


師匠坊肩衝(ししょうぼうかたつき)
唐物 大名物 侯爵 前田利為氏 所蔵
【名称の由来】
奈良の東大寺内にある四聖坊(ししょうぼう)の宝物であったことから、この名があります。四聖坊はもともと正倉院の境内にあり、東大寺を建立した聖武天皇、良弁僧正、行基菩薩、菩提僊那(ぼだいせんな)の四聖像を安置した寺院であるため、「四聖」と呼ぶのが正しいのですが、古くから「師匠」もしくは「師聖」と書かれて通用してきました。
【寸法】
高さ:約8.4cm(2寸7分7厘)
胴径:約8.2cm(2寸7分2厘)
口径:約4.6cm(1寸5分2厘)
底径:約4.8cm(1寸6分)
甑(首)の高さ:約1.1cm(3分8厘)
肩幅:約1.2cm強(4分強)
重量:約132g(35匁2分)
【附属物】
・蓋:2枚(うち1枚は象牙)
・御物袋:白縮緬、緒は白のつがり
・仕覆(袋):
(1)浅黄純子水草雁紋(裏は海気、緒は紫のつがり)
(2)広東織留(裏は破損、緒は紫のつがり)
・袋と蓋を入れる箱:桐の白木箱、2個
(そのうち1個の箱の蓋の表の書付は次の通り)
「師匠坊肩衝 蓋二、袋一」
・挽家(ひきや):梅材、中次雪吹(なかつぎふぶき)形
「師匠坊」(書付は金粉の文字、筆者不明)
袋:茶色の純子、梅竹鶯紋(裏は茶色の羽二重、緒は茶色のつがり)
・内箱:桐材、唐戸面(角を面取りした形)
「師匠坊肩衝」
「師匠坊御茶入(朱書き入り)御拝領」(金粉の書付)
・外箱:桐材、白木
【雑記】
「ゑしやう坊(四聖坊)」:奈良東大寺の師聖坊にある。
(山上宗二記および茶伝記録より)
「師匠坊」:南都(奈良)東大寺の師匠坊が所持、のちに酒井讃岐守が所持。
(古名物記より)
「師聖坊カタツキ」:奈良東大寺の師聖殿にある。
(群書類従本茶器名物集より)
「ゑしやう坊」:藤堂和泉殿が所持。
(東山御物内別帳より)
「四聖坊」:奈良にある。高さ2寸8分強、横2寸7分強、胴回り8寸5分半、底1寸6分、口径1寸6分、甑の高さ4分、胴の膨らみ8分。全体の釉薬は濃く滑らかで、下地の釉薬は薄い柿色、上薬は少し青みを帯びている。土は薄い紫色で、上部に汚れがある(茶入の図あり)。
(万宝全書より)
「師聖坊」唐物 大名物。酒井讃岐守が所持。
(古今名物類聚および麟鳳亀龍より)
「四聖坊」奈良の四聖坊が所持、のち酒井讃岐殿へ。(以下朱書きの書き込み)昔、奈良の四聖坊が所持しており、将軍家へ献上された。その後、紀伊殿(徳川頼宣)が拝領し、隠居の際に再び将軍家へ献上され、松平加賀守(前田家)が拝領した。
(蜂庵文庫本玩貨名物記より)
「師聖坊」酒井讃岐守が所持。高さ2寸8分強、横2寸7分強、口径1寸6分、甑の高さ4分、底径1寸6分(茶入の図あり)。
(大名物茶入極秘伝正図式より)
永禄3年(1560年)10月、四聖坊の英助法師の茶湯初め(初釜)にて
客:山順、寿弥、宗林、紹佐、松与七、久政
・床の間:牧谿筆の瓜の絵
・肩衝(四聖坊):白地金襴の袋入り
・夕陽天目
(松屋筆記より)
天正4年(1576年)2月29日昼、南都(奈良)四聖坊の茶会
客:宗納、津田宗及
・台子、伊勢釜、つば口、柑子口の蓋置
・手水間の床の間に牧谿筆の瓜の絵が掛かっていた。
・かたつき(四聖坊)と夕陽天目、蛟龍台の円盆に二つ並べて置かれていた。
肩衝を初めて拝見した。台子に天目茶碗を飾る作法もすべて初めて見た。壺(茶入)は胴が低めで、形は口が広く、土が良い。釉薬は渋い色で、斑(むら)になっているところがある。
(津田宗及茶湯日記より)
天正13年(1585年)12月18日朝、四聖坊の茶会
客:細川幽斎、今井宗久、佐久間不干斎
・鑵子(るろり)真のあられ釜が掛かっている。
・床の間:無準の墨跡が掛かっている。
かたつき(四聖坊)は金襴の袋に入り、四方盆に載せられていた。
手水間に下がって、伊勢天目と蛟龍の台、金の水丁、高麗茶碗に道具を入れて(お茶が点てられた)。
(今井宗久日記抜粋より)
天正15年(1587年)3月26日朝、奈良にて
四聖坊の茶会 客:神屋宗湛(一人)
四畳半の茶室。床の間には初めから芙蓉の絵が掛かっていた。
肩衝(四聖坊)は袋に入れられ、四方盆に据えられていた。
肩衝の総高は2寸7分、口径1寸6分、甑の高さ4分、底径1寸6分。土は赤黒く、口元に筋が一つあり、胴の横帯はない。釉薬は飴色で、肩のあたりがさらっとして見える。はっきりとしたなだれ(釉薬の流れ)は無く、黄色っぽく薄くなだれている部分を正面に向けて置かれていた。
(宗湛日記より)
慶長4年(1599年)閏3月9日昼、伏見にて
筑前中納言様(小早川秀秋)の茶会 客:神屋宗湛(一人)
四畳敷、鑵子(るろり)が掛かっている。床の間に肩衝(四聖坊)が袋に入れられ、四方盆に据えられていた。
この肩衝は四聖坊から参った(譲られた)ものである。釉薬は薄く、少し剥げたように高い位置にかかっている。肩と口元の間に筋が一つあり、胴の横帯はない。口元の筋もない。肩が張っており、土は赤みを帯び、底には糸切り(轆轤から切り離した跡)がある。
(宗湛日記より)
山内一豊(土佐守)について。大坂の五奉行が密かに一豊の妻の書状を回文に添えて送ってきた際、一豊は大いに怒り、封を開けずにその書状を徳川家康(台覧)に差し出した。家康はこれを深く感銘し、関ヶ原の戦いでの功績と合わせ、土佐国20万2600石を与えた。慶長8年(1603年)3月25日、従四位下に叙せられ土佐守に改めた。この時に師聖坊の茶入を賜った。
(寛政重修諸家譜より)
山内忠義(土佐守)は文禄元年(1592年)に遠江国掛川で生まれた。慶長10年(1605年)11月13日に遺領を継ぎ、父(一豊)の遺物である師聖坊の茶入を将軍家へ献上した。
(寛政重修諸家譜より)
藤堂高虎について。元和2年(1616年)2月、東照宮(徳川家康)が病に倒れられた際、高虎は駿河へ赴き、昼夜病床に侍った。この時、家康から「もし国家に一大事があれば、第一の先手は高虎、第二の先手は井伊直孝と定める」と仰せつかった。「今が名残(最期)と思われる」として御盃を賜り、この時、高虎の手を取って細々とお言葉があった。家康の薨去の後、生前の遺命により、師聖坊の茶入を賜った。
(寛政重修諸家譜より)
権現様(徳川家康)がご病気になり、快方の兆しも無く次第に重篤になられた時、権現様の寝所に高虎公が召し出され、御傍へ呼ばれた。(中略)高虎が「今日より日蓮宗を改めて天台宗になりましょう」と申し上げたところ、権現様はご満足された旨、上意があったとのことである。その時、輝東陽の掛け物と、四聖坊の肩衝を拝領された。この御茶入は、東山殿(足利義政)の御道具の一つで、唐物(中国製)の肩衝である。
(帝大史料本藤堂高虎伝記より)
元和5年(1619年)9月23日昼
藤堂和泉守(高虎)様が、関才次の所で客となった。
相伴は中坊左近様、松屋久好の二人。
床の間に
・遅桜肩衝、佐伯肩衝
・四聖坊肩衝
上に
・瀬戸肩衝
右の四つを飾って、お茶を下された。
(桜山一有筆記より)
藤堂高次(大学頭)は、元和7年(1621年)10月、大猷院殿(3代将軍家光)へ、父(高虎)の遺物である師聖坊肩衝、貞宗の脇差、輝東陽の掛け軸を献上した。
(寛政重修諸家譜より)
寛永6年(1629年)11月8日、片桐石見守のお点前で命じられた茶の湯
・御茶入:師聖坊 若狭盆に乗る
・御茶碗:割高台
・御花入:砧(花は寒菊)
・御炭斗:ふくべ(瓢箪)
(桜山一有筆記より)
酒井忠勝(号は空印)。寛永12年(1635年)8月22日、将軍(家光)が忠勝の屋敷へ御成になった。
四聖坊の茶入と貞宗の御刀を拝領した。
(寛政重修諸家譜より)
寛永12年(1635年)8月22日、将軍が酒井讃岐守殿の上屋敷へ御成になった。白書院で御膳を召し上がり、その後、庭園へお出ましになり、お茶を召し上がった。
数寄道具(茶道具)
・掛物:芝霊石(の筆か)
・花入:雲浜
・茶入:師匠坊
・茶碗:膳所焼
(本全宗儀氏本 山本道句覚書より)
四聖坊:酒井讃岐守から将軍家へ献上された。
(紀州家文書より)
寛文5年(1665年)11月8日、晴れ。照高院御門跡、聖護院御門跡が当地(江戸)へ下向されるため、上使として酒井雅楽頭、吉良若狭守が遣わされた。今日、茶の湯が命じられ、御園へ出された道具は以下の通り。
・掛物:「帰雲」 無準の筆
・花入:青磁砧(花は寒菊)
・茶入:四聖坊(茶の銘は「初音」)
純子の袋に入れ、若狭盆に載せる。
・茶碗:高麗割高台
右の茶の湯は盆点てで、お点前は片桐石見守。
(南葵文庫本 御茶会之記より)
寛文10年(1670年)6月3日、奥御園にて将軍自らお点前をなさり、永井伊賀守にお茶を下賜された。
お料理も奥の御次の間で下された。江戸から京都への赴任の挨拶(お暇)であった。
・御掛物:兀庵(ごったん)
・御茶入:師聖坊
・御茶碗:割高台
・御花入:青磁 砧
(徳川家茶会之記より)
延宝2年(1674年)3月23日、厳有院様(四代将軍家綱)の御代、尾張殿の帰国の挨拶(お暇)につき、お茶を下賜された。西溜間で饗応され、井伊掃部頭殿がご挨拶をし、その他老中が控え、給仕は中奥衆が務めた。
・御掛物:藤原定家 七首和歌
・御香合:堆朱 布袋
・御花入:青磁 かぶらなし(蕪無)
・御茶入:四聖坊
・御茶碗:三島 刷毛目
・御茶杓:千利休
(玉露叢および古代置合記録より)
延宝5年(1677年)3月28日、黒書院の西湖の間にて、尾張中将殿(徳川綱誠)へお料理が振る舞われた。酒井雅楽頭が挨拶をし、その後、表御園にて花を飾り将軍自らお点前をなさった。御前の御園でも酒井雅楽頭ら老中が挨拶を終え、御座の間で退出の挨拶をした。その後、黒書院へお出ましになり、尾張中将殿の家来がお目見えした。
・御掛物:痴絶
・御茶入:四聖坊
・御花入:青磁 かぶらなし(花は赤と白の八重椿)
・御茶碗:割高台
替えの茶道具
・御茶入:伯者(耆)肩衝
・御茶碗:井戸
(徳川家茶会之記より)
延宝7年(1679年)3月28日
黒書院の西湖の間にて、紀伊中納言殿(徳川光貞)へお料理が振る舞われた。酒井雅楽頭ら老中が挨拶をし、その後、表御園にて将軍(家綱)自らお点前をなさった。御前の御園にて師匠坊の御茶入を拝見した際、将軍は茶入とお茶を共に与え、紀伊殿はこれを頂戴した。御園でも酒井雅楽頭ら老中が挨拶を終え、御座の間で退出の挨拶をした。その後、黒書院へお出ましになり、紀州殿の家来がお目見えして滞りなく済んだ。
・御掛物:藤原定家 七首の和歌
・御茶入:師聖坊
・御花入:大そろり(花はカキツバタ一色)
・御茶碗:明星
替えの茶道具
・御茶入:伯者(耆)肩衝
・御茶碗:割高台
(徳川家茶会之記より)
四聖坊:紀伊殿(徳川光貞)が拝領し、隠居の際に将軍家へ献上され、その後、松平加賀守(前田家)へ下賜された。
(紀州文書より)
前田綱紀(前田利常の孫、松雲公)について。元禄15年(1702年)4月26日、将軍綱吉が前田綱紀の屋敷へ御成になり、経書の講義をさせた。息子の吉徳および一族が将軍の御前に控え、家臣等もこれを拝聴した。この日、国宗の御太刀、正宗の御刀、吉光の御脇差、そして師匠坊の御茶入、時服100着、縹(はなだ)色の珍しい織物100巻、ベルベット(天鵞絨)50巻、銀30枚を賜った。
(寛政重修諸家譜より)
元禄15年(1702年)4月26日、加賀守(前田綱紀)の邸宅へ将軍が御成になった。内々に下賜されたものとして、御茶入「師匠坊肩衝」を加賀守が拝領した。御掛物(卒翁筆、痴絶の賛)は又左衛門(加賀守の跡継ぎ、吉徳)が拝領した。
(月田茂睡著 御当代記より)
師匠坊:唐物。土は紫色、下地の釉薬は柿色、上薬も同様。底の接地面(盆付)は板起こし(平らな作り)。正面(置形)には釉薬が垂れている。ひび割れ(裂火)の間がある。釉薬の質はさらっとして見える。
(前田侯爵家道具帳より)
師聖坊肩衝:徳川家から拝領。袋はなし、蓋は2枚。挽家は梅の木地で、金粉で「師匠坊」と書かれている。上箱は桐の木地で面取りがされ、金粉で「師聖坊肩衝」とある。右の2つの筆者は不明である。
(前田家御蔵品下留より)
【伝来】
元々は奈良の東大寺内にある四聖坊にあり、同坊の英助法師の茶会で使用されたことが『松屋筆記』や『津田宗及茶湯日記』に見えます。その後、徳川家康の所有となり、慶長8年(1603年)にこれを山内土佐守一豊に賜りました。しかし、その子である忠義が慶長10年(1605年)に遺領を継ぐ際、これを幕府へ献上しました。元和2年(1616年)、家康の遺言によりこれを藤堂高虎に賜り、元和7年(1621年)10月、高虎の子・高次がこれを再び将軍家光に献上しました。
寛永12年(1635年)8月22日、将軍家光が酒井雅楽頭忠勝の邸宅を訪れた際、さらにこれを忠勝に賜りました。その後、酒井家から幕府へ献上され、寛文・延宝の頃(1660〜1680年代)の幕府の茶会でしばしばこの茶入が使用されました。延宝7年(1679年)3月28日、将軍家綱はこれを紀州第2代藩主・徳川光貞に賜りましたが、光貞が隠居する際に再びこれを幕府へ献上しました。
元禄15年(1702年)4月26日、将軍綱吉が加賀藩主・前田綱紀の邸宅を訪れた際、この茶入を綱紀に賜りました。考えるに、幕府は幕府と大名(諸侯)の間で名物茶器の贈答が頻繁に行われたのは、元和(1615年)から元禄(1704年)に至るまでの約70年間であり、その後はこの慣例も次第に廃れていきました。この茶入も、元禄以前に頻繁に持ち主が変わったのとは異なり、この時(前田綱紀が拝領した時)から加賀前田家の宝庫を出ることなく、今日に至っています。
【実見記(実際に見て確認した記録)】
大正8年(1919年)12月1日、東京市本郷区本富士町の前田利為侯爵邸にて実際に拝見しました。
口の作りは丸みを帯びており、一ヶ所わずかに薄い部分があります。内側への反り(捻り返し)は浅く、首(甑)の付け根の凹んだ筋(沈筋)が一部途切れている所があります。全体は栗色の下地で、その上に所々青みを帯びた柿金気(赤褐色に金属的な光沢)の釉薬がムラになってかかっています。黒飴色の同じ釉薬のなだれが二ヶ所あるほかに、柿金気の釉薬のなだれが一ヶ所あります。
裾の土は朱泥色(赤みのある土)で、釉薬が掛かっていない部分が高くまで及んでおり、底は板から切り離した平らな作り(板起こし)です。裾の土の際から釉薬の中にかけて、焼成時のひび割れ(火間)が二ヶ所あり、胴の中央には虫食いのような小さな欠け(ホツレ)が一ヶ所あります。
内側は口の縁に釉薬が掛かっており、それより下には轆轤(ろくろ)の目が浅く回っています。底の中央は少し高くなっており、巴(ともえ)のような形をしています。地の色が非常に濃いため、釉薬の変化(景色)ははっきりとはしませんが、外観は極めて落ち着いた静かな佇まいの茶入です。
【原文】
師匠坊肩衝
唐物 大名物 侯爵 前田利爲氏 藏
名稱
奈良東大寺内四聖坊の什物なりしを以て此名あり。四聖坊は元正倉院境内に在り、東大寺建立の聖武天皇、良辨僧正、行基菩薩、菩提遷那の四聖像を安置せし寺院なれば、四聖と云ふが正しけれども、古來師匠若くは師聖と書きて通用せり。
寸法
高 貳寸七分七厘
胴徑 貳寸七分貳厘
口徑 壹寸五分貳厘
底徑 壹寸六分
甑高 參分八厘
肩幅 四分强
重量 參拾五匁貳分
附屬物
一 蓋 二枚 内壹枚 象
一 御物袋 白縮緬 緒つがり白
一 袋 淺黄純子水草鴈紋 裏 海氣 / 緒つがり紫
廣東織留 裏 破 損 / 緒つがり紫
一 袋蓋箱 桐 白木 二箇
内一箇の箱蓋表の書付如此
師匠坊肩衝 蓋二 / 袋一
一 挽家 梅 中次雪吹
師匠坊 書付金粉字形 筆者不明
袋 茶純子梅竹鴬紋 裏茶羽二重 / 緒つがり茶
一 内箱 桐 唐戸面
師匠坊肩衝
師匠坊御茶入(朱書入)/ 御 拜 領
書付金粉
一 外箱 桐 白木
雜記
ゑしやう坊 奈良東大寺師聖坊にあり。
(山上宗二之記及び茶傳記録)
師匠坊 南都東大寺師匠坊所持、酒井讚岐守。
(古名物記)
師聖坊カタツキ 奈良東大寺師聖殿ニ有。
(群書類從本茶器名物集)
ゑしやう坊 藤堂和泉殿。
(東山御物内別帳)
四聖坊 奈良にあり。 竪二寸八分强、横二寸七分强、廻り八寸五分半、底一寸六分、口一寸六分、同高四分、膨八分、惣藥濃いなめし、下藥薄柿、上藥少し靑し、土薄紫なり、上よごれあり(茶入圖あり)
(萬寶全書)
師聖坊 唐物 大名物 酒井讚岐守。
(古今名物類聚及び麟鳳龜龍)
四聖坊 奈良四聖坊、酒井讚岐殿(以下朱書入)昔奈良四聖坊所持、上ル、紀伊殿拜領、隱居ノ節上ル、松平加賀守拜領。
(蜂庵文庫本玩貨名物記)
師聖坊 酒井讚岐守。高二寸八分强、横二寸七分强、口一寸六分、甑四分、底一寸六分(茶入圖あり)。
(大名物茶入極秘傳正圖式)
永祿三庚申年十月、四聖坊英助法師茶湯初に、
山順 壽彌 宗林 紹佐 松與七 久政
一 床 牧溪 瓜の繪
一 肩衝(四聖坊)袋白地金襴
一 夕陽 天目
(松屋筆記)
天正四年二月二十九日晝 南都四聖坊會
納(宗 / 納)及(宗 / 及)
一 臺子 伊勢釜 つば口かうじ蓋おき
一 手水間に床に瓜の繪かけり 但筆牧溪
一 かたつき(四聖坊)夕陽天目 蛟龍臺之圓盆に / 二ツ置
肩衝始めて拜見、臺天目何も初て見申候、壺胴低くなり、形り口廣し、土よし、藥しぶいろなる藥、むらたちたる所あり。
(津田宗及茶湯日記)
天正十三乙酉年十二月十八日朝 四聖坊會
細川幽齋 今井宗久 佐久間不干齋
一 るろり 眞のあられ釜かゝりて
一 床 無準 文字かけて
かたつき(四聖坊)金らん袋に入 四方盆に手水の間に落て、伊勢天目蛟龍の臺、金の水丁、高麗茶碗に道具入れて。
(今井宗久日記拔萃)
天正十五年三月二十六日朝 奈良にて
四聖坊御會 宗 湛 一人
四疊半 床に始より芙蓉の繪かけて云々
肩衝(四聖坊)袋に入れ四方盆にするて云々
肩衝は總高二寸七分、口一寸六分、同高四分、底一寸六分、土赤黒め に、口付の筋一つ、帶なし、藥あめ色にして、肩さらく と見ゆる、なだれは無くして、黄めに薄くなだれたる處を、前に置かれ候。
(宗湛日記)
慶長四年後三月九日晝 伏見にて
筑前中納言樣御會 宗 湛 一人
四疊敷るろり、床に肩衝(四聖坊)袋に入れ四方盆にするて云々
肩衝は四聖坊より參候也、藥は淺くして はげ高に懸る 肩と口付との間に筋一つあり 帶はなし 口付の筋もなし 肩張るなり、土赤めなり、底絲切なり。
(宗湛日記)
山内一豐(土佐守)大阪の五奉行竊に一豐が妻の文を廻文にそへて贈る、一豐大に怒り、封を披かずしてかの状を台覽に供へしかば、深く之を感じたまふ、關原合戰の時功あり、土佐の國二十萬二千六百石をたまふ。慶長八年三月二十五日從四位下に敍し、土佐守に改む、此時師聖坊の茶入をたまふ。
(寛政重修諸家譜)
山内忠義(土佐守)文祿元年、遠州掛川に生る、慶長十年十一月十三日遺領を繼ぎ、父(一豐)が遺物師聖坊の茶入を獻ず。
(寛政重修諸家譜)
藤堂高虎 元和二年二月、東照宮不豫、高虎駿河に參り、晝夜病床に侍す、此時の仰に、若し國家に大事あらんには、一の先手には高虎、二の先手には井伊直孝と定め云々。今は名殘と思しめさるゝなりとて、御盃を賜ふ、此時高虎が手を取らせられこま\/と仰あり、薨御の後豫め御遺命ありしにより、師聖坊の茶入をたまふ。
(寛政重修諸家譜)
權現樣御不例、御快氣も無御座、次第に重らせられ、權現樣御寢所へ高虎公を被爲召、御傍へ被爲呼(略)今日より日蓮宗を改めて天台宗に罷成可申と御申候へば、權現樣御滿足被遊候旨、上意被成たる由にて御座候、其時輝東陽の御掛物、四聖坊の御肩衝拜領被成候。御茶入は東山殿御道具の内、漢のかたつきにて御座候。
(帝大史料本藤堂高虎傳記)
元和五年九月二十三日晝
藤堂和泉守樣 關才次の所にて客
中坊左近樣 久好 二人
床に
遲櫻肩衝 佐伯肩衝
四聖坊肩衝
上に
瀬戸肩衝
右四ッ飾りににて御茶被下
(櫻山一有筆記)
藤堂高次(大學頭)元和七年十月、大猷院殿に父(高虎)の遺物師聖坊肩衝、貞宗の脇差、輝東陽の懸幅を獻ず。
(寛政重修諸家譜)
寛永巳(六年)霜月八日、片桐石見守手前被仰付候茶湯
一 御茶入 師聖坊 若狹盆に乘る
一 御茶碗 割高台
一 御花入 きぬた 花かん菊
一 御炭斗 ふくべ
(櫻山一有筆記)
酒井忠勝(號空印)寛永十二年八月二十二日、將軍忠勝が居邸に渡御あり、四聖坊の茶入、貞宗の御刀を拜賜す。
(寛政重修諸家譜)
寛永十二亥年八月二十二日、酒井讚岐守殿上屋敷へ御成、白書院にて御膳被爲召上、以後園へ被爲成、御茶被召上。
數寄道具
一 掛物 芝靈石
一 花入 雲濱
一 茶入 師匠坊
一 茶碗 膳所燒
(本全宗儀氏本山本道句覺書)
四聖坊 酒井讚岐守上ル。
(紀州家文書)
寛文五年十一月八日晴 照高院御門跡、聖護院御門跡、當地仍御下向上使、雅樂頭、吉良若狹守、被仰遣之、今日御茶湯被仰付、御園へ出る道具。
一 掛物 歸雲無準筆
一 花入 靑磁砧 花寒菊
一 茶入 四聖坊 茶初音
袋純子 若狹盆に載る
一 茶碗 高麗割高台
右御茶湯盆點手前 片桐石見守
(南葵文庫本御茶會之記)
寛文十年六月三日 於奥御園御手前被遊候、永井伊賀守に御茶被下候、御料理も於奥御次之間被下之、但江戸府より京都へ御暇被下候。
一 御掛物 兀菴
一 御茶入 師聖坊
一 御茶碗 割高台
一 御花入 靑磁 砧
(德川家茶會之記)
延寶二年三月二十三日 嚴有院樣(四代家綱)御代、尾張殿御暇に付、御茶被下、於西溜間御饗應、井伊掃部頭殿及御挨拶、其外老中祗候給仕中奧衆。
一 御掛物 定家七首和歌
一 御香合 堆朱布袋
一 御花入 靑磁かぶらなし
一 御茶入 四聖坊
一 御茶碗 三島はけめ
一 御茶杓 利休
(玉露叢及び古代置合記録)
延寶五巳三月廿八日 御黑書院西湖之間にて、尾張中將殿に御料理被進之、酒井雅樂頭御挨拶、以後於表御園御花御手前被爲遊、御前御園にても、雅樂頭御老中御挨拶終て、於御座之間御暇、以後御黑書院へ出、御中將殿家來御目見。
一 御掛物 癡絶
一 御茶入 四聖坊
一 御花入 靑磁かぶらなし 御花、赤白八重椿
一 御茶碗 割高台
替之御道具
一 御茶入 伯者肩衝
一 御茶碗 井戸
(德川家茶會之記)
延寶七未年三月二十八日
御黑書院西湖之間にて、紀伊中納言殿へ御料理被進之、酒井雅樂頭御老中御挨拶、以後於表御園御手前被爲遊、御前(將軍 / 家綱)御園にて師匠坊御茶入拜見之節、則御茶入御茶共に被進之、御頂戴被成候、御園にても雅樂頭御老中御挨拶、畢て、御座の間に於て御暇、以後御黑書院へ出御、紀州殿家來御目見相濟候。
一 御掛物 定家七首物
一 御茶入 師聖坊
一 御花入 大そろり 御花、杜若一色
一 御茶碗 明星
替之御道具
一 御茶入 伯者肩衝
一 御茶碗 割高台
(德川家茶會之記)
四聖坊 紀伊殿拜領、隱居の際上ル、松平加賀守へ下さる。
(紀州文書)
前田綱紀(利常の孫 / 松雲公)元祿十五年四月二十六日、將軍綱吉、前田綱紀が邸に渡御ありて經書を講じさせたまひ、男吉德及一族御前に候し、家臣等も之を拜聽す。此日國宗の御太刀、正宗の御刀、吉光の御脇差、及師匠坊の御茶入、時服百領、縹珍百卷、天鵞絨五十卷、白銀三十枚を恩賜せらる。
(寛政重修諸家譜)
元祿十五壬午年四月二十六日、加賀守宅へ御成、御内證にて被下候物、御茶入師匠坊肩衝、加賀守拜領。御掛物(卒翁筆、 / 痴絶賛)又左衞門(加賀守 / 嗣子)拜領。
(月田茂睡著御當代記)
師匠坊 唐物、土紫、下藥柿、上藥共、盆附板起、置形垂藥、裂火間あり、釉質さらく と見ゆる。
(前田侯爵家道具帳)
師聖坊肩衝 德川家御拜領。袋なし、蓋二枚、挽家梅地粉書「師匠坊」、上箱桐木地、面取金粉「師聖坊肩衝」、右兩樣筆者不知。
(前田家御藏品下留)
傳來
元奈良東大寺内四聖坊にあり、同坊英助法師の茶會に使用せること、松屋筆記及津田宗及茶湯日記に見ゆ、其後德川家康の有に歸し、慶長八年之を山内土佐守一豐に賜ひしが、其子忠義慶長十年遺領を繼ぐに當り、之を幕府に獻せり、元和二年家康の遺命により、之を藤堂高虎に賜ひ、同七年十月高虎の子高次又之を將軍家光に獻じ、寛永十二年八月二十二日、家光酒井雅樂頭忠勝の邸に臨んで更に之を忠勝に賜ひ、其後酒井家より幕府に獻じ、寛文、延寶の頃、幕府の茶會に於て屡々此茶入を使用せし事ありしが、延寶七年三月二十八日、將軍家綱之を紀州第二代光貞に賜ひ、光貞退隱の際又之を幕府に獻せり。元祿十五年四月二十六日、將軍綱吉加賀侯前田綱紀の邸に臨むや、此茶入を綱紀に賜へり。案ずるに、幕府と諸侯との間に名物茶器贈答の頻繁なりしは、元和より元祿に至る七十年間にして、爾後此慣例漸く廢し、此茶入も元祿以前頻に轉傳せしに似ず、此時よりして加賀家の寶庫を出でず以て今日に及べり。
實見記
大正八年十二月一日、東京市本郷區本富士町前田利爲侯邸に於て實見す。
口作丸緣一ヶ所稍薄き所あり、捻り返し淺く、甑際の沈筋一部途切れたる所あり、總體栗色地の上に處々靑味を帶びたる柿金氣釉ムラ\/と潑ひ、黑飴共色釉ナダレ二ヶ所の外に、柿金氣釉ナダレ一ヶ所あり、裾土朱泥色にて高く上り、底板起しなり、裾土際より釉中に火間二ヶ所あり、胴中に蟲喰の如きホツレ一ヶ所あり。内部口緣釉掛り、以下轆轤淺く繞り、底中央少し高く巴状を成せり、地色濃厚なるが爲め景色鮮明ならず、外觀極めて沈着なる茶入なり。


