

伯耆肩衝(ほうきかたつき)
漢作(中国製)大名物 公爵 徳川家達氏 所蔵
【名称の由来】
中村伯耆守忠一(ただかつ)が所持していたことからこの名があります。忠一は中村式部少輔一氏(かずうじ)の子で、父の死後、わずか10歳で将軍秀忠に謁見して元服の儀を行い、伯耆国17万5千石を賜り、米子城の城主となりました。徳川家康の養女を正室に迎えました。その後、家老の横田内膳の反乱がありましたが、出雲の国主である堀尾山城守の援兵を得て、ようやくこれを平定しました。しかし、慶長14年(1609年)5月11日、20歳の若さで早世し、跡継ぎがいなかったため中村家は断絶しました。
【寸法】
高さ:約8.3cm(2寸7分5厘)
胴径:約7.9cm(2寸6分2厘)
口径:約4.2cm弱(1寸4分弱)
底径:約4.5cm(1寸5分)
甑(首)の高さ:約1.2cm(4分)
肩幅:約1.2cm(4分)
重量:約146g(39匁)
【附属物】
・蓋:3枚(うち1枚は象牙の古い蓋、2枚は新しく作ったもの)
・御物袋:白絹、緒は白
・仕覆(袋):2つ
(1)笹蔓純子(緞子)(裏地は萌黄色の海気、緒はつがり紫)
(2)青木広東(裏地は茶色の海気、緒はつがり紫)
・袋箱:黒塗り、金粉の文字で「伯耆肩衝 袋二 蓋一」
・挽家(ひきや):黒塗り、金粉の文字で「伯者」。袋はベルベット(天鵞絨)、裏地は玉虫色の海気、緒はつがり茶。
・内箱:面取りがされ、金箔地に粉溜塗り、唐草模様の蒔絵、縁は沃懸(いかけ)。金粉の文字で「伯耆 肩衝」
・外箱:黒塗り、金粉の文字で「伯耆肩衝」
【雑記】
「伯耆肩衝、漢作。元禄13年(1700年)9月25日、水戸宰相(徳川綱条)が将軍家へ献上。高さ2寸7分6厘、肩幅2寸3分、胴径2寸6分2厘、底径1寸5分、口径1寸4分。底の接地面(盆付)が上がっており、板から切り離した平らな作り(板起し)。全体の下地は黒釉で天目茶碗のようであり、景色となる飴色の釉薬は薄い。御物袋は白絹、緒は白。袋は2つあり、1つは笹蔓緞子で裏地は萌黄色の海気(かいき)、緒はつがり紫。もう1つは青木広東で裏地は茶色の海気、緒はつがり紫。蓋は2つで象牙製。挽家は黒塗りで内側は梨子地、蓋に金粉の文字がある。挽家の袋は黒いベルベットで、裏地は紺の絹、緒は紫。箱は黒塗りで金粉の文字、外箱も黒塗り。(茶入の図あり)」
(徳川家所蔵『御道具書画目録』より)
ほうき漢(中国製):大名物で、将軍家の御物。底は板起し(板から切り離した平らな作り)。
(『麟鳳亀龍』より)
中村伯耆が持っていた茶入:鳥居右京殿のところにある。
(『東山御物内別帳』より)
伯者(耆):松平伊豆殿が所持。
(『玩貨名物記』より)
伯者(耆):中村伯耆が所持し、のちに松平伊豆守が所持。
(『古名物記』より)
ほうき 唐物肩衝:大名物で、松平伊豆守が所持。
(『古今名物類聚』より)
ほうき肩衝 大名物:唐物で、松平右衛門が所持。
(『蜂庵文庫』乙第12号より)
松平信綱(伊豆守)は、寛永19年(1642年)8月3日、厳有院(4代将軍家綱)の誕生日を祝って江戸城二の丸で御膳を献上し、その際に一文字吉の御刀と、伯耆肩衝の茶入を将軍から拝領した。
(『寛政重修諸家譜』より)
松平輝綱(甲斐守)は、寛文2年(1662年)5月10日、家督相続の御礼として登城し、父(信綱)の遺物である貞宗の刀と、伯耆肩衝の茶入を将軍家へ献上した。
(『寛政重修諸家譜』より)
寛文10年(1670年)3月6日 担当:宗清
江戸城の奥御園にて将軍自らお点前をなさり、青山因幡守一人に、御小納戸衆の給仕でお茶を下賜された。この日、大坂への赴任の挨拶(お暇)があり、その上で御園において琦楚石(きそせき)の掛け軸も下賜された。将軍の思し召しによって拝領したとのこと。
・御掛物:琦楚石
・御花入:青磁 蕪なし(花は山吹と赤椿)
・御茶入:伯者(耆)肩衝
・御茶碗:割高台
(『徳川家茶会之記』より)
延宝4年(1676年)7月23日
江戸城の奥御園の風呂の茶室にて将軍自らお点前をなさり、戸田越前守一人にお茶を下賜された。お料理は琴棋書画の間に用意された。この日、京都への赴任の挨拶(お暇)があった。
・御掛物:藤原定家の筆「筑波根」
・御花入:大そろり
・御茶入:伯者(耆)肩衝
・御茶碗:三島 刷毛目
(『徳川家茶会之記』および『桜山一有筆記』より)
延宝5年(1677年)3月28日
江戸城の黒書院・西湖の間にて、尾張中将殿(徳川綱誠)へお料理が振る舞われた。
(替えの茶道具として)
・御茶入:伯者(耆)肩衝
・御茶碗:井戸茶碗
(『徳川家茶会之記』より)
延宝5年(1677年)4月11日
江戸城の黒書院・西湖の間にて、水戸宰相殿(徳川綱条)へお料理が振る舞われた。老中の酒井雅楽頭(忠清)が挨拶をした後、表御園の茶室にて花を飾り、風呂を沸かして将軍自らお点前をなさった。御前の御園でも酒井雅楽頭が挨拶を終え、御座の間で退出の挨拶をした。その後、将軍は黒書院へお出ましになり、水戸殿の家来がお目見えした。
延宝7年(1679年)3月28日
黒書院・西湖の間にて、紀伊中納言殿(徳川光貞)へお料理が振る舞われた。(中略 師匠坊肩衝の項を参照)
(替えの茶道具として)
・御茶入:伯者(耆)肩衝
・御茶碗:割高台
(『徳川家茶会之記』より)
延宝8年(1680年)5月14日の夕方6時頃、4代将軍家綱の御遺骸が江戸城の北刎橋から出棺し、東叡山(寛永寺)へ納められた。
遺物として水戸殿へ以下のものが贈られた。
・御腰差 貞宗(代金200枚相当)
・御茶入:伯者(耆)肩衝
(『淡海続編』より)
厳有院(家綱)の御遺物の覚書
水戸様へ
・御茶入:伯者(耆)肩衝(袋は2つ)
・御脇差:貞宗(代金200枚相当)
(『牧笛聯纂』より)
延宝8年(1680年)6月29日、上使(将軍の使い)によって遺物が贈られた。水戸宰相殿(徳川光圀)へ、御脇差の貞宗(代金200枚相当)と御茶入の伯者(耆)肩衝。水戸少将殿(徳川綱条)へ、御腰物の当麻(代金100枚相当)。
(『玉露叢』より)
伯者肩衝(ただし絹の袋に傷みあり):元禄13年(1700年)9月25日、水戸宰相殿より。袋は2つあり、古い袋は笹蔓(裏地は萌黄色の海気)。蓋は3枚あり、2つは新しく作ったもので、1つは古い蓋。右の御茶入は、将軍の御成の際に献上された。
(『上御道具』より)
元禄13年(1700年)9月25日、将軍が水戸宰相(綱条)の屋敷へ御成になった。午前10時頃(巳の上刻)に出発し、正午頃(午の中刻)にお帰りになった。内々に将軍から茶入「玉堂」が下賜され、内々に水戸宰相殿から御茶入「伯者肩衝」が献上された。
(月田茂睡著『御当代記』より)
【伝来】
元々は中村伯耆守忠一が所蔵していましたが、慶長14年(1609年)に中村家が断絶したと同時に、幕府の所有に帰したのでしょう。その後、『東山御物内別帳』には「鳥居右京殿(所持)」とあり、これは鳥居元忠の子である鳥居左京亮忠政のことだと思われます。鳥居家は忠政の子・忠恒に跡継ぎがなく、寛永13年(1636年)にお家断絶となったため、この茶入はその後再び幕府に戻ったのでしょう。
『寛政重修諸家譜』によれば、寛永19年(1642年)8月3日に松平信綱(知恵伊豆)がこれを将軍から拝領し、寛文2年(1662年)5月10日にその子である輝綱が家督相続の際に再び幕府へ献上しました。
こうして幕府の所有となったこの茶入を用いて、寛文10年(1670年)3月に青山因幡守に、延宝4年(1676年)7月に戸田越前守に、延宝5年(1677年)3月に黒書院にて尾張公(徳川綱誠)に、その翌月には同書院にて水戸公(徳川綱条)に、さらに延宝7年(1679年)3月には紀伊公(徳川光貞)にお茶が振る舞われました。つまり、御三家の当主が皆、この肩衝茶入による幕府の饗応を受けたことになります。
延宝8年(1680年)6月29日、4代将軍家綱の遺物として水戸藩主(光圀)に下賜されましたが、元禄13年(1700年)9月25日、5代将軍綱吉が水戸藩邸へ御成になった際、水戸家第3代当主の綱条(つなえだ)がこれを再び幕府へ献上しました。
【実見記(実際に見て確認した記録)】
大正7年(1918年)11月8日、東京府下千駄ヶ谷の徳川家達公爵邸にて実際に拝見しました。
口の作りは丸みを帯びており、内側への反り(捻り返し)は浅く、口の縁にはわずかに漆で修復した跡(繻ひ)があります。首(甑)の付け根から肩にかけて、浮き出た筋が2本巡っています。肩の張り出し(衝方)は緩やかで、下地の釉薬に藍鼠色を帯びている様子は、名物「新田肩衝」に非常によく似ています。胴にも浮き出た筋が1本巡っています。正面(置形)は飴色の釉薬のなだれとなっており、その中に黒ずんだ青い瑠璃色の釉薬を含んでいます。
裾から下は鉄分を含んだ土の色が見えており、正面の下端では釉薬が切れて、下地の土が入り込んでいる(斗入した)箇所があります。底は板から切り離した平らな作り(板起こし)で、その縁が少し擦り減っており、なぜか全体的に手擦れ(使い込まれたことによる擦れ)が多く見られます。中国製(漢作)の茶入としては釉薬が厚くかかっており、どっしりとして重量感(貫目)のある茶入です。
【原文】
伯耆肩衝
漢作 大名物 公爵 德川家達氏 藏
名稱
中村伯耆守忠一之を所持せしを以て此名あり。忠一は式部少輔一氏の子にして、父の歿後年甫めて十歳、將軍秀忠に謁し、元服の儀あり、伯耆國十七萬五千石を賜はり、米子の城主たり。家康の養女を娶る。其後家老横田内膳の亂あり、出雲の國主堀尾山城守の援兵を得て、事初めて平ぐ、慶長十四年五月十一日廿歳にて早世し、世嗣なく家絶えたり。
寸法
高 貳寸七分五厘
胴徑 貳寸六分貳厘
口徑 壹寸四分弱
底徑 壹寸五分
甑高 四分
肩幅 四分
重量 參拾九匁
附屬物
一 蓋 三枚 内一枚象古蓋 二枚ハ新規
一 御物袋 白絹 緒白
一 袋 二つ
笹蔓純子 裏萠黄海氣
緒つがり紫
靑木廣東 裏茶海氣
緒つがり紫
一 袋箱 黑塗 金粉字形
伯耆肩衝
袋 二
蓋 一
一 挽家 黑塗 金粉字形
伯 者 袋 天鵞絨 裏玉虫海氣
緒つがり茶
一 内箱 箔面取粉溜塗唐草蒔繪緣沃懸
伯耆 肩衝 金粉字形
一 外箱 黑塗 金粉字形
伯耆肩衝
雜記
伯耆肩衝、漢作、元祿十三辰年九月二十五日、水戸宰相上。高二寸七分六厘、肩二寸三分、胴二寸六分二厘、底一寸五分、口一寸四分、盆付あげ底、板起し、惣體地黑釉天目の如し、景飴釉色薄し。御物袋白絹、緒白。袋二つ、笹蔓どんす裏もえぎかいき、緒つがり紫。靑木漢東裏茶海氣、緒つがり紫。蓋二つ、洲。挽家、黑塗、内梨子地、蓋に金粉字形。袋黑天鵞絨、裏紺絹、緒紫。箱黑塗金粉字形、外箱黑塗(茶入圖あり)
(德川家御道具書畫目録 所 藏)
伯耆肩衝(見出し)
ほうき漢 大名物 御物、板おこし。
(麟鳳龜龍)
中村伯耆者茶入 鳥居右京殿に。
(東山御物内別帳)
伯者 松平伊豆殿。
(玩貨名物記)
伯者 中村伯者所持、松平伊豆守。
(古名物記)
ほうき 唐物肩衝 大名物 松平伊豆守。
(古今名物類聚)
ほうき肩衝 大名物 唐物 松平右衞門。
(蜂庵文庫乙第十二號)
松平信綱(伊豆守)寛永十九年八月三日、嚴有院の誕辰を賀し、二ノ丸に於て御膳を獻じ、一文字吉の御刀、伯耆肩衝の茶入を拜領す。
(寛政重修諸家譜)
松平輝綱(甲斐守)寛文二年五月十日襲封を謝し、父(信綱)が遺物貞宗の刀、伯耆肩衝の茶入を獻ず。
(寛政重修諸家譜)
寛文十年戌三月六日 宗 清
於奥御園御手前被遊、靑山因幡守一人へ御小納戸衆給仕にて御茶被下候、但大坂御暇被下、其上御園にても、琦楚石の御掛物被下候、則御意之由にて拜領之。
一 御掛物 琦楚石
一 御花入 靑磁蕪なし 御花山吹赤椿
一 御茶入 伯者肩衝
一 御茶碗 割高臺
(德川家茶會之記)
延寶四年辰七月二十三日
於奥御園風呂の御茶湯御手前被遊候、戸田越前守一人へ御茶被下候、御料理琴碁書畫の間に被下、但京都への御暇被下候。
一 御掛物 定家 筑波根
一 御花入 大そろり
一 御茶入 伯者肩衝
一 御茶碗 三島刷毛目
(德川家茶會之記及び櫻山一有筆記)
延寶五年巳三月二十八日
御黑書院西湖の間にて、尾張中將殿へ御料理被進候。
替之御道具
一 御茶入 伯者肩衝
一 御茶碗 井戸
(德川家茶會之記)
延寶五丁巳年四月十一日
御黑書院西湖の間にて、水戸宰相殿へ御料理被進候、酒井雅樂頭御老中御挨拶以後、於表御園御花御風呂之御手前被爲遊、御前御園にても雅樂頭御老中御挨拶終て、於御座之間御暇、以後御黑書院へ出御、水戸殿家來御目見。
延寶七未年三月二十八日
御黑書院西湖の間にて、紀伊中納言殿へ御料理被進候、(中略 師匠坊肩 / 衝の條參照)
替之御道具
一 御茶入 伯者肩衝
一 御茶碗 割高臺
(德川家茶會之記)
延寶八年五月十四日暮六時御尊骸北跳橋より御出棺東叡山に被爲入。
御遺物 水戸殿へ
御腰差貞宗 代金二百枚
御茶入 伯者肩衝
(淡海續編)
嚴有院御遺物覺
水戸樣へ
御茶入 伯者肩衝 袋二
御脇差 代金二百枚 貞宗
(牧笛聯纂)
延寶八年六月二十九日、上使にて御遺物を遣る。水戸宰相殿へ、御脇差貞宗(代金二 / 百枚)、御茶入伯者肩衝。水戸少將殿へ、御腰物當麻(代金 / 百枚)。
(玉露叢)
伯者肩衝(但絹ひゝきあり)元祿十三庚辰年九月二十五日、水戸宰相殿袋二ツ、古袋、笹蔓(裏もへき / 海 氣)。蓋三枚、二つは新規、一つは古蓋、右御茶入御成の節被獻之。
(上御道具)
元祿十三庚辰年九月廿五日、水戸宰相へ御成巳の上刻還御申之中刻。御内證にて茶入玉堂拜領、御内證にて宰相殿より御茶入伯者肩衝獻上。
(月田茂睡著御當代記)
傳來
元中村伯耆守忠一の所藏たりしが、慶長十四年其家の斷絶と同時に、幕府の有に歸せしならん、而して東山御物内別帳には、鳥居右京殿とあり、是れ鳥居元忠の子鳥居左京亮忠政のことなるべし。而して鳥居家は忠政の子忠恒嗣なく、寛永十三年家絶えたれば、此茶入は其後又幕府に歸りたるならん。寛政重修諸家譜に由れば、寛永十九年八月三日、松平信綱之を拜領し、寛文二年五月十日其子輝綱之を獻上せり。斯くて幕府は此茶入を以て寛文十年三月、靑山因幡守に、延寶四年七月、戸田越前守に、同五年三月、黑書院に於て尾張公に、其翌月同書院に於て水戸公に、同七年三月更に紀伊公に茶を侑められ、ば御三家とも此肩衝を以て幕府の饗應を受けたるなり。延寶八年六月二十九日、家綱の遺物として水戸侯に授けられしが、元祿十三年九月二十五日、將軍綱吉水戸邸に御成の節、水戸家第三代綱條之を幕府に獻上せり。
實見記
大正七年十一月八日、東京府下千駄ヶ谷德川家達公邸に於て實見す。口作丸味を持ちて捻り返し淺く、口緣に少しゝゝ繻ひあり、甑際より肩に掛りて浮筋二本を繞らし、肩の衝方緩く、地釉に藍鼠氣を含む所頗る新田肩衝に似たり、胴に浮筋一本を廻らし、置形は飴色釉ナダレにて、其中に黑ずみたる靑瑠璃釉を含めり、裾以下鐵氣色の土を見せ、置形の下端に釉切れて地土の斗入したる所あり、底は板起しにて少しく其緣を磨り、何故か總體手擦れ多し、漢作としては釉掛り厚く、ドッシリとして貫目ある茶入なり。


