肥前陶器の史外編

肥前陶滋史考
鶴田 純久
鶴田 純久

肥前陶史の本編は、朝鮮直系に直接関係する開窯跡が中心であるため、『肥前陶史』の本編とは関係のない、あるいは関係の薄い、あるいは不明な土器跡を別編として収録することにした。
 肥前陶器は非常に古くから作られており、現在佐賀市の博物館に展示されている長さ1尺ほどの甕形土器や、栄郡神野村溝地区の畑から出土した広口甕は、いずれも古代の遺物である。

三川内産の土器
 東彼杵郡折尾瀬村三川内本村の字今福東西免除堂前では、明治15年ごろの国道工事で多数の土器が出土しているが、その中には神代時代の土鍋と思われるものもある。神代時代の土器であることが判明したものもあれば、唐津市郊外の浜田城から出土した無銘の弥生土器、佐賀市上田布瀬町から出土した同土器など、いずれも2000年前の土器であることが確認された。

弥生甕棺
 小城郡美里村山崎では、高さ4尺を超える素焼きの甕棺が2基出土しており、約1500年前のものといわれている。弥生式甕棺は、衣川郡田代村、同郡弓田村、養父郡朝日村、養父郡中原村で多く出土している。富士通郡五丁田村の上井長屋からは、直径6寸以上の土師器皿と鉢が出土している。
 神崎郡三田川村の吉野ヶ里と呼ばれる峠からは、土を掘り返すたびに上記と同様の甕棺が出土した。高さは2.8cmで、同じような嵌め込み形をしている。高さ1.2cm、f5cmの土器もある。また、耶武郡東尾町の猿巌と呼ばれる土坑からは、高さ8センチほどの継ぎ胴式土器などが出土している。また、富士通郡の球磨や冬野からも数千年前の土器が出土している。

有紋土器
 木島郡朝日村川上の鬼塚古墳から土器や石器が出土。神崎郡拓田町では弥生式土器が出土している。神崎郡脊振町と日御碕町の間にある寺狩町千丈ヶ谷の押型文土器や、東松浦郡久里村柏崎の弥生文土器は、非常に良い研究材料である。また、神崎郡西郷村尾崎の古墳から発見された水瓶も三韓渡来期の遺物である。

栄の地名
 当時、大荒田に祠を建てていた土蜘蛛の姉妹が賢女であったことから、それが地名となり、この地を坂と呼ぶようになったという説がある。

土師郷
 土師郷は小城郡三日月村(現三日月村)とも呼ばれる。神崎郡には、鶴村、五箇村、四日町、平針、水場村、土井上村、辻村、大目刈、西溝村などの土師郷地名が記録されている。

肥前瓦の始まり
 第36代孝徳天皇の御代に、肥前国で瓦焼きが始まったという記事がある。当時、瓦を焼くことは珍しいことだった。古代の瓦は、現代製品のような単純なものではなく、様々な文様を持つ利呂の建築美術の一種であった。

東尾焼
 東尾焼は、中原駅から7里ほど離れた養父郡白壁町(現三養基郡北茂安村)にあり、130戸が暮らしていた。東尾焼の起源は古く、筑後関所の筑後八幡宮の神事で粥を試食したのが始まりとされる。

粥の試験
 正月十五日に炊いた粥を冷まし、その材料で九州五社の豊凶を占った。しかしある年、粥にカビが生えて判定ができなくなったため、従来の鉄瓶をやめて清潔な土瓶に変え、毎年取り替えていた。

松村掃き
 白壁の川道郷に、平家落人の末裔の松村掃部という人がいた。(この時の古文書は、今ではボロボロの状態で、ところどころに黒いシミが残り、包んでいた錦も今では地糸の繊維だけになっている。

神秘的な制作
 この土器の制作が終わると、当時神秘的とされていた雑器を作るようになり、彼らはいつも烏帽子をかぶって編んだ筵(むしろ)の上に座り、身を清めるために轆轤(ろくろ)に向かった。この窯元の継承は常に代々受け継がれ、二代目以下は協力して次の代に受け継がれた。松村姓は一家に限られていた。後世、この窯業に従事する人が増え、焙烙(ほうろく)を中心に、瀬平鍋や火消し鍋など、すべて素焼きの窯が作られるようになった。

橋山(日本
 嘉永年間、隣接する白石の小川源一が楽焼に挑戦し、さまざまな茶道具を作った。オランダ系との混血で日本陶山と名乗った彼は、各地の窯元を巡って製法を学んだ。そこで3年の歳月を費やし、現在の東尾焼のスタイルである朱泥の陶器を作り上げた。

古賀市次郎
 古賀市次郎(一郎の養父)は近世の名陶工である。彼は茶褐色の素地を磨いて釉薬をかけたように見せる素焼きの陶器を数多く作り出し、中には桐と見紛うような木目のものもあった。このタイプの火鉢は、手焙煎のような軽い触媒と温度管理が維持でき、磁器のように焦げ付かないという利点がある。現在、窯元は約20軒、年間生産額は約2万円。

白石製陶所
 白石陶園は、東尾窯から10町ほど離れた三養基郡北安曇村白壁の北部山間部にある50戸ほどの集落。この地での陶器生産は源平時代まで遡るという言い伝えがあるが、詳細は不明。原料はこの辺りで採れる橙色や鳶色の粘土で、享保年間から郷の人々は農作業やわずかな仕事の副業として陶器を作っていた。この地は、東尾氏とともに片大江鍋島藩士であった山城直弘(8,616石)の邑で、系図は左の通りである。(白石鍋島系図参照)

白石七厘
 欽明天皇の年、木島郡成瀬(橘村)出身の桝屋金右衛門という男が、隣の上野で陶器商に失敗し、やがて妻子を連れて白壁近くの中原に移り住み、下宿していた。この邑の領主鍋島山城(直正)の山役所の責任者であった深堀探策と知り合い、彼を白石に招いて作陶させ、その土で七輪や火消し壺などの焼物を作って久留米方面に売り込んだ。
 ある日、久留米藩のある家が七輪を購入し、城内で使用した。七輪は従来のものより丈夫で長持ちすると評判になった。桝谷家の歴史はこうだ。
 敬三の代に邑主の小姓に任ぜられ、姓を増谷から松本に改めた。

藤崎110番
 寛政12年、松浦郡大川内山の鍋島藩窯の陶工・藤崎百十が、ある事情で妻子を連れてこの地に来た。邑主の藤崎百寿は、法を犯して作陶していることをあえて隠していたが、その作風は大川内そばとまったく同じであった。こうして、藤崎の後代である佐藤某も、邑主のために陶器を作るようになった。

曲淵和右衛門
 文化年間末(119年より14年)、邑主鍋島河内(直孝)の出納役であった曲淵和右衛門が、自ら窯を築き、有田から職人を招いて再び白華荘焼を焼かせた。染付の紅葉や絵付けを施した菓子鉢や、底に染付を施した小皿もある。佐賀藩もこの焼物を南京焼と呼んで高く評価し、増谷要石やその一族の半兵衛堂、和右衛門らに多くの免許を与えた。

武田常右衛門
 武田常右衛門は、白壁町北尾郷の御用窯に出仕を命じられ、一種の陶器作りを研究し、リピーターとなった。(息子の一郎が東尾の古賀藩を継いだ)

沢田春山
 次に邑府家に幸運をもたらしたのは、京都の陶工・沢田春山が窯元・中山与八の工場に滞在し、京風の茶道具を作っていたことである(春山は元は若狭の出身)。(若狭出身の春山は、はじめ佐賀県伊勢屋町に来て、のちに名村達山とともに筑前須恵の磁器(黒田藩主御用窯)を手がけ、のちに白石に来て房波のもとで働いた)。

臼井橋波
 安政年間、曲淵の後継者は京都の名工・臼井橋波を雇った。元僧侶の家に生まれ、法雪とも呼ばれた彼は、陶芸の技術に加え、草花の絵付けを得意とし、絵楽の金彩画にも長けていた。
 橋波が来てから、白石焼の作風は一変し、京風を取り入れた一種の郷土色を形成するようになり、この頃の製品は橋波焼と呼ばれるようになった。残念ながら視力を失い、京都に戻らざるを得なかった彼は、弟子の中から二人の名工の技を受け継いだ。彼の後を継いだのは2人の名工だった: 工芸は野田吉次郎、書は中村喜兵衛(後に吉と改名)である。

松下堂
 明治10年(1877年)、白石の家臣であった城島主清(のちの神戸桟橋組合理事長)が、中国を旅行した後、一種の青みを帯びた新しい着色釉薬を発見、
松下堂の印が押された作品を残している。

橋波の作品
 遺作には、白化粧に桃の形の筆で牡丹と蘭を描いた高さ7升の徳利や、同手に牡丹を描いた高さ7升の磁器鉢、同手に梅と牡丹を描いた筆洗などがある。また、同じ手に春華の手捻り脇取手付急須、蒼葉の呉須に紫陽花の花と枝葉の浮き彫りがある。また、長さ1.5メートルの花瓶の縁は割縁で、縁は赤と青で牡丹が描かれ、同じ作者によるものだが、これは後にフサナミが輸出用に制作したもので、長さは3メートルまであった。
 次に、諏訪南が制作した白磁のうち、「四君子」の四文字が墨書された鉉装飾土瓶(「巳」の銘は1869年に諏訪南が揮毫)と、同じ鉉装飾土瓶の片面に「李白」、もう片面に「雲仙」の詩がスローマンで書かれた優品がある。このほか、染付高形菊花文保温瓶、萩縁取手付急須、茶碗、盃などがある。また、白磁の花瓶に牡丹、梅、菊などの赤絵を施したものや、茶碗に秋橘、萩、百合、柘榴などの菊花を描いた花沈金玉などもある。

その他の白石焼
 松本天治作の褐釉捻り茶碗、珍しい褐釉白黒螺旋文茶碗、白黒螺旋文細茎急須、同小花台がある。また、慶三磁器の染付狩野山水二合盃や、京口半磁器の水色赤絵八合盃もある。

白石焼の輸出時代
 明治31年(1898年)、重要物産組合法に基づき、国内外に販路を開拓するため窯業組合が設立され、全品検査が行われた。

白石の近代製品
 白石は現在、陶器と磁器のみで、かつては富士通郡産の吉田石を少量使った石器が作られていたが、現在は地元の土を使った土鍋、火鉢、甕、飯碗、植木鉢、墨瓶蝋皿(5寸丸または角の円筒形の皿で、内側に茶色の釉薬がかかっている。(内側に茶色の釉薬がかかった5寸の丸や四角の形の蝋引き皿)などがある。窯元は藤崎の子孫である佐藤孫作をはじめ10人ほどで、年間生産額は約15,000円と推定される。

尾崎窯元
 尾崎窯は神崎郡西郷村にある70戸ほどの窯元である。延元年、懐良親王が肥後国菊池郡に勢至府を設け、河内国の某が従ってこの地に入り、窯業を興した。筑後国の陶工家永彦三郎の弟子長右衛門という人が尾崎村に移り住み、この地の土で茶器を作って秀吉に献上したという。その子孫は土屋姓を名乗り、代々陶器を生産していたが、定かではない。

杖突橋の韓人塚
 神崎井から半里ほど離れた姉川村との境、杖取橋の近くに朝鮮人墳丘墓がある。朝鮮出兵で鍋島直茂に仕えた姉川中務大輔信康が、この地の陶工たちを連れてきたのではないかと思われるが、この流れから尾崎までが川久保の私的な邑であるとすれば、家慶に随行した神代喜平次かもしれない。

尾崎の古陶器
 尾崎の古い陶器は素焼きで、質は軽く、白地に時折黒い斑点があり、べっ甲のような模様をしていたが、非常に壊れやすかった。100年前には、伊藤栄左小紋、高柳太兵衛、篠崎伊助、石橋十一、高柳善六といった名だたる陶工が雑器を作り、かなりの生産量を誇っていた。現在では、高柳芳太郎(善六の子)の後継者である宮地仁蔵ら5軒が、当時の5分の1程度の3,000円程度の生産をしているという。

現在の尾崎の製品
 現在の製品としては、火袋、火鉢、炉、土鍋、火消し壺、植木鉢、焙烙などの土器や、人形、鳩笛などがある。
瓦職人もいるが、地元の需要を満たすための限られた範囲にすぎない。様式的には、火鉢用タイルの黒い斑点は今日では逆になり、黒地に白い斑点、白い斑点の中央に黒い点々がある。近代になると黒斑が反転し、黒地に白斑が現れ、中央に黒点が現れるようになり、ややソリッドな質感になった。

今山型焼
 今山型焼は、佐賀市から2里ほど離れた佐賀郡川上村にある。横馬場と呼ばれる五十戸ほどの集落のふもと、沢を二つ越え、山蚊がうじゃうじゃいる森の中の鬱蒼としたトンネルの中に、反り返った染付磁器の破片が散らばっている。
主原料は300年前にこの山で発見され、南河原の初代柿右衛門が使ったといわれる今山石である。この陶器の起源は不明だが、245年前の銘文が残っている。

古い今山製品
 最古の製品と思われる三本脚の小香炉は、土が軟らかいため釉の縁が茶色く変色し、縁裏に肥前今山焼の印がある。
自家製の作品には、中皿に底が水洗の六寸皿、茶碗、鉢、花台などがある。また、李垠(りゅうちょく)、李垠(りゅうちょく)の窯の銘板もある。

今山窯跡の銘板
 今山窯跡には史跡の銘板がある。この銘板によると、慶長3年、鍋島直茂は長門政順(まさじゅん)に命じて、朝鮮人の李参平(りさんぺい)に今山窯で青磁を焼かせた。しかし、この史実を確かめるのは、心ある者にとっては大変な苦労である。

明治維新後の今山焼
 今山焼も幾多の変遷を経て、明治維新前に川上実相院の住職が佐賀県本庄町の森伊作に出資し、衰退した窯を再興させた。田地家など、伊作が所有していた窯の中には、その後廃窯となったものもある。

大願寺焼
 大願寺焼」とは、前述の横馬場から半里ほど離れた墓地の奥にある窯のことで、かつては粘土瓦を焼くための窯だった。その昔、北条時頼が巡礼のためこの地を訪れ、大病を患った際に回復を大祈願し、後年、五社(仲哀、神宮、英神、姫大神、春日明神)が建立されたことから、この名がついた。土手には、元亀元年8月、鍋島直茂の奇襲で討ち死にした大友八郎親秀の墓碑がある。この地域での陶器生産の基盤は、非常に古いものではあるが定かではない。 製品は甕、水鉢、蘭鉢など。陶器は完全に破壊されている。

相之浦焼
 相浦窯は小城郡北多久村天山の麓にあり、かつて相浦城(別名・十王城)があり、相浦守(後の縫殿助)の居城であった。この辺りには古代の遺物が多く、ヒスイなどが時折見つかる。窯業は完全に廃業しており、陶器の起源を知る術はないが、皿や茶碗など当時の製品は焙烙焼と思われるが、陶器の質は非常にデリケートである。

川久保燒
 川久保燒は佐賀市から2里半の佐賀郡久保泉村にあり、360戸、160軒の窯元がある。川久保の東7、8丁の丘に3つの窯場がある: 大塚山、立山、皿山である。大塚山、館山、皿山である。

川久保窯の自家製碗
 自家製のカップには、灰色や茶色の地に飴色の釉薬や白い刷毛目、化粧などが施されていることが多い。これらの皿や鉢の多くは蛇紋釉で焼かれ、「素焼き」の技法で釉薬をかけたものも少なくない。薄い蓋碗や縁碗もある。
 褐色地に完全な無釉のものもあれば、灰釉や白釉の大皿もあり、飴釉の氷煎餅窯の作品もある。呉須でハート形の草の葉が描かれた中皿もある。要するに、ここの石器は半磁器に近いもので、元禄元年の藩主神代氏の支配下で生産されたものである。

神代藩
 神代氏の祖先は、8代孝元天皇の曾孫である武臣命(たけうしのみこと)の長男、武内宿禰(たけうちしゅくね)の子孫で、物部(もののべ)と姓を名乗って神代山に住んだ。 その子、義元(よしもと)は曾孫の民部少輔義忠(みんぶしょうすけよしただ)に続き、孫の義元(よしもと)は足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って武功を挙げた。
 子孫の勝元は肥前国に移り、子の利久は神坂仙布村の豪族陣内大和守利清の女に嫁ぎ、その子の勝利と武勇により、初めから千葉古城に従った。佐賀の龍造寺隆信と覇を競うようになったが、長柄に至ると龍造寺に属し、500丁の領主となった。その後、鍋島氏の配下となり、川久保4300石を領し、西原の舘に居住した。左図は神代系図。 (神代系図参照)

御茶屋焼
 川久保にはもうひとつ、御茶屋焼という窯元がある。後の川久保藩主神代直房大炊助が70年以上前に西原の邸宅で生産したもので、淡青磁の鉢や菊皿などを巧みに作ることで知られている。ただし、いずれも石器か磁器のようだ。

藤堂窯
 佐賀郡松梅村(市内から北へ2里)の宮地嶽神社の裏山に藤堂城窯があり、10窯の登り窯跡が残っている。製品はまず赤土で焼かれ、雪平鍋や片口長籠を中心に、釉薬(緑釉)をかけた茶釜もあった。やがて、この山の樋池というところで磁器の原料を見つけ、柔らかい薄灰色の磁器を焼いた。最初の製品は呉須(ごす)で染めたが、後の作品はコバルトを主体にした。
 初めは井仁(いに)絵具で染めたが、後期はコバルトを主体にした。

松ヶ谷焼
 小城の松ヶ谷焼は、元禄時代に小城三代藩主鍋島金盛元武が南河原から職人を招き、松ヶ谷の別邸に窯を築き、庭で楽しむための陶器を作り始めたのが始まりとされる。
左は小城鍋島の系図。(小城鍋島系図参照)
 松ヶ谷別邸は、祇園川の東、地黄松村役場の東に位置し、高台にあるため見晴らしがよい。本部はこの地に工場を設け、青磁や天草白磁(柿右衛門様式の青磁)を生産していた。松ヶ谷焼の角松銘は不明だが、角白銘は柿右衛門の作品にのみ使用されていたようだ。角窯の磁器は藩主の遊興のために作られたもので、営利を目的とせず、非常に立派なものであった。というのも、盃は藩主の遊興のために採算を度外視して作られたもので、小さな盃ひとつでも藩主に珍重されたほどである。

南川原の職人たち
 当時の小城古文書によると、元禄12年4月6日、藩主元武は南川原の陶工松井兵衛門に銀50匁を与えた。同年8月25日、有田焼の酒井田徳郎に銀貨1両を与えたという文書がある。次いで正徳6年11月、同窯の窯元長崎藤左衛門に銀銭と酒肴料を与えたという記録がある。元禄17年9月9日、商工景茶屋番頭山田善右衛門に銀を与えたという文書がある。元禄五年、赤絵越の記録あり。日記には、「昨秋、赤絵越を賜りたく申し候へども、編者共訴訟多事にて、何時も賜り候事候へども、只今は賜り候事候」とも記されている。
 この職人たちは、いずれも有田郷南瓦山の出身で、松ヶ谷焼の陶工として働いていた人たちらしい。
 享保11年、5代藩主加賀守直秀の時代に藩に移管され、皿山方という特別の役人が任命された。直英の役所もこの陶器に大きな関心を寄せ、奨励したといわれている。

岩蔵寺の香炉
 岩松村の古刹・岩蔵寺所蔵の香炉は、元文4年(1871)の作で、裏面に左のような銘がある。
松子屋皿山奉納
元文四年万歳
元文四年天満宮松花谷皿山奉納
 器の裏には次のような銘がある: 元文4年9月吉日 碩谷皿山神社奉納」とある。その後の沿革については史料が残っていないが、6代藩主・紀伊守直則の時代まで続いていたことは確かである。したがって、安永年間までここで土器の煙を見ることができる。

松ヶ谷窯の開窯
 松ヶ谷焼の開窯が前述のように元禄期であるとすれば、正徳2年の天草石使用発見以前という矛盾がある。初代藩主・紀伊元茂が最初に石碑を作ったのかどうかという疑問が生じる。
 というのも、有田皿山で陶工の選抜が行われた寛永14年の古文書に、次のような記述があるからだ。紀伊守に対する古文書
紀伊守より紀伊守宛の古文書がありましたので、下記の通り売渡証を送付いたします。
六月九日
拓三作殿(重辰)
諸岡彥右工門(しげゆき)

 もちろん、有田泉山の磁石は、当時は他所には石一つ運べないほど厳しく規制されていたのだが、小城の殿様は何か特別な理由で使用を許されたのだろうか。紀伊守は勝茂の長男で、実際は勝茂の妻、高源院の侍女お岩(小西三育門の娘)の娘だが、藩主忠直の弟なので、忠直の意向が満たされなかったかどうかは研究課題である。

檜枝岐の池焼き
 また、佐賀郡小机村日野池では、大正6年(1917)頃から陶器の生産が始まったが、良い原料がなく短期間で廃窯となった。佐賀県の陶磁器生産はここまでで、以下は長崎県の陶磁器生産について記す。

古賀人形
 古賀人形は、木佐津駅から長崎まで32丁(3.5km)の北葛城郡古賀村(旧空閑村)の藤棚という30軒ほどの集落で作られている。この地は島原城主松倉豊後守重政の領地であったが、寛永15年、切支丹の侵攻により諫早の支配に屈することなく幕府の直轄地となった。
 天文年間、小川金右衛門という大村の武士がこの古賀村に住み、農業を営んでいたが、小三郎の三代目のとき、京都から陶工の時六助がやってきて、一年間滞在した。

小川喜左衛門
 天和年間、二代小川喜左衛門が肥後藩主から儀礼用土器の製作を依頼され、郷土の人形作りを研究した。文化年間(1905年~1926年)には、雛人形の製作を開始し、販路を拡大し始めた。1909年頃までは小川家の後継ぎ3軒が人形を作っていたが、1960年以降は2軒のみとなった。
 同年3月、小川源太郎と小太郎は佐賀県や福岡県に土人形の産地を視察に行き、さまざまな改良を加えたが、販路は徐々に縮小していった。現在も土人形を作り続けているのは家元・小太郎ただ一人で、久々利の土を使い続けている。

甲賀人形の種類
 当初は、文禄年間から赤と黒だけの彩色で、小フクロウ、サル、ネコ、ペキニーズ・パグ、太鼓持ち、福助など18種類の人形があった。
 その中のひとつに、鶏を抱いた猿の人形がある。かつて石武山の農民が鶏を飼っていたが、狐にさらわれたという言い伝えがある。
 その他、タッカジャン人形、ハイケン人形、アランダコヒタン人形など、いずれも非常にシンプルで面白い作風である。従来の彩色をもう少し落ち着いた色に改良すれば、さらに風情が増すだろう。

亀山焼
 文化元年、古儀郡長崎村伊良林字垣根山(長崎村は1887年4月に長崎市に編入)に亀山社中が設立された。長崎県八幡町の大上甚五兵衛は、山田平兵衛、澤谷嘉右衛門、古賀嘉兵衛らと協力して、オランダ人が年々要求する水指の製造を開始し、伊良林郊外に窯を開いて三ヶ山焼と称した。

飛騨頼経
 しかし、この製造事業が思うような成果をあげなかったため、平兵衛、嘉右衛門、嘉兵衛の3人は組合を去り、甚五兵衛が一人で経営にあたることになった。同3年、長崎奉行飛騨豊後守頼経の庇護のもと、有田から職人を雇い入れ、有田石から白磁を製造、奉行から幕府献上品に指定され、亀山焼と改名した。

尾上甚五兵衛
 大神甚五兵衛は、自らも絵付けを得意とし、中国の古染付を彷彿とさせる作品もある。弟の卯平の後を継いだが、名匠としての地位を継ぐことはなく、名声も価格も下落した。

柳生久蔵
 天保12年、長崎奉行の柳生伊勢守久蔵も大いに奨励され、清の尾州から悪土を移し、酒器、茶器、茶碗などを生産した。磁器にはいわゆる「亀山図」が描かれた。

五雲、鉄翁、黄門
 当時の長崎には有名な名匠もいた: 八幡町の木下逸雲(通称鹿之助、通称蒼斎、通称黄斎、慶応2年8月4日卒、67歳)、俊徳寺の栄貞麓(通称日高、明治4年12月15日卒、81歳)、三浦黄門(通称蒼介、明治4年12月15日卒、81歳)である。 通称宗助、通称維純、通称宗助、通称秋穂、通称狩与)、愛祥目付(通称海上目付、通称海上目付)であった。 風景画を得意とし、「風助」とも呼ばれた。しかし、再び経営難に陥り、3代目の甚五兵衛によって廃窯となった。

井田吉六
 安政5年(1858年)、江戸の名工・井田兼斎(通称・吉六文斎、下総国海事郡沼村在住、明治元年(1868年)70歳卒)は、従兄弟の三浦兼也を伴って亀山荘窯の再興に取り組んだが、資金不足のため3年でこの地を去った。

岡部長恒
 同年9月、長崎奉行の岡部駿河守長恒が亀山窯の更なる確立を決意し、江戸から役人の小島喜左門が赴任したが、1886年に廃窯となった。

長崎窯
 文化12年(1218年)、長崎県東浜町の蒲池政入(後に知久と改名)が、加平郡浦上村渕郷字鵬ヶ崎に開いたのが鵬ヶ崎荘である。

樺池無量斎
 次に中村秀吉(なかむらひでよし)樺池(かばいけ)は、豊前(とよぜん)国中津(なかつ)の人で、長崎(ながさき)銀屋町(ぎんやまち)の樺池(かばいけ)家を継いだ。長崎・銀屋町の中村秀吉樺池の跡を継ぎ、無為斎の名で優美な石器を制作した。山水、花鳥など趣味の作品も少なくなく、自作の詩文や賛もある。1868年に彭克崎に生まれ、1869年に67歳で没した。

彭克崎の旧作
 彭克崎の作品には、素焼きの鉄地に白釉で詩が書かれた横手角口の急須、側面に龍が彫られ、胴に白釉が施された水指、鉄に雲文が描かれた火指などがある。また、蜀山人が長崎訛りの狂歌を書いた皿や、中国の蘇州で出土した土で作った皿には「蘇州製」と刻まれている。このように、嘉永年間に廃陶となった陶器がある。

秋の浦焼
 安政4年(1615~1715)、長崎の対岸にある与謝郷秋の浦で創業したのが秋の浦焼である。長崎製鉄所が設立されると、現在の第2ドック付近で製鉄所用の煉瓦が焼かれ、天草石で阿蘭陀風の磁器が作られ、一部には赤絵が施された。ドック発掘の際には、窯のほか皿や鉢の破片が多数出土した。八軒家燒の名は、おそらくこの地の産物に由来する。

稲佐焼
 1875年、長崎の対岸、浦上村淵の平床屋にあった鵬ヶ崎の窯を放棄した蒲池朝吉が創業した。その中には英国風の模倣品もあり、渕焼とも呼ばれた。しかし、平戸小屋は安政3年に外国人の憩いの場となり、浅吉は前述の亀山に移った。

蓮田窯
 蓮田窯は、長崎から浦上への入口、かつて蓮田があった場所で作られた。ここで作られた陶器は蓮田焼と呼ばれるが、その場所は定かではない。

小曽根焼
 小曽根焼は1872年(明治5年)、当時の長崎町長であった小曽根六三郎の息子・新太郎が長崎市内で創業した窯元で、天草を原料とした染付磁器を生産していた。有田、大川内、大田市などから職人を招き、豊富な資金力を背景に高い評価を得ている。

小曽根兼道
 六三郎は六左衛門の子で喜円堂と号した。楷書を春廬石に、隷書を小虎禅師に、美術を哲雄和尚に、篆刻を大城也静和尚に学び、特に篆刻の腕前には定評があった。明治6年(1873)5月3日、皇居の梅の間上段に国璽の彫刻を命じられ、2寸角の大きな純金印に国璽を彫った。

小曽根清海
 小曽根清海は篆刻を得意とし、詩や書を彫ったものもある。当時、木島郡小田子山の名陶工・松尾喜三郎が磁器製造を統括していたが、わずか3年ほどで窯を放棄。大田市に住み、波佐見の中尾山で長らく碍子(がいし)を作っていた旧島原藩士の田中卯太郎が廃窯の材料を買い取ったが、窯を修復する資金がなく、他人に売ってしまった。

小曽根象嵌
 肥後の高田から職人が来て、象嵌の手を作り、とてもきれいだったが、3年で完全に廃窯になった。

山里山焼
 長崎市浦上松山町の馬淵龍関の作。幼い頃、清水の歌人・太田垣蓮月から和歌を学び、蓮月焼の手捻りの名手・黒田梁山(光義)から茶碗を譲り受け、陶芸技術を学んだ。1886年(明治19年)、29歳のときに長崎にやってきて、最後の亀山荘焼の窯元として働いたが、窯を捨てて各地を巡り、その年に自分の窯を開いた。

龍石の指導
 その4、5年後、島原半島で5、6年間、小浜焼の指導にあたった。また、波佐見の中尾山に10年間住み、馬場彪山に師事した。また、岩屋川で松尾勝太郎のもとで数年間暮らしたが、末っ子の長久(松尾仁の父)らに助けられ、この地を離れる。
 その後、故郷に戻り山里焼を作り始め、1934年、83歳の今も精力的に作陶を続けている。(原料は主に長与や天草の土を使うが、まれに京都の土も使う。瑠璃ではなく、手びねりで作られる作品は、花器や茶器が中心。

龍石製品
 赤土に片手を添えた急須、茶碗、湯呑など、茶色の釉薬をかけ、さらに白や淡黄色の釉薬をかけたもので、下釉の茶色が映えるように上品な山水が施されている。また、栗色地に白釉をかけ、少量の釉下彩を施した作例もある。また、唐物(素焼き)の高浮彫山水茶器など、昔風の茶器も得意という。
 地釉に赤褐色や淡墨色の釉薬をかけ、釉薬に粗い渦巻状の白刷毛目を施した煎茶碗もある。高台の内側に釉薬がかかっていないが、高台に茶だこが施されている茶碗もある。また、長さ5寸のずんどう花入には、黒栗釉に白のマーブル模様が施され、釉薬と花入の間に青が散りばめられているなど、優美な器も多い。

長州山焼
 長州山焼は、明治36・7年頃、長崎市の梅園で岡野甚太郎(後の神戸市議会議長)が薩摩から輸入した材料を使って作ったもので、卵色の氷煎餅をのせ、薩摩風の緻密な絵付けを施した薩摩焼である。つまり、長崎で作られた薩摩焼の中では非常に優れた作品であったが、同年42年頃に廃盤となった。

長崎焼
 長崎焼は同市愛宕町(旧高屋丙午)で生産され、窯主は山口県出身の中原仁一であった。寛文年間、中原太郎作右衛門勝文という毛利藩士に雇われた陶工・友平が周防国吉敷郡新宮山に窯を開いたが、友平の死により廃窯となった。明治になり、12代目中原寛畝勝久の時代に、親戚の藤井常巌の次男を養子に迎え、現在の新一となる。
 九代目坂高麗作門に陶芸を学び、明治27年から4年間、大阪在住の独立陶工スキットモールに師事。1922年、吉城郡大道村勝の窯業組合に入り、貞露荘の指導にあたるが、1964年に長崎市に移る。

ラジウム粘土
 長崎市近辺でラジウムを含む粘土を発見し、長州山焼窯の材料を譲り受け、茶器や花器など様々な優美な陶磁器を制作、長崎県知事李隆介によって長崎焼と命名された。大正15年11月、県知事の命により馬来半島の窯を視察。1922年3月21日には華長殿下、1929年4月には閑院宮熾仁親王殿下の行啓を受ける。

長崎焼の製品
 前述した十郎山土と雲仙別子土を原料とし、黒天目(外釉)の南栗尻碗や、栗色地にうずらの手のような木目の白別子土などの製品が多い。また、重クロルメートと黄銅鉱を混ぜた真縁色絵釉など、多彩な製品が用いられた。

浦上の植木鉢
 木島郡橘村上野の坂本亀蔵は、1927年から浦上町橋口で小花鉢、七輪、消火鉢などを作っている。長興や五島の土を原料としていたが、現在は長奥の土のみを使用している。

像づくり
 同じ浦上の岡町に、1929年から神像を専門に作る奥村藤彦がいる。
彼もまた南宝井の島原出身で、筑波山の古い風呂で彫ったことがある。 一般に彫像師と呼ばれるのは、蝶子と五島の粘土を使ってキリシタン信仰に関連した彫刻だけを作っているからだ。
 もちろん、藤彦はカトリック信者であり、信仰の本場である浦上天主堂を敬虔に信仰する彼の彫刻技術は非常に素晴らしい。加えて、従来の輸入品の3分の1以下の値段で作品を作ることができるのだから、輸入品対策として国産品として奨励されるべきだろう。

土居のくびれ
 土肥のくびれ焼きは、長崎市から西へ1.5キロ、西彼杵半島の西彼杵郡土肥村字江川にある。かつては深堀中臣大輔順賢の邑(3000石)に属し、慶応年間には臼や植木鉢などの黒陶を生産していた。1916年(大正5年)、長崎市の岡部忠太郎らが有田町の深川忠次と共同で長崎陶器株式会社を設立、忠次は自工場から畝目仁一を派遣して窯の築窯などの準備をさせ、忠太郎が社長となり、天草の劣悪な石材を使って南洋向けのゴム椀やコーヒーカップなどを製造したが、その後、ゴムの収穫が激減して需要を失った。しかし、ゴムの収穫量が激減したことで需要がなくなり、1929年に廃業に追い込まれた。

土居の首瓦工場
 翌年、前述の旧会社の常務取締役技師長であった竹越直次郎(岐阜県)の支援を受けた大阪陶業株式会社が事業継続を決め、天草石に尾張蛙目を加えた磁器タイルを中心に製造を開始し、長崎磁器タイル製造株式会社と改称した。三菱造船所、南洋、中国、満州などから需要があり、三菱商事の手を経て南洋への輸出も行われていた。現在の従業員数は58名、年間生産額は5万円と推定される。

眉山焼
 美山焼は1894年頃、堀部百太郎が23人の出資者の協力を得て南高来郡島原港で生産したもので、湊焼とも呼ばれた。雲仙岳の手前にそびえる山が、かつて「眉山(びざん)」と呼ばれていたことに由来する。
 窯元は、有田稗生古場の中島忠作を主任とし、牛島光之助、田中誠一ら三河の職人10人を職人として起用した。彼らは七十八窯の登り窯を築き、六寸、七寸の花鳥図皿から食器、花器、さらには彫刻や蕎麦手まで、多種多様なものを生産した。日清戦争後まで続いたが、3年で廃窯となった。

小浜焼
 南足柄郡にある小浜焼は、30年前に中村周作という人物が山の上という場所で陶器を作り始め、1年で廃窯にしたのが始まり。

本田牧泉
 その後、本田牧泉(親元)が木場土に雲仙土を加え、自分の趣味の焼き物を作った。赤みがかった白釉で、火鉢と釜掛けが重なる。これらは手作業で成形され、牧谿自身が古今の詩歌やことわざを彫り、鉄粘土で象嵌した。
 他にも、飴釉や釉薬のムラがあるものなど、そのほとんどが前述の白釉を象嵌したもので、茶器や酒器、皿を向かい合わせにした皿など、すべて牧谿の手捻りによるもので、とても風情がある。当初は技術者として山里山窯の龍関が招かれたが、有田の橋口三次郎もその一人。橋口三次郎の愉しみは、彼の死後も保存販売されているものが少なくない。

羊とマケン
 マケンは墨作りの技術だけでなく、さまざまな産業の経営理論にも長けており、その失敗も見逃せない。雲仙岳での牧羊も彼の発明であり、それゆえ牧園と呼ばれるようになった。養蜂にも挑戦し、別府で陶器業も始めた。1932年8月9日、78歳でこの世を去った。

松浦昇仙
 牧谿の幼少期からの弟子に松浦正仙(正一)がいた。彼は自動車だけでなく塑像の制作も得意とし、薩摩や高取を中心に各地の山で陶芸の技術を学んだ。その後、中国滞在中に師の急病の知らせを受け、約16年後に帰郷、1カ月余りの看病の末、師に長い別れを告げた。
 仙禅の作品には、各種の茶道具のほか、約1200度の高温で焼成された白色の新輝釉を施した塑像や、黄白色の釉薬に梨地風の色模様を施した花瓶などがある。青磁の研究は、風光明媚な橘湾に位置する仙洞温泉・小浜の土産物になることが期待される。

雲仙窯
 雲仙岳の小地獄(145戸)にある雲仙窯は、1913年頃、前述の牧仙が妻の斎仙とともに窯を開いた。製品は温泉の浴槽や壁板用の白釉や緑釉のタイルだった。しかし、この種の陶磁器はこの目的には不向きで、大理石でさえ温泉の作用で年々変化し、この事業は非常に失敗した。しかし、この工場で考案されたセラミック製の砥石は実用的であり、細かい白い砥石ではなく、金砂を混ぜた粗い砥石として生産された。

本編の分類
 肥前陶磁史』は、混乱を避けるため、次の9つのセクションに分かれている: 椎の峰窯、武雄竹内窯、嬉野窯、平戸三川内窯、波佐見窯、諫早・矢上窯、伊万里南川原窯、栄大川内窯、多久有田窯。
 分窯の場合、各系統の朝鮮人やその子孫が各地で混血し、共同生活をしていた。そのため、技法がまったく区別できないものも多く、朝鮮人と日本人の婚姻によって、元の民族と区別がつかないほど帰化したものも少なくないだろう。

陶山と領主
 この地方の陶山の発展は、領主の保護と奨励によるところが大きい。領主たちもまた、自らの勢力を拡大するために戦争で争い、他の領地を奪うために戦争で争い、あるものは台頭し、あるものは没落した。
陶芸という秘術においても、各山の領主は侵略から身を守るための体制を整え、その間に栄枯盛衰があった。領主の栄枯盛衰は、領主同士の戦争と似ていて、歴史的にも興味深い。

諸侯の関係
 肥前の大名のうち、唐津の秦氏、伊万里の伊万里氏、有田の有田氏、平戸の松浦氏はいずれも同族から分岐したものであり、大村の大村氏は島原の有馬氏と、武雄の後藤氏も夫婦関係である。大村の大村氏も島原の有馬氏と、武雄の後藤氏も姻戚関係にある。
 したがって、当時の情勢を理解するために、大名の系譜や各系譜の有名な戦のいくつかを記すことは無駄ではない。しかし、龍造寺氏や鍋島氏の戦史については、それぞれの系譜でその一端を知ることができる程度であり、桜花の系譜で記述することは容易ではない。

原文

肥前陶史外編

肥前陶史の本編は、朝鮮直系の開窯地を主とせしものなるを以て、それに係はりなき製陶地や、又關はり薄き處や、或は其何れも不明の陶山を一括して、別に外編として掲載することゝしたのである。
 肥前の製陶は、頗る古くより行はれものゝ如く、今佐賀市の徴古館に陳列されてある佐嘉郡春日村高城寺山の山腹なる、神奈備神社にありし徑一尺許りの甕形の土器や、同郡神野村三溝の田圃より發掘せし廣口瓶など何れも古代の遺物であるらしい。

三河内の土器
 又東彼杵郡折尾瀬村なる三河内本村の字今福東西免なる堂の前に於て、明治十五年頃國道改修工事の際あまたの土器を發掘せしが中には神代頃に於ける鍋の代用器と見る可きものがあり。又唐津市外濱田城趾の無紋彌生式土器や或は佐賀市上多布施町なる同器の如き、何れも今より二千年以前のものと鑑定されたのである。

彌生式甕棺
 小城郡三里村字山崎にて發掘され石棺さ共に四尺餘の素焼甕二個現ばれしが、之は今より約千五百年以前の遺物といはれ。又基肄郡田代村安永田や飲田、養父郡旭村安良旭山麓及同郡中原村上地姫方地方には多くの彌生式甕棺が發見され中には二千年以前のものがあり。又藤津郡五丁田村上井長屋よりは、土器皿及六寸余の高坏が發掘されたのがある。
 神埼郡三田川村字田手なる(吉野ヶ里と稱する峠より、土を掘る度に前記の甕棺の如きが發掘さる。それは高さ二尺八寸口徑又同じき甕が二個宛口合せに成って現出する。又稀には高さ一尺二寸口徑一尺五寸の土器があり。又養父郡東尾の猿眼と稱する粘土採取場よりも、直徑八寸位の胴継ぎ土器や或はものが發掘された。其他藤津郡久間及冬野の土器があり何れも千數百年前のものらしい。

有紋土器
 杵島郡朝日村川上なる鬼塚の古墳よりも、石器と共に土器が發掘され。神埼郡詫田よりも彌生式土器が發見された。又同郡脊振と仁比山の間なる寺ヶ里戦場ヶ谷の押型紋様土器や、東松浦郡久里村柏崎の彌生式有紋土器の如きは、頗る研究の好材料であらう。其他神埼郡西郷村尾崎の古墳より現はし水筒に至つては、三韓出兵時代の遺物と稱せらる。

佐嘉の地名
 景行天皇の御代、佐嘉にて始めて陶製の人馬像を神前に建立せしことは、前段日本陶史譜に記述せしが、其時大荒田に建策せし土蜘蛛の姉妹は、枸に賢しき女なりとて之が地名となり、此地方を佐嘉と稱するに至りしとの傅説がある。

土師郷
 土師鄉としては、小城郡に甕調村(今の三日月村)の名稱があり。神埼郡には津留村、五日村、四日町、八日町、平ヶ里、水馬場村、土井上村、辻村、大目ヶ里、西溝村等の土帥郷地名が記録されてある。

肥前瓦の始
 人皇三十六代孝徳天皇の御代に於いて、肥前の国に瓦焼始まれりとの記事がある。當時にあつては瓦を焼く事さへ實に稀有の時代であつた。尤古代の屋根瓦は現代の製品の如く、しかく單調なる物にあらずして希臘傳來の種々なる紋様ある建築美術の一種であつたらしい。

東尾焼
 東尾焼と稱するは養父郡(今の三養基郡)白壁(北茂安村)にて、中原驛より七合里程戸數百三十戶の一宿驛である。此東尾焼の由来は頗る舊く其創始の動機が、筑後渡し場なる千栗八幡宮の神事に行はるゝ御粥試しより起りしものである。

御粥試し
 それは正月の十五日に炊きし御粥を冷し、之に生せる微を檢じて九州五社管内の豊凶が卜せらるゝので、毎年三月卯の日の祭日には、筑後國羽犬塚の某家代々來つて之を執行することゝ成てゐた。然るに或る年此御粥の黴不結果にて判断不能なりしかば、従来の鐵釜を廢して清浄な土器釜を製し、そして毎年之を取替へる事と成つたのである。

松村掃部
 其頃白壁の寶部なる川道郷に、平家落人の子孫といへる松村掃部といふ者ありて此任に當り、地下深く清浄なる埴土を探って土器釜を製作せしより、御粥占の試し良好なるに至りしと稱せらる、それは建治元年二月卯の日(六百六十一年前)の行事であつた。(今の神事は三月十五日に改められた)此時の古文書は既にぼろぼろに破損して黒染みるが所々に綴れ残り、それを包める錦なども地糸の繊維のみと成りて古ぼけしを、當地の古賀一郎が保存してゐるのである。

神秘製作
 此土器製造より後には雑器を作ることゝなりしが、それが當時は神秘とされしものにて、製作の折は必ず烏帽子紋服にて筵の上に端座し身心を潔めて轆轤に向ったのである。又此陶家の相續は必ず一子相傳と定められ、次子以下は其手傳ひさして協力することゝ成つてゐた。そして松村姓の如きは一家に限られてあつた。(今其子孫久留米に居る)後代に至つて此陶業を営める者増加し、製品は焙烙を主とし其他は雪平鍋、火入火消壺等にて全部無釉物である。

日本走山
 嘉永年間(元年は八十八年前) 隣地白石の小川源一樂焼を試みて種々の茶器を作る頃長崎の龜山より走山なる者涉り來った。彼は蘭人との混血児にて自ら日本走山と稱し、諸處の陶山を巡遊して製法を研究するのであつた。斯くて彼は此處に止まること三年なりしが、一種朱泥風の陶器を創始せしものが、現在の東尾焼の作風である。

古賀市次郎
 近代の陶家として古賀市次郎(一郎の養父)が名手であつた。今種々の無釉陶器が製作され、其茶褐色の地肌に磨きをかけて施釉物の如き光滑を現はし、中には桐材と見紛ふほどの木目を見せたのがある。此種の火鉢は手焙りの感觸と温度の調節を保ち、磁器の如く灼熟せざるころに長所がある。現在の陶家二十戶許り年産額二萬圓位であらう。

白石焼
 白石焼は、今の三養基郡北茂安村白壁の北部山間にて、東尾窯の所在地より十町許りを隔てし五十戸の村落である。此地の製陶は源平時代より起りしさの傳説あるも詳でない。原料は一帯の土地に産する橙色や鳶色の粘土にて、享保以來(元年は二百二十年前)鄉人が農事の傍ら副業そして僅かの麁器を焼いてゐた。此處は東尾と共に片田江鍋島氏なる山城守直弘(八千六百十六石)が釆邑にて、其系圖左の如し。(白石鍋島系圖参照)

白石七輪
 寶曆年間(元年は百八十五年前)杵島郡鳴瀬(橘村)の枡谷金右工門といへる者、隣地上野に於て製陶業に失敗し、果ては妻子を連れて中國筋へ上らんとて途上白壁の近傍なる中原の一旅舍に投宿した。折から人別改めに巡り來し此地の邑主鍋島山城(直章)の山方役深堀丹作の知るところとなり、金右工門は誘はるゝまゝ白石に来りて製陶を創め、此處の粘土を以て七輪や火消壺など燒上げて、久留米地方へ販売すること成った。
 或る時久留米藩の家中にて、此七輪を購ひ皈り城中にて使用せしに、従来の物よりも頑丈にて耐久的なりの好評を博し茲に白石七輪の聲價を擧ぐるに至った。桝谷家の略系左の如くである。
 慶藏の代に至り、邑主より特に足輕格に取立てられ、そして桝谷を松本姓に改めたのである。

藤崎百十
 寛政十二年(百三十六年前) 松浦郡大川内山なる、鍋島藩窯の陶工藤崎百十といへる者、子細ありて妻子と共に此地へ遁れ來りしが、百十は天草のゴコクサンと稱する原石を取寄せて半磁器風の白罅焼を創製した。邑主は彼が禁を犯して製陶しつゝあることを憚り鮑まで宗藩に隠蔽すべく努めしも、其製出されし作風は全く大川内燒其儘であつた。斯くて藤崎の後代佐藤某亦邑主の御用窯として製作するに至つた。

曲淵和右エ門
 文化の末(十四年は百十九年前邑主鍋島河内(直高)の御藏方曲淵和右工門は、自ら陶窯を築き密に有田の工人を招きて又白罅焼を製造した。それは此地の粘土のみを胎質として焼かれしものにて、染附楓散らし模様や縁描リンボウ廻しなどの菓子碗があり、或は又染附突底形の小皿などがある。佐賀宗藩に於いても南京焼と稱して珍重し、特に桝谷與石工門、其別家同半兵衛及び和右工門へ若干の御免地を下ぐるに至った。

武田常右エ門
 其後白壁北尾鄉の武田常右工門又御用窯を命ぜられ、彼は一種のくろ物(陶器)製作を研究中不歸の客となりしかば、當時二才なり遺子丈吉が十五の成年に達するまで、御用窯を継承すべく執行藤太夫が許可を得ることゝ成なつた。そして丈吉が成人中維新の廢藩となつたのである(丈吉の男一郎が東尾の古賀氏を継いである)。

澤田春山
 次に邑主は京都の陶工澤田春山が來りしを幸ひ、窯元中山與八の工場に留めて京風の茶器を焼かしめた。(春山は元若狭の人にて、始め佐賀の伊勢屋町に来り、後名村坦山と共に筑前國須惠の製磁(黒田藩主の御用焼)に携はり、共後白石に来りて走波と合作せしものがある)執行藤太夫又春山を聘して陶技を擧ぶに至り、而して彼に給するに一日米入升づゝと定めたのである。

臼井走波
 安政年間(元年は八十二年前)曲淵の後代某は、京都の名工臼井走波を傭聘した。彼は元神官の家に生れ通稱芳造と云ひ、別に如雲叉芳雪の號があり、そして陶技の外描くに草花を善くし、又永樂風の彩金術に長じてゐた。
 此走波が来山より白石焼の作風は全く一變して京風を帶べる一種のローカルカラーを形成するに至り、當時の製品を一に走波焼とも稱せられたのである。然るに此中興者として妙技を振ひし彼は不幸にも失明せしかば京都へ帰ることゝなり、門人中の二名工其技を継承するに至つた。それは細工に於いて野田吉次郎であり、陶書に於て中村吉兵衛(後吉改む)であつた。

松下堂
 明治十年(五十九年前)白石の藩士城島主静(後年神戸桟橋會社社長)は、中國漫遊後に於いて一種の青味を帯べる新着色釉を發見し、
罅焼と焼分けの作品に松下堂の窯印あるものを遺してゐる。

走波の作品
 扨走波の遺作には、白罅手の上に達筆にて牡丹と蘭とを呉須描せし肩張形七寸の徳利があり、同手へ松牡丹を描きし桃形にて高臺部蜷尻七寸の菓子器や、同手梅牡丹の筆洗がある。又同手にて春花作手捻り脇手の急須に紫陽花の花丈を高く浮彫し、それに枝と葉を走波が呉須捕したのがある。又同手にて赤群青入りの割内岩牡丹繪なぶり縁尺一寸の花瓶があるのは、走波後の輸出向製品にて此手は三尺位まで製作されたのである。
 次に走波の白磁には、染附四君子書鉉附の土瓶に已巳肇龝下院如雲山人寫と書いたのがあり(己巳は明治二年走波の筆) 又同じ鉉附土瓶に李白を書き片面には隷書にて飲仙の賦を書きし優品がある。或は染附菊畫高形の燗瓶、萩繪脇手附の急須芦雁の茶器及盃等があり。白磁の赤繪物には牡丹( 花正子くまどり)梅畫の高形瓶及菊繪の煎茶碗(花沈金だみ)や、又は秋海棠、萩、百合、柘榴等を畫きし同物がある。

其他の白石焼
 其他松本典冶工門作の陶器にて茶色釉浮出捻り附の茶出があり、褐色焼稀に白と黒の螺線文なる細尻突立の脇手急須と、同手の小花立がある。又慶蔵製の染附狩野風山水な二升徳利の磁器があり、或は曲淵製の薄青罅手半磁器の八升徳利等がある。

白石の輸出時代
 斯くて白石焼は、當時外人の嗜好に適して海外輸出を試みるに至り、明治三十一年には重要物産組合法に依りて製陶組合設立し、對内外的に市場を開拓して製品には悉く検査を行ひ、此小天地より年產額五萬圓を擧くるに至つたのである。

白石の現代製品
 而して今や、白鍼及磁器の製作絶えて陶器のみとなり、以前は藤津郡吉田石の僅分を加へて石器を製せしことありしも、現在に地元の粘土のみにて製するに驛賣茶瓶を主し、其他土鍋、火鉢、甕、丼、植木鉢、インキ瓶蠟皿(五寸位の丸及角形の淺皿にて内部丈茶色釉を施しある木蠟の型皿也)等を襲しつゝある。窯元は藤崎の後裔佐藤孫作等十戶位にて、年産額一万五千圓位といはれてゐる。

尾崎焼
 尾崎焼の所在地は、神埼郡西郷村にて戸数七十戸の村落である。延元元年(五百六十年前)懐良親王肥後國菊地郡に征西府を置かせらるに方り、從ひ來りし河内國の某此地に住して製陶の業を起し傳へらる。一説に筑後國三潴郡の土器師家永彦三郎の舎弟にて、長右工門なる者尾崎村に移住し、此地の埴土を以て茶器を製し、是を秀吉に献せしことあり。其子孫土屋を姓さして代々製陶すごあるも詳でない。

蛇取橋の韓人墳
 此地神埼驛より半里餘り、姉川集落と接して一川があり、其入口の蛇取橋の近傍に韓人墳がある。或は朝鮮役に鍋島直茂に從ひし姉川中務太輔信安が、彼地の陶工を連來りしにあらずやと思はしむるも、此流域より尾崎方面は川久保の采邑とすれば、神代喜平次家良が帯同せし者かとも考察せらる。

尾崎舊時の製陶
 尾崎の舊製品は無釉にして質軽く、白に間々黒斑ありて恰も鼈甲状の紋をなせも甚脆弱であつた。今より百年以前に於いては雑器を製して相當の産額を挙げしものゝ如く、伊藤榮左工門、高柳太兵衛、篠崎伊助、石橋十一、高柳善六等の名ある窯元があつた。現代にては高柳芳太郎(善六の男)の後職者宮地仁三其他五戸にて、産額の如きも當時の五分の一にて約三千圓位といはれてゐる。

尾崎の現製品
 現在の製品は、火箱、火鉢、焜爐、七輪、火消壺、植木鉢、焙烙等の土器等にて或は人形やトテッポウ(鳩形笛)の如きもある。
又瓦を製する者あるも僅に近傍の需要にする程度である。なほ作風に就いて火鉢等の黒斑は現代にては逆となり、黒地に白班を現はし其中央に黒點をするものが製作され、地質に於いても稍堅固と成つてゐる。そして研ぎ出しと稱して生乾きの折幾度も磨きを重ねし丈け光滑を増して良好の製品とされてゐる。

今山焼
 今山燒といへるは、佐賀郡川上村にて佐賀市より二里許りを隔てゝゐる。此處の横馬場と稱する五十戶村落の山麓に、鬱々と生ひ繁る雑木のトンネル内を、二つの溪流を渡りて山蚊の群るゝ林中を漁れば、染附磁器の歪める破片がそこはかに打棄てられある。
主要原料は、三百年前此山上に発見されしさいはる、今山石にて、當時南川原の初代柿右工門の如きも之を試用せして傳へられてゐる。此處の製陶創始は既に二百四五十年以前の口碑あるも詳でない。

今山の舊製品
 最古の製品らしき丸形三つ足附の小さき香焚を見るに、胎土の軟質が釉際に褐色を帯び、そして腰裏に肥前今山焼の押印がある。
其他窯趾の殘缺には、染附山水繪六寸井 水芦底ゆり縁の中皿、又茶碗、鉢、花立等多く下手物許りである。古製品には良呉須を用ひて釉色の見る可きものあるも、後代の製品は皆コバルト青花の日用品のみ焼かれしものらしい。

今山窯遺蹟の表札
 此處の窯趾には、史蹟の表札が建てられてある。それに依れば、慶長三年(三百三十八年前) 鍋島直茂が多久長門守政順(安順のことであらう)に命じ、韓人李參平をして此嘘にて青磁を焼かしめた云々と記載されてある。蓋し此史説を肯定するには心ある者の大に苦しむところであらう。

今山の維新後製陶
 今山焼も頗る變遷多く、維新前此衰微を復活せしむ可く川上實相院住職の斡旋にて、佐賀本庄町の森伊作をして出資せしめ、窯元十四人の組合にて製造することゝなり、明治十四・五年頃までは、七間の登窯が盛んに陶煙を擧げ居りしも、其後又衰退し、中には田地屋敷など伊作の所有に移りしものありて、今は全く廢窯に歸してゐる。

大願寺焼
 大願寺焼と稱するは、前記の横馬場より半里許りを隔てし墓地の奥にて、往古は布目瓦を焼きし傅へらる。曾て北條時頼行脚して此地に来り病を得て頗る重かりしかば、平愈の大祈願を立てしより、後年此處の五社神祠(仲哀、神功、應神、姫大神、春日明神)を建立せしを以て其名がある。又堤の邊りには、元龜元年八月鍋島直茂の奇襲に戰死せし大友八郎親秀の墓碑がある。此地の製陶創業は頗る古きもの如きも詳でない。 製品の種類は甕及水鉢、蘭鉢等にて今は全く断絶されてゐる。

相の浦焼
 相の浦焼は小城郡北多久村天山の麓にて、此處は往年相浦監物(後縫殿助)が居城相浦城(一名城尾城)のありしころである。此地方は古代の遺物多く間々曲玉などを發掘することがある。陶業は今全く廢滅に歸して其起原さへ知るによしなきも、當時の製品皿、茶碗等一見焙烙焼の如くなるが陶質頗る竪緻に焼成されてゐる。

川久保焼
 川久保燒と稱するは佐賀郡久保泉村にて、佐賀市より二里半、戸數三百五十戶の中に百六十戶集團せる一宿驛が川久保である。此地の七・八丁東なる一丘阜なる大塚山、舘山 皿山の三ヶ處に窯趾ありて、此處丈は肥前窯には珍らしく何れも六尺餘方面積の一間窯ありし由なるも、今は全く開墾されて赤土畑と成り、そして悉く掛か植えられてゐる。此中皿山と稱する丘に少しく其殘缺を見る而已にて、他の二ヶ所は稀にトチンなど見出す位である。

川久保窯の殘缺
 殘缺には灰色地や褐色地に、飴色釉又は白刷毛目及化粧掛を施せしもの多く、石器としては巧みなる細工振である。之等の皿碗は多く蛇の目積にて焼かれるも、又惣掛の施釉物も少なくない。之には薄手の蓋附茶碗があり、或は縁淵の茶碗などもある。
 中には褐色地にて全くの無釉物や、灰色釉或は白化粧等の大皿があり、飴釉氷裂焼の破片などもある。又中皿には呉須繪藥にてハート形の草の葉を描きし物がある。要するに此處の炻器は寧ろ半磁器程度にまで焼締りしものにて、時代は元祿初年(元年は二百四十八年前) 邑主神代氏の支配の下に製作されしといはれてゐる。

神代氏
 神代氏の祖先は、人皇八代孝元天皇の曾孫主忍男武雄心命の長子武内宿禰の後胤にて、物部を姓となし良光に至つて筑後國高良山に居住せが、文治元年(七百五十年前) 同國熊代村に地名を姓せしもの、後神代に改めたのである。其子良元曾孫民部少輔良忠を経て其孫良基に至り、足利尊氏に從ひて軍功あつた。
 子孫勝元の時肥前國に移り、其子利久は上佐嘉千布村の豪族陣内大和守利世が女を娶り、其水子勝利武勇絶倫にて始め千葉興常に從ひしも、後年には神埼庄三瀬の城主として此地方の外、 筑前の早良、那珂、怡土三郡の内若干を領有して武威を振ひ、佐賀の龍造寺隆信と覇を争に至りしが、長良に至つて途に龍造寺に属して五百丁の領主となり。後鍋島氏の配下となりて川久保にて四千三百石を領し、西原の舘に居住せしものである。神代系圖左の如し。 (神代系圖参照)

御茶屋焼
 外に川久保の御茶屋焼と稱する物がある。それは今より七十餘年前に後代の領主神代大炊介直寶が、西原の館に於て道樂的に製作せしものにて、薄青磁の茶碗や菊形の皿など巧みなる物製作され由なるも、現今傅へらるゝ製品頗る稀にして見ることを得ぬ。蓋し何れも炻器乃至磁器であるらしい。

都渡城焼
 都渡城焼は、佐賀郡松梅村(市より北二里許り隔つ)なる宮地嶽神社の裏山にて、今に十間程なる登窯の跡がある。製品は最初赤粘土にて焼きし雪平鍋或は片口なごを主とし、又綠釉を掛けし茶瓶などが出來てある。其内幾許もなく此山上の日池といへる所より磁器原料を發見して軟質の薄鼠色磁器を焼いたのである。それは染附にて最初の製品には呉須顔料を使用しゐるも、後年作にはコバルトが主彩さされてゐる。
 此の創業は、今より六十年以前に於いて、前記川久保の御茶屋燒廢止の節、廣助なる者此地にて製陶せし稱せられ、そして幾許もなく原料の發見より、磁器製作に轉じて皿や食器の下手物を製せしも、幾年ならずして廢窯せしものゝ如くである。

松ヶ谷焼
 小城の松ヶ谷焼は、元祿年間(元年は二百四十八年前) 小城三代の藩主鍋島紀伊守元武が、南川原より工人を招き松ヶ谷の別荘に築窯せしものにて、娯楽的なる御庭焼させられる。
小城鍋島系圖左の如し。(小城鍋島系圖参照)
 松ヶ谷別荘は、祇園川の東舊岩松村役場の東方にあたり、高爽にして眺望絶の地に下されてある。元武は此處に製造所を設け、天草の原料を以て白磁の外青磁を製作せしめしが、上繪附の如きは全く柿右工門式其儘なるものがあり、中に染附竹葡萄書きにて、見込み三方松竹梅繪ゆり縁形中皿の銘などには、柿右工門常用の角福銘があり又青磁六寸三分高さの丸形德利等がある。尤松ヶ谷製磁にはいつ頃よりかは不明なるも多く角松の銘あるが、同品にて柿右工門の作のみに角幅銘を用ひものであらう。それが大名的娯楽として採算なしに製作されたるを以て、頗る優良なる作品であつた。故に當時藩士などが小盃一個を得たるさへ恰も拱璧の如く愛重せしも、此時代の製品多からす今遺る物稀である。

南川原の工人
 當時の小城古文書に、元祿十二年四月六日(二百三十七年前)藩主元武より、南川原焼物師松井兵右工門へ銀百五十匁被相渡候事あり。又同年八月二十五日有田焼物師酒井田藤九郎へ銀子被相渡候事との文書があり。次に又正徳六年十一月 (二百二十年前) 同燒物師長崎藤左工門へ銀及酒肴料を授く等の記録がある。又元祿十七年九月九日松香溪御茶屋番山田善右工門渡御加勢銀之事。寶永五年正月(二百二十八年前)赤繪師之事とあり。又日記の内には「去秋赤繪師之儀被相願候得共繪師共重疉訴訟仕候付而不被相叶由御用之節何時モ只今罷在者共隨分可被仰付之口佐嘉受役所ヨリモ其筋々被仰付ベキ由平馬被仰聞候也」とあり。
 按するに之等の工人は皆有田鄉南川原山の者なりしが如く、即ち此松ヶ谷焼製造に陶師として勤せし面々であるらしい。
 而して享保十一年(二百十年前)五代藩主加賀守直英の時、之を藩の事業に移し、特に皿山方と稱する役人を設けて監理すること成った。そして直英の室又此製陶に頗る興味を有し傍より獎勵せしといはれてゐる。

岩藏寺の香爐
 今岩松村の古刹なる岩藏寺所藏の香爐は、元文四年(百九十七年前)に於て製作されしものにて、其器の裏面に左の如き染附書がある。
奉 松香谷皿山
天山宮 元文四歲
寄 進 未九月吉日
 薄いで延享四年(百八十九年前)に於いても、皿山方役目被仰付との記録があり。其後の沿革に就いては史料の徴す可きものなきも、六代藩主紀伊守直員時代の頃までは慥に繼續されしと傳へらる。故に安永年間(直員の卒年安永九年は百五十六年前)まで此處に陶煙を擧げして見る可きてあらう。

松ヶ谷開窯考
 此松ヶ谷焼は、天草石を原料として南川原工人の手に依って製作されしさの口碑なるに、前記の如く元祿年間の創始とすれば、正徳二年天草石使用發見の以前に属する矛盾が生じて来る。蓋し最初の制作は初代の藩主紀伊守元茂にあらざるかの問題が生じて来るのである。
 それは寛永十四年有田皿山地方の陶工淘汰が行はれし時に、左の如き古文書がある事を見遁がしてはならぬ。紀伊守對古文書
一燒物師兩人差免候様にさ紀伊守より申候付而今我等手形遣候此中如申渡候燒物師多候得ば山あれ候條彌堅被申付候先樣我等以墨付可差免候條其心得可被申候
六月九日
多久美作殿(茂辰)
諸岡 彥右工門(茂之)

 勿論有田泉山の磁石は、取締頗る嚴重にて一石たりとも他所へは搬出はざる當時なるも、小城藩主へは何か特種の理由にて、差許せしにあらざやを思はしむる。而して紀伊守元茂は勝茂の長男にて、實は勝茂室高源院御供女中お岩(小西三右工門の女)の腹なるも、本藩主忠直の舍兄なる關係上、特に彼の切望を充たせしにあらざるか、研究すべき問題であらう。

日の池焼
 此外佐賀郡小關村の日池に於て、大正六・七年頃製陶を開始せしが、原料良好ならざし爲幾許もなく廢窯したのである。佐賀縣管内の外編製陶は之を以て終りとし、次に長崎縣管内を記述することする。

古賀人形
 古賀人形の製作地は、北高來郡古賀村(元空閑村)の藤棚と稱する三十戸許りの村落にて、喜々津驛より三十二丁(長崎より三里半) の里程である。此地もと島原の城主松倉豊後守重昌の領地なりしが、寛永十五年切支丹の亂後諫早の支配にも屈せずして、幕府の直轄地とされたのである。
 天文年間大村の藩士小川金右工門とする者、浪人して此古賀村に住し農業を営みしが、三代目小三郎の時に、京都の土器師常陸介なる者來りて滞在すること一ヶ年、此時彼が神佛用の土器を造りしより、小三郎之に師事し、農事の傍ら小川の土偶を作り創めしは文禄元年(三百四十四年前)であつた。

小川喜三右エ門
 天和年間(元年は二百五十五年前)後代小川喜三右工門に至り、肥後の國主より儀式用の土器製作指南の囑託を受けて出張中、彼地の人形製作に就いて研究せしといはれてゐる。文化年間(元年は百三十二年前) 小川金兵衛の代に至り、雛人形を製作して稍販路を擴むるに至つた。明治四十二年頃(二十七年前)までは小川家の後代三戸にて製造せしも、四十五年より二戸と成ったのである。
 當時の長崎知事安藤謙介は、縣下唯一の郷土人形として奨勵せしより、同年三月小川源智、同小太郎は佐賀、福岡兩縣の土偶製作地視察をなし種々改良を加へたるも販路は漸々と低下する而已であつた。現今製作者は家元小太郎一戸となり、原料は此地九重里の粘土を使用しつゝある。

古賀製偶の種類
 最初人形の種類は形小さく梟や猿、猫、狆、太鼓坊主、福助等十八種にて、彩色の如きも赤と黒のみが文祿以来の様式なりしが後には黄や紫等を加はへ、天和頃より唐人、和蘭人、及元祿人形、武者人形等三十三種を増加するに至り、三百數十年連綿として繼續されてゐるのである。
 此中に猿が鶏を抱へてゐる人形がある。由緒を聴けば往年此處の四牛山の農家某嘗て鶏を飼ひゐたるを、折々狐の為に攫はるゝより、或日彼は里出の時豫て愛する山中の猿共に、鶏を頼むと呼かけ去りしに、歸宅すれは果して一疋の猿が鶏を抱いてゐたので、此逸事が當時大評判となりしロマンス的作品といふのであつた。
 其他ツッキャンギャン(肩車人形) ハイケン (猿子を着し太鼓坊主共に支那語にあらざるか)阿蘭陀甲比丹など、作風頗る麁朴にして面白きものがある。なほ此上に従来の着色彩料を、もつと寂びある色彩に改良せば一段の雅致を備ふ可きであらう。

龜山焼
 文化元年(百三十二年前) 彼杵郡長崎村伊良林郷の垣根山 (長崎村は明治二十二年四月長崎市に編入されたのである)に於いて龜山燒が創始された。それは長崎八幡町の大神甚五平が、山田平兵衛、澤屋嘉右工門、古賀嘉兵衛等と協同して、年々蘭人が需めゆく水甕を製作することゝなり、郊外伊良林に於いて開窯し之が甕山焼と稱せられた。

肥田頼常
 然るに此製造業が期待の利を擧げ得ざりしかば平兵衛、嘉右工門、嘉兵衛は組合を離るゝ事となり甚五平一人の經營と成った。同三年に至り時の長崎奉行肥田豊後守賴常の保護となり、有田流れの工人を雇ひ天草石を原料とし、白磁を製作して、奉行より幕府へ進献の器と定め之より龜山焼と改めたのである。

大神甚五平
 甚五平自ら繪畫を善くし、其造るところの物には支那の古染附に髣髴たる逸品がある。彼卒するに及び舎弟卯平二代を嗣ぎしも、經管の如く成らずして聲價共に下った。

柳生久包
 天保十二年(九十五年前) 長崎奉行柳生伊勢守久包又大いに獎勵するところあり、此時清の微州初門の堊土を移し、酒器及茶器、茶盞等せせらる。そして染附磁器には所謂龜山山水が描かれたのである。

逸雲、鐵翁、梧門
 又當時長崎の名流なる、八幡町の乙名木下逸雲 (通稱志賀之助、名は相宰、字は公宰別に養竹山人、如螺山人の號あり、慶應二年八月四日卒六十七才) 春徳寺の釋鐵翁(本姓日高氏、明治四年十二月十五日卒、八十一才)會所目附三浦梧門(通稱總助、名は維純、字は宗亮一に秋聲、荷梁、融齋と號し山水畫を善くす)等の畫きし逸品がある。然るに再び經營難義となり三代甚五平に至つて途に廢窯にしたのである。

井田吉六
 安政元年(八十二年前) 江戸の名工井田乾齋(通稱吉六叉巳齋號し下總國海上郡布間村人、文久元年卒、七十才)は、娚の三浦乾也を伴ひ來つて龜山燒復興に努めしも、資金乏しく三年にして此地を去るに至った。

岡部長常
 同六年九月長崎奉行岡部駿河守長常の時、更に龜山陶器所を興すことゝなり、江戸より屬官小島喜左工門來って主任たりしも、明治十六年に至り途に廢滅に終ったのである。

鵬ケ崎焼
 鵬ヶ崎燒は、文化十二年(百二十一年前) 彼杵郡浦上村淵郷の鵬ヶ崎に於いて長崎東濱町の蒲池政入(後鎮久さ改む)が開窯せしものにて、彼は天保五年十月十二日七十八才にて卒す。

蒲池無爲齋
 次に元豊前國中津の人にて、長崎銀屋町にありし中村秀吉蒲池氏を嗣いで之を継承した。破れ無爲齋と號して詩を善くし此處に雅致なる炻器を焼いたのである。それは山水花鳥或は自作の詩や讃を書せる趣味的作品が少なかつた。秀吉諱は鎮徳字は子明、後年學之助と改めし安政四年正月二十五日六十七才を以て卒したのである。

鵬ケ崎舊製品
 今其遺作には、無釉鐵地に白釉にて作詩を書せし角口脇手の急須があり、同地にて邊に龍を彫刻せるが胴に白釉を飛ばせし水指や或は鐵描雲模様の火入等がある。又彼の蜀山人が「こんげん月はゑつとなかばい」の長崎訛りの狂歌を書き皿などもあり、或は支那蘇州の土を探って製せしものには、唐土蘇州土製の銘がある。斯くて嘉永年間に及んで廢絶したのである。

秋の浦焼
 秋の浦焼は、安政四年(七十九年前)の創始にて、長崎の對岸稻佐郷秋の浦に於いて、長崎鎔鐵所設立の際現今の第二船渠の邊りにて工場用の煉瓦を焼くに當り、共傍に天草石を原料さして阿蘭陀風の磁器を製作せしものにて、何それには赤繪を施されたのがある。後年該所が三菱造船所となり、船渠を開鑿せらるゝ時共處より窯や多くの皿、茶碗等の破片が發掘されし由にて、即今の他の浦さ改稱されし所である。そして又八軒家燒など稱するは此處の製品をさせしものであらう。

稲佐焼
 稻佐焼と稱するは、嘉永七年(安政元年にて八十二年前) 長崎の對岸浦上村淵の平戸小屋に於いて、鵬ヶ崎を廢窯せし蒲池淺吉が開窯せしものにて、浦上と稲佐の堺なる淵山より一種岩の如き軟質の陶石産出せるより、之を採って炻器を製作しものである。中には英國風の摸寫焼などがあり、そして一名淵焼とも稱せられたのである。然るに安政三年より此地平戸小屋が異國人休息所となるに及んで、淺吉は前記の龜山へ移轉したのである。

蓮田焼
 蓮田燒とするは、長崎より浦上への入口に往年井樋の口と云ひし所があり、其處に蓮田が存在せし由なるも、今は既に埋築されて其跡地さへ知れる者稀である。此處にて製作されし陶器が蓮田焼させらるゝも、其事蹟に就いては詳でない。

小曾根焼
 小曾根焼は長崎市内にて、今の小曾根町せらるゝに至りし當時の長者小曾根六三郎の男新太郎が、明治二十五年(四十四年前)開窯せしものにて、天草原料を以て染附磁器を製作せしものである。種類は花瓶 茶器 皿、丼、徳利等多種類にて、有田、大川内、小田志等より工人を招き、豊富なる財力を以つて頗る見る可き器物を製造したのである。

小曾根乾堂
 六三郎は六左エ門の男にて乾堂と號し、楷行草の書を春老石に、隷書を清人錢小虎に、畫を僧鐵翁に、篆刻を大城彌水に學び、特に彫技に於いては夙に一家を成せる者であつた。明治六年五月三日國彫刻の命を蒙り、彼は宮中梅の間上段に於いて、二寸角程の大純金印材に大日本國璽を彫り上げ、間もなく又天皇御璽の篆刻大命を果せし者である。

小曾根星海
 新太郎は星海と號して又篆刻を善くし、自ら製品の一部に詩書を彫せるものがある。當時磁器製造の監督者として、杵島郡小田志山の名陶家松尾喜三郎が担任せしも、約三ヶ年許にて廢窯したのである。斯くて元島原藩士にて小田志に在り、又久しく波佐見の中尾山にありて碍子を製造せし田中卯太郎が、此小曾根焼廢窯の諸材料を買収せしが、途に復興するの資力なくして他に轉賣したのである。

小曾根象嵌
 又此處の廢窯後の工場に於いて、尚残存せる素焼窯を利用して陶器を焼くことゝ成り、肥後高田の工人某來つて象嵌手を製作し、見る可きものありしも、これ又三ヶ年にして全く廢絶にしたのである。

山里焼
 山里焼といへるは、長崎市浦上の松山町なる馬淵龍石の製品である。彼は元京都の人にて信三郎とし、幼にして清水の歌人太田垣蓮月尼に就いて和歌を學びしが、其衣鉢をうけし黒田良山(光良)が、手捻りの蓮月焼を製作するに入門して陶技を習ひしものにて、自作の器面に和歌を彫刻することに於いて道楽的の趣味としたのである。明治十六年彼二十九才の時長崎に来り、龜山燒最終の工人として携はりしも廢窯後は諸山に遊技し、同三十二年(三十七年前)山里焼として開窯したのである。

龍石の指導
 それより四、五年を経て、島原半島なる小濱燒の指導者として五、六年を通勤し。又波佐見の中尾山に居住すること十ヶ年、其間彼に師事せし者が今の馬場筒山である。又年餘を有岩谷川内の松尾勝太郎方に在りし際、末子長久(松尾仁の父)等に共抜を敷へたのである。
 其後現地に歸りて山里焼を製作し、昭和九年八十三才向矍鑠として技工に耽りつゝある。(今嗣子龍谷「榮一」其技を継承してゐる)原料は長與及天草産を主とするも、稀に京都の粘土を用ふるものもある。作品は拉車を用ひず専ら手捻りにて投入花器や茶器類が重なる製品である。

龍石の製品
 製品には赤き胎土の脇手の急須があり、又茶碗、湯呑等に褐色釉を掛け其上に白釉や薄黄釉を施し、それに雅なる山水をして下釉の褐色を現はしてゐる。又此種の物にて栗色地釉に白釉を施して篦彫せしもの、或は些かの青楽を流せしものもある。又唐焼手(無釉物)にて高浮彫山水なる萬古風茶器の如きも得意であるらしい。
 其他地釉には赤茶或は薄墨釉を施し、それに白にて粗き渦刷毛目を廻らせし煎茶々碗があり。又高臺内は無釉なるもチャッ積にて高臺足を施釉せ茶碗がある。或は黒栗釉に白の霜降りを施し、間々青を散点せし尺五寸のずんど花生など種々の雅品が製作されてゐるのである。

長州山焼
 長州山焼は長崎市中小島の梅園に於いて、明治三十六・七年(三十六年は三十三年前)頃、岡野實太郎(後神戸市會議長)が、薩摩より原料を取寄せて製造せしものにて、全然薩摩風の卵色氷裂手を製し之に同じ薩摩式の密畫を上繪附せしものである。換言すれば長崎に於いて薩摩焼を製せしものといふ可く頗る優秀なる作品なりしも同四十二年頃に至りて廢窯されたのである。

長崎焼
 長崎焼といへるは同市愛宕町(元高屋平郷)にて、窯元は山口縣人中原仁市である。寛文年間毛利藩の中原太郎左工門勝文なる者陶工友平といへるを雇用して、周防國吉敷郡新宮山に開窯せしところ、友平死去の爲廢窯するの止を得なかつた。明治年間に及び十二代中原要人勝久の時、姻戚藤井常磐の次男を養嗣とせし者が現代の仁市である。
 彼は九代目の坂高麗左工門に就いて陶技を學び明治二十九年より大坂居留の獨人スキトモールの門に研究すること四ヶ年であつた。同三十四年吉敷郡大道村字且の陶業合資會社に入りて酒垂燒指導の任にありしが、同三十九年酔して長崎市に移住せしものである。

ラジューム粘土
 斯くて該市の附近に於いて、ラヂューム含有の粘土を發見し、折から長州山焼廢窯の材料を引請けて、茶器及花器等多種の雅陶を製作しを、時の長崎縣知事李家隆介は之に長崎焼と命名したのである。大正十五年十一月彼は同縣廳より視察を命ぜられて馬來半島の窯業を見學した。同十一年三月二十一日には華頂宮博忠王殿下、又昭和四年四月には閑院宮春仁王殿下の御台臨を蒙ったのである。

長崎焼製品
 製陶原料は前記の重籠山の粘土と雲仙岳別曾の土を用ひしものにて、製品には黒天目に外釉を掛けし南瓜尻の茶碗や、栗色地に白別曾の粘土を以て鶉手の如き木目を現はせ製品が少くない。又重コルム酸に礬土を調合せし眞縁色の浮上釉などが應用されてゐるが、製品の種類は多岐に涉つてゐる。

浦上の植木鉢
 此外昭和二年より浦上の橋口町に、杵島郡橘村上野の坂本龜三が、 小形の植木鉢や七輪及火消壺などを焼いてゐる。原料は長興及五島の粘土を用ひしも、今は全く長奥土のみを使用しつゝある。

御像造り
 又同じ浦上なる岡町に於いて、昭和四年より聖像専門を製作する奥村不二彦がある。
彼はも南高来の島原の人にて、是より半歳以前雲仙岳の古湯にて彫作せしものであつた。今の原料は長興及五島の粘土を以て専ら基督に關する塑像のみ製するゆえに、俗に御像造りと稱せられてゐる。
 不二彦も勿論カトリック教徒にて、斯教の本場なる浦上天主堂下に於て、敬虔なる体度と信仰に燃ゆる彼の彫技には頗る見る可きものがあり。且適所に適技を振へる而已ならず、従来の泊来品と比較して三分の一以下の価格を以て、それに劣らぬ作品を供給し得ることは、輸入防遏なる國益的製作して奨勵すべきであらう。

土井の首焼
 土井の首焼は、西彼杵郡土井の首村字江川にて、長崎市より一里半の西半島地である。此地もと深堀中務大輔純賢(三千石)の采邑に属し、慶應年間には擂鉢や植木鉢の如き黒物を焼きしさころである。大正五年長崎市の岡部忠太郎等は有田町の深川忠次と協同して、此處に長崎陶器株式會社を創立し、忠次は自家の工場より釆女甚一を遣はして、築窯其他の準備をなさしめ、忠太郎之が社長となり、天草の下等石を以て南洋向護謨碗及珈琲器を製造せしが、其後護謨収穫の激減に連れて需要を失し、昭和四年に至つて邃に廢業すべき運命と成なつたのである。

土井の首タイル製造所
 然るに翌五年に至り、大阪陶業株式會社は前記舊會社の常務取締兼技師長なりし竹腰直次郎(岐阜縣人)を後援して、之を継続せしむることゝなり、天草石に尾張の蛙目を加へ主として、磁器タイルを製造し、之より長崎磁器タイル製造所と改むるに至つた。其需要は三菱造船所を始め南洋、中國、満洲等にて中にも南洋輸出は重に三菱商事の手を経由しつゝある。現在職工五十八人年産額五萬圓と稱せられる。

眉山焼
 眉山焼は明治二十七年頃(四十二年前)南高来郡島原の港に於て、堀部百太郎が二三の出資者協同を得て、染附磁器を製造せしものにて、或は之を港焼ともせられた。眉山さは往時前山せし雲仙嶽の前面に聳立せる山名にて、又は眉山と呼ばれてゐるより此名を用ひしものである。
 製陶原料は天草石を取寄せ製造主任には有田稗古場の中島忠作を招聘し、又畫工として同地の牛島光之助、田中清一を始め其他三河内より諸工人十數人を雇用したのである。そして七八間の登窯を築きて普通品を製作しものにて、種類は花鳥稲の六、七寸皿より、食器類、花瓶等重なるものであり、又彫刻物や或は蕎麦手など製作されたのである。斯くて日清戦役後まで継続せしも、三ヶ年にして、廢案したのである。

小濱焼
 南高来郡の小濱焼は、今より三十年前此地の中村周作なる者が、山の上といへる處にて製陶を始め一年許りにして廢窯したのである。

本多牧仙
 其後庄屋元に於いて本多牧仙(親基)が木場の粘土に雲仙土を加味し、自己の趣味的なる一種の陶器を製作した。それは赤味の白釉にて重なる製品は火鉢及瓶掛であつた。是は工人の手に依って成形され、それに牧仙自ら古今の詩歌や先の箴言等を彫刻し、そして鐵分粘土にて象嵌せしめたものである。
 其他に飴釉むら掛物などあるも、多くは前記の白釉象嵌にて、或は牧仙手捻りの茶器酒盃及向附皿等頗る雅致なるものがある。最初は山里焼の龍石が技師さして聘せられ又有田の橋口三次郎も其一人であつた。元彼の道楽的製品とて歿後合立物(完全でなき焼成品)の遺品なほ少からざるも、今非賣品として保全されてある。

牧羊と牧仙
 牧仙は嘗て交墨に長しのみならす、常に理論的に立脚して種々の産業を經營し、而して其失敗しものの半面には、後人を稗盆せしもの又少なからざりしといはれてゐる。雲仙嶽上の牧羊の如きも彼の創意に成りしものにて、故に自ら牧仙さ號してゐた。其他養蜂を試み、又泉都別府に於ても製陶を起せしこさが有った。斯く昭和七年八月九日七十八才を以て卒去したのである。

松浦瓷仙
 幼年より師事せし牧仙の門人に松浦瓷仙(松一)がある、彼拉車は勿論殊に塑像の製作を善くし、曾て諸山の陶技を見學せしが就中薩摩及高取に於いて研究するところあつた。後年支那に滞在中師の病急なる報に接し約十六年目に郷地へ帰り、そして病を看ること月餘にして恩師永別したのである。
 瓷仙の作には諸種の茶器の外、千二百度位にて焼成せし興裂白釉の塑像や、帶黄白釉に希臘式の色彩模様を施せし花瓶等がある。此地千戸の温泉地として風光明媚なる橘灣を擁せるところ、小濱土産の製陶として瓷仙の研究が期待されてゐる。

雲仙焼
 雲仙焼とは雲仙嶽なる小地獄(戶數十四五戸)に於いて、大正二、三年頃前記の牧仙が瓷仙を伴ひて開窯せしものである。製品は温泉浴槽に用ふるタイルや壁板用にて白釉と緑釉物であつた。而して従来此種の陶磁器は頗る適品に乏しく、彼の大理石の如きも年經れば温泉作用に依つて變質するを以て、此計畫は頗る不結果を來せしも無理なかつた。蓋し此工場に於いて工夫され陶製の砥石には實用的のものがあり、それは細分子なる白砥より金剛砂交りの粗砥なご製作されたのである。

本編の分類
 之より彌肥前陶磁史の本編に先だち、記述の混亂を避くる爲に唐津系椎の峰窯、武雄系武內窯、藤津系嬉野窯、平戸系三河内窯、大村系波佐見窯、諫早系と矢上窯、伊萬里系南川原窯、佐嘉系大川内窯、多久系有田窯の九編に分類して記すことする。
 蓋し此分類は、地理關係の推考と記事の縁故上より大別しものにて、枝柯に至つては各系の韓人と其子孫なる者が相互に混系し、到る處に雑居の結果、技法の如きも全く鑑別し能はざるもの多く、韓人弥本邦人との結婚に因り、原民族とは判別し得ざるまでに帰化し終へた者であらう。

陶山と領主
 此地方陶山の發展は、其地領主の保護樊勵に依るもの多く。領主は又自己の勢力伸張の為には血脈互に相爭闘し、伸びて他領を併有せんとして戦亂相継ぎ、或は興隆し或は衰亡す。
而して各山秘するところの陶技に於いても、潜行的に技法の窃取相行はれ、各領主は制度を設けて其侵入の防禦に當り、其間或は達し或は衰退す。其興亡のを観るに、各領主間の爭闘と相似たるもの歴史の興味又少なしさせぬ。

各領主の縁類關係
 而して肥前の領主中唐津の波多氏、伊萬里の伊萬里氏、有田の有田氏、平戸の松浦氏、何れも同族より岐れ、大村の大村氏は島原の有馬氏系を同じうし、武雄の後藤氏又之婚系あり。斯くて之等の各氏は、元大村、有馬後藤諸氏と同系より出でし龍造寺氏及鍋島氏に征服されて、更に又結縁關係に及ぶところ、各山の陶系混同の後遂に磁器製作へ統一せる結果と其類を同じうするもの又頗る奇とせざるを得ぬ。
 故に各系に於いて其領主の系圖と、著名なる戦亂の一部とを記述して以て當時の情勢を推考することも、穴勝ち無用ならざる可く思惟せし所以である。蓋し龍造寺氏及び鍋島氏の戦史に至つては各系に於いて一端を知るを得べく、若しそれを佐嘉系中に記述することは容易ならざる而已ならず、然も其要なきを以て之を省くことゝした。

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