漢作 大名物
伯爵 酒井忠道氏藏
名稱
舊名烏丸肩衝と云ふ、鳥九大納言家に傳はりしを以てなり。天正十五年烏丸家より北野大茶湯に出陣して豊臣秀吉の目に留りたるより更に北野肩衝と稱せらる。
寸法
高 貳寸九分餘
胴徑 貳寸五分餘
口徑 壹寸四分
底徑 壹寸四分
甑高 三分餘
肩幅 四分七厘
重量 參拾四匁四分
附屬物
一蓋 一枚 窠
一御物袋 白羽二重箱つがり白
一袋 三ッ
橘屋切 裏玉虫 緒つがり茶
本能寺切 裏玉虫海氣 緒つがり紫
鎌倉廣東 裏玉虫 緒つがり紫
一袋箱 桐 白木 緒眞田青
北野肩衝 替袋
橘屋切
蓋アリ
本能寺織留
鎌倉廣東
一挽家 桐 白木 彫拔箱
袋 紅革 精黄
一外箱 春慶面取 錠前付
一書付 三通
北野肩衝由來
北野肩衝は昔東山義政公より三好宗三所持候て、堺の津田宗達へ渡り、其後烏丸大納言光廣拜領、家代々所持。
天正元年信長於京地諸方の道具取寄の時、烏丸家より此肩衝出づる、其後世々烏丸肩衝とも申候。
北野大茶會にも出す。
秀吉北野にて茶の湯の時、利休此亭にも飽き肩衝候と申候、故秀吉行過候へども立帰り一覧候も、此肩衝故に、又北野とも申候。
数十年烏丸家に秘痩せられしを、資慶の時に三木権太夫と申すもの金子一萬兩に引取り、元文の頃より三井八郎右衛門家に渡り、此頃まで所持候を、隠居宗六より譲受候もの也。
覺
一金四千八百五十兩也
北野肩衝茶入
虹天目茶碗
三好粉引茶碗
高麗筒花入
右之四點御道具爲御代り御下り被下量難有慥に奉請取爲日依而
安政二卯年十二月 三井八郎右衛門(印)
高橋有無様
(備考)高橋有無は當時若州酒井家の執事なり、
.
北野肩衝由來
北野は本宗小堀共一覧は致不申事天明寛政の頃より一覧の者は不昧殿隠居後、八郎右衛門方被相越面相伴に根土宗静一人此砌伏見屋甚右衛門供爲願候へども不相叶宗静計りに候事、甚右衛門は八郎右衛門方に彼是有之而拜見は不致候事。
但此一條は咄の在之事にて候、右咄の義は、不味殿湯治に被相越候ついては、京大阪相廻被申一覧の節、油小路三井八郎右衛門方へ茶事に被蠱候心積に付、出立前伏見屋甚右衛門へ其旨被咄、三井へ被参、所持之北野肩衝一覧申され候積故、相伸に三井へつを被申遺可申旨咄に付、甚右衛門深く有難存じ、則供致而上京致候、扨不味殿三井へ茶事に被参被申込候處、早速八郎右衛門方にても承引にて、彌幾日と申す事に相成、相伴は根土宗静と伏見屋甚右衛門と申事にて、三井へ其趣申込の處、宗静は長畏申候伏見屋は道具屋の事故、是は御斷申候旨返答有之、不味殿にも大にがく然と被致、折角約束致被申供につれ被参、今更致方無之と早速に甚右衛門を呼び其事御咄有之、同人も大に嘗戚の儀、如何にも不味殿にも気の毒に被思、段々勘考被致能考付申とて、伏見屋に被申候は、何分にも先方相伴は斷参からは致方無之故、相伴に宗静一人に被致て、扨當日此方三井へ参居時甚右衛門不味様の御機嫌伺に罷出申候と申て三井へ参候其節に用有之候に付、茶席へ罷出可申旨此方可申間右にて肩衝拜見出來申候に付其都合被心得可居との事にて誠に甚右衛門大悦にて下り申候。扨明日三井何時より被参申と申事向側より得と手紙にて申遺在之扨當日不味殿には宗静一人相伴にて、八郎右衛門へ被参、追々茶事相濟申て、八郎右衛門肩衝を盆に載せ持出直に勝手口に控罷在不味殿とくと一覧、宗静にも拜見爲致爲申、何分伏見屋の出申事も無之に付亦不味殿被見而其長々被拜見心に待ち被居候へども、何分不罷出萬一昨日彌明日参ると申遺儀間達にも致候識と彼是深心配被致申候へども、何分にも不出故、繰り長く相成如何に付袋に仕廻被申而八郎右衛門へ返し被申候と、同人請取り引下り亦勝手口を開け罷出伏見屋甚右衛門御機嫌伺に罷出申候と申候、最早濟申候後の事故、何の用にも不相成只承知の返にて不味殿仕翹被申候。扨帰館被致申候と甚右衛門も直に罷越申候に付不味殿何故あれ程段々の都合申置候處、如何の事かと被申候と、甚右衛門も私は四ツ前頃より三井へ参り申し不味殿御出の旨に付、御機嫌伺に罷出候に付申上候様に申候慮委細承り早速可申と申して別席にて種々馳走丁寧なる事にて御座候、如何にも御沙汰無之に付、三四度も申上候様に申候事にて、私は何故御約束を違召し被下不申事かと甚だ不審にて罷在候と申候へば不味殿はてそれは八郎右衛門儀右の様子を悟り、相済む迄おさへ置済み申して聞之申口に候。
同じ事
跡にて申候事に有之、肩衝を見せまじき手段なりと被申候事之由。
天保になりて、姫路家臣隼之助八郎右衛門方へ茶事に参り一覽候此外には一覧の者一人も夫れは無之候、松周防守水野越前守にも、一覧無之候、京地の者にも一覧の者一人も無之事天明年中より近頃までに、不昧殿と隼之助助、根土宗静とばかり、餘は一人も一覧は無之事、本宗小堀共咄聞之申口に候。
北野大茶會の砌、鳥丸家所持、尤元来は足利将軍家より傳來、日野肩衝同じ事。
烏丸家より三木權太夫より、三井引取申候。日野肩衝は日野家より、大文字屋疋田と云ふ者初花を上り其替りに日野を買取さ申事古仲人也。
大茶會
秀吉に、めんぱく新田二つ出る手前と分二錺宗及手前三利休同四、宗三同宗及には初花出る、利休には奈良芝(柴)出る、宗三にはき(鳴)肩衝出る、北野大茶會に出る。烏丸同出る事上には松本肩衝昔は京松本氏所夫より和州領筒井順慶家、大佛左京家老土門氏
雑記
天文十一年四月四日境天王寺屋宗達
久政 又五郎 少清
床に長盆に北野肩衝 天目
土青黒目也、藥の内になだれあり、惣藥黒めなり、うすかきあり、ヘラ六つあり、糸切。 (松屋筆記)
北野肩衝 昔柏屋所持烏丸大納言光廣卿。 (古名物記)
烏丸肩衝 京都の分、烏丸殿御所持。 (東山御物内別帳)
北野カタツキ 公家烏丸殿に有。 (山上宗二之配及び茶器名物集)
肩衝 烏丸大納言殿、 (玩貨名物記)
肩衝キタノ 唐物 大名物 烏丸大納言。 (古今名物類衆)
北野肩衝 漢なり、残月、國司茄子、松山、久我と同時代なり、又松山、久我と
は同手同藥立なり。 (不昧公署瀬戸陶器濫觴)
烏丸肩衝 北野肩衝とも云ふ。二寸九分地柿藥黒藥本いと切。 (雲間草茶道惑解)
北野烏丸 宗達所持。 竪二寸九分半、横二寸四分強、廻り七寸八分、底一寸四分、口一寸三分半、同長三分、膨一寸五分、藥濃い柿、面にパッとあり、又赤らめ柿もあり、土あらめに黒し(茶入圖あり)。 (万寶全書)
北野 烏丸大納言、今三井八郎右衛門。甚だうるはしく、黒の班、時代殘月に同じ板おこし。 (麟鳳龜龍大名物の部)
烏丸肩衝 北野肩衝と改る。高二寸二分、筒廻り七寸九分、指渡し二寸五分、盆付一寸三分半、こしき二分八厘、肩の間四分、同差渡し二寸二分、袋三、本能寺、橘屋、鎌倉かんとう鶴ヶ岡、土淺黄、篦おこし、地藥柿、肩黑藥なだれ、黒藥(茶入圖あり)。 (石州流過眼錄)
天正十六年(髄麟)十月北野大茶湯の時、豊臣公宗易を召つれられ、方々茶亭の風流御遊覧ありて、烏丸亞相の圍の前を過ぎさせ給ふを、易このうちによき肩衝御座候と申て、入れまゐらせ、御目にかくる。 (茶話指月集)
秀吉公も大方鎮まりしほどに、北野にて茶湯有らんことて、天正十三乙酉(十五年丁亥の誤也)の秋、京奈良堺に高札を立られ、北野大茶の湯と云これなり。(中略)夫より方々圍ひ道具御覧あらんとて、御小姓衆十人斗り召連れられ、まづ蜂屋出羽守が圍へ御入、御茶あがる、又出羽守も召連られ方々御覧あり、烏丸光廣卿の數寄屋の前御通りの時、利休この内に好き肩衝御座候とて御進め申、御入あり。 (茶事秘錄)
北野衝茶入 高さ二寸九分、筒廻り七寸九分、但指渡にて二寸五分一厘、底指渡一寸三分五厘、こしき高二分八厘、肩の間四分、肩の差渡二寸二分、口指渡一寸四分五厘、掛目三十四匁二分、桐の挽家、袋紅皮。莒黑皮の籠、淺黄紗綾の袋(茶入圖あり)。 (勝海舟本名物控)
傳來
元足利義政所持、三好宗三を経て堺の天王寺屋こと津田宗達に傅はる。
其後烏丸大納言家の所持となり、鳥丸肩衝の名を以て知られしが、北野大茶湯の節烏丸家より出陳せられ、利休の案内にて秀吉之を一覧せしより、北野肩街の稱ありと云ふ、而して其後猶ほ数十年間島九家に秘蔵せられしが、鳥丸資慶の時に至り、金一万兩にて三木樺太夫に譲られ、元文の頃京三井八郎右衛門の手に入り、爾來同家の秘藏たり、文化の頃松平不昧公根土宗静、天保年間姫路藩家老河合隼之助一覽せし外、絶えて此茶入を目撃せしものなかりしが安政二年十二月京都所司代酒井忠義(後忠祿と云ひ温良院と諡す)、京の三井宗六より虹天目、三好粉引、高麗花入と共に、四千八百五十雨にて譲り受け爾後酒井家の竹物と爲れり。
實見記
大正八年四月二十五日、東京市牛込區矢來町酒井忠道伯邸に於て實見す。
漢作茶入にして、口縁粘り返し精巧、甑低く肩衝き、總體紫氣を含みたる柿色地にて、甑廻りに黒釉の一線を繞らし、肩半面黒釉濃厚なり、又肩の邊に地釉薄くして火間の如く見ゆる所三ヶ所あり、置形黒釉なだれ盆附に達し、其黒釉中に籠目の如く柿色地釉の現れたる所二ヶ所あり、胴に茶入三分の一に亙る横筋あり又極く小さき煎餅膨れポッボツあり釉掛り深く盆附際より薄赤き鼠色土を見せ、底は板起しにて共緑少しく高く、一部磨りたる所あり、裾の邊より、底縁に掛けて形を成したる細き篦筋一本あり、手取軽く其景色鮮明なるは頗る初花に似たり、氣格まで高く、無疵にて一點の申分なく、漢茶入中最も優秀なる者謂ふべし。