大村系 波佐見窯

肥前陶滋史考
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鶴田 純久の章 お話

朝鮮の役、島原の有馬晴信は二千人を率ゐ、大村の大村嘉前は一千人を率ゐて、松浦鎮信、五島盛季(五島福江城主)等と共に行長の第一軍に属し、奮闘苦戦を経て歸陣したのである。元來有馬氏と大村氏とは同族より分系せしものにて、藤津郷の如きは両者交も領有せしこと前編に於いて既逃せし如くである。而して有馬氏は元來大村氏よ出てしものなるが、嫡系にして別に有馬を姓とした。その系圖左の如くである。

波佐見窯の混系
 東彼杵郡波佐見村の、上下兩部に産する波佐見焼は、當時朝鮮役より歸陣せし領主大村新八郎嘉前に從ひりし韓人が、此處の

永田山にて創始せりと傅ふるも、波佐見窯の陶系は他山と比較して、一層複雑に混同せしもの如く、其一部は南川原系が木原方面より移動せしものと、同系が戸杓の善門谷方面より村木へ侵入せし者とあり。又武雄系の韓人が、神六山を越え永尾山へ來り。或は藤津系の韓人が、不動山よ木塲山方面へ轉住せし者があり。其他庭木地方より往來せしこさも地形上首肯するに足るものであらう。

大村直澄と文永の元寇
 此沿革を説くにあたり先づ例に依つて領主の略歴を記述せんに、一條天皇の正曆五年十月八日(994年)藤原純友の次男遠江權介直澄は、肥前の内彼杵、高來、藤津の三荘を領有し、自ら彼杵莊大村なる久原城に居り、姓を大村と稱するに至つた。 文永十一年十月(1274年)元の必烈の軍船大擧して、我が壹岐、對馬を侵し、進んで筑前の沿岸に迫るや、太宰小貳景資の下に八代大村民部親澄は佐嘉の地頭職龍造寺左工門尉季益等と共に大に之防戦した。

弘安の外寇
 弘安四年五月二十一日(1281年)前記の兇賊再び来り襲ふや、九代大村伊勢守澄宗は、平戸の松浦肥前守苔、武雄の後藤三郎氏明、佐嘉の龍造寺肥前守季時、白石の白石六郎道恭等と共に、奮戦撃退したのである。

南朝方
 降つて南北朝時代に至り、十代大村新太郎澄遠父子を始め、平戸の松浦肥前守定 相知の相知小太郎(入道蓮賀、贈従四位)武雄の後藤又太郎光明 佐嘉の龍造寺又太郎家親、大島の大島次郎通秀等と共に南朝に属し、勤王奉公に力を盡せこと少なくなかった。十五代民部大輔純治の時、福重村に好武城を築いて之に居りしが、共子信濃守純伊今留に築城して始めて大村に居を定めたのである。

大村有馬間の爭闘
 文明六年(1474年)大村家の宗家争ひより端を発し、其年の十二月二十九日、高來の十代有馬尚鑒は、兵二千を率ゐて俄に大村を襲うた。 純伊衆寡敵せず、敗れて松原より速來に渡り、廣田城に潜みしが、同八年さらに佐々より唐津の加々良島に隠れ、具さに忍辱すること七ヶ年であつた。同十二年八月十五日彼は南風崎に上陸して、大いに有馬軍と戦ひしが、途に和睦して尚鑒が妹を室とするに至った。

仙岩小城を攻む
 永祿二年正月(1559年)尚鑒の子有馬仙岩は、小城の千葉胤連(忠常ー常將ー胤貞ー胤高ー胤勝ー胤連)を攻めて此地を併有せんし、長子鎮純を將として大村純忠、西郷純久、平井純治、深堀純賢、後藤純明、伊萬里直等をみて進撃するや、龍造寺隆信胤連を助けて之を邀へ、鍋島信生(直茂)を先鋒として、盛んに大町に戰ひしが、有馬、大村の諸軍途に大いに敗れて退却した。同年三月十八代大村丹後守純忠は、領内長崎村內町の六町を構へて、蠻船入津の處と定めたのである。

葡人殺戮さる
 同四年に至り、響きに開港せし平戸に於いて、或日停泊せる葡萄牙商船と言語の不通より双方に誤解起り、賣買上衝突を來して、遂に大爭闘を生じ、長老伴天連及び船長フェルナンデ・ソーサ以下數十名殺戮されたのである。

横瀬開港
 純忠は曾て松浦隆信が平戸を開港して、文明の珍貨を始め殊に優秀なる武器を輸入せることを羨望せしが、此機を以て同五年自領横瀬浦(佐世保の對岸にて西彼杵郡水の浦の隣地)を開きしかば、先きに平戸に含める葡萄牙の商船は翌年より雷ヶ瀬戸(平戸海峡)を通り抜けて、皆横瀬に來つて貿易すること成った。

大村武雄と和議
 永祿六年武雄の後藤純明は、大村に侵入して純忠を襲はんとするや、大村軍は機先を制して純明の陣営を急撃せしより、武雄軍敗れて塚崎に退陣した。此時黒髪山大智院五世の法印阿尊と後藤越後守尚明は、大村伊豫守純重と共に調停して、和識を結ぶに至つた。

長崎開港
 先きに開港し横瀬港は、波浪稔かならざるを以て、屢々葡萄牙船長の具申に依り、永祿十一年(1568年)福田港(西彼杵郡)に移せしが、翌々年に至り純忠は、深江浦(西彼杵郡福富浦又瓊の浦と稱す)を最適地として、貿易港定むるに至つた。是れ元龜二年三月(1571年)のことにて之が即ち後の長崎である。

隆信に降る
 天正三年五月六日(1575年)平戸の松浦鎮信は、龍造寺隆信に款を通じ、更に大曲對馬守を遣はし、神文を誓つて聘禮するに至り、同五年鎮信自ら龍造寺軍と共に、大村に進軍せしかば、純忠力戦盡きて途に降服するに及び、隆信漸く肥前を一統したのである。

秀吉の耶蘇放逐令
 天正十五年(1587年)夏純忠の男大村嘉前は、長崎の内町を公地としたのである。而し同年六月十九日豊臣秀吉は、耶蘇切支丹宣教師の追放令を發布した。文祿元年(1593年)嘉前は朝鮮役に従軍し、慶長元年(1596年)六月一旦歸朝せしも、和議破れて同二年正月再役の途に上り、同三年十月和議調ひ十一月博多に歸陣したのである。

慶長十年九月十一日(1605年)嘉前は更に長崎の外町及屬邑を公地として外人との貿易自由ならしめ、浦上を以て其代理とするに至つた。此長崎開港に盡力せし此地の邑主長崎甚左工門純景は嘉前の妹婿にて其略系左の如くである。

長崎純景
 平資盛の孫盛綱始めて長崎を姓となし、其子小太郎重綱より深江浦に住して、代々大村氏の配下となり、貞應年間(1222-1224年)此地唐渡山に築城し鶴の城と稀した。それよ十三代純方の長子純景は、長崎村九百七十石を有し、春德寺山城主たりしが、後年時津にて七百石を領有して切支丹の信徒として其の布教に力めしこと少からず、然るに舎弟織部允爲英は、弘治年間(1555-1558年)京都より、今の諏訪神社(國幣中社)を奉迎して、神國主義を鼓吹せものである。

長崎氏系別説
 長崎氏系譜には又別説ありて、平重盛の孫重鄉、伊豆の國長崎村に封ぜられてより、長崎を姓となし、重郷の後裔三郎左工門入道思元は鎌倉北條氏に仕へ、元弘三年(1333年)五月新田義貞戰ひ死するや、其子勘解由左工門爲基戦場を切抜けて肥前に下り、深江浦に来りて此地の邑主となる。十代左馬助子なく、有馬貴純の三男康純養子となす、康純の子か甚左エ門爲雄なり云々とある。正しくは研究すべきであらう。

純忠の洗禮
 大村嘉前の父純忠、甞て龍造寺と戦ふに當り、平戸の如く石火矢、鐵砲の武器なきを遺憾とし、遂に意を決して耶蘇宗門に歸依し、其名もDON,BARNOIOMEOと授かりて洗禮した。そして前記の新武器を入手せしは過ぐる永祿五年(1562年)であつた。其時純忠は此宗門に銀百貫目を借用せしが、後年長崎の隣地山里村、浦上村、淵村(今何れも長崎市内)等の年貢を以て、年々之を返濟したのである。

耶蘇宗門の繁昌
 此領主純忠と、邑主長崎純景この切支丹信奉は、更に此地方民の信仰に拍車を加ふるに至り、賓性寺を始め許多の大小寺を建立すると同時に、従来の神社佛閣は悉く破壊さるゝに至つたのである。而して嘉前の時代に至り、斯くては將來如何に成行くかを憂ひたる千々岩清左工門紀員(大村純忠の甥)は、單身羅馬に渡航して歸朝するや、是れ終ひには國を奪ふ邪教なりとして排斥し、藩老大村彥右工門純勝と共に、嘉前に献策して、慶長十八年(1613年)領内の切支丹宗徒を悉く追放するに至つたのである。

切支丹の場屋破壊
 而して紀員は、又幕老本多上野介正純謀るところありしが、翌十九年九月俄に幕命下り、嘉前の男民部大輔純頼は、鍋島信濃守勝茂、寺澤志摩守廣高、松浦壹岐守隆信、有馬左工門佐直純等と共に長崎に出張して切支丹宗徒の屋を破壊したのである。然れども宗徒の深き信仰は容易く轉向すべくもなかったのである。

嘉前父子の卒去
 斯くて嘉前の侍臣中にも、密かに遵奉する者ありて、嘉前は元和二年(1616年)八月八日四十八才、嗣子純賴は同五年(1619年)十一月十三日二十八才にて、共に彼らの爲めに毒殺されしといはれてゐる。
 平戸及大村史は、我國の開港史であると共に、一面外敬史である。此両面の概歴を識つて、而して後に他の工藝史等を推究すべきであらう。朝鮮の役嘉前に從ひりし韓人陶工が、上波佐見村三の股や、永田山に開窯せしものを、大村焼の始祖なり唱ふるも、下波佐見村々木郷方面の開窯も、敢て後代とは観る可からざる様である。

村木郷の古窯
 村木郷の古窯趾には、畑の原(不動佐上)古皿屋(不動佐下)山仁田、百貫等の四ヶ處があり、此内古皿屋と百貫は、韓人朴正意の開窯せしといはれてゐる。而して地理的關係上南川原系の一部が、戸杓方面より侵入せしの口碑も、亦否定すべからざる事柄であらう。

畑の原と山仁田
 畑の原には、森某宅前の樫木山に、現在二十二間登にて奥行六尺乃至七尺あり下りは六尺五寸程なる朝鮮式の小窯趾がある。山仁田の古窯趾は、字脇の谷さ稱する雑木林の中に現存してある。此處の殘缺には黒茶釉深形の茶碗にて、無釉高台の内が全く新月形に成ったのがある。

古皿屋
 古皿屋の古窯趾は今福島米作の所有地にて、此處には以前高麗墓のありし由なるも、今は何れへ運ばれしか失はれてゐる。古窯品には例の薄茶釉や、飴釉の底三つ目積小皿があり、又赤粘土に青茶釉を掛けし、廣緑淵の四寸皿がある。或は天目釉の茶碗など、何れも高臺無釉である。又割高臺に成ってゐる玳皮盞などがあり、薄黄釉にて緑反深形の茶碗などもある。
 珍奇なるは灰色胎土の褐色地唐焼にて、茄子形の手口附水指があり、蔕が其蓋に成つてゐる。後代の製品と覺しく染附磁器を焼いてゐるが、中にも薄青磁緣附の中皿にて、桔梗緣や菊緑淵がありそして高臺部全く無釉なものがある。

久永の印徳利
 此古皿屋に於ける元素焼窯の邊より發掘されしものに古雅なくろ物德利がある。それは褐色胎土の上に鐵釉にて、達筆に久永と大書されてゐる。一説には韓人金久永といへる者の製品とあるも、何他にもこれと同種の器を折々發見るゝころより見て、それは郷人の酒屋徳利にて、常時居酒屋を商ひし久保永蔵か、久間永作か、久富永太郎かの什器ならんどの反説があり、未だ何れとも不明である。

朴正意の碑
 百貫も亦、朴正意の開窯せしところと稱せられ、此處の戶石川には終焉の墓碑がある。それは高さ約五尺の石碑にて、二重台石の上に置かれ、碑面には南無阿彌陀佛釋正意靈位とあり、右に元祿二年己巳暦(1689年)と記し、左に閏正月九日と記されてある。韓人としては稍後代に属する者であらう。此墓碑は今此地の澤村某其の後裔として祭祀を繼承しつゝある。

百貫
 百貫の古窯品は、概して古皿屋と相似たものなるも、開窯はそれよりもなほ後代なりといはれてゐる。而して最初の軟質磁器には氷裂を現はせるもの多く、中には腰錆地緣青磁にて、三寸口の火入や、吳洲染附にて李朝畫風の青磁の破片があり、後代の製磁器には、下吳洲にて松畫や草畫の丸茶碗がある。或は芋山水畫の皿があり、又くらわんか茶碗が澤山に焼かれてゐる。
 此處は百貫錆として多く此手のものゝ製造さしは地元に良好なる錆の原料が産出されし爲であつた。皿山始付さいへる古文書に「元祿十年丑(1697年)百貫松山正徳四年(1714年)まで十八年と相成右者友永貞相立申候御代官山口八郎兵衛殿」とあり。去れば磁器の製造は元禄十年(1697年)に於いて、友永貞なる者が開始せしものであらう。

三の股山
 以上が村木郷の古窯なるが、大村燒の本場として當時三皿山と稱せられしは、同上波佐見村なる三の股山、中尾山、永尾山の三山で、後には下波佐見村の稗木場山か加へらるゝに至つたのである。而して此四ヶ處の皿山の内、其總支配役所を設けられし三の股山は、抑幾年頃の韓人に依って、開始されしかは詳ならねど、皿山始付に「慶長十年三の股山始正徳四年迄百年餘に相成候由親左工門申候」といふのがあるを見れば、相當の古窯地であらう。
 而して慶長十年より、正徳四年までは百十年と成り、又正徳四年は、1714年である。蓋し昔の人の口書故、まづ大ざつばに百年餘と謂ひしものであらう。朝鮮役後の韓人が渡来して、此地に開窯せしもの如く、勿論それは高麗風の陶器にて、磁器の製作はなほ後代に創まりしことは申すまでもない。此地の古文書に
當村三の股皿山は、慶長十年中始建之押役浦田市左工門上野藤九郎尾崎利兵衛三人にて交代勤之江戸町人藤九郎といふ者請にて釜を仕立陶器を焼始む其後寛文六年押役一人となり岩永七郎右エ門勤番するなり

三の股磁器始の考證
 此江戸の町人藤九郎さいへるは、大商人萬屋藤九郎にて、之に依れば、彼は慶長時代のくろ物製品より大請引をなせし者の如きも、質は寛文年間よりこの意味にあらざるか果して然らば九郎時代に、磁器の窯を仕立てしものにて、陶器を焼始むとは磁器を焼始むと解す可きであらう。
 又古文書に「寛文三年卯(二百七十三年前)稗木場皿山始正徳四年まで五十二年に相成」といふのがあり、永尾山が寛文六年午(1666年)中尾山が正保元年申(1645年)と成つてゐる、此邊が磁器製作の創業時代と見る可く、蓋し陶器の製作は、其以前に於いて韓人及び其系統者が、波佐見川を溯つて各地へ展開せしことは勿論である。

三の股白磁の完成
 尤も此地方の陶器製作は、他山の如く長期に涉らざるうち、有田に倣うて磁器製作に轉向せしは、軟質ながら地元に於いて磁石を見せに基因すべく、而して最初發見せし白岳の原料は、餘りに軟質に過ぎ、高麗川内の原料は硬軟相混ぜる其質分の不同が、製作上頗る困難なりしが如く、後年砥石川の磁石を發見し得て之に大田越の原料等を加へ、漸く波佐見磁器を形成するに至り、更に天草石の使用に依って爰に完全なる白磁と成ったものである。

三の股石
 今や天草石の加合料として使用さるゝ砥石川の磁器は、三の股の山上にありて、此地の松尾徳一の所有礦なるが、吉田鳴川の磁石よりも酸化鐡分の含有量稍少きを以て歡迎され、此地方は無論藤津方面にも使用さるのみならず、有田皿山へも碍子製作土加味料として、年々拾数萬斤宛搬出されてゐる。

砥石川石分析表
珪酸 44.05
礬土 37.18
酸化鐵 0.34
石灰 0.46
苦土 0.98
加里 3.75
曹達 0.64
灼熱減量 13.21

一説に依れば、此砥石川の原料を、三河内の今村三之亟が發見して、始めて磁器を製し、之が波佐見焼の濫觴なり云ひ、或は又木原山の某が發見して、之を運び取りて製作しと唱ふる者もある。然しながら當時平戸藩の工人が、大村藩内に於いてしかく勝手な振舞が可能なりしや疑がある。曾て三之亟が此地に試焼せしは、寛永十二年(1635年)なるを以て考察せば、彼は白岳か高麗川内の原料を以て、有田焼を模するに薄鼠色の磁器を試み得し位であらう。

波佐見皿山役所
 寛文五年(1665年)藩主大村因幡守純長は、皿山役所を三の股に設け、當時押役として岩永七郎右工門勤務することゝなり、其下に皿山取締として三の股山、中尾山、永尾山又稗木場山へ役人を配置せしが、後に押役は皿山奉行と改め、又再び之を廢して取締役二人代官の下に數人の下役を置き、以て製陶の保護と奬勵に盡瘁せしめた。
 波佐見焼も亦大村藩主歴代庇護の下に育まれしことは申すまでもなく、即ち燃料たる山林の下附より、資金及米穀に至るまで藩主より貸興したのである。

呉洲鑑査
 又染附顔料なる唐人藥と稱せらるゝ呉洲につき皿山日記に依れば「皿山繪藥元祿五年(1692年)申十二月十一日長崎船大工町本田孫三郎、松尾太郎左工門より相始候」とあるも、藩は主として其選擇に注意を拂ひ、藩吏を長崎に出張せしめて、直接支那人より鑑査購入し、専賣的に各窯焼へ拂下げたものである。

回青と渤青
 元來吳洲は呉須又は極素とも書き重に珪酸コバルトを含有する天然礦物にて、古くより埃及や支那に於て佛像、玻璃器及陶器に用ひられ、其種類甚多く。彼回青を最初支那へ提供せしは回紇人(北蒙古、甘肅、新疆に喋った古民族)なり稱せられ、或は又回々教徒の手に依って、西域地方の亞刺比亞や彼斯を経て到来せし故に當時モハメタンプリュウと呼ばれしさの説もある。又蘇泥渤青と稱するは、支那人がスマタラ及ポルネオ地方に於て亞刺比亜人やシリヤ人(舊土其古族)貿易して、輸入せしものさいはれてゐる。

雲南繪藥
 それが一時供給止みし時代より、支那は雲南省貴州の如き北西邊境より、該礦を發見して自給するに至り、遙か後世に及びて浙江省の紹興府と、金華府より採取して提供さるゝことゝ成り、之が齋青と稱して最優品である。而して當時我國へ輸入されしは、多く雲南地方の産であつた。支那は最初之を釉薬中に混じて瑠璃陶を製せしが、後には花と稱して繪彩に用するに至つたのである。
 而して該品は一度素焼せしものにて種類頗る多く、等別するに雲南や浙江産の優品より、江西、廣東産の劣品に至るまで、何れも外被は緑色を粧ひ、鑑別甚だ容易ならざるを以て長崎奉行は吏員を設けて厳密なる監査の下に輸入しつゝあつた。

大村繪藥
 就中大村藩にては、斯道に精通せる藩吏をして吟味購入せし故に、各山にては當時之大村藥と稱するに至つたのである。

長崎の繁昌
 貞享二年(1685年)よりに多数の唐船長崎へ入津し、元祿元年(1688年)には二百艘の唐船輻輳し一萬人の支那人を迎えるに及び、長崎の繁華絶頂に達した。爾來宝永七年(1710年)頃まで二拾餘年間は、天下に並びなき殷販を極はむるに至り、此長崎より輸入せる文化と、購買力を攝受せし大村藩領當時の盛況は、察するに除りある。

白磁賞翫
 而して白磁を製出せる大村焼は、勿論彼等の嗜好に投じて歓迎されしに相違なく、洵に内外人の白磁を貴重する絶頂時代とて、共頃之が禮讃振を記して嬉遊笑覧に「和蘭人は萬國の産物を交易することを務めとし物の性質を見ることも委しきに此方の伊末里の瓷器(伊萬里焼の磁器)を賞して海内第一といへりさぞ殊に五郎七(高原五郎七が教へし柿右工門燒なるべし)柳右工門(久富龍右工門にあらざるか然らば蔵春亭燒を指せしものならん)等が焼きたるものはまことに珍観すべきものなるに他國のよからぬ器物(外國製陶器)を貴ぶは隣の糂粏(糠味噌)のたぐひにひとし」と述べてゐる。
宝永年間(1704-1711年)には波佐見焼も相當に燒出せしものゝ如く、皿山舊記に依れば「焼物商賣仕初寶永二年西五月十一日(1706年)送狀にて仕登候事」とある。正徳年間(1711-1716年)天草石の使用發見されて以來、茲に彌々波佐見焼が完成さるゝに至った。而して製品は日用向の食器類を主としたれば、三河内等の如く高級品は稀少なれども、産額に於いては却って之を凌駕せしものであつた。

大村藩の專賣
 斯くて四ヶ所の皿山なる登窯が焼き終れば、藩の役人出張して封印を施し、手續きめば、役所より許可符をへて窯出しをなさしめ、取引は一切藩に委託したものである。
 其頃川棚の三越に藩の御用船が碇泊し、件の焼物荷を積込んて、大阪へ向け出帆し、之を藩の臓屋敷に揚げて販賣せしものである。或は窯焼が他國の商人と直接の取引をなすとしても、總べて藩の認可を受け、又場合によりては役人の立會を要し、旦資附の如きも一々書類を作成して役所へ届出たものである。

大阪問屋契約
 寛保三年(1743年)より大阪の問屋と、取引を開始せし契約證が皿山記にある

一燒物大阪問屋相立寛保三亥年より始
問屋より差出候證文寫
御領中燒物賣支配筋方覺
一運賃銀入船翌日にても船頭望次第相渡可申事
一爲替銀入船日より三十日限
但船頭爲替取急相望候はゞ定の步銀差引取
替相渡可申事
一仕切銀賣附日より六十日限
但右部銀荷主より相望候は右日限相濟候
迄定之步銀差引相渡可申事
一寫帳の儀賣附候即日支配人方へ相渡寫取らせ可申事
一口錢銀の儀高壹割貳部申請右の内三部は冥加銀松屋庄左工門へ相渡三部は仲買步戻仕六部は我々可申請事
一破引の儀惣体改格別痛御座候荷物は勿論逐一吟味仕御荷主中御不勝手に相成不申候様相可申事
一惣体の筋方念を入何角猥成儀無之樣相勤可申事
右定書の相背申間鋪候萬一相違の儀も御座候はゞ何時にても賣方支配御取揚可被成依て證文如件

寬保三年亥九月

升屋 五郎右工門印
富田屋 小右工門印
兵庫屋 久兵衛印
和泉屋 伊兵衛印
大村御領中燒物方
惣代 福田友平殿

右同面にて外に壹通あり
增問屋
炭屋 九郎右工門印
伏見屋 金兵衛印
備前屋仁左工門印

大村御領中焼物方
惣代 福田友平殿


一今度御領中燒物賣方支配我等へ被仰付御請申上候然上は御定の通爲替銀並仕切銀無相違相渡可申事
一仲買へ燒物中賣渡萬一代銀相滯候共我等賣方支配被仰付引請相勤申候上は内にて如何程の差御座候共四人仲間より相渡可申候勿論仲間の内壹人にても差閊申儀出來仕候共残りの者共より一言のに不及急度埓明可申事
一別紙の通取捌可申候若相違仕御荷主中の御不勝手の筋も御座候節は如何様にも可被仰付候爲後澄依て如件
中廣東繪久保八懸り

三の股職人の賃錢極
 天保九年十一月(1839年)三の股窯燒が釜方日雇並諸職人賃錢極仕法立なるものに、左の如き古帳簿がある。
細工賃極め
大茶漬 二十六のり 九文懸り
中茶漬 三十のり 同
小茶漬 三十四のり 同
輪茶碗 三十九のり 九半懸り
煎茶 四十のり 十半懸り
花清 四十四のり 九文懸り
戀茶 二十六のり 十一文懸り
小廣東 四十二のり 十半懸り
小の中 四十のり 八文懸り
目茶漬 三十のり 九文懸り
小茶碗 四十八のり 八文懸り
四ッ碗 揃ふて 十二文懸り
中廣東 八半懸り
繪久保 九半懸り
奈良茶揃 九文懸り
口反中茶漬 三十のり 九半懸り
口反小茶漬 三十四のり 九半懸り
此のりとは皿板一枚に乗りし數であらう。
次に六月廿日書外立直段極がある。
博多繪 大茶漬 八
 中茶漬 七
三木龍 中茶漬 四
小茶漬
廿四孝 輪茶碗 四
菊口入 花清 二
博多繪 煎茶 四
島繪 煎茶 三

男女日用賃
男 外日用 百貳拾文
女 外日用 五拾五文

三の股皿山役所
 皿山役所は三の股山にありて三皿山の中央部に當る地位であつた。此の役所趾には今の永尾山へ行く廣き村道が走ってゐる。當時此役所は製陶一切の獎勵監督の外、製造材料の如きも仕入れ置きて、窯焼へ配給せしもの如く買入につき左の如き古文書がある。

役所の橋灰仕入
當役所瀬戸物方入用ゆす灰薩摩船頭傳兵衛と申者より肥後人吉産物の由兼而相調相辨候處同人暫來不申追々差問候間其方人吉表へ罷越可致調達候右品柄直段に寄當役所入用の都合年々相調候樣取組可申此節者金五拾兩爲持遣候條右尺買入可申候又取組面倒の儀も有之候はヾ此書付其筋へ差出急速調達相成候様可致心配候以上
天保十二年四月五日 大村皿山役所
小村屋大助どの

馬場大助の赤繪研究
 此宛名の小村屋大助とは三の股の御用商人らしく、或は馬場大助にあらずやとの説あるも、彼は天保三年六十才を以て卒去してゐる、此大助は三の股赤繪研究者のナンバーワンとして、斯道に於ける貢献者なることは、其古文書を得たるを以て左に掲載せんに、それには「家傳赤繪調合極秘之事他見無用」と記してあり、そして赤、青、黄、黒、紫、群青、糀、飴色等十餘種の調合書の次に左の如き事が書加へられてある。

玉粉拵方(唐石なるべし)
強き時は白石をへらして加減なり
何れも焼く時分に此玉粉心見致すべし
白石 七拾目 同 百三拾目
鉛 七拾目 同 百目
白焰硝 三拾目 同 二拾目
(上は弱調合にて下は強調合か)

右燒方白石とは傅七釜上の野山に白石有り是を素焼釜の上に一時燒追々揚て水に入るればざくざくにくだけるなり細味にして右分量に掛け鉛鍋に入れとろまかし夫に白ゑんしょう入ませ合せて壺に入素焼釜又は別に赤畫釜の様に釜ぬり壺を内釜にして燒なりぐつぐつたぎる事しばらく火箸を入れすくひ見ればすなはち飴の様に相成それを水に入れ見れば水色のびひどろになり是は大助くふうに仕出すなり
抑赤畫之儀者先年より有田山に限者なり後世に成りて上方筋相拵出來宜候得共不叶事者荒金を潰し付くる事二つには赤色なり金外だみだけ者至て六か敷夫者日本唐國まで右外だみだけは出來る事不叶有田外では自分唯心を痛有田同様に仕出すなり
于後諸々山々赤薔相始唐行燒物仕立候得共赤色仕法違候故本赤に不有青色黄色の様にて相辨じ候
自分赤畫出來候事御國先々年御上にて右御製有之候得共一向出来不致故是をかなしみ相達候處凡貳ヶ年の内荒まし相分漸二十年も心をつくし候處無多方心得候事は必他人より何の人にても傳可致事皆無用の事なり云はヾ唐國日本異國の内に本赤畫だけは有田山自分斗りなり
玉粉鉢にてすり繪藥立候樣上汁を取り其上汁を一時後口より又別の鉢に取り是は極細味目薬の様に有□赤又は桃色其外上色の者に可遺荒き處青などに可遺

三の股の古窯
 三の股の古窯には青磁窯、上登、下登、新登があり、當時の古文書に左の如きものがある。但し釜數幾軒とあるは、窯數幾間のことなる可きも、原文の儘に記載することゝした。又釜司とは窯焼のことである。

三の股古文書
三の股皿山
一竈數百八軒 內釜司二十六人
上登釜数二十三軒
內 十七軒 本釜
內 二軒 安光光
內 四軒 灰安光
下登釜数二十四軒
內 十七軒 本釜
內 四軒 安光
內 三軒 灰安光
新登釜数二十一軒
內 十二軒 本釜
內 六軒 安光灰安光
內 三軒 灰安光
燒物出来高一萬三千二百三十俵
但一軒に付二百四十俵一ヶ年三度の燒立
燒物土 一萬九千四百四十荷
但安光入りて一度に百二十荷宛
薪 百三十七萬八千本
焼物運上 二貫六百四十六匁(壹俵につき二分宛三分銀入にて)
但荷運上 一分三厘三分銀七分二厘
灰運上銀 一ヶ年に拾三匁宛
酒場運上 一ヶ年に拾五匁宛
釜運上 一ヶ年六百九十匁
但本釜一軒に付拾五匁宛
水碓數百拾丁
一同斷新登釜は元和二年本島久兵衛といふ者始建之
一寛文年中岩永七郎右工門勤番中三の股始て皿山役所を建後惣皿山奉行黑板喜左工門勤之寶永五年より元締役支配となり今元締附代官兼帶一人請拂一人勤番する也
一三皿山の者共是迄村庄屋に於て踏繪改之文政十一年より依願皿山役所に於て改之尤帳面も無混雑ように皿山一手に仕立つるなり
一三の股皿山より西庄屋まで一里十五丁程牛馬往来の本街道なり東は嬉野へ越す一騎通りの小道南は不動山へ赴く小道なり牛迄は往来するなり北は永尾山本通にして左右用木山請林畑屋舗山中人家あり此處に天満宮の社あり此社内に這松とて名木あり
前記の文中酒場運上とあるは、藩は製陶地を優遇して造酒の如きも僅少の租税にて、勝手に之を許せしものらしい。

繪踏
 又繪踏と稱するは、寛永三年(1626年)長崎奉行水野守信が案出せしものにて、當時耶蘇宗門嚴禁の時代に於いて、若しや密かに信奉する者あらずやと、基督の肖像を浮出せし銅板等を備へ、それを宗門改めの當日、一人々々足もてうち踏ませ、人別に繪踏帳へ記入せるものにて、其の舉動に依つて彼等を検證するといふよりも、寧ろ彼等より懺悔信誓の機會を奪ひ且つはイエスの神の栄光に浴する資格を失はしむ可き方策であつた。(而して此繪踏法は好成績を認めざる爲め安政五年(1859年)より廢止された)又新登の元和二年云々は勿論陶器時代である。
 最初此地方の製造磁器は、天草原料の使用以前とて未だドス黒みを帯びたる色相であり、それに簡粗な吳洲繪を描きし食碗が重なる製品であつた。蓋し當時にあつては有田皿山の外未だ本邦に白磁の製造地なかりしかば、それに似寄りの磁器とてもなかなか歡迎された時代であつた。

萬屋藤九郎
 故に其頃江戸の商人萬屋藤九郎が巨費を投じて窯仕込を成せしが如く、かくて此取引より全国的に、波佐見焼の名を諦めしと見る可きであらう。
 而して元縮なる皿山役所を、三の股の地域に設置せしは、位置の中央なるのみでなく、原料石産地たることも亦副因たりしことが察せらる。

目砂坑
 此砥石川磁石採掘所の高丘に、松尾官一所有の目砂土(珪石質)が採掘されてゐる、即ち山上に一坪程の四角な竪坑が、二つ列んて掘下げられてあり、此内深き方は十二三間の地底より釣瓶式にて引上げられてゐるが、良質とて他山へも搬出されてゐるといはれてゐる。

三の股青磁
 目砂坑の脇が高麗窯跡と稱せらるゝ三の股青磁窯にて、附近には優色なる青磁の残缺が散亂してゐる。それは碪青磁や天龍寺青磁にて、高臺や丼の外部などを竹篦にて巧妙に削り、或は三本足の菓子器など勝れた技巧である。また桃模様の疎雅な毛彫や、雷紋などの沈彫其他種々の浮彫等がある。

皿屋谷と波佐見青磁
 此青磁製作は、藤津系の不動山より渡り来し韓人の傳統にて、最初此處の木場山に始まり、次いで三の股や中尾山に傳播せしといはれてゐる。然るに反説にては、此三の股の青磁が、不動山方面に傳授されしと唱ふる者もある。蓋し此處よりも古くより開窯せし不動山なる皿屋谷の韓人が、一里余の山傳ひに此地の磁石を発見して、青磁を創製せしとの説も決して否定されぬ理由であらう。

製陶系の本家争ひ
 一体此本家争ひなるものは正確なる文献があり、なほそれを現實と對照して推極せし上にあらざれば、決定すること不可能であるが、考究の材料に乏しき陶山に於いては、ただ口碑と推測の理由に依る外ない。それが長き星霜を經る間に、或は傅へられし方が却って本家と思ひ込み、そして傳へし方が又其支流の如く合点して、全く地位を轉倒せしところなしさせぬ。

波佐見青磁の不窯取れ
 而して此地方到る處に見る、此優秀なる青磁の殘缺が、碗類の如き小器の外、多くは歪み物にて、ついぞ完成せして認む可き破片がない。今此現状に因って推考すれば、當時此青磁物が幾%の完成器を得たるかは大いに疑問とせざるを得ぬ。或は武内磁器の如く、唯だ破片としての鑑賞に止まるなきかを思はしめるのである。
蓋し當時硬質に依つて焼成されし、青磁の珍重時代とて、最初は茶碗類の小器のみなる僅少の窯取れにて採算し得しならんも、追々と他山に硬質青磁が製作さるゝに及び、之と並行し難く、途に製造を断念するの止むを得ざるに至りしものであらう。

波佐見青磁の原料
 而して此青磁釉薬の原料は内海金山邊りの川原川内より探收せしものにて、その胎土は高麗口か白岳の原料を使用せしめ、軟質にして途に成器を得るに困難であつた。然るに有田泉山の原料が無双の硬質なること知らるゝに及び此地の工人が有田郷の丸尾に轉住して青磁窯を起し、それが後に黒牟田青磁の流行となりしこの説は、蓋し事實であらう。

馬場伊兵衛
 天草石の使用となりて、此地方の青磁も亦、全く完成せしことは申すまでもない。維新前此處の馬場伊兵衛は、藩命に依って宮中御用の青磁皿を謹製せしといはれてゐる。彼は明治二十五年十一月十六日五十二才にて卒去したのである。

佐藤徳左エ門
 維新當時の三の股は、佐藤徳左工門を筆頭として、三十三人の藩認許の窯焼ありて、盛んに製造せしものであつた。維新後は淡路の仕入客などが早岐に出で来り、其處の問屋にて取引せしが、後年に至つて伊萬里市場に轉じたのである。そして重なる窯焼には松尾勝左工門、馬伊兵衛、松尾彌太郎、太田治三郎等があつた。

インチキ呉洲賣
 嘉永年間(1848-1855年)大甕中齋の亂徒たりし、大阪の和泉屋硯海が子にて、萬次郎なる者長崎にせしが、彼は怪しき繪薬を需めて支那の良吳洲と稱し、波佐見各山へ賣附く可く皿山役所の役人と各窯焼を饗應し、前後二回に亘って呉洲三千斤を賣込んだのである。此代金三千両にて、此時の賄費が千五百両に上りしといはれてゐる。

上波佐見意匠傳習所
 明治三十五年上波佐見陶磁器意匠傳習所が創立された。勿論それは各山の聯合にて設置されしものにて、その所長たりしに、福重幸太郎、一ノ瀬龍太郎、松尾彌太郎等があつた。同四十三年中尾山に移轉の上、新築されし後の所長は小川寅治 松添太郎等であつた。
 大正十二年七月前記の傳習所は、又井石郷に移縛され、同地の小學校に於いて小學教育と連絡を保しめしが、昭和四年村立の傳習所となった。
この傅習所は大正十一年以降多数の卒業生を出し此方窯業の進展助長に貢献するところ少なくなかつた。現任松添所長の外職員二名を置き、本科窯業の意匠圖案の改善を計ると共に、専ら優良徒弟の養成に努め、現在徒弟六十八名を収容してるる。修學年限は本科二ヶ年とし、尋常小學を卒へ者を入所せしむる規定である。

三の股の現在
 大正八年頃の好況時代には、窯燒十四五戶年產額二十七八萬圓を繋げし三の股山も、現今斯業全く振はず、現在戶數も八十五戸に減じ、窯焼は松尾三一、竹村島一、田崎定一の三人にて、年額五六萬圓といはれ、往年の盛況に比してに隔世の感がある。たゞ此處の天満宮の大楓のみ昔に幾らすひとり當年のを誇つてゐるかに見るのは、責めてもの慰めである。三の股の名工として擧くべき陶家に左の人々がある。

三の股の名工
松尾嘉左工門
 安政二年正月二十日卒す。
 花鳥及び山水畫の名人にて、大村藩の御用繪師山崎雲仙の門人である。

太田彌助
 轆轤細工人にて、特に徳利作りの名手である。

佐藤徳左工門
 大正二年八月十九日卒、九十才 轆轤細工の名工にて特に小間物が得意である。

太田亀太郎
 明治三十七年二月十四日卒六十八才 名書徳利の名手である。

中尾山皿山始付
 中尾山の古窯には、廣川原、上登(又白岳窯)下登、山下大新窯等がある、皿山始付に次の如く出てゐる。

中尾山(上登のこと)正保元甲申(1645年)始付正徳四年(1714年)迄七十一年に相成候由親左工門覺
附たり皿山水唐臼は福田代助申者寛文八年相始申候但五十年前
但此山相立候儀大村三郎右工門殿御役內御立被成候左工門に仰付に相成

中尾下皿山(下登)寛文五年巳(1665年)始付正徳四年(1714年)まで五十年に相成
中尾新登山(大新窯)貞享元年子(1684年)始付正徳六年(1716年)まで三十三年に相成右者松尾儀右エ門相立候御代官黒板喜左衛門殿

中尾山古文書古文書に次の如き記録がある。

中尾皿山
一竈數百五十軒 内釜司二十六人
上登釜數三十三軒
内 二十五軒 本釜
内 四軒 安光
内 四軒 灰安光

下登釜數二十六軒
内 二十軒 本釜
内 四軒 安光.
内 二軒 灰安光

大新登釜數三十九軒
內 三十二軒 本釜
內 四軒 安光
內 三軒 灰安光

燒物出来高二萬千九百六十六俵
焼物土 二萬七千七百二十荷
薪 二百五萬六千本
燒物運上銀四貫三百三百九十三匁二分(一俵につき二分苑三歩銀にて)
但荷運上 壹分三厘三步銀七分二厘
灰運上銀一ヶ年二十匁
酒運上銀一ヶ年九十六匁
釜運上銀一ヶ年一貫百五十五匁
但本釜一ヶ年に付十五匁
水碓數百五十丁
一右中尾皿山(上登)は正保元年申年始建之也
一同所横目役所(字山下)は文政三年辰年(百十五年前)始て建之當村横目より皿山目附帯にて勤番するなり
一同所下登釜は寛文五巳年大村三郎右工門御爲奉行役内始て建之なり
一同所大新登釜貞享元年松尾儀右工門さいふ者始て建之なり
一中尾皿山より内海通庄屋まで道法一里四丁程過にて内海の宿に出るなり
一同所より近道通井石尻道まで二十六町程
一同所より三の股役所まで十五町四十間程
一同所より高野越右の肩につゝや嶽とて險阻の野岳あり高さ平地より三町程
此嶽の頂上に長崎異変の狼煙場あり山中左右用木山請林畠屋舗東家あり東の方へ鎮守観音堂山下へ横目役所あり

廣川原
 慶長年間永田山へ來りし韓人祜なる者が、此處の開山者と稱せられしが、後彼は中尾に轉じて開窯せしといはれてゐる。降つて元和元年(1615年)中尾庄右工門尉此處の廣川原に開窯せしとの口碑があり、今其古窯の頭部丈が段畠の堺日に現はれてゐるが、かゝる小窯にて磁器を焼きしても想はれず、勿論黒物時代の遺窯であらう。彼の白岳の原料が發見されしこさへ、それよりも二十年計り後のことであつたのである。而して陶器の殘缺は、其處に發見せられざるも、多くは染附磁器の中に砧青磁の大茶碗などあるは、後代改窯の製品であるらしい。

中尾庄右衛門尉
 按するに、此中尾庄右工門尉は、代々此處の支配者たりし邑主の後裔にて、中尾山の開山に盡瘁せし一人を見る可く、彼は正保二年七月十三日(1616年)行年六十有餘にして卒去し、墓碑は寺屋敷の墓地にあるが、二段臺石の上に、珍らしくも勝男木形の石碑で有りそれに御輿屋根が冠さりて、約五尺二三寸程の高さである。又中尾家の古屋敷は、中川亀太郎(元中尾姓)の祖先が所有せる由にて、同家の支族村上家より前記の墓碑を祀りつゝある。

中尾の上登
 上登窯は、白岳山麓にあるより白岳窯とも稱せられ此處は寛永十一年八月(1634年)藩主大村丹後守純信の時之を築窯せしといはれてゐる。而して前記の古文書に正保元年とあるは、共後十一年目にて陶器より磁器製作に轉向せし爲か、或は何かの理由にて改築せしさ見るべきであらう。
 此處の古窯趾の邊りに散亂せる殘缺には、砧や天龍寺の薄青磁物多く焼かれてゐるが、中に三本足附の小形香焚など、青磁の釉下に吳洲猫の山水繪があり、又染附磁器には籠目描の粗雑なる大筆模様の茶碗がある。或は外部丈けを金茶やむら錆を掛けし茶碗があり、初期の製品には底を蛇の目に剥ぎて、重ね積せし茶碗がある。

中尾下登と大新
 下登窯は寛文五年(1665年)藩主大村純長の時、大村三郎右工門奉行して築かれ、同時に三神山神社が建立されたのである。大新登窯は貞享元年二月(1685年)藩主大村民部少輔純真の時、代官黑板喜左工門の肝煎にて、松尾儀右工門をして新築せしめしものにて、今は公會堂が建立されてゐる。

武村清之亟
 文化年間(1804-1818年)此地の陶商武村清之亟は、大阪の問屋より金子五百両を借り、下登窯の全部を請けて製造せしめ、そして大阪へ向け盛んに取引を開始せるより、下登専属の窯焼は金融上頗る便宜を得るに至つた。當時文政二年(1819年)の賣附の一部を抄録すれば左の如し
武村の賣附寫し
卯十月八日白子屋賣附寫
八月立 大黑丸
樽高臺
一花割大廣東 四十八ッ入 抬俵 內山水畫 十六ッ入
一同 極上 同入 七俵
一同 上ッ一 同入 貳俵
小ぶり
一柳牡丹盡大高臺茶漬五十一ッ入 貳俵
一同 極上 同入 四俵
一同 上ッ一 同入 壹俵
此外朝顔本形奈良茶、山水繪大廣東、鐵線畫大高臺茶漬、網畫目小中等十八筆略
〆百俵俵俵同壹俵
右之御屋敷御立合の上賣捌に相成申候間御改可被下候 以上
卯極月二十五日
龜屋源太夫 四郎兵衛判
武村清之亟殿
なほ此品附の合間には、一々「大村支配方」と刻りし長方形の判が捺されてある。武村清之亟(今の武馬の父)は天保二年六月十四日七十六才を卒去してる。

雁造札事件
 文久年間(1861-1864年)太田德右工門は、藩主の許可を得て當中尾山に限り銀札を發行することゝ成り、窯焼業者の金融上多大なる便宜を得ることなつた。然るに其頃何者か此銀札を偽造せし者ありて大恐慌を来たし、藩は極力犯人の詮議に努めたる結果、多数の者につき、主犯者下波佐見村の松尾菜は、斬罪に處せられたのである。

太田徳右衛門
 徳右工門は、又置場方役を勤めし外、公共事業に盡瘁せしこと少からず、斯くて慶應二年四月十九日七十四才にて卒去せし者にて即ち今の久五郎の先代である。維新頃の窯焼さしては竹村清一、中川政太郎、福重大助、松尾左七等其重なる者であつた。

馬場彌三郎
 又名陶家として馬場彌三郎があり細工に或は繪畫に巧者であつた。そして明治三十三年十二月五十四才で卒去したのである。

馬場亦市の棚板研究
 明治二十二年四月馬場亦市は、棚板製作を完成した。彼は小學校卒業後陶業に従事すると共に、従来の天秤積法が頗る不完全なるみさし、之を改良せんとの志を抱いてゐた。是より先き明治十六年、三の股の松尾興一は、八つ羽にて圓形の天秤バマを工夫せしに、従水の四つに比して共積込量の倍加せるを以て、此地方の同業者は何れも皆此入っ羽法を採用するに至りしも、蓋し其危険なる点に於いては何等異なることなかったのである。
 明治十八年三月亦市時に年十八、熟ら積込法の改良を企圖せしが、仄聞すれば尾張の瀬戸には、棚板積法ある由なるも、精くは其方法を會得せず唯四個の柱を立て、之に棚板を重ねること而已さへ頗る安全法なるを覺り、同月二十五日始めて厚さ一寸五分に、一尺角の耐火粘土板を造り、その後失敗を重ねて試焼すること数十回に及び、翌十九年に至りて漸く一尺五寸の棚板まで之に堪へ得ることを発見し、同二十二年四月研究全く完成を告げたのである。
 之より地方の諸山、亦此棚積法を採用する者多きを加へ、中尾山に於いては全く之に改革せし陶家拾數戸に及び、中には他山より見學に来る者さへ生するに至った。亦一は陶業の外、亦小間物轆轤の名手であり、そして大正十五年六月六十一才を以て卒したのである。

松尾庄作の視察報告
 明治二十三年四月松尾庄作(舊姓武村)は、全国の重なる陶業観察を終へて蹄山した。彼は去二十一年四月より、長崎縣廳の添書を携へて出発し、山口、愛媛、兵庫、京都、大阪、愛知、岐阜、滋賀、三重等の各製陶地を見學し、そして瀬戸の工人二宮嘉吉を聘して、同行歸山したのである。此際瀬戸の陶窯及積込法につき縣廳へ精細なる報告書を呈出せしが、就中烟蓋(棚板)使用の條につき左の一節がある。

棚板は厚さ八分、長さ尺二寸巾尺位にて柱四本の上に之を載せ間々粘土をはめ積んで天上に至る高さ一丈四尺にて窯内寸隙なし之を我地方の四五尺に満たざる天秤積と比して實に霄壊の差あり(瀬戸丸窯に用ふる普通棚板は縦一尺六寸横一尺二寸五分、厚さ一寸三分五厘乃至四分である)尾濃地方は上出来の焼物を低廉に賣りて猶十分の利あり我地方は舊來の慣習を守つて此要点を改良せず粗悪の陶器を高償に賣るも利少なし故に目下支那の需要を減退す實に遺憾の至りなり
要するに窯具の不完全と積込方が假令ば大樹ありて下枝の果實を得るに甘んじ梢上の美味且大なる果實は未だ之を取ることを知らざるものゝ如し云々

武村萬次郎の銅板轉寫
 明治二十四五年頃に至り、尾張瀬戸より来らし原某なる者、染附銅版の轉寫法を齎らせしも、當時此地方は紙型捺染法のみ盛んなりし際とて、斯法未だ採用されず、空しく歸國したのである。其後有田の牟田久次(十九年より開業)は、大外山地方へ件の轉舊紙を販賣せしより、中尾山方面も、之を使用する者彌々多き加ふるに至つた。
 其頃陶業休止中の武村萬次郎(竹泉)は、先きに前記の原某より其製法を習得し居たりしより、決然此事業に着手せしところ、實驗するに至つて頗る困難を来たし、苦心研究を重ねること半蔵に及んだのであつた。適々陶家太田久五郎が、斯業の有望なるを説きて激勵せしより、勇を鼓して研鑚に努め、漸く完成することを得たのである。
 之より萬次郎は、杵島郡の弓野山 藤津郡の吉田山及び志田山等へ各印刷機を据付て出張製版するに及び、自然有田の久次と競争するに至りしかば、久次は萬次郎を高級にて聘雇すべく求めしも萬次郎之に應ぜず、斯くて稗木場山の濱田七郎の仲裁にて、久次は中尾山の出張所を撤回し、萬次郎の吉田山出張所と交換することによりて解決し之より一時盛んに製版したのである。

中尾山製産額の地位
 中尾山は、舊藩時代より生産に於いて、波佐見山中の首位を占めしのみならず、技術上に於ても現今他山は茶漬碗専門の観ある中に、此處のみは食器の外種々の装飾品を製し、全く大村焼の代表山である。此地有田驛より二里の行程にて、現在戶数二百五十戶、窯燒二十三戸あり、好況時代には戶數三百を越へ、年産額五拾余萬圓を挙げたりしも、現時の産額は二十萬圓余といはれている。重なる窯焼には太田龜吉、上田廣次、山口清馬、一ノ瀬忠一等にて何れも活氣を呈している。

馬場筒山
 此處の異色ある工人に、玖城園馬場筒山(猪之策)がある。彼は明治十九年前記長崎の、山里燒なる馬淵龍石に就いて捻細工を習ひ、同三十九年上波佐見意匠傳習所研究生として京都に上り、細木松之助(工學博士)に就いて色彩法を學び、又工業試験場技師北村彌一郎(工學博士)及東京美術學校教授島田佳矣につきて製陶化學及圖案等を學んだのである。

聖徳太子像
 同四十年彼は、赤獨逸某大學の教授たりし佛人フックーより、金属色素配合を學んだのである。大正十年一月には、聖徳太子千三百年御忌記念奉讃會より、太子尊像の製作を委嘱され、全國有線の霊地寺院に安置されしもの既に百餘体に及びしが、今猶完了を告げす謹製にいそしんでゐる。そして又傍ら青磁や消光磁器及び秋光其他の窯變、或は刷毛目、櫛目などの雅品を製作しつゝある。

永尾山
 永尾山の古窯には、高麗窯、本登、窯の谷、木場山等がある。此内木場山は三の股や藤津郡に接近し、本登其他は杵島郡に隣してゐる。

永尾の高麗窯
 而して此處は武雄系なる永尾の韓人が、神六山を越えて此山を開きし稱せらが、それは本登の前なる高麗窯であるらしい。此古窯跡よりは、例の飴釉や灰色釉の目積皿或はそれに鐵描せしものなどが發掘されしことがある。

永屋窯の谷
 永尾窯の谷は、寛文六年(1666年)に、永田山の韓人の分族が、此地小樽越の山谷、即ち此窯の谷に開窯せしに始まるとせられ、現在山の神社の下に其古窯跡がある。そして殘缺には稍鈍重なる青磁の大鉢類や、又陶器の小皿及香具等があり、或は白磁の染附物もある。此物原は今執行勘太郎の所有畑と成つてゐるも、それは窯跡について登つてゐる。
 窯跡附近は高麗屋敷と稱し、鈴田三太郎の所有地にて、樹林の中の墓地に立派な墓碑がある。而して古来より此小丘なる山の神社の樹木を伐採すれば、必ず神罰を蒙ると言ひ傅へて、決して斧を入る者がない。又此處の向い山に釉薬料らしき白砂があり、そして採掘された形跡がある。

木場山窯の谷
 木場山窯の谷は、會て不動山より青磁の製法を移入せしといはれし處なるが、残缺には天龍寺や、或は青磁の大皿があり、それに古代花模様や、水草など沈彫せしものがある。其他染附磁器の粗雑なる皿茶碗など、多く焼かれてゐる。蓋し青磁物に至つては前述の如く、胎土軟質にて茶碗の外成器を得るに難く、それが為か、或は他の理由に因るかは不明なるも、經營上行詰まりを來せしを以て、藩は斡旋の上、之を領内西彼杵郡長興の地に移轉せしめしことは、後段に記するであらう。此の開窯は皿山始に
永尾の皿山始
寛文七年(1667年)木場山皿山始正德四年(1714年)まで四十八年に相成り右者東島久兵衛相立申候御代官岩永七郎右工門殿但し正徳二年(1712年)に長興山に新山被相相立候に付釜燒取移り候
とあり、之に依れば、長興山開窯の爲にて、特に行詰りの結果のみさも見られざるが如く、尚又同皿山始付に左の如き記事あるは、之も窯の谷の開窯であるらしい。

寛文六年永尾山始正徳四年まで四十九年に相成右者親平左工門山申請相立申候江戸より萬屋(藤九郎)罷下り候右山始より御代官大村三郎右工門殿御役內御立被成候
又他の古文書には次の如く記されてある。
永尾山古文書
永尾皿山
一竈數四十四 內釜司拾人
本登釜數二十九軒
內 二十三軒 本釜
內 四軒 安光
內 二軒 灰安光
燒物出來高六千六百二十俵
焼物土 九千七百二十荷
薪 六十二萬七千本
焼物上銀一貫三百二十四匁(壹俵に付二分宛三分銀にて)
但荷運上一分三厘三分七厘にて
灰運上銀一ヶ年に七匁
酒場運上銀一ヶ年に拾五匁
釜運上銀一ヶ年三百四十五匁
水碓數四拾丁
一右永尾皿山は寛文六年始て建之なり
一永尾皿山より西庄屋まで道法一里十町程牛馬往來の本街道より此處を替道して野口川越の有田伊萬里への近道なり東は三の股皿山への本街道にて左右用木山田畠屋敷人家あり

永尾の陶家
 維新後の永尾山窯焼として松尾佐助、太田重太郎等があつた。曾て好況時代に於いては、窯焼十五戸、年産額十數萬圓を繋げ、なほ家屋の不足を補ふため山營住宅を建築せし程なりしが、現時は全く衰退して戶數七十戶中窯焼は島尾頴人、一の瀬又太郎外二三戸に過ぎず、年産額一万五六千圓となり製品は重に茶漬碗類である。

稗木場山
 現在に於ける波佐見焼の大部分は上波佐見村のみなるが、中に下波佐見村に稗木場山の一山がある。此處は寛文三年(1663年)の開山にて、磁器製作地としては上波佐見諸山に遜色なき古窯地なるも、當時は原料地へ遠くして發展稍後れしもの如く、其後道路改良され、三の股土場より原料運搬の便宜を得るに至つて繁昌し、今や近く三河内驛が設置されてより、現代的の製陶地として經濟上好位置を占むることゝ成つたのである。

邊後の谷
 此處の古窯跡には、邊後の谷、高尾の辻、向平、平瀬等がある。就中邊後の谷が最古の窯らしく、其の染附に用ひし下等呉洲が鐡釉の如き色を見せてゐる。近年此邊り新道路開整されて、是等古窯の物原が切断さることなり其斷面層より破片が綴々と喰み出されてゐるが、初期の製品には何れもドス黒味を帶べる下手物の食碗や、徳利などが頗る多い。

太白煎茶々碗
 此粗雑なる呉洲描の燗徳利や茶碗などの中に打雜りて、巧妙なる細工に成りし太白薄手縁反の煎茶々碗が現はれてゐる。それは現代細工人の誰もが造り得べき手際でなく、其呈色の白味なご勿論之は天草の上石を用ひし作品なるべきも蓋し當代名人の手に成りしものであらう。

稗木場の向平
 向平の古窯品には、染附松柳畫突立の茶碗や、三方四つ葉畫の丸茶碗、或は芋山水畫、葡萄畫、臥龍梅畫などの丸茶碗、又垣割竹葉畫の同物や、松葉畫の蛇の目積小皿があり、何れも細工が純重でしかも粗拙な模様のみである。

高尾の辻
 高尾の辻の殘缺には、染附草畫の二寸五分皿や菊畫の丸碗などがあり、作風は前記と同一である。

桃實繪の皿
 天明元年(1681年)此地の窯焼某、氷裂手の磁器に桃の實を描きたる雅趣ある皿を製作して、藩主大村信濃守純鎮に献ぜしところ、其技絶妙なりて、純鎮は更に之を幕府に献せしより、毎年上巳(三月三日)を期し、長崎奉行を経て此桃實繪の皿(桃形の茶碗ともあり)を進献することゝなつた。維新後の窯焼には、福田哲夫、田崎榮作、小柳多次郎、本石卯太郎、福田彌右衛門、松尾慶太郎等があった。

松尾慶太郎
 中にも慶太郎は父孫右工門の業を継ぎて刻苦勉勵産を起し、傍ら當山の發展を圖り或は稗山陶磁器合資會社を設立して其社長となり明治三十九年には低利賛金を借りて、下波佐見陶磁器信用販賣組合を成立せしめて、其組合長と成り、大いに同業者の便宜を計りし者であつた。
其他公共事業の爲にも盡瘁せしこと少からず、斯くて大正十一年九月十一日卒去したのである。

現在の稗木場山
 此處の製品も、食器類殊に茶潰茶碗を主として製造され、斯業頗る活気を呈してゐる。然も行通頗る便利にして、三河内驛より一里の道程にあり、近來又道路改築され定期のタキシーは、同驛より内海、中尾方面へ往復しつゝある。好況時代に於いては窯焼十八戸年産額四十萬圓近くを擧げしといはれてゐる。現在戶數百十戸窯焼八戶あり、其重なる者に小柳吉歳、本石權造、中尾倉藏等がある。此地は又優良更生農村として知られ、此處の下波佐見村農業公民學校には四十名の生徒が製陶の實地練習をなしつゝある。

永田山
 之より記事は再び上波佐見に帰り、永田山の古窯跡について述べて見たい。此處は上波佐見村の井石郷にて、中尾山より七八丁を隔てし舊道路の山端である。殘缺には天龍寺青磁の八寸の淺丼にて、其高臺が徑一寸五分許りのものがあり、それが蛇の目積にて、五六個重ねた儘密着せるが反つてゐる。 想ふに此處の青磁物は、軟質胎土を用ひのみでなく、斯くの如く高臺の小さきことも亦不成器の一因であらう。此青磁物には尺口皿や八寸丼などに、浮彫や沈彫の模様があり、或は染附青磁がある。其他薄鼠色の染附磁器には、くらはんか茶碗や、緑二重筆大粗地交猫の小皿などか、蛇の目積にて焼かれてゐる。

中野祐慶
 此處は慶長年間(1596-1615年)藩主大村民部少輔純頼の時、韓人の陶工祐慶の兄弟に依りて閲窯されしといはれてゐる。祐慶は齢化して中野七郎冶工門改稱し、此の中野族が中尾山や、永尾山へも分布せしといはれ、そして川原川内の青磁原料も弥此韓人の發見せしさせらる。

高麗川内
 川原川内は、今の湯牟田郷内海にあり、内海は往年鹿児島の新答院重義が、興業銀行より巨費を借りて金礦を採掘せし、ゴールド・ラッシュの夢の跡にて 其舊事務所の近くに原料地がある。當時韓人の發見せしより、此處を一名高麗川内とも稱せられてゐる。

永田山と三之亟
 皿山始付に「永田山右者中野群兵衛相立申候御代官山口八郎兵衛殿」とある、八郎兵衛の代官時代へ元祿年間(1688-1704年)にて、群兵衛は慶の子孫らしく、之が永田磁器の創業者の如く見らるゝも、此處は既に寛永十二年(1635年)三河内の三之亟が来つて、磁器製作を試みるうち、平戸藩主の命に依って歸山することゝなり事業を此地の小柳吉右工門が継承せしといはれてゐる。故に元祿十年(1697年)より六十餘年以前に於いて既に磁器が製作されしことゝなつてゐる。
 而して別説にては、三之亟は中尾山にて試焼せしの口傅もある。尤も白岳の原料が寛永十一年(1634年)に発見されしさの説に因れば、其翌十二年に三之亟が中尾に来りし理由も首肯されぬこともない。

小柳吉右衛門
 蓋し其高弟となりし吉右衛門が永田山に於いて焼き居りし形跡ありとすれば、勿論此處は中尾山と隣接し、なほ且より舊き開窯地なるを以て、三之亟が白岳の原料を此地に運びて試燒せして推定することか妥當であらう。

永田山の陶器
 兎も角永田山は、村木方面と共に、波佐見陶山中最古の窯跡に相違なく、後年にも其くろ物の破片が発見されてゐる。それは例の灰色釉に鐵描にて草花か描かれ、口には紫色を帯べる塗の徳利があり、或は、建盞の如き美しき釉色を呈せる徳利などがある。又吉右工門作とて紫釉手の煎茶器や、茶出し或はウンスケ(肩張壺形にて肩部に吸子の口があり、佐賀邊にて一名ドグラといふ)等が製作されてゐる。

田別當
 近來發見されしものに、湯牟田鄉の田別當なる、道祖の神(鳥越)と稱するところに古窯の物原がある。此處は折敷郷の堺なる、溪流に沿ひたる東方の山麓にて、前記の諸山に劣らざ古窯跡の如く、今其窯跡を認めざるも、其邊一面に散亂せる破片がある。それには褐色胎土に薄化粧を掛けし、桃色の茶碗や五寸皿があり、或は青灰釉や青茶釉、灰色釉、又は暗色茶釉氷裂出の大茶碗や皿があり。何れも無釉高臺にて、中には全く新月形があり、概して炻器の如く堅緻に焼縮られたのが少なくない。 以上が波佐見焼の山である。

内海
 之より新山に就いて概録せんに、上波佐見村湯牟田郷の内海は、前記の如く往年金礦採掘地として、數百万圓の資本を投し跡さて、人家櫛比し物資の需要に便である。加ふるに一里餘にして有田驛があり、且其市場に近きより、現代の工業經濟の合理化は舊山の窯元をして、漸々此地方に移轉せしむる傾向を生じて来た。そして其工場の如きも頗る活気を呈してゐる。
 内海信山の創業は、今より十六七年前三の股の太田杢太郎此地に開窯せしを始めとし、其後今を去る八九年前中尾山の松尾政また來つて築窯し、次に昭和二年馬場要同じく中尾より来り、何れも盛んに陶煙を繋げてゐる。そして製品の重なるものは酒樽及茶漬茶碗等の食器である。

西の原
 上波佐見村井石郷の西の原は、今より十四五年前中尾山の福重武次郎來つて開窯し、次に昭和七年又同地の中尾善太郎も移轉しつた。
品種は多く食器類なるも頗る優秀なる製品が焼かれてゐる、年産額は二人にて三萬圓位であらう。

金屋東山
 上波佐見村金屋鄉なる東山に、太田政臓が開窯して酒樽及朝鮮向の下手物を製造しつあるが、年産額は一萬圓といはれてゐる。

西山の太田鹿市
 上波佐見村折敷鄉の西山は、明治三十九年より、三の股の太田鹿市が開窯し、今二た登か築窯せられ、新式の諸機械を据付けて此地方模範的の工場が建てられてゐる。製品は重に朝鮮向の下手物なるが、其他食器類の外、近來酒樽をも製作しつゝある。鹿市は朝鮮向製作に就いて濁特の製産力を有し、彼の好況時代には此一工場より年額十九万を産出しが、現今は其四分の一に低下せしとしてゐる。

朝鮮向の種類
 目下の不況は何れの工場とても産額の減少はかれざる中に、又一面韓人生活の向上が、従来の需用器具に變化を來せしことも見遁されぬ原因であらう。元来朝鮮向の日用品として輸出さるゝ重なる種類は、サパル(飯碗)、テイチョープ(大拙とも書く即ち汁碗のこと)及びヨカン(便器)等である。

朝鮮向需要の變化
 而して近來頓みに増加せる本邦人の移住者と、親しく彼等か接觸するに從ひ自然生活風が日本化する傾向を生じ、従來サパルやテイチョーブを使用せし彼等も、漸々本邦人の如き食碗を使用するに至ったのである。蓋しヨカンに至つては、彼地の気候に對する防寒住宅の關係と、そして永代の習慣性として容易く廢す能はざる可しと観られてゐる。
 又朝鮮向の供給地の中、以前は京城、仁川、平爆に於いて選上物が多く販賣され、選下物の仕向け先は、元山、清津、羅山方面と定められしも、近年の不況は何地をも安物の需要盛んとなり、京城でさへ、此選下物が歡迎さるゝ傾向を来したのである。

窯業指導所
 昭和五年上波佐見村井石郷西の原に於いて長崎縣窯業指導所が設立された。之より先き大正九年より長崎商工課に於いて、商工技師横山満をして、窯業技術の指導に任じたりしが陶業地と遠隔せる爲め種々の不便を免れざるを以て、製陶地に指導所を設けて、指導員を出張駐在せしむることゝなつた。

近藤憲一
 目下所長近藤憲一(瀬戸の人)の外技手一名、助手一名、職工一名を擁し、講習所を開催して意匠、圖案配布、新種製品、考案幇助、石膏型製作配布、窯道具製造配給等を行ひつゝある。此全豫算七千二百三拾圓にて、所長希望の三分一の額にもせざりし由なるも、其施設頗る完備せるが如きがある。 そして前記の意匠傳習所及び三河内の徒弟養成所と連絡を保ちてゐる。而して近藤所長が真摯なる研究振は、試験所長の模範者といはれてゐる。

長興山普請古文書
 以上が波佐見窯の新舊山である。猶此外長崎市に近き西彼杵郡に、長興山の古窯跡がある、此處も亦舊大村藩領にて前記の如く、永尾の木場山より移轉せるところなるも、左の古文書に依れば、それより二十年以前に於いて既に開窯されし陶山の遺跡であることが判る。

二十年前焼きしことあり
長興皿山 同年まで三年と相成
右者正徳二年辰の六月より御普請相始候事御役人
御元締役富永五郎左工門殿
御作事奉行大村三郎太夫殿
御郡代役 喜多助右工門殿
木山 役本島四郎右工門殿
皿山 役 福田八左工門殿
右の御人數より中尾平左工門へ被仰付正德二辰六月二十六日長興へ罷趣巳正月三日迄相詰釜塗立心見(試し)焼出し釜別條無之處見届罷歸候事
 右に依れば、正徳二年(1712年)より二十年前、即ち元祿五年(1692年)に開窯して其後廢滅に歸せしを、さらに木場山の窯焼を、移轉せしめたのであるらしい。

長與の古窯品
 長興磁器の製殘缺には、釉色稍黄味を帯びそれに下呉洲にて九紋繒なご描きし皿があり、そして蛇の目積にて焼いてゐる。又五寸丼につくね芋山水ともいふ可き染附などあるが、是等は木場山より移轉前の製品といはれてゐる。
 移轉後の殘缺には、染附山水の畫風頗る素朴な七寸丼や、同五段筋にて中央に廣塗筋を焼らせ突底形の煎茶々碗があり或は六方捻割の中に粗雑なる霊芝とギリを交描させる四寸丼がある。斯くて此長奥の窯焼は其後六十四年を経て安永四年(1775年)に至り、又伊豫の砥部山に移せしものである。

川棚
 此外大村湾沿岸なる、東彼杵郡川棚に於いて、近年磁器製造が開業されてゐる。原料は波佐見焼同様天草石を用ひて火鉢や酒樽及朝鮮向等を焼いている。最初は三の股の田崎圓藏が開窯せしものにて、今其跡を俵屋儀鉢が継承し、外に波瀬一三、山口文一以上三戸の窯焼にて、年産額三万四五千圓位といはれてゐる。
 要するに波佐見焼の主要製品は、日用品であるところに發展の可能性が多く、而して地元なる三の股に、良原料を産出することに大なる強味を具備してゐる。然るに近來凡ての窯焼は、天草石を使用せざれば良器は得られざるかの如き傾向を生じ、何れの陶山も地元原料の應用研究を閑却せる風がある。
 若し豫期の火度に堪へ得る丈けの原料なれば、現代科墨の進歩は原石に含有する硫化鐵分除去法に就いては、電磁石分離法やフローテーション・マシン(浮遊選礦器)法、或は塩素漂白法等に依つて、全く解決さらるゝことゝなつた。要は如何にして之を經濟的に悪用するかの問題のみである。而して日用品製造の要諦は燃料と製作能率の外、原料の經濟問題も重要なる研究の一たるを失はぬ。

太田工場の研究
 然るに今や製器次第にては、砥石川の原料のみを以て全く完成し得ることが証明された。即ち西山の太田工場に於いて、朝鮮向を製作するに砥石川を主料なし、之に蛙目の僅分を混和して完全に製造しつゝある。而して右の製造法によれば、天草土のみにて一圓二三十錢を要する土代が、砥石川と蛙目代と合計して九十錢にて足りるといふのである。
 なほ同工場にては、酒樽の如き巨器さへも、砥石川を主料さして、必ず製作し得る自信のもどに研究しつゝある。斯くの如く近き地元の産石を主料なし、其足らざる質分のみを補足し、或は又其調節に依つて、目的製品の完成を期する研究は各山陶家の大いに考慮すべき問題であらう。

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