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北野肩衝

北野肩衝(きたのかたつき)

中国製(漢作) 大名物 伯爵 酒井忠道氏 蔵

名称
元の名を「烏丸肩衝(からすまかたつき)」と言います。これは烏丸大納言家に伝わっていたためです。天正15年(1587年)、烏丸家から北野大茶湯に出品され、豊臣秀吉の目に留まったことから、さらに「北野肩衝」と呼ばれるようになりました。

寸法
高さ:2寸9分余り
胴径:2寸5分余り
口径:1寸4分
底径:1寸4分
甑(こしき・首の部分)の高さ:3分余り
肩幅:4分7厘
重量:34匁4分

附属物
・蓋 1枚(象牙)
・御物袋(白羽二重、緒は白)
・袋 3つ(橘屋裂・緒は玉、本能寺裂・緒は玉、鎌倉広東・緒は玉)
・袋箱(桐、白木、緒は青い真田紐。中には北野肩衝の替袋、橘屋裂、蓋、本能寺の織留、鎌倉広東が収められている)
・挽家(木地を挽いて作った容器。桐、白木、くり抜き箱。紅い革の袋、緒は黄色)
・外箱(春慶塗の面取り、錠前付き)
・添え書きの文書 3通

北野肩衝の由来
北野肩衝は、昔、足利義政公から三好宗三が所持することになり、堺の津田宗達へと渡りました。その後、烏丸大納言光広(烏丸光広)が拝領し、同家が代々所持しました。
天正元年、織田信長が京都で各地の茶道具を取り寄せた時、烏丸家からこの肩衝が出されました。その後、世間では「烏丸肩衝」とも呼ばれていました。
北野大茶会にも出品されました。
秀吉が北野での茶の湯の際、千利休が「このお茶屋にも良い肩衝があります」と申し上げたため、秀吉は通り過ぎていましたが引き返してご覧になりました。この肩衝の縁により、また「北野」とも呼ばれるようになりました。
数十年の間、烏丸家で秘蔵されていましたが、宝慶の時に三木権太夫という者が金1万両で引き取り、元文の頃から三井八郎右衛門家(三井家)に渡り、近年まで所持していたものを、隠居の宗六より譲り受けたものです。
覚え書き
一、金4,850両
 ・北野肩衝茶入
 ・虹天目茶碗
 ・三好粉引茶碗
 ・高麗筒花入
右の4点の御道具を、代金と引き換えに払い下げていただき、ありがたく確かに受け取りました。後日の証としてこの通り記します。
安政2年(1855年)12月 三井八郎右衛門(印)
 高橋有無様
(備考)高橋有無は、当時の若狭国・酒井家の執事である。

北野肩衝の由来
北野肩衝は、本多氏や小堀遠州なども拝見していません。天明・寛政の頃から拝見した者といえば、松平不昧公が隠居した後、八郎右衛門宅へお越しになり、そのお供として根土宗静がただ一人付き従った時くらいです。この時、伏見屋甚右衛門も随行しようとしましたが叶わず、宗静だけとなりました。甚右衛門は八郎右衛門方に対して色々と事情があったため、拝見することはできませんでした。
ただし、この話には次のような逸話があります。不昧公が湯治に出かけたついでに京都や大坂を巡って茶道具を拝見しようとした際、油小路の三井八郎右衛門宅での茶事に招かれるつもりでした。出発前に伏見屋甚右衛門へその旨を話し、「三井へ参り、彼が所持している北野肩衝を拝見させてもらうつもりだ。お供として三井へ同行するよう伝える」と言ったため、甚右衛門は深く感謝し、すぐにお供をして上京しました。
さて、不昧公が三井へ茶事の申し込みをしたところ、すぐに八郎右衛門側も承知し、日程が決まりました。「お供は根土宗静と伏見屋甚右衛門である」と三井へ申し入れたところ、宗静については承知されましたが、「伏見屋は道具屋であるためお断りする」との返答がありました。不昧公も大変がっかりし、「せっかく約束したのにお供できないとは」とすぐに甚右衛門を呼んで事情を話しました。甚右衛門も大変当惑し、不昧公にも気の毒に思い、色々と策を練りました。そして「先方がお供を断るというなら仕方がないので、お供は宗静一人にしてください。その代わり、当日、私が三井へ行き『不昧様のご機嫌伺いに参上した』と伝えます。その際、用事があるから茶席へ通してほしいと不昧様から言っていただければ、肩衝を拝見できるでしょうから、そのようにお含みおきください」と提案しました。これに甚右衛門は大喜びで退出しました。
さて、明日三井へ何時から参るかという手紙のやり取りがあり、当日、不昧公は宗静一人をお供に八郎右衛門宅へ参上しました。茶事が進み、八郎右衛門が肩衝を盆に載せて持ち出し、勝手口に控えていました。不昧公はじっくりと拝見し、宗静にも拝見させました。不昧公は、どうにかして伏見屋が出てこないかと、長く時間をかけて拝見し心待ちにしていましたが、一向に出てきません。「万一、昨日伝えた打ち合わせが間違っていたのだろうか」と深く心配されましたが、どうしても出てこないため、あまり長く引き伸ばすのも良くないと思い、袋にしまって八郎右衛門へ返しました。
八郎右衛門が受け取って下がると、また勝手口を開けて出てきて「伏見屋甚右衛門がご機嫌伺いに参上しております」と言いました。もう拝見が終わった後のことなのでどうしようもなく、不昧公はただ承知したとだけ返事をし、帰り支度をして宿へ帰りました。甚右衛門もすぐにやって来ました。甚右衛門は「私は午前10時頃から三井へ参り、不昧公がお出ましなのでご機嫌伺いに参上したと取り次いでもらうよう頼みました。先方は詳細を承知してすぐに申し上げると言い、私を別の席に通して色々と丁寧にもてなしてくれました。しかし一向にお呼びがかからないので、三、四度も取り次ぎを頼んだのです。私はなぜお約束を破られたのかと、大変不審に思っております」と言ったところ、不昧公は「はて、それは八郎右衛門がこちらの企てに感づいて、茶事が済むまでお前を足止めしておいたのだな」と言いました。
後になって分かったことですが、それは肩衝を見せまいとする八郎右衛門の手段だったということです。
天保年間になって、姫路藩の家臣である隼之助が八郎右衛門方の茶事に招かれて拝見しました。この他には拝見した者は一人もいません。松平周防守や水野越前守にも見せませんでした。京都の者でも拝見した者は一人もいません。天明年間から近頃までに拝見したのは、不昧公と隼之助、根土宗静ばかりで、他は一人も拝見していないということは、本多氏や小堀遠州の系統の者たちも噂して語っていたことです。
北野大茶会の折には烏丸家が所持していました。もっとも、元来は足利将軍家からの伝来品であり、日野肩衝と同じ由緒です。
烏丸家から三木権太夫へ渡り、その後三井家が引き取りました。なお、日野肩衝は日野家から大文字屋疋田という者が「初花」を献上し、その代わりに日野肩衝を買い取ったということで、古田織部がその仲介をしました。

大茶会
秀吉の席には「めんぱく(面白?)」「新田」の二つの茶入が出される(手前と分ける)。第二の席、津田宗及の手前には三つ。千利休も同じく四つ。三好宗三も同じ。宗及の席には「初花」が出る。利休の席には「奈良芝(楢柴)」が出る。宗三の席には「えき(鴫)肩衝」が出る。北野大茶会に出品される。烏丸肩衝も同様に出品される。上座には松本肩衝が置かれ、これは昔は京都の松本氏が所持し、それから大和国の領主・筒井順慶の家、大仏左京の家老である土門氏へと渡った。

雑記
天文11年4月4日、堺の天王寺屋宗達の茶会
客:久政、又五郎、少清
床の間に長盆にのせて北野肩衝、天目茶碗
土は青黒く目が粗い。釉薬の内に雪崩(釉薬の垂れ)があり、全体的に黒めの釉薬で、薄がけのところがあり、ヘラ目が六つあり、糸切りがある。
(松屋筆記より)

北野肩衝:昔は柏屋が所持。その後、烏丸大納言光広卿の所持となる。
(古名物記より)

烏丸肩衝:京都の分で、烏丸殿の御所持。
(東山御物内別帳より)

北野カタツキ:公家の烏丸殿にある。
(山上宗二之記 及び 茶器名物集より)

肩衝:烏丸大納言殿の所持。
(玩貨名物記より)

肩衝キタノ:唐物(中国製)の大名物。烏丸大納言の所持。
(古今名物類聚より)

北野肩衝:中国製(漢作)である。「残月」「国司茄子」「松山」「久我」などの茶入と同時代のものである。また、「松山」「久我」とは同じ作りで同じ釉薬の掛かり方をしている。
(松平不昧公著『瀬戸陶器濫觴』より)

烏丸肩衝:北野肩衝とも言う。高さ2寸9分、下地は柿釉で黒釉がかかっている。底は本糸切り。
(雪間草茶道惑解より)

北野烏丸:津田宗達が所持。縦2寸9分半、横2寸4分強、胴回り7寸8分、底径1寸4分、口径1寸3分半、口の長さ3分、膨らみ1寸5分。濃い柿色の釉薬で、表面に「バツ」という跡があり、赤みを帯びた柿色もある。土は粗めで黒い。(茶入の図あり)
(万宝全書より)

北野:烏丸大納言の所持から、今は三井八郎右衛門の所持。非常に美しく、黒の斑点がある。作られた時代は「残月」と同じで、底は板起こし。
(麟鳳亀龍大名物の部より)

烏丸肩衝:後に北野肩衝と改められる。高さ2寸2分、筒回り7寸9分、指渡し2寸5分、盆付き(底の接地部分)は1寸3分半、こし(甑・首)は2分8厘、肩の間は4分、同差渡し(直径)は2寸2分。仕覆(袋)は3つで、本能寺裂、橘屋裂、鎌倉広東。鶴ヶ岡の土で浅黄色を帯びており、向こう側は下地が柿釉で、肩は黒釉がかかっている。雪崩(釉薬の垂れ)があり、黒釉がかかっている。(茶入の図あり)
(右州適眼録より)

天正16年(秀吉50歳の時)10月、北野大茶湯の際、豊臣秀吉公は宗易(千利休)を連れてあちこちの茶亭の趣向をご覧になり、烏丸亜相(大納言)の庭の前を通り過ぎようとされましたが、利休が「このお茶屋の中に良い肩衝がございます」と申し上げて秀吉を中へ入れさせ、お目にかけました。
(茶道指月集より)

秀吉公も世の中が大方治まり、端の方にある北野で茶の湯を開こうということで、天正13年乙酉(「秀吉50歳」の誤写か?)の秋に、京都、奈良、堺に高札を立てて開催された「北野大茶の湯」というのがこれです。
(略)それからあちこちの庭の道具をご覧になろうということで、お小姓衆を18人ばかり連れて、まず蜂屋出羽守の庭へお入りになってお茶を召し上がりました。さらに出羽守も連れてあちこちをご覧になり、勧められてお入りになりました。その時、利休が「この中に好ましい肩衝がございます」と言いました。
(茶事秘録より)

伝来
元は足利義政が所持しており、三好宗三を経て、堺の天王寺屋こと津田宗達に伝わりました。その津田宗達が所持していたことは、天文11年4月4日の茶会においてこれを用いたという記録によって明らかです。その後、烏丸大納言光広の所有となりました。当時「烏丸肩衝」と呼ばれていたのはこの時に始まります。しかし、天正15年に秀吉公が北野大茶湯を催された際、烏丸大納言はこれを同会に出品し、間もなく秀吉公が親しく鑑賞するところとなったため、この時から「北野肩衝」と呼ばれることとなりました。
そうして烏丸家の所有となった時期、および同家から手放された時期については記録に食い違いがありますが、大茶会に出品された頃に同家の所持であったことは確かでしょう。次いで宝永の頃に三木権太夫の所有となり、その後、元文年間より三井八郎右衛門の所有となりました。(以上は、大正14年4月発行の三井家編纂による『大正名器鑑』から抄録しました。もっとも、天正15年を16年としたのは誤りであるため、ここで訂正しておきます)。

北野肩衝は、大正12年9月の関東大震災のために焼失してしまいました。当時、井上侯爵の所有であったか、あるいは他へ移っていたかは定かではありませんが、誠に惜しむべきことです。ここに掲載した写真および実測図などは、三井家から井上侯爵へ譲られる際、三井家が撮影・実測したものであり、誠に珍重すべき資料と言わねばなりません。

実見記(実際に見た記録)
大正8年4月25日、東京市牛込区矢来町の酒井忠道伯爵邸において実際に拝見しました。
中国製(漢作)の茶入で、口の縁の折り返しが精巧であり、低く肩が張っています。全体的に紫がかった柿色地で、甑(首の部分)の回りに黒釉の一線をめぐらし、肩の半分は黒釉が濃厚にかかっています。また肩の辺りに地釉が薄く、火間(釉薬がかかっていない部分)のように見える所が3ヶ所あります。この形の類で、雪崩(釉薬が垂れた景色)が盆付き(底の接地部分)に達しており、その黒釉の中に龍の目のように柿色地が現れた所が2ヶ所あります。
胴には茶入の3分の2にわたる横筋があり、また極めて小さな煎餅のような膨らみ(ポツ)があります。釉薬の掛かりは深く、盆付きの際から薄い赤鼠色の土を見せています。底は板起こし(板から切り離した跡)でその線が少し高く、一部すり減った所があり、裾の辺りから底の縁にかけてヤスリのような形をした細い筋が1、2本あります。手に取ると軽く、その景色が鮮明なのは名物「初花(はつはな)」に大変似ており、気品もまた高く、無傷で一点の申し分もなく、中国製の茶入の中で最も優秀なものと言うべきでしょう。

【原文】

北野肩衝

漢作 大名物 伯爵 酒井忠道氏 藏

名稱
舊名烏丸肩衝と云ふ、烏丸大納言家に傳はりしを以てなり、天正十五年烏丸家より北野大茶湯に出陳して豊臣秀吉の目に留りたるより更に北野肩衝と稱せらる。

寸法
高 貳寸九分餘
胴徑 貳寸五分餘
口徑 壹寸四分
底徑 壹寸四分
甑高 三分餘
肩幅 四分七厘
重量 參拾四匁四分

附属物
一 蓋 一枚 象牙
一 御物袋 白羽二重緒つがり白
一 袋 三ツ
 橘屋切 裏玉虫 緒つがり茶
 本能寺切 裏玉虫海氣 緒つがり紫
 鎌倉廣東 裏玉虫 緒つがり紫
一 袋箱 桐 白木 緒眞田青
 北野肩衝 替袋
 橘屋切
 蓋アリ
 本能寺織留
 鎌倉廣東
一 挽家 桐 白木 彫抜箱
 袋 紅革 緒黄
一 外箱 春慶面取 錠前付
一 添書付 三通

北野肩衝由来
北野肩衝は昔東山義政公より三好宗三所持候て、堺の津田宗達へ渡り、其後烏丸大納言光廣拝領、彼家代々所持。
天正元年信長於京地諸方の道具取寄の時、烏丸家より此肩衝出づる、其後世々烏丸肩衝とも申候。
北野大茶會にも出す。
秀吉北野にて茶の湯の時、利休此亭にも能き肩衝候と申候故、秀吉行過候へども立歸り一覧候、此肩衝故に、又北野とも申候。
數十年烏丸家に秘藏せられしを、寶慶の時に三木權太夫と申すもの金子一萬兩に引取り、元文の頃より三井八郎右衞門家に渡り、此頃まで所持候を隠居宗六より譲受候もの也。


一 金四千八百五十兩也
 北野肩衝茶入
 虹天目茶碗
 三好粉引茶碗
 高麗筒花入
右之四點御道具爲御代り御下け被下置、難有慥に奉請取候、爲後日依而
如件。
安政二卯年十二月   三井八郎右衞門(印)
 高橋有無様
(備考)高橋有無は當時若州酒井家の執事なり。

北野肩衝由来
北野は本宗小堀共一覽は致不申事天明寛政の頃より一覽の者は不味殿隱居後八郎右衞門方被相越而、相伴に根土宗靜一人此砌伏見屋甚右衞門供爲順候へども不相叶、宗靜計りに候事、甚右衞門は八郎右衞門方に彼是有之而拜見は不致候事。
但此一條は咄の在之事にて候、右咄の義は不味殿湯治に被相越候ついては京大坂相廻被申一覽の節、油小路三井八郎右衞門方へ茶事に被參候心積に付出立前伏見屋甚右衞門へ其旨被咄、三井へ被參、所持之北野肩衝一覽申され候積故、相伴に三井へつを被申遣可申旨咄に付甚右衞門深く有難存じ、則供致而上京致候、扨不味殿三井へ茶事に被參、被申込候處早速八郎右衞門方にても承引にて、彌幾日と申す事に相成、相伴は根土宗靜と伏見屋甚右衞門と申事にて、三井へ其趣申込の處、宗靜は畏申候伏見屋は道具屋の事故是は御斷申候旨返答有之不味殿にも大にがく然と被致、折角約束致被申候につれ被參、今更致方無之と早速に甚右衞門を呼び、其事御咄有之同人も大に當惑の儀如何にも不味殿にも氣の毒に被思段々勘考被致能考付申とて、伏見屋に被申候は何分にも先方相伴は斷參からは致方無之故、相伴に宗靜一人に被致て、扨當日此方三井へ參居時甚右衞門不味様の御機嫌伺に罷出申候と申て三井へ參候其節に用有之候に付茶席へ罷出可申旨此方可申間右にて肩衝拜見出來申候に付其都合被心得可居との事にて誠に甚右衞門大悦にて下り申候、扨明日三井何時より被參申と申事向側より得と手紙にて申遣在之、扨當日不味殿には宗靜一人相伴にて、八郎右衞門へ被參追々茶事相濟申て、八郎右衞門肩衝を盆に載せ持出直に勝手口に控罷在不味殿とくと一覽宗靜にも拜見爲致爲申、何分伏見屋の出申事も無之に付亦不味殿被見而其長々被拜見心に待ち被居候へども、何分不罷出萬一昨日爾明日參ると申遣間違達にも致候哉と被深心配被致申候へども、何分にも不出故、餘り長く相成如何に付袋に仕廻被申而八郎右衞門へ返し被申候と、同人請取り引下り、亦勝手口を明け罷出伏見屋甚右衞門御機嫌伺に罷出申候と申候最早濟申候後の事故何用の用にも不相成只承知の返答にて不味殿仕廻被申候、扨歸館被致申候と、甚右衞門も直に罷越申候と、甚右衞門も私は四ツ前頃より三井へ參り申し不味殿御出の旨に付、御機嫌伺に罷出候に付申上呉れ候様に申候處委細承り早速可申と申して、別席にて種々馳走丁寧なる事にて御座候如何にも御沙汰無之に付三四度も申上呉れ候様に申候事にて私は何故御約束を違召し被下不申事かと甚だ不審にて罷在候と申候へば、不味殿はてそれは八郎右衞門儀右の様子を悟り相濟む迄おさへ置濟み申して跡にて申候事に有之、肩衝を見せまじき手段なりと被申候事之由。天保になりて、姫路家臣隼之助八郎右衞門方へ茶事に參り一覽候、此外には一覽の者一人も夫れは無之候、松周防守、水野越前守にも、一覽無之候、京地の者にも一覽の者一人も無之事、天明年中より近頃までに、不味殿と隼之助根土宗靜とばかり、餘は一人も一覽は無之事本宗小堀共咄聞之申口に候。
北野大茶會の砌、烏丸家所持、尤元來は足利將軍家より傳來、日野肩衝同じ事。
烏丸家より、三木權太夫より、三井引取申候、日野肩衝は日野家より、大文字屋疋田と云ふ者、初花を上り其替りに日野を買取と申事、古織仲人也。

大茶會
秀吉筋にめんぱく新田二つ出る手前と分二筋宗及手前三、利休同四、宗三同、宗及には初花出る、利休には奈良芝(楢柴)出る、宗三にはゑき(鴫)肩衝出る、北野大茶會に出る鳥丸同出る事、上には松本肩衝、昔は京松本氏所持、夫より和州領筒井順慶家、大佛左京家老云土門氏。

雜記
天文十一年四月四日境天王寺屋宗達
久政 又五郎 少清
床に長盆に北野肩衝 天目
土青黒目也藥の内になだれあり、惣藥黒めなり、うすかきあり、ヘラ六つあり、糸切。
(松屋筆記)

北野肩衝 昔柏屋所持烏丸大納言光廣卿。
(古名物記)

烏丸肩衝 京都の分、烏丸殿御所持。
(東山御物内別帳)

北野カタツキ 公家烏丸殿に有。
(山上宗二之記及び茶器名物集)

肩衝 烏丸大納言殿。
(玩貨名物記)

肩衝キタノ 唐物 大名物 烏丸大納言。
(古今名物類聚)

北野肩衝 漢なり、殘月國司茄子、松山、久我と同時代なり又松山、久我とは同手同藥立なり。
(不味公著瀬戸陶器濫觴)

烏丸肩衝 北野肩衝とも云ふ、二寸九分地柿藥黒藥、本いと切。
(雪間草茶道惑解)

北野烏丸 宗達所持。竪二寸九分半、横二寸四分強、廻り七寸八分、底一寸四分、口一寸三分半、同長三分、膨一寸五分、藥濃い柿、面にバツとあり、又赤らめ柿もあり、土あらめに黒し(茶入圖あり)。
(萬寶全書)

北野 烏丸大納言、今三井八郎右衞門。甚だうるはしく、黒の斑。時代殘月に同じ、板おこし。
(麟鳳龜龍大名物の部)

烏丸肩衝 北野肩衝と改る。高二寸二分筒廻り七寸九分指渡し二寸五分盆付一寸三分半、こし二分八厘肩の間四分同差渡し二寸二分袋三、本能寺橘屋鎌倉、かんとう鶴ヶ岡土淺黄麓、むこし地藥柿肩黒藥、なだれ、黒藥、茶入圖あり。
(右州適眼録)

天正十六年(秀吉五十)十月北野大茶湯の時、豐臣公宗易を召つれられ方々茶亭の風流御覽ありて鳥丸亞相の園の前を過ぎさせ給ふを、公このうちによき肩衝御座候と申て入れまゐらせ、御目にかくる。
(茶道指月集)

秀吉公も大方鎭まり、はしどに北野にて茶湯有らんとて天正十三乙酉(秀吉五十の誤写カ)の秋京奈良堺に高札を立られし北野大茶の湯と云これなり。(中略)夫より方々園ひ道具御覽あらんとて、御小姓衆十八人斗り召連られ、まづ蜂屋出羽守が園へ御入御茶あがる。又出羽守も召連られ方々御覽あり、鳥丸光廣卿の數寄屋の前御通りの時、利休この内に好き肩衝御座候とて、御進め申御入あり。
(茶事祕録)

北野肩衝茶入 高さ二寸九分、筒廻り七寸九分、但指渡にて二寸五分一厘底指渡一寸三分五厘こしき高二分八厘、肩の間四分、肩の差渡二寸二分、口指渡一寸四分五厘、掛目三十四タ二分。桐の挽家、袋紅皮。営黑皮の籠、淺黃紗綾の袋(茶入圖あり)。
(滕海舟本名物控)

傳來
元足利義政所持、三好宗三を經て堺の天王寺屋こと津田宗達に傳はる。
今井宗久日記拔萃に據れば「永祿九年丙寅四月十一日宗邊宗及ご改名なり」とあるを以て、津田宗達と同宗及とは同人なるた知るべし、松屋筆齟天文十一年四月四日宗達茶會の條に、北野肩衝の名を揭ぐ、案ずろに、北野肩衝の名稱は天正十五年十月一日北野大茶湯の時に始まると云へH、此時の名は松屋源三耶の追記に係るものと見ろべし。
其後鳥丸大納言家の所持となり、島丸肩衝の名を以て知られしが、北野大茶湯の節鳥丸家より出陳せられ、利休の案内にて秀吉之を一覽せしより、北野肩衝の稱ありと云ふ。而して其後猶ほ數十年間鳥丸家に秘藏せられしが、鳥丸資慶の時に至う、金一万兩にて三木權太夫に護られ、元文の頃京三井八郎右衛門の手に入り、爾來同家の秘藏たり、文化の頃松平不昧公根土宗靜、天保年間姬路藩家老河合隼之助一覽せし外、絶えて此茶入を目撃せしものなかりしが、安政二年十二月、京都所司代酒井忠義(後忠祿ど云ひ 温良院と諡す)、京の三井宗六より、虹天目、三好粉引、高麗筒花入と共に、四千八百五十兩にて讓り受け、爾後酒井家の什物と爲れり。

實見記
大正八年四月二十五日東京市牛込區矢來町酒井忠道伯邸に於て實見す。
漢作茶入にして、口縁粘り返し精巧、低く肩衝き、總體紫氣を含みたる柿色地にて、甑廻りに黒釉の一線を繞らし肩半面黒釉濃厚なり又肩の邊に地釉薄くして火間の如く見ゆる所三ヶ所あり。當形類なだれ、盆付に達し、其黒釉中に龍目の如く柿色地の現はれたる二ヶ所あり、胴に茶入三分の二に亘る横筋あり、又極く小さき煎餅膨れボツクあり、釉掛り深く盆付際より薄赤鼠色土を見せ、底は板起しにて其線少しく高く、一部磨りたる所あり、裾の邊より底縁に掛けて鑢形を成したる細き筋一二本あり。手取輕く、其景色鮮明なるは頗る初花に似たり、氣格また高《無疵にて一點の申分なく漢作茶入中最も優秀なる者と謂ふべし。

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