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鶴田 純久の章 お話

漢作 大名物 子爵 大河内正敏氏藏

名稱
古名物記に「せうざん蒔繪道興肩衝ともいふ」とあり、「せうざん」の名稱、玩貨名物記及古今名物類楽に見ゆれごも其由来を審かにせず。

寸法
高 貳寸七分
胴徑 貳寸五分貳厘
口徑 壹寸五分
底徑 壹寸五分
甑高 貳分五厘
肩幅 貳分七厘
重量 參拾壹匁

附屬物
一蓋 一枚 無窠
一御物袋 白縮緬 緒つがり自
一挽家 黑塗 金粉字形
松山 書付小堀宗中
袋 錦 裏縞海氣 緒つがり茶
一內箱 桐 白木 書付小堀宗中
松山肩衝
蓋裏に(宗中)朱印あり
一中箱 桐 春慶塗 書付朱漆
松山肩衝
箱の胴両面に朱漆書付如次
此肩衝は年來奈良屋源次郎方に所持之處惜むべし、去る文政十二年三月廿一日大火之時燒失せし跡にて茶入のかけを尋出し置けるが、茶入のかけ四分不足せり、此度我等上京之序預り登りて、松屋宗朝に相談せしに、昔し松平不味此肩衝所望して一覽之時、宗朝も側にて能見覺、其上表裏之藥なだれの模様迄つぶさに書寫しをかれたれば此翁を頼み差闘をうけ、御塗師近佐と云名人に丹精を盡し申付繼合、不足の所は木彫にて補ひ、藥なだれ茶入目方幷挽家外箱迄も元の如く拵へ江戸へ持踊り、小堀宗中に箱幷挽家書付賴み、挽家松山肩衝字形は 蒔絵師胡民造之全せり、奈良屋之子孫に永く傳へむ事を思ふのみ。
弘化四未年五月 古筆了伴
一總箱 桐 白木
松山 肩衝
一添書付 一通 寸法及附屬物の記事
松山肩衝
高二寸七分 胴二寸五分 口一寸五分八厘 肩二寸二分五厘 盆付一寸五分 かけめ三十目八分
箱 宗甫書付
象牙蓋三枚音楽あり 内二枚包紙甫公書付
袋 四ッ
花色金鴛鴦紋 裏藤色かいき 緒つがり花色
彌惣右衛門廣 裏萠黄海氣 緒つがり紫
笹蔓純子 裏かべちょろ緒つがり紫
蓮に水紋淺黄地純子 裏かいき 緒つがり茶
袋箱 宗甫
盆 内縁釼先の如き彫物 外緣牡丹彫物
内地板籠目組物
盆裏 朱字書付如次
對光
盆箱 桐 書付 宗甫
天保七丙申春三月二十八日
 有隣塾藏
一添書付 一通 由來書
松山肩衝茶入由來
幷諸家大名物茶入之由來共
此松山肩衝茶入は 物大名物之内にて、元松平右衛門御所藏賣上げ證文有之候所、是も焼失代金七千雨と有之候得共正金差出候高は金四千雨と申事に承り及候、年號は失念元祿頃か寶永と覺申候。
偖世に唐物大名物之茶入と云は、十二か十三か有之候由、御公儀様に初花と元銘の茶入有之候、是も先年御寶藏焼失の節焼候と申噂も有之候得共、實説如何に候哉相知れ不甲、其外松平出羽守様に鍋屋肩衝油屋肩衝と申茶入ニッ有之候、鍋屋肩衝は元霊岸島冬木氏所持之品、松平不昧様 出羽様ノ御隠居ニテ品川大崎ニ被爲居候大茶人之方也 御買上げに相成候由、其外大和之國に松屋源三郎と申者松山肩衝と云茶入所持、是には松永彈正久秀の手紙添有之由、其譯は久秀より南都焼討之前夜、源三郎方へ明日南都焼酎候間、彼二品持今夜中に立退候樣之手紙之由、彼之二品と有は松屋肩衝の茶入呂紀(徐燕の誤)の鷺の繪の掛物の事由、久秀も道具に對しての事誠に勇士に似合殊勝之心元左も可有と申傳候、然る所右之茶入近年大阪へ質物に入相流れ今は薩州公に有之と承り及候、其外諸家様に有之は右唐物大名物茶入は名物記と云板本に有之候尤手前方松山肩衝は、右之本の内には無之かと覺申候、諸家様の分も無疵の品は少き由に承り及候。
右慶應二年丙 九月承り及候分認置物也。
一添卷物 一卷
右元祿九年六月八日より正德四年まで元大多喜藩主松平備前守道具賣拂代金控記錄也、其中茶入に開する部分次の如し。
一金四千兩也 神田安体へ
是は松山肩衝御茶入御拂代金也
一金五十二兩二分也 山田良次取次
是は印色御茶入御拂代金也
一金二百四十七兩三分也 秋元但馬守様へ
是は打出御茶入御拂代金也
一金百兩也 土屋相模守様へ
是は廣澤御茶入御拂代金也
一金百四十兩也 土屋相模守様へ
是は丸肩衝御茶入御拂代金也
一金百七十五兩也 阿部豐後守樣 池嶋立佐を以て
是は撰屑御茶入御拂代金也

雜記
せうざん 蒔繪道與肩衝ともいふ松平右衛門太夫 (古名物記)
せうざん 松平右衛門太夫殿。朱書入 道興所持、奈良屋源七。 (庵文庫本玩貨名物記)
せうざん 唐物衝 大名物 松平右衛門大夫。 (古今名物類楽)
せうざん 大名物 唐肩衝 松平伊 殿、今ならや源七、焼失。 (伏見屋覚書)
分六
松山 松平右衛門太夫、今町人奈良屋源七、文政十二年三月十一日燒失、口一寸六分、こしき二分半、高二寸七分、底一寸五分半。一體柿黑うるはしく、かなけ多し、胴にろくろ筋かた白くすりとりまき、前にきのヒマあり、肩の作丸き中にかど有。一體作上品鼠土、板おこし、中にふくれ有、底まわり擦れ有之、蓋二、まへより有之、「かたつきのふた」と包紙書付、宗甫公。
御物袋白羽二重、袋望月 裏萠黄海氣 緒藤色 ささつる 裏かべちょろ 緒遠州茶、紺呂地をし鳥切 裏かいき 諸御納戸、袋箱白桐 松山袋、挽家黑面取さんふん(松山)、袋錦 裏鎬かいき 諸遠州茶 箱白桐 松山 肩衝、盆内かご組物、ふち劔先の彫、外牡丹彫底黑板メ、眞中に「對光」此文字朱書、四の足ふち底のまわりもくめ塗、角丸盆、箱白桐 松山盆 六寸四分半(茶入圖あり)。 (鱗凰龜龍)
松山 唐物肩衝 指渡一寸一分、口作一寸八分、底一寸八分、替蓋三ッ窠、袋四ツ彌右衛門廣東 裏かべちょろ、笹鶴 裏かいき、白鶏頭 裏小豆海氣。書付遠州、挽家書付遠州、添盆四方盆唐物。 (松本見休万法集)
松山肩衝 奈良茂舊藏品々道具の控帳、蓋一枚替蓋二枚、盆一枚、袋四ツ。 (三井家文書)
松山肩衝 箱書付遠州、今江戸神田安休。 蓋二枚遠州御好、袋花色呂金古純子、笹夏純子。底板おこし、先年拜見申候。 <雪間草茶道惑解)
松山肩衝 神田源七所持、
享保十八年五月十一日、支配人松野重兵衛手代太兵衛兩人にて持参して見る。 (石州流過眼録)
松山 漢なり。残月國司茄子、北野肩衝、久我と同時代なり。又北野肩衝及久我とは同手同藥立なり。 (松平不昧著瀬戸陶器濫觴)
松山 挽家(松山)箱桐 松山 肩衝。袋四ッ、笹つる純子、望月漢東、浪二鳥入純子、花色地ニ押鳥古金らん時代之品、袋箱「松山袋」添盆箱「松山盆」惣體口作シシ、合有、こしきに帯あり、胴にも帯あり、板おこし、土に少しシボ有り置形黄飴にすき、其の廻り細く斑藥也、形ち甚惡敷(茶入及び底の圖あり)。 (幕庵文庫甲第七號)

傳來
元蒔繪師道與所持にして、松平右衛門大夫正綱に傅はる。藩翰譜に「右衛門大夫源正綱、實は大河内金兵衛秀綱が二男、徳川殿の仰に依て正次の世嗣となり(中略)、十七歳より徳川殿に近く召仕れ、常に御側を離れず、慶長五年關が原の戦に隨び、大阪兩度の戰にも大御所の御陣に従ふ、大御所薨じ玉ひし後、左大臣家の御時に至て三代に仕へ奉り(中略)、夙夜奉公の勞を積みけるほどに、恩賞行はるゝ事も度々に及び、所領数多知行し、慶安元年六月廿二日卒す云々」とあれば、此大名物松山肩衝は正綱が幕府より拜領せるものなるべし、正綱の養子松平伊豆守信綱は參州吉田(七萬石)藩祖となり、其子正興は上州高崎(八萬二千石)藩祖となり、右衛門大夫正綱の實子は即ち松平備前守正信にして、上總大多喜(二萬石)の藩祖となれり、以上三家長澤の松本と稱せしが、明治に至り各本姓大河内に復し、各子爵に列す寛永十五年島原の役、私費を投じて征伐に従事せしが爲め、大河内本家の窮乏一方ならず、新年の門松さへ立つる能はず、分家より補給して漸く之を凌ぐ事を得たりと云へば、一族互に相助くるが爲め此茶入をも賣却し、當時松平家と金融の関係ありし江戸の豪商奈良茂こと、神田安休が金四千兩にて引き受けたる者なるべし、然るに文政十二年江戸大火の際、奈良屋の類焼と共に、此茶入も亦火災に罹りしが、京都の茶器商谷松屋宗朝が嘗て之を圖録し置きたるに依り、其指圖を請ひ塗師近佐をして之を補繕せしめたりとなり、其後奈良屋の親戚日本橋區元濱町新井半兵衛の手に入り、大正五年二月東京兩國美術倶樂部に於て、同家藏器入札の際久し振りにて大河内子爵家に復歸せり。

實見記
大正十年五月十日、東京市下谷區谷中清水町大河内正敏子邸に於て實見す。
口作括り返し淺く肩より胴までフツクラと膨らみ、腰以下稍窄まる。此茶入文政年間火災に罹りて大破せしを、京都の茶器商谷松屋宗朝の手控に擦り、漆細工にて其置形景色を描き出したる者なるが、柿色地に黒釉なだれ最も景色に富みたる茶入なり、火災に罹rしにも拘はらす、原釉其儘残存して、光澤麗しき所あり、其完全なりし時の美観を想ひ見るべし、裾以下の鼠色土は總て原形の儘にて、板起しの底に少しく磨れあり、内部口縁釉掛り、以下轆轤目ありしならんと思はるれども、漆繕ひの爲め、其原形を認むる能はず。此茶入今は罹災前の價値を存されども、古來有名なりし茶入にして、猶ほ其原土原釉の幾分を存するに依り、古名器の名残として之を収祿する事と爲せり。

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