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勢高肩衝

勢高肩衝(せいたかかたつき)

漢作(中国製) 大名物 男爵 藤田平太郎氏 所蔵

【名称の由来】
茶入の背丈が高いことから、「勢高」と呼ばれるようになったのだろう。

【寸法】
高さ:約8.8cm(2寸9分2厘)
胴径:約7.1cm(2寸3分6厘)
口径:約4.2cm(1寸4分)
底径:約4.2cm(1寸4分)、または約4.1cm(1寸3分5厘)
甑(首)の高さ:約0.6cm(2分)
肩幅:約0.9cm(3分)
重量:約110g(29匁4分)

【附属物】
・蓋:1枚(象牙製)
・御物袋:羽二重(「せいたか」と記されている)
・仕覆(袋):2つ
(1)朱座裂(裏地は玉虫色、緒はすがり紫)
(2)白茶広東(裏地は玉虫色、緒はつがり紫)
・挽家(ひきや):黒塗り、藤重作。袋は黒のベルベット(天鵞絨)、裏地は玉虫色、緒はつがり紫。
・内箱:桐の白木、本多猗蘭(忠純)の書付で「勢高 肩衝」とある。
・中箱:桐の白木、本多宗範の書付。
表に「勢高」、裏に「勢高 古織(古田織部)所持 享保21年正月3日拝領」とある。
・外箱:桐の白木。「勢高」とあり、茶色の革袋入り。
・添え盆:四方盆。内側は朱色、縁は緑色、外側は青漆。約19.7cm角(方6寸5分)、底は約15.8cm角(底方5寸2分)。底に朱漆で「流芳千載」の文字がある。この盆の箱は桐の白木で、本多猗蘭の書付「内朱緑燕口 勢高 四方盆」とある。
・添え掛物:1幅、千宗旦の手紙。4月17日付で宗受宛て。道具の組み合わせの中に「せいたか織部所持」という言葉がある。
・総箱:唐物(中国風)の挟箱仕立て。蓋は朱塗り、胴は黒塗り。

【雑記】
山岡宗無は堺の住吉屋吉左衛門という人物で、実は武将・松永久秀の子供である。豊臣秀吉(太閤)に仕えて四百石の領地を持ち、茶の湯に通じており、千利休、今井宗久、津田宗及と並び称された。自身の拠点に柴泉寺を創建し、春屋和尚を招いて初代住職とした。また、大徳寺(紫野)の安室和尚は宗無の子供である。彼の家には名器の茶入が所蔵されており、「勢高」と呼ばれている。
(『茶人大系図』より)

永禄10年(1567年)1月9日朝 住吉屋宗無の茶会
客:津田宗及(一人)
・風炉:小板に小釣物。茶を点てる時は手桶から水を汲んだ。
・床の間:長盆の上に「せいたかかたつき」が袋に入れられて一つ飾られていた。
「勢高肩衝を拝見した。肩衝のなかでも背の高いものである。なだれ(釉薬の流れ)が2筋あり、壺の左側のなだれは底まで下がっており、下の方で色が変化している。2筋のなだれの間には赤い色の釉薬があり、全体的に釉薬が粗く見える。土は紫色を帯びているようには見えない。口の作りは薄く、少し内側に反っており(捻り返し)、口の内側にも釉薬が回っている。肩にかかっている釉薬や正面は黒く、下部の釉薬は色が薄い。総じて壺の後ろ側の方が一段ときれいに見え、なだれは少し歪んでいる。」
(『津田宗及茶湯日記』より)

勢高(せいこう):住吉屋宗無が所持。高さ2寸9分、横2寸3分強、胴回り7寸4分、底1寸4分、口1寸4分半、首の高さ2分半、胴の膨らみ1寸5分。茶入の図あり。
(『万宝全書』より)

せいたか:内大臣・織田信長公が所持。
(『天正名物記』より)

せいたかかたつき:織田信長(惣見院)の最期の時、本能寺の火災で焼失した。
(『続群書類従』本「茶器名物集」より)

勢高肩衝:織田信長公の最期の時、本能寺の火災に入って失われた。
(『山上宗二記』より)

丹羽長重(五郎左衛門)の直筆の書面に、「古田織部のもとへ10月4日の口切(新茶を開封する茶会)に参じた際の道具組は、芦屋釜、白木の炉縁、そして『せい高』の茶入が袋なしで飾られていた」とある。
(速水宗達著『喫茶明月集』より)

慶長6年(1601年)11月20日昼 古田織部殿の茶会
客:最福院、関才次、久好(三人)
「生高(勢高)肩衝」のお披露目。三畳の茶室で、大床の柱は栗の木。
床の間には千利休の手紙があり、掛け軸の脇に「生高」が四方盆に乗せられ、亀甲模様の純子の袋(緒は濃い茶色)に入れられていた。掛け軸の手紙には「涙を流しましたが、壺は差し上げられません」といった内容が書かれていた。「生高」にはなだれが3つあり、中央のものが長く流れている。横帯の筋が2つあり、壁土のような色の土である。高さ2寸9分ほど、胴回り7寸4〜5分、口と底は1寸4〜5分。
(『松屋日記』より)

慶長8年(1603年)2月23日 古田織部の茶会
客:北条美濃、土方丹波、別所豊後
・床の間:唐津の木槿花入に、白い桃と木瓜(ぼけ)の花
・茶入:せい高(木陰色の袋入り)
・茶碗:今黒焼
(『古田織部茶会記』より)

慶長8年(1603年)5月24日 古田織部の茶会
客:山本新五左衛門、佐藤駿河、牧野助右衛門
・床の間:一山一寧の墨跡
・茶入:せい高(純子の袋入り)
・茶碗:唐津焼
(『古田織部茶会記』より)

慶長8年(1603年)10月4日朝
客:金森法印、弾正殿、舟越殿、猪飼殿
食事は焼き鮭に柚子味噌をかけたもの、なます、香の物、お茶請けは栗の粉餅、しいたけ、たたき牛蒡、朱塗りの椀で柿の汁、後から茎菜を入れたもの。
・床の間:春屋和尚の墨跡、棚に鎖、羽箒
(手水)
・床の間:土の花入に梅
・水指:唐津焼
・茶入:せい高(亀甲模様の袋入り)
・茶碗:唐津焼
・薄茶:掃部殿の棗
(宮内省本『小古茶湯日記』より)

慶長8年(1603年)12月18日 古田織部の茶会
客:金森出雲守、伊藤掃部、奥山大膳、野村三十郎
・床の間:籠の花入に水仙と梅
・茶入:せい高(萌黄色の袋入り)
・水指:備前焼
(『古田織部茶会記』より)

「山の井」という茶入の由来について、金森出雲守(長近)の語るところによれば、「飛騨国中で小壺をかき集めて見たところ、見事な瀬戸焼の肩衝があったので秘蔵した」という話がある。この茶入は現在越中殿が持っており、「出雲肩衝」と呼ばれている。この話の最中に、「豊前一国で小壺を探すと…(中略、山の井肩衝の項を参照)」とあり、この茶入を「人生」と名付けた。「人生七十古来稀なり」という古い言葉にちなんで付けたが、現在は「山の井」と呼んでいる。「浅くてもよい、他の人が汲もうとも、私には山の井の水で十分である」という和歌にちなんで名付けたと語られている。
「自分にはこれで十分」という心境は、唐物(中国製)の茶入を持たずに瀬戸物ばかりを秘蔵していても物足りないから、唐物を手に入れて、それ以上にこの瀬戸物を秘蔵すれば立派である、という考えからである。そこで古田織部に「生高(勢高)」を譲ってほしいと頼んだところ、織部は「金2千両をくれるなら差し上げよう」と返答した。金森が「2千両なんて聞いたことがない」と言うと、織部は「では金千両と、その『山の井』を千両の価値として頂ければ譲ろう」と言った。金森は「それは承服できない。私が勢高肩衝を欲しがったのも結局は『山の井』のためなのだから、そんな取引は成り立たない」と断った、といった様々な逸話がある。
(『松屋日記』および『松屋筆記』より)

古田織部(重勝)が切腹し財産が没収された際、将軍が直接茶道具をご覧になった。藤原俊成と定家の両名の筆跡、一山一寧の一行物、南浦紹明の像など、その他多くの見事な絵画や書があった。織部が秘蔵していた茶道具のうち、「勢高肩衝」は将軍家へ献上され、一山一寧の「正法眼蔵涅槃妙心」と書かれた一行の掛け軸は、徳川頼宣(紀州藩主)が拝領した。この掛け軸の表装は上下が浅黄色の紙、中廻しは大内菱模様、軸先は白木であった。
また、こうも言われている。「古田織部は千利休の死後、茶道において天下一の名声があった。(中略)掛け軸は一山一寧の『正法眼蔵涅槃妙心』の一行物、茶入は辻堂の瀬戸茶入、水指は新身伊賀を使い、むやみに道具を取り合わせることはしなかった。茶入と袋を2つ3つ出しては取り替える程度だった。後になって辻堂の茶入は他人に譲り、『せい高』という唐物の肩衝だけを使って茶の湯を行った。織部が切腹して財産没収となった後、一山一寧の掛け軸も、せい高の茶入も、台徳院(徳川秀忠)の元へ上がった。一山一寧の書は南龍院(紀州藩祖・頼宣)へ贈られ、南龍院から左京大夫頼純へ贈られた。」
(『武辺物語』より)

「生高(勢高)」には、古田織部殿が蓋を23枚も作らせて添えていた。蓋が1つや2つしかないのでは珍しいことではないからである。
(『松屋日記』より)

慶長20年(1615年、のちに元和元年と改元)6月20日の記録
大御所(徳川家康)が二条城へお出ましになり、天皇としばらく密談された。その後、古田織部が所持していた「勢高」という名の肩衝茶入が、大御所へ献上された。
(後藤庄三郎著『駿府政事録』より)

勢高:袋は珠光緞子、菊唐草模様。一番目の長持(収納箱)に入っている。
(『御数寄御道具台帳』より)

寛永4年(1627年)6月25日 江戸城西の丸の山里の茶室にて
尾張大納言義直と水戸中納言頼房の両名に茶が振る舞われた。相伴は藤堂和泉守高虎。
・掛け軸:北礀
・茶入:勢高
・茶碗:創高台(藤堂高虎が献上したもの)
・花入:都かへり
(『東武実録』より)

寛永5年(1628年)3月22日 西の丸の茶室にて茶が振る舞われた。
(客)蜂須賀蓬庵、丹波長重、加藤嘉明、加藤明成、松平忠昌、松平直政、松平直基、松平直久、延寿院
・掛け軸:寒翁
・茶入:勢高
・茶碗:紀三井寺
・花入:都かへり(花は藤と椿)
(『東武実録』より)

寛永18年(1641年)11月8日。舟越伊予守、そして後日片桐石見守の二日間にわたり、茶の湯の点前を仰せつかった。
・掛け軸:無準の筆で「帰雲」の二文字
・茶入:せい高(広東の袋入り)
・茶碗:竹庵 三島
・花入:大そろり
(『桜山一有筆記』より)

江戸城での虫干しの際、堀田加賀守が茶人の宗甫に向かって、「もし茶入の中から望みのものを何でも頂けるとしたら、何を拝領したいか」と尋ねたところ、宗甫は「セイタカ(勢高)を望みます」と答えた。その後、佐久間将監がやってきたので、堀田加賀守が同じように尋ねたところ、佐久間将監も宗甫と全く同じ答えを返した。これは同席していた水野予州が聞いた通りの話である。
(『宗友記』より)

寛文5年(1665年)11月8日 本日、御墨書院の茶室にて茶の湯が命じられた。点前は舟越伊予守。
・掛け軸:「帰雲」の二文字、無準の筆
・花入:大曾呂利(花は木瓜)
・茶入:勢高(広東の袋入り、盆には載せない)
・茶碗:刷毛目高麗
(『徳川家御茶会之記』より)

勢たか:御茶入(幕府所持)。朱書きの注記に「古田織部所持。元和元年6月20日に大御所(家康)から将軍(秀忠)へ譲られた。寛文のころ、伊勢・神戸藩主の本多宗範が拝領した」とある。
(『玩貨名物記』より)

勢高:火災に遭っている。土は黒ずんでおり、暗い灰黒色の釉薬、底にはへらで起こした跡がある。重量29匁3分、高さ2寸9分3厘、横2寸3分8厘、口1寸4分半、底1寸3分6厘、首の高さ2分半(茶入の図あり)。
(『名物記』より)

勢高:重さ29匁3分、横2寸3分8厘、口1寸4分半、底1寸3分6厘、首の高さ2分半。火災に遭っている。底にへらで起こした跡があり、土は黒ずんでいて、四隅に黒い釉薬が見える。
(『蜂庵文庫』甲第13号より)

勢高:中国製(漢作)である。「新田肩衝」「不動肩衝」「玉堂」「棚村」と同じ時代の作である。また、新田や不動とは作り手も釉薬の掛け方も同じである。瀬戸焼の「平野」「山の井」「生駒」とも釉薬の掛け方が同じである。
(松平不昧著『瀬戸陶器濫觴』より)

大名物 勢高肩衝:明治23年(1890年)4月22日、青山の本多侯爵邸にて拝見した。伊勢・神戸藩主だった本多家の所蔵とのこと。底にへらで起こした跡があり、土は黒ずんで、暗い灰黒色の釉薬がかかっているが、火災に遭ったものである。口の作りは非常に良く、全体的に黒い景色が焼けているため、釉薬が縮れて土は乾き、割れを修復した跡がある。寸法は「三冊物(書物)」に記されている通り。御物袋は白絹で紐付き、替えの袋は片身替わりの日野広東織で裏地は琥珀織。挽家(容器)は黒塗りでベルベットの袋入り。内箱の蓋には「勢高 肩衝」とあるが筆者は不明。外箱は本多宗範の筆で、表に「勢高」、裏に「勢高 古織(古田織部)所持 享保21年正月3日拝領」と書かれている(茶入の図あり)。
(『蜂庵文庫蔵 異本名物記』より)

【伝来】
もとは堺の住吉屋山岡宗無が所持しており、その後織田信長に伝わり、本能寺の変で火災に遭ったと言い伝えられています。その後、古田織部が所持していた際、細川三斎(忠興)がこれを欲しがって交渉したものの成立しなかったことが『松屋日記』などに記されています。しかし、元和元年(1615年)6月に古田織部が切腹し、この茶入は幕府の所有物となりました。その後、将軍家の茶会でしばしば使用されたことは、前述の雑記に詳しい通りです。
また、『宗友記』には、幕府の道具の虫干しの際、堀田加賀守が小堀遠州に「道具の中で望み通りにもらえるとしたら何を頂きたいか」と尋ねたところ、遠州が「勢高です」と答え、さらに佐久間将監に尋ねると彼も全く同じ答えをした、という逸話が載っています。
いずれにせよ、もしこの茶入が現在の状態のように本能寺の変で焼け焦げていたとしたら、このような(美しい茶入を欲しがるような)やり取りは起きなかったはずです。そう考えると、この茶入が火災に遭って傷んだのは、これより後の時代の出来事(明暦の大火など)ではないかと思われます。
享保21年(1736年)1月3日、伊勢国神戸の城主・本多忠純(号は猗蘭)が8代将軍・徳川吉宗からこれを拝領し、それ以来本多家で代々伝えられてきましたが、近年同家から出て、藤田男爵の手に渡ったということです。

【実見記(実際に見て確認した記録)】
大正9年(1920年)5月17日、大阪市北区網島の藤田平太郎男爵邸にて実際に拝見しました。
口の内側への反りが深く、縁は尖っており、首(甑)は低く、肩の張りが高くて、腰から下は少し細くなっています。裾には鉄分を含んだ土の色が見え、底は板から切り離した平らな作り(板起こし)です。全体に黒飴色の釉薬がかかっていますが、一度火の中に入ったと思われる状態で、大きく破損した部分を漆で修復した跡が、縦横にたすき掛けのようになっています。そのため、下地の釉薬が崩れて景色は鮮明ではありませんが、肩の先から流れ落ちた黒飴色の釉薬が底の接地面(盆付)で止まり、裾の周りに青みがかった鼠色の釉薬が残っている様子は、大坂城で火災に遭った「新田肩衝」に似ています。内側は口の縁に釉薬がかかっており、荒い轆轤(ろくろ)の目が回っていて、底の中央の渦巻きのあたりに、糸切り(ろくろから切り離す糸の跡)のような細い筋が見られるのは、他の茶入には類を見ない珍しい特徴です。

【原文】

勢高肩衝

漢作 大名物 男爵 藤田平太郎氏 藏

名稱
茶入の丈け高きが故に、勢高といへるなるべし。

寸法
高 貳寸九分貳厘
胴徑 貳寸參分六厘
口徑 壹寸四分
底徑 壹寸四分又壹寸參分五厘
甑高 貳分
肩幅 參分
重量 貳拾九匁四分

附屬物
一 蓋 一枚 象
一 御物袋  羽二重(「せいたか」としるしあり)
一 袋 二ツ
朱座裂 裏 玉虫
緒 すがり紫
白茶廣東 裏 玉虫
緒 つがり紫
一 挽家 黒塗 藤重作
袋 黒天鵞絨 裏 玉虫
緒 つがり紫
一 内箱 桐 白木 書付 猗蘭(本多忠純)
勢高 肩衝
一 中箱 桐 白木 書付 本多宗範
表 勢高
裏 勢高 古織所持
享保廿壹年正月三日拜領
一 外箱 桐 白木
勢高
袋 茶革
一 添盆 四方盆 内朱綠燕口靑漆
方六寸五分  底方五寸二分
底に朱漆にて「流芳 / 千載」の書付あり
箱 桐 白木  書付 本多猗蘭
内朱綠燕口 勢高 / 四方盆
一 添掛物 一幅  宗旦の文
卯月十七日宗受あて道具組合の中せいたか織部所持云々の語あり
一 總箱 唐物 挾箱仕立 蓋朱塗胴黒塗

雜記
山岡宗無 堺の人住吉屋吉左衞門といふ、實は松永彈正久秀の子、太閤に仕へ、四百石を領す、茶事を知り利休、宗久、宗及と名を齊ふす、本所に柴泉寺を抱め、春屋和尚を請して第一世とす、紫野安室和尚は宗無の子なり。家に名器の茶入を藏す、勢高と稱す。
(茶人大系圖)

永祿十年卯正月九日朝 住吉屋宗無會
宗及  一人
一 風爐 小板 小釣物 茶立候時 / 手桶せいか水下
一 床 長盆にせいたかかたつき袋に入れて一ツ
せい高かたつき拜見申候、かたつき、高き肩つき也、なだれ二筋あり、壺の左の方のなだれ下までさがり申候、下にてなだれの色變り申候也、二筋のなだれのあひにあかき色藥有之、惣別藥荒めに見へ申候、土紫をふくみたるやうなる事はなく候、口作薄く候也、捻返し少しあり、藥内口廻りたる也、肩にかゝりたる藥、面の方は黒く候也、下藥の色にうすく候也、惣別壺後の方一段きれいに見へ申候、なだれゆがみ申候也。
(津田宗及茶湯日記)

セイカウ / 勢高 住吉屋宗無所持、竪二寸九分、横二寸三分ニ強シ、廻り七寸四分、底一寸四分、口一寸四分半、同竪二分半、膨一寸五分、茶入圖あり。
(萬寶全書)

せいたか 内大臣信長公。
(天正名物記)

せいたかかたつき 信長惣見院御最期之時、於本能寺火に入候。
(讀群書類從本茶器名物集)

勢高肩衝 信長公御最期の時、於本能寺火に入り失申候。
(山上宗二之記)

丹羽五郎左衞門長重の直筆の書に、古田織部かたへ十月四日、口切に參りし道具付に、釜、蘆屋、爐緣、木地、せい高の茶入、袋なしとあり。
(速水宗達著喫茶明月集)

慶長六年十一月廿日晝 古田織部殿へ
最福院 關才次 久好 三人
生高肩衝御開 座敷三疊 大床柱栗
床に利休の文、軸脇に生高、四方盆、袋龜の甲の純子、緒こい茶。掛物はなみだをながし申、壺ハ進申間敷云々の文也(略)。生高なだれ三つあり、中長くながるゝ、帶二つあり、へき土なり、高二寸九分程、まはり七寸四五分、口底一寸四五分。
(松屋日記)

慶長八年二月二十三日 古田織部會
客 北條美濃 土方丹波 別所豊後
一 床 唐津花入 白桃ぼけ入
一 茶入 せい高 こかげ色の袋に入
一 茶碗 今黒燒
(古田織部茶會記)

慶長八年五月二十四日 古田織部茶會
客 山本新五左衞門 佐藤駿河 牧野助右衞門
一 床 一山墨蹟
一 茶入 せい高 純子袋に入
一 茶碗 からつ
(古田織部茶會記)

慶長八年十月四日朝
金森法印 彈正殿 舟越殿 猪飼殿
鮭やきもの、ゆみそ引而、なます香物、茶くわし栗の粉餅、ひゝたけ、だゝき牛房、ぬりあかしうち汁かき、後にくきな入。
一 床 春屋和尚墨蹟 棚 鎖 羽箒
手水
一 床 土の花入に梅
一 水指 唐津燒
一 茶入 せい高 龜甲袋に入
一 茶碗 唐津燒
一 うす茶 掃部殿棗
(宮内省本、小古茶湯日記)

慶長八年十二月十八日 古田織部茶會
客 金森出雲守 伊藤掃部 奥山大膳 野村三十郎
一 床に 籠 水仙 梅入
一 茶入 せい高 萌黄袋に入
一 水指 びせん
(古田織部茶會記)

山の井の由來は、金森出雲守物語に、飛驒の國中小壺を狩て取寄せ見れば、抑も美事なる瀬戸肩衝を取て秘藏申候と、咄有之、此茶入、今の越中殿に有之名を出雲肩衝と云ふなり。右の咄尤の中にて、豐前一國を小壺狩すれば云々(中略山井 / 肩衝參照)、此茶入名を人生と付るなり、人生七十古來稀と云古事にて付たれども、今は山の井と云ふ、淺くともよしや又汲む人もあらし我に事足る山の井の水、此歌にて御付候と物語被成候、汲む我に事足ると云ふ心、唐を不持に、瀬戸ばかりを秘藏してもいかに候間、唐を持、唐よりも秘藏すれば能候間、古織に生高を御もらい候得ば、金子二千枚被下候はゞ進上可申と返事なり、今迄は二千枚といふこと、遂に不聞と御申候得ば、金千枚と山ノ井を千枚に被下候へとの事なれば、是不聞候、生高肩衝の所望も山ノ井の爲なるに、夫は不成事と御申候由、色々御物語有之候。
(松屋日記及び松屋筆記)

古田織部正重勝家財闕所被仰付、茶具御直々御覽、俊成定家兩筆、寧一山の一行物、南浦一体等、其外丹靑墨蹟あまた有之、織部秘藏せし茶具の中、勢高の肩衝は將軍家へ遣はされ、寧一山の正法眼藏涅槃妙心の一行懸物は、宰相頼宣拜領なり、此一行物表具上下淺黄紙、中大内ひし、白木軸なり。
又云、古田織部、利休居士の後は茶道天下に第一の名あり(略)掛物は一山一寧の正法眼藏涅槃妙心の一行物、辻堂の瀬戸の茶入新身伊賀の水さしにて、道具を取そへ候事も無之候、茶入と袋を二つ三つ出しおき、是は取かへ\/致され候、後辻堂の茶入は外へもらはれて、漢物の肩衝せい高と號す、是一つにて茶湯いたされ候、織部切腹の後闕所になり、寧一山の一行の掛物も、せい高の茶入も、台德院樣へ上る。寧一山は南龍院樣(紀伊 / 藩祖)に進せられ、南龍院樣より左京大夫頼純主へ進せられ候なり。
(武邊物語)

生高には古織殿蓋を二十三御引候て在之、蓋一つなこにては珍敷事無之候。
(松屋日記)

慶長二十年(元和改 / 元の年)六月二十日の條
幕下渡御于二條城、御所暫御密談、其後古田織部所持肩衝號勢高、被進幕下云々。
(後藤庄三郎著駿府政事録)

勢高 袋珠光どんす、きく唐草。 一番長持。
(御數寄御道具台帳)

寛永四年六月二十五日 西丸山里の御數寄屋に於て、尾張大納言義直、水戸中納言頼房二卿に御茶を賜ふ、御相伴藤堂和泉守高虎。
一 御かけもの 北礀
一 御茶入 勢高
一 御茶碗 創高臺 藤堂高虎獻す
一 御花入 都かへり
(東武實録)

寛永五年三月二十二日 西丸御數寄屋に於て御茶玉ふ。
蜂須賀蓬庵  丹波長重  加藤嘉明
加藤明成   松平忠昌  松平直政
松平直基   松平直久  延壽院
一 御かけもの 寒翁
一 御茶入 勢高
一 御茶碗 紀三井寺
一 御花入 都かへり 花藤椿
(東武實録)

寛永巳(十八年)霜月八日に、舟越伊豫守又其後片桐石見守兩日に手前仰付られ候。
一 御掛もの 無準筆 歸雲の二字
一 御茶入 せい高 袋かんとう
一 御茶碗 竹庵 三島
一 御花入 大そろり
(櫻山一有筆記)

御城にて御虫干の時堀田加賀殿宗甫へ申され候は、御茶入の内望み次第下さるならば、何を拜領可有之かと御申候へば、セイタカを望み候由、又其後に佐久間將監殿參られ候へば、右の如く加賀殿御申候、將監殿も、宗甫御申候通に申され候由、水野豫州其座にて聞き申され候通に候。
(宗友記)

寛文五年十一月八日 今日於御墨書院御圍御茶湯被仰付御茶湯手前、船越伊豫守。
一 御掛物 歸雲二字 無準筆
一 御花入 大曾呂利 花ぼけ
一 御茶入 勢高 袋かんこう 盆に不載
一 御茶碗 刷毛目高麗
(德川家御茶會之記)

一 勢たか 御茶入(幕府 / 所持)朱書入 古織所持、元和元年六月廿日大御所樣より將軍樣へ被遣候、寛文の頃、神戸本多宗範拜領。
(玩貨名物記)

勢高 火に逢ふ、土黒め、鼠黒藥、へらおこし、重目二十九匁三分、高二寸九分三リン、横二寸三分八リン、口一寸四分半、底一寸三分六リン、こしき二分半(茶入圖あり)。
(名物記)

勢高 重さ廿九匁三分、横二寸三分八厘、口一寸四分半、底一寸三分六厘、甑二分半、火に逢ふ、へらおこし、土黒め、よすみ黒藥。
(蜂庵文庫甲第十三號)

勢高 漢なり、新田不動、玉堂、棚村と同時代なり。又新田及不動とは同手同藥立なり。瀬戸の平野、山の井、生駒とも同藥立なり。
(不昧公著瀬戸陶器濫觴)

大名物勢高肩衝 明治二十三年四月廿二日靑山本多樣にて拜見申候。神戸本多樣御所藏の由なり。箆起土黒め、鼠黒藥但し火に逢ふものなり、至て口作形宜しく、惣黑景燒けたる故に藥ちぢれ土かはき、ワレ繕ひあり、寸法三册物に有之通り。御物袋白絹つがり、替袋一ッ色替日野漢東織留うら琥珀、挽家黑塗袋天鵞絨内箱箱付「勢高 肩衝」、筆者不知外箱本多宗範侯筆表「勢高」、裏勢高 古織所持 享保廿一正月三日拜領(茶入圖あり)。
(蜂庵文庫藏異本名物記)

傳來
元堺の人住吉屋山岡宗無所持にして、織田信長に傳はり、本能寺の亂に火に逢へりと言ひ傳ふ、其後古田織部正重勝之を所持せし時、細川三齋之を所望して相談整はざりし事、松屋日記等に見えたり。然るに元和元年六月、織部自刃して、此茶入は幕府の物となり、屡々將軍家の茶事に使用せられたること、前掲雜記に詳かなり。又宗友記に、幕府の道具曝涼の際、堀田加賀守が小堀遠州に、御道具中望み次第賜はるべしとあらば何を拜領せらるゝやと問ひたるに、遠州答へて勢高なりといひ、更に佐久間將監に問へば是れも亦同返答なりしとの逸話を載せたり。ともあれ此茶入が現状の如く本能寺に於て燒け居たりとせば、此問答あるべき筈なし。左すれば其火災に遭ひたるは、此時以後の事ならんか。享保廿一年正月三日、勢州神戸の城主本多忠純(號猗蘭)將軍吉宗より之を拜領し、爾來本多家傳へられしが、近年同家より出でゝ藤田男の手に這りたりとなり。

實見記
大正九年五月十七日、大阪市北區網島藤田平太郎男邸に於て實見す。
口作括り返し深く、緣尖り、甑低く、肩衝き丈高くして、腰以下稍窄まる。裾に鐵氣色の土を見せ、底板起しなり。總體黑飴釉にて、一度火中に入りたる者と覺しく、大破損漆繕ひ縱横に襷を掛けたるが如し。隨て地釉潰壞して景色鮮明ならず、唯肩先よりなだれたる黑飴釉盆附に至りて止まり、裾廻りに靑鼠色釉殘り居るは、大阪城にて火に遭ひたる彼の新田肩衝に相似たり、内部口緣釉掛り、轆轤目荒く繞り、底中央渦卷の邊に於て、絲切などに見るが如き細き筋あるは他に其比類を見ざる所なり。

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