唐津焼 椎の峰窯

肥前陶滋史考
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鶴田 純久の章 お話

 神代の天孫降臨に従った者が近江の鏡谷で陶器を作ったとされるが、その古代での出来事はは曖昧で断定できない。我が国における朝鮮系の陶器製造の歴史が最も古いのは、佐賀県唐津市の地域が始まりと言えます。

神功皇后の遠征
 第14代仲哀天皇9年10月、神功皇后は三韓(韓国)征伐に出兵し、佐賀県唐津市の港を拠点とされたようです。

出発前
 皇后は、出征の吉凶を占うため、衣服から糸を抜き出し、この玉島川の岩から釣りをしたところ、大きな香魚が釣れたので、「珍しいことだ。」と言われこの地方を梅豆羅(めづら)と呼ばれてそれが訛って末羅(まつら)となったようです。(松浦の里は現在、佐賀県唐津市鏡と呼ばれている)。
 こうして皇后は3カ月余りで三韓(韓国)に出兵し、その際、百済王から護身と敵討ちのために柄が二本ある名剣を贈られました。そして凱旋の時にしたがって来た三韓の人質が、佐賀県唐津市に開窯して、無釉の焼き〆風の陶器を焼いたのが唐津焼の元と言われています。

三人の官者の帰化
 碑文によると、この人質は竹内宿禰が連行した韓国の3人の王子で、全員が佐賀県唐津市の佐志に送られ移住し、名前を太郎官者、藤平官者、小次郎官者と改名して暮らした。現在は佐賀県唐津市の太良、佐賀県東松浦郡玄海町藤の平、佐賀県唐津市梨川内大字小十官者と呼ばれている。しかし、三韓の王子が国境地帯に留まることができなかったとすれば、都に連れて行かれたことは間違いないが、この地に帰ることを許されたことを考えると、貴族の生まれではなかったことになる。または、官者を冠者と書き留めるなどのことを考えて日本に帰化したのは源平時代という説もあるが、どの程度の音訳がなされ、後世どのように使われるようになったかは不明である。
 陶工の小次郎は、郷里で作陶に従事するほどの腕前で、その作品は代々受け継がれ、作陶年数も長かったという。ここの窯元には小次郎冠者を祀る佐賀県唐津市梨川内の神社があり、毎年12月22日に祭りが行われる。

唐津焼のはじまり
 次に、第37代斉明天皇の時代に来日した朝鮮人が、ここで高麗風の大きな茶碗を作ったのが、日本で高麗焼と呼ばれるようになった釉薬陶器の始まりでこの地を陶村(すえむら)といい、(陶器はもともと須恵物と呼ばれ、村も昔は須恵村と呼ばれていた。)要するに、北波多村には德須惠という地名があるが、昔は徳居(とくすえ)と呼ばれていたので、今回の調査地がここかどうかは定かではない。
 この窯は1275年前、皇后が新羅出兵のため筑紫に赴いた際にここに開かれた。こうして松浦は戦乱のたびに拠点となり、日本の陶器作りの発展のために受け継がれたという見方がある。

崔及とその一行の来訪
 清和天皇16年7月18日、唐の大商人崔及ら36人を乗せた中国船が上松浦地切の浦(現・美津島)に来航して以来、この地は中国、朝鮮、インドとの貿易港となった。これよりこの地区が唐津と呼ばれるようになり、筑前博多とともに九州北部の貿易の要となったのは、このためである。

唐津物
 舶来品の中に多種多様な陶磁器があり、多くの陶工が渡来したことは想像に難くない。したがって、この地方の陶器作りの起源は非常に古く、関東地方の陶器の総称が瀬戸物であるように、関西では唐津物と呼ばれるようになった。陶器を唐津物、磁器を伊万里物と呼ぶ地域もある。

高麗と唐津
 日本で生産される高麗陶磁器は、穴勝唐津の産物だけでなく、佐賀、武雄、平戸、大村などの領内で、朝鮮人が作ったかどうかは別として、朝鮮古陶磁と呼ぶこともできる。当時朝鮮人が窯を開いた山間部には古墳が各地にあり、窯跡やモノハラ(陶器や窯道具の破片を捨てた場所)から出土した土器は、掘り出し唐津、掘り出し高麗と呼ばれる。また、有名な火斗唐津もあるが、これは朝鮮の土で作られ、日本で焼成したので火だけが日本という意味でヒバカリという。

唐津焼と高麗焼
 朝鮮から伝来した高麗燒と比べると、使用する土に多少の違いはあるが、どちらも同じ朝鮮の職人によって作られたものであり、どちらが朝鮮でどちらが唐津かを正確に識別することは難しい。朝鮮阮咸の技術的進歩を見ると、暦手象嵌や刷毛目など、本国の作品より優れている歸化人の二・三代頃の作品が少なくない。日本人の茶の湯趣味を堪能できる作品も、この時代に見られるという。

秦 久茂
 第38代天智天皇の御代(元弘元年=1275年)、外敵の侵入を防ぐため都から下向した秦久茂が警備の任務に努め、その子孫が400年以上にわたって上松浦を領有した。鬼子岳(現佐賀県唐津市の北波多村岸岳)の麓に館を構えてこの地を治め、後世に波多と呼ばれるようになった。
 一条天皇の元年、清和源氏の末裔である源頼光が肥前の国司に任じられ、上松浦に派遣された。加部島には田嶋姫、湍津姫、市杵島姫を祀る田嶋神社がある。
彼らを祀る石鳥居は、頼光が当時寄進したと伝えられている。この時従った四天王の一人、渡辺源五別當綱は肥前松浦源氏の祖である。

源頼光と綱
 綱は頼光の甥であり、頼光は嵯峨源氏河原左大臣祐の孫であり箕田源次別當充の子、母は多田満仲の娘である。松浦源氏の系譜は左の通りである。
(松浦源氏系図参照)

久: 久寛を討つ
 当時、京師にいた綱の子・渡辺源別當久は、長元4年、上松浦千々賀に陣を構え、久寛を攻めて討ち、松浦河岸まで追ってきて討ち取った。(この地が鬼塚村と呼ばれるのは、当時鬼のように恐れられていた久寛の墓のことであろう)。

眉山討伐
 しかし、長久2年、渡辺源別當久は三男の三男竈江三郎糺とともに、眉山(松浦村、大川村、若木村の境)にいてめ、たびたび周辺の村人を脅していた秦の残業を襲い、鎮圧した。(千々賀の甘木谷にある御久さんの石は、この久のものといわれている)。

授と泰
 久の弟奈古屋兵衛尉授は、奈古屋邸に住み、奈古屋殿と呼ばれていましたが、その子と泰に滝口太夫と呼ばれた。かつて御所の警護のために京師に赴いた。後三条天皇元年12月29日、下松浦今福に上陸し、ここを本陣とした。(其子久が今福に上陸したとされるが、当時はまだ6歳であった)。

梶谷城の築城
 堀河天皇の元年、泰の長男源太夫判官久(当時33歳)は梶谷城を築き、松浦一帯に2230町を領し、40余人の子孫を擁し栄えたといわれる松浦源氏の基礎を築いた。この地の東凉寺に葬られた。

波多持
 その後、松浦氏は当主の姓となり、御厨公直が之の後を継ぎ、三男の源次郎持が上松浦の波多を称した。今から750年前、持は鬼子嶽に城を築き、一名古志峯城と呼ばれ、この地方の有力な要塞となった。持は地名を波多と改め、名を波多源次太夫と改めた。

鬼子嶽窯
 持氏は、鬼子嶽城下の山中にある飯洞甕(北波多村鮎歸)に、前述の小次郎官者の子孫を招いて窯を開かせたと伝えられている。またこのとき朝鮮より東欧が渡来したとの説もあるが定かでない。後年、飯洞甕の陶工の一部が古椎(南波多村椎の峰の旧称)に派遣され、この地方の人々に陶器が広く普及したといわれている。

割竹式の窯
 鬼北岳の古窯は古くから知られていたが、武雄の古窯家金原京一氏や唐津の中里太郎右工門氏らによって広く調査された。その結果、飯洞甕と桐木盤は約700年前に築かれた朝鮮半島北部のものであることが判明し、学界に大きな反響を呼んだ。
 割竹式とは蒲鉾の形をしており、丸竹を半分に折ったような形をしている。飯洞甕の窯の長さは16.4メートル、桐木盤窯は約18.5メートルで、そこから36メートルほどの距離を隔てて、いずれも内部は5・6室に仕切られている。
この斜面に築かれた長窯の仕切りは、後に丸窯が連なる登り窯となり、この地域の窯づくりを研究する上で貴重な資料となっている。

貝高台と焼ハマ
 この古窯の製品のなかに、蜆(しじみ)や浅蜊(アサリ)などの小貝を5、6個を載せてその上に器物を乗せて焼いた貝高台焼がある。ハマ(耐火土製の焼台)には貝の跡も残っている。
器物とハマが焼き付かないために貝を敷き詰めるのである。貝は炭酸カルシウムで単体では溶解しない。

もみ殻の敷き痕を解く
 高台畳付(高台の際足端、畳が付く所)に残っている籾殻の跡は、現代に見られる棚皿板(作った器を並べておく板)ものとは異なり、平らな地面を利用し籾殻などを敷き詰めて造った器を並べたものである。決してもみ殻をのせて焼いて凹んだ痕ではない。前項の貝高台と同様に籾殻を敷き詰めて器物とハマとが焼き付かないようにしますが、緋色の跡は付きますが凹む事はない。

 ここの製品の品質は極めて高く、すべて釉薬がかけられている。1242年に加藤春慶が渡唐して窯を開くのと同時期に、あるいはそれ以前に、これほど優れた陶磁器が生産されていたことは、日本では他に例を見ないことであり、唐津焼の生産が長い年月をかけて発展してきたことを物語っている。
 飯洞甕窯、桐木盤窯の後、帆柱窯(佐賀県唐津市北波多)が築かれ、さらに三矢谷窯(佐賀県唐津市相知町佐里)、平松窯(佐賀県唐津市相知町佐里)、大谷窯(佐賀県唐津市相知町佐里)、皿屋窯(佐賀県唐津市北波多)が開窯され、これらの窯はすべて鬼子嶽窯と呼ばれている。稗田焼は皿屋窯のことで、三矢谷は道納屋谷とも呼ばれる。

飯洞甕
 古い飯洞甕窯の器の多くは焦げ茶釉で焼かれたが、中には鉄釉や白釉で青海波文が施され、縁にさまざまな文様が彫られたものもある。同じ釉薬で玉縁風の片口、天龍寺薄青磁、七官手の皿鉢などもある。灰土に同色の淡釉で鉄猫を筆で描いた茶碗や皿もあるが、いずれも高台無釉。
 ただ、朝顔形の大茶碗に薄黄釉をかけた珍しい例があるが、これは少し後の時代に作られたものだろうか。飯洞という地名は、後世の陶器がもっぱら大型の水甕や壺を作っていたことを指しているのかもしれない。

帆柱
 帆柱窯は、黒土に淡緑釉、白釉、青茶釉を自家製し、鉢の裏には糸切りが施されている。均窯風の窯変が見られるものや、淡い瑠璃色のものもあるが、いずれも釉表に微細な二重貫入がある。まれに、何年も風雨にさらされた後に白いコッペパンが生じているものがあるが、これは土器に似た地質のもろさによるものだろう。

三矢谷
 三矢谷窯は、1934年5月22日、唐津で古舘久一と中里太郎右衛門によって江戸唐津焼が焼かれた場所である。本来この窯は絵唐津はないとされていたが、鉄絵など発色のよい陶片が次々と発見され、従莱の繪唐津にはない海老絵や花絵など珍しい物が発見され、朝鮮文化の様式を取り入れた作品である。

稗田皿屋
 稗田皿屋の古窯は、朝鮮唐津風の作風で、唐津焼の代表的な作品である。中でも粉引手や均窯海鼠風や唐津青瓷沓鉢などの名品がある。この地は、波多氏の重臣であった中村安芸守利度の居城であったところで、現在は、この地に渡来した朝鮮人の末裔である今合力(元高力)と呼ばれている姓の人が多い。
 波多持が鬼子嶽を築いた頃、つまり後鳥羽上皇の文治年間に、筑後国の住人であった草野二郎太輔永源氏黨の一族となり、上松浦大村(玉島村)の鬼ヶ城に住んだ。鬼ヶ城は古代の朝鮮式土城で、上肥前の紀伊薙城に次ぐ日本最古の築城といわれる。

草野景長
 以後、5代目の草野七郎行長(從四位)は、松浦氏とともに多数の外敵を撃退した文永弘安の役での武勇で名を馳せた。兄の栄兼の子孫は代々鬼ヶ城に住んでいた。

山瀬焼
 佐賀県唐津市浜崎の山間部には、山瀬焼と呼ばれる古い唐津焼がある。古い焼き物には、草花や結び鳥がデザインされた皿があり、薄黄色の釉薬がかかった石製の深い茶碗もある。また、ひび割れのある白釉の皿、同じような黄瀬戸釉の小皿、同じ窯のホヤの大茶碗などがあり、いずれも無釉の高台に縮緬皺がある。特に空色釉の小皿の素焼きの高台は楕円形をしており、上品で、石器並みに焼成されていることが多い。 また、高さ5、6センチの不格好な石器で、黒い釉薬が陶器を思わせるものもあり、まるで口の狭い壷を中途半端な高さにしたような、いわゆるうずくまるのようなものだ。
城主草野が小次郎官者の分家を招き、ここに窯を開いたと伝えられているが、その歴史は定かではない。
 鬼子嶽城は波多泰の時代には有力な城であり、文明年間には壹岐国の領地となっていた。

鬼子嶽城の後継者争い
 5代・下野守盛が死去したとき、彼には跡継ぎとなる男子がおらず、未亡人の眞法女(松浦興信の姪で、多久頼母の妻)は、親戚の有馬義直の子藤童丸を擁立しようとした、 しかし、重臣の日高大和守在秀(有浦一千石)はこれに反対し、毛利の弟一番貴高(いちばんきがたか)である壹岐龜高の城志摩守隆(しまもりたかし)の三人の子から奪おうとした。これが波多家の御家騒動につながった。

大和は毒殺された。
 天文13年、謀殺の首謀者であった大和は、秀衍への怒りにまかせて未亡人に毒殺された。永禄7年12月29日、大和の息子の甲斐守方秀は鬼子嶽城の厩に火を放ち、一味と力を合わせて未亡人を殺そうとした。しかし、眞法女は逃れて佐嘉の龍造寺剛忠(家兼入道)に頼り、方秀は平戸の松浦隆信に頼り、隆信は三百騎を率いて兵船星加まで来りしもあいにくの暴風雨に見舞われ、鬼子岳城を攻め落とすことはできなかった。
 この時、剛忠の孫の龍造寺隆信が未亡人のために岸岳城を攻落し、方秀は敗れて壹岐に逃れた。その後、甲斐は松浦隆信の四男・信政に女を娶らせ、二人は互いに夫婦となり、壱岐は実際に平戸に併合された。

波多鎭の相続
 こうして鬼子嶽城は、有馬の藤重丸を後継者に迎え、太郎二郎鎭と名乗り、後に三河守と改名した。しかし、自分の相続に反対する波多家の同族を懲らしめようと、大川野(佐賀県伊万里市大川町)日在の城主鶴田勝を攻めたが、鎭は破れて、草野鎮永を頼って漸く帰り着いたのである。。

宗軍を詐り破る
 元覚2年4月10日、日高方秀は弟の勝秀信と中尾主計等らと300人の兵を率いて奈古屋浦(のちに名護屋と改名)に到着すると、鬼子嶽城より相浦中務、堀野源五郎等を迎えて戦い、源五郎は戰死した。眞法女、対馬の領主宗政盛を尋ねると、方秀は立石圖書らと謀り、同3年7月16日、壹岐國本宮浦で対馬勢を破った。

隆信、上松浦を攻める
 天正元年12月、佐賀の龍造寺隆信は従兄弟の鍋島飛彈守信生(直茂の旧名)を率いて上松浦に進軍した。鬼子嶽城主波多三河守鎮、獅子ヶ城主(今の木村波の西北)鶴田越前守前、日在城主鶴田因幡守勝などは之を迎えて聘禮した。同二年正月三日、龍造寺軍は鬼ヶ城を攻めて破り、城主草野鎮永は筑前の高祖に走り、父原田良英を頼って鎮永を隆信に降伏させ、隆信は龍造寺家の家水(母は隆信の娘)を養子とした。こうして、鎮永は元和3年2月20日に死去した。

肥前の領地
 当時、肥前国松浦海岸の領主は、上松浦に伊万里・山代・佐志・波多・草野の五家、下松浦に有田・田平・佐々・御厨・志佐・吉田・大島・宇久の八家があった。この頃より龍造寺の勢力に支配され、次に豊臣秀吉の配下に統一されるのである。
 天正15年、秀吉は薩摩の島津義久を征伐するため九州に出陣し、波多親(鎮改名)も従属させた。この時、肥前には隆信の子龍造寺政家が七郡領し、鍋島直茂二郡を領して政家を支え、平戸の松浦鎮信、大村の大村純忠、島原の有馬純次、五島の宇久盛勝、波多親唐津を領していた。

親の不興を買った。
 文禄元年4月、秀吉が朝鮮出兵を初めて名護屋城に入城すると、九州の諸大名がこぞって博多に出迎えに来たが、波多親の到着が遅すぎたため、秀吉の不興を買った。波多親の軍勢2,000人は直茂軍と合流し、朝鮮の奥深くまで攻め入り、順天まで進軍し、指揮官の半数を失うまで奮戦した。

名護屋での娯楽
 秀吉は退屈しのぎに名古屋の本陣で酒宴を催したことがあり、合戦に立ち会った大名や譜代大名など留守居の男女までが招待された。波多親の夫人は夫が出陣している為留守中の警護の理由で辞退するが、無理矢理召し寄せられ強制的に城に呼び出され、帰宅を懇願されたが赦免されなかった。

波多親の夫人は罪に問われた。
 しかし、波多親の夫人の懐に護身用の小刀を隠し持っていたことが発覚し、波多親の夫人は重い罪に問われることになった。波多親の夫人は、豊前守胤榮の子、隆信の娘婿であり、村中で龍造寺隆信を生んだ。始め蓮池城主小田彈正少弼鎮光に嫁いだが、鎮光は隆信を大友宗麟に敵対させたため誅殺され、夫人は波多親の後室に再嫁した。

波多領沒収
 慶長元年正月、波多親は朝鮮より引き揚げるが。黒田長政は小川島へ赴き、秀吉の命により波多親の領地を没収し、親は常陸の佐竹義宣に預けられた。
この知らせを聞いた鬼子嶽城の人々は驚いた。

鬼子嶽城の大評議会
 このとき城内にいた波多氏の一族は、獅子ヶ城主・鶴田越前守前(殿谷500石)、日在城主・鶴田因幡守勝(大川野500石)、姥ヶ城主・黒川佐源太夫周(黒川500石)、新久田城主・井手飛彈守度源(井手野500石)、法行城主・久我玄番允秩度(板木800石)、本城主・川添監物孟一(重橋500石)、稗田城主・中村安藝守利度(500石)、相知城主・江里長門守天相(佐里350石)、大川野・田代日向守林(300石)といった名参議が名を連ねた。
 この時、隈崎の素人たちは、松浦武士の汚名をそそぐためなら死も厭わないとばかりに、名護屋の本陣を攻撃する気満々であったが、10万人の守備兵を擁する城を攻撃するのはあまりに無謀な計画であった。波多家の再興を計る事で収まり、江里長門守天相と飯田彦四郎久光(神田にて二百名)の二人彼らは、常陸國筑波山下の屯所に潜入し、波多親を奪還する任務を受けることになった。

妙安尼
 一度は自ら命を絶とうとした妙安尼(波多親の夫人)は、残された親族に諌められ、櫨の谷(佐賀県伊万里市南波多)に身を隠したが、息子の彌太郎吉(あるいは孫三郎、彦三郎)とともに八並武蔵守重・馬渡五郎八俊則らが守護して佐賀城の落ち着くことになった。八並武蔵守重等は鍋島藩・秦氏の再興を決意していたが、慶長3年8月13日に病没し、波多親の夫人は剃髪して妙安尼と称し、庵を結んで亡き夫子の冥福を祈った(現在の妙安寺小路の妙安寺はその庵跡に建立された)。

波多氏滅亡。
 秀吉は、波多氏が大川野の建福寺で密かに合流を画策していることを知り、城を家臣の寺沢忠大郎広高に譲り、波多氏の退去を厳命した。波多親の奪還に就いた江里・飯田のふたりは、幾多の苦難と舞踏を経て、親を奪い戻り鬼子嶽の浪士と合流して黒髪山に籠もるか、伊万里の大法院に赴こうと画策していたところ、波多親が病死し、源次太夫持より十五代嵯峨源氏五百年の名家500年の歴史に終止符が打たれた。

鬼子嶽崩れ
 唐津焼の発祥の地は鬼子嶽山中と言われている。鬼子嶽の崩壊に伴い、多くの陶工は鬼子嶽を追われ、先に夫人か隠れた五ヶ莊は植の谷や大川原(佐賀県伊万里市南波多)などに移り住み移窯した。浪人もこの地に多く移り住んだという。
 窯は少し離れた平戸領三河内の長葉山に移され、均窯で海鼠釉を焼いたという。

森善右衛門と景延
 鬼岳崩れの職人たちは、その窯技術を全国に広めたが、美濃國久尻の加藤景延の窯に憧れていた森善右衛門は、ついに景延に同行して唐津(椎の峰)に同伴し、景延の研究によって美濃の従来の窯法・釉法が完全に改善され、「美濃中奥の祖」の称号を与えられた。この森善右衛門は無論鬼子嶽の残党で有ることは間違いないでしょう。

家永彦三郎
 諸文献によると、秀吉が名古屋にいたとき、築城のために瓦を焼いた佐賀郡高木瀬村の片近家永彦三郎を呼び寄せ、茶道具を焼かせたという。
 名護屋城(保元時代の名護屋肥前守行基の子孫である越前守の城を改築)はその年の春に完成し、秀吉は文禄元年4月25日に入城した。しかし、わずか数ヶ月の瓦職人だった男が、この短期間で朱印状まで授けられるほどの陶芸の腕を身につけたとは、到底思えない。

川原屋敷
 高木瀬村の川原屋敷は、俵屋敷川と田布施川の畔にある。一説には、家永彦三郎と正木長右衛門が秀吉の器を焼いたというが、それは瓦屋敷のオリジナルの珍しいものでしかなく、実際には平松源五右衛門が春日村(栄郡)の久慶字国分の鉢と土で作ったという。

肥前瓦に関する記事
 肥前瓦の記事には、天正19年に小川宗右衛門が名古屋城天守瓦の注文を受け、小城郡江津で焼いたとある。文禄元年、名古屋城普請奉行の牧田準之助から天守普請を命じられ、その完成の早さが認められ、秀吉から九州九軒普請の朱印状を賜った。

直茂の天守建築
 このように、築城については誇張された記述も多く、後世の歴史家もその判断に苦慮している。しかし、名古屋城の築城に関しては、鍋島直茂が関わっていたことは間違いなく、直茂の記録は以下の通りである。直茂の記録は以下の通りで、天正19年のことと推定される。

一太閤今度御下向付御居舘ノ爲波多三河守親ノ領内上松浦ノ内奈古屋於一城ヲ築カセラル依之直茂公ョリ蓮池城天守ヲ献ゼラレケリ其上大手ノ櫓ヲ立ラル三間=十三間也奉行石井生札(義元)、甲斐彌左工門、納富市右工門也此時自殿下直茂公エル書二日
就奈古屋御在陣御用爲可相叶甲斐彌左工門石井生札納富市右工門付置切々懸物並竹木普請道具 夫稀等申付候儀無尽期造作共殊入念候奉行等聊無油斷候彼是悅思召候尙石田杢(三成の兄正澄)木下半介(吉隆)可申也
七月十一日 御朱印
鍋島加賀守どのへ

範丘
 一説によると、鍋島直茂が初めて日本に帰国したとき、秀吉の命で釜山の陶工・範丘とその一族十数名を連れて白鷺山に立ち寄り、茶器を焼かせたという。家永彦三郎は範丘に師事し、範丘の作品をこよなく愛し、当時作られた茶道具の多くは範丘の手によるものであった。

白崎山
 白鷺山は名古屋村の名前ではなく、名古屋城から二里、唐津から二里の小さな島、村の神集島の山の名前である。(当時は多くの白鷺が生息していたが、後に伐採され、筑前の姫島方面に移動した)。
 白崎山は、当時蒲生氏郷鳶森が駐屯していた名古屋城から6、7キロのところにある。その昔、唐津焼の原料となる白い陶土を産出したと言われている。朝鮮人の一部はここに連行され、他の者は指村の唐房に送られて別々に陶器を作らされたと言われている。

尊階の来訪
 慶長3年、加藤清正に従って唐津に来た朝鮮の陶工、中尊階(釜山領主尊盆の子)が、唐津焼を学ぶため、しばらくこの地に立ち寄ったという(それは切木村の小次郎官者窯でという)。一旦は故郷に帰ったが、慶長5年(1600年)に再来日し、細川忠興に招かれて豊前で上野焼を創業した。

廣高が唐津を継ぐ
 波多氏滅亡後、寺沢忠次郎廣高が唐津を領し、初めて志摩守に任ぜられた。彼は秀吉の家臣で、父は尾張出身の藤左小門廣正といい、最初は織田信長に仕え、後に秀吉の下で越中守護となった。廣高は人格者であり、才気煥発で、朝鮮出兵に前後7年間従軍して大功を挙げた。鬼子嶽城が一夜にして焼失(波多の浪士が放火したとの噂)すると、徳居の北西にある田中村(佐賀県唐津市北波多町徳末)に城を築き、居城とした。

舞鶴城の築城
 慶長7年、唐津の満島山に築城を開始し、7年の歳月を経て舞鶴城が完成した。港は水深が深く、盆地には高島、大島、鳥島が見える。陸には佐用姫の領地である金振山が見え、見上げれば東の空高く雲海に浮岳が見える。以来、多くの商人が集まり、博多の豪商・神谷宗湛(定清平四郎、85歳、天保13年卒)も朝鮮、中国、呂宋、仙南、安南との貿易のためにこの地を訪れ、昭和7年(1932)には市制を施行した。

鬼子嶽の残党
 当時の鬼子嶽の残党には、流人や散人が多く、鍋島藩に仕えた者や領内の庄屋になった者、商人や陶工になった者も少なくない。鬼子嶽城の火災もそのひとつで、政府は浪士たちの行動を断罪しても、理不尽には止めず、その行動を止めるように指示したのである。

李敬の来訪
 広高はまた、朝鮮から陶工の李敬(字は夕光)と対馬の陶工七兵衛を呼び寄せ、朝鮮から持ってきた陶土を使って、椎の峰で茶器を作らせた。

火斗り焼
 火斗り焼の名品として愛好家に珍重されている。前述のように、李敬は坂本掬八と呼ばれ、後年、長門の古萩を創業した。
 弘高が陶器を焼く際、朝鮮から土や釉薬の原料を運んだのは、頗瓦と同じだが、戦時中の事情を見ると、前述のように高麗に帰る航海の安定を保つため、重りの代用として運んだのであって、必ずしもそうではなかったことがわかる。また、この時代の陶器の主産地は朝鮮であるという伝統的な考え方も、良質な粘土に乏しい中野はもとより、薩摩の高知佐など、この国にしかない独特の原料尊重の一因であった。

廣高加禄
 慶長5年8月、関ヶ原の戦いで東軍に従軍した廣高は、その功により肥前国天草島に4万石、さらに筑前国怡土郡(福岡県糸島市)に2万8360石を加増された。

藩窯の移転
 廣高はまた、朝鮮から帰国した弥作・藤小紋・太左小紋の3人の陶工を呼び寄せ、城下の西の浜、唐堀に窯を開き、唐津焼の窯で働く2人の扶持を与えた。慶長八年(1602年)には大川原(佐賀県伊万里市南波多)に移転し、元和元年(1615年)には椎の峰に開窯した。
 寛永10年4月11日、廣高71歳で死去。その前に長男式部少輔忠春が元和8年4月1日、23歳で早死し、2代目はその次男兵庫頭堅高が継いだ。

堅高の陶業奨勵
 また、鬼子嶽崩れの陶工を奨励し地方に開窯を勧め、唐堀の窯場を再興し、幕府に献上する器を焼いたのが坊主町の藩窯である。
 慶長年間に成立したと考えられる鬼子嶽系の古窯としては、松浦村(佐賀県伊万里市)藤の川内の阿房の谷、茅の谷、外ノ川の勝久、大川村(佐賀県伊万里市)の梅坂、同村の焼山上窯、焼山下窯などがある。

阿房の谷
 藤ノ川内は57戸の山間部である。安房渓谷と呼ばれる。
陶片には灰釉の角皿に稚拙な鉄猫が描かれている。海鼠を交えた金茶釉の杯もある。
 また、灰釉の皿、黒釉の中皿には凹版で波模様が描かれ、底に蘭のような植物が描かれた赤褐色の釉薬の皿がある。また、こげ茶色の鶯釉の茶碗、こげ茶色の釉で縁に結び鳥文の小皿、灰釉で縁に草文と四本の縦縞の皿がある。また、飴釉の丸皿、薄緑釉の瀟洒な茶碗、玉子釉、天目釉、呉須釉の茶碗などがあるが、いずれも素焼きの高台で、内側に縮緬の皺があるものも少なくない。

アボウの薬
 当時、朝鮮人の阿保が唐津に来て、どの窯でも緑釉(膽礬の銅綠)を使うようになり、この緑葉を阿保薬と呼ぶようになった。この阿保が江東区川内にできたので阿波の谷と呼ばれるようになったのではと思われる方もおられるかもしれませんが、この緑色の薬を使うのは、この地よりも隣の山にある金石原の古窯の方が多いのです。

茅の谷
 茅谷(一名勝負が谷)とも呼ばれる茅谷(かやのたに)の古窯には、黒飴色釉の涙文壷形三寸花入や、青地・海鼠釉・飴色釉の六寸花入などがある。
べっ甲釉に海鼠を現わした茶壷と、鼠色釉の同様の花瓶もある。また、茶色の土に白釉をかけた氷割の小酒器や、同じものに天目釉をかけたものがあり、いずれも糸切である。
また、濃灰釉に鉄絵の大皿、茶釉に海鼠の肩環が描かれた水指、盃に水色地に蘭が描かれた小皿、茶地に白透明釉で桃色を表し、外側に濃釉で鮫肌が描かれた茶碗などがあり、いずれも高台の素焼きである。
 このほか、窯変を示す赤土の胴を持つ古窯焼や、軽量の糸切(小口切れの酒器)がある。川内窯は作家系とされてきたが、海鼠釉などは完全に唐津のもので、地理的には紫乃峰から半里ほどしか離れていない。

筆ヶ谷の朝鮮墓
 藤の川内の筆ヶ谷、三本松の墓地に朝鮮人の墓がある。3センチ×4センチほどの2段の石板に、高さ1.5センチ、幅1センチほどの四角い石碑である。元禄16年(1688)9月24日とあり、中央に「釋玄人」と刻まれていることから、かなり遅れて帰国した朝鮮人であることがわかる。

倉木の朝鮮人墓
 また、藤野谷に近い倉木堺には45間ほどの丸い丘があり、五角の石に丸い塔を載せた古い朝鮮人の墓が10基ほどあったが、今はすべてなくなり、1基だけ残っている。

勝久
 勝久は提の川(松浦村數傏戶)の藤野河内の隣にあり、ここの古窯は天目やべっ甲釉のものが多く、茶碗は無釉高台のもので、小さなひょうたん型の花台や平たい香立など、底が糸切りのものばかりである。勝久から分かれた2つの窯は、外卒丁古場と道園である。

卒丁古場と道園
 卒丁古場は、提の川妙尊寺の裏山にあり、陶片の多くは鉛色の土や焦げ茶色の地に天目釉をむらなくかけ、まるでべっ甲地のような半茶色の地と、無釉高台に縮緬皺が見えるものであった。また、同地区の道園の陶片には、淡青釉の小皿、濃緑釉に鉄絵が施された茶碗、柿天目に鉄絵で貧相な草頭が描かれたものなどがある。また、天目釉に優美な鉄絵が施された素焼きの高台茶碗もある。
その後開窯された窯は、金石原(佐賀県伊万里市松浦村)の美恩林、餅田の東窯の谷、餅田の西窯の谷、山形(佐賀県伊万里市松浦村)の鞍壺、栗木谷、中野原(佐賀県伊万里市松浦村)の牟田の原岳野山、川原(佐賀県伊万里市大川村)の神谷、本部(杵島郡若木村)の山崎等など、枚挙にいとまがない。しかし、これらの窯の築窯前後の詳細や歴史は不明である。

美恩林
 金石原には「中廣谷窯」という名の古窯があるが、廣谷には古窯はなく、隣の美恩林にあった。ここの山裾の段々畑を覗くと、柿の若葉の影に混じっていくつかの陶片を見つけることができる。茶褐色の小筋彫の徳利、濃釉の茶碗、多くはべっ甲釉、まれに平窯風の海緑釉のものなどがあり、いずれも無釉高台である。
 金石原という地名は、伊万里から1.5キロほど離れた佐賀県伊万里市松浦町中野原の27戸の小さな地域を指す。金石原焼とは、持田の東西にある2つの窯の谷を指していたが、現在も山の東側に3.6mほどの幅で長さ7.2m程の登窯がある。

持田の東窯谷
 東窯谷の古窯の陶片には、均窯風の大茶碗があり、緑釉の内側に薄緑釉がかかり、裂跡の縁は白と紺青、底は赤紫色を呈している。同じ様式の大きな茶碗もあり、内側は紺色か金茶色で、外縁は海の潮吹き色をしている。また、赤褐色の釉をかけた深手の茶碗、大小の天目茶碗、亀甲釉の茶碗もある。また、青茶釉の大茶碗には小さな氷のひび割れがあり、白釉の茶碗には外側の海鼠に氷のひび割れがある。
 黄瀬戸釉や鶯釉のガラス質の大茶碗もある。赤土に白釉の茶碗、濃灰釉の茶碗、青薬釉に銅釉に黒点がある茶碗などがある。いずれも素焼きだが、小豆釉、濃灰釉、玉子釉の茶碗もある。ただし、素焼きの高台と同様、三日月形の彫りや縮緬の皺はない。このほか、べっ甲釉の酒器、天目釉の小花台、茶地に天目裂の小水指などがある。

餅田西窯谷
 西窯谷の古窯には、天目深茶碗、青褐釉大茶碗、海鼠釉・茶褐釉粉引茶碗、赤褐釉茶碗、赤褐釉茶碗などがある。盃も、柚子地天目、黒天目、錦江海洋堂、黄瀬戸、薄黄などさまざまで、口部に青薬のあるものもある。また、焦げ茶釉の水指、焦げ茶釉の茶壺、鉛色の土に茶色い薄釉をかけた小さな花立などもある。特に、青い衣と葉をつけた高さ3センチのダルマの塑像がある。

牟田の原
 中ノ原は120世帯が暮らす山村である。牟田の原の古窯跡は、金石原から1.6キロほど、熊野権現社の裏手にある。土手の左側が岳ノ山の窯跡、右側が三本松の下の牟田原の窯跡である。黄土や鉛色の土に粉引の黒金茶釉、黒天目釉、べっ甲釉などの茶碗が並ぶ。いずれも無釉高台の高坏で、腰のある形のものもある。

岳野山
 学乃山は牟田窯の向かいにあり、古窯の器は牟田窯のものと似ているが、茶色地に線刻文の24センチほどの壺、黒天目の胴径15センチほどの花瓶、茶褐色の釉薬に鉄釉の斑点がある同形の花瓶など、総じて食欲をそそるものが多い。また、黒天目でなだれがある胴径9センチほどの花瓶や、飴色の釉薬で隅に蕾が描かれた四角い小皿もある。
 松浦村山形には140戸の窯元があり、山沿いには寺谷の鞍壺と栗木谷の2つの古窯跡がある。寺谷には倉坪と栗木谷の2つの古窯跡があり、後家田にも窯跡があると言われていたが、栗木谷から2つ谷を隔てたところにあり、現在ではその痕跡を見ることはできない。

鞍壺
 鞍壺の陶片には、徳利や火入、甕や壺を焼成したような自家製の鶯釉や赤茶釉の釉薬のかかった破片が見られる。また、天目茶碗などもあるが、いずれも無釉高台で焼いたものである。

栗の木谷
 栗の木谷の古窯には、褐色の土に白い釉薬を薄くかけ、土の色を生かした深みのある茶碗がある。また、茶色をベースに鉛色の土を使った大皿もある。また、驚釉や黄瀬戸釉をかけた茶碗や、同じ地に白釉をかけた茶碗もあり、いずれも内側から外縁にかけて釉薬がかかっていて、半磁器的な土質の堅牢さとは対照的な、非常にプリミティブな作風である。

山崎
 山崎窯跡は、佐賀県武雄市若木の小川内という145戸の小さな集落、佐賀県伊万里市松浦の隣にある。その東側の小高い丘に窯跡があったとされるが、現在は田畑に切り開かれており、窯跡の断片を見つけるのは容易ではない。高麗人塚といわれる高さ30センチほどの自然石があるだけだ。
 原料は粘性に富んだこの地の粘土である。陶片は、口が大きく開いた大甕や、縁に青褐色や灰色の釉薬をかけた溝縁小皿がある。また、縁が広い小皿や四方に葉が2枚、底に蘭の花が描かれた向付もあり、いずれも無釉高台である。

古い壺屋
 隣接する長尾には、昔は甕を焼いていた甕屋があるが、今は開墾されて跡形もない。

桃の川甕山
 唐津の系統ではないが、松浦村に桃の川甕山がある。伊万里から2里8キロ、250戸の集落がある。

中野清明
 佐賀県伊万里市松浦は元波多氏の支配地で、のち鍋島藩に属した。佐賀よりこの地桃ノ川へ来た中野神右工門清明は直茂に従って朝鮮出兵に従軍し、帰国後、朝鮮人陶工を連れてこの地で陶業を始めさせた。
 このあたりは肥前随一の甕の産地といわれ、値段も多々良や上野より1~2割高い。かつては甕と並んで20センチから30センチほどの皿が生産され、茶色やこげ茶色の土に琥珀色の釉薬をかけ、波状の刷毛目模様の白い縁をつけたものだった。また、小豆釉の上に白刷毛目文様を施した21センチ角の浅井皿もあるが、多くは無釉高台で蛇の目積(重ね焼き)である。

清明の墓碑
 晩年隠居してこの地で亡くなった清明の墓石がある。墓石は高さ5.5センチ、幅4.4センチ、厚さ4センチ。中央には鳥の帽子をかたどった平たい石があり、南無妙法蓮華経の下に「正信胤通禅定獄門」と刻まれている。
(殉職した横田小紋の墓は小木墓地にある)。

桃の川焼き
 現在、三間坂(佐賀県武雄市中通町)、万根野(佐賀県武雄市竹内町)、利石川(佐賀県伊万里市大川町)、山口(佐賀県伊万里市大川町)などの粘土を原料とし、巨大な五石壺、土管、植木鉢、瓦などを生産している。伊藤伊之十は4代続く。一時は泡盛の容器として鹿児島方面に大量の甕を供給し、年間1万円以上の生産量を誇っていたが、現在はその半分程度しか生産されていないと推定されている。

堅高自害する
 1637年11月9日、板倉重昌の領地、肥前国島原で耶蘇切支丹(イエスキリスト教)の乱が起こり、寺澤堅高の領地であった天草の農民も蜂起に加わったが、寺澤堅高は征討の兵を送らず、そのために天草4万石の領地を手放さざるを得なかった。無念のあまり、1647年11月18日、39歳の若さで江戸浅草の海解寺で自刃した。

久盛勝隆が政権を受け継いだ
  1647年11月24日、幕府の命令で豊岡の城主中川主膳正久盛と松山城主水谷伊勢守勝隆が唐津にやってきて、舞鶴城を受け継いだ。唐津に来た一行は舞鶴城を手に入れ、以後、城の守護として政務を執ることになった。こうして坊主町の窯は一時的に幕府の直轄地となった。

大久保忠職が後を継ぐ
 1649年、大久保加賀守忠職(加賀守忠常の子)が播州明石から移封され、8万7千石を与えられて唐津藩主となった。その大久保忠職は家康の外孫に当たるため鎮西の探題として政治の功績が上がる用になった。忠職の赴任と共に中川久盛と水谷隆は自分の国に帰りましたが勝隆に従ってきた梅村利兵衛だけが残りました。

梅村利兵衛
 梅村利兵衛は茶の湯に趣味が深く、美術品にも鑑識が深く、特に絵が好きだった。
筑前国六(糸島郡福吉村)で人形を作ったり、扇面の絵を描いたりしたこともあったが、佐賀に戻り、有田や三川内の窯業を視察して唐津に戻り、藩主忠職に進言し坊主町の藩窯に用いて、幕府に献上する陶器を制作した。

平山上窯
 佐賀県武雄市相知町に移り平山上字櫨の谷西に平山上窯を築窯し、三河内から職人を招いていたが、5年で中断。晩年は和多田(唐津市郊外の鬼塚村)で茶屋を営む。
 1669年4月19日大久保忠職は死去し、後を継いだのは出羽守忠朝(實は忠常の叔父右京亮数隆の次男)であったが、彼は下総国佐倉に転封となった。

松平乗久が跡を継ぐ
 1678年7月、下総松倉の城主松平和泉守乗久が唐津藩主を継ぐ、 二代は子和泉守乘春、三代左近監乘色に至ったが、乘色は1687年2月、志摩國鳥羽に移封された。

土井利益代行
 1691年5月29日、山城國鳥羽の城主土井周防守利益に替わり、土井利益が七万石を拝領した。1714年4月27日、二代目大炊頭利實に、1738年4月18日、三代目大頭俊信(実は備後守俊清の子)、四代目大炊頭利里(実は利延の弟)に引き継がれた。御茶碗窯は海岸に近すぎたため、現在の佐賀県唐津市唐人町字谷町の窯に移された。
1762年9月、利理は舊領下の國古河に帰った。

水野忠任が後を継ぐ。
 1763年、三河國岡崎の城主水野和泉守忠任(水野忠辰の養子、水野忠宮の弟)土井利理に代わり、水野忠任が唐津を領有する。しかし、相次ぐ天災で五穀は不作となり、忠利の無分別な再禁制は民衆を大いに苦しめた。
領内の農民蜂起し、1771年虹の松原に集合する。

智月と才治
 犠牲になったのは、鏡村常樂寺の住職智月と玉島村平原の大庄屋富田才治等である。二代式部少輔忠鼎は遠江國濱松に移り、三代和泉守忠光、四代越中守忠邦が跡を継いだが、1818六月、一万七千石の所領は幕府直轄領に移された。

小笠原長昌が引き継ぐ
 1818年、所領は小笠原主殿頭長昌の所領となり、6万石を拝領した。小笠原氏は、清和源氏新羅三郎義光の四代甲斐冠者遠光より出である。

白紋雲鶴
 市曳忠友は豊後国杵築・吉田を治め、子の長矩の代から長安の代にかけて遠州掛川6万石、長安の代から奥州棚倉6万石を与えられた。長昌は領内の陶磁器製造を統括した経験があり、高麗を模して茶碗の表面に白雲鶴文様を象嵌した茶碗を作り、幕府に献上することができた(白雲鶴文様とは、茶碗に雲鶴文様を彫り、白金を象嵌したものであるが、後代には花を象嵌したものが多く、象嵌の種類までこの様式が用いられた)。後代には花を象嵌したものが多く、この様式の象嵌であってもすべて「白雲鶴」と呼ばれた)。
 二代目長泰は羽州鶴岡城主酒井氏、三代目長江は豊前千束、四代目長和は大和郡山、五代目長國も養子である。天明年間から、毎年10月を幕府への陶器献上の月と定めた。六代目長幸(実際は初代長政の子、父・紀長光の子)も養子となり、五代目長幸より2歳年長であった。

小笠原明山
 小笠原明山(通称:国香、伯家、天膳龍耳)は、長幸の側室で、麦事件の賠償金の支払いを担当した若い役人である。
 代々唐津藩御用窯を営んでいたのは、中里太郎右衛門と大島彌兵衛の二家である。
中里の銘には?印、大島の銘にはM印があつた。
両家とも優れた名工を輩出した。両家は傑出した名工を輩出した。

中里又七
 初代又七は旧朝鮮人・彌作の息子と言われているが、実は鬼子嶽崩れであり、その素性は臆面もなく明かしている。というのも、当時は優れた朝鮮陶工は祭り上げた時代でもあり、又七も朝鮮人になりすましたのだったと思われる。

窯神・勘右衛門
 又七は田代藩の窯で働いた。二代太郎右衛門は、1603年に移築された大河原(樅ノ木谷)藩窯。3代勘右衛門は、1615-1624年間に椎の峰藩窯に勤めたが、事情があって大河原に戻り、窯神が椎の峰に去ったのを残念がるほどの腕前であった。
四代目太郎右衛門になって再び椎の峰にやってきた。1727年、椎の峰崩壊後、五代目太郎右衛門は四代大島彌と共に坊主町の藩窯への転窯を命じられる。

前田藤次右衛門
 梅村利兵衛の弟子に前田藤次右工門という絵師がいる。喜平次と平坊の子。

喜平次と日羅坊
 之に六代目喜平次が師事し、喜平次時代の作品は中興焼として知られている。六代喜平次の作品は忠興焼と呼ばれる。12代太郎右衛門は、茶碗窯の跡地で個人事業として制作を続けている。

鶉手刷毛目
有田焼新人会の会員で、優美な作品を数多く発表している。
その一例が「手刷毛目」と呼ばれる作風で、小さな氷のひび割れがある青地に鉄釉をかけ、三島手のような刷毛目を施し、底に菊型の刷毛目を施した擂鉢状の茶碗である。左は、中里家とともに代々藩の窯元の技を振るった大島家。
 なかでも6代目の彌大平は無類の陶工であった。八代目の源之助は小笠原佐渡守時代と同時代に活躍したとされるが、詳細は不明。大島家は中里家よりも早く廃業しており、今善らの末期に平戸の炭鉱地帯に移ってからの大島家の研究は非常に困難である。

唐津焼の衰退
 長い歴史と特殊な技術を伝承してきた唐津焼は、その後跡形もなく衰退していった。そのため、唐津には旧藩主をはじめ再興論者は一人もおらず、政府が再興を声高に叫んでも、出資する者はいなかった。

草場見節
 1890年、唐津の町で産婦人科医をしていた草場見節は、莫大な資金を投じて谷町に施設を構え、自作の絵柄を伝授したり、白磁に雲や鶴の絵付けを試みるなど唐津焼の復興に尽力し、一時は各地の展覧会場に出品して世に知らしめたが、1863年9月(元治元年)没。

山内末喜
 見節の三男で山内小兵衛の養子であった末喜は、父の遺志を継ぎ、熊本県八代の濱田義徳(美奥とも表記、有田工業学校第一次卒、を雇い、様々な釉薬や素地を作らせ、彫刻には松島隣を、繪畫には角義則(同校3期生)ら有田の職人を招いた。 また、他の有田焼の職人を雇い、床敷き、花器、茶器、食器などを作らせた。
 あるときは博覧会に、またあるときは見本市に出品し、1964年には米田虎雄男爵から宮内省に納められたこともあった。こうして事業を大きく再生させることができたが、1969年11月14日、37歳の若さで卒業した後、大変残念なことだが、この事業も廃止せざるを得なくなった。

中野霓林
 次に現れたのが巨像作家の中野霓林である。前田幸太郎は晩年、草場見節から金を借りる際、土調合及び釉薬の調合に関する秘密の帳簿を担保としていたが、明治5年(1872年)にその帳簿を取り戻し、中野霓林に渡した。谷町の奥に窯を築いた中野霓林は、当時京都で修行中だった福田直行と窯を共有し、帰郷して作陶に従事した。
 彼の得意分野は巨像だけでなく、馬や蟹もあった。本町にある彼の店には、高さ45センチの馬や、大きな籠を登る蟹の群れの置物が陳列されている。しかし、彼の技は巨大な彫刻を作ることで、その理由は前述の土作りの秘訣と彼の技術によるもので、高さ1メートルにもなる作品を完璧に作り上げることができ、写真から得た写実の巨像や名馬が数多くある。

唐津焼の原料
 さて、元の記事に戻ると、唐津焼に使われる粘土は鉄分の多いものばかりだった。有浦村の牟形の土(青小米白)名護屋村の加部島の土(白)北波多村徳須恵の稗田の土(赤)同野村山彥の土(白)相知村牟田部の佐里の土(白)西唐津村の岩砂利(小米白)同神田西浦の人形土(赤)など、よく使われた土は枚挙にいとまがない土には沢山種類がある。

笠椎の土
 1616年、笠椎(佐賀県伊万里市南波多村)に鉄分の少ない良質の土が見つかり、隣接する椎の峰地区での陶器生産が盛んになり、従来の多々良上窯に加え、新たに2つの窯(多々良中窯、多々良下窯)が築かれ、それぞれの窯の連続長さは18mに及んだ。ここから笠椎までの距離は1.9kmほどで、粘土の運搬には非常に便利であった。粘土は唐津の藩窯にも運ばれたが、無差別に持ち出すことは禁じられていた。

椎の峰山
 椎ノ峰は現在の南波多村にある集落である。南波多村は、唐津藩領であった波多津村、黒川村、大川村の3村とともに、明治11年(1878)11月に西松浦郡に編入されたが、椎の峯の地名はかつて古椎と呼ばれ、波多田藩の家臣であった椎の峯雅楽の屋敷であった。伊万里市場まで3.9kmと物資の輸送に便利で、最盛期には350戸を超える唐津焼を代表する産業として発展した。
 唐津の窯業は鬼子嶽に次いで古い窯業地で、特に鬼子嶽崩れの陶工、中里、大島、尾形、福島、福本ら多くの陶工が来てから発展した。

唐津藩主の保護
 寺沢藩が藩領に復帰して以来、藩は陶工を優遇し、特に藩の5人の陶工には各々一人扶持を給し与え、毎年1人30俵の米を借り、その代金を陶器で支払うことを義務づけた。さらに、陶器作りの燃料として椎の峰付近の50町歩の山林を与えられた。

高原五郎七の出仕
 聚楽第の御用陶工として秀吉に仕えた高原五郎七は、大坂の陣で木製の鉄砲を考案するほどの腕前だった。(鞍手郡大成谷に窯を開いたという説もある)。
豊臣家のお膝元だけに、用心深く、その行動を秘密にしていたことは言うまでもない。

五郎七、椎の峯に来る
 1619年五郎七が椎の峯にやってきた。7年間滞在して朝鮮の技術を研究しつつ陶工を指導も行った。(五郎七は陶芸の名手でもあり、五郎八茶碗のルーツとも言われている)。

三之亟の見學
 三川内の今村三之亟は、五郎七にこの地の優れた技を習いたいと、はるばる椎の峯まで陶芸を学びに来た。また、鬼子嶽崩れの陶工が開いた長葉山との縁もあり、椎の峰を訪れることを切望していたに違いない。

浪土の椎の峯に集合
 この慶長から元和にかけての山間部には、加賀原の戦いに敗れた者や大坂落城後のホームレスなど、世を恐れた多くの人々が五郎七の助けによって陶工となり、鬼子岳崩壊後に五郎七に加わった浪人たちのもとに身を寄せた者も少なくなかった。素朴な郷土色と雅な風情が相まって、洗練を極めた一種の創作である。

土井利益椎の峰に立ち寄る
 元禄時代、唐津藩主・土井利益が長崎に向かう途中、椎の峰に立ち寄り、藩の陶工太郎右工門、彌次兵衛 嘉平次、作平、太左工門等の5家の仕事を視察した。しかし、太左工門だけは苗字がなかったので、福本姓を与えられた。太郎右衛門と弥兵衛は中里と大島でもよかったが、嘉平次と作兵衛は尾形か福島であったらしい。
 領主の厚き保護と、陶工等の研鑽裡に育まる事80年の繁栄の後、椎の峯崩れが起こった。

椎の峯崩れ
 この地域は寛文三年1663年7月に大火に見舞われたが、この虚業が根本的に破壊されたのは、もっと重大な事件であった。
椎の峰崩れには2つの説があり、小松系図では寛永年間とされているが、何時頃崩れたかは定かではない。

最初は元禄10年である。
 元禄10年1697年、地方の窯焼(窯元ともいう)の多くは、すでに伊万里商人から融資を受けて生産資金を調達していたが、その融資金を期日まで精算せず、これを無視して他の商人と新たな取引を結んだり、ひそかに窯製品の大半を他所へ流出させたりする者が続出し、金主である商人たちを大いに怒らせた。憤慨した商人たちは、同じ村の井手野の庄屋と結託して、この件を大川野代官に訴えた。
 代官はすぐに調べ、商人たちに非がないのであれば、そのほとんどに弁済の厳命が下った。窯はわずか45軒しか残らず、この地で盛んだった陶器産業は突然消滅した。

その後の諸説
 最初は享保2年1717年である。元来、陶芸の技法は土の違いこそあれ、陶工にとって最も難しいのは釉薬の調合であった。そのため、釉薬の調合にはどこの山でも共通の秘伝があり、その原料を探すのにも人知れず苦労があったと言われている。

山伏拾い
 明治維新の頃までは、大川内山(佐賀県)の正力坊の石が伊万里の岩栗川に流れ込むと知ると、夜中にこっそり池峠を越えて石を採っていた。二人は互いに警戒し、正力坊の名は出さず、「山伏」という匿名を使った。
 それは、このことが明るみに出れば、鍋島領である相手方との話し合いを余儀なくされ、厳しい話し合いが想像しにくくなることを恐れたからである。そのため、夜の夜振り風に魚籠に拾って入れるように行くこともあった。しかし、明治維新後は解放され、大川内村の榎原の白料金、同村の小石原の赤料金は、野ざらしで持たれるようになった。

椎の峰秘法の伝承
 しかし、藩制の時代、この釉法の秘伝は陶山の命であった。事件は佐賀や武雄の近くで起こり、その地域の窯元から何らかの賄賂をもらった人たちが、椎の峰伝承の秘法である釉薬を伝えたのを役人に密告したのである。その時の代官は疑いのある者を厳しく究明するのであった。

焼窯などの施設は追放される
 驚いたことに、関係者が大勢いたことがわかり、焼成した窯元だけでなく、作業員や雑役をしてくれた人たちの分まで、すべて追放させられたという。
この騒動で、5代目の中里太郎右衛門と4代目の大島弥平は、領主の膝元であるで坊主町の藩窯へ送られたという。

身上書を除く
 以下は、安永五年(1776)五月、太郎右衛門と弥兵衛が椎の峰窯の人別帳を持ち出したときの記録である。当時の椎の峯窯は他山に散り、あるいは廃窯となり、彌右工門(中里氏)市兵衛(小形か)の二戸が残るのみであった。
 藩体制の政治は、産業の損得をあえて見ず、道徳や善悪だけで物事を決めていた。世界各国が貿易よりも打算的な外交に終始している現代とは対照的である。

仏陀の谷
 椎の峰には4つの古窯がある: 上多々良の「仏の谷」、中田原の「中村」、下田原の「菰谷」、そして「古椎新窯」である。仏の谷は最も山奥にあり、両側を谷に挟まれ、窯に向かって不思議な形の丘がある斜面になっている。この辺りの古窯のものは、底が糸切りで釉薬が薄く、地質は石焼に近いしっかりした古唐津焼ばかりである。白釉の茶碗には無釉高台もあるが、半磁器に近い。
 最も多いのは褐色を帯びたもので、皿、鉢、茶碗などが多い。また、灰色と淡黄色の釉薬に緑の葉の文様が施された鉢もある。つまり、この仏の谷は飯洞に次いで古い窯と思われる。上古窯が中古窯に比べて総じて硬質な焼成であるのは、当時の森林が厚かったためか、あるいは古窯の時代に燃料の採算性を重視する風潮が強まり、それがやや緩和された結果かもしれない。

中村
 中村窯と菰谷窯は、前述のように元和2年1616年に開窯した。中村の古窯には、栗色地に白釉をかけ、文様を施した丸茶碗、青みがかった灰釉をかけ、小縁をつけた茶碗、濃い黄釉をかけ、底に蛇の目文様を施した夏茶碗などがある。丈夫な石器質のものもある。
 天目釉や栗茶釉の夏茶碗、海鼠釉の縁反りや黄釉の茶碗もある。
また、卵色釉の緑青薬茶碗、栗色釉の小皿に桜文三寸皿、栗地縁に白釉をかけた小鉢など、さまざまな逸品がある。

菰谷
 高麗神の入り口にあたる菰谷古窯跡には、卵色の釉薬の茶碗が多いが、珍しい黒天目茶碗や同じ釉薬の蛇の目夏茶碗、灰釉の丸茶碗などもある。後期の磁器もここで焼かれた。現在、椎の峰窯として使われているのは古椎の新窯であり、100年以前に開窯していたとすれば、その後に改築されたことは言うまでもない。

椎の峰窯の古陶片
 椎の峰には優れた古窯が少なくない。その中には、どこの窯のものか不明だが、口が大きく卵形の花瓶があり、涙文の油滴花瓶もある。
 また、楕円形の釉薬に青い薬が描かれた4寸の大茶碗、同じ釉薬に梅の絵が描かれた3寸の小皿、茶色の釉薬に赤い縁がはめ込まれた小皿もある。また、茶釉鼓形縁樋鉢、茶釉江戸唐津文樋鉢がある。 緑がかった栗釉の胴に濃黄釉の白文盃(中)、濃茶釉の縁に天目釉をかけ、胴に縮緬(ちりめん)釉をかけた糸切型六寸盃がある。また、白栗地に黒釉をかけ、縁に白釉をかけて楽筋を描いた高さ七寸の盃もある。鶏糞釉の八寸花瓶、青海鼠釉と横天目釉の輪花立六寸もある。

椎の峰磁器
 明治29年(1896)、伊万里下町の上田米蔵(原屋)が甲子の辻前川焼の窯設備を譲り受け、椎の峰に持ち込み、天草石を原料として磁器を焼き始めた。伊万里の玄海窯の水町幸吉が窯の責任者となり、緒方喜一ら地元の陶工56人を集め、藤津郡吉田山から156人を雇って銅板と透光性の食器を生産したが、5・6年後に廃窯となった。
 1970年頃、中里某は再び磁器の生産を復活させ、カントン茶漬けや湯呑みを作ったが、わずか1年で再び廃業し、伝統的な黒陶(陶器)の生産に戻った。

伊万里との取引
 ここの窯元は、明治六・七年1873・4年頃から伊万里浜町の石丸善作との個人経営となり、その時期には花瓶に霜降の斑点ある海鼠流しなど、優れた製品も少なくなかったが、次第に価格も作風も低下していったという。
 善作の後、同町の東島貞吉が一人で窯を継いだが、当時は椎の峰の製品が少なくなり、中里庄次郎ら4人で窯を焚き、年産3,000円余りであった。その後、この粗悪品を出荷するにあたり、以前のように伊万里港から大阪方面に出荷するのは不便になり、地元の窯元や製品の直売が主流となり、定吉は10年前から全く商売をしなくなった。

椎の峰海鼠と天目
 椎の峰窯の技法には、今も見るべき古い伝統がある。この海鼠と天目の釉薬を使って、瓶掛けや半洞甕窯のような大きな器を作れば、当時の上海方面からの輸入を防ぐことができた。しかし、伝統的な釉薬のかけ方が他山の職人に伝わらなくなることを恐れ、この提案は実行されなかった。
 かつては350世帯の集落として栄えていた椎の峰も、現在はわずか13世帯となり、佐賀県伊万里市南波多町大字府招に編入されている。

椎の峰の現在の製品
 現在の製品は、浴槽、植木鉢、床の間、花器などである。
しかし、床飾りや花瓶を作る技術には、まだまだ改良の余地がある。
 この墓地の丘のふもとに朝鮮人の墓がある。高さ4.5メートルで、四方に立派な碑文が刻まれている。

椎の峯の多々良の神
 また、菰谷窯の頂上から左へ進み、右折して左折したところに、8畳ほどの軒高を持つ拝殿があり、多々良の神である高麗神を祀っている。拝殿の奥にある3基の石祠のうち最も古いものは、寛政5年(1793)8月、中里彌右工門、大島市右工門、中里註司、小形清治、小形利左エ門、福島三右工門、小形卯之助らによって建立されたものである。

神道祭と花見
 祭りは4月8日に行われ、かつては芝居や角力(相撲)などで大いに賑わった。4月9日に花見の宴が行われ、五・六日の間酒興に浸る慣習ありましたが、いまは、多々良の神の石鳥居が静かに佇むばかりです。

高麗餅(こうらいもち)
 高麗餅は高麗祭で神様にお供えする餅。小豆を別に煮てつぶし、少量の塩を塗り、鉄刀で切るのではなく、竹刀で角をうろこ状に切る。これが高麗餅の元祖といわれ、現在の分厚い高麗餅の元祖であろう。

話は元に戻る。前述した椎の峰の崩落をきっかけに、再び北波多村の田中、そして鬼塚村の畑島に窯が開かれた。大川村の片草、佐次郎、善徳などに開窯する者もいた。三川内の杉林、筑前糸島郡の吉井など、遠方に窯を開く者もいた。

畑島の窯跡
 鬼塚駅から西へ1里ほどの山裾にある水車小屋の右手から入る窯谷と呼ばれる雑木林の中に古窯跡がある。朽ちた落ち葉を掘り返してみると、窯道具の中からまれに、白い釉薬がかかった小さな氷の割れ目の破片や、鼠色の土に青灰色の釉薬がかかり、白い釉薬のムラがある茶碗などが見つかるが、いずれも小ぶりの素焼きで、縁が高台になっている。

大川野遊
 旧松浦党の大川野遊は佐賀県伊万里市大川町川西の日在城に1580石を領し、弟の峰五郎(平戸松浦藩・伊万里藩の祖)は佐賀県伊万里市大川町川西なる峰の舘にに住んだ。
 遊の子孫、鶴田、田代、河原を姓としてこの地に蟠踞し、波多氏の旗下には南源三郎保道(大川野南の舘四百石)原善四郎源佐(大川野三百石)峰丹後守但(川西峰の舘三百石)峰五郎八通(下鄉百五十石)田代日向守林(龜井の館三百石)赤木治部太夫彥秀(川原三百石)鶴田龜壽丸(山口)等、 その中でも、日在城主鶴田因幡守勝(500石)と、その弟で川原邑主川原政高(200石)は、最も勇猛であった。

割当て地の返還
 唐津藩主水野越前守忠邦が領内全域を測量させたところ、禄高1万8千石の余剰があることがわかり、肥沃な大川野を幕府に返還することにした。そして、肥前の島原、対馬、薩摩、豊後の日田の一時的な支配下に移された。その理由は、前述の領地が異常な不作に見舞われた場合の食糧手当てを補うためであった。この地域の窯元がすべて伊万里市と武雄市の境界にある眉山の麓にあったのは、そのためである。

立川の本谷
 大川村立川は、大川の宿から2町ほど離れた山間部の城野と立川の間にある80戸ほどの集落である。かつては波多氏の家臣、淵田勇四郎秀郷(300石)の居城で、10町ほど登った西本谷というところに窯跡の断片がある。青や灰釉に黒や薄墨でさまざまな文様を施した茶碗や、羊羹色や栗色に白い波状の刷毛目を施した茶碗がある。また、海緑釉に小さな豹の斑点があるものや、灰釉に刷毛目模様のあるもの、片口のような鶯釉の自家製茶碗もある。

盛家の墳墓
 立川は有名な戦場であり、天正13年11月203日、日在城の鶴田勝を攻めて戦死した龍造寺播摩守盛家(元犬塚鎮家)とその子三郎四郎蒲家の墓がある。墓は高さ約2.5メートル、幅約23メートル、奥行き約1.5メートルの自然石で、正面上部に九輪文が刻まれ、碑の前には荒樫で作られた3本の木刀が置かれている。

平資盛の遺葉
 系図によると、天正時代中期に松浦山形に来た(系図によると、子孫の小松重蔵は慶長年間に川原に来て陶器を作り、元和年間に椎の峰に来て陶器を作り、享保年間に再び立川に移って陶器を作った。慶長年間に川原に移って作陶。以下はその系譜である。

田代の筒江
 かつて藩窯であった田代窯は、現在の佐賀県伊万里市大川町東田代筒江(田代の手前78丁、大川野から半里30戸)の筒江で作られ、旧波多氏家臣の田代大炊助保(筒江の楯500石に住む鶴田氏の一族)の領地であった。窯跡は川に面した山裾で、下は水田になっている。現在は井手口川ダムの水の中である。
 筒江の陶片は、赤土に薄い灰釉をかけ、その上に黒釉をかけたものや、同じ土に灰釉をかけ、八つ目積に積み上げて焼いたもの。また、樺色の地に釉薬のないものや無釉光澤なし壺、飴釉のものもある。赤地鉄色に縄目模様が浮き出た水鉢もある。茶碗や皿もあるが、大ぶりで高さの比較的小さいものが多い。

善徳
 隣の川原村は40万世帯を擁し、河原之允高の邑として栄えている。長野の善徳窯には戸数十戸ぐらい有る井手口があり、この土手の脇を登った板谷の河口に古窯があり、灰釉の丸い茶碗の縁と上部に筋があり、同じ釉薬で数本の線が入っている。

片草と佐次郎
 次の梅坂古窯(道東川にある別名の石窯)と片草古窯も長野の村にある。片草は長野の集落で、20年ほど前まで黒土を使った陶器が作られ、後に磁器も作られた。佐治郎窯跡もこの地にあり、石焼のなかでも最も巧みに焼かれた葉茶を使った茶壷があり、鉄色地に三寸の高さで三方結びの輪が描かれた実用的な逸品である。

神谷
 神谷窯(川原12・3戸の集落で、瓶屋ではない)は田んぼに埋め立てられてしまったが、飴釉に唐津文様、赤地に白、素焼きの赤地に薄墨で竹文様など、さまざまな文様を描いた自家製の四方皿がある。芦の葉が描かれた大皿や、灰釉で底に薄墨で竹が描かれた深鉢もある。

一若の阿蘭陀墓
 この窯場に隣接する市若という山の麓の林に入ると、木の桁の下に古い埋没石碑があり、これが阿蘭陀の墓である。
400年前、2人のオランダ人がこの村に来て、一種の陶器を作った。呂宋系統(ルソン)といわれ、伝統的な唐津焼とはまったく種類が異なる。このオランダ人がもともと唐津に来たのか、平戸に上陸したのか、長崎から来たのかはわからない。

焼山の上窯
 次に川岸を通り、焼山窯(この地域には14・5軒ある)を探した。飴釉で尻底の六方深鉢、灰釉の鉢、焦げ茶釉の鉢などがある。また、褐色土で縁のある無釉の八寸皿や、同型の壺の破片もあった。一帯の中央には、茂みの中に窯の神を祀る石屋根の祠がぽつんと建っている。

 以上が大川村の古窯跡である。

瓢石
 近年、呼子の加部島にある田島神社の向かい側56町の行石では、飴釉や灰釉の土器の花台や皿、鉢などが多く採掘されているが、この辺りはしっかりした粘土が採れるので、将来はここで陶器の生産が試みられるかもしれない。(唐津の荒砂焼はここから作られたと言われている)。

神の浦
 神の浦窯は越智村の山下窯とも呼ばれる。赤土に黒褐色の釉薬をかけ、その上に白刷毛をかけた茶碗が古窯の中にある。また、黒栗色の釉薬に白い波状の刷毛目を施した大きな茶碗もあり、いずれも高台の内側に釉薬がかかっている。

中山
 板木の中山窯は、梅ノ木谷の板木分校前にある家数34戸の畑津村(旧畑津村、現西松浦郡)の集落である。古窯には、薄茶地に志野風の白釉が厚くかかった茶碗や、鮫肌に白釉が厚くかかった茶碗、同じように薄栗釉に白刷毛目文様の茶碗などがある。また、茶紫色や栗色の釉薬の上に白い波状の刷毛目や白い刷毛目が施された茶碗もある。
 また、黒土に栗色の釉をかけた茶碗や、高坏の内側に銹色の釉をかけた茶碗、高坏の内側に薄緑色の釉をかけた平皿などもある。また、飴釉の広口水指のような薄緑色の釉薬がかかった平皿皿もあるが、これはまた完全に石器である。その他、薄紫色の釉薬のかけらは半磁器製で、もちろん後世の作品である。この地は、旧波多の重臣であった久我玄番允秋度(800石)の領地であった。

諸浦
 有浦村諸浦(118戸)の窯は、開窯が非常に遅く、この地の古窯の器がすべて磁器であることからもわかる。唐津から西へ12km、かつては日高大和守財重(1,000石)の領地であった。 呉須染めの草縁鉢、梅縁の丸鉢、蛇腹底の三寸小皿など、いずれも淡灰色を帯び、粗雑な雑器ばかりである。
 大川村畑田の古窯のものも、諸浦のものと同じ半磁器である。発展途上とはいえ、最初の製品は本当に貧弱で、足のついた柄杓のようなものだった。この時代、藩の茶碗窯までが一般的な環境に移され、陶土胴の釉下に呉須の江戸薬を使った半磁器がある。
しかし、唐津焼の特徴は、言うまでもなく優美な鉄猫である。

神田
神田(戸数140戸)は、かつて飯田彦四郎久光(200石)の居城で、窯場は西唐津の北麓にある「内田の堤」と呼ばれる山間の畑である。このサツマイモ畑をあさると、染付磁器のかけらが見つかる。矢の羽帶描に上下を垣模様、丸紋縮の煎茶碗、底にねじり模様のある小皿、縁に花模様のある鉢などがある。これらはすべて伝統的なスタイルの磁器で、もちろん天草石で作られている。
このあたりの磁器のなかには、中央に重心を置き、その上に小さな花瓶を載せたような十字型の食器がある。現在の所有者である松平梶山の曽祖父が、廃窯となった窯跡を買い取って開墾し、この磁器を作ったと言われている。

米量
 さて、唐津焼には骨薫的に分類すると、さまざまな種類がある。元享年間(1321~1324)に作られた「米升」と呼ばれる土器は、釉薬は薄くかかっているものの光沢はない、升目はなく、古代中国の計りのようないくつかの形があり、当時米を量るのに使われていた。この枡は慶雲2年、第40代文武天皇の作であることから、元正時代以前に作られ、高級品として使用され、後に再生産されたことがわかる。

値抜け
 この値抜けという茶盌は建武年間から文明年間にかけて作られたものである。土は白と赤の2色の朱色を持つが、鉛色の淡釉で、ポーチ(高坏)の内側は無釉で、飯碗のような皺はない。後世に珍重され、その高値から「値打ち物」と呼ばれる。

奥高麗
 奥高麗とは、当時日本に入ってきた高麗燒の呼び名である。釜山の草梁(チョリャン)地方には高麗形が多いが、この作品は朝鮮半島内陸部の作品を模したもので、奥高麗となる。陶質はやや緻密で、釉薬はビワのような、あるいは青みがかった黄色、高台には皺模様があのが良品とされる。この3種類を古唐津と呼ぶ。

瀬戸唐津
 瀬戸唐津は、應仁から天正年間にかけての陶器で、瀬戸風の釉を用いることからこの名がある。黄味がかった釉薬で、口元が赤黒くなっているのが特徴。

志野唐津
 白土の上に白釉を厚く掛けた志野焼風もあり、釉薬にひび割れが見られ、志野焼にそっくりである。こちらも白土に白釉を厚く掛けた陶器。

絵唐津
 絵唐津は慶長万治年間に生産された陶器で、朝鮮塩器と混同されることもある。土は青、黄、黒で、薄い灰色の釉薬がかかり、草花文が描かれるが、その多くは意味不明で、図柄の精巧さを示す例は少ない。絵柄の抜けが多く、高台の内側に縮緬皺が出ているものもある。

鯨手と織部唐津
 絵唐津には「鯨手」と呼ばれるものもあり、これは繊釉が一種小豆色を帯び、口が赤黒いものである。また、瀬戸織部に似た唐津織部もある。

朝鮮唐津
 朝鮮唐津焼は天正から寛永期にかけて生産されたもので、水指や皿鉢が多く、茶道具では「火斗り」とも呼ばれる。土は赤黒く、青白い海鼠釉がかかり、釉薬は流釉が主流である。

蛇蝎唐津
 蛇蠍唐津と呼ばれる古い絵唐津で、釉薬は蛇蝎釉、作風は非常に鈍重く、茶人に好まれていた。

掘出唐津
 寛永から享保期の掘出唐津で、この手は焼損じた作品を打ち捨てられた物原という所より後世の人が掘り出した物で、土は硬く、釉薬は青みがかった黒色で、高台の土はだが見え、縮緬皺のある物が好まれる。一般に、瀬戸唐津、絵唐津、朝鮮唐津、掘出唐津等を名物唐津と呼ばれる。

是閑唐津
 是閑唐津というのは荒い土に海鼠色の釉薬などがかかり、高台の内側には凹んで兜巾になっている。

唐津三島手と同刷毛目
 元禄・享保期に作られた津三島手は、八代様式を模したもので、高台部分の釉薬の有無にかかわらずあります。これ以外にも唐津刷毛目なども含まれる。

献上唐津
 献上唐津とは、天明から安政にかけて唐津藩主が献上品として中里や大島らに命じて御茶碗窯で作らせた、雲や鶴の白文や狂言袴風などの茶碗をいう。狂言袴は韓国の象嵌茶碗で、円筒形や碁笥のような形をしており、淡い黄色や鼠色の釉薬が多用され、上部には菊のような丸が2つか3つ並んだ白い模様がある。上下に横縞があり、狂言袴の紋に似ていることから「雲鶴」と呼ばれるようになったという。徳川中期以降、茶の湯に用いられるようになった「雲鶴」の原名ともいわれる。

識別の困難
 このように分類されてはいるものの、一見しただけでは産地がわかりにくく、古美術的な観察によっても年代が極めて疑わしい。そのため、前項で述べたように、新古を区別する場合でも、実は同時代のものであったり、「南鐐」「高麗」とされていても実は肥前のものであったり、肥前以外との区別が難しいものも少なくない。

唐津の茶碗
 唐津焼には全体的に茶碗が多い。唐津茶盌に瀬戸茶入と呼ばれるように、茶道具の中で最も重要な茶碗が唐津で生産されていた時代がある。信楽、伊部、伊賀など他の地域では、種壺や浸漬壺などの農具が多く生産され、後に茶人のイメージから茶壺や水指の役割を与えられた。当初から抹茶碗の生産を担っていた唐津焼は、茶の湯時代の陶芸界で重要な位置を占めていたといえよう。

食器と茶碗
 唐津は言うに及ばず、肥前陶磁の中で最も多くの茶碗を以下に紹介するが、そのすべてを抹茶碗と考えるのは早計である。言うまでもないが、嬉野銘茶発祥の地である肥前の人々も、お茶を飲んで生きてきたわけではなく、食事用の器として使うのが一般的であったから、茶碗と兼用しても使っていたのである。

唐津焼の長短
 唐津焼が特に賞賛されるのは、古唐津や掘出物の作品だけで、戦後作られたものには非常に限られた数しかないという意見もある。武雄系や木原物のように刷毛目や三島手などの技物は少なく、縮緬皺がある高台部分は、他の産地で作られた器よりも共通して優れている。
 つまり、高麗・李朝様式に育まれた唐津焼は、当時の日本の上流社会や茶人の風潮から生まれ、有田焼のように中国からコンボシションを移入して、日本人の生活の中で愛用され、海外貿易にまで進出していたのである。作品は一貫して保護されていなかった。

一貫性のない保護
 しかし、古くからの伝統を持つ唐津焼の歩みが遅かったのは、当時の領主の庇護のもとで事業が展開されたにすぎず、前述のように領主がたびたび交代したため、作品の保護や矯正が一貫せず、御茶碗窯の範囲にとどまりながらも、何度も頓挫したことも一因であった。私も残念に思っている。
 唐津焼が磁器に鞍替えし、椎の峰の後を追うように現代の粗悪品製造競争に乗り出すのは賢明ではない。唐津焼は、伝統的な伝統にさらに磨きをかけ、お茶を深く愛する茶人のためのお茶道具づくりに励むべきなのだ。

茶器に酔う
 茶に酔う者はいないが、茶人は茶器に酔う。それゆえ、白磁にまだらな厭味のような窯技の失敗は、陶器では貴重なものと認識され得となりえる。この種の陶器には、本国・中国と同様、優れた作例が数多くあり名前が付いている、緑がかった釉と辰砂の明の均窯青磁とか、櫨釉(はぜゆう)、鷓鴣斑(しゃこはん)など、気の利いた名前がつけられている。

独自の所有感
 しかし、当時の単純明快な製品では、富裕層の独占所有欲や茶人の奇抜な嗜好を満足させることはできない。この状況を利用し、普通の製品に法外な値段をつけられない骨董商たちが、窯変物の流行を作り出したのであり、さまざまな種類の窯変物をそのように命名する点では、中国人に劣らず巧みである。

変形のひとつ
 陶器は一つの部屋で焼かれたとしても、積み重ねの状態や火の回り具合によって焼き上がりの色に差が出る。この時、青磁の中に混入した鉱物の分子によって見え方が変わると、砂のような斑点、斑点、飛青磁として珍重されるが、このような青磁も、釉薬が軟らかかったり、焼成温度が高かったりして、釉薬の表面全体に氷のひび割れが生じ、飛紋焼として珍重されて輸入されたものと考えられる。

変形2
 釉薬の表面に焼きムラによる斑点があるものを半使(判事)といい、これを手本として作られたものを「御本」という。茶碗の見込にあるくぼみを「茶溜」という。釉薬の表面にできる小さな皺を「縮緬皺(ちりめんしわ)」、凸凹を「柚手(ゆずて)」という。茶色や黒いシミは「雨漏り」という。不注意に釉薬を掛け残しした所を虫食いといい、抹茶碗なら窓開けと呼ぶ人もいる。

第三の変質物
 土が粗く、生乾きを削った為高台内に小さな隙間が出来たのを縮緬皺(ちりめんしわ)といい、土の中から小石が弾いて表面に吐出したものを「石爆」という。また、耄碌(もうろく)した作者が篦使いで手が震えた後があるのを踊り箆と珍重される。

第四の対象
 朝鮮から出荷する茶碗を梱包する際、十数個重ねた茶碗の一番下の茶碗は、縄が滑らないように二辺が切り落とされていた。もちろん、最初の製品からは外され、扱われることになったが、韓国の伝統の真骨頂として評価され、後に日本で割り高台として製造されることになった。
 長い歴史を持つ名工の作品ならまだしも、名もない普通の職人でも失敗を繰り返し、その失敗の繰り返しで脱線していく茶道というものがある。もちろん、前述のような変形の中には本当に貴重な名品もあるが、総じて高麗作品の模倣であり、意味や味わいが豊かなものは少ない。

本物の高麗の味
 元来、高麗の陶器は本来の粗放な気質で作られたものであり、隙、釉斷、石交、蛇蝎、釉溜、柆車目、茶筅摺、湯溜、飛び、歪み、作痕等など、彼らから見れば何でもないように見えるものは決して作られなかった。それを日本人がわざわざ作って風情を出していると考えるのは無理があることだろう。
 長い歴史を持ち、多くの名工を輩出してきた唐津燒は、その粋を超越する可能性を秘めている。このプロジェクトに協力する地元の有志や職人たちが、焼き物の真の美しさを研究し続け、この横たわる湯治場の自然美に加え、この人工物の美しさが世界に知られることを願ってやまない。

原文

唐津焼 椎の峯窯

 神代に天日槍の歸化ありて、其時從へる者近江の鏡谷製陶せし由傳へらるゝも、太古の事蹟は茫漠として定むるに由なく、故に我邦に於ける韓系の製陶として最古の歴史を有するものは、肥前國上松浦の唐津焼を以て始祖とすべきである。

神功皇后の出兵
 時は人皇十四代仲哀天皇の九年(千七百三十五年前)十月 神功皇后三韓に出兵せられるや、此松浦の港を御根據地させられ給ひしよりの發祥である。

御出兵前
 皇后は此處の玉島川の巖上より、裳の糸を抜いで釣を垂れさせ給ひて出兵の吉凶をトせられしに、大なる香魚かゝりしかば之は珍らしのたまひより、此地方を梅豆羅の里と呼び後訛りて末羅の縣と稱せしを、後代此地の勝景に因みて松浦の縣に改めしてふ傳説がある。(松浦の里とは今の鏡村さいはれてゐる)
 斯くて 皇后は、三ヶ月餘にして三韓に出兵せられしが、此時百済王の如きは護身と破敵二た柄の名剣を献貢されたのである。そして極月御凱旋の折従へ給ひし三韓の人質が、此末羅の里に開窯して、一種菟質の如き無釉物を焼きしものにて、之が唐津焼の濫觴といはれてゐる。

三官者の帰化
 口碑に依れば、此人質は武内宿禰が連行せる彼の王子三人にて、何れも佐志郷の地に居住せしめ、歸化名を太郎官者、藤平官者、小次郎官者と改称するに至つた。今共居住地名を太良村、藤の平村、小十官者村と呼ばれてゐる。蓋し三韓の王子なれば此遊境に置く可くもなく、必ず都へ連行きしならんも、此地に歸化せしめしことを考ふれば或は貴族程度の地位にあらざりしか。又官者を冠者と記されしもの多きを以て、源平時代の渡来説をなす者あるも、何れ我邦にてあて字にて譯名せしものが後代に於いて斯く訛りしものか詳でない。
 此内小次郎官者は製陶に巧みなりしより、住地に於いて製作に従事し、其後代々継承する者あり永年に製陶せしが如く、今に切木村梨川内の隣に古窯の趾があり。又此處の竈の神社は小次郎官者を祀りしものにて、毎年十二月二十二日が其祭日である。

唐津高麗の始
 次に人皇三十七代斉明天皇の御宇に渡せる韓人が此地に於いて高麗風なる大形の茶碗を製せしより之が我邦に於いて高麗焼の名称を用ひし施釉陶の始にて、此處を陶村と稱せらるゝの口碑あるも、今其何れの地名に相當するや詳でない。(陶器は元須恵母乃と稱せしより往時の陶村は間々須恵村と記せるがある。愚接するに此地に須惠の字を用ひるは北波多村に德須惠なる地名あるも、以前は徳居と書かれし由なれば之とても研究地としては確でない)
 之は今より千二百七十五年前にて、想ふに女帝新羅に出兵の爲め筑紫へ行幸の時なるべく、其際我出兵軍に從ひ來りし陶工が、此地に於て開窯せしものであらう。斯くて戦役の度ごとに此松浦が根據地となり、そして我邦製陶の進歩を助長せしむべく彼等が渡せし觀がある。

崔及等來る
 降つて清和天皇の貞観十六年(千百六十二年前)七月十八日、大唐の商人崔及等三十六人を乗せし唐船が、此上松浦地切(今の満島)の浦に来航せし以來、此地中国、朝鮮、印度方面の通商港となり、之より此地方を改めて唐津稱するに至り、そして此異國の文物交換の門戸は茲に筑前博多と竝びて九州北面の要となるに至つたのである。

唐津物
 此輸入品中には、多種なる陶器のありしこと、そして幾多の陶工が屢渡來せしことも察するに難くない。従つて此地製陶習熟の起原甚古く、恰も關東にて焼物の汎稱を瀬戸物と解する如く、關西に於いては唐津物といふに至り。或は又地方に依っては陶器を唐津物と稱へ、磁器を伊萬里物と稱するところもある。

高麗と唐津
 又我が邦産の高麗なるものは、穴勝ち唐津のみの製品にあらずして、佐賀、武雄、平戸、大村諸領地に於て、各韓人の製作せしもの否とに拘はらず、舊朝鮮式陶器の稱と見る可きである。當時韓人の開窯せし山々には到るころに其墳墓があり、そして共邊の窯趾や物原(焼損じの破片や焼の窯具を打捨てし所ボロ棄場もいふ)を発掘して得たる物が掘出し唐津一名掘出し高麗であり。又韓人が韓土の土を取寄せて製作せしもの、我邦にては焚火のみ用ひして火斗稱する朝鮮唐津の名物がある。

唐津物と本場物
 元朝鮮渡来の高麗燒と比較して、胎土の關係上多少の相違ありとしても、何れも同じ韓人の手に依って造られしものなれば、其何れが渡來品にて又何れが唐津物なるかは的確に鑑定できぬ物が少くない。若し此觀賞が粗雅な趣味を別として單に技術上の進歩より見れば、寧ろ歸化韓人の二三代頃の作品中には、暦手象嵌や刷毛目の如き却つて母國品を凌駕する逸品に乏しくない。中にも我邦の茶道趣味を諒解せる作品ども見る可きは全く此時代にありとさへいはれてゐるのである。

秦 久茂
 人皇三十八代天智天皇の朝(元年は千二百七十五年)に於いて秦久茂都より下りて外寇に對する警備の任に就きしより、子孫代々上松浦を領有すること四百餘年であった。而して此處の鬼子嶽(今の北波多村岸岳)山麓に舘を設けて支配せしより、此地方をさ稱せしが、後世に至つて波多の字に改められたのである。
 一條天皇の正暦元年(九百四十六年前)、清和源氏の嫡流源頼光は、肥前の國司に任せられて上松浦に下向した。今此地加部島の田島神社(國幣中社にて田心姫尊、湍津姫尊、 市杵島姫尊を祀る)
奉獻の石鳥居は、當時頼光の寄進と稱せらる。其時從ひりし四天王の一人渡邊源五別當綱こそ肥前松浦源氏の開祖である。

源頼光と綱
 彼は嵯峨源氏河原左大臣融の孫箕田源次別當充の男にて、母は多田満仲の女なれば綱は頼光の甥である。松浦源氏の本系左の如し。
(松浦源氏本系圖参照)

久 久寛を討つ
 斯くて秦氏の後代久寛に至つ勢威大いに振ふと共に、遂には朝に反するこ屢々なるより、當時京師にありし綱の男渡邊源別當久は、長元四年(九百〇五年前)敕命を奉じ上松浦千々賀に着陣し、攻めて久寛を破り追つて松浦川邊に於いて之を討取たのである。(此地方を鬼塚村稱するは、當時鬼の如く恐れられし久寛の墳墓ありしにあらざるか)

眉山を討平ぐ
 然るに長久二年(八百九十五年前)秦の残業は、又眉山(松浦、大川、若木三村の境)の隙に據りて周圍の村民を脅すこと頻りなるより、久は三男竈江三郎糺と共に攻めて之を鎮定した。(今千々賀の甘木谷にある御久さんの石といへるは此久なるべし)

授と泰
 久の舎弟奈古屋兵衛尉授は、奈古屋の館に居住して奈古屋公と稱せしが、其子泰に至つて瀧口太夫とせるは、一旦京師に上って御所警衛の任にありしと覺しく、後西下して筒井(今の波多津村)の上戸城に居住(筒井源太夫さ稱せしにあらざるか)せしが、後三條天皇の延久元年十二月二十九日(八百六十七年前)彼は下松浦の今福に上陸して此地を本據と定めたのである。(今福上陸は其子久の説あるも、久は此時僅に六歳であつた)

梶谷城を築く
 堀河天皇の永長元年(八百四十年前)泰の長子源太夫判官久(此時三十三才也)は今に梶谷の城を築き上下松浦の莊二千二百三十町を併有し、爰に松浦源氏の基礎を固めしものにて、子孫四十餘黨に繁昌せしさ稱せらる。(蓋し松浦黨とは共氏族のみにあらざる可し)斯くて彼は久安四年九月十五日(七百八十八年前)八十五才を以て卒し、此地の宛陵寺に葬られてゐる。

波多持
 之より松浦氏を宗家の姓と定めて御厨公直之を継ぎ、三男源次郎持が上松浦の波多に封せられたのである。今より七百五十年前持は鬼子嶽に築城して之に居りしが、此城一名古志峯城と稱し、此地方の要害として威力四隣をするに至り。而して持は地名波多を氏となし波多源次太夫と改めたのである。

鬼子嶽窯
 持は前記小次郎官者の子孫を招き、鬼子嶽城下の山中なる飯洞甕(北波多村鮎歸)に於て開窯せしめしとの説があり、又此折韓土の陶工渡來せしさの口碑あるも詳でない。そして後年此飯洞甕にありし一部の陶工を古椎(南波多村椎の峯の舊名)に分窯せしめしより、此地方の民間に普く陶器の使用擴まりしといはれてゐる。

割竹式の窯
 此鬼子嶽山中の古窯は、既に久し以前より世に知られしが、武雄の古窯家金原京一及び唐津の中里太郎右工門等が踏査に因って喧伸され、昭和六年十一月廿五日東京工政會理事倉橋藤治郎は前記の京一等と共に此處の飯洞、帆柱、皿屋の各古窯趾を探見中、此飯洞甕と桐木盤が約七百年以前築造され朝鮮北方系に属する割竹式窯なることを考證して、學界に大なるセンセーションを巻き起きしめたのである。
 割竹とは丸竹を折半せし如き蒲鉾形にて、飯洞甕には完全に長さ五十四尺の窯があり、そこよ二拾間許りを隔てし桐木盤の窯趾は六十尺位なるが、何れも共内部を五六室に仕切られてある。
想ふに此傾斜面に築ける長窯内の仕切なるものが後には丸窯を連織せる登窯となりしものにて、斯道の窯式研究上貴重なる材料であらう。

貝高臺と焼ハマ
 此古窯の製品中に貝高臺焼なるものがある、それは小形の浅蜊や蜆等を五、六個位ハマ(耐火土製の焼臺)の上に並べ、共上に器物を載せて焼きしものにて、焼成器の高臺には顯はならざるも、糸切底には獅子貝の痕などが印花的に現はれてゐる。そしてハマにも共貝痕が顯然たるは勿論である。

籾殻敷の解
 又高臺に籾殻の痕跡あるものは、當時は現代の如く皿板(生造りの器を載せる板)を得ること易からざりしゆへに、平坦なる地面を應用せしものらしく、同時に共地面の濕気と器物の乾燥を調節するため籾殻を敷き擴け、其上に生造りの器を載せしものにて、決して籾殻を敷きて焼きしものにあらずといはれてゐる。

 而して此處の製品の質頗る堅緻なるもの多く、何れも釉薬が施されてゐる。仁治三年(六百九十三年前)彼の加藤春慶が瀨戶に來つて開窯せる同時代、或は其以前に於いて、斯の如き優秀なる陶器を製作しは、本邦中他に比類あらざる可く唐津焼の製作が如何に古くより發達せしかするものである。
 飯洞甕及桐木盤窯の次には帆柱窯(北波多村)が築造され、次に三矢谷(相知村上佐里)平松(同)大谷(同下佐里)皿屋窯(北波多村徳須惠)等が開窯されしものゝ如く、之等を総括して鬼子嶽窯いふのである。又稗田焼と稱させらるゝは皿屋窯のことにて三矢谷は又道納屋谷とも書かれてゐる。

飯洞甕
 飯洞の古窯品には、濃茶色の施釉物が多く焼かれてゐるが、中には其上に鐵釉や白釉にて青海波を文飾なし、又縁部には種々の模様を彫刻せし破片がある。或は同釉にて玉縁造りの片口があり、天龍寺の薄青瓷や七官手の皿茶碗がある。又均窯風の海鼠釉は此處を最古の製窯とすべく、或は灰色胎土に同色の薄釉を施し、それに鐵猫にて繪刷毛を文飾せし茶碗や皿等あるが、何れも高臺無釉である。
 蓋し薄黄釉朝顔形の大茶碗の如き、稀に高臺施釉のものが見出さるるのは後代作にあらざるかを思はしむ。此處の飯洞といへる地名は、後代に於いて専ら飯胴甕(大なる水甕)や壺の如き物を焼きしさころにあらざるか、各製陶地の工場を壺屋と稱するは此の所以にて、有田地方にては工場の轆轤所を今に車壺としてゐる。

帆柱
 帆柱窯の殘缺には、黒き胎土に淡綠施釉があり、白釉や青茶釉にて茶碗の裏を糸切にしたのがある。又均窯風の窯變を顯せしもの多く、或は薄瑠璃の如き色相物もあるが、何れの釉面にも微細なダブル貫入が生じてゐる。稀には永年風雨に晒されて白き被覆物が發生しゐるものあるは地質が脆弱にして土器に近いためであらう。

三矢谷
 三矢谷窯は、昭和九年五月二十二日、唐津の古舘九一、中里太郎右工門等が繪唐津を發見せしところにて、従來此處は無文手のみの製窯とされしところ、此際唐津焼の大宗なる繪唐津の而かも顔料の發色麗々たる古雅な破片が続々として發掘された。そして従来の繪唐津に見る能はざる蝦の圖や、草花の書など珍とすべきものがあり何れも朝鮮文化の粋を持つデザインが巧妙に發揮されてゐたのである。

稗田皿屋
 稗田皿屋の古窯品には朝鮮唐津式の失透性が重に製作され、唐津焼中にて最卓越なる製品が焼かれてる。中にも粉引手や均窯海鼠又は唐津青瓷の沓鉢などの逸品がある。此處は波多の重臣中村安藝守利度の舘ありし處にて、今合力(元高力)の姓ある者此地に渡来せし韓人の後裔と稱せらる。
 茲に波多持が鬼子嶽築城の頃、即ち後鳥羽天皇の文治年間(元年は七百五十一年前)に於いて、筑後國の住人草野二郎太輔永源氏黨となり上松浦大村(玉島村)の鬼ヶ城に居住した。そも鬼ヶ城は古代朝鮮式土城にて、上肥前の基肄城に次ぐ最古の築城と稱せらるゝものである。草野氏の系圖左の如し。(草野系圖参照)

別説には高木貞永の三男永經が、筑後國草野鄉(三井郡)に住して草野を氏となし、長寛二年(七百七十二年前)同國吉木竹井坂(山本郡)に移り、頼朝に属して戦功ありしより三千町を領して筑後の守護職となった。

草野經永
 それより五代草野七郎經永(贈從四位)こそ彼文永弘安の役に於いて、松浦黨と共に大に外寇を破って勇名を馳せし者にて、彼は文永十二年(六百六十一年前)より上松浦の鏡神社の大宮司として世襲することなり。兄永兼の子孫が代々鬼ヶ城に居住したのである。

山瀬焼
 濱崎村の山中に山瀬燒と稱する古唐津焼がある。其古窯品には飴釉や灰色釉に、鐡釉にて草の如きものや結び鳥など文せる皿があり。又薄黄色釉にて角なぶりにせし石交ぜの深茶碗等がある。或は罅出しの白釉や、同手の黄瀬戸釉小皿又は均窯海鼠の大茶碗等何れも無釉高臺に縮緬皺が生じてゐる。就中空色釉小皿の無釉高臺が、指先の押ゑぐりにて而かも楕円形に成つてゐるところ雅致なるものがあり、そして多く炻器程度に焼かれてゐる。 又一見鐡器に髣髴たる黒釉の、高さ五、六寸ありて口細の壺を胴より半栽せるが如き無恰好な炻器があり、所謂うずくまると稱する形であらう。
此地相知驛より二里半の山奥にて行人稀なるころ、今其沿革を詳にせざるも城主草野氏が、小次郎官者の支族を招きて此處に開窯せしめしといはれてゐる。
 鬼子嶽城は波多泰に及んで勢威大に振ひ、文明年間には壹岐國を併有するに至った。

鬼子嶽城の後継争闘
 それより五代下野守盛卒去するや、世嗣すべき男子なかりしかば、未亡人眞法女(多久頼母の女にて松浦興信の姪)は、外戚なる肥前高來の城主有馬義直の子藤童丸を擁立せんとせしところ、重臣日高大和守在秀(有浦一千石)は之に反對し、盛の舎弟壹岐龜高の城志摩守隆の遺子三人中より繼かしめんとし、茲に波多家の御家騒動が起るに至った。

大和を毒殺す
 天文十三年(三百九十二年前)未亡人は、酒燕にことよせて主謀者大和を毒殺したのである。永禄七年(三百七十二年前)十二月二十九日大和の男甲斐守方秀は、鬼子嶽城の厩舎に火を放ちて一味に合圖し未亡人を殺さんした、眞法女は遁れて佐嘉の龍造寺剛忠(家兼入道)に縋り、方秀は平戸の松浦隆信に頼りしかば、隆信は同十二年十二月廿七日三百騎を帥みて兵船星加まで来りしも、生憎暴風にして進むことが出来なかつた。
 此時剛忠の孫龍造寺隆信は、未亡人の為に鬼子嶽城を攻落し、方秀は敗れて壹岐へ遁走した。之より甲斐は女を松浦隆信の四男信實に妻はせて好みを重ねしより、壹岐は事實上平戸に併領さるゝに至ったのである。

波多鎭の相續
 斯くて鬼子嶽城は有馬の藤重丸を迎へて後嗣となし、太郎二郎鎮と稱せしが後三河守と改めたのである。然るに鎮は嚮きに已れが相續に反對せし波多家の同族を膺懲せんと欲し、大川野(西松浦郡大川村)日在の城主鶴田勝を攻めたるも、鎮敗れて草野鎮永に頼り、後漸く歸ることを得たのである。

宗軍を詐り破る
 元龜二年四月十日(三百六十五年前) 日高方秀は、舎弟信助勝秀及中尾主計等兵船三百餘人と共に奈古屋浦(後名護屋と改む)に着くや、鬼子嶽城より相浦中務、堀野源五郎等迎へて之を戰ひ源五郎は戰歿した。眞法女對馬の領主宗將盛を頼みしより、方秀は立石圖書等と謀り、同三年七月十六日宗釆女の對馬勢を詐はり誘ひ、壹岐國本宮浦に於て大いに之を破ったのである。

隆信上松浦を攻略す
 天正元年十二月(三百六十三年前)佐嘉の龍造寺隆信は、従弟鍋島飛彈守信生(直茂の前名)を將として上松浦に進軍するや、鬼子嶽城主波多三河守鎮、獅子ヶ城主(今の木村波の西北)鶴田越前守前、日在城主鶴田因幡守勝等之を迎へて聘禮した。同二年正月三日龍造寺の軍は鬼ヶ城を攻落し、城主草野鎮永は筑前高祖に走り實父原田了榮に頼りしころ、了榮は鎮永をして隆信に降らしめ、そして龍造寺の族(母は隆信の女)家水を養嗣子とすることに成ったのである。斯くて鎮永は元和三年二月二十日卒去した。

肥前の領分野
 當時肥前國松浦沿岸の各領主は伊萬里 山代、佐志、波多、草野を上松浦の五家とし、有田、田平、佐々、御厨、志佐、吉田、大島、宇久を下松浦の八家と稱せしも、此頃に至りはて龍造寺の勢力に支配さるゝに到り、次に豊臣氏の配下に一統されたのである。
 天正十五年正月(三百四十九年前)秀吉は、薩摩の島津義久を征服すべく九州に下るや、波多親(鎮改名)又之に従属した。其頃肥前の分野は隆信の男龍造寺政家七郡を領し、鍋島直茂二郡を領し政家を補佐し、松浦鎮信平戸を領し、大村純忠大村を領し、有馬純治島原を領し、宇久盛勝五島を領し、そして波多親唐津を領してゐた。

親不興を蒙る
 文祿元年四月(三百四十四年前)秀吉は、朝鮮の役を起して名護屋の新城に入るの時、九州の諸領主は皆博多に來つて出迎へたるに獨り波多親遲參せして秀吉の不興を招きしを、鍋島直茂の取成しに因って漸く不問にさるゝ事と成った。そして親は總勢二千人をみて直茂に軍屬し、韓土深く順天まで攻進み將卒の半ばを失ふまで悪戦苦闘したのである。

名護屋陣の遊興
 或時秀吉は、名護屋の本營に無聊を慰めんて遊興を催すや、在陣の大小名を始め留守居の男女まで観覧せしむることゝなりしが、波多親の夫人(阿安又は秀の前さもあり)は夫君出兵の留守中警戒の故を以て辤退せしも、無理に召寄せられ、只管歸城を乞ふも赦されなかつたのである。

夫人罪を得る
 然るに此時夫人の懐中に、護身の小剣を匿まへることが見出されて由々敷罪となるに至った。夫人は村中龍造寺なる豊前守胤榮の遺子にして隆信の義女である。始め蓮池城主小田彈正少弼鎮光に嫁せしも、鎮光大友宗麟にして隆信に反せしより誅せられ、夫人は波多親の後室に再嫁せしものにて容色秀麗の婦人であつた。

波多領沒収
 慶長元年正月(三百四十年前)波多親朝鮮より歸陣するや、黒田長政は小川島に出て秀吉の命を傳へて波多の領地を没収し、そして親は常陸の佐竹義宣に預けらるゝこと成った。
此報を聽傳へたる鬼子嶽城では上下驚愕した。

鬼子嶽城大評議
 此時城中に在りし波多氏の一族即ち、獅子ヶ城主(殿屋にて五百石)鶴田越前守前、日在城主(大川野にて五百石)鶴田因幡守勝、姥ヶ城主(黒川にて五百石)黒川左源太夫周、新久田城主(井手野にて五百石)井手飛彈守度源を始め、重臣には法行城主(板木にて八百石)久我玄番允秩度、本城(重橋にて五百石)の川添監物孟一、稗田(五百石)の中村安藝守利度、相知(佐里にて三百五十石)の江里長門守天相、大川野(三百名)田代日向守林等の大評議と成った。
 此時隈崎素人の如きは、寧ろ名護屋の本営を突撃して一死以て松浦武士の義名を止めんとまで強張せしも、拾萬の護衛ある該城を襲ふことは、餘りに策の無謀なるを以て、姑らく隠忍して波多家の再興を計るに如かずとなし、茲に江里長門守天相と飯田彦四郎久光(神田にて二百名)の二人はにして、常陸國筑波山下の配所に忍び寄親を奪還すべき任に當ったのである。

妙安尼
 一度は生害せんとせし夫人は、遺臣等に諫止されて檀の谷(南波多村)に隠れおりしも一子彌太郎吉(或は孫三郎又彦三郎ともあり)と共に、八並武蔵守重(伊岐佐三百石松浦系圖参照)馬渡五郎八俊則守護して佐嘉城下に落つくこと成った。そして重等は鍋島氏に依って波多家の再興を計らん期せし折、慶長三年八月十三日吉病死せしより、夫人は剃髪して妙安尼と稱し庵室を結び亡夫子の冥福を祈りつゝ、寛永元年七月三十日七十九才にて卒去した。(今の妙安寺小路の妙安寺は其庵室の跡に建立せしものである)

波多氏亡ぶ
 之より先鬼子嶽の浪士等が、大川野の建福寺に密合して事を計る由秀吉の知るところとなり、鬼子嶽城は直に侍臣寺澤忠大郎廣高に引渡さしめ、波多浪士の離散を厳命した。此間東行の任につきし江里、飯田の兩士は、幾多の辛酸を嘗めて親を奪ひ踊り、鬼子嶽の浪士を糾合して黒髪山に立籠る可く、伊萬里の大法院に密せんと企圖せる折しも、親卒かに病没して萬事休するに到り、源次太夫持より十五代嵯峨源氏五百年の名家茲に終りを告げたのである。

鬼子嶽崩れ
 唐津焼は實に此鬼子嶽山中より發せしといはれてゐる。而して此没落と共に数多の陶工は諸方に離散するの止むなきに至り、先に夫人か隠れたる五ヶ莊さいはし植の谷や大川原(同し南波多村)等へ移窯した。浪士も亦多く此地方へ来て身の振方をつけしといはれてゐる。
 就中稍遠地へ移窯せしは、平戸領三河内の長葉山にて、此處に來つて均窯海鼠釉を焼きしさの説がある。

森善右エ門と景延
 此鬼子嶽崩れの工人は全國的に其窯技を分布せしもの如く、彼美濃國久尻に於いて加藤景延が陶窯を難じたる森善右工門は、遂に彼を唐津(椎の峯なるべし)へ同伴し、景延が此見學に依って尾濃従来の窯式全く改良され、そして彼は美濃中奥の祖として贈位さるゝに至つた。而して此善右工門は無論鬼子嶽の殘黨たることはいふまでもない。

家永彦三郎
 諸書に依れば秀吉名護屋在陣の砌嚮に該城造営の屋根瓦を焼きし佐賀郡高木瀬村の家永逵三郎方親を召して茶器を焼かしめしに、彼は當時第一の巧者なりしかば、文祿元年十二月廿六日肥前焼物師の司を命ずとの、秀吉の朱印を授かり壹岐守に任せられしと記されてある。
 而して名護屋城(保元頃の地頭名護屋肥前守經基の後裔越前守述の居城を改築)は其歳の春竣工せしものにて、秀吉の入城は文祿元年四月二十五日であつた。然るに此僅か数月の間に於いて従來瓦を焼きし程度の彼が、如何に器量人なりしと練磨の陶技立所に上達し、然も壹岐守に任せられて朱印まで授かりしとは、眞説とするに頗る躊躇せざるを得ぬ。

川原屋敷
 高木瀬村の川原屋敷は當時瓦屋敷と多布施川の沿岸である。一説に家永彦三郎は真崎長右工門と共に秀吉の用器を焼きしさ稱するも、彼等は只瓦屋敷の元稀にて、實は平松源右工門なる者春日村(佐嘉郡)久池井字國分の坏土を以って製作せしものであるとの異説がある。

肥前瓦の條
 肥前丸の條には、天正十九年名護屋天守瓦注文に預り、小川惣右工門小城郡江津にて之を焼き、文祿元年正月名護屋城普請奉行蒔田十之助より天守閣普請の総代を命ぜられ、其竣工の速かなりし賞として、九州九ヶ國家造を進達すべき旨秀吉の朱印を授かりして記せられてある。

直茂の天守造營
 斯くの如く各自家の誇張的記鎌多種にして、後世史家の取捨を迷はす材料たる而巳である。蓋し名護屋城普請に就いては、鍋島直茂のことは相違なきもの如く、直茂公譜に左の如き記録がある。そして之は天正十九年ならんと推考されてゐる。

一太閤今度御下向付御居舘ノ爲波多三河守親ノ領内上松浦ノ内奈古屋於一城ヲ築カセラル依之直茂公ョリ蓮池城天守ヲ献ゼラレケリ其上大手ノ櫓ヲ立ラル三間=十三間也奉行石井生札(義元)、甲斐彌左工門、納富市右工門也此時自殿下直茂公エル書二日
就奈古屋御在陣御用爲可相叶甲斐彌左工門石井生札納富市右工門付置切々懸物並竹木普請道具 夫稀等申付候儀無尽期造作共殊入念候奉行等聊無油斷候彼是悅思召候尙石田杢(三成の兄正澄)木下半介(吉隆)可申也
七月十一日 御朱印
鍋島加賀守どのへ

範丘
 或説には鍋島直茂最初歸陣の折、釜山の陶工範丘及其族十餘人を連來りしを、秀吉命じ白鷺山に止め茶器を焼かしむることゝなり、家永彦三郎は其取締りに任せられた。之より彼は範丘に師事して頗る造詣するところありしも、蓋し當時製せし茶器は多く範丘の手に成りしものにて後年稗田皿屋に於て白紋雲鶴を焼きしも亦範丘であるといはれてゐる。

白崎山
 然るに白鷺山さは名護屋村ではなく、村の神集島の山名にて、名護屋城を隔つること二里、唐津より二里の小島である。(其頃夥しく白鷺の棲息せしも後年伐木せしより筑前姫島方面へ移棲した)而して別に白崎山あることが解せられて、普讀上の誤字なりしことを発見したのである。
 白崎山は名護屋城より六、七丁を隔てし山中にて、當時蒲生飛彈守氏郷が陣であつた。其處に白き陶土を産出し、往時は唐津焼の原料に加用されしいはれてゐる。斯くて一部の韓人を此處に收容し、其他は佐志村唐房に別製陶せしめしその説もある。

名護屋城内の御用陶師
 平戸説に依れば戦役中秀吉は、松浦鎮信に命じて巧みなる陶匠を求めしより、彼は咸鏡道熊川の陶工從次貫なる者を名護屋城内の窯場に送りしとあるも、之を事實と認じるには大いに研究の地がある。其外渡來の韓人にして、此際名護屋城内にて茶器を作りし者陸積として敷へらるゝも、多くは自家の祖先を粉飾せんとする一種の手段と見る外なく、甚信を描き難い。
 如何に寛濶なる秀吉とて、當時戦役中に於いて陶工の身分としても、交戰國の異鄉人を城内住込ませしとは思はれず、況んや彼の鬼子嶽崩れの殘黨に對しても未だ用心の必要があり、さなきだに彼は十餘萬の大軍を以て、名護屋城外數里の周圍を取卷かせ警戒頗る厳重なりしこさを考ふべきであらう。

尊階来る
 慶長三年加藤清正に從ひて唐津に上陸せし韓土の陶工中尊階(釜山海の領主尊盆の子ともいふ)は、暫く此地に止まりて唐津焼を研究せしといはれてゐる。(それは切木村の小次郎官者窯にあらざるか)而して彼は一旦故山に還り、慶長五年再び渡来して細川忠興に聘せられ、豊前に於いて上野焼を創始せしは前記の如くである。

廣高唐津を領す
 波多家落後唐津を領せし寺澤忠次郎廣高は、始めて志摩守に任せられた。彼は秀吉の侍臣にて父は尾張の人藤左工門廣正と稱し、始め織田信長に仕へ後秀吉に從ひて越中守と稱した。廣高性剛毅又頗る才幹あり、朝鮮の役に従ふこと前後七ヶ年抜群の戦功があつた。然るに一夜鬼子嶽城が焼失(波多の浪士が放火せしさの噂あり)せるより、彼は徳居(今の北波多村徳須惠)の西北田中村に城を築いて之に居住した。

舞鶴城築營
 其うち名護屋城を解き崩して其材料を得るに及び、慶長七年(三百三十四年前)よ唐津の満島山を卜して此處に工を起し、七ヶ年を経て舞鶴城が完成された。此地玉島 松浦の二川中に注ぐがあり、港内水深くして高島 大島、鳥島の配置盆景を見るが如く、陸には佐用姫が領巾振山を扣へ、仰げば東天高き雲表に浮岳を望み、俯すれば銀波除ろに寄せる虹の松原を眺むその景勝實に天下に冠絶す。爾來士民此城下に蝟集して商家櫛比し、博多の豪商神谷宗湛(平四郎貞清寛永十二年卒八十五才)の如きも此處に來つ朝鮮、支那、呂宋、選羅、安南諸國と通商するに至り、昭和七年には市制を布くに至つたのである。

鬼子嶽の殘黨
 其頃鬼子嶽の殘黨は、多く流浪四散して或者は鍋島氏に仕へ、又は領内の村々に庄屋となり、中には町人や陶工となりし者も少からざりしが如く、廣高此浪士に對して頗る寛容であつた。而て鬼子嶽城火災が縦令彼等浪士の所行としても、情として無理ならずさなして其檢挙を止めして傳へらるゝが如き其の一例にして、之より士民大いに歸服せしと言はれてゐる。

李敬来る
 廣高又當時對馬にありし韓土の陶工李敬(字は夕光)及同地の陶工七兵衛を召し、特に朝鮮より取寄せし陶料の坏土を以て、椎の峯に於いて茶器を焼かしめしが、其際不出来の器は悉く之を土中に埋め、完全なる成器五十六小を撰みしものである。

火斗り焼
 之を火斗りの絶品として愛好者の珍重措かざるものである。李敬歸化して坂本助八稱し、後年長門の古萩を創始せしことは前記の如くである。
 而して廣高が陶器を焼くに、其胎土や釉薬原料を韓土より運搬せしは、頗る賛事に似たるが如きも、戦役當時の事情に徹すれば決して其然らざる所以が見出さるゝ、それは前に述べたる如く玄洋歸航の安定を保持せん爲に、重量代りとして搭載せしものにて、一面には此時代陶器といへば朝鮮を主とせる因習観念が、彼國にのみ世に類なき原料あるが如き特種の尊重心も亦取寄せの一因と見る可く、殊に良粘土に乏しき戸の中野は勿論然る可くも、彼の薩摩の古帖佐にも此火斗りといへるものあるは又同じ理由であらう。

廣高加禄
 慶長五年八月關ヶ原役に於いて、東軍に属せし廣高は其殊勳に依り、肥前國天草島の四萬石、筑前國怡土郡(今の糸島郡)にて二萬八千三百六十石を加増され本領八萬二千四百十六石を合せて十五萬七百七十六石を領有するに至つた。

藩窯の移轉
 廣高又韓土の陶工にて歸化せる彌作其子藤右工門及太左工門の三人を召し、城下西の濱唐堀に開窯せしめ、何れも二人扶持を給し唐津焼の窯御用とせしが、後之を佐志村唐房に移し、次に稗田の藩窯となり、轉じて田代の筒江(西松浦郡大川村)に變り、慶長八年大川原(同郡南波多村)に移し、元和元年椎の峯に定めし稱せらる。
 廣高は寛永十年四月十一日(三百〇三年前) 七十一才にて卒去した。之より先き長子式部少輔忠晴元和八年四月朔日二十三才にて早世しかば、子兵庫頭堅高二代を嗣く事となった。

堅高の陶業奨勵
 而して彼は鬼子嶽崩れの陶工を奬勵して地方に開窯せしめしより、斯業再び物興するに至り、己れ又唐堀の窯趾を修築して幕府へ進献の器を焼きしものにて、之が即ち坊主町の藩窯である。
 此慶長時代創業せしと見る可き鬼子嶽系の古窯には、松浦村(西松浦郡)藤の川内の阿房の谷及び茅の谷、同村提の川の勝人、大川村(同郡)の梅坂、同村の焼山上窯 焼山下窯等がある。

阿房の谷
 藤の川内は戸數五十七戸の山間地にて、此處には阿房の谷と阿房谷下の芽の谷との古窯趾がある。茅の谷の背山を登りて五六丁、堤れば笠椎路の左方に阿房の谷の窯趾がある。
殘缺には灰色釉の隅折四角皿に、鐵猫にて稚拙なるの如きものを描きし裂物や、天目釉にて上部の大き瓢形の徳利に、屮の浮出銘を現はしたのがあり。又金茶釉に海鼠を交へたる窯變の徳利がある。
 又灰色釉の目積大皿や、波文凹彫の上に黒釉を掛けし中皿や、小豆色釉の底に蘭の如き草を描せし同物があり。或は暗色鶯釉なる腰附の茶碗や、暗褐色釉に結び鳥を描せし縁淵の小皿があり、或は灰色釉に草を描き縁に四本の立筋を引きし同物がある。其外飴釉の丸皿、淡緑釉や化粧掛、又は卵色釉、天目釉、甲釉等の茶碗があり、何れも無釉高臺にて中には縮緬皺の生しものも少くない。

アボウ藥
 當時韓人アボウなる者唐津に渡来し何れの窯にてか緑色の釉彩(膽礬の銅綠)を用ひ始めしより、此青葉をアボウ薬と稱せらるに至つた。或は其アボウといへるが此藤の川内に開業せしより、阿房の谷の名ある所以かと考へしも、此青藥の應用は此處よりも、寧ろ隣山金石原の古窯品に甚だ多きを發見さるゝのである。

茅の谷
 茅の谷(一名勝負が谷)の古窯品には、飴色釉に黒天目を涙痕に掛けし甕形尺三寸の花瓶や、碧地海鼠や飴釉にて壺形六寸の花立があり。
鼈甲釉に海鼠を現はせし茶壺及鼠色釉の同物がある。或は褐色胎土に白釉を掛けし小氷裂の徳利があり、又天目釉の同物など何れも糸切である。
其他暗灰色釉に鐵描せし大皿、茶釉地海鼠の肩輪入水指、薄青地に蘭の如きを鐡描せし小皿や、褐色地に白の透明釉を掛けて桃色相を呈し外は濃き同釉にて鮫肌を顯はせし茶碗があり、何れも高臺無釉である。
 なほ此處の古窯品には、赤き胎土に均窯風の窯変を現し、そして重量輕き糸切の徳利なごがある。而して此藤の川内の古窯をば従来佐嘉系の如記述されしもの少からざるも、海鼠釉や其他の作風が全く唐津系と見るの外なく、地理的にも椎の峰とは僅かに半里程の隔りである。

筆ケ谷の韓人墓
 藤の川内の筆が谷なる三本松の墓地には韓人墓といふのがあり。それは四尺に三尺の二段石臺の上に高さ一尺五寸巾一尺位の四角碑である。それに元禄十六年九月二十四日(二百三十三年前)として、中央に釋玄人と彫られてあるところ頗る後來の歸化韓人であるらしい。

久良木の韓人墓
 又同地藤の谷邊りの久良木堺に四五反程の丸き高地ありて、此處が古き韓人墓させられ、五寸角程の石の上に丸き塔を載せしもの十數基ありし由なるも、今は全く失はれて只一ヶ所に其臺石のみが残されてある。

勝久
 藤の川内の隣地が提の川(松浦村字にて數百五十戶)の勝久にて、此處の古窯品には天目釉や鼈甲釉が多く又茶碗の高臺は無釉にて、中に瓢形の小花立や、平形の香立など發掘されしもの皆糸切底である。此勝久より分窯されたのが卒丁古場と道園であらう。

卒丁古場と道園
 卒丁古場は提の川妙尊寺の裏山にて、古窯品には鉛色胎土や暗褐色地に天目釉をむら掛にせし茶碗が多く、それが恰も鼈甲地の如く半ば褐色地を現はし、そして無釉高臺に縮緬皺を生じてゐる。又同地道園の古窯品には、淡青釉の小皿や、暗緑釉の茶碗に鐵描せしもの、或は柿天目の如きには穉拙なる穗草などを鐵描せるものがあり。其他天目釉に雅致の鐵文を施せし高臺無釉の茶碗がある。其後開窯されしものには、金石原(松浦村)の美恩林、餅田の東窯の谷、餅田の西窯の谷、山形(松浦村)の鞍壺、栗木谷、中野原(松浦村)の牟田の原岳野山、川原(大川村)の神谷、本部(杵島郡若木村)の山崎等の古窯がある。蓋し此の築造の前後や沿革に就いては詳でない。

美恩林
 従莱金石原の古窯中廣谷窯なる記名あるも、廣谷には古窯趾なくそれは隣地の美恩林であつた。此處の山裾なる段畠を漁れば、柿の若葉を渡る日影の間に少さき破片が見出さるゝ。それは褐色に小筋彫の徳利や暗色釉の茶碗があり就中鼈甲釉の茶碗多きも、稀に均窯風の海鼠釉があり何れも高臺無釉である。
 金石原と稱するは松浦村中野原の一小字にて、戸数二十七戶伊萬里より一里半行程である。従来金石原焼と稀して古窯家間に名あるところは、餅田の東西二ヶ所の窯の谷を指せしものにて、そして東山には今にも二間巾位の登窯が四間ほど名残を留めてゐる。

餅田の東窯の谷
 東窯の谷の古窯品に、緑釉は釉の内を淡緑釉を掛け其涙痕の端は白色と紺色を呈し、尚底部は紫紅色を顕はせし元の均窯風の大茶碗があり。又同手にて外縁に海鼠を現はし、内部には紺色或は金茶色を現はしたのもある。或は赤茶釉の深茶碗、大小形の天目茶碗、龜甲釉の茶碗があり。又小氷裂出青茶釉の大茶碗や外海鼠内白釉氷裂出の茶碗等がある。
 又黄瀬戸釉や鶯釉にて頗る光澤ある大茶碗があり。赤胎土に白釉を施せしものや、暗色灰色釉や青藥釉に濃き飛点ある銅釉等の茶碗がある。何れも高臺無釉なるも中に小豆色釉や、暗色灰釉及卵色釉にて高臺施釉の茶碗がある。蓋し無釉高臺の如く新月形に剔抉されしものや、又縮緬皺などは見出されぬ。其他龜甲釉の徳利や天目釉の小花立及褐色地に天目涙痕の小形水指等がある。

餅田の西窯の谷
 西窯の谷の古窯品には、天目の深茶碗、青茶釉の大茶碗、或は海鼠や褐色茶釉粉吹手の茶碗、小豆色釉や赤茶釉の茶碗があり。柚地天目や、黒天目、均窯海鼠や黄瀬戸或は薄黄色、又は化粧掛などの種々の徳利があるが多く口部に青藥が掛けられてある。其外暗色茶釉の水指暗色赤茶釉の茶壺、鉛色胎土に褐色薄釉なる耳附の小花立等があり。就中高さ三寸位の達摩の塑像に法衣青葉を施せし逸品がある。

牟田の原
 中野原は戸數百二十戸の山間集落にて、此處の牟田の原の古窯趾へは、金石原より十四五丁を隔てし熊野権現社の後溪である。堤の左が岳野山の窯跡にて、右なる三本松の下が牟田原の窯跡である。此の殘缺には黄色胎土や、鉛色胎土に粉吹手黒金茶釉や、黒天目釉又は鼈甲釉等の茶碗があり、何れも無釉高臺にて中には腰形附の茶碗などもある。

岳野山
 岳野山は此處の向ひ合せにて、古窯品は牟田の原と相似たるも概して口物を焼きしもゝの如く、それ等の種類には褐色地にて線彫文様の八寸の壺や、黒天目にて大胴形五寸の花瓶及茶褐色釉に鐵釉飛点ある同形の花瓶があり。又黒天目涙痕にて大胴形三寸の花立や、飴色釉に芽を描せる隅ゆり四角の小皿などもある。
 松浦村の山形は戶數百四十戶ありて、此處の山邊には寺の谷なる鞍壺と栗木谷の二ヶ所に古窯趾がある。従來後家田に窯趾あり稱せられしも、此處は栗木谷より二た谷を隔てし處にて今何等の形蹟も見出されない。

鞍壺
 鞍壺の殘缺には鶯釉や赤茶釉の徳利或は黄灰色の火入があり、又例の甕や壺などを焼きしものゝ如くそこはかに其破片がある。此外天目茶碗など何れも高臺無釉にて焼かれてゐる。

栗の木谷
 栗木谷の古窯品には、褐色胎土に白釉を薄掛して、胎土の色を透視せる深茶碗があり。或は鉛色胎土褐色地の大皿がある。又炻器にて驚釉や、黄瀬戸釉を掛けし茶碗があり、或は同地に白釉を施せし茶碗の如き、其何れも内部より外縁部まで施釉せしものありて、半磁器に近き地質の堅緻と相反し頗る元始的作風である。

山崎
 山崎窯趾は松浦村の隣地なるも、此處は杵島郡若木村なる本部の小字にて、小川内と稱する十四五戸の小村落である。此地東方の丘山に窯趾ありし由なるも、今は畑地に開拓されて其破片を見出すさへも容易でない。たゞ僅に高麗人の墳と稱せらるゝもの高さ一尺許りの自然石が建られてゐるのみである。
 原料は粘力に富める此處の坏土を使用せしものにて、殘缺には尺口の大口甕に内部丈飴釉を施せしものや、青茶釉や灰色釉の溝縁小皿があり。又廣縁淵の小皿に四方二つ葉と、底に蘭をせしもの何れも高臺無釉である。

古甕屋
 又同隣地の長尾には、古甕屋と稱し往年甕類を焼きし由なるも、今は全く其痕跡を止めざるまでに開墾されてゐるのである。

桃の川甕山
 此地唐津系にはあらざるも松浦村に桃の川甕山がある。此處は伊萬里より二里八丁戶數二百五十戶の一宿驛である。

中野清明
 松浦村は元波多氏の支配地なりしが後年鍋島氏の領地に属し、佐嘉より中野神右工門清明桃の川を知行して此地に治した。そして彼は直茂に從ひて朝鮮役に従軍せしが、帰国の際韓人の陶工を帯同して此處に甕焼を開始せしめたのである。
 此地甕類専門の製造地としては肥前中第一と稱せられ、多々良や上野よりも一割乃至二割の高値にて取引されてゐる。蓋し往時には製甕の傍ら、六七寸より尺口位迄の皿類を製せしものにて、それは褐色或は暗褐色胎土に飴釉を掛け、白にて縁へ浪刷毛目をしたるがあり。又小豆釉の上に白刷毛目を施したる七寸の淺井等は全釉なるも多くは高臺尻無釉にて蛇の目積にて焼かれてゐる。

清明の墓碑
 清明は晩年隠居して此地に歿せしより、此處に其墓碑がある。それは五坪位の地取にて石園の中を三和土となし、其上なる墓石の高さ五尺五寸、巾四尺四寸にて、厚さ四寸位の鳥帽子形平面石の中央に、南無妙法蓮華經下に照眞院通禪定門と銘し、右に南無多如來元和七年辛酉(三百十五年前)逝去好真靈、左には南無釋迦牟尼佛七月十八日一週忌建之と彫られてある。
(彼の死を追って殉死せし横田工門の墓は小城の墓地にある)清明の長子將監正守善く民を治め、殊に此地の製甕を保護獎勵せしといはれてゐる。中野家の略系左の如し。(中野略系参照)

桃の川焼
 此地の原料は、現今三間坂(杵島郡中通村)眞手野(同郡武内村)砥石川(當郡大川村)山口(同村)等の粘土を調節し、甕は五石人の巨器をはじめ其他、土管、植木鉢或は瓦等を製造しつゝある。今の伊藤伊之十は四代績きの當業者にて、此外に二戸の同業者がある。一時は泡盛の容器として鹿児島地方へ多量の甕を供給し、年產額一萬圓以上を繋げたりしも、當今は其半額に過ぎぬといはれてゐる。

堅高自す
 寛永十四年十一月九日(二百九十九年前)板倉重昌の所領肥前國島原に於いて、耶蘇切支丹の徒蜂起せし時に、寺澤堅高が領せる天草の農民又之に興せるを、堅高速に征服の軍を出さざりし爲に頗る討伐に手古摺らせしを罪として天草の所領四萬石を削除さるに至った。堅高は大いに之を遺憾となし、正保四年十一月十八日三十九才を以て、江戸淺草の海解寺に於いて自刃したのである。

久盛勝隆來治
 依って領地を没収され、同月二十四日幕命にて豊岡の城主(七萬四百石)中川主膳正久盛(瀬兵衛清秀の曾孫承應二年三月十八日卒、六十才)及び備中國松山の城主(五萬石)水谷伊勢守勝隆(勝隆の後妻は堅高の妹也勝隆は寛文四年閏五月三日卒す、六十八才)の一行は唐津に来つて舞鶴城を領受し、當城の番衛として爾後の政務を管掌すること成った。斯くて坊主町の藩窯も一時幕府の直轄として製陶するに至った。

大久保忠職代る
 慶安二年(二百八十七年前)大久保加賀守忠職(加賀守忠常の男)が、播州明石より移封されて唐津の領主となり八萬七千石を祿せしが、彼が母は奥平美作守信昌の女ゆゑ家康の外孫に當り、鎮西の探題として治績大いに擧がるに至つた。忠職の赴任と共に中川久盛と水谷勝隆は自領へ帰りしも、當時勝隆に從ひりし梅村利兵衛さいへる士のみ獪殘留したのである。

梅村利兵衛
 利兵衛は茶道の趣味深く且器物の鑑識に富み殊に繪畫に就いて深き造詣があつた。
彼は一旦浪々して筑前國鹿家の呂久(糸島郡福吉村)といへる地に於いて人形を造り、或は團扇の繪など描きおりしが、又佐嘉領に来り有田より三河内地方の陶業を観察して再び唐津に歸り領主忠職に献策し、牟形村(有浦村)の坏土を採取して之を坊主町の藩窯に用ひ、専ら幕府へ進献の陶器を製作した。

平山上窯
 然るに後年に及び、彼は去つて相知村に来り此處の平山上字櫨の谷西に築窯し、三河内より工人を招きて製陶に従事せしも五ヶ年にして止み、又此地を去って浪々せしが、晩年和多田(唐津郊外鬼塚村)の御茶屋番を勤務中茲に名工の終りを告げしは痛惜すべき次第である。
 寛文九年四月十九日大久保忠職六十九(七)才を以て卒去し、出羽守忠朝(實は忠常の叔父右京亮数隆の次男)二代を嗣きしが、彼は下總國佐倉へ移封された。

松平乘久代る
 延宝六年七月(二百五十八年前)下総松倉の城主松平和泉守乘久(和泉守乘壽の男貞享三年七月十七日卒す)代つて七萬三千石を領有した二代は子和泉守乘春嗣ぎ、三代左近監乘色に至って、貞享四年二月(二百四十九年前)志摩國鳥羽に移封されたのである。

土井利益代る
 元祿四年五月二十九日(二百四十五年前)山城國鳥羽の城主土井周防守利益(遠江守利隆次男正徳三年閏五月廿五日卒す)代つて七萬石を食祿した。正徳四年四月二十七日二代大炊頭利實次ぎ、元文三年四月十八日三代大炊頭利延(實は族備後守利清の男)継ぎ、四代は大炊頭利里(實は利延の舎弟)嗣いだ。
そして實永四年(二百廿九年前)或は二百十七年前の享保四年説もあ坊主町の藩窯は餘りに海岸に近して、今の唐人町字谷町の御茶碗窯に移窯されたのである。
而して利里は實曆十二年九月(百七十四年前)舊領下の國古河に歸ることゝ成った。

水野忠任代る
 實曆十三年三河國岡崎の城主水野和泉守忠任(監物忠辰の養子にて實は水野多宮の弟)代つて唐津を所領した。然るに其頃天災相次ぎ五穀實らず、加ふるに忠任猥りに制を更して大いに人民を苦しめしかば、此苛政にして領内の農民蜂起し、明和八年七月二十日(百六十五年前)虹の松原に集合する者二萬二千人に及び

智月と才治
 就中鏡村常樂寺の住職智月、玉島村平原の大庄屋富田才治等の義民達に其犧牲者たるに至った。二代式部少輔忠鼎遠江國濱松へ移封し、三代和泉守忠光、四代越中守忠邦嗣ぎしが、文政元年六月餘石一萬七千石は幕府の直轄となるに至った。

小笠原長昌代る
 文政元年(百十八年前)小笠原主殿頭長昌の領地となりて六萬石を食した。小笠原氏は清和源氏新羅三郎義光の四代甲斐冠者遠光より出でしものにて、系圖左の如し。(小笠原系圖参照)

白紋雲鶴
 壹岐守忠知は豊後國杵築及吉田を領し、其子長矩の代より長祜、長庸まで遠州掛川六萬石を食み、長恭の代より奥州棚倉六萬石に移封された。長昌は領地に於いて製陶を督せし経験あるを以て頗る斯道を獎勵し、そして御茶碗窯に於いて、高麗を模せる白紋雲鶴の茶器を製作し幕府へ進献すること成った(白雲鶴とは雲鶴の散文を器面に彫刻し、それに白亞の象嵌を施せしものなれど、後世には印花象嵌物多くなり、そして此様式のものまでも、凡ての象嵌模様を白雲鶴さ稱するに至ったのである)
 二代長泰は羽州鶴岡城主酒井家より来り嗣ぎ、三代長會は豊前千束より、四代長和は大和郡山り、五代長國又相尋て養子である。此長の天明年間より、幕府へ進献の陶器は毎年十月と定められた。六代長行(實は初代長昌の子也季父修理長光の子として)又養子にて五代より二才の年長であつた。

小笠原明山
 長行が當時若年寄として彼の生麥事件の賠償金支拂を断行し有名な明山(字國華又字伯華山又天全流耳と號す、老中格外國御用掛となる)である。
 唐津藩窯の陶工として代々其製作に従事せし者に中里太郎右工門と大島彌兵衛の家がある。
中里の私銘には?印があり、大島の同銘にはM印があつた。そして両家とも抜群の名工を出してゐる、中里家の略系左の如くである。

中里又七
 初代又七は、元韓人彌作の子などゝいはれしも、實は鬼子嶽崩れの殘黨にて世を憚かる身の素性を明にせざるため、斯く言ひ觸らされしのみでなく。當時は勝し陶工には高麗人して祀り上げた時代であつた。故に又七に於いてもそれをもつけの幸ひと、韓人に成りすました者と察せらる。

窯の神勘右エ門
 又七は田代の藩窯時代に勤務せし者であつた。二代太郎右工門は、慶長八年に移された大川原(樅の木谷)の藩窯時代させられ三代勘右工門は元和年間椎の峯藩窯にありしが、都合ありて大川原に帰りしより椎の峯にては窯の神の立ち去りして落膽せし程の巧者であつた。
四代太郎右工門に至りて又椎の峯に来ること成つた。五代太郎右工門の時享保十一年の椎の峯崩れより、四代大島彌と共に坊主町の藩窯へ轉勤を命ぜられたのである。

前田藤次右エ門
 是より先梅村利兵衛の繪畫の高弟に前田藤次右工門といへる名畫師があつた。

喜平次と日羅坊
 之に師事して學べるが六代喜平次にて、此名工喜平次時代の作品を中興焼と稱せられてゐる。七代太郎右工門の舎弟に日羅坊と名工があつた。今十二代太郎右工門が御茶碗窯の跡に私營として製作を続けてゐる。

鶉手刷毛目
そして彼は、有田の作陶新人會の一人として種々の雅致ある作品を發表してゐる。
就中手刷毛目と稱する作風がある、それは青地小氷裂手に鐵釉を流せし擂鉢形菓子器にて、それに一見三島手の如き刷毛目が文飾され、そして底部には菊形刷毛目が施されてある。又中里家と共に、代々藩窯の陶工として妙技を振ひし大島家の略系左の如くである。
 中にも六代の彌大平の如きは比類なき名工であつた。八代の源之助が小笠原佐渡守時代に相當すと稱せらるゝが事蹟詳でない。又其後の人名に權太夫、喜左工門、新九郎、吉三郎等あるも、大島家は中里家より早く廢業せしもの如く、今善などいへる末葉平戸の炭鉱地に移住して調査頗る困難である。

唐津焼の衰退
 斯くの如くにして古き沿革史さ特種の技能を傳統せる唐津焼も、其後見る影もなく衰退したのである。而して舊藩主を始め其後唐津には一人の復興者なく、縦令之を絶叫しても誰さて出資する特志家さへなかつたのである。

草場見節
 明治二十二年唐津町の婦人科醫草場見節(盆太郎長子)は。斯くて唐津焼の絶滅せん事を慨き、巨費を投じて谷町に設備を整へ、或は己が意匠を授け、又は白に雲鶴の文飾を試みる等ひたすら復興に努力して、一時各地の陳列館等にて大に宣傳を試みしが、明治三十九年九月廿八六十三才で卒去した。(子榮喜嗣ぎ前岐阜高等農林學校長であつた)

山内末喜
 見節の三男にて、山内小兵衛の養子となりし末喜は質父の遺志を嗣ぎ、同年熊本縣八代の濱田義徳(又美徳と書けり有田工業學校第一回卒業)を雇用して各種の釉薬及素地を造らしめ彫刻には松島隣、繪畫には角義則(同校第三回卒業)等を招き、其他有田の工人等を雇ひて床置、花瓶 茶器 食器等を製作したのである。
 或時は博覧會に、又共進會等に出品し、嘗て侍男爵米田虎雄に依りて、製品を宮内省に提供せしは明治三十九年であつた。斯くの如くにして大に斯業の復興を計りしころ、同四十四年十一月十四日三十七才にして卒去するに及び事業も亦中止するの止むなきに到りしは痛惜の至りである。

中野霓林
 次に勃興せしは巨像作家の中野寛林である。茲に献上唐津の調土及其釉薬の調合者に前田幸太郎なる者ありしが、彼は晩年其調合秘帳を擔保として草場見節に借金せしを、明治廿五年回収して之を霓林に譲ったのである。霓林は谷町の奥地に築窯し、當時京都の焼修業にあり福田直行歸郷し居りしが、同登窯を共用して製陶に従事したのである。
 霓林の作風は巨像の外馬や蟹などが得意の様である。今彼が本町の店舗には、尺五寸丈の馬や大籠に這登れる群蟹なご陳列されてある。蓋し彼が技とするところは巨大の塑像製作にて、これは前記の坏土調合の秘傳と彼が技巧とに依るものとせられ、大は高さ一丈に至るも獪完全に製し得るを以て、各地の巨像や名馬の如きは寫眞を以て製作せしものが少くない。

唐津焼の各原料
 是より記事はまた元に帰る、偖從來唐津焼原料の粘土は専ら鐵分多きもののみであつた。其使用さる重なる原料としては、有浦村の牟形の土(青小米白)名護屋村の加部島の土(白)北波多村徳須恵の稗田の土(赤)同野村山彥の土(白)相知村牟田部の佐里の土(白)西唐津村の岩砂利(小米白)同神田西浦の人形土(赤)など多種類がある。

笠椎の土
 然るに元和二年笠椎(南波多村)に於て、鐵分少なき良土が発見されしより隣地椎の峯の製陶然として盛大になり、従来の登窯(多々良の上)の外新たに上下二た登(多々良の中、多々良の下)が築造され、そして連續間數何れも二十間づゝであつた。此處より笠椎までの道程半里位にて該土の運搬頗る便利であり、且此粘土は俗に殿様の土として唐津の藩窯へも運び探られ猥りに採取することを禁ぜらるゝに至った。

椎の峯山
 椎の峯は今の南波多村の一村落にて南波多は明治十一年十一月波多津、黒川、大川の三村と共に西松浦郡に編入されしも、何れも唐津領にて椎の峯の地名は往時古椎と稱し、波多氏の家臣椎の峯雅楽の居城であつた。而して此地が商なる伊萬里市場まで僅か一里程にて貨物の運搬頗る便利なるより、斯業の發展は唐津焼の代表地たる観を呈し、盛時に於いては三百五十餘の戸數があつた。
 此山固より鬼子嶽に次ぐ古窯地なるも、特に進歩をせしは鬼子嶽崩れの陶工多く入込みしより以後のことに属し、其重なる陶家には中里、大島、小形、福島、福本等の諸姓があつた。

唐津領主の保護
 寺澤氏の領有に歸してより頗陶家を優遇し、殊に藩用五人の陶家には各々一人扶持を給し、毎年一人前米三拾俵宛を拝借せしめ、そして焼物を以て之を代納せしめたのである。又製陶燃料として椎の峯近地に於いて五十町の山林を下附されたのである。

高原五郎七の下向
 さきに秀吉が聚楽邸の御用陶師として仕へし高原五郎七は、大阪籠城の折木鐵砲を工夫せし程の器量者なるが、落城後の元和二年筑前博多に來り、承天寺の僧登叔を使り、暫時此地方に於いて製陶せしものと考察さるも事蹟分明でない。(或は鞍手郡の大鳴谷開窯説もある)
勿論彼が豊臣家の殘黨として大いに自己を警戒し且其の擧動を秘密にせしことは申すまでもない。

五郎七椎の峯に来る
 元和五年(三百十七年前)五郎七は椎の峯に来り、居ること七ヶ年の長きに涉りしを見れば、一面には世を韜晦する必要に驅られしとしても如何に彼が此地に愛着し、そして此處の陶工を指導して其の五郎七風なる一種のトーンを扶植せしかを察するに難くない。(俗にいふ五郎八茶碗とは是より始まりしならんとの説がある)まして此の境地に於いて韓人直系の陶技を研究しつゝ浪士の身を忍ぶには究竟の場所であつた。

三之亟の見學
 三河内の今村三之亟なども、はるばる五郎七を訪ねて陶技の教を乞ふ可く此椎の峯に来りしは、同時に又此地の優秀なる技風を見學せんとの希望に外なかつた。加ふるに鬼子嶽崩れの陶工に因って開窯されし長葉山の關係からも彼が椎の峯観察は豫てあこがれの一つでありしに相違ない。

浪土の椎の峯集合
 又慶長より元和に於ける闘ヶ原の敗殘者や大阪落城の殘黨など、世を憚る多くの浪人が此山間に五郎七を便りて陶工となり、彼の鬼子嶽崩れの浪士に交りて落着きし者少くなかつた。而して邊土の朴訥に都雅の濔酒を加味せし意匠が淳化されて、又一種のクリエーションが構成されして見る可きであらう。

土井利益來山
 元祿年間唐津の領主土井周防守利益は、長崎へ向途次此椎の峯に立寄りて、藩用の陶家太郎右工門、彌次兵衛 嘉平次、作平、太左工門等五家の製作を視察せしが、此中太左工門のみ苗字なきを以て之に福本の姓を與へたのである。蓋し太郎右工門は中里氏、彌兵衛は大島氏なる可きも、嘉平次、作平は小形、福島何れかであるらしい。
 斯くて領主の厚き保護と、名工等の研鑽裡に育まるる事八十年、さしも盛業を極めし此陶山に椎の峰崩れなる事件が勃發した。

椎の峯崩れ
 尤も此地寛文三年七月(二百七十三年前)大火に罹りしも、それよりは或事件が此嘘の産業をして根本的に破壊せしめたのである。
而して此椎の峯崩なるものには二説あり、外に又小松系圖に因れば寛永年間ともありて、其何れの時に覆滅を來せしかは確かならねど、事件年代共に多少の相違あるを以て、其中の二件をのみ抄録することしたのである。

其前説
 一は元祿十年(二百三十九年前)にて此地窯焼(又窯元即ち製造陶家の通稱)の大部分は、豫て伊万里商人より製造資金の融通を受けつ有りながら、其期限に至るも勘定をなさざる而巳でなく、之を度外視して新たに他の商人と取引を結び、又は窯出しの大部分を密かに他へ搬出する者多く成りしかば、金主の商人等は大いに憤慨し同村井手野の庄屋と結託して、此儀を大川野の代官所へ出訴に及んだのである。
 代官は早速之を調べたるところ、果して商人側の申立に相違なかりしかば、窯焼共の振舞以ての外不埒千萬なりとて此時大部分の者が處拂ひを厳命された。そして残るは僅かに四五戸の窯焼となり、さしも繁昌を極めし此地の陶業も忽ち火の消えし如くに成りしているのである。

其後説
 一は享保二年(二百十九年前)の出来事であつた。元来製陶の技法中胎土の如きは大同小異とするも、陶家が最も苦心研鑽するは釉薬の調製である。故に調法に就いては其山々にても共通的に特種の秘傅があり、従つて之に用ふる原料の探收にも人知れぬ苦労があつたらしい。

山伏拾ひ
 此處の釉薬材料とて維新頃までは、大川内山正力坊(佐賀領)の石が伊萬里の岩栗川に流れるを知り、夜中密かに忍んで池の峠を越えて之を採取した。そしてお互に警戒して豫てか正力坊の名をいはず、山伏といふ匿名を用ひてたのである。
 それは萬一此事が露見すれば、相手は入釜しき鍋島領の事とて如何なる厳談を持込まれんも計り難き恐れがあったからである。故に時には夜振の如き風体にて魚籠の中に拾ひ入れたといふのである。蓋しそれも維新後は解放されて、大川内村榎原の白料も、同村小石原の赤料も、公然と運ばる時代となりしことは勿論である。

椎の峯の秘法傳授
 然し藩制當時にあつては、此釉法の秘傳は陶山の生命であつた。事件の發生は此地佐賀や武雄領に近きより、それ等の陶山の窯焼より或る手段を以て買収されし者が、此椎の峯傳統の秘密なる施釉法を傳授せしとて、目附役に密告せる者ありしより時の代官大に恚り其疑ある者を厳しく糺明することゝ成なつたのである。

焼窯等の處払拂ひ
 然るところ意外にも多数の連累者あることが發覺し、其等の窯焼は勿論職工及荒仕子(工人の手傳ひに下働きを成す職人)に至るまで悉く處拂ひに處せられたといふのである。
而して此騒動に因り五代中里太郎右工門と四代の大島彌兵衛は、膝元なる坊主町の藩窯へ寄せらるゝことゝ成りしといはれてゐる。

人別帳除き
 安永五年丙申五月太郎右工門、彌二兵衛の椎の峯山人別帳を除く云々の記録あるは享保二年より六十年目に於いて之を執行しものか、參考として記述する。而して當時の椎の峯の窯焼は他山へ離散し或は断絶し、残るは彌右工門(中里氏)市兵衛(小形か)の二戸のみであつた。
 我藩制時代の政治は、敢て産業の利得を眼中に措かず、専ら道義正邪を以て事件の裁定を下せしは、現代の世界各國が自我貿易上の得失より、打算的外交にのみ没頭する陋劣さとは全然其軌を異にせるどころ、我民族性の一貫せる主張のとき片影を観る可きであらう。

佛の谷
 椎の峯の古窯には、上多々良の佛の谷、中多々良の中村、下多々良の菰谷及び古椎新窯の四ヶ處がある。佛の谷は一番奥なる山畑にて兩脇が谷間となり、全く謎へ向の築窯丘と勾配の地勢をなしてゐる。此處の古窯品は皆糸切底にて施釉薄さも地質は石器に近き堅牢なる古唐津焼である。中に白釉の茶碗に無釉の高臺造りあるも之さて半磁器近く焼かれてある。
 此處にて最多き破片は褐色物にて、それは皿、鉢、茶碗などが重なる種類である。又此手の糸切擂鉢には中の櫛目が十二方位に引かれてあり、其他灰色及黄薄釉の鉢に青葉にて文飾せしものがある。要するに此佛の谷は飯洞に次ぐ古窯であるらしい。而して何れの古窯も概して中古窯より上古窯の方が比較的に堅く焼締められしあるは當時森林の繁茂せし關係にあらざるか、それより中古窯時代に至つては薪材に於いて稍減少し加ふるに燃料の採算に注意せし傾向の結果であらう。

中村
 中村窯と菰谷窯は、前述せる如く元和二年(三百二十年前)の開窯である。中村の古窯品には栗地に白釉を化粧し、それに模様の如きも釉せし丸茶碗や、青味灰色釉に鐡描せし縁小反の茶碗があり、或は暗色黄釉にて底蛇の目積の夏茶碗などもある。又石器質の堅牢なのものがある。
 又夏茶碗には天目釉や栗茶釉のものがあり、或は海鼠釉縁反の茶碗や黄色釉突の茶碗がある。
或は卵色釉に緑青藥の煎茶碗や栗色釉へ櫻花押文形模様三寸の小皿があり、又は栗地へ縁ギリ押文形を施し上に白化粧を掛けし小丼など、其他種々の優技品が焼かれてゐる。

菰谷
 菰谷の古窯趾は高麗神への上り口にて此處は重に卵色釉の茶碗が焼かれてゐるも、稀には黒天目の茶碗や又同釉にて蛇の目積にせし夏茶碗があり、或は灰色釉の丸茶碗もある。又此處にて後期磁器が焼かれてゐる。次に古椎の新窯とは現在椎の峯登として使用されてるものにて、之とても百年以前の開窯なれば其後改築されし窯なることは申すまでもない。

其他椎の峯の古窯品
 此外椎の峯の古窯品には流石に秀な品が乏しくない。其何れの窯出しなるか不明なるも中に尺口の卵形花瓶にて涙痕に掛けし油滴天目の逸品があり、又飴釉や鼠釉の上に白釉にて粗豪なる秋海棠を現はせし烟管流しといへるものありて、それは彩釉を烟管に通して文飾せしてふ奇抜な方法が用ひられし徳利である。
 又卵色釉に青藥を流せし四寸の大茶碗や、同釉にて描梅繪三寸の小皿、及び鐡褐色釉象嵌の小皿に縁紅を施せしものがある。又茶色釉に繪唐津を文せし縁太鼓鋲描の突立の火盆があり。 緑栗色釉胴暗黄釉に白にて文様を施せし中徳利や、濃茶釉に縁邊天目釉を施し胴には縮緬皺を寄せる六寸の糸切徳利がある。或は栗地白化粧掛へ縁は黒釉を掛け、それへ白釉にて獨樂筋を施せし七寸の徳利や、茶色釉に白の獨樂筋を文飾せし八寸の徳利があり。其他鶏の糞釉緣反八寸の花瓶や、青海鼠に緣天目釉遊環付の六寸花立がある。

椎の峯の磁器
 明治二十九年伊萬里下町の上田米蔵(原屋)は、江湖の辻前川焼廢業の窯具を引受けて椎の峯に運び、天草石を原料として磁器を焼くことゝ成った。それは伊萬里玄界小路の水町幸吉が支配人として擔當し、此地の窯焼緒方喜一等五六人を糾合せしめ、そして藤津郡吉田山より工人手傳等十五六人を雇傭して銅板轉寫の下手物食器を製造しが、五六年にして廢するに至ったのである。
 明治四十五年頃此地の中里某は、再び磁器の製作を復興し、かんとん茶漬や湯呑の如き下手物を製造せしも、是又一ヶ年許にして廢業し、爾後は全く従来の黒手物(陶器)製作に立戻ること成つたのである。

伊萬里との一手取引
 此處の陶器は明治六・七年頃より伊万里濱町の石丸善作と一手取引を結び、其時代に於ける製品中には、ずんど花瓶に霜降の斑点ある海鼠流しなど優秀なる物少からざりしも後價格と共に作風も漸々と下落するに至りしといはれてゐる。
 善作の後は同町の東島貞吉が一手となりしも、當時椎の峯の製品漸く微々となり、窯焼は中里庄治郎等四人にて年産額僅に三千餘圓に過ぎなかつた。而して其後此下手物を送荷するに、従前の如く伊萬里港より大阪地方へ向けて和船積の便宜を失ふに至り、此地の窯焼又製品を直賣する風を生しより、貞吉も全く取引を中止するに至りしは今より十年以前のことである。

椎の峯海鼠と天目
 而して椎の峯の窯技には、古き傳統の尚見るべきものあるを以て、此海鼠や天目釉を應用し瓶掛や半洞の如き巨器を製したらんには、當時上海邊よりの輸入品を防遏し得べしとなし、一部の有田商人は有田より器細工の名手を送りて之を試むべく、此地の窯焼に慫慂せしことありしも、斯くては他山の工人に傳統の釉法を識る恐れありとして、途に此議にじなかつたのである。
 往時三百五十戸の繁昌を極めし椎の峯は、今や戸數僅に十三戸に減じ、南波多村大字府招の小字に編入されてゐる。そして現在窯焼として經營しつゝあるは南波多村長緒方高世にて、其他に中里敬市、緒方虎次郎、江口好三等の小規模營業者がある。

小形改姓
 高世は此處の家小形氏の裔にて代々小形又は小方を姓とせしが、文政元年小笠原長昌領主と成るに及び、當時の廣兵衛高雅より小の字を遠慮して緒方に改姓し、其子高親孫高政を經て現代の高世と成つてゐる。

中里宗家
 又椎の峯中里の宗家は前記の敬市にて、遡れば敬市の父百吉、其父庄治郎、其父敬入明治九年に卒し、其父太平治が弘化四年に卒し其父孫右工門が文化十四年に卒し、其父太一其父茂一と成つてゐるがそれより以前は不明である。
惟ふに三河内へ移轉せし中里茂右工門は此系統より出でし者であらう。

椎の峯の現在製品
 現在製品の重なる種類は、湯婆、植木鉢、床置類、花器等にて、下手物の中にも見事なる海鼠の廢色があり、浸瓶等には勿体なく寧ろ鴨徳利にせばやと思はるのさへある。
蓋し床置物や花器等に至つては、大いに技術の向上を計る可き餘地が残されてあるらしい。
 此地墓所の丘麓に一基の韓人墓があり、高さ四尺五六寸にて全面に刻られし細字淺くして今全く讀むことを得ぬ。

椎の峯の多々良の神
 又多々良の神として高麗神を祀りし社がある、そこは菰谷窯跡のより左へ登り、又右曲左折して凡そ八疊敷程の檐高き拝殿がある。其處の奥なる三つの石祠の中一番古きは寛政五年丑八月(百四十三年前)の建立にて施主には中里彌右工門、大島市右工門、中里註司、小形清治、小形利左エ門、福島三右工門、小形卯之助等の名前がある。

神祭と花見
 此神祭は四月八日にて、往年は芝居や角力などを興行して非常な販ひを呈したのである。そして九日より花見の宴が始められ、此の工人は凡て五六日の間酒興に浸る慣習ありしも、今は全く閑寂なる小村落と化し、往古の盛時を偲ぶ多々良の神の石鳥居が、只年古るまゝに苔蒸す斗りである。

高麗餅
 なは此高麗祭の際神前の供物とて、糯と米を等分に和して搗き、次に水囊にて粉篩をなし、そして厚さ三四分程の平面角形にして蒸し上ぐる。別に小豆を煮て摺潰せしものを其上に塗に塩少しも交へず、又之を切るに鐵庖丁を用ひず、必ず竹館にて一角を鱗形に断ち、それに味噌汁をへて此品を捧げ、又客人をも饗せし由にて之が高麗餅と唱へられてゐる。蓋し現今の厚く砂糖餡を載せし高麗餅の元祖であらう。

之より記事は又元に還る、前記椎の峯崩れが又四散して北波多村の田中を始め、鬼塚村の畑島へ開窯した。或は大川村の片草、佐次郎、善徳等へ開窯せし者もあつた。就中遠地としては三河内の杉林や筑前糸島郡の吉井へ開窯せしといはれてゐる。

畑島の窯の谷
 畑島は元波多の家臣畑島主膳之政(四百石)の采邑にて、此處の古窯趾は鬼塚驛より一里西方の山麓なる水車小屋の右手より分け入る窯の谷といふ山林である。朽葉を漁れば窯具の中より稀に見出すものに、白琺瑯釉小氷裂の破片があり、或は鼠色胎土に青味灰色が施釉され、それに白釉のむらある茶碗にて、何れも無釉高臺尻の小さきものである。

鉢冠り地蔵尊
 此處より南三四丁に三拾戶斗りの畑島村落があり、そこの冠り地蔵尊といへるは此地方には名高き由にて、御本体はもげたる御鼻をセメントにて整形され玉へるが、昔より霊現いやちこなりといはれてゐる。此一坪位の御堂の屋根の中央に冠されてあるは、鐵色焼稀にて徑尺五寸位の深鉢を伏せし形なるが上絞りにて頂上は擬實珠に成てゐる。そして鉢の両面には卍が浮彫され實暦八年(百七十八年前)の刻字があり、前記窯の谷の製品と稱せられてゐる。
次の片草、佐次郎、善德等の古窯趾は、何れも今西松浦郡に編入されし大川村なるが、此地方は殊に古窯趾多きなるを以て、別に一括して記述せんに、主驛大川野の宿は伊萬里より三里餘を隔てし要地にて現今北鐵の開通驛である。

大川野遊
 元松浦黨の一家大川野遊の領地(千五百八十石)にて川西の日在城に居住し、別に含弟峰五郎彼が(平戸松浦及伊万里氏の祖)川西なる峰の舘に住居した。
 而して遊の子孫鶴田、田代、河原を氏となして此地方に蟠居し、其外波多氏の旗下には南源三郎保道(大川野南の舘四百石)原善四郎源佐(大川野三百石)峰丹後守但(川西峰の舘三百石)峰五郎八通(下鄉百五十石)田代日向守林(龜井の館三百石)赤木治部太夫彥秀(川原三百石)鶴田龜壽丸(山口)等ありしも、就中日在城主鶴田因幡守勝(五百石)及舎弟河原の邑主河原之允高(二百石)最勇名があつた。 系圖左の如くである。
(鶴田河原系圖参照)

割出地返納
 降つて唐津の領主水野越前守忠邦の時、領内の全部を實地概測せしところ、總祿高より一万八千石の餘剰を割出せしを以て、此地味豊饒なる大川野地方を幕府へ返納すること成った。依つて之より此處は江戸の直轄地となり、其後肥前の島原及對馬、薩摩又は豊後國日田(代官塩谷大四郎正義「天保七年九月八日卒六十八才贈正五位」來任支配した)等の臨時支配に轉々された。蓋しそれは前記の領内に於いて異常の不作ありし時に、其食祿補充として支配せしめたのである。而して此地方の製陶地は皆眉山の麓を巡り開せるは、其原料粘土の探收關係に基けるも地元なる各邑主がそれの保護を奥へしは勿論であらう。

立川の本谷
 大川村の立川は、大川野宿より二拾町を隔てし山間にて、城野と兩部にて戸數八十戸の村落である。元波多の家臣淵田祐四郎秀里(三百石)の邑地にて、奥地へ十町餘を上れば西本谷といへる所に窯趾の破片がある。それは青色釉や灰色釉などの茶碗に、黒或は薄黒にて種々の文飾を施したのがあり、又羊羹色釉や栗色釉の茶碗に白の波刷毛目を施せしものがある。或は海鼠地釉に小さき豹点のあるものや、灰色釉に飴釉に刷毛目を施せしものや、又片口の如きに鶯色釉を掛けし殘缺などがあり、そして此處にて後年器を焼きそれには染附網繪の碗などあるも、何處の原料を用ひしかは不明である。

盛家の墳墓
 立川は有名なる古戦場にて、天正十三年十一月廿三日鶴田勝を日在城に攻めて戦死せし、龍造寺播摩守盛家(元犬塚鎮家)及び其子三郎四郎蒲家等の墳墓がある。そこは川岸の楊の樹下に高さ二尺二三寸巾入寸位の自然石にて、正面の上部に九輪が一つ刻まれてあり、碑前には粗樫造りの木刀が三個供へてある。

平資盛の末葉
 又此處には平資盛の後胤にて小松菜といへる者があり、代々古き系圖を藏せし由にて共譜に依れば、資盛の後胤天正中松浦山形に来り(今山形に小松重藏などあるは此系統にあらざるか)慶長年間川原に移りて陶器を焼き、次に元和年中椎の峯に来り、享保の頃又立川に轉して製陶せして記載されてゐる。其系譜の寫しなるもの左の如くである。

小松系譜
小松三位中將資盛五代孫
小松安左工門春盛 小松安太郎秀盛
武雄後藤家ェ五百石ニテ被召出
小松重之允景盛 小松盛之允 小松盛右工門 小松源吾右工門 小松彌八郎爲盛 小松重太郎盛 小松勘三郎 小松重左工門 小松勘太郎 小松杢兵衛 小松助之允 小松主馬之亟祐盛
天正年中後藤家改革ニ付浪人卜相成松浦郡山形邊ニ罷在其砌類燒ニテ系圖並武具燒失仕候其後慶長年中ヨリ武士ヲ止メ川原村ニテ竈焼相成渡世仕候
小松源太右工門 小松源之允
元和年中椎峯山移ル小松彌吾右工門 小松助右工門
寶永年中椎峯沒落ニ付住所不定
享保年中ヨリ立川村ニ住居相極竈燒仕候
小松榮八
明和五年マデ竈燒仕候得共其後相止申候
小松彌四郎 小松勘助 小松桂藏
水野和泉守(忠光)樣御代
文化十一年戊ノ九月系圖御調御座候節覺書寫シ指上申候
文政改元 寅八月十八日 知寫之

田代の筒江
 一時藩窯なりし大川村の田代焼さ稱するは、今の東田代部の筒江(田代より七八丁手前にて大川野より半里餘戸數三十戶)にて製造されしものにて、此處は元波多の家臣田代大炊助保(鶴田氏傍系筒江の舘に住す、五百石)の采邑である。古窯趾は川向ひの山裾にて下部は今水田成つてゐる。
 筒江の殘缺には、赤胎土へ薄く灰色を施釉し其上に黒釉を流せしものや又同地に灰色釉を施し八つ目積にて焼きし物等何れも大皿である。或は樺色地にて無釉光澤なしの壺や飴釉をかけし同物があり。又赤地鐵色焼縮に縄紋浮出を廻せし水鉢などがある。其外茶碗や皿などあるも全体に大物が多く、そして比較的高臺が小さく出来てゐる。

善徳
 次の川原村落なる川原は、戸數四十万あり、此地方が河原之允高の栄邑である。配地長野の善徳窯は戸数十戸許りある井手口にて、此處の堤の横を上れば板谷の口に古窯があり、残缺には灰色釉の丸茶碗に縁と高臺際に鐡筋を繞らし、そして其内に同釉にて二三線を描きなぐりしもの多く稀に黄白釉にて筋なしの丸茶碗もある。

片草と佐次郎
 次の梅坂(提の川に同名異地石器質製陶)や片草の古窯も亦長野の一村落にて片草は専間に焼きしものの如く、此處の黒粘土を採って既に二十年以前まで製造せし遺窯があり又後年磁器を焼きしもの如くである。佐次郎窯の跡も此亦邊りにて、此處の製品石器中には葉茶壺にて最巧みに焼かれしものがあり、それは鐵色地にて高さ三尺肩に三方結び環付なる實用的の優品である。

神谷
 神谷窯(瓶屋にあらず川原の一村落にて戸數十二三戸)の跡は今水田に開拓されてあるが、殘缺には飴釉の上に種々の繪唐津を文せる四寸皿や、赤地に白化粧を施し又同地無釉の上に薄墨にて竹を書きしものがあり。或は又芦の葉を描きし大皿や、灰色釉に淡き墨繪の竹を描ける突底の深鉢などがある。

一若の阿蘭陀墓
 此窯趾の横なる一若といへる山裾の雑林をわけ入れば、一樹の桁の下に古く埋めし石碑の殘缺があり之が即ち阿蘭陀墓である。
今より四百年以前に於いて、蘭人二人此一君に來りて一種の陶器を製作した。それは全く呂宋系統の物にて従来の唐津焼とは全く其種類を異にせしものといはれてゐる。而して此蘭人はそも唐津へ渡せし者か又平戸へ上陸せし者か、或は長崎よりせし者か全く不明である。

焼山上窯
 次に川原を過ぎて焼山上窯(此邊戶數十四五戸あり)を探れば、奮縣道より堤塘を辿二丁斗りの谷間に上りて、松の切株の間に窯趾の破片が轉がつてゐる。それは飴釉にて突底形六寸の深鉢や、灰色釉の茶碗又は同釉にて濃茶釉流掛けの茶碗があり、何れも高臺無釉で中には繪唐津物がある。其他褐色胎土の無釉物にて縁付きの八寸皿があり及同種の甕の破片があつた。そして此途中には石屋根冠りの窯の神さんといへる祠が藪中に物淋しく建つてゐる。

 以上が全滅せる大川村の古窯趾である。

瓢石
 近年呼子の加部島なる田島神社を隔つる五六町の瓢石にて、飴色釉や灰色釉などの花立や皿茶碗等多く採掘せし由なるが、此處は固より陶土を産出する處ゆえ、いつの代か製陶を試みし見る可きであらう。(唐津の荒砂焼なご此處の原料を使用せしといはれてゐる)

神の浦
 神の浦窯は相知村にて又山下窯と稱せらる。此處の古窯品には、赤粘土の上に黒茶釉を掛け上に白刷毛目を施せし茶碗があり。又黑栗釉に白にて波刷毛目を施せし大茶碗があるが、何れも高臺内が施釉されてゐる。

中山
 板木の中山窯は、波多津村(元畑津と稱した今西松浦郡)の一村落にて數三十四戶あり、そして此處の梅の木谷といへる板木分校の前である。古窯品には淡茶地に志野風厚白施釉の茶碗や、太白釉の鮫肌茶碗があり、或は淡栗釉に白の刷毛目を文せし同物がある。又茶褐色に紫釉や栗色釉を施せし上を、白の波刷毛目を施し或は白刷毛目の上に施釉せし茶碗がある。
 又黒き胎土に栗色釉を施し高臺内丈錆色の施釉せし茶碗があり、或は淡緑釉にて平高臺の中皿などもある。就中飴釉の廣口水指の如きは全く炻器に戻してゐる。其他薄紫釉の破片に至つては半磁器製にて、是等は勿論後代の作品であらう。此處は元波多の重臣久我玄番允秋度(八百石)の采邑であつた。

諸浦
 有浦村の諸浦(戸數百十八戸)の開窯が頗る後代に関することは、此處の古窯品か全く磁器に類してゐるので判る。此地唐津より西三里元日高大和守在秀(一千石)の祿地であつた。今や開拓の爲め麓なる窯跡や物原が全く取除かれて一個の破片さへ見出すに容易でない。殘缺には呉洲染附草繪の食碗や、梅繪丸形の煎茶々碗があり又緣粗地紋畫三寸の小皿にて底を蛇の目に焼いてゐるが、何れも薄鼠色の色相を呈し粗製の雑器のみである。
 大川村畑田の古窯品も亦諸浦に似たる半磁器である。是等は進歩の階梯にありとはいへ、恰もお玉杓子に足の生へし程度にて、最初の製品は洵に拙劣な物であつた。此時代に於いては御茶碗窯藩窯でさへ一般の環境に動かされて陶質の胎土ながら釉下には呉洲繪藥を使用せし半磁器がある。
蓋し本来唐津焼なる物の特色は、雅致な鐵猫であることが舊製品の面目る事は申すまでもない。

神田
神田(戶數百四十戶)は元飯田彦四郎久光(二百石)の邑地にて、窯趾は西唐津の北山麓なる内田の堤と稱する山畠である。此の甘藷畑を漁れば染附磁器の破片がある。それは矢の羽帶描に上下を垣模様にせしものや、丸紋縮の煎茶碗があり、又底松葉繪に縁捻形模様の小皿や草花繪の食碗等がある。此處のは全く本式の磁器にて無論天草石を原料として製作しものであらう。
此處の焼具の中に十字形の臺ハマがある、之は中高の四つ羽にて中央に重力を置き、そして小花瓶などを載せて焼いた臺具であるらしい。此磁器製造は勿論後代の開窯にて、今の畑主梶山松平の曾祖父時代に於いて、常時廢窯の跡を買受けて畑地に拓きしといはれてゐる。

米量
 扨此凡ての唐津焼を、骨薫的に分類されしものが多種に涉つてゐる。米量と稱するは元享年間製作されし土器といはれ薄釉あるも光澤なく、そして桝にあちざるも支那古代の甾雉の如く其頃米を量りし器の由にて数種の形状がある。蓋し人皇四十代文武天皇の慶雲二年(千二百三十一年前)諸國に枡を定むとあるを見れば、既に元享以前より造られた物が雅品として使用されしより其後又製作されたものであらう。

値抜け
 値抜けといへる茶盌は、建武より文明年間に製作されたるものにて、坏土には白と赤との二朱あるも、鉛色薄釉にて臺輪(高臺)の内は施釉されず米量と同様に縮緬皺がない。此種のもの後世に珍重されて値段圖抜けて高きより値扱けといへる名稱がある。

奥高麗
 奥高麗といへるは。當時渡來の高麗燒なるものが釜山の草梁鎮邊の作品多かるも、此手はもつと朝鮮奥地の作を模造せしものとの見地より奥高麗と稱せるものにて、文明年間より天明まで其頃點茶盛んに行はれし時代の作品である。陶膚稍密にして釉色枇杷實の如く又青黄なるがありそして臺輪の中に皺紋のあるのが良器させられてゐる。以上三種を古唐津といふのである。

瀬戸唐津
 瀬戸唐津とは應仁より天正頃までの作品にて、瀬戸の釉薬を用ひたるが如き故に其名がある。それは黄色味を帯びし施釉に口の周りが赤黒く成つてゐる。

志野唐津
 又白土の土に厚く白釉を掛けて甲氷裂が現はれ恰も志野焼の如きものもある。そして何れも臺輪の中に縮緬皺が出来てゐる。

繪唐津
 繪唐津とは慶長萬治時代の作品にて、中には朝鮮の塩笥と混同されるのがある。之は茶碗、皿、鉢などの雑器に多く、坏土は青、黄、黒などに涉り、又鼠色釉に光澤があり之に草畫を交してあるが、それが何やら譯の分らぬなぐり猫が多い、中には省略の限りを盡されし圖案の妙技を發揮したのもある。そして臺輪の内には縮緬皺が現はれてゐる。

鯨手と織部唐津
 又繪唐津彩料の繊釉が、一種蒼味を帯び而かも口の周圍が赤黒く成ってある鯨手といふのがあり。或は又瀬戸の織部焼に似たる唐津織部と稱するものがある。

朝鮮唐津
 朝鮮唐津とは天正より寛永頃までの作品にて、水壺や皿鉢が多く、茶盌には一名火斗りと稱せらるゝものの名称由来は前段に記述せし次第である。坏土は赤黒き上に青白の海鼠釉を施してあり、就中流れ釉のあるのが上好のものとせられてゐる。

蛇蝎唐津
 叉蛇蝎唐津といへる古い繪唐津がある、蛇蝎釉を掛けしものにて作風甚だ鈍重なるが寛永頃出來し茶人向なる作品といはれてゐる。

掘出唐津
 掘出唐津とは寛永から享保頃の作品にて、坏土堅く釉は青黒色を帯び臺輪は坏土の見へるのとらざるがある。何れも縮緬皺のあるのが好まれる、此手は歪物や焼損じを當時の物原に打棄てられしものを掘したのである。總じて瀬戸唐津、繪唐津、朝鮮唐津、掘出唐津等を名物唐津稱せられてゐる。

是閑唐津
 是閑唐津といへるは、土がざくざくとして海鼠釉など施され、台輪の中は凹みながら兜巾に成つてゐる。

唐津三島手と同刷毛目
 唐津三島手は元祿享保の作にて八代を模せしものの如く、之には台輪部を施釉せしもの然らざるものとがあり、此外になほ唐津刷毛目等がある。

献上唐津
 献上唐津といへるは天明より安政時代に唐津藩主が、御用工中里、大島等に命じて献上品として御茶碗窯にて製作せしめし白紋雲鶴模様や、狂言袴等の茶器である。狂言袴とは朝鮮象嵌物にて筒形又は碁笥形にて淡黄や鼠色釉多く、上に白にて菊の如き二三の丸紋あり。上下に横筋ありて、恰も狂言括袴の紋に似たるより名づく雲鶴の元祖といはれてゐる。之は徳川の中世期より内地の茶人間にて附けられし名稱であらう。

識別の困難
 斯くの如く分類されるも、産地は一見なかなか分ち難く、而かもそれが骨董的観察とて年代とても甚だ怪しいものである。故に此區別は前段に述べし如く新古を鑑別しても實際は同期中の作品があり、或は南蠻物や韓物と見しが肥前物であり、そして又それが肥前の何地の作品とも判別に躊躇せしむるもの甚た少くない。

唐津茶碗
 全体的に唐津焼には茶碗が多い。それは往時より唐津茶盌に瀬戸茶入といはれており茶器の中にて最重要な役目を持つ茶盌が此唐津に於いて製作されし時代があつた。他の信楽や伊部及び伊賀の如きは多く種壺や浸壺の如き農業用器製せんが、後世に至つてそれが茶人に見立てら茶壺や水指などの役割を與へられた。而して其他の雑器とても後には茶器や茶會席に用ひられしが、最初より抹茶々盌の製作を擔任せし唐津焼は當時茶の湯時代の陶界中蓋し重要なる地位にありしといはねばならぬ。

食碗と茶碗
 而して唐津は勿論として、是より記述する肥前の古窯器中最多きは茶碗なるを以て之をしも悉く抹茶々盌と見るは早計である。如何に嬉野銘茶の産地なる肥前の國民とて、御茶斗り飲んで生存したのではなく之は概ね食碗にて、従つて又茶碗兼用でありしことは申すまでもない。

唐津物の長短
 唐津焼は古唐津や掘出手のみ特に推賞すべき出來榮にて、戦役以後の作品には其妙諦あるもの頗る乏しいといふ説をなす者があり或は又武雄系や木原物の如く刷毛目や三島手なその技巧物は少なきも、全釉の優秀なる發色に於い深味を持つもの多く、又縮緬皺や台輪の持つ特長は、他山の製品に比して共通的に勝れてゐるいふ説もある。
 要するに高麗や李朝風にて育まれし唐津焼は、當時我國の上流社會や茶人向の風潮を出です、有田磁器の如く支那のコンボシションを移入して弘く我國民生活に嗜好を需め、進んで海外貿易にまで擴張したるに比して此地の事業大いに後れ、全く隠居的作品として終りし観を呈するに至つた。

保護一貫せず
 蓋し古き傳統を有する唐津焼の進歩が遅々たりし原因には、當時皆其領主の庇護に因つてのみ發展せし斯業界に於いて、前記の如く領主の交代頻々として行はれし爲め其の保護奬勵常に一貫せず、唯御茶碗窯の範圍に止まりしもそれさへあまたたび事業を斷績せしことも、亦一因として同情に價ひする。
 而して今に及んで唐津焼が磁器製造に轉換し、現代の下手物競争裡に乗出して、椎の峯の轍を履むが如きは決して賢明なる方策とは認め難い。唐津焼は矢張從來の傳統に立脚して研鑚向上を計り以て茶味深々たる茶人達を茶化すべく努む可きであらう。

茶器に酔ふ
 由來茶に酔ふ者はあらざるも、茶人は齊しく茶器に酔ふものである。故に白磁に於いては厭はるゝ斑点さへ其窯技の失敗が、陶器に至つては却つて珍重に値さるゝ得がある。是等の窯物は本場丈けに支那製には科擧的優品多く、且又之に巧妙なる名稱が冠せられてある、倒せば明の均窯青磁の葱翠青や辰砂の猪肝紅、或は珉皮釉又は鷓鵠斑等の如き枚擧に遑がない。

獨占的所有感
 而して尋常素直な製品にては、富裕なる數寄者の獨占的所有感と、茶人の變態的趣味を満足せしむる能はざる減がある。其間につけ込む骨董屋なるものが、又普通有りふれし製品のみにては法外の値を貪る能はざるを以て、茲に窯變物の流行を起さしめて、種々の焼き損じ物さへ勿体らしき命名を附する巧妙さに於いては、我邦人又敢て支那に劣るものではない。

變態物の一
 凡て焼物は一室の内に焼成されたとしても、其積座の關係と火廻りの具合にて燒上げの呈色を異にする、従つて彩料の如きも濃淡異色の差を生ずるは論を俟たぬ。而して此際混入せる或礦物分子の爲め異相を現はせし時青磁に砂班や、又垤斑或は飛青磁などとて尊ばれるが、彼の七官手の如きも軟釉又は高火度のため全釉面に氷裂を生ぜし青磁の焼損じが舶来せしを、當時飛紋焼として珍重し始めたものと察せらる。

變態物の二
 火むらの爲釉面に斑点の現はしを半使(判事)と尊び、之を御手本として作らせし物を御本と云ふらしい。又茶碗のみこみに凹み生じたるを茶溜さいひ。釉面の小皺を縮緬皺と唱へ、或は又ぶつぶつの出来たるを柚手とし。又茶色や黒のしみ出し物を雨漏手名つけられてゐる。或は不注意にて釉薬の掛け残されしところを愛し、それが抹茶々碗なれば窓開と稱して愛せらる。

變態物の三
 胎土粗きか或は生乾きを削りしためか、臺輪の中に小さき透目生せしをも縮緬皺と賞揚し、製土粗にして地肌より小石の喰み出せしを石罅と稱賛する。或は釉面に焼き膨れの出来たる物を煎餅手とて愛好する。又作者が老耄して技巧の篦使ひに手震ひの痕あるを、踊篦とて珍重するに至つては沙汰の限りといはざるを得ない。

態物の四
 韓土より下手物として送荷すべく茶碗の荷造りに、十数個重ねの一番下茶碗一個丈を、繩掛の滑りを防ぐ爲高臺が二方切取られたのがある。勿論それは最初より商品外して取扱はれしを、其縄掛高臺こそ正しく韓渡りの真證なりと賞翫され、其後我邦にて態と製作されしが割高臺である。又器と器が焼着きし痕疵の一字形なるが無類の出来物とて、一文字の茶盌と稀し拾萬圓にて買取られしエピソートさへある。
 之等の出来物が名工などの場合に於いて、特に履歴ある作品なれば兎も角なれど、由來名もなき凡工にも其失敗を繰返へして、態と製作せしめるさころに脱線的の茶氣がある。勿論前記の變態物には、後世の小細工を弄せし俗趣向を離れ、原始的なる自然美の妙味を發揮して真に珍重に價すべき名什ある可きも、概して之等の作品は高麗物のイミテーションたる観ありて決して含蓄味の豊なるものとては甚だ稀である。

本場の高麗味
 元來本場の高麗物には彼等の粗放なる天性を現出して、隙、釉斷、石交、蛇蝎、釉溜、柆車目、茶筅摺、湯溜、飛び、歪み、作痕等決して作りしものにてはなく、寧ろ彼等の眼にはなくもかなと思はれしならんも、唯自然に一任して頓着なきところに興味がある。それを我邦人が態と製作して殊更に雅味を強ゆるが如き観あるは是非もない。
 さあれ古き歴史と幾多名工の傳統を有する唐津燒には、此脱線的趣味を超越して大に伸ぶ可き素質を保持してゐる。郷土の有志又此事業に協力し業者をして須らく真の陶質美を研鑽せしめ、此嘘の海水浴場なる天然美の外に此人工美を世界的に発揮すべく近松門左工門、幡随院長兵衛、奥村五百子等の如き偉人を産せし唐津人士に切望する。

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