高さ:7.0~7.3cm
口径12.2cm
高台外径:4.5cm
同高さ:0.7cm
紀州徳川家伝来のこの灰被天目は、伝えによれば、徳川家康の所持で、駿河御分物として、紀州徳川家に入ったといわれています。しかしそれは、判然としたものではなく、あるいは『玩貨名物記』に、幕府の什物として、しるされている「はいかつき御天目」に当たるものかもしれません。ちなみに、『玩貨名物記』には、次の十一碗があげられています。
はいかつき御天目(幕府什物)
はいかつき堺油や浄祐所持(尾張様)
はいかつき松平肥前様(前田家)
はいかつき同
はいかつき松平陸奥殿(伊達家)
はいかつき同
はいかつき毛利甲斐殿
はいかつき小堀大膳殿
はいかつき堺はXや九郎左衛門
せきやう(夕陽)南都東大寺しせう坊
にじ(虹)同
『玩貨名物記』が上梓されいあ、万治三年(1660)に知られていた灰被天目は、以上ですが、この茶碗が、いつごろ幕府から紀州徳川家に移ったかは、判然としません。『玩貨名物記』は、遠州時代、すなわち元和、寛永の間の消息をもとにして、編集したものであり、したがって上梓されたときに、はたして記載どおりの所持であったか、判然としません。
管見の灰被天目のなかでは、形姿・釉調とも、最も品格の高いもののように思われますが、この種の灰被が、室町時代の末期、天文ごろ、すなわち紹鴎時代から賞玩されるに至ったことは、佗び茶が次第に深まりゆく過渡期の好みが、そのまま象徴されているようで、まことに興味深いです。上鉄分の多い黒い素地は、建盞と似てはいますが、同胎ではありません。おそらく福建あたりに、この種の天目を焼いた窯が、別にあったのでしょう。『茶器目利聞書』では、灰被を瀬戸の産としているがヽ瀬戸とは判じがたい・腰のあたりまでかかった釉は、二重がけで、裾まわりに黄みが現れ、上の黒い釉膚には、銀色の光芒と、一部に紫みの景が現れています。
かにも紹鴎好みというにふさわしい、佗びた、趣の深い名碗です。
高台から腰まわりにかけての、削りあとは独特で、ことに高台内の削り込みが、建盞と違つて、曲面をなしているのがこの種の茶碗の特色です。覆輪は銀覆輪。
溜め塗りの曲の内箱に納まり、桐中箱の蓋表に「はひかつき天目」の字が墨書きされていますが、筆者は不詳。外箱は黒漆塗りに、金粉字形で書き付けられています。白羽二重の袋に納まり、別に金欄の袋が添っています。
「大正名器鑑」には、灰被が九碗収載されていますが、この茶碗は所載されていません。紀州徳川家からは、昭和二年四月の同家入札の節に出たものですが、その後の伝来は、つまびらかでなく、太平洋戦争後、現所持者の所蔵となっています。