


日野肩衝(ひのかたつき)
漢作(中国製)大名物 伯爵 松平直亮氏 所蔵
【名称の由来】
元々は日野大納言家(公家)にあったことからこの名があります。『茶人大系図』には、「日野資輝卿(権大納言・正二位)の家に伝わる肩衝茶入および広東帛は、世間で『日野肩衝』『日野広東』と呼ばれている。資輝は慶長12年5月20日に出家し、千利休に茶の湯を学んだ」と記されています。
【寸法】
高さ:約8.7cm(2寸8分9厘)
胴径:約7.2cm(2寸4分)
口径:約3.8cm(1寸2分5厘)
底径:約4.2cm(1寸4分)
甑(首)の高さ:約1.4cm(4分5厘)
重量:約123g(33匁)
【附属物】
・蓋:3枚
両窠(小堀遠州好み)、細窠(片桐石州好み)、左窠(古田織部好み)
(包み物:紫縮緬の袷の和巾)
・包み物:浅黄色の羽二重(綿入り)の和巾
黒のベルベット(天鵞絨)袋、白の羽二重の小座布団(蒲団)2つ
・仕覆(袋):4つ
(1)亀甲紋風通(裏地は鉄色の海気、緒はつがり紫)遠州好み
(2)雲鶴純子(裏地は玉虫色の海気、緒はつがり紫)織部好み
※上記2つは黒塗りの挽家に入る。ただし蓋の甲は叩き塗りで、黒く煮しめた金具付き。
(3)花色地兎古金襴(裏地は萌黄紋の海気、緒はつがり遠州紫)
(4)弥三右衛門広東(裏地は玉虫色の海気、緒はつがり遠州紫)
※上記2つは桐の白木箱に入る。箱には松平不昧の書付あり。
(包み物:紫縮緬の袷の和巾)
・挽家(ひきや):黒塗り
(袋:萌黄色の純子、裏地は萌黄色の海気、緒はつがり紫)
(包み物:萌黄色の純子の袷の和巾)
・内箱:春慶塗り
・外箱:溜塗り、几帳面(角を丸く削った形)、黒く煮しめた錠前付き
・焼形(茶入の形を模したもの):木型の上に陶土をかけて焼いたもの。野々村仁清作。
(包み物:紫色の羽二重の袷の和巾)
・添え盆:縁に彫刻のある四方盆
(約19cm角、底の鐶の幅は約14.5cm)
(袋:茶色の純子、裏地は緋色の海気、緒はつがり浅黄)
(箱:桐の白木、小堀権十郎の書付「端々四方盆中栗色」)
(包み物:花布、裏地は御納戸茶色の羽二重)
・添え書付:2通(日野殿宛て)
「…もし差し支えなければ茶入を取り出して、伯耆守一人に拝見をお許しくださるよう願っております。そのためにこのように手紙を出しました。
追伸:伯耆守は当家(日野家)にゆかりのある人物であり、その上茶の湯を好む者ですので、ぜひともとお願いする次第です。」
8日 (花押)
善六殿へ
「日野肩衝の茶入を拝見し、大変喜ばしく存じます。日野唯心殿(資輝)が書かれた手紙を一通お送りしますので、この品に添えておかれてはいかがでしょうか。
(和歌)伝へきて みがく光も玉だれの 小瓶に朽ちぬ 契りをぞ知る
12月7日 (日野)資枝 写す
善六殿へ」
【雑記】
「ひの(日野)肩衝」は三井家にある。京都の大文字屋宗貞が所持していた。
(『古名物記』より)
「ひのかたつき」は京都の大文字屋宗貞が所持。
(『玩貨名物記』より)
「日野肩衝」は大文字屋養清が所持。
(『東山御物内別帳』より)
「日野肩付(肩衝)」:三井家所持。高さ2寸8分9厘、口径1寸2分5厘、胴径2寸4分、底(盆付)1寸4分。
挽家は黒塗りの几帳面(角を削った形)、袋は龍紋の唐手(もふる)、裏地は萌黄色の海気、緒はつがり紫。茶入は黒のベルベット(天鵞絨)袋に入っており、浅黄色の和巾が添えられている。挽家の包み物は萌黄色の純子の和巾。内箱は春慶塗り、外箱は溜塗り。替えの仕覆が2つあり、1つは紺地に鳥襷模様の純子(裏地は海気、緒はつがり紫)。挽家は古田織部好みの黒塗りで、袋は茶色の地(裏地なし、緒はつがり紫)。もう1つの挽家も同様で小堀遠州好み。蓋は3枚あり、片桐石州好み、古田織部好み、小堀遠州好み。袋を入れる箱は黒塗りの掛子(入れ子)になっており、蓋はすべて香合に入る。野々村仁清が作った模造品があり、白木箱に入っている。掛け軸(手紙)が2幅添えられている。(茶入の図あり)
(『古今名物類聚』より)
「日野」:大文字屋宗貞が所持し、現在は雲州公(松平不昧)が所持。柿色の釉薬の上に黒い釉薬が強くかかっており、下地の柿色は薄い。肩の作りが良く、土は白く、時代は古い方である。所々に修復の跡が多く見られる。(寸法、附属物の記載、茶入の図あり)
(『麟鳳亀龍』より)
日野唯心(資輝)がこれを大文字屋に売ろうとした時、ある老人を呼んで「この茶入を黄金50枚(両)で売る約束をした。しかし少し思うところがあるので、50貫値引きして45枚になったとしても、美作殿(著者の江村専斎が仕えていた森美作守のことだろう)などが買い取ってくれるなら、茶の道にふさわしい立派なことである。お前が懐に入れて持っていき、見せてみなさい」と言った。老人は見せに行ったが、お金の都合がつかず取引は成立せず、結局は大文字屋の手に渡った。
(江村専斎『老人雑話』より)
小堀遠州が、京都の大文字屋宗貞が所持していた「日野肩衝」の茶入を使った茶会に招かれた際、この茶入を袋に入れずに使うよう指示したことがあった。これには皆深いわけがあるのだが、それは口伝えで教えよう。その後、大文字屋から遠州へ唐物純子の袋が贈られたことがあり、現在もその袋とともに2つの袋が添えられている。
(速水宗達著『喫茶明月集』より)
「日野肩衝」は、日野唯心から大文字屋へ黄金50枚で売却された。
(『蜂庵文庫』甲第16号より)
烏丸家、そして三木権太夫を経て、三井家が引き取った。「日野肩衝」は、日野家から大文字屋疋田という者が買い取った。疋田が「初花肩衝」を織田信長へ献上し、その代わりとして日野肩衝を買い取ったという。その際の仲介人は古田織部であった。
(『若州酒井家文書』より)
寛永8年(1631年)10月30日朝(※松屋筆記には4月30日朝とある)
京都の大文字屋宗味の茶会(場所は西洞院下立売)
客:辻七右衛門、医者の以策、水口五郎右衛門、横田五兵衛、松屋久重(源三郎)の5人
・床の間:虚堂智愚の墨跡(「世路多嶮嶇…」現在は雲州松平家に伝わる)
・茶入:日野肩衝(袋入り、盆には乗せず)
(袋:から色(韓紅)の緞子。紋は鳳凰と唐草の連続模様が二つ。緒は紺色。)
肩衝の上部の釉薬は黒く、もえぎ色(暗緑色)のように見える所もある。下部の釉薬は柿色。首(口)が高く、土は厚めで赤みがかった白色、へらで削った土(へぎ土)である。
(『久重日記』および『松屋筆記』より)
日野肩衝:唐物。日野大納言(亜相)が所持し、その後京都の湯川善六という者へ伝わった。さらに小松黄門・前田利長公へ献上されたが、のちに湯川善六へ援助(合力)のために下賜された。それを三井三郎助へ大金で譲り渡し、三井家が所蔵していたところを、文化年間(1804〜1818年)の頃に私(伏見屋甚兵衛)が取り次ぎをして、(松平不昧公のお買い上げ)となった。この茶入は「油屋肩衝」よりは少し時代が下がる(新しい)ものだが、極めて油屋肩衝に次ぐほどの名器である。
(『伏見屋手控』および『蜂庵文庫』乙第3号より)
日野肩衝:200両で伏見屋甚兵衛が取り次ぎ、松平不昧公に納めた。その代金(交換)として、熊川茶碗と、信楽焼の茶入(如心斎銘「金剛」)の2品が出された。
(『三井家文書』より)
日野肩衝:この茶入は「油屋」の茶入より少し時代が新しいものであるが、極上の品である。一番が油屋の茶入、二番が日野の茶入と言えるほど素晴らしい茶入であり、古くから1万両ほどの価値がある品だと言い伝えられている。
(『雲州宝物伝来書』より)
日野かたつき:高さ2寸9分、胴径4寸2厘、口径1寸3分。蓋は片桐石州、古田織部、小堀遠州の好みがそれぞれあり、少しずつ違いがある。大文字屋ののち、湯川善六が銀500貫で手に入れた。口の内側への反り(捻り返し)が普通より極めて張っている。全体の下地の釉薬は柿の赤色。薄い飴色の釉薬のなだれが2筋、肩の少し上から流れている。また釉薬が溜まっている部分に黒い釉薬のなだれが2筋ある。枯れた渋い(さび)出来栄えである。内側にも釉薬がかかっており、薄い。底は一段くぼんでいるようで、そこには釉薬が厚くかかっている。土は紫色を帯びており、へらで起こした跡がある。底は色々な模様のように見える。
(『雪間草茶道惑解』より)
日野肩衝:全体の下地に細かく黒い釉薬の斑点がある。口の作りが非常に上手である。底の土は白く、口の折り返しが太く、首(甑)の下に筋がある。ひさしのように張った肩で、底は板から切り離した平らな状態(板起こし)。正面(置形)に飴色の釉薬が2筋流れ、その周りに黒い釉薬がある。底は鼠色の土。下地の釉薬は柿色で、「種村肩衝」よりも時代が古いと思われる。(袋と蓋に関する記述あり)
(『茶入名物記』および『蜂庵文庫』甲第9号より)
日野肩衝:全体の下地が柿色で、すっきりと冴えた出来栄え。土は鉛色(なまり土)。口と底の接地部分にへらで切った跡がある。ゆとりを持たせた正面(置形)には飴色の釉薬があり、その上に少し黒みがかった釉薬がかかっている。土が見えている部分には飴色がよく透けて見える。ひさしのように張った肩で、胴はふっくらと(むつくりと)張っている。
(『蜂庵文庫』甲第3号より)
細川三斎(忠興)老人は、「桑仁肩衝と日野肩衝の2つは、散々に悪い(ひどい出来だ)」と仰っていた。
(『松屋筆記』三斎公之部、『宗流石州流茶書』より)
日野:中国製(漢作)である。「油屋肩衝」と釉薬の掛け方や時代は同じだと言われているが、時代は少し劣る(新しい)。
(松平不昧著『瀬戸陶器濫觴』より)
日野肩衝:唐物。日野大納言様が所持し、その後三井三郎右衛門へ渡り、文化年間の頃に本店から売却された。代金は500両で、縁に彫刻のある四方盆が添えられている。
(『伏見屋手控』より)
【伝来】
元々は公家の日野大納言家にあり、日野資輝の代にこれを黄金50枚で売ろうとしました。江村専斎(『老人雑話』の著者)を森美作守の元へ使いに出し、「もし貴殿が買い取ってくださるなら、50貫を値引きして黄金45枚でお譲りしましょう」と申し入れましたが、金策がつかないということで応じませんでした。
ちょうどその頃、京都の大文字屋の疋田宗観が、かつて名物「初花肩衝」を織田信長へ献上した後、その代わりとなる唐物の茶入を手に入れたいと考えていた時期でした。そのため、古田織部の仲介により、日野家の希望通り黄金50枚でこの茶入を買い取りました。そして寛永8年(1631年)10月末日、京都・西洞院下立売にある大文字屋宗味の茶会でこの茶入が使用されたことが、『久重日記』や『松屋筆記』に記されています。
その後、大文字屋から銀500貫で湯川善六に譲られましたが、公家の日野資枝から善六宛てに、茶入拝見の紹介状(前述の手紙)が送られたのは、おそらくこの頃のことでしょう。そして善六はこれを加賀藩主の前田利長へ献上しましたが、後年、善六が前田家のために尽力したことがあったため、前田家から改めて善六へこれが贈られました。
その後、三井家の三井三郎助が湯川家から大金でこれを買い取り、長らく三井家が所持していましたが、文化年間(1804〜1818年)の頃、道具屋の伏見屋甚兵衛の取り次ぎにより、金500両で松江藩主の松平不昧公に譲られました。不昧公は、茶入「残月」「種村」とこの「日野肩衝」を合わせて第三宝物(第一宝物は油屋肩衝、第二宝物は鑵勒茶入)とし、「永遠に大切に保存するように」と、世嗣である月潭公に遺言したとのことです。
大正6年(1917年)4月28日、現在の当主である松平伯爵は、不昧公の百年忌にあたり、これを松江市の興雲閣に出品して一般公開しました。
【実見記(実際に見て確認した記録)】
大正7年(1918年)5月27日、松江市の松平直亮伯爵家の事務所にて実際に拝見しました。
口の内側への反り(捻り返し)が深く、縁は尖っていて非常に精密な作りです。首(甑)から肩にかけて、半分ほどの面に青い瑠璃色の釉薬がかかっています。全体は飴色の下地で、そこに青い瑠璃色の釉薬がムラになって現れており、さらに柿色の釉薬が飛び飛びに散っているなど、その景色は極めて変化に富んでいます。
胴の周りには漆による修復の跡があります。正面(置形)には一本のなだれが見事に青い瑠璃色の釉薬を現しており、底の近くに至って止まっています。裾から下は鼠色の土で、板から切り離した平らな作り(板起こし)の底一面には黒い釉薬のパサつき(カセ)があります。
この茶入は一度火災に遭ったもののように、大きな傷を修復した跡が数ヶ所ありますが、全体の形はふっくらと整っており(相好円満)、品格が高く、青瑠璃色の釉薬が多くて景色に富んでいる点は他に類を見ません。いわゆる「日暮(ひぐらし:一日中見ていても飽きないほどの意)」といった名称は、まさにこのような茶入にこそふさわしいと思われます。
【原文】
日野肩衝
漢作 大名物 伯爵 松平直亮氏 藏
名稱
元日野大納言家に在りしを以て此名あり。『茶人大系圖』に「日野資輝卿權大納言正二位家藏肩衝茶入及廣東帛世稱日野肩衝、日野廣東、慶長十二年五月廿日薙髮、學茶技於利休」とあり。
寸法
高 貳寸八分九厘
胴徑 貳寸四分
口徑 壹寸貳分五厘
底徑 壹寸四分
甑高 四分五厘
重量 參拾參匁
附屬物
一 蓋 三枚
兩窠 遠州好
細窠 石州好
左窠 織部好
包物 紫縮緬袷和巾
一 包物 淺黄羽二重綿入和巾
黑天鵞絨袋 白羽二重蒲團二ツ
一 袋 四つ
一 龜甲紋風通 裏 鐵色海氣
緒 つがり紫 遠州好
一 雲鶴純子 裏 玉虫海氣
緒 つがり紫 織部好
右二ツ共黑塗挽家に入る
但蓋甲叩塗煮黑ミ金物付
一 花色地兎古金襴 裏 萠黄紋海氣
緒 つがり遠州紫
一 彌三右衞門廣東 裏 玉虫海氣
緒 つがり遠州紫
右二ツ共箱桐白木に入る 箱書付 不昧
包物 紫縮緬袷 和巾
一 挽家 黑塗
袋 萠黄純子 裏 萠黄海氣
緒 つがり紫
包物 萠黄純子袷 和巾
一 内箱 春慶
一 外箱 溜塗 几帳面 煮黑ミ錠前付
一 燒形 木形ノ上ニ陶土ヲ掛
テ燒キタル者ナリ 仁清
包物 紫羽二重袷 和巾
一 添盆 端彫物四方盆
方 六寸參分 鐶方四寸八分
袋 茶純子 裏 緋海氣
緒 つがり淺黄
箱 桐 白木 書付小堀權十郎
端々四方盆中栗色
包物 花布 裏 御納戸茶羽二重
一 添書付 二通 日野殿
幾能布は御出、本望之至りに候、右之品松波伯耆守當家由緒のものに候へば、何卒拜見仕度由只今參り頼申候、御面働之事ながら、くるしからず候はゞ取出給候て、伯耆守一人へ拜見御ゆるし給候樣願望候、爲其如此候也。
猶々伯耆守當家由緒の人、その上茶道すきにて候故、旁々相願候、御所望申候也。
八日 (花押)
善六殿
ひのかたつき茶入一覽申、よろこひ存候、唯心殿染筆の一紙送進候、
この品にそへをかれ候はんか。
つたへきてみかく光も玉たれの
こかめにくちぬ契をそしる
十二月七日 資枝寫
善六殿
雜記
ひの肩衝 三井にあり 京都大文字屋宗貞。
(古名物記)
ひのかたつき 京大文字屋宗貞。
(玩貨名物記)
日野肩衝 大文字屋養清。
(東山御物内別帳)
日野肩付 三井 高二寸八分九厘、口一寸二分五厘、胴二寸四分、盆附一寸四分。挽家黑塗きちゃうめむ袋龍紋唐手もふる、裏もえぎ海氣、緒つがり紫。
茶入黑天鵞絨袋に入、淺黄和巾也。挽家包物もえぎ純子和巾。箱春慶、外箱溜塗、袋二つ、紺地鳥たすき純子 裏 海氣 / 緒つがり紫。挽家黑塗古織好、茶地もふる
裏 なし / 緒つがり紫。挽家同斷、遠州好。蓋三枚石州好、古織好、遠州好。袋箱黑塗掛子
蓋何も香合に入、仁清形あり、白木箱に入。懸もの二幅添(茶入圖あり)。
(古今名物類聚)
日野 大文字屋宗貞所持、雲州公。柿に黑藥つよく、地藥柿うすし。肩作よし、白土、時代古き方、所々に繕多し(寸法、附屬物、茶入圖あり)。
(麟鳳龜龍)
日野唯心 大文字屋に賣りたまふ時、老人を呼て此茶入黄金五拾枚に賣るべき約束す、少し味惡しき事ある程に、五十貫おとしで四十五枚になりとも美作殿(尊齋の仕へ森 / 美作守なるべし)などに御取りあらば、道はしたき事なり、自分に袖に入れ持往見せよとのたまふ、見せけれども代物調ひかねたるに因て首尾せず、遂に大文字屋が手に落つ。
(江村專齋老人雜話)
小堀遠州、日野肩衝茶入京大文字屋宗貞所持の時、茶に行かれて、此茶入無袋に用る事を指圖せられし事有り、是らは皆わけ有り、口授せん。されば其後唐物純子の袋を贈られし事あり、今も其袋ともに二ツ有り。
(速水宗達著喫茶明月集)
日野肩衝 日野唯心より大文字屋へ黄金五十枚に賣たまふ也。
(蜂庵文庫甲第十六號)
烏丸家より三木權太夫より、三井引取申候、日野肩衝は、日野家より大文字屋疋田と云ふ者、初花を信長へ上り、其替りに日野を買取と申事、古織仲人也。
(若州酒井家文書)
寛永八年十月晦日朝(松屋筆記ニハ四 / 月晦日朝トアリ)
京都大文字屋宗味へ 西洞院下立賣也
辻七右衞門殿 醫者以策
水口五郎右衞門 横田五兵衞
久 重(松屋源 / 三郎) 五 人
床に 虚堂墨蹟(世路多嶮嶇云々 / 今雲州松平家に傳ふ)
日野肩衝 袋に入る 盆なし
袋 から色緞子紋 鳳凰、唐草つなき / な二つ 充 緒は紺色
肩衝上藥黑し、もよきの樣なる所もあり、下藥柿、口高きなり、土あ
つく赤白きなり、へぎ土なり。
(久重日記、松屋筆記)
日野肩衝 唐物日野亞相御所持、其後京都湯川善六と申者へ傳はり、又小松黄門利長公へ差上ル、後湯川善六へ爲御合力被下置、卽三井三郎助方へ大金ニテ讓リ渡シ、三井所藏致居處文化頃私御取次仕、御買上ニ成、此茶入ハ油屋よりハ少々時代次に有之候得共、極油屋續キ候程ノ御名器也。
(伏見屋手控、蜂庵文庫乙第三號)
日野肩衝 二百兩にて伏甚(伏見屋 / 甚兵衞)取次不昧公に納む、その代りに熊川茶碗、信樂茶入如心銘金剛二品を出さる。
(三井家文書)
日野肩衝 此茶入油屋御茶入より少々時代次に候へども、極上品に御座候、油屋御茶入一日野御茶入二至て宜敷御茶入に御座候、金一萬兩位の御品と古來より申傳に御座候。
(雲州寶物傳來書)
日野かたつき 高二寸九分、胴四寸二リン、口一寸三分、蓋片桐殿、象牙片 巢、古織部象牙通巢、小堀殿好象牙片巢、蓋好少しづゝ違ひあり。大文字屋、 其後湯川善六銀五百貫に取る。口の捻返し常よりハ殊の外張る、惣地藥柿 赤藥、薄きあめ藥のなだれ二筋、肩の下上より、又藥溜りに黑藥のなだれ 二筋あり、さび出來の方なり、内にも藥かゝり、薄くあり、底は一段落入る にや、是は藥掛り厚し、土紫のかた、へらおこし、底はいろくの樣に見ゆ る。 (雪間草茶道惑解)
日野肩衝 惣體地に細く黑藥の斑あり、口作の上手の事甚し、底土白、捻 返し太く、甑下に筋あり、ひさし肩、板起し、置形飴二筋流れ其廻りに黑藥 あり、底鼠土也、地藥柿なり、種村より時代古か(袋蓋の記事あり)。 (茶入名物記、蜂庵文庫甲第九號)
日野肩衝 惣體地柿にて冴えたる出來、土なまり土なり、口と地にへらにてきり、ゆとり取ある置方飴藥、其上に少々黑みかかる、土の處に飴能すく、ひさし肩、胴むつくりと張る。
(蜂庵文庫甲第三號)
桑仁肩衝と日野肩衝とは、散々惡しく候由三齋老御申候。
(松屋筆記三齋公之部、宗流石州流茶書)
日野 漢なり、油屋肩衝と藥立同時代と雖も、時代劣りたり。
(不昧公著瀬戸陶器濫觴)
日野肩衝 唐物 日野大納言樣御所持其後三井三郎右衞門、文化の頃本店より賣上る、代金五百兩、添物端彫物四方盆添。
(伏見屋手控)
傳來
元日野大納言家に在り、資輝卿の時黄金五十枚にて之を賣らんとし、江 村專齋(老人雜話 / の著者)を森美作守(前掲老人 / 雜話參照)方に遣し、若し貴殿買收られ候へ ば、價五十貫を減じ、金四十五枚にて讓渡さんと申入れたれども、金策調は ずとて之れに應せず、偶々京の大文字屋疋田宗觀嘗て初花肩衝を信長 に獻じたる後、其代りとして漢茶入を獲たしと思ひ居る折からなれば、 古田織部を介して日野家の希望通り、黄金五拾枚にて之を買取る。而し て寛永八年十月晦日、西洞院下立賣大文字屋宗味の茶會に此茶入を使 用せること、久重日記、松屋筆記に見えたり。其後大文字屋より銀五百貫 にて湯川善六に讓られしが、日野資枝卿より善六に宛て、茶入拜見紹介 の手紙を送られたるは、蓋し此頃の事なるべし。而して善六は之を前田 利長に獻せしが、後年善六前田家の爲に盡力する所ありければ、同家よ り改めて之を善六に贈與せり。其後三井三郎助、湯川家より大金を以て 之を買取り、久しく其家に所持せしが、文化の頃、伏見屋甚兵衞の取次に より、金五百兩にて松平不昧公に讓られしに、公は殘月、種村と此肩衝と を併せて第三寶物(第一寶物ハ油屋 / 第二寶物ハ鑵勒)と爲し、永世大切に保存すべく、世子 月潭公に遺誠せられしとなり。 大正六年四月二十八日、松平伯は不昧公百年忌に際し、之を松江市興雲
閣に出陳して公衆の縱覽に供せらる。
實見記
大正七年五月二十七日、松江市松平直亮伯家事務所に於て實見す。
口作括り返し深く、緣尖りて精作なり。甑より肩にかけて、半面靑瑠璃釉 掛り、總體飴色地に靑瑠璃釉のムラ\/と現はれたる、又柿色釉の飛々 に散點する、其景色極めて豐富なり。胴廻りに漆繕ひあり、置形一ナダレ 美事に靑瑠璃釉を現はし、底近くに至りて止まる。裾以下鼠土にて、板起 しの底一面に黑き釉カセあり、此茶入一度火災に罹りたる者の如く、大 疵繕ひ數ヶ所あれども、相好圓滿にして、品位高く、靑瑠璃釉多く、景色に 富む事無類にして、所謂日暮などの名稱は、斯かる茶入にこそ相應しか らめと思はれぬ。


