添盆、若狭盆、此御品數至て當時少く御座候。唐土元朝頃日本へ渡る、若狭へ舟着す、其節有之。但弘安頃有之か。
(雲州實物傳來書)

油屋肩衝、唐物。印時代極品の印也 上様御覽、元堺町人油屋常祐所持、慶長の頃秀吉公へ差上る。其後御物となる。寛永の頃土井大炊頭利勝拜領す。實永の頃江戸町人冬木小平次御調金の替りに戴き、其後天明三年私方より御取次御買上に成る。替袋油屋切と申す、至て珍敷切に御座候。添盆若狭盆、此盆當時至て數少なく、唐土元朝の頃日本へ渡りし若州へ來船持渡る、本朝弘安の頃に有之か。添文利休文。
(伏見屋手控)

妙國寺 南北五町 東西二町 永禄五年三好實休建立
開山佛心院日珖上人 慶長三戊戌八月廿七日寂。歳六十七
父 師 直行院常言 日意 永禄八丑十月朔日。七十七歳
兄 師 信行院常祐 日徳 天正七卯七月四日。當山大檀那
(妙國寺文書)

日珖 和泉堺妙國寺の開山なり。佛心院と號す、俗姓伊達氏、天文九年堺に生る。弘治元年父常言の爲に宗門眞秘要路を著す。永禄元年河内國高屋城主三好義賢入道實休、師を請して戒を受け安居の地を割く。五年五月實休、家臣松永彈正久秀に弑せらる。師城中の男女を率ゐて堺に置き亂を避けしむ。十一年父常言、廣普山妙國寺を興す。
(佛家人名辭典)

北野茄子茶入と申者、永禄年中太閤様へ從堺住油屋常言油屋肩衝と申茶入被指上候時、爲其代此北野茄子并鳥目三百貫文油屋常言に被下云々。
(北野茄子茶入由緒書及び妙國寺文書)

安永七戊年 伏碁 冬木油屋肩衝、千六百兩。甚兵衛へ銀三十枚
(大崎様御道具代御手控)

油屋肩衝 冬木小平次所持。明和二の頃取次ぎ、松平出羽守樣上る(寸法、附屬物、茶入圖あり)。
(伏見屋筆記名物茶器圖)

(備考) 明和二年(不昧公十五歲)は天明三年の誤なり。

(一)實物之部
一 圜悟禪師墨蹟
一 油屋肩衝 漢
右兩品者天下寶物也。天下名物雖多此二種無比、子々孫々格別大切可致者也。
 文化八年未九月 不昧
 出羽守殿
(松平不昧傳)
(前略)圜悟(墨蹟)油屋(肩衝)御往來に國許へ駕籠に入候て持参候へども道中無覺束候間、以來は大崎藏に入置可被申候事。
 齊恒殿 不昧
(松平不昧傳)

傳來
元堺の町人油屋常言所持なり、常言は本姓伊達氏、堺妙國寺の開山日珖上人の父にして、永禄八年十月朔日七十七歳を以て歿せり。其子常祐は利休の弟子にして、日珖の兄なり。さて油屋が此茶入を太閤に獻じたる年代に就き諸書に異説あれば次に之を掲ぐべし。
(一)北野茄子茶入由緒書及妙國寺文書には、文禄年中油屋常言より秀吉に獻せり、とあり。
(二)雲州寶物傳來書には、油屋淨祐(常祐ノ誤ナルベシ)所持、慶長の頃秀吉公へ差上とあり。
(三)利休百會解には、油屋常祐所持にして常春の世に秀吉に獻ず、とあり。
既にして太閤之を福島左衛門太夫正則に賜ひ其子正利之を幕府に獻じ、寛永三年十一月朔日將軍秀忠之を土井大炊頭利勝に賜ひぬ。斯くて土井家は久しく之を持傳へたる後、此肩衝と蔓付茶入とを合せて二萬兩の質物として、河村平太夫瑞軒(元禄十三年六月十六日歿、年八十三)に附與せり。然るに寶永の頃江戸深川の冬木こと上田宗五の手に渡り、天明三年遂に松平不昧公の所藏に歸せり。而して此茶入は當時位金一萬兩と稱せられしを、實際一千五百兩にて譲受けられたるは、時恰も天明大饑饉の際なりしが爲めならん。不昧公此時三十三歳にして絶代の名器を獲たるを喜び、圜悟墨蹟と併せて家寶第一と爲し、箱を作り袋を添へ、参勤交代の節は笈櫃に納めて之を運び、寸時も其座右を離さず、晩年大崎の別墅に退隠するや深く寶庫に納めて其儘大切に保存すべき旨、世子月潭に遺誡せらる。雲州家古老の傳ふる所に由れば、或人不昧公に向つて將軍家若し油屋肩衝を所望せられたならば如何にせらるべきかと問ひたるに、公は答へて宗家の望とあらば敢て辭すべきにあらず、然れども其代りとして領土一國を拜領せざるべからずと言はれたりとぞ。或時幕老より油屋肩衝一覽を請はれたるに、公は乃ち之を藩邸に招き、親ら笈櫃を開きて、七重八重に包まれたる革袋箱包物等を取り除き、肩衝を出して若狭盆に載せ恭しく之を老中の面前に提出して、頓て一覽し終るを待ち、「もはや宜しく候や」と言ひもあへず直に又もとの箱に納めたりと云ふ。其後雲州家にて、家老には其一代に一度拜見を許されたる事あれども、其他普通家士には之を示せしことな、く全く秘藏中の秘藏と爲したりとなり。大正六年四月二十八日より三日間、松江市に於て不昧公百年回忌展覽會を催せる折、其最終日に於て、舊松江城内興雲閣に陳列して、始めて之を公衆の縦覽に供せしかば、之を傳聞して遠方より態々來觀せし者頗る多かりき。

實見記
大正七年五月二十八日、松江市松平伯家事務所に於て實見す。
口作粘り返し兩そぎ及先鋭く、同種の漢作肩衝茶入に比すれば口徑稍小さく、例へば初花肩衝と他の部は殆んど同寸なれども、彼は口徑一寸五分五厘、是れは同一寸三分にして、二分五厘方縮りたるは、此肩衝の特徴と謂ふべし。甑廻りに輪筋一本あり、又腰の邊に沈筋一線あり。而して此一線が他の茶入に比して稍下半にあるは、是れ亦此茶入の特徴なり。裾以下濃鼠色の土を見せ、底板起しにて其面少しく絞れり。總體柿金氣色にして其上に黒飴釉の景色あり。置形は肩下よりムラムラと彌漫したる模様の腰紐下に至りて一筋なだれと爲り、盆附際に至りて止まる。此置形に向つて右手に小さき火間あり。總體釉質美事にして、金氣多く、青茶其他種々の色彩あり、景色も全部に渉りて、何れの方面にも見所あり。内部口縁釉掛り、以下轆轤目繞る。時代作行、恰好、釉質、景色何一つとして具備せざるものなく、且つ無疵にして持疲れの跡なく、古來大名物茶入中の首位として貴重せられるも偶然に非ず。不昧公が天下の茶入を歴觀して後、愈々此茶入の優秀なるを知り、圜悟墨蹟と共に大切に之を保存すべき旨遺言したるを觀ても、亦此茶入の眞價如何をトすべきなり。

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