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鶴田 純久の章 お話

漢作 大名物 公爵 德川家達氏藏

名稱
山岡景友號道阿彌が所持せしに依りて此名あり、此名あり、君臣言行祿に「山岡景友は初め三井寺光淨院の住持たり、名を暹慶といひしが、還俗して八郎右衛門景政と云ひ。後景友に改む」とあり。藩翰譜には「伴大納言善男の末孫なり」とせり、始め秀吉に仕へて備前守と稱す、後家康に従ひ關原役に戰功あり、慶長の初入道して道阿彌と號す。慶長八年十月三日家康道阿彌の伏見の家に臨んで、終日数を盡し、其子景本に常陸古渡一萬石を賜ふ、九年十二月二十日六十二歳にて卒す。

寸法
高 貳寸六分五厘
胴徑 貳寸四分
口徑 壹寸參分五厘
底徑 壹寸五分
甑高 參分
肩幅 四分
重量 貳拾九匆貳分

附屬物
一蓋 一枚 窠
一御物袋 白羽二重 精白
一袋 二つ
雲鶴純子 裏海氣 緒つがり紫
道阿彌廣東 裏上代海氣 緒つがり紫
一挽家 黑塗
道阿彌 金粉字形
袋 萌黃花唐草紋純子 裏紅縞海氣 緒つがり茶
一內箱 桐 白木
道阿彌 裏萌黄海氣 緒つがり紫
一外箱 黑塗 金粉字形
道阿彌 肩衝

雜記
道阿彌肩街 漢作 櫻田御殿より、高二寸六分五厘、胴二寸四分、口一寸三分五厘、肩二寸五分、底一寸四分五厘 又五分の所もあり、袋二、雲鶴純子 裏海氣、道阿彌漢東 裏海氣。御物袋白羽二重 赭白。蓋象牙一寸五分。挽家黑塗「道阿彌」と金粉宇形。袋、薄萠黃紋純子 裏紅搞海氣緒つがり茶。箱桐白木。外箱金粉字形。惣體上作上品にして地色あり、釉星の如く絞あり、前の星肩衝に似たり(茶入圖あり)。(德川家所蔵 御道具書畫目錄)
道阿彌肩衝 漢 大名物 御物 南部山城上る。九肩にて金氣だまり所々にあり、時代若し、出来かはり物なり。 (鱗凰龜龍)
山岡景友 道阿彌 慶長五年十月、小野木縫殿助公卿が籠れる丹波國福知山の城を攻めしめらるゝに及び、道阿彌命を受けて其地に至り、浄土寺に於て公卿をして自殺せしめ、又國中の餘當を誅して擾亂を靜む、東照宮之を賞せられ、肩衝の茶入 後之を道阿彌肩衝といふを賜ふ。 (寛政重修諸家譜)
道阿彌肩衝 南部山城守。 (古名物記)
道阿彌 南部美殿。 (東山御物内別帳)
道阿彌 南部山城殿 朱書入 上ル牧野佐渡守へ被下又上り申候、甲府殿より大膳大夫へ被下候。 (幕庵文庫本、玩貨名物記)
道阿彌肩衝 唐物 大名物 南部山城守。 (古今名物類聚)
南部利直 信濃守 關原役に功あり、慶長十五年三月駿府に赴き東照宮に謁し、道阿彌肩衝の茶入を賜はり、且つ此茶入を以て茶を獻るべき旨仰を蒙り、同十六年十一月夜、御茶を獻ず、元和九年八月十八日歿す。年五十七室は蒲生氏郷の女。(寛政重修諸家譜)
南部重直 山城守利直の子 元和九年十月遺領を継ぐ、十一月朔日父の遺物一文字の刀、及道阿彌肩衝の茶入を獻ず六日始めて城地に行くの暇をたまひ、先きに奉りし茶入を恩賜せらる。 (寛政重修諸家譜)
南部重信 大膳大夫 寛文四年十二月六日、兄重直子なきにより其養子となる十五日初めて嚴有院殿に謁し兄重直が遺物備前吉房の刀、及道阿彌肩衝の茶入を献ず。 (寛政重修諸家譜)
牧野親成 佐渡守號哲山 寛文五年三月二十八日参府し、職を辭するを諦ひて允されず、懸命あり、御手づから道阿彌肩衝の茶入を賜ふ、延寶元年九月二十九日致仕し、十月十三日得物左文字の刀及道阿彌肩衝の茶入を獻す。 (寛政重修諸家譜)
延寶元年十月十三日に、牧野因幡守家督の御禮として、金十枚時服六を獻上、同佐渡守(親成)隠居の御禮として、金馬代、御刀左文字 代金廿五枚、道阿彌肩衝を差上る。 (玉露叢)
延寶八年五月十四日暮六時御尊骸、北跳橋より御出棺東叡山に被爲入。
御遺物 徳松殿へ
金森正宗 代金三百枚
御掛物
御茶入 道阿彌肩衝
(淡海繽篇)
嚴有院御物覺
甲府楼へ
御腰物 代金三百枚 中務正宗
御掛物 印月江
御茶入 道阿彌肩衝 (牧笛類叢)
延寶八年六月二十九日、上使にて御遺物を遺さる所謂甲府中將殿へ、御腰物中務正宗 代金三百枚、御掛物印月江、御茶入道阿彌肩衡。 (玉露漿)
道阿彌肩衝 嚴有院樣御遺物、櫻田御殿。袋二、木綿廣東、花色雲龍純子。蓋一枚。 (上御道具)

傳來
初め徳川家康所持にして、慶長五年之を山岡備前守道阿彌に賜ふ、是より道阿彌肩衝の名あり、道阿彌歿後又家康の手に返り、慶長十五年三月之を南部信濃守利直に賜ふ、是より南部家三代の間、幕府との間に授受ありし事、寛政重修諸家譜に審かなり、寛文五年三月二十八日牧野佐渡守親成將軍に謁し、病の故を以て京都所司代を辭せども允されず、却て此道阿彌肩衝を拝領せしが、延寶元年十月致任の際、改めて之を幕府に還納せり、其後延寶八年六月二十九日甲府候德松將軍家綱の遺物として之を受け、寛永六年侯の入りて将軍職を襲ぐに及んで、此茶入も同時に幕府の物となり、傳へて以て今日に及べり。

實見記
大正七年十一月八日、東京府下駄ヶ谷徳川家達公邸に於て實見す。
漢肩衝茶入としては稍締りたる方なり、手取軽く、口縁拈り返し薄く甑際に一線を繞らし、胴にも亦沈筋一本あり、肩より胴に掛けて數點の煎餅膨れあり、肩先より瀧の如く掛りたる飴色釉なだれは、裾の邊に至りて 次第に窄まり、末は蛇蝎釉をへて盆附までだらだらと流れ、露先厚く玉を成す。此外茶入全面に白鼠釉が浮きて飛び交ふやうなるは、此茶入の特色にして、景色面白き事言はん方なし。裾以下は黒ずみたる鼠色土を見せ、底は板起しにて、全面ピカピカと磨り減せり、大寂物にて、此茶入に依り其所藏者山岡道阿彌の茶風をも推禁する事を得べし。

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