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鶴田 純久の章 お話

漢作 大名物 一名 住吉肩衝
侯爵 徳川義親氏藏

名稱
住吉屋山岡宗無が所持せしに依りて宗無肩衝といひ、或は住吉肩衝とも云へり。古今茶人系譜に「山岡宗無は堺住吉屋吉左衛門といふ、質は松永弾正久秀の子なりと云ふ、太閤秀吉公に仕へ、四百石を領す、宗易、宗久、宗吸と名を齊うし、藥泉寺を本府に剏む、春屋國師を請ふて第一世とす、紫野安室和尚は宗無の子なり」とあり。茶事集覧に「住吉屋宗無は古風にて真手なる茶人なり、たとへば此茶入は此茶盌この水指と、日頃は吟味ありて定めおき、飾おき合も常住一様にせられし、扨其日其夜の興によりて、一段思入深かりけり。人によりては宗無は茶湯しめり過ぎてしといへるもありき、されど休居士は譽められしなり」とあり。

寸法
高 戴寸九分八厘
胴徑 貳寸七分貳厘
口徑 壹寸四分五厘
底徑 壹寸五分五厘
甑高 參分强
肩幅 五分
重量 四拾參匁

附屬物
一蓋 一枚 窠
一御物袋 白縮緬
一袋 二つ
茶地角龍金欄 裏玉虫 緒つがり紫
納戶地丸龍純子 裏玉虫 緒つがり紫
一袋箱 桐 金粉銘 鐶付金具銀梅之花
一挽家 花琳 額彫 金粉字形
宗無肩衝 袋 蜀紅錦片身替 片黄地 片青地
一内箱 桐 白木 金粉字形
宗無肩衝
一外箱 黒塗 金粉字形
宗無肩衝

雜記
永祿七年十二月八日朝 住吉屋宗無會
宗達 宗久
爐じやうばり 細くさり 床 かたつき
右壺は面なだれ二筋あり、一筋は中程まであり、一筋は底まであり、かけ出候、藥面のかたより出候、なだれの露先通りてゆがみとなり、裾細そにあり、地藥黒み候か、口の内へは上藥かゝらず、上藥黒くあり、惣じて土あらく、惣ての地藥の心ある也。 (津田宗及茶湯日記)

天正二十年十一月十七日晝 名護屋にて
住吉屋宗無御會 宗湛 一人
三疊敷の内、一疊は上段にして、一枚障子くぐり無し云々つり棚には肩衝、袋に入れて云々。
肩衝は藥黒く濃くかかる、土靑めに黒く、口付の筋一つ、藥くゝみてかゝる、土の間一二分程なだれ無し、そゝろ高池、袋はケウロク純子、緒あさぎ、形に委あり、底はつくりかけ也。 (宗湛日記)
文祿二年正月十七日畫 なごやにて
宗無御會 宗湛 一人
三疊半(中略)手水の間に肩衝、袋に入て云々。
肩衝は口付筋一つ、高大にして胴張る、藥濃く黒し、土の間二三分、底つくりかけ、蓋新なり、つくは柿のへた也、袋は純子小紋から草也、緒つがり紫也。 (宗湛日記)
宗む肩つき 佐竹修理殿。 (玩貨名物記)
宗む肩衝 唐物 大名物 佐竹修理大夫。 (古今名物類聚)
宗無 大名物 佐竹修理大夫殿。 (鱗凰龜龍)
佐竹義隆 修理大夫 慶長四年生る、寛永十年二月二十日遺領を継ぎ、三月二十八日襲封を謝す、此日父(義宣)の遺物、住吉肩衝の茶入、籠の花入及長光の刀を獻ず、五月八日始めて入園の暇をたまひ、先きに奉りし住吉肩衝の茶入を恩賜あり。 (寛政重修諸家譜)
佐竹義處 右京大夫 寛永十四年生る、寛文十二年二月廿一日襲封を謝す。此日父(修理大夫義隆)の遺物、利恆の太刀、備前長光の刀、及宗無肩衝の茶入を獻ず。元禄十六年六月二十四日、横手に歿す、年六十七。室は松平出羽守直政が女。 (寛政重修諸家譜)
寛文十二年二月二十一日佐竹修理大夫の遺物としては、公方家へ御刀長先代金廿三枚 御茶入宗無肩衝御臺所へ御屏風一雙 雪村筆代銀五十枚 を獻上す。 (玉露叢)
綱吉公御遺物 尾張中納言殿へ
御脇差 一庵正宗 代金二百枚
御茶入 宗無肩衝
御使 土屋相模守
(天野信景著監尻)
代國
枚事

傳來
元堺の人住吉屋山岡宗無所持いして、永禄天正文祿の頃宗無茶會に使用せられたること、前掲雑記中に見ゆ。其後佐竹義宣の所有となり、寛永十年二月其子義隆、襲封御禮の時、父の遺物として之を幕府に獻せしが、五月八日入園の暇を乞ふに當り、改めて幕府より之を賜はる、寛文十二年二月廿一日義隆の子義處、襲封御禮に父の遺物として再び之を將單家綱に獻ぜしに、寶永六年正月綱吉し薨後、其遺物として更に之を尾張中納言に腸はり、爾来傳へて同家の重賣たり。

實見記
大正八年六月五日、名古屋市東區大會根町徳川義親侯邸に於て實見す。
總體黒飴釉の中に共釉ナダレ裾土際まで掛りて釉溜稍厚し、貫乳又はヒビ割れ全面に亙り、黒飴濃厚なるが爲め、痕跡分明ならざれごも、大統漆ひ無數なり、裾以下朱泥土にて釉止り高低不同、而して底縁一方小高く、絲切極めて鮮明にして、其起點に火割れあり、口縁先の蛤刄稍尖り、飯高く下張り、其周園に於て茶入約半分を廻れる一筋あり、肩衝廂狀を成せり、内部甑廻り釉掛り、以下轆轤輪廻して底中央に渦形あり、濃厚なる朱泥色の土味、他の漢茶入中稀に見る所にして、氣象雄大、桃山時代茶人に相應したる茶入と見受けらる。

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