佐賀系 大川内窯

肥前陶滋史考
Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

唐人町
 戦役の際、我鍋島軍に従ひ来りし韓人の一團にして、佐嘉城下に来りし者百八十人と云ひ、或はたゞの三十人といはれ、其確數に於いては誰ならざるも、今の佐賀驛通りの土橋附近が、其住居の遺跡なりしが如く、今に唐人町なる名稱が傅へられてゐる。凡て當時韓人の一行が來住せし處は、唐津、平戸及び諫早を始め、何れも唐人町、又は高麗町などゝ云ふ町名が残されてゐる。

達宗歡
 佐嘉唐人町の由来に就いては別説ありて、最初の朝鮮役より六年以前、天正十五年(1587年)に於いて、韓人達宗歡なる者、筑前の沿岸に漂泊し、後四年を経て、鍋島氏の重臣龍造寺家晴(諫早邑主)成宮茂安等に伴はれて、佐嘉城下に來住せしより、此處を唐人町と稱せりとあり、斯くて子孫代々藩用の荒物及唐物屋職として、歴代世襲せる由にて、共由緒書なるもの次の如くである。

御用唐人町荒物唐物屋職御由緒之次第左の通
一元祖宗教儀(姓は達名は越字は宗吉州刺史賢の子半弓を能す)高麗國竹浦の陸川崎と申所の産に而文を學武を練(大明萬曆十五年「我天正十五年」)春三月中旬家族を引率し海濱に遊漁す俄に大風高波起り立漁船洋中吹流漂事日既に食盡き飢て爲死干時天道の助を得一小鯨船に飛込み是以て飢を抜け万里の波濤を凌き終に筑前黒崎の濱に主従七人漂着す所の漁夫集合して頻に揚陸食を興へ介抱す漸危難を逃れ仍而所の長宰官厨に訴官厨哀痛深かく衣食を賜り長宰の別業に止宿せしむ其内親戚家族を請段々死亡す宗歡獨り残りて悲歎紅涙に沈む漁夫等爲慰の或時は網を張或時は釣を垂れ鬱方を散ぜしむ干時日本天正十九年辛卯漁夫太蔵と申者案内に而太宰府に参籠して身の無事を祈る此時肥州の太守龍造寺の御親鄉龍造寺七郎左工門家晴様成富十右工門尉茂安樣御登阪御歸路の砌御参詣漂流の始末粗御聞届御用有之由に而官尉御届の上佐嘉御連歸家晴樣御舘被召置衣服並御扇子等被爲頂戴頓而被召連御登城直茂様へ御目見被仰付御の上意其後上々様方被爲御目渡難有奉存候且又段々御家老樣方御屋敷へ御介副御役人御附副罷上り候處何方様も珍敷朝鮮人と被仰御面談御手許近く被召寄候而種々御饗被下物等色々頂戴仕候然末直茂樣被爲召御直朝鮮八箇道の海陸嶮易人民の強弱其外御に付差圖申上候處於本國父母妻子あり哉又歸國の望有之哉御問尋に付有因忍夫而慈母早世仕未妻子の養無夢仕候且遙に洋海を隔漂流の某歸郷の難難斗日本神國因縁有之と相見候に付願は御慈悲を以御園の民と被成度奉願候處甚御感悅被遊候被仰下りて將軍太閤殿下朝鮮御征伐被仰出加藤清正一列御先手濛仰候然處異境の淵底御不案内に而御軍議難被爲御行届某儀生國事別候者に付至彼地諸御用の品々調献第一御軍中の儀不殘心底申上抛身命御奉公仕候樣追々御勝利の上は一際御褒美可被仰付と御意難有御請仕引取候事
一其後毎々御軍議御座候末席被召出御問潯事等不少候處一々奉申上就中朝鮮八箇道の見取繪圖御認候毎日出勤被仰候に付罷出八入箇道の山川嶮岨行程其外巨細に奉申上候事
附大小袴着用仕様被仰候に付家晴様より御大小一腰十右工門様より御袴被爲拜領着用出勤仕候尤被召抱候に付宗歡姓名在名を名字にして川崎清藏と名乗候樣被仰付難有奉存候事
一翌文祿元壬辰三月朔日朝鮮御陣御首途尤直茂樣には三月二十日より御馬廻り斗りに而國一九御乗船御引揚被遊御登駕宗歡儀御本船御側近く被召寄日夜朝鮮國の振合御乗船の砌も猶又御尋に候不殘心底奉申上候に付被遊御成悅候事
附り御首途の節拜領仕候韋威具足大小帶半弓所持御供仕候
一同月下旬朝鮮釜山海浦竹島へ御着船慶州道の五大將奉防之依之烈敷御合戰共末竹島と申處へ御放火奉敵者共不殘御切捨御手始御軍神御血祭被遊候某王城其外御案内仕於所々御合戰無絕間上様初め御軍勢御血戰絕言語候次第右御陣中御用の品々不少候所時々調献仕或は商人に相成敵の城内へ忍入敵の軍處強弱多寡兵糧玉藥等迄依御意掠取日夜抛身差働候事
一文禄三甲午正月太閤樣御朱印到來日本の諸軍勢
一先被召歸候由に而御供仕罷歸候事
附諸侯方始永陣に而至極御難澁殊に疾來病死の御向々不少段相聞一先御歸陣被仰此段内々承知仕候
一文祿五丙申大明日本の和議不調に付里て大軍朝鮮被差越候に付直茂様より御先に勝茂様伏見より御下向同十月二十日伊萬里より御出船に付未御若年殊に御不案内に付諸御用として宗儀御供被仰候に付随分を入御奉公仕候機蒙御意御請申上御供比候事
附凪本(勝本)に而御越年慶長二丁酉正月無御滯御渡海被成慶尚道金海竹島昌原の城に御入被成候
一直茂様にも追々被遊御渡海候處同三月太閤様御用に付又々御歸朝同七月始竹島昌原の城に於て御父子様御對顏 御互に御無事御悅被遊宗歡儀被爲召直茂様より永々忠勤神妙の段被遊御意御茶出御用被仰候依之唐焼のキビショウ奉献の候殊の外御吹聴被成燒物一通製作の御法等委敷御尋に付一々奉申上候處兎角御歸陣の節と被仰残御暇被下候に付御前を引取候事
一宗歡儀元來高麗の産に而日本朝鮮の言語好く通候に付御意日本衣服に相改彼國の製作衣裳を用ひ商人と御仕立所々の城郭忍入陣中當用の品々賣歩行敵方の謀計の次第は不及申軍勢の多剛弱兵糧の多少其外見積り御直に申上候様被仰付唐津(康津か)加羅山蔚山其外所々御合戦の敵方に忍入存分見聞仕候得共專朝鮮言語と申衣裳唐製着用仕候に付彼國の商人被見請候者無之併諸家の間人は数多被召捕切害候もの不少候尤南京城攻の節城中忍入罷在候大明の大將軍李移男より被見咎懐中穿鑿に逢候處日本の書簡致所持候に付稠敷責訊禁獄及數日不相晴既に可爲切害相究り候由内々承り付無是非場合に其夜銀鏡壹文番兵へ奥へ申欺獄屋を出御本陣直様被歸候眞に死を出候段御感悅被遊候事
一太閤殿下御病氣の末御他界被成候由に而慶長三戊戌十二月御歸陣の刻賊船數百艘奉慕候を御討散御引取同十二月筑前博多へ御着直様御登阪に付御供仕罷在り大阪京都其外に初而見物被仰付難有奉存候事
一慶長四己亥四月御暇に而直茂様御歸國御供仕罷歸候處唯今住居仕候場所へ居宅仕候様被仰付宗唐土産に付町號を唐人町御附被下御扶持(十人御扶持)被爲拜領朝鮮御陣中諸用物相調候御吉例を以御内外御用荒物唐物一手に相納御用屋職を以無退轉子孫相續致繁榮候様御意の赴家晴樣御書取御披露の上御印を以被爲戴冥加至極奉存候事
附町號唐人町より御附住居被仰付候儀宗歡儀高麗の産に而朝鮮御陣の刻厚盡忠節仕候儀永末に相顯れ候通難有御賢慮の赴家晴様を以被仰下候に付乍憚御同人様に而御奉申上候又手始並御參勤御往來共被爲渡御目御酒拜領被仰候に付御吉例を以キビショウ御茶出代々奉献候通被仰有之候
一前に書載候通キビショウ 御茶出奉献候砌陶器製作の儀御に付委奉申上置候處追々被遊御歸陣候段相決候に付御内々宗歡被爲召御歸陣の上爲御國產陶山御仕立被成度被思召上候依之右細工仕候者密々相機買連歸候道は無之哉と被仰含候に付吉州より西南に當り金山と申所へ南京細工方功者の共罷在候を八人日本渡來永住陶山革創の儀様々申し渡御國所の山々試燒仕に有田皿山三國一の細工土見當り燒立候以來御國第一の御寶産と相成候尤其内一人至熊山相果申候右の通陶山御仕立の基本は宗歡儀朝鮮より細工人連渡候に付日本名産と相成候御由緒の第御吟味の上珍敷家柄の譯を以慶長十六年辛亥年荒物燒物一職商賣被仰付其段市中御觸達に相365肥前陶磁史考成十四町の別當中承知の印形御取被下置の段々御高恩の程冥加に餘り候次第に付淇節被爲下置候御印の御墨附相副御扶持方の儀は差上地行御用屋職並右一職を以相續仕候事
一二代目川崎助工門儀寛永十五年戊寅島原切支丹御征伐の刻御軍勢被差越候に付出張被仰付御陣場罷越候所敵方より出候矢胸に立候共時圓鏡懐中に在り候故右圓鏡に矢當り助命仕御軍用の麻苧同縄蓆其外一切御用の品々尖に相納御辨相整候尤右圓鏡於御陣所燒相捨候由右助命仕候吉例を以手始圓鏡の儀乍丸焼相用候嘉例相成居其節の矢の根干今持傳來候事
一於御城御能御座候節は拜見被爲仰候飯とも被爲拝領成候に付去る文化四年卯九月御能の節跡方比竟拜見奉願候處元方御役福田庄藏様より被御達候は如先規拜見被仰候に付明六ッ時被出元〆方釣合候様尤御時節柄に付飯の儀は不差出段御相成爲拜見罷出候事
附御先代様御入部の翌年御能御座候節も如跡方拜見被仰付候又年始並御參勤御往來と被渡御目御酒拜領仕献上物の儀は吉例を以キビショウ 御茶出差上來候得共五代目勘四郎代唐渡無之に付三本入御扇子に被相替其後白麻(を原料として造せし白紙)に被召成尤轟木の儀は打追三本入御扇子名御披露に而被爲御目渡來候事
一巡見御上使御下向の刻は跡御用の品々諸納方は不及申御領中附廻り勤代々被爲仰付來候手代一人召連候へば二人前の旅籠雑用代被渡下偖又御用品長持入組に持運候に付長持二棹借物に被差出持夫八人被差出來候事
附寛政元年御下向の刻は七代目勘右工門へ被付跡方諸御用尖相勤候天保九年成年御下向の節も跡方の通相勤來候事
一文化十四丁丑松原御神社御再興の儀被仰出候代御重恩の家筋に付爲冥加唐金の御手水鉢奉献候儀奉願候處共通被仰付後見塘儀奉献候難有奉存候勿論前々より家筋御由緒の次第毎々御に付其時々御申上置候就中右手水鉢奉献奉願候刻尚又御由緒御尋に付太圖御達申上置候事
附去る寛政七年卯正月九日夜本宅並抱屋敷共類焼に逢抱屋敷の儀は火元近く諸御役所年々御用の品々買込商家に持廻罷在候不圖右の出火に付先以本は差置抱屋敷の方早速駈付相候得共以及焼失本宅の儀は火元よりは數軒相隔居候に付取片付猶豫仕抱屋敷を重に仕候處俄に風替り本宅へ飛火懸り裏行手狭有之候得共外に運出候向無之無余儀宗欺被爲下置候御書其外一番に持出置候處風並惡敷跡御用品並諸道具に火移り猛火烈敷持出置候長挿入替及燒失甚殘念千萬に奉存候依之數代連續仕來候御用屋職及潰候外無御座參ら懸に付格段御慈悲を以御拜借御救被下御蔭を以不相替御用屋職相勤罷在難有奉存其節及燒失候品々太圖書留相成居分左の通
一直茂様拾通勝茂様五通其外様より宗歡被爲下置御書貳拾參紙並拜領の韋威鎧壹兩敵方忍入候節懷中仕候九寸五分一鞘並南蠻鐵の鎧三兩朝鮮より持渡り重寶仕候事
一朝鮮御陣御首途の節八幡社天満宮御守錦袋入/被爲拜領候御守掛右同斷
一拝領の御上下に御衣裳に又上々様御家老様方より拝領仕候御紋服並御扇子御盃其外諸品々長持一棹右同斷
一直茂様より御用荒物唐物屋職御吉例を以代々被仰候段上意家晴様書取御披露の上御印の御書を以被爲下置候御書等箱入の儘右同断
一御由緒書の儀は箱割損と浸有之候へご見當り367肥前陶磁史考候に付早速板にひろけ干立候得共年久敷相成紙切れ損し剝取候儀不相叶に付無余儀其儘寫取候併紙ハラ仕飛散文字讀彙不行届甚以残念奉存候事
一宗歡日夜鍛練仕候半弓並征矢外高麗持渡來候品同断
一宗歡以來持渡來候家財諸道具一切皆以丸燒仕當惑千萬奉存候事
右の通に御座候 以上
天保十年寅六月 御用荒物屋勘四郎

以上の由緒書に依れば、宗歡は韓國八道の地理を明かにし、然も重要なる任務に當りたるは、戦役史上特筆すべき出来事なるに、従來嘗て其名前さ知られざしのみでなく、適々其思賞としても値に拾人扶持位に過ぎない。而して當人も亦之に甘んじるは、洵に気の毒に堪へない感がある。
 なほ唐人町の鏡圓寺に、彼の墓碑を訪ぬれば、川崎家の墓として、相當加工されたる石碑があり、蔦蔓覆ひ搦めるが、十基許り並んでゐる。そして一番右の端が宗歡の碑にて、明暦元年七月二十三日(1655年)として、了喜宗歡信士と記されてあり、並びて光月好泉信女とあるは其妻であらう。
 次に松原神社の門を潜れば、右側に口徑二尺五寸位にて、下は小さく朝顔形になりし青銅の手水鉢があり、それには文政元年寅年八月(1818年)御用荒物、唐物屋、唐人町川崎期四郎とまれてある。猶他に明治六年二月奉献の、青銅製狛犬の臺側に、三十三人の寄附人名を集まれあるが中に荒物屋四郎の名前があり、兎も角川崎家は當時有力なる商估なりしに相違ない。
 然れども前記由緒書の中に、有田の磁器創作者は、直茂の希望に基づき、宗歡に依って渡來されし云々の記事に至つては、其余りに大いなる疑團として、これを鵜呑にすることは識者として、甚だ苦しまざるを得ざるものがある。若し此説をして異なりとせば、舊來の有田史は勿論、佐嘉鍋島宗藩及多久藩の文献も、皆空に属すべき問題が生じて来る。
 蓋し從來此種の由緒書なるものは、當人より敷代以後の子孫に於いて、自己の祖先を装飾せんが爲めに他の功績まで書き加へて、以て後世に傳ふると共に、領主の厚遇を繼せんとの下心に外ならない。而して其證とすべき墨附や、或は系圖、武具の如きは、先づ○○の年の大火に會いて焼失されしことが、紋切形となつてゐる。
 抑々當時我肥前に渡來せし韓人につき、多人數少人数との兩説あるも、著者はまづ多數説に興みする者である。若し少數なりしならんには、彼等に対して今少しく優待せしなるべきも、共際第一の功労者たる李參平に對してさへ、甚僅少なる扶持に過ぎざりしが如く、他藩の領主が陶師を退せしに比して、大なる懸隔ありしことも、亦例證たるを失はず。故に唐人町の地名に就いても、宗歡一人の為に命名せしかは知らざるも、其居せし歸化韓人は、蓋し相當の人數なりしと見るべきであらう。

九山道清
 此際多くの韓人達は、日本軍の爲めに道案内をなし、或は糧秣の補給、其他の便宜を奥へしものなるが、蓋し自ら好んで成せしにあらず、多くは我軍に威嚇されて、止むを得ず其額使に従ひしものであらう。此時佐嘉へ歸化せし韓人中には醫道に造詣ある林一徳、林榮久父子があり双子孫は蓮池藩に仕へし竹場があり、或は醫藥に精通せし九山道清なる者ありて、後庄左工門と改め、城下に於て半兵衛更紗を織出したのである。
 中に直茂が、晋城より連歸りし少年の、後に能書家となりし洪浩然(同韓人淨珍と共に明暦三年藩主に殉死した)なども、其一人であつた。其他行李工あり、飴工あり、織工ありて、凡ての人数より見れば、陶工の数は余り多からざりしものゝ如く、藩は此内の一連れ七人を、今の佐賀郡金立村の朝熊山下に置くことゝ成った。蓋し此分布は、必ずしも陶工のみではなかつたのである。
 不老不死の薬草を求む 朝熊山(また玖摩山)乃ち金立山は、往古かの徐福一行中の徐林なる者、不老不死の霊薬を求めて、有明海より新北搦に上陸し、そして此地に來つて、探檢せしての傳説がある。(此處に如何なるものを求めしかは不明なるも、今馬兜鈴科に属する、黒蕗「細辛」と稱する薬草がある)又此地方は、古代の遺跡に富み古墳より曲玉などを見せしことがあり、殊に石鏃の多きところである。
 大陸民族が、漢韓方面より渡來せしものとすれば、地勢上まづ我肥前の如きは、最早くより其根據地たりしと見るも、穴誇張にあらざるべく。就中今の三養基郡一帶の九千部山下より、脊振、天山等の山麓には古代民の尻に棲息せしものであらう。殊に三養基郡麓村一帯と、基山村山麓、旭村安良.旭山、北茂安村宇土、白石、板部、中津隈、及上峯村さては中原村内於保里山より、神埼郡三田川地方に至るまで、無数の貝塚と合せ甕(彌生式土器)が發掘さることは、前段に述べし如くである。而してそれが天山麓より、上佐嘉に至るまで、古代民族の遺物が發見さるこ珍らしくない。

望郷の哀號
 斯くて此處に居を定められし韓人は、日を経るに従ひて、何れも望郷の念へ難く或者の如きは、哀號と泣哭して止まざるより直茂は之を憐れみて、藩中より特に漢詩を書くする者を遣はして、吟詠の相手となし、以て彼等を慰藉せしといはれてゐる。

金立の朝鮮墳
 此處の田甫の中に、朝鮮墳と稀して二基の自然石がある。一つは「逆修朝鮮國工政大王之孫金公之立石」と記し、右側に「寛永六年己巳道清定門」(1629年)「妻女同國金氏妙清禅定尼八月日」といへるのと、今一基は「曉月浮雲禅定門寛永五年戊辰九月初五日」と記されてある。此禅定門禅定尼といふ法號位は、禪宗にて特に身分高き人か、或は入禪悟道の歸依者にあらざれば、謚られぬ戒名位である。
 而して暁月の方は普通の墓碑なるも、金公夫婦の碑に逆修とあるは、當人の生前に於て逆め建立して、以て冥福を祈りし墓碑なるか、或は身は他郷に去りながら、故國の大小眷属の爲め此地の寺院に帰依して、共冥幅に建て置きしものなるべく、何れにせよ夫婦墓なれば、子供が先きに死去せる逆修にはあらざる如くである。

道清の墓
 又此設に道清の文字あるは、前記の九山道清の墓ならずやとの説あるも、此道清は、慶安四年七月二十日(1651年)卒去し、其墓碑は、前記唐人町の鏡圓寺にあるといはれてゐる。

黒土原の窯趾
 前記の如く、工政大王の孫など誇張的に戒名されてあるも、畢竟此墓主が製陶せしやも不明である。然し此一行中の何者かが、此地に開窯せしこと察せらるゝより、墓地より、七八丁を隔てし、其の窯跡といふ黒土原に至れば果して韓人の築窯すべき勾配ある山麓があり。其登り口なる柿の樹の下に埋もれて、頭部を少しく露はせる小窯の如き築造物がある。
 それは一見せしところ、奥行五尺位竪四尺位ありて、聞けば隣家の老人が、以前木炭を焼きしことある由にて、之を以て陶窯とは認め難い。其窖口の堅固なる石材の構へより推考して、ドルメンにはあらざるべきも、或は唐津の大島などにある如き、古代民族の穴居の跡を見るに相態はしい。猶此上部なる丘上が、窯跡らしき勾配であつた。要するに諸種の口碑を綜合して、兎も角此黒土原に於て製陶せことには相違ない。而して此處は二代藩主鍋島光茂の室が建立せし宗壽庵の遺跡であり、又葉隠の著者山本常朝の庵趾近くである。

韓人陶工移轉の理由
 韓人一行中の陶工は、此處の聖人嶽の麓なる黒き粘土を採掘して、製陶に従事せしところ、川久保邑主(此地は神代氏の宰邑)は、斯くては伐木の爲水源をせしめんことを憂ひ、宗藩にては、又共結果佐嘉城を見透かさるゝの不利なるを以て、此一行を他へ移轉せしめしの説あるも、斯くの如き理由は頗る薄弱にして信を措き難い。蓋し陶工以外の韓人には、此地に於いて終りを告げし者あり見るべく、それは前記墓碑年號の寛永五年(1628年)は、慶長三年(1598年)の渡來者として起算するも、既に此地に三十一年間を經過してゐるので、略之を推定することが出来る。

南天茶屋の兩器
 今其古窯品として、此處の南天茶屋にある、代赭地緣附獨樂形胴の花瓶(高尺二寸、口徑六寸五分、胴廻三尺一寸五分、十二三段の筋彫がらしてある)を見るに、暗黄釉の飛点がついており。別に暗黄釉の四方肩附並耳附の茶壺(高一尺二寸五分、口徑二寸五分、胴廻三尺四寸)があるのは、前の花瓶と同時に製作せしもの如く、そして茶壺施釉の際に花瓶へ飛釉せし如く見らるゝのである。此兩器こそ多くの探見者が、等しく黒土原焼の遺物ならんとするも、作風余りに調ひ過ぎて、之を短期の開窯作品と断言するには、頗る躊躇せざるを得ぬ。

荒砂交りの祝部土器
 依て其他を物色せしところ、朝鮮墓の傍より發掘せしといへる、四寸位の皿がある、是は青灰色の胎土の儘にて、全く施釉なく、然も荒砂交りのざらざら肌なる唐焼なるが裏部は丸底の儘にて高臺なく、全然手捻り細工の祝部土器ながら比較的硬度に焼締られてあった。
 此土器は、前記の南天茶屋の作品とは正反對に又余りに粗製品にて、今回各山にて探見せし肥前古窯中、第一と稱すべき元始的製品である。此塚物は或は前述せし穴居民族の遺品にあらざるやとの觀がある。然るに其後此中間程の製作品、乃ち例の灰色釉や飴釉にて、製せられし皿や茶碗などが、此處より發掘されしこさを聴き、それなる哉と首肯したのである。

成富彌六兵衛
 明治十年頃宗藩より、此黒土原に来りし成富彌六兵衛(今の甲子太郎の父)は、當時舊士族へ授産の目的を以て、昔時より由緒ある此黒土原焼に緣み、新たに製陶事業を目論見て之が企業見積り書を添附して、其筋へ願書を呈出せしも、士族の工業に陶磁器製造は突飛なりとて遂に中止するに至ったのである。
 記述は元へ戻り、此地の韓人陶工は、前に掲げし理由よりも、此處に適當なる原料を得ざるを以て、他郷に良土を求むべく、自發的に立去りしと見ることが妥當であらう。或は隣村川久保に移轉して、此地に開窯せしさの説をなすものあるも川久保の製品は、前記外編中に述べし如く、元祿時代創業されしといへる半磁器にて、既に日本化された練熟期の焼物である。

藤野川内説
 従来の史に從へば、藩は此金立の韓人陶工等を、松浦郡の藤野川内(元唐津領後鍋島領に属す、今西松浦郡松浦村山形の大字)に移轉せしめしいふのであつた。蓋し此地は秀吉の命にて名護屋陶窯の司たりし家永彦三郎の次子庄右工門が、高木瀬より轉じて、此處に製陶しつゝありし故を以てしかくいはれてゐる。此機に於いて少し彦三郎の記事を掲載するであらう。

家永方親のこと
 佐嘉郡高木瀬村瓦屋敷の陶師なる、家永彦三郎方親は、朝鮮役の折直茂に従ひ慶長元年(1596年)歸陣せしが、其際我軍の捕虜中に、範丘といへる陶工あるを見出して伴ひ帰り、名護屋城外白崎山に於いて陶器を造らしめたのである。

増田長盛の斡旋
 或時五奉行の一人増田右工門尉長盛(大和國郡山城主二十萬石)來り見て大いに之を賞し、秀吉亦来つて親しく之を見たのである。偶々正午食事の時刻なりしかば、方親は下僚に命じて提飯を作らしめ、之を自から製作せる雅器に載せて羞めしかば、大いに秀吉の意を得たといはれてゐる。
 斯くて長盛の斡旋にて、秀吉より種々の茶器製作を命ぜられ、同時に又徳川家康、前田利家、毛利輝元等へも贈進することゝした。之より名護屋城中方親の工名大いに擧り、再度の戦役には渡航を止められて、秀吉及諸將の用器を製作し、途に肥前燒物師の司たるべき朱印を得していふのである。 想ふに此製器は、最初範丘の手に成りしものにて、方親は丘に就いて大いに之を學び、其製技の眞諦を得せしものであらう。

田中吉政に招ぜらる
 慶長九年(1604年)田中兵部大輔吉政(慶長十四年(1609年)十二月十八日卒、六十八才)筑後(柳河城主)に封ぜらるゝや、直茂に乞うて、方親を領内に招じて開窯せしむるに至った。然るに幾許もなく家康より直茂に命じ、方親をして名護屋城當時の茶器を造らしむることゝなりしかば、方親父召還されて高木瀬に帰り、其器を製して家康に獻すること成った。

柳川炮烙
 後年方親が肥前焼物師の司を、弟右京之亮方俱に譲りて退隠せしことを聞き傅へ、吉政再び方親を招じて筑後焼物師の司となし、領地三潴郡蒲池村に居住せしめて土器を焼かしむるに至りしもの是が所謂柳川焼の始祖と稱せらる。其後の家永家略系次の如くである。

家永略系 美濃國恵那郡領主惠奈氏の後裔
家永方親 初代彦三郎柳河に住す
方俱 右京亮長右工門 髙木に住す
方也 二代彥三郎
庄工門 藤野川内に住す
方道 三代彥三郎
方幸 四代彥三郎
方重 五代利兵衛
方義 六代彥三郎
方滿 七代彥三郎
方信 八代彥三郎
方敬 九代彥三郎
方幸 十代彥三郎

慶闇尼の握飯
 前記の握飯の逸事に就ては、太闇と慶闇尼(龍造寺胤和の長女にて、隆信の生母であり、直茂の繼母である、慶長五年(1600年)三月朔日卒九十二才)の握飯及び高木宿土器作り御朱印の事さして、葉隠の中に左の如く記載されてゐる。

太閤様名護屋御在陣の處。川上川の下、名護屋渡しといふは、其の時の御渡し筋故申し候。其節見物仕り候者の話に、太閤は小男にて眼大に朱をさしたる如く顔の色手足迄赤く、花やかなる衣装にて足半(一種の草履、形は馬のくつの如くにて、人の足の裏の半ばまでなるもの)をはかれ、朱鞘金ののし附きの大小を差し、刀の鞘にも足半一足結びけ、馬上の御旅行にて、御供中駕籠に乗りたる衆一人もこれなく候。
此節慶間様御了簡にて、「在々より戸板を出し竹四本立て候て戸板を据ゑ、飯をかたく握り、土器に盛りならべ、尼寺通筋道端に出し置き候様に。」と仰付けられ候。太閤様御通り懸けに御覧なされ「これは龍造寺後家が働きなるべし食物なき道筋にて上下難義の心附け候事奇特なり。」と仰せられ、手に御取候て、「武邊の家は女まで斯様に心働き候、土器無類の物に候。」と仰せられ、名護屋迄土器作り召寄せられ、御朱印下され、今に持ち傳へ候由(高木土器屋は次男なり。御朱印所持の本家は筑後にあり)
御朱印寫
土器手際無比類於九州名護屋可爲司者也
天正二十年極月二十六日御朱印
土器師 家長彥三郎
 以上の記事がある。名護屋城外にての握飯も、或は此邊より生れしものにはあらざるか。次に當時の御朱印の如きは、其の陶技上の優秀なる鑑査よりも、寧ろ斯かる機会に於て、主宰者が賞興的に授けしものであらう。

藤野川内説の疑問
 而して方親の次男庄右工門が、藤野川内に製陶し居るに繰みての移轉説なるが、抑々藤野川内は椎の峯より里を隔てし谷地にて、此處より山形及中野原への通路があり、左へ出づれば提の川及久良木である。そして此處の古窯品は阿房の谷や芽の谷とても、全く唐津系の作品なることは、既に唐津編にて詳述せし如くにて、作風は勿論地理上より考へても、家永系への移轉は少しく無理が發生する。

山形假定
 斯く論じれば、金立韓人の一行が宙に迷ひ、従つて行方不明となる。然しながら彼等が、直ちに桃源地を漁り、彼の大川内の奥地へ入り込みしさは思はれぬ。此くの如く地理的から推考すれば、一旦山形方面に落着きて製陶し、而して後に、大川内の山奥へ移轉せしと見ることが安當であらう。
 元來大川内韓人の出嘘が又頗る不分明である。彼の稗史的の岩見重太郎の傳説なるものも、其終るところが詳でない。而して秀吉の小姓たりしといふ薄田隼人兼相の前半生が、又頗る不明なるより、茲に前記の重太郎傳を繼合はして、是が後傳せしものにはあらざるか、此筆法に傚ふが如きも、金立韓人の一行を一旦山形方面に來りしものなし、然る後に大川内へ轉任せしと假定し置き向後更に識者の研究に待つの外ない。

一の瀬と大川内
 蓋し現在通路の理論よりすれば、最初一の瀬山に開窯して、而して後に大川内山に入りしが如きも、且らく口碑に從ひて、大川内の韓人が一の瀬へ分窯せしことゝし、猶殘缺品の比較検討に依って判する外ない。大川内の古窯品には牧の襷谷、六本柳(正力坊の前)、權現谷、三本柳、御經石、二本柳古窯、二本柳新窯等があり。一の瀬には高麗神を最古とし、次に火の谷、古窯、新窯及東の谷等がある。

六本柳
 六本柳の古窯趾は、正力坊の前面川向ひの山畠にありて、殘缺には此處の青磁原料を使用せし、氷裂出の淡緑釉や薄茶釉、或は灰色釉なごの目積皿があり、又同手の大皿や茶碗などもある。中には前器の製品に描せるもありて、何れも無釉高台の丈低くき部厚なものと、そして稍薄きものとがある。

大川内の権現谷
 就中權現谷の窯に於いて盛んに製造せしものの如く、此の物原の殘缺が頗る多い。中に褐色や灰色胎土、又飴釉や淡緑釉の茶碗に、白化粧を施し、畫ともつかぬものを描せしものがあり、或は暗緑釉の茶碗や、蕎麥手の土瓶なども焼かれてゐる。

御經石
 御經石の古窯品には、茶碗や皿が多く概して小氷裂手の卵色釉にて、一見淡路焼の如く巧みに製せられ、細工の如きも頗る勝れてゐるのは、稍後代の開窯らしい、尤も高台部は凡べて無釉なるも、それには篆字にて、定の字や其他の文字が押印されてあり、そして裏底が二段削りになつてゐる。中には薄墨にて、山水を書きし小皿があり、又卵色には厚薄ありて、橙色を呈せるもある。或は桃色釉鐵描の茶碗に、同じく小氷裂手のものがある。

三本柳
 三本柳の窯趾は、清元さんを少しく登りしころにて、古窯品には、飴釉の中皿にて薄手高台の無釉物があり、白刷毛目の茶碗には、菊畫や網模様を描きしものがある。又此手の柳畫に御本が現れたのがあり或は青瓷の火入などもあるが、後代の製品は全く染附磁器ばかりである。

清元さん
 此隣に祀られてある清元さんとは、元来如何なる者なるか詳ならねど、(李參平のに東の原清元内云々がある)清元、又清玩或は單に玩の一字を銘せし立派な染附磁器が、南川原を始め、外尾や黒牟田方面に見ることが少なくない。もしや此ぐわんがげんに訛り、或は後世書變はりしにあらざるか。而して此清元は、南川原の住者にて、延寶三年(1675年)鍋島藩窯が南川原より此地に移轉せる頃に、或は來住せし者かも知れぬ。果して然らば磁器は清元の開窯であり、陶器は其以前韓人の開窯せしものであらう。
 而して此清元は、深く日蓮を信仰せしものゝ如く、此處の巖壁の自我經は、彼の手に依つて彫鐫されしさいはれてゐる。後年まで此前面に六畳敷程の御堂が建てありしも、今は既に廢滅に歸してゐる。

権現谷の韓人墓
 又前記の権現谷には韓人墓と稱するものが一基あり、それは屋根冠りの五尺許りなる平面碑にて、慈父道秋靈位寛文九年九月十九日(1669年)慈母妙住尼萬治三年八月十五日(1660年)させし夫婦墓にて、其子なる者が建立しものであらう。

二本柳の古窯
 擅殿の下なる二本柳の古窯が、大川内陶史の中心をなす、藩用三十三間の登趾である、此處の物原に、堆を成す磁器の殘缺には、民窯の破片ながら、流石に優秀なものが少なくない。

二本柳の新窯
 此處を少しく離れて、二本柳の新窯なる七、八間の壁跡がある。之は今より七十年前築窯せしといはれ、染附の下手物を焼いてゐる。殘缺には着け葉菊畫のゆり形の小皿や、リンボウ線描着け葉牡丹の突立の丼などあるが、多くコバルトが混用されて、前の古窯に見る吳洲染附や、砧及天龍寺青磁などの優技は見ることを得ぬ。斯くて此新窯は、其後二十年許りにて廢窯されしいはれてゐる。
 最初大川内に来りし韓人は、此處の六本柳に於て質堅き茶褐色の斑点ある青磁の釉石を發見し之を探つて青瓷及氷裂焼等を製作しつゝあつた。蓋し此時代の青瓷と稱するは、勿論脆弱なる陶質に應用せしことは申すまでもない。後代に於いて始めて有田泉山の原石を素地として應用され、そして彼の名品鍋島青磁が製作されたものである。

六本柳の青磁料分析表
大川内青磁分析表
珪酸 72.35
礬土 16.34
酸化鐵 1.24
石灰 1.60
苦土 0.36
加里 3.58
曹達 3.25
灼熱減量 1.21
計 99.93
 北地に於けるアイヌ
 斯くて後代に及び、此大川内及び一の瀬の韓人系が、何れの方面に移轉せしか詳ならざるも、恰も彼の北地に於けるアイヌ種族の如く、本土人に壓せられて、湮滅せる觀がある。想ふに有田磁器の創製後は、筒江や板野川内方面に移りたらんも、後には又有田皿山へ轉住せし者多かりしと見るべきであらう。而して大川内に於いては、其後藩窯の盛時となりて、韓人の末葉などは、全く茲に忘却されしものらしく、兎も角大川内窯の沿革は、鍋島藩窯の歴史であり、そして其美術史である。此關係深き鍋島氏の本系圖左の如くにて、秀郷系なる太宰小貳の一族である。太宰の小貳とは、筑前、肥前、豊前、壹岐、對馬の守護職である。(鍋島本系圖参照)

藩祖直茂卒す
 元和四年(1618年)六月三日、佐賀藩鍋島加賀守直茂卒去した、行年八十一才であつた。彼は天文七年(1538年)十月二十日佐嘉郡本莊村なる、孫四郎清房の次男に生れし、智勇兼備の名將にて、龍造寺隆信は従兄弟同士であり、又義兄弟であつた。天文二十二年(1553年)十月十六才にして、小田政光の蓮池城に初陣せし以来、元亀元年(1570年)八月大友宗麟(義鎮)の軍を今山に奇襲し、八郎親秀を討取つて勇名を轟かし。晩年兩度の朝鮮役に至るまで、戰陣に臨むことに五十余回であつた。
 隆信卒去後政家は、肥前本領の内、佐嘉、小城、三根、神埼、杵島、藤津、松浦の七郡を領し、直茂は僅に養父(一萬六百石四斗七升)基肄(九千百二十二石一斗六升)の二郡を分領せしのみであつた。而して全領地を支配するに至りしは、其子勝茂よりにて、故に勝茂を初代と稀し、直茂を藩祖と稱する所以である。
 斯くの如く彼が多くの生涯は、隆信が九州征服の偉業に奉公せるの感があり、後年龍造寺の跡を継承せしも、治國の政務多端にして、城内へ御庭焼など試みる暇なかりしか、或は又陶器の製作には趣味あらざりしが如く、彼の李参平が始めて白磁を焼出せしに及んで、藩老多久氏をして保護獎脚をなさしめたのである。明治三十五年彼は特旨を以て従三位を贈られたのである。

平吉茂慶
 爰に直茂の朝鮮役に從ひ、慶尚道の敵軍と戦ふこと二ヶ年に及びし平吉刑部丞茂慶は其際炮創を蒙りし爲め、内地へ後送さるゝの止むを得なかつた。此時同伴せし韓人八名を、佐嘉郡の嘉瀬村に住居せしめ、各種の兵器及軍需品の調達と、之が輸送に努めしめたのである。

嘉瀬の製陶
 後年に及び彼は嘉瀬に於いて、川上大願寺の坏土を探り寄せ、前記の韓人をして、壺や徳利を焼かしめたのである。之が藩窯らしきものゝ始なるも、蓋し小規模のものなりしに相違ない。而して茂慶は七ヶ津の代官を勤め、又嘉瀬町三ヶ所の屋敷を領有した。斯くて慶長十年(16056年)五月三日卒去したのである。

川原小路
 朝鮮役の際、佐嘉城下に來任せし韓人中陶工ありて此處の川原小路に於いて製陶せし由傳へらるゝも、今其窯趾は奇麗に取拂はれて現在の招魂社と成つてゐる。其際取棄られし殘缺や、窯具類の棄場に就いては、今なほ疑問として残されてゐる。

西堀端の出土品
 今より二十四五年前に、市内西堀端の中央なる、舟木右馬之助宅の庭内にて、小藪の中に薯蕷蔓を見つけしかば、之を採る可く掘り始めしところ、土中より續々として、焼損じの陶器が出現した。中には頗る雅趣ある作品ありて、或者の如きは百個許りを所望して、之を千余圓に轉賣せしことがあり、當時は吾も吾もと求め合ひ、途には一個拾圓乃至拾五圓にて購はれたのである。
 それが勿論焼損じ物のみにて、そして同じ作品とては滅多にない。釉種は飴釉、栗釉、栗茶釉、青栗釉、薄灰色釉等であり、中には赤茶釉に海鼠を顯はせし窯變物がある。品種は概して七八寸より、三四寸位の徳利や花立が多く、何れも涙痕掛の施釉にて、下部は胎土を見せ、そして悉く糸切底に成つてゐるが稀には灰色釉にて、高台附の茶碗もある。又徳利の裏には十とか三とかの浮出銘あるのも少なくない。
 猶此處より四十個の煉瓦が掘出されしも、それは全然築窯の材料でなく、只殘缺のみが千個許り出土せしのみにて、別に一個の窯具さへ現出せざるは、此處が元來窯趾でなく、何れよりか運び棄てられ見る外ない。故に若しや前記の川原小路窯の殘缺が、當時此邊より、堀などに打られしにあらざるかを思はしむるも、之を證すべき何等の文献がない。
 是が俗に云ふ珍の山焼と稱するものである。而して此珍の山焼は、今より四百年前、佐賀城下龍泰寺の傍に於て、韓人來つて開窯せしものといふ者があり。又唐津の中里家舊代の陶工來って製作せし、鬼子嶽系など種々の説あるも、何れも詳でない。(珍の山とは西堀端を少し下りし地名)

副田喜左衛門
 其後京都の者にて、副田喜左工門といへる器用勝れし陶工があり、元和の末年有田に来り、此地の製磁法を習得して、頗る上達せる窯焼と成った。其頃又同じ京都の浪人にて、善兵衛と稱する者亦有田に在りしが、互に親交の末二人は義兄弟の盟を結びしといはれてゐる。蓋し一面同郷の好みであらう。

鍋島藩窯の始
 鍋島藩用の焼物は、是迄南川原山の重なる窯焼へ用命せしが、有田の副田喜左工門事、勝れたる窯焼なる由、佐嘉表へ聞こへしかば、寛永五年(1628年前)初代藩主信濃守勝茂は、命じて喜工門を御陶器方主任となし、茲に始めて鍋島藩の御道具山が創始さることなった。

高麗山窯
 共處は有田山の岩谷川内にて、元韓人の開窯跡なる、高麗山といふ處(今雪竹工場の上部)であつた。蓋し當時の製品が、それ程に優秀ならざりしことは、今發掘せる殘缺に依って察せらる。而して喜左エ門が最難作とせしは、靑磁の製造であつた。彼は泉山石場の前面英山の麓より、青磁の原料を發掘して試用せしも、其の製法に就いては頗る不案内であつた。(此青磁原石は、石場發見後に於いて、某韓人の見出せしものど稱せらる)

喜左衛門五郎七を聘す
 或時喜左工門は、善兵衞と打連れて、養父郡の寒水(中原村)といへるところへ往き、其處の土燒製作を見物せし折、當時斯道の名匠髙原五郎七が、今藤津郡の内野山にゐる由を聞き傳へしかば、幸ひ此處にて手蔓を得て、五郎七を内野山に訪ね、懇ろに来聘を求めしかば、寛永七年(1630年)五郎七は、岩谷川内の藩窯に来り茲に始めて完全なる青磁が焼成さること成った。斯くて喜左工門は、御陶器方手傳ひ役として切米十石を知行し、善兵衛は手傳ひ補助となり、五郎七は特待の賓師として厚遇されたのである。

五郎七出奔す
 之より喜左工門は、五郎七に就いて大いに研鑽の功を積みしも、青磁釉薬の極意のみは、堅く之を秘して数へなかつたのである。
 然るに此頃切支丹信徒の詮義厳しく、五郎七こと邪宗徒の疑ありて、召捕へらる可き風聞たちしかば、彼は門人平兵衛、左内及び家來茂吉を連れて一夜卒然逐電した。これ實に寛永十年(1633年)にて、彼は一旦四國に渡りて、土佐に潜みしが、後郷里大阪に踊り、寛永十二年高齢を以て歿せしといはれてゐる。

切支丹宗徒及韓人説
 彼五郎七が、果して切支丹宗徒なりしや否や不明なるも、甞て大阪落城の時の残黨とて、常に身の警戒を怠らず、門戸の出入さへ、必ず大戸を選みて潜りを避けしといはれてゐる。而して又五郎七を韓人なりといふ説あるも、彼が経歴と舉動より考察して、矢張世を憚る浪士たるに相應はしく、故に公然と藩窯へも仕へざりし者にて、それが又一面嫌疑を深めし原因とも見るべきであらう。
 兎も角我邦の白磁創作が、韓人の手に依つてのみ試みられ中に、たとひ多くのヒントを得たりとするも、當時短時日にて製磁に成功せしは、如何に五郎七が稀世の名匠たりしかを證すべきである。なほ彼よりも早く、天神の森韓人が白磁に成功せしも、矢張李参平の技法を窺ひ識りし結果なる可く、それは有田編に於いて述ぶるであらう。
 豫て五郎七の工作場へは、何たるも出入を厳禁せしが、出奔の際彼は工場の諸道具を、跡方もなく谷底へ打捨て去った。後にて喜左エ門は、善兵衛と二人にて拾ひ集め、様々研究せし結果、漸く青磁の釉法を会得したのである。之より喜左工門は十五石を給せられ、別に一吏員を其下に置くことゝ成り、善兵衛は職工監督役となった。

而して五郎七が、稀代の技術者として推賞さるべき手腕ありながら、猶其技法を秘せんが爲め、その用具を放棄して、之を紹晦せんせしが如きは、余りに器字の小量なるを難する者がある。蓋し當時秘傳秘法と稱するものゝ如きは、猥りに公開せざることが、共通せる社會的風潮であつた。
故に彼れ五郎七を責むるにあたり、先づ時代的精神を考慮して、相當割引すべきであらう。

有田御細工屋
 此藩の御用燒製作所を御細工屋(有田にてはおじやーふやと訛り、大川内にてはおしやくやというてゐた)と稱せられた。そして御用窯火入の際には御祈禱があり、それは有田赤繪町の法元寺(日蓮宗)に命ぜられた。是より他の民窯も皆法元寺に依って、窯祈禱をする事となつた。斯くて初代の副田喜左工門(日清)は承應三年(1654年)十月五日此地岩谷川内に於て卒去したのである。

鍋島勝茂卒す
 明暦三年(1657年)三月二十四日、初代宗藩主鍋島信濃守勝茂卒去した。行年七十八歳であつた。彼れ天資英邁勇武、又父に譲らず、再度の朝鮮役には、未だ年少なりしも切に乞うて初陣し、海陸共に勇名を馳せたのである。闘ヶ原の役には西軍に属せしも、島原切支丹の攻城には特に偉功を奏したのであつた。嘗て治國興業に留意すること深く、領内製陶の保護亦大いに努めたのである。

南川原へ藩窯移轉
 副田喜左工門歿するや、二代喜左工門清貞(日我初菊吉稱す)嗣ぎ、爾来十余年を経て、寛文の初年(1661年)此處の御細工屋を、南川原に移すこと成った。蓋し有田の地は陶業の繁栄と共に、人家益多きを加へ、藩窯特技の秘密を保つに不便とせしもの如く、此際岩谷川内住民へ別離の餞として、此處の協同墓地の區域擴張を願はしめ、許可せられしいはれてゐる。
 而して南川原の御細工屋敷は、其何地なりしか不明なるも、乏しき殘缺と、赤繪獨技の柿右工門窯の隣接より推考して、年木山なる上窯が、それならざりしやと察せらる。二代喜左工門は、寛文七年(1667年)九月二十七日此地に於いて卒し、三代藤次郎清長(日性改め藤次兵衛)其職を嗣いた。

大川内へ藩窯再轉
 然るに此地も亦大村及平戸領に近く、殊に當時他國人の出入頻繁なりしを以て、十余年の後延寶三年(1675年)再び之を大川内山に移轉することゝ成つたのである。
 蓋し大川内には、六本柳に優秀なる青磁釉の原料が産出することも、移轉の一因と見る可きであらう。三代藤次郎は、延寶六年(1678年)三月十一日大川内に於て卒し、初代日清の次男喜左工門政宣(日進)四代を嗣いで就職した。

報身寺へ祈禱所を命ず
 而して藩窯火入の御祈禱所は、有田の法元寺が遠く隔りしを以て、大川内より程近き平尾の報身寺に命ぜらるゝこと成った。此所は黒髪山大智院第五世阿尊退隱後、建立の眞言宗である。
 大川内山は、伊萬里より行程一里余、元松浦黨鶴田氏の傍系より出でし、河原左工門尉茂連の居城せし處にて、其後慶長頃までは、田雜大隅守長廣の男同五郎右工門廣次、其子久五郎廣方相傳の地行所なりしも、元和年間没祿後、御蔵入の地と成ったのである。

大川内の幽景
 地勢街道を隔つること遠く、背面は玄武岩の奇峰巍峨として黒髪山に連なり、有田の白川谷を経て廣瀬の龍門に通じてゐる。西天を仰げば青螺山屹立し、屏風なす山顚より落下する瀑布は、岳神社の洞門に響きて夏猶寒き幽遂の地である。以て静かに考を練り、圖を案するに適處たるのみならず、藩窯技術の秘密を保つに甚だ恰好の桃源地であつた。

大川内御細工屋
 此處の二本柳に、御細工屋を建設し、出入人の警戒を厳にすべく、山の入口大石といふ所に關門を設けて、之より内へは藩窯闘係者の外、猥りに通行を禁じられた。故に魚屋にても野菜賣にても、此大石關門まで持参して、用済みの上は門番役がひたと閉門したのである。
(道路改築の爲め今大石は取除けられしも猶其一小部が残されてある)
 第二代の宗藩主は、勝茂の子肥前守忠直なるべきも、二十三才の時部屋住のまゝ卒去(叙位の如きは卒後に成りしもの如く、未亡人は舎弟甲斐守直澄に再嫁す)したのである。

光茂の奨勵嚴令
 其子丹後守光茂二代を嗣ぐや彼は大いに藩窯を獎勵し、左の如き手頭(指命書)を以て嚴命を下した。蓋し初期より二三期間の鍋島焼も、精品の製作に煽る苦心せしもの如く、又屢々失敗を重ねしこさが、歴然として本書に現はれてゐる。(鍋島家内庫所の古文書元祿六年八月、「1695年」附 有田皿山代官へ相渡し手頭の冩し)
皿山代官への手頭

一献上並都合大河内焼物方一通之儀其方へ申付候時々年寄共進物役之者より可相達候條念精を入能様心懸肝要候尤疎略之儀は不及申共時節之後れ不相成様彙て役者共へも立入申聞無滯様可相調事
付役者之内諸役を大形に致し爲に不相成者之儀は見聞之上時々頭人へ申開役儀可致差替候尤越度有之者の儀は其段可申出事
一焼物近年は焼入惡敷都合不出来の由就中献上物又は差立たる在來物の儀以前に打替り惡敷有之候得ば申付様大形の様に共沙汰も候ては不可然事と存向後の儀彌念精を入能出來候様可相調旨目附の者副田杢兵術副田喜左工門へ委細可申聞候此上も若干心懸又は紛れたる儀有之候て燒物不出来の段於顯然は其科可申付事
一都合燒物出来立之儀是又近年は避怠重々の由第
一其間に不合後れ候様に相成儀以ての外不可然事候此儀は畢竟杢兵衛喜左工門心に可恢候第一目附就中立入怠の謂見及第時々申出る様に堅可申聞候勿論目附見聞之通致用捨不申出等以後も顯然候は途糺明曲事可申付候間て其覺悟仕候樣稠數可申聞事
一献上の陶器毎歳同じ物にて不珍候條向後脇山へ出来候品時々見合珍敷模様の物於有之ては書付を取其方へ可差出候其義年寄共再進物役の者へ申談仕差圖焼立候樣可申付置候事
付跡方出來候成(形)恰好乞吟味當世に逢候様に仕立可申事
一献上の陶器の品脇山にて焼立商賣物に出し候ては以の外不宜事に候條脇山の諸細工人大川内本細工所へ猥に出入不致様可申付置事
一献上殘物は不及沙汰不出來物焼損じたり共猥りに取散す間敷候年寄共進物役の者へ申談じ候上時々割捨可申事
一脇山へ上手の細工人等有之候はば本細工所へ可爲相詰事
付前々より詰來候者にても下手の細工人差置問败事
右之條々得意役々の者共へ具に申聞向後守其旨候樣堅可申付候若猥の儀等有之候はば其段可申出候尤其方申付せの儀も有之候はば其科可申出者也
元祿六年酉八月十二日
有田皿山代官へ

有田代官の直轄
 四代喜左工門は享保九年(1721年)十一月一日卒し、長子孫三郎政晴(始杢兵衛とし明和五年八月十六日八十一才にて卒し、其子權太郎政明、明和七年五月十一日卒し、其子孫三郎政吉文化五年十一月二十日卒すとあり)の時寛保年間(1741-1744年)大川内藩窯の支配は、有田皿山代官の直轄となりしより、孫三郎は退職し、其後代々藩窯の御手傳ひ窯焼して、此地に居住せしといはれてゐる。

有田焼意匠の三系式
 有田焼の三意匠と稱せらる中に、古伊萬里も、柿右工門風も、畢竟中国風に和蘭陀を加味せし一種の模倣より脱化せしものに外ならざるも、獨り純日本式の特種なる様式を案出して、土佐派や狩野派に對立せる浮世繪の如く、燦然たる鍋島焼の基礎を起したる藝術は、抑何人に依つて案出せられしか、それは今に於いても詳でない。
 而して斯くまでに指導達成せしめし、副田家の功績は又偉とすべきであらう。尤も鍋島焼が國寶に選まるゝまでの最高調点に達せしは、元祿、享保以後の時代に属するも、大体に於ける構想は、既に遠き以前より胚胎せしものと見るべく、従来の外國模倣なる翻譯藝術の殻を脱化して、茲に特種の獨創的藝術を産みしものである。

副田別系
 前に掲げし副田系譜に就いては、猶確ならざるものあり。左の如き別系がある。
副田喜左工門
藤次兵衛
杢兵衛 婿養子 實ハ土肥平左エ門ノ子
藤次兵衛
彦六
忠左エ門 (下村新之允養子)
喜左工門
孫三郎
又左工門

又鍋島内庫所の記録には左の如きものがある。
内庫所の副田記録

切米六石五斗石井修理與內石井三郎組子
寶永六年着到副田孫三郎喜左工門·切米六石五斗
鹿江茂左工門存
寬永五年着到 副田喜左工門
小川市左工門存
寬永十九年着到 副田喜左エ門
石井清左工門存
明曆二年着到 副田喜左エ門
親族帳鍋島靱負與内諸岡彦右工門組
元祿十五年着到 副田藤次兵衛
切米十五石
石井修理內石井小右工門組
元祿十五年着到 副田喜左エ門
切米六石五斗
石井修理興內石井三郎左工門組
寬永六年着到 副田孫三郎
切米六石五斗
江副彥次郎奥内田原源兵衛組
寛保二年着到 副田孫三郎
切米十三石五斗 枠權太郎
千葉太郎助輿內有田權之允組
明和七年着到 副田權太郎
切米十五石

 之に依って見れば、副田家は御細工屋取締役として、宗藩より差遣されしが如き觀あるも、彼の代官や目附などと異りて、副田家代々に就任せしめしを見れば、矢張り最初より技術者を取立てし者に相違なく、而して又従来の説に依れば、寛保年間(1741-1744年)に退職せしものなるに、それより三十年後の明和年間(1764-1772年)に至るまで、猶扶持米を奥へられゐるは或は副田家世々の功労に報ゆる退職手當の給禄なるか、精しくは考ふきであらう。

減禄と復活
 次に注意すべきは切米高の減額である。初代喜左工門より以後藤兵衛までは、十五石を給せられたるが、次の喜左工門に至つて、半額にも足らぬ六石五斗を支給されゐるは、前配光茂が下せる手頭を参照するときに、もしや當時焼物不出来の結果、監督不行届として減額されしにあらざるか、而して次の孫三郎にて漸く十三石五斗となり、次の權太郎に至つて、又元の十五石に復給されてゐるのである。

技術本位の改革
 藩窯の製品も、此頃に至つて頗る進歩を示し、青磁や七官手等の製作、赤く大成の域に達せしが、なほ只管向上を期して、名工の募集と、諸般の研究とを奨した。蓋し名工さいはれし柿右工門さへ、四五代目に及んでは其技全く劣り、初代の優秀なりし傳統は、却つて傍系の澁右工門に移りし観があつた。故に藩窯に於いては、此傳統的情實を打破して、専ら技術に重きを置き、管理者も職工も、技能の優秀者をして、容赦なく之に代らしむる藩窯是を定めたるは光茂の英断であつた。彼は又寛文元年(1661年)七月七日を以て、従来の追腹を厳禁し、爾後藩士にして殉死せる者は、家名斷絕たることをせし程の改革者であつた。

綱茂の繪畫
 斯くて光茂は元祿十三年(1700年)五月十六日六十九才を以て卒去し、長子綱茂相織した。三代藩主綱茂は致德齋と稱し、まさに一家をなす程に繪畫に堪能であつた。此時代より鍋島焼の意匠大いに進みしいはれてゐる。而して彼は寶永三年(1706年)十二月二日五十五歳を以て卒し、弟吉四代をいだのである。
 御細工屋に於いては、藩主の御用品の外、幕府への献上品、及び諸侯への寄贈品と、其注文品等の製作に限られ、私に使用し或は轉賣することを一切禁じられた。故に器物の窯入窯出には、一々係の役人之を點検して、聊かにても歪みある焼成物や、彩色の異狀あるものは、悉く破壊して、地中に埋没したのである。

藩窯の原料精選
 此製造原料は、有田泉山の磁石中なる、御用坑と稱する特等石に、僅少の山石を調節したるものであつた。其外一切の材料は、精選に精選を重ねて使用し、且優秀なる工人のみを選択し、全く採算を度外視して、ひたすら製品も精巧を期せし結果、今や色鍋島の物は國寶に指定されしまでに、精華を極めし作品が残されてある。
 御細工屋には、郡目附、下目附、主役、手男といふ四人の役人常任に詰切り、勘定及作業監督の外、職工の取締に従事した。一面又職工には、遺憾なく其天才を發揮せしむるに努めた。

二百年間の精練
 斯くて彼等が研鑽せる獨特の秘法と、考案せる優秀の意匠とは、容易に他に洩るゝことなく、茲に二百年の長き間精練されて、特種の發達を遂げたのである。
 二本柳古登の窯數は、三十三間連続されて、藩用の窯は、其真中の三間丈であつた。之は火度の冷熱に均分を調ふる爲にて、此三間には構造に於いても、特別の注意を加へありしことは申すまでもない。

民窯の無料焚
 而して此前後三十間の窯は、無料にて民窯に使用せしめ、加ふるに其燃料まで藩窯の持として恵まれたる、當時の大川内窯焼の幸福察すべきである。

豫備積座
 尤も御細工屋にて、特に重要なる製品は、藩窯に近き前後の民窯中にて、一番良き積座を選み、豫備としての製品が積込まれ、其中の上出来物より選択されたのである。之は多くトントウと解する、二尺丈の冠せ匣鉢にて積まれたのである。窯にては、此三十三間の惣登りの焚手十六人と定め、此内十人を本焚手となし、外の六人を助手としてありしが、民窯からも、皆交代に人夫手陣を出したのである。惟ふにそれは、彼等の積込窯が多數であり、殊に燃料と窯借料の恩寶に對しても、傍観するに忍び難い思ひがあつためであらう。

職工詮衡と支給豫算
 御細工屋職人の詮衡なるものが、又頗る面倒であつた。それは轆轤細工人十一名、捻細工人四名、畫工九名、下働き七名、計三十一人の定めにて、之に目附以下諸役人より窯焚十六人に至るまで、皆本藩より扶持米及金員を興へられ、別に技術の獎勵金まで貰ってゐた此一ヶ年の支給高が米三百石金子一千兩といふ算であつた。
 是等の職工は、皆俸祿に衣食して、何等後顧の憂なく、只管技術の進歩にのみ没頭することが出来たのである。又豫て天分ある職工は、何れの陶山にあるも見出されて、御用職工に取立てられたのである。此採用は職工仲間中無上の榮譽として地方の民窯にある者も。腕を磨いて御細工屋に入る可希ふたのである。

無運上地
 當時百七十余戸の大川内山全部に渉り、藩窯所在地たる恩澤に依って、宅地を始め、一切の耕地まで悉く運上を免じ、全く無視なりしといはれてゐた。

徴税改革説
 蓋し後代に於いては、豫備品を積入るゝ前後數間の民窯のみが、薪代の半額を補給され、其他の民窯は悉く燃料自辨となりし説があり、又運上に於いても、御細工屋と特種の關係あるもの、例せば此處の水碓の爲に、動搖を受くる宅地の如きを免税されしといはれてゐる。それは宗藩の財政窮乏による、改革の結果であらう。

藩窯の製品規定數
 御細工屋の製品は、一年を通じて大皿幾個、小皿幾個、酒盃幾個との規定數があり、之が五千〇三拾一個であつた。故に此規定數の仕上を了すれば、後は大方閑散であり、其他の臨時注文品に對しては、又別に代償としての手當があつた。今市川家に残されてある臨時注文書には、何れも丁寧に圖案を施して、一々彩色されなほそれに周到なる説明が加へられてある。其一部に
臨時注文書の寫し
一石菖鉢白手染附白磁 高さ三寸厚さ五分指渡し一尺五寸足の高さ三分足の巾一寸五分
一御筆立 嘉永六丑年御前御用
一同年久世三位樣御頼 蓋水差岩石蘭菊花桃梨白地染附仕立
一御內儀御献上御用 空燈香爐
一同年久世三位樣御賴 火鉢 指渡し一尺五寸深
恰好厚同樣
一染附随分濃く二つ 三角火入青海波は白同年久世三位樣

大川内燃料山林
 燃料の供給所は、郡内に二十四ヶ所の松林を指定されて、之に保護を加はへ、濫りに伐採することを禁じてあつた。而して此内十二ヶ所を、常用として年々輪伐されしが、萬一林火ありし時の豫備として、別の十二ヶ所が用意され之を御添山としてゐた。今に三本柳官有林百二十町步は、輪伐法に依り年々特賣を許可されてゐる。

色鍋島
 鍋島焼の種類には、色鍋島、染附鍋島と、鍋島青磁と、鍋島七官手との四つの種類がある。色鍋島とは吳洲猫の下箱の上に、赤繪を施せしものにて、彼染附錦手を染錦とするが如く其色繪鍋島を略稱して、色鍋島といふのである。尤も鍋島焼には、柿右工門風や、古伊萬里物の如く、白素地に上繪付を施せしものは全くない。
 色鍋島の上繪彩色は、赤と青と黄の三色に限られてあるも、稀に黒の上に淡紫をかけし、所謂セピヤ色など用ひしものがある。赤の種類には四五種ありて、薄塗の華やかなるもの、濃塗の重厚なるもの、何れもとりどりの優色を呈してゐる。 赤だけは濃色釉を用ふることあるも、其他は皆淡色釉が施されてゐる。故に共淡色を透して、素地の吳洲描なる草葉の脈線や、花瓣の輪廓が現れて柔かな調子が生じてゐる。中には染附と青磁と混用された優品もある。

藩窯品の模様
 模様は概して植物が多く、それは牡丹、白梅、廻梅、廻竹、若松、水仙、秋草、薊等が重に畫れてあり。動物は鳥魚や蝶の外龍位である。或は寶珠や七寶崩しなどあるが、好んで描かれてあるは青海波で、次は特種の牡丹や唐草模様である。
 其他歲塞三友、芦雁、灘越蝶、瓢箪畫、繼繪、橋掛山水、楼閣山水、雪中山水、鯉、金魚、鮎、花筏等があり、又裏猫の七寶綬帶や兜唐草など、全く印刷かの如く描かれてゐる。凡べて其書様が寫實に立脚して、而もを寫實を離れた特種の文飾美を、遺憾なく發揮せし優美的作品である。

藩窯の高臺皿
 器物は食器類が主であるも、就中特種の形体器は高台皿にて、其彎曲せるふくらみの柔かき線が、高き高台良き調和を保つてゐる。此皿は三寸位の小さき物より、尺四寸位の大鉢まで製作されてゐる。猶此器裏の施釉には、大筆にて轆轤をせしものゆえ、高台際に釉薬溜など決してない。そして此高台皿は、各山一般に布告して、是に類似の形さへ製することを禁られてあった。

櫛の歯高臺と若松の盃
 此皿の高臺に、櫛の形の繋ぎ模様を描かれてあるが、其一つ一つの間隔が、少しの狂ひもなく、殆と印刷的なる熟練の妙技を現はしてゐる。又若松繪の盃の如きは、紙の如き薄手細工にて木盃形の高き高台がつけられてある。それに書ける若松も生き生きしてゐる上に、飛んでゐる鶴とても、近來の模造品の如く重たさうに足を抱へてゐる風がない。又荊縁や雪輪縁或は牡丹割形の薄手皿に、蝶を散文せしものなども、藩窯の名品である。

藩窯品の演染品
 すべて落つきたる呉洲の發色が、其着色法に於いても、薄渲染は勿論、濃渲染とても、最初より薄き溶き呉洲を浸み込ませ、其上を幾度もくも繰返へされたものである。故に顕はれ易さ渲染足が、全く見へないまでに、手際良く仕上げられてゐるのである。

藩窯の技巧品
 其他の技巧品には、鳥籠の如き透彫があり、又蠟燭立や硯屏などもある。或は又捻り細工に梅の花、菊の花、栗、枇杷、柿、桃、梨等があり。其梅花の雌雄蕋や、栗の毬などに至つては、全く實物の如き繊細なる技巧が施されてゐる。

縮緬肌
 鍋島焼の素地に、縮緬肌と稱するのがある。それは釉薬の派手なる光澤を止め、地肌の發色を頗る重厚に焼き上げしものにて、之は焼きにくい有田泉山の原料にあらざれば出来ぬ色相である。而して此色合までに、器物を焼き抜ぐことは非常の難事にて、最初より多くの廢物が出来ることを覺悟の上にて焼成せねばならぬ。故に大名的道楽の外出来ない製品であるといはれてゐる。
 斯くの如く何れの作品も、技術の眞核に入りし精巧なる製器にて、氣品頗る高く、流石に御大名道具として、精練されし、美の極致を現はしてゐる。洵に此鍋島焼こそ、廣い天地に生きる藝術品として誇るに足る可く、そして我が有田焼製品中の冠絶せるものである。

色鍋島の起原
 此絢爛たる色鍋島の圖案なるものは、果していづれの時代に創始されしか詳でない。最初上繪附を要せし分は、柿右工門に用命せしが如きも、それは繪附の様式が全然異つてゐる。御細工屋が大川内へ移轉せしより此處に於い上繪附が開始され、全く南川原とは没交渉とな結果、柿右工門よりの歎願切なるものありしを以て、彼には臨時注文の一部中、特に染附のみ用命せしても、或は錦附のみ用命せしてもいはれてゐるが、要するに今の色鍋島と稱するものは、別途の株式であらう。
 而して大川内の藩窯にては、上繪附をなぜしこあらざる説をなす者あるも、當時柿右工門への用命絶えし貞享二年(1685年)より、享保八年(1723年)迄三十九ヶ年間を鍋島焼が全然上繪附のみを中止せしと見るは余りに非常識である。

鍋島藩費の節約
 當時鍋島宗藩が、外國黒船に對する長崎防備(筑前黒田藩と交代)の重任に就いて、經費の消耗甚しきより、屢藩費節約の改革を行ひしことは周知の事柄である。殊に八代藩主肥前守治茂に至つて、彌々其窮乏を來せしより諸般の節費を断行した。九代肥前守齊直に及びては、備砲十一門なりし長崎砲臺が、更に百二十四門に増加され、其經費莫大なるものがあつた。故に文政六年(1825年)八月には、藩士一般に對して相續米渡しの制度を設け、家祿千石以上は八割、五十石以上は四割以上の上納を命ぜられたのである。

有田へ赤繪の用命
 此藩費の節約主意に因り、既に明和 安永時代(1764-1781年)に於いても諸般の整理行はれ従つて御細工屋職人數の如きも減員されて、上檜附部を廢し、之に代ふるに有田十六軒中の、優秀なる赤繪屋を選みて用命することゝ成りしにあらざるか、或は又何かの理由を以て之を有田に移せしものであらう。 猶此際御細工屋の職工割当数を改めしものゝ如く、前述せる割當の、細工兩部十五人に對し、九人の畫工にては上繪附まで製作せしとは受取れない。
 斯くの如く窮乏せし宗藩なれども、外様大名中大藩の資格として、幕府への進献は勿論他藩へ贈答品の必要があり、殊に我邦唯一の名産白磁製造地の藩主として、大名食はざるも、高御膳主義たるの止むを得ざる場合なりしを察せらる。蓋し一面には、又此美術的製品を、我國產の精華として遺さんとの希望の下に、かゝる窮乏の中にも継續されしことが、模範品として後代の斯業者にとり大いに感謝すべき事柄なりしは申すまでもない。
 斯くて此赤繪附のみは、有田赤繪町なる十六軒の金績業者の一戶、今泉家に用命さるゝことゝなりしが、それは五代平兵衛よりか、六代覺左工門よりかは詳でない。要するに有田へ上繪附が移されてより、色鍋島の繪附が完成せしと見る可きであらう。今泉家の略系左の如くである。
今泉略系
今泉今右工門 初代 寛文五年八月廿一日卒
今右工門 二代 元條二年六月十日卒
今右工門 三代 享保二年二月十五日卒
喜太夫 四代 寶曆八年三月七日卒
平兵衛 五代 安永四年七月十一日卒
覺左工門 六代 文化十三年八月十四日卒
平兵衛 七代 天保十四年二月七日卒
助五郎 八代 嘉永七年七月廿七日卒
今工門 九代 明治六年六月十六日卒
藤太 十代 昭和二年九月二十七日卒
今右工門 十一代 明治六年六月十六日生
平兵衛 明治三十年八月八日生

特種の彩釉
 今泉家は之より代々宗藩の御用赤繪屋と成り、色鍋島の繪附に従事したのである。而して此優秀なる技能に於いては、現代と雖も猶他の追従を赦さぬものがある。殊に彩釉の調製が燒成火度頗る高く、窯出しの後籾殻にて磨察されて、始めて光澤を現はす程にて、全く鉛分なく食器としても理想的といはれてゐる。

御用赤繪窯の火入
 當時大川内の藩窯にて焼成されし素地を、長持に封じ、御細工屋の役人附添の上有田へ運ばれ、今泉家に於いて、一切の上繪附が施された。此赤繪窯火入の節は、役人又出張して監視をなしが、窯の前面には、鍋島宗藩の定紋杏葉(俗に訛りてギヨーエといふ銀杏の葉なり、抱茗荷といふは誤り也)の高張を燈して、注連縄を張り、猥りに女などの近づくことを禁じられたのである。斯くて燒上がれば、役人一々是を點檢し、損じ品まで悉く長持に封じて、又大川内の御細工役所へ引取られたのである。
 今泉家の中興と稱せらるゝ六代覺左エ門は、斯技殊に勝れ、傍ら俳諧を好んで樂中坊砂合と號した。七代平兵衛又父に劣らぬ名匠であり、近代に於いては十代藤太、特に出藍の譽があつた。今十一代今右工門(前名熊一)良く父祖の技術を継承し東京市麴町區三宅坂に其出張所を設けてゐる。

帖佐の赤繪
 薩摩の帖佐焼の赤繪史を書けるものに、薩藩より鍋島藩に交渉して諒解を得、大川内藩窯より赤繪法を傅習せしの記事あるも、當時最秘にせし鍋島藩が、決して應ず可き筈がない。況んや有田に於ける十六軒の赤繪業者は、假令藩命たりとも、一應故障を申立つ可き結束振であった。彼長子より出でし支藩小城領主が、松ヶ谷焼繪附の件に於てさへ、此赤繪師(赤繪業者)の云々ありしこさが、同藩の古記録中にある。

一、寶永五年(1708年)正月赤繪師之事日記ノ内(朱書)

 故に薩摩藩の赤繪附傳習は、恐らく何かの方法を以て斯法が會得されして見るべきであらう。

砧手青磁
 青磁の大別に三種ありて、一を碪手(宋の龍泉窯にて焼きし砧形の花器の發色より名づく)と云ひ、雨過天青稱せらる、之が鍋島青磁の色相である。

天龍寺青磁
 一は天龍寺(明の龍泉窯に出來し香爐が嵯峨の天龍寺にありし發色より名づく)と云ひ、千峯翠色と稱せらる、乃ち攝州三田焼の青磁色相にて、碪手よりは稍黄色を帯び、肥前山何にも製せられてゐる。(之が黄緑と稱すべきものか、尚灰緑なるものがあり、其他南京青磁の粉青や豆青、又は朝鮮青磁の晦澁なる高麗翡色や李朝の淡青があり、近代は又クローム料の青磁などもある)

七官手青磁
 一は七官手(東山時代支那の第七番目なる官人の船にて始めて輸入せしより名づく)と稱するものにて、色相は砧手も天龍寺もあり、又白釉もある。之は陶質に軟釉を施し、窯出しの際素地の膨脹に依って、釉面に龜裂を生しめ、其折濃き墨汁を塗りて龜裂内に喰込ませしものであり、即ち俗にいふ罅焼である。

青磁の貴重
 往時青磁の貴重されしことは、唐代に於いて刑瓷(白磁)は銀に類し、越瓷(青磁)は玉に類すと稱せられ、我が王朝時代に於いても陶器(くろ物)は朱漆器に相當されしが、瓷器(青磁)に至つては銀器に代用されたのである。而して鍋島青磁の優色は、當代の首座に位し、碪手に於ける彼の麒麟の大床置や、花瓶及香盤の如き逸品は、何れも十度掛の製作といはれてゐる。それは青磁釉を薄掛して、其度毎に素焼すること十回に及び、而して後始めて本焼されたものである。
故に其碧空色の見事なる事は宋代の砧手と比較して、遜色な絶品と稱せらる。
 七官手の中に、白罅出しにて染附せしものなどがある。此種のものは、他山に於いて間々製作さしも、鍋島七官手としては、青罅出しが特色にて、舊製品の瓶掛や花瓶等には五六回も施釉されし上好の大氷裂物ありしが、近代には滅多に此種の優品を見ぬ。蓋し大氷裂を現出せしむるには、素地までも龜裂せしむる危險ありて、頗る難作させられてゐる。此七官手は砧手と共に、主とし幕府へ進献の器として製作され、藩用又は各藩へ贈答品の外、一般の領民が容易く入手することを得なかったほどの貴重品であつた。

副島勇七
 天明(1781-1789年)頃の御細工屋に、副島勇七といへる轆轤細工の名工があつた。彼はその本職の外に、彫刻、捻細工及窯積方より、原料の調合、靑磯の製作に至るまで、何れの方面にも熟達し、殊に藩主治茂の恩顧厚者であつた。而して彼の作品頗る優雅にて、自ら特種の妙味があり、常に周圍の賞讃を博せるより、彼は邃に据傲倦怠の心を生じ、藩命に抗して謹慎を蒙る事数回であつた。

制度の非難
 彼れ人に語るに御細工屋は勿論、有田諸山中並ぶ者なき我手腕を、此草深き山間に封鎖せらるゝは口惜きのみならず、元藩命とて多くの名工を選蒐して、容易く外出さへ許さゞるは不當なり、拘束のを非難して止まず、常に不平を禁する能はざるものがあつた。然し周圏の人々が有つ慣習の惰力は、之を以て祖先以來受けたる、藩主の厚恩を忘却するものとして、誰一人勇七の傲慢を憎まぬものはなかったのである。

正力坊へ處拂ひ
 藩窯方に於いては、製陶上卓越せる彼を罷免せば、忽ち其秘法を他山へ傳播せんことを恐れて寛容せしかば、彼は益々得意と成り、御細工屋の窮屈なる制度を改革せん事を念とし、己れの臆斷を以て監督の藩吏に抵抗すること数次に及びしかば、遼に藩主の裁下を乞ひ、規定に依って處拂ひとなり、隣りの村の正力坊といへる農村へ移轉せしめられたのである。

勇七遁走す
 勿論給祿も没収し、御用職人の賛格も剥奪されたるを以て、勇七は貧困日に逼りしかど、自業自得として、誰一人彼を撫恤する者さへなかつたのである。途に彼は一夜妻子を捨て遁走せし儘行方が知れなかつた。一度びは伊豫の砥部窯へ入りし形跡ありしが、後京都の市場に於いて、陶器ながらも瀬戸焼の中に、我が鍋島焼の構圖を模せるを見るものあり、さてはさ搜索の端緒を得たのである。

捕吏瀬戸へ乘込む
 是より佐嘉藩の捕吏は、瀬戸へ乗込みしが、此處は徳川御三家の一なる尾張侯の領内とて、猥りには踏込みがたく、或は商人となり、又は工人に變装して逮捕に努めたるも、此地の陶家亦巧みに隠匿して、警戒おさおさ怠りなく、遉に巧者の捕史達も、如何んとも手を下すことが出来なかつたのである。

小林傳内
 爰に有田皿山代官所の下目附小林傳内は、顔料の呉洲賣と成りて、心當りの陶家へ這入り、頻りに購買を勧めしところ、應對せる主人らしきが、自分にては品質を見別け難きも、幸ひに巧者の人あれば鑑定せしむべして、別室に運び、暫くして出来り、品柄は惡からざるも、價少々高して若干の値引を言出たのである。

勇七捕縛
 此時傳内件の呉洲を熟視しつゝありしが、之は今拙者が渡せし原品にあらず、察するところ、別室にて他の劣等品と取換へしならんと言掛くれば、主人は以ての外と驚き、決して然らざるを辯するも、傳内いつかな聴き入れず、主人も大いに立腹して、遼に喧嘩となるや、別室にありたる勇七之を耳にし、一刀を引提げて出来るを、傳内得たりと大喝一撃難なく取つて押さへ、捕縛の上佐嘉城下へ護送したのである。勇七遁走せしより賞に三年目、捕吏の苦心察するに余りある。(傳内は此功に依り足輕より士籍に昇進し、文化三年六十才にて卒去した。)

勇七梟首
 斯くて糾間の上、勇七悉く罪に服し此上は必ず世界無比の作品を仕上げて、以て一死を償はんことを乞ひ、藩主治茂の仁慈、又死一等を減するの意動きしも、藩の典刑之を赦さず、遂に寛政十二年十二月二十八日(1800年)佐嘉郡嘉瀬の刑場に於いて斬首され、猶他の職工への見せしめとて、大川内村の街道鼓峠に梟首されたのである。

勇七の獅子
 大川内にては、後年一基の碑を建立して勇七の霊を祀りしに、中には是に詣でて手工の巧みならん事を祈る者ありしと稱せらる。勇七が製作せる遺品として、彼の郷里有田泉山なる辨財天社に奉納されし唐獅子がある。それは罅出し磁器にて、姿勢骨格とも優秀なる作品と稱せられてゐる。蓋し元白地なりしを、惜しい哉後年赤を彩りしものにて、現在雄のみ保存され、雌は何れか紛失されてゐる。この外伊萬里郷二里村川東の某醫家にある雌雄の獅子は、素焼地に普通の彩色を加へしものにて、今に同家に臓されてあるらしい。
 勇七は會て瀬戸に在りし時、種々の陶技を傳へしが、當時なほ陶器時代なりとはいへ、同地の加藤久米八や同忠次等へ、磁器の製法を傳習せしも原料なければ實験に到らざるうち、津金奉行の首唱の下に、加藤吉右工門や唐左工門等が、磁器製作を試みしも全く失敗に終り、途に民吉の西下となつて、始めて瀬戸磁器の完成を見るに至つたのである。
 嘗て藩主閑叟は、幕府に請はれて長崎砲臺を増築することゝなり、藩士本島藤太夫(松蔭と號す明治二十一年九月五日卒、七十八才)をして、當時の砲術家伊豆韮山の代官、江川太郎左工門英龍(字九淵坦庵號す、安政二年正月十六日卒、五十五才、正四位)に就て、築堡並に大砲のことを問はしめ、嘉永三年十月(1850年)北の築地(今の日新小學校の中庭)に於て、大砲を偽造するこさくなつた。此材料なる鉞は、豫て此地の名刀工忠吉以來、鍛刀原料として用ひりし、出雲の安来より探りしものであらう。 安来は古来より鐵の名産地であり、此地一帶の川底より砂鐵を抄ひ探しものである。(之を土壌すくひといふ。今の安来節の鰌すくひは、之を誤り傳へしいはれてゐる)

耐火煉瓦の製作
 而して鋳造用の基礎をなす、耐火煉瓦の製作が、此大川内窯に於て製作されしことは、當時に於て最偉とせねばならぬ。是より先伊豆韮山に於いて、小形ながら大砲をせし時に用ひし煉瓦は、如何なるものなりしかは識らざるも、其後安政元年幕府は佐嘉藩に命じ、(此時は多布施河岸にて)、品川砲臺の巨砲五十門を鎔造せしめしことを考ふれば、此大川内製品が、我國產中の優秀なる煉瓦の嚆矢にあらざりしゃを思はしむ。
 煉瓦製造に就いては、江川英龍の意見を聴取し、幕府の典醫伊東玄朴(神埼郡仁比山村の人、名は淵、字は伯壽長翁と號す、長春院法印、明治四年正月二日卒、七十二才、贈従四位、今の御園白粉伊東榮の祖父也)を通じて、幕府に在るサバルト八菱城の原本及び和蘭築城書等を借受けて鷸譯し、更に研究を重ねて製作せしものにて、今佐賀市の徵古舘に陳列されてある遺品を見るに、それは厚さ三寸に八寸角のものである。(藩は又慶應元年蒸氣船を造り、安政二年には汽車の雛形を製作した)

鍋島閑叟卒す
 明治四年正月十八日十代宗藩主鍋島直正卒去した、行年五十八才であつた。彼は文久元年(1861年)十一月、隠居届をなせし時より閑叟と稀し、別に昆谷、茶雨、怪齊、拳堂 紫水等の號があつた。天保元年(1831年)二月七日先代齊直隠居するや、十七才にして家督を襲ひ、制を改めて窮乏せる財政を復興した。殊に勤王の志深く、明治二年正月二十三日薩長土三藩と共に封土を奉還し、或は夙に海外の大勢を達觀して、海防に努むると共に貿易に留意し、又藩内産業の獎勵に盡瘁する等、洵に佐嘉藩中興の名君であつた。明治三十三年特旨を以て従一位を追贈され、今や別格官幣社佐嘉神社として奉祀さるゝに至つた。(十月十二日を祭日と定めらる)

古川松根
 御細工屋規定製品の外に、又一種のデザインを發揮して、微細なる線より配當の周到なる構図を考案せし者に、古川松根があつた。彼は藩士古川與兵衛弘の三男にて、幼名英後に興一と改め、諱は徳基、楢園、寧樂園又は霞庵の別號がある。夙に和歌を善くせしのみならず、頗る有職故實に通達し、或は刀剣器具の鑑識より、篆刻及書畫に至るまで造詣深く、藩主閑叟に最も寵遇せられ、彼の能楽師片山傳七等と共に、常に君側に仕侍せしが、閑叟卒するや之に殉死した。時に明治四年正月二十一日、行年五十九才であつた。
(源太郎穗主の父である)今佐嘉神社神苑の側にある、閑叟の銅像に侍するが如く、彼れの銅像を立てゝその面かげを偲ばしめてゐる。

藩窯の名工
 御細工屋には、名工許多有りたらんも、藩窯の作品は、凡べて協力の結晶とて、所謂綜合的美術なるを以て、工人銘々が個性を現はすことは全く不可能であつた。當時の名工今多く知る由なきも、後年には市川安左エ門、柴田作左工門など轆轤細工の名人があつた。 安左エ門は明治七年八月九日六十八才にて卒し、作左工門は明治十四年正月二十一日八十四才にて卒してゐる。

日峰大明神の施主人名
 藩窯の南方に日峰大明神の祠がある。之は藩頑直茂を祀れる佐嘉の日峰社を分祀せしものにて、安政六年庚申三月(1860年)の建立である。此臺石に鴿られし施主の人々が、藩窯末期の役人や工人らしく、即ち役人は御陶器役原田傳兵衛、柴田和左工門、郡目附田中半之助、中溝五兵衛、庄屋古田七左工門、御細工屋工人は柴田作左工門、加々良萬平、八谷治左工門、柴田德左工門、副田嘉左工門、池田伴左工門、藤崎市兵衛、原丈左工門、立石寛六、市川安左エ門、松園甚左工門、市川佐太夫、城島長蔵、福岡嘉兵衛、光武甚助、副田平左工門、光武彥七、金武兵太夫、市川重助、柴田善兵衛、富永彌三郎、富崎千兵衛、富永爲助、柴田福藏、其他下働山本平作、藤本龜吉、田淵和平、森三太夫、田淵平吉、森惣七、松尾友三郎、御手傳釜焼(民窯)大川内山より十六名、其他手男古川近兵衛、御用大工柴田竹十、御用鍛治宮田倉之助等である。

御手傳十六人
 民窯即ち御手傳ひ窯焼と稱するは、三十三間の中央なる三間が藩窯にて、共下窯安光を加へて下部のみ焼きし十人が、本手傳ひと稱せられ、上部のみ焼きし六人が、助手傳ひと稱せられたのである。末期の調査に依れば、本手傳ひ窯焼は富永文右エ門、福岡嘉兵衛(始藩窯工人)畑瀬武右工門、富永喜左工門、森重左工門、緒方榮左工門、福岡六助、永瀬良七、柴田定太郎、森興右工門等にて、助手傳ひ窯焼は光武彥七(始藩窯工人)池田林左工門、富永徳太夫、八谷久平、古田又右工門、松尾勝十等であつた。

御細工屋廢場
 斯くて藩主の威光と、支給の豊潤とにより、さしも繁昌を極めし御細工屋も、維新(慶應三年十二月九日なるも大川内藩窯の解散は明治四年位であらう)の大改革に依って、既に廢場することなり、三十一人の職工には、金祿公債證書を興へて、全部士族に編入されしが、従來余りに恵まれ大川内山が、如何に大打撃でありしかは想像に余りある。
 之は大川内山のみならず各山重なる製陶地は、領主や邑主が直営もしくは其保護厚き懐の内にて經營せるもの多く、従つて地方資本家の投資事業に属するものは甚だ稀であつた。故に一朝此維新の大改革に遭遇せし、是等の窯焼と工人の悲惨は、木から落ちた猿の状態と同様なりしは無理もなかった。

大川内崩れ
 此惨憺たる運命に遭うて四散せる大川内崩れの職人達は、有田皿山の外三河内其他諸國の陶山に轉住した。中にも三河内へ移住せし者の少からざりしことは、其後此地の製品が如猿時代の古雅を棄て、一種の瀟洒なる鍋島風を加味せしこざによつて知らるゝ如く、確に此影響であるといはれてゐる。

光武彦七
 光武彦七は繪畫に練達し、明治初年藩命にて上京し服部杏圃の教習所に入りて西洋の上繪附法を習得し、又京都の三代道八に就いて京風の赤繪附法を研究した。彼は又捻細工に長じ梅と菊の環枝構圖を額面用に製作せしは、其考案に成りしものにて、殊に梅花の薬の毛の如き、繊細なる技巧に長ぜし名工であつた。斯くて明治二十六年一月二十六日五十八才にて卒したのである。

柴田善平
 副田系譜の中に「安永五年車細工池田林左エ門捻細工柴田善五郎兩人共に一代足輕被召成」とある、此善五郎とは後の善平の祖父にあらざるか、前記に善兵衛とあるは善平の舊名であらう。善本又捻細工の名工にて茶器を善くし、就中床置物にては、仙人又は関羽像など得意であつた。而して貯へる長髯を撫せる善それ自身が真に仙風道骨の人であつた。
 彼は明治初年京都に遊び、清水焼を研究せしより、製する所の茶器頗る氣韻に富み、手捻り唐焼の山水浮彫物など、當時の雅品であつた。(又急須の蓋裏に四つ足を附けたのがある)

鴨脚
 善平が製品に鴨脚の刻銘あるは、彼の庭前に鴨脚樹あるに因める號である。明治八年但馬の出石に於いて、櫻井勉が士族授産の目的にて盈進社を起業するや、彼は柴田虎之助、同福歳と共に聘せられて、子弟に陶技を敢授したのである。

鷺脚
明治十年有田村の松村辰昌姫路に於いて永世社と稱する士族授産製陶業を創むるや、善平招かれて該社に入り、傍ら募集せる士族の子弟五十余人に陶技を教授した。今當時の門下鷺脚なるもの、同市小姓町に手捻りの茶器を製して脚焼の名稱で賣り出してゐる。斯くて善平は、明治三十五年六月二日六十八才を以て卒してゐる。
 維新の改革に依って、御細工屋が廢場せらるゝや、目附林甚平は、命せられて殘留せる既製の生造り物や、素焼物を焼上げて之を整理せしが、それがいつ頃までに完了せしかは詳でない。

精巧社設立
 茲に於いて鍋島焼の名が彌々斷絕せんことを惜める光武彦七は、明治十年原次右工門(藩窯工人丈左工門の子)立石寬兵衛(藩窯工人寛六の子)と糾合して復興に盡瘁し、宗藩内庫所の補助を仰いで精巧社を設立した。そして彥七が其社長たりしが、後年打絶へんさせる頃に、柴田善平、福岡六助相協力して繼續せしも、又々經營難に陥ったのである。

市川卯兵衛
 爰に御細工屋の畫工にて市川卯兵なるものがあり、曾て藩命にて、當時の畫伯應齋の門に入り、頗る名手の聞へありしが、安政三年十月物故し、其子重助家職を嗣ぎしも、御細工屋廢場と共に失職し、前記の善平、六助が經營せる精巧社を引請けて営業することなり、後年卯兵衛を襲名しが、明治三十一年十一月十日五十九才にて卒し、其子光之助之を継承して営業しつゝある。

福岡兄弟と小笠原八助
 なほ當時の代表的窯焼なりし福岡六助は、明治二十六年五月十日五十三才にて卒し、舍弟友次郎は明治四十二年六月四日五十九才にて卒去した。又小笠原八助は大正七年二月二十八日六十七才にて卒してゐる。
 大正二年三月十一日此地の福岡大五郎は、第二三六一四號にて福岡式陶磁器金銀燒付法の特許を得しが、同十一年七月三十一日第四三一七六號にて又陶磁器染附方法の特許を得たのである。

鍋島直大卒す
 大正十年六月十八日藩主侯爵鍋島直大卒去した。行年七十六才であつた。彼は閑叟の長子にて、夙に特命全権公使として伊太利に駐剳し、又式部長官となって長く君側に奉仕した。而して藩窯廢場後もなほ精巧社の事業に出資して、之を補助せしこと少なくなかつた。

現時の大川内山
 現時大川内山の七十戶、窯焼二十戶、職工百五十人、年産額十萬圓位にて民窯盛業時代の三分の一額といはれてゐる。當時御手傳ひと稱せし十六人の民窯主悉く跡を断ち、今継承するもの山本雄平(森重左工門嫡子)一人なり、其他の代表的窯焼として瀬戸口勝太郎等がある。
 大川内山は明治四十一年六月、經費一萬三千圓を投じて里道千八百間の改修工事を行ひ、車馬の交通大いになるに至った。猶同年十一月には陶山の通路に沿へる各窯焼が何れも飾窓を新築せしは、三河内の外他山に見る能はざる光景である。

一の瀬山
 大川内村なる一の瀬山(元市の瀬書きもの多し)は、大川内山の隣山にて、山越しに二十町を隔て、又伊萬里よりは一里余の行程である。此地は元松浦村中野原方面(牟田の源や岳野山)の韓人が、山越しに小石原を経て此處に開窯せしての説をなす者あるも、彼の山越しが果して當時可能なりしや否や詳でない。

高麗神窯
 一の瀬の古窯趾には、高麗神、火の谷、市の瀬古窯、市の瀬新窯、東の谷等がある。高麗神は南方の谷へ三四丁入りたる溪流の山裾にて、古窯品には鉛色や暗黄色胎土の上に、黄灰色や鶯色釉を掛けし茶碗や皿鉢等があり、中には鐡釉にて茅の如きを描きし物がある。又無釉高台には、三日月形があり、又暗黄色には縮緬皺が現れてゐる。

火の谷
 火の谷は西方の丘地にて、其邊りは大部分畠と成つてゐる。古窯品には暗黄色及帯黄色胎土の上に、小氷裂出の薄茶釉、黒茶釉、卵色釉、鶩茶釉等の茶碗が多く製作されており、そして高台高く且施釉されてゐるところ、高麗神よりも顔る後代の開窯と見るの外ない。又後には磁器が製作されてゐる。
 火の谷に隣りて前方が市の瀬古窯であり、後方奥へ流れて登の趾が市の瀬新窯である。そして此二窯は當時盛んに染附磁器を焼きしものにて、原料は大川内山と同じく、有田泉山の磁石をのみ使用してゐる。

一の瀬東の谷
 又東方の谷なる東の谷と稱する處の窯趾は、今より四十六七年前大串鹿臓が一登を築窯して、型染附にて、火入や春田屋丼などの下手物を製造せしも、山よりの出水多かりしために、幾許もなく中止せしといはれてゐる。
 藩制時代の製陶制度にては、一の瀬山は六寸丼春田屋丼(綠反の淺井にて、按ずるに春田屋某といへる仕入客が、此形の丼を注文せしより、此名起りしにあらざるか)の如き下手物と限られ、又其繪柄に於いても竹仙人と定められてあつた。其後も日用向専門の丼を最とし、大川内山とは別途の觀ありしも、生産額に至つては、常に之を凌駕せしと稱せらる。

竹下勝七
 後年打續きての不況にて、一時此地の窯焼悉く廢業し、竹下勝七一人の製造時代があつた。蓋し彼一戸の年產額七万圓余を繋げたのである。勝七は先代清左工門の男にて、大正八年四月十六日大川内村長に就職し、一年余にして前田久太郎と代りしも、常に営業及村治上盡瘁するところ少からず、同年三月二十二日には自治制の圓満保維者として部長より表彰を受けたのである。
斯くて大正十年二月十日七十才を以て卒去した。
 明治初年の此地の窯焼十五六戸あり、製陶頗る盛んなりし共に、戸數又百戸を敷へしも、其後斯業の衰退に伴なひ今其半にも満たず、僅に二十五六戸に減少してゐる。 現在窯焼は豚七の男竹下秀一の外大串勝、金子儀平、田中森一の四戸となり、年産額四萬圓余といはれてゐる。
 現代製作されつゝあるところの鍋島焼を見るに製品と比較して余りに飽き足らざる感がある。
而して其目的が製品の復活と否とに拘らず、なほ一歩を進めて眞の美術的製造法を復興し、以て泉山の原料を用ひし往時の作品に見るが如き優良品の製作さるゝに至らば、我邦工藝界の進展に資することの如何ばかり甚大なる可きかを想うて止むはざるものがある。それにしても第一の問題は資力であらう。

内庫所の援助を希望す
 勿論資力と作業の精進のみを以て、美術品が完成するにはあらざる可きも、近來此地方一般の製品が色相頗る輕薄を呈し稍もすれば有田焼傳統の釉相が失はれんとするの時、内庫所の如きがたとひ小規模にても、之が復活と進歩に向って貢献さるゝに至らば、有田焼の眞美を解する禮讃者の爲にも、大なる幸福であらう。

七官手の無類
 製品の優劣は暫く措き、我邦中磁器を産するの地にして青磁を製する處少からざるも、然れども此手の七官手を製するの地は、吾人の寡聞なる未だ之を聴かぬ、而して往時は此食器に用ふれば諸毒を消すと稱せられ、殊に藩制時代に於いては、藩窯の外猥りに製作することを禁ぜられた程であつた。然るに後代に至りて粗製濫賣の結果、下手物中の下手物とさるゝに至つた。

七官手粗製の因
 事の起りは明治十五年頃、泉山石場準備金取戻事件(有田編参照)なるもの勃發し、それが意外なる費途に消耗されおりしより大川内窯燒は一同憤慨して、断然泉山の原料を使用せぬことに申し合はせ、是より地元六本柳の青磁石粘土とを以て、皆一斉に罅焼を製造するこどゝ成った。そして高價を要する橘灰の使用を廢し、専ら圍爐裏灰をフラックスとして製作したのである。

七官手監賣
 而かも色相黄色を帯びて釉薄く氷裂こまかなる粗製品を鑑賣せしかば、伊萬里市場に於ける相場は茶器一組七錢、小ぶく茶碗一個四厘半といふ慘じめな値段となった。此時代より罅焼の價値全く失はれて之を顧みる者なく、途には墓場の水茶碗や花立にまで使用さるほど低下したのである。

七官手改良
 藩制時代は御用品として、寧ろ碪手よりも珍重されし七官手なることを追懐し、再び昔日の如き優品の復興を望むは吾人のみにあらすと思ふ。蓋し従来の製品は陶質なるを以て、頗る脆弱であることが大いなる缼点として、その質用範圍が次第に縮少さる恨みがある。
 故に胎質を石器以上に改良し、日用品の如きは特に施釉法を研究して、出来得る丈け軽便ならしむる事が肝要であり、畢竟するに價格の低廉といふことが此際取るべき得策ではあるまいか。そして碪手と共に大川内山の特製品として、再び更生せしむることも、亦一方法として考慮の価値を失はぬであろう。

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