武雄系 武内窯

肥前陶滋史考
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鶴田 純久の章 お話

塚崎
 武雄は舊名塚崎(又柄崎或は墓崎と書きしものあり)稱し、肥前國杵島莊の主宰地にて開地頗る古く、此處の武雄神社の如きは聖武天皇の天平七年、仲哀天皇外三座を奉祀せるものにて、今より千二百〇一年以前の宮祠である。

杵島の地
 杵島の地は元かしまと稱し、そのかみ有明海に面せし地方は廣く灣内なりしものゝ如く、今山口驛以北でさへ貝殻の出土すること屢あり、白石方面は全く潟土を以て地層されてゐる。
此處の地頭たりし者のうち塚崎の後藤氏最古くより盛名があつた。其系圖左の如くである。
(後藤系圖参照)
 初代後藤内章明は、元河内國坂戸荘の人にて檢非違使判官代舍人となり肥前塚崎の莊を領有し、源頼義が勇將七騎の一人であつた。其子政明に至つて地頭職となり元永年間塚崎に築城せしが、次の助明又黒髪山下に住吉城を築造した。而して治承年間四代宗明の時伊萬里を兼領したのであつた。

氏明入道淨明
 九代氏明入道淨明は、弘安四年八月叔父塚崎十郎定明其子中野五郎賴明及武雄大宮司賴門同門兄弟と共に、蒙古の外寇として大いに勇名を馳するに至つた。孫掃部允光明に至り貞和二年
足利直冬に從ひ南朝に属して勤王に盡し、杵島の外松浦、三根の二郡を併領した。そして十七代職明入道淨憲に至りて勢威大いに振ったのである。

長島荘を併有す
 大永七年三月十五日浄憲の女婿川古日鼓山(杵島郡若木村)の城主澁江右馬頭公勢は、次子公政と共に乳母の爲に毒殺され、乳母は已れが育みし三男公親(十三才)を後嗣せしかば、浄憲大いに怒り養子純明(質は公勢の長男)と共に日鼓山城を攻落し、公親を走らせて長島莊を併有した。

仙岩が陣の尾を敗る
 享祿三年正月高來の領主有馬仙巖(修理太夫晴純)は、公親の爲に長島回復を計り、武雄上西山の白木塞を取つて住吉城下に迫った、純明迎へ戰ひ仙巌が本陣なる陣の尾を破って退軍せしめたのである。 天文十一年八月十一日澁江下野守公親は、鬼子嶽の波多盛、平戸の松浦隆信が援軍を得て武雄軍を破り日鼓山城を奪還せしも同年十一月五日純明不意に奇襲して再び之を陥落し完全に長島を併有した。而して純明は同二十二年三月十八日塚崎河原の舘に卒去した。

後藤貴明
 純明子なく大村純前の次子を養嗣とせしものが貴明であつた。永祿六年八月貴明は、島原式部大輔純豊、西郷彈正少弼純久及須古の井武藏守經治等と須見に戰ひ大敗せしも、其後勢力を挽回して松浦、藤津、彼杵の數郡を併領するに至った。

惟明叛く
 貴明又男子なく、平戸の松浦隆信が子杢兵衛惟明を養ひしに、後年實子彌次郎晴明生れしより自然父子間に不和を生ずるに至つた。
天正元年十二月一日惟明は澁江豊後守公師、(公親の子)小楠兵部大輔祇明、八並右工門太夫和明、中野兵庫助模明、松尾豊前守茂明、田中大藏、馬場隼人祐、上瀧權兵衛門、腹山城守直景、宮村三河守等の腹心を語らひて密かに貴明に抜いたのである。後藤新九郎之を知つて驚き兄の中野太郎貞明に告ぐるや、貞明は辻右夫豊明計らひ、貴明をして住吉城に走らしめしは同二年六月廿三日であつた。

住吉城を圍む
 塚崎軍は住吉城を攻るや、城内には重臣中村下野守公顯を始め、永田河内守 久間薩摩守盛種等之を固め、伊萬里の女婿伊萬里太郎次郎治及有田の郷士中村判兵衛手勢をみて来した。又川原の河原之允高(女婿成行の父)は眞手野へ出張り、沿道の士の塚崎方に走る疑ある者を捕へて人質としたのである。
 斯くて同年七月三日には、塚崎軍大擧して赤尾峠を越えり 住吉軍は邀へて、椿原及長谷に戦ひしが惟明敗れて三間坂、鳥海を焼いて退いた。之より先き貴明は公顯公族貞明(後藤宗印の父)と計り、原能登守信房、武富志摩椽信俊を佐嘉に遣はして龍造寺隆信に救を需むるに至った。

惟明降る
 惟明も亦同じく隆信に頼らんと乞ひしも、隆信は不孝の子に助勢すべき義理なして之を描け、直ちに大川野日在城主鶴田因幡守臉其子兵部大輔明父子をして住吉軍を助けしめ、自ら又大軍を率て白仁田峠を越えるや、惟明大に煌れて龍造寺軍に降り、隆信赦して平戸に歸らしめたのである。

御産守の観音
 惟明は一時平戸領日字にありしが、後伊萬里黒尾山に流寓した。其頃彼に吉といへる一女ありて容色端麗且文筆に長じてゐた。當時伊萬里を支配しつゝありし龍造寺家繁(隆信の子といへど系譜には其名なし)惟明に乞うて宝させに、天正十五年三月十七日難産にて死去せしかば、家繁は田雑玄番正に命じて其肖像を観世音に刻し、伊萬里の圓通寺に祀らしめた。今同寺金堂の正面須彌壇の上に御産守の観音とて安置されてある。

家信養嗣となる
記事は再び元に帰り、天正五年貴明の女槌市姫へ、龍造寺隆信の三男善次郎家信を婿養子に迎えることなり、佐嘉より鍋島杢之助信房、成松新左工門信吉等五拾餘人を従来つた。家信は幼名鶴仁王とし蓮池の小田鎮光の養子となりしが、鎮光反逆に依って誅せらるゝ鎮光の夫人(後波多三河守鎮の後室)と共に引取られし者である。之より貴明は芦原(橋下村)に隠棲して晩年を送り、天正十一年八月二日五十二才にて卒去した。

住吉城を本居とす
 天正十四年四月家信は居を住吉城に定め、同十八年三月七日朱印に依れば、塚崎莊の外下松浦の有田鄕及び小城郡の東郷を領有し、石高一万九千七百三石九斗を食祿した(或は二万九千六百石ともあるは、此外に藤津郡の一部と筑前國早良郡の檜原を併有せしものか)而し住吉城は龍造寺高房(隆信の孫)の領地、蓮池、須古、恒廣、八戸、芦原の六城と共に殘留され、其他の諸城は悉く破壊さること成った。

塚崎城に移轉す
 慶長四年塚崎城を修築して移轉することゝなり、同五年後藤姓を鍋島姓に改むるに至った。そして家信は元和八年四月二日六十才を以て長野の館に卒去した。

之より住吉城は全く廢滅し、今黒髪登山者の當時を偲びて追懐するのみである。斯くて其の城下なりし武家屋敷は、今に小路の名を留めながら寂たる農村と化してゐる。

家信戦役に従ふ
 後藤十左工門尉は、文祿元年鍋島直茂に從ひて戦役の途に上り、轉戦し名を擧げて陣せんが、其際韓土の陶工を帯同して領内所々に開窯せしめし傳へらるゝも、それが果し幾許の人数なりしか詳でない。而して領内武内、若木、及東西川登方面に分布せる多くの古窯趾に徵しても、相當の人数が入込みしもの如く、又其後年に於いても屢渡来せしと見る可きであらう。
 當時後藤氏の領内たりし各地の古窯跡として、武雄の宮原忠道が繋げしものに七拾ヶ所があり、其後大宅三の追加に十餘ヶ所がある。

本山彦一の古窯大發掘
 昭和五年五月大阪毎日並に東京日々新聞社々長本山彦一は、同社々員大宅經三(杵島郡中通村鳥海人有田工業學校第六回卒業)を主査として、武内、若木等三十八ヶ所の古窯跡を掘せしめ、多数の殘缺を公開して斯業者學界に大なるセンセイションを起さしめたのである。

東日社の展覽會
 斯くて同年十二月十二日より三日間、東洋陶磁器研究所の主催として、東京日々社樓上に於いて前記の發掘品を陳列し、肥前古窯發掘品展覽會を開催することゝなり、本山社長を始め文部省國寶調査保存委員奥田誠一、樂學博士中尾万三、及び大宅社員等の講演ありて、斯界に大なる貢献をなすに至った。

各宮殿下の台覽
 此展覧会は一般に非常の興味を喚起しめ、初日には秩父宮殿下同妃殿下台覽遊ばされしが、朝鮮李王殿下も亦台覽遊ばされ、二日目には朝香宮殿下台遊ばされた。而して三日間の参観者實に五千人といふ盛況であつた。

第二回の大發掘
 翌六年二月十七日より三日間に涉り、本山社長は又大宅社員をして、再び内田及黒牟田の古窯跡より數千点の殘缺を発掘する共に、新たに十餘ヶ處の古窯を紹介した。 そして同年三月十八日東日社に於いて、第二回發掘品の一部なる白磁、青瓷、辰砂其他の窯變物、瑠理、刷毛目、象嵌等八拾餘点、並に發掘關係の寫真及圖書等百餘点を陳列して學界に發表したのである。

大毎社の展覽會
 同年四月には關西彩壺會主催さなり十三日より三日間大阪大毎樓上に於いて、先に發掘せし古窯殘缺品の展覧を開催し、此にても學界の好資料として大いなる賞識を博せが、十四日には久邇宮大妃殿下、東伏見伯爵の御參觀を賜はりたのである。

掘熱の勃興
 此本山社長の發掘は、近郷の古窯跡發掘者に更に拍車をかくるに至り、或は骨董的の數寄續出せしも、中には真剣なる研究者も少くなかった。而して此武内系乃ち内田、黑牟田及び其界隈の古窯は、抑何人に因って發祥せられしか、其顛末の一端を窺ふ可く記事は再び秀吉の朝鮮役當時に逆轉する。

戦貢徴収
 秀吉が朝鮮の役を起してより、其巨額なる軍費を補ふ可く各地の寺院よりも戰貢として徴収することゝ成った。茲に塚崎の蓬莱山廣福禪寺は九州臨濟派中の重位地にありしも、當時賦課されし戦貢を上納するには甚乏しき境遇であつた。殊に當山四十世の住職別宗和尚は、此地の領主家信に從ひて渡韓の陣にありしを以て、戦貢に就いて今は如何んともなし得ざる由を留守居の僧より陳辯して、暫く猶豫を願ひしも有司は頑として之を赦さず、當時の佛像、經巻、法器、家具に至るまで悉く沒収せらるゝことゝ成り、此時より堂宇も亦大に荒廢せしと稱せらる。

別宗和尚
 當時別宗は家信に從ひて韓土の陣中にあること数ヶ年間、ひさしく疏銘祈禱を専修し又到るところ戰病死者の冥福を祈りつゝあつた。
斯くて歸陣の後家信其功勞を賞し、五十石の寺領と涅槃の畫像一軸 與へ、更に勸化を許して佛殿を造らしめしが稀に見る宏壮なる精舎であつた。
(今に運慶作四天王佛像の國寶がある)斯くて別宗は慶長五年三月六日に遷化したのである。

深海と金海
 爰に朝鮮深海(從來我邦人が彼韓人の發音に當て、漢字を用ひしものなるより考きんかい察して、深海とは彼等が同發音なる金海にてはあ武雄系 武内窯らざるか、今金海には當時の鍋島軍の城跡が残されてゐるといふ説があり、又此金海は製陶地に刷毛目にて四角形の割高臺などの茶碗がある)
の陶工某なる者、家信に從ひて渡せる折、前記の別宗と同船して塚崎に来り、廣福寺の門前なる一舎に旅装を解いたのである。

別宗と宗傳
 尤も彼が韓土に於いて、別宗と如何なる關係ありしやは不明なるも、彼は深く別宗の高徳を敬慕し佛門に歸依して宗傅と號せしは、別宗が一字を授かりしとのことである。そして又郷里深海を姓となし深海氏と改め、新太郎と通稱したのである。

武内開窯
 宗傳此時三十六才博へらるゝも、家族としては幾人同行せしかは詳でない。蓋し家族の外にもなほ同伴者か相當にありし事と察せらる。そして彼等は此處の温泉を喜びつ、一年餘を滞在中、領内各山を踏査して武内村の山中に適當の粘土を發見し、此處に始めて開窯するに至りしば、無論家信が保護と資金を與へしことは申すまでもない。
 而して今武内の黒牟田と内田及び其界隈に於ける多数の古窯作風を考察して、武内地方の開窯者なる者は一人でなく、必ず数人の手に因って開發されして見る可きである。而して今や宗傳の根據地が黒牟田といひ、或は内田といふ本家争ひさへ生じてゐる。

開窯者一人説
 或説に依れば最初宗傳は黒牟田の錆谷に開窯し、それより廣高麗一帯の地を領して近傍到る處に築窯し、斯くて七曲、水無、山崎より一旦緒の古場に出て、再び内田谷を上り萓の谷、鐘山谷方面より小峠に來つて止まりしとの説である。蓋し之は開窯者を無理にも宗傳一人に結びつけんさせし結果であるらしい。

山林への築窯
 凡て彼等の陶業が、人里遠き山林深く築窯せしは、第一に薪水の關係を主とし、次に原料の探掘や碎石に要する水車掛りの便宜を考慮せるもあり、或は自己の特技を秘し、又は郷土人の圧迫を避くる等理由は多々ありとするも一人にて斯く到る處に築窯せしとは思惟されぬ。
現代でさへ窯一間を築造することは容易でない、故に拾数年前までの営業者は、一登りの窯を共同的に惜積せしものであつた。

土塗窯
 元來往時の塗窯なるものは、トンバイ(煉瓦形の窯材料)なしに粘土のみを以て塗上げし故に、乾燥には時日を要するもトンバイ窯よりも永久的にて、少なくも二十年位は使用されしといはれてゐる。其後トンバイを用ひしものもあるが、それは多く生トンバイと稱する未焼物であつた。

兩山の窯跡比較
 黒牟田幸平の桑畑より、甘藷畑に横はる土師塲の窯跡を見渡せば、一間五六坪のが七八間連績されてゐる。尤も此處は下手物の擂鉢など焼きしものの如く、比較的大形に築かれししても、鯖谷の窯跡さへ二坪位のが十七八間は登つてゐる。就中内田大谷の窯跡に至つては縦二間半横二間巾位のが、四十間数の百八十米突位は登つてゐたらしい。若し宗傳一人にて此内田、黒牟田及び箕手野界隈の窯全部を築窯せしものすれば、彼が半生の事業は蓋し築窯にのみ従事せしいはねばならぬ。

焼潰し窯の修繕
 尤も愛に一考すべきは現代の如く築窯技術の進歩せざる時代とて、彼等が長く使用せし後に所謂焼潰しといふ、窓のオンザン(通火窓)が異状を來せし時に、後代の如く耐火トンバイ丈を取替へて修理することは不可能であつた。然る時に於いて又新たに築窯するの止むを得ざるに至りしことは認めらる。
 故に三河内の如きは、西の嶽丸座の辻より耐火性の砂石を發見し、之を粉砕して篩にかけ糊を交へて赤黄色の目砂に應用せしが、後には之を原料さして耐火トンバイの原料とするに至つた。故に耐火トンバイの使用以前に於いては、後代よりもより多く築窯せしことは否まれぬ。然れども肥前に於ける朝鮮系の築窯は、皆連縦式の所謂登窯に多きは三四十間少なきも五六間を登り、尾濃邊の單室窯の如く、薪材を追ふて容易く移動せしものとは首肯し能はざる所以である。

黒牟田系と内田系
 察するに東眞手野の内田と西眞手野の黒牟田とは別人の陶系にて、それが又分布されし諸の築窯と見る可きであらう。若し之を地理的に區分すれば黒牟田系は祇園下、幸平、高麗墓、土師場、向平、向家、物原、呉須焼、丸尾、水無、七曲、廣高麗、錆谷等を一系とすべく。内田系は一位の樹谷、萓の谷、鐘山谷、大谷(多々良の辻)、古屋敷、小峠前、小峠奥等を以て一系にとすべきであらう。
又西眞手野の山崎御立目は黒牟田の分窯らしく東真手野平古場方面の祥古谷、杉の元、李祥古場、古郷甲の辻は雨系何れかの分窯と見るの外なく。
西真手野の猪の古場に至つては特に別人の開窯せし嘘があり。東眞手野の姥が原、永吉谷、宇土の谷は無論別人なる可く。而して多々良の西岳、安田原は全然別途の開窯である。

永尾の高麗窯
 中通村なる犬走字永尾の高麗神稱せらるゝは今發掘さるゝものに飴色釉や灰色釉の目積皿のみにて、中には鐵描にて繪唐津風を文飾せるものもあり、頗る元始的の下手物を焼いてゐる。而して此永尾の韓人は、幾許もなく去っ神六山を越え、大村領の陶山永尾山を開きしの説は有力なる推定である。
 若木村方面は窯の谷左、窯の谷右及び見上の尾、戸別當、火口の谷、商人山等の古窯跡あるが、此方面に於ける大物製品の作風が武内と共通するところ多きは、山綾きの隣接地とて同系の韓人が分せしものであらう。

黒牟田の現状
 扨宗傳の本據地が黒牟田、内田何れなるかを考究するに、雨山共昔日の盛業は今や見る影もなく衰退し、現在黒牟田の戶數二十戶許り、其内陶器を造る者四戸、焙烙を焼く者八戸である。尤も四五十年以前には小規模ながら五十戶程の陶家ありしことを記憶されてゐる。又此處には韓人の直系者ありて、今より二十四五年前に韓國へ移民募集のありし際、さらば頑國へ帰る可しとて、一家を引拂うて移住せし川浪幸藏などがあつた。
 而して内田に於いては現在戶數僅かに六戸、しかも農家のみにて二百餘年來窯焼きしなどの口碑もない。尤其以前製陶盛なりし頃は、人家稠密して職工のみにても千餘人居住なし、黒牟田よりも繁昌なりしての口碑は黒牟田人でさへ認めてゐる。

内田のハイセン寺
 又此處の奥山寅雄方の前面なる山間にはハイセン寺といへる精舎ありて、それがいつ頃の開基なるや、又何年頃回祿に歸せしやは知るによしなきも、先年或耕人が銅製の不動明王を拾ひ來つて自宅の佛壇に安置せしより、始めて其廢寺の跡を知り得していふ位である。

共有木碗
 なほ内田の村落にて、韓人の遺風とせるものがある。それは平常の食器には勿論陶器を用ひしも、特に客用として購ひし二十二人前の黒塗食器がある。種類は食椀 汁椀及び皿二た品通りが一人分の揃と成っており、そして神祭と各家の葬儀の時にのみ用ふるものにて、塗が剥ぐれば何年目かに又塗直して使用さる。それが今にも葬家移りに保存されてゐるといふ。此外には何等微すべきものがない。

韓人墓の種類
 次には韓人の古墳なるものは、何れも無銘の天然石や饅頭積の小石墓が多く、中に有力者の石碑には薄身の平面石に、表面に細字の長文を刻まれてあるも、彫淺くして今讀得らるゝもの甚稀である。中には歸化人の面目として全く日本式の四角塔を用ひ、其碑面にも各宗旨の法號を銘刻して全く我邦人のと異ならぬのもあるが發掘すれば概して寝棺の方多しといはれてゐる。
 而して内田大谷前面の小山には二百基近くの饅頭墓があり。又此處の萓の谷の隣地にも二三基の韓人墓ありて、其内龍宗の墓なるものには元祿四歳未三月二十八日と刻してある。さして古からねご宗の一字を銘せしところ或は宗傅の縁者らしくもある。

黒牟田の高麗墓
 次に黒牟田の高麗墓にも韓人らしき墓五六基ありて、其中に元祿六年癸酉七月十六日元宗正といふのがある。此方は戒名の宗の字を上に用ひられてゐる故に、前記の龍宗よりは宗傅と近親らしき感がある。又内田の岸の上なる古賀某宅脇の多寶塔式の崩れ碑あるは宗僧の碑ならずやとの説あるも、深海一家が悉く引拂ひし後に頑先の碑のみ残し置くべき道理がなく、或は轉住の際又は其後年に於いて有田に移せして見るのが妥當であらう。

宗傳の本據
 斯くて宗傳の未亡人が、九百餘人引連れて有田の稗古場へ移轉せし跡は、全く火の消えしが如き観を呈してふ事柄や、當時陶業の繁榮なりしといふも、二百餘年前斯業全く絶えしの口碑があり、又寺院の存在せし事や、韓人墓の多數なること等を検討して、宗傳が本據は必ず内田なる可く推考せらる。
 就中寺院のありしことは、豫て佛道の歸依者なる宗傳が、此處に一宇を建立せしものがハイセン寺にて、是は必定武雄の廣福寺の分派なる臨濟であらねばならぬとも推せられる。而して其後私見の確められしは、有田稗古場の報恩寺境内にある宗傳夫人萬了妙泰道婆の碑文である。

百婆仙の墓碑文 萬了妙泰道婆之
曾妣不知姓名高麗深海人文祿初本朝攻高麗歸河後藤家信頗命曾大考妣廣福別宗從來仍在門前蓋有年矣信公(家信)命々已能之幸得蒙恩賜内田辉開陶器地自作茗盌香爐乃捧信公並別宗和尚到今寺僧謂之新太郎燒元和四年十月二十九日歿法號天室宗傅會妣訓子得母道而後捨内田來稗場黑髪山秀白土玉堆以爲天賜陶地由是家居高麗人等悉賴忝以明暦二年三月十日卒壽九十六呵淑容嶷狀揚且顏耳垂肩有充瑄迹茲孫德常稱百婆仙惟會公婆實是皿山始祖也祖父平左工門法名宗海以業大振家生二男七女伯父宗光生男投廣福薙落先考湛丘三男許仙與季皈佛中子力家事外曾孫三人爲僧不是先祖善因所致乎仙攣緇素來裔立石浮屠一基之廼記口實伏願障雲忽盡心月圓明遠乘蔭孫葉繁榮
れてゐる。
寶永二已酉三月十日茲五十年
祐徳嗣法比丘絕玄實仙 敬白
 右の如く碑文中「而後捨內田來稗場」の記事を發見して、宗傳本據の内田説が確證されたのである。此墓碑は曾孫實仙が百婆仙の卒後五十年目の忌に建立せしものなるが、此碑文中にも亦百婆仙が有田皿山(特に内田とは記載せず)の始祖地と記して、自家の祖先を粉飾せる通あるは是非もない。

残留者の製陶
 尚前記内田なる龍宗の法號ある墓碑が元祿四年に建立せられあるは、此地の陶工が寛永年間總て有田へ移住せし時に、なほ此處に殘留せし者か、或は其後隣り村の韓人が此地へ轉居して製陶せし者と見る可きであらう。
 概して黒牟田の古窯品は、天目其他の單色施釉物が多く、内田の古窯品は刷毛目の如き技巧物に勝れてゐる。

内田大谷の刷毛目
 とりわけ内田大谷の刷毛目には、一個の大皿に八九種の異なる刷毛目を文しそれが白釉の外縁釉、黄釉、紫釉、紅褐色の諸彩にて、地釉彩釉とのシンメトリーを善く發揮してゐるのである。
 中にも褐色胎土に白釉を化粧し、未た乾かざるうちに鎧威しに横目を掻き、底には五方菊紋掻目を現はせし二尺の大鉢がある。又白化粧の上に淡黄にて波刷毛目を施し、共上に青藥を流せし大水鉢があり。飴釉尺口の縁鉢の縁に振ぢ刷毛目を文し、上を横櫛目を引き見込みには刷毛目の上を五方菊紋掻目を現はしてゐる。或は飴釉尺三寸の鉢に縁部は二段の花三島手をし、見込みには小さき數羽の鶴を象籍し、それに嘴とを脚を鐵描したのがある。
 又大水鉢の外部を黄釉にて化粧掛せし上に、波掻の櫛目が施され下部には鎧威し目が文飾されてゐるのがあり。或は暗緑色釉の同物に白にて卷水刷毛目を施せしものや、栗色釉の鉢に花三島を施せがあり。又綠色釉の手附壺に手の部分丈飴釉を施せしもの。或は飴釉八寸の高臺鉢に蒲柳水禽を鐵描せしものがある。其他暗紫色釉の大鉢を數段に筋引し、白釉や卵色釉にて力強く立浪刷毛目を施せるものなど、何れも刷毛目の交錯美が巧妙に顕はされてゐる。

内田の古窯品
 又内田物には鐵地薄釉の鉢に、白と栗色の濤亂刷毛目を施し、見込みには渦刷毛目を文飾し且つ青藥を流してゐる。或は濃茶釉の鉢に白化粧をなし、それに波刷毛目を掻き底には同釉の獨樂筋を廻はし、縁部より金茶釉を流したのがある。又栗色釉の鉢に白化粧にて波櫛目を掻き、底部は籠目搔目を現はし其上を暗緑釉にて總掛せしものがある。
 又青味栗釉に白化粧を施し、其上に粗拙なる鐵描をなし、口部のみ薄き褐色釉を施せし徳利があり。或は灰色釉に同じく鐵文ある深皿などがある。総じて以上の大鉢類は何れも小形高台にて悉く無釉である。又中には三寸許りの簡素な捻細工の猿に、顔の外は灰色釉を掛けたる其眼目の技が眞に秀抜なるものがある。

小峠
 なほ内田小峠の古窯品には、暗灰色釉の大皿に白化粧を掛け、其上を韓國風俗の數人を巧みに毛彫したのがあり。或は栗釉地に松葉鞠寄せに縁曆手及劍先三島印花を施せし上に、白釉を掛けし尺口の四つ目積皿がある。又飴色釉八寸皿に芦の葉を描せしものや、小豆色釉の皿に鐵釉の繪刷毛物がある。
 又灰色釉底草書鐵猫の縁淵五寸皿や、栗釉地に白にて底筋を廻はし外を横浪刷毛目を施せし目積中皿がある。或は飴釉にて縁立棒底結び烏鐵猫の小皿や、天目地底菊花散文外白にて浪刷毛目を施せし同物があり、何れも高台部無釉である。其他天目涙痕の糸切花立や、淡緑釉に立波刷毛目を施せ茶碗がある。

萱の谷
 茅の谷の古窯品には、小峠同樣灰色釉結び烏畫の目積小皿で、裏は全く無釉に近きものがあり。又薄飴釉に縁を菊形ゆりにせし深小皿や鉛色胎土に白刷毛目を廻はせし八寸皿がある。或は褐色地に飛黒の兩手附七寸の花立や、青茶釉に白刷毛目の七寸徳利があり。又天目釉の煎茶々碗等何れも高臺無釉である。

一位の樹谷
 一位の樹谷の古窯品には、灰色釉や薄茶釉の皿、茶碗が多く、そして高臺部が廣く無釉に成つてゐる。又藁麥手の如き施釉物もあるが、何れも目積燒にて前記の物と比較して至極簡素である。要するに内田の技巧品は大谷と小峠を以て主格に推す可きであらう。

錆谷
 黒牟田なる廣高良の錆谷の古窯品には青灰色釉の丸やなぶり縁淵の深小皿にて、縁に四筋立棒底に小枝を鐡描せしものがあり。又同釉にて杢甲縁淵に四筋立棒を描せる同物がある。それが裏部は殆んど無釉にて高臺小さく、多くは底四つ目積にて焼かれてゐる。又天目にて縁付大形茶碗などがあり、何れも無釉高臺に竹篦の痕が歴然として現はれてゐる。

物原
 黒牟田物原の古窯品には、薄黄油に青薬にて笹の葉を描きし腰張の小花立や、同物にて縁部に天目を掛けし縁反のものもある。或は薄黄釉にて底に草を鐵描せし平茶碗や天目釉又灰色釉に鐵猫の茶碗があり、飴釉にて縁に四本立体を鐵描せし隅切四角突底の小皿がある。又栗釉地白化粧にて縁反四角の同物及同形の天目釉の小皿、或は濃茶釉に白の立浪刷毛目を文せる七寸の淺丼があり、何れも無釉高臺にて特に多くは蛇の目積にて焼かれてゐる。
 又青灰釉に白刷毛目せし縁淵の尺口皿や、飴色地白化粧へ青と鐡釉を流せし同物等何れも底目積にて焼かれてゐる。其他栗色釉地に白化粧を施しそれに白にて濁樂筋を繞らせし無釉の徳利があり或は青瓷にて三本足附の小形香焚などがある。

黒牟田の古窯品
 此外黒牟田の古窯品と稱するものに、黒天目の鐵漿瓶に同釉のおはぐろ碗があり。肉色釉に黄釉にて立浪刷毛目を施せし深皿かある。或は天目茶碗の蛇の目積に焼きしがあり鐡色地に肉色釉にて渦刷毛目を施せん手塩皿がある。又黒天目耳附七寸の花瓶や飴色釉の片口、或は薄黄釉に釉にて古拙なる菊を書きし徳利などがある。
 又栗色釉の薄掛に、上下薄黄刷毛目を施せし小徳利があり。暗灰色に白刷毛目を施し口邊だけ天目釉を掛けし徳利がある。或は薄褐色や天目釉の上に、半透明の白き高盛の曲線文飾を施せし徳利や茶碗がある。又なぶり縁六寸の淺丼に、小豆色と薄黄の混用にて波刷毛目を文し、見込みを蛇の目積にて焼かれたのがある。

廣高麗と七曲
 廣高麗家の前の古窯品には、灰色釉の目積小皿が重に焼かれており。中には茶色釉の茶碗もあり、何れも高臺部か廣く無釉に成ってゐる。同地七曲の古窯品には飴釉の目積小皿が多く、中には緑だけを廣く鐵釉にて塗りたるものがあり、又鐡猫にて種々の文飾をなせしものもある。其他天目茶碗など何れも高臺部が廣く無釉に成つてゐる。

祇園下
 祇園舎下の古窯品は多く卵色釉の皿茶碗にて、中には其上を白釉にてかすり刷毛目を施せしものがあり、又茶色釉のもある。其外薄錆色地に天目釉を施せし茶碗もあり、何れも高臺部廣無釉に成つてゐる。

山崎御立目と古郡古の辻
 山崎御立目の古窯は灰色釉の上に問々鐡釉を流せし大皿にて、それが頗る小さき高臺にて焼かれそして廣く無釉になってゐる。古邢甲の辻の古窯品は、灰色釉や薄茶釉の皿茶碗にて何れも高臺無釉である。

宇土の谷
 宇土の谷の古窯品には、白化粧の上に胴の半ば以上を紫釉にて獨樂筋を繞らせし徳利があり。或は灰色釉の大茶碗に稚拙なる龜などを鐵猫せるものがある。又天目釉の茶壺や淡緑の青瓷物があり、就中飴釉の面に辰砂の現はれし窯變物等がある。

猪の古場
 内田より半里許りを隔てゝ馬渡(戸數二十七戸)といふ村落ありて、其の堤の東丘に猪の古場の古窯趾がある。殘缺には黒色釉や天目釉、又は青茶釉の茶碗など高臺尻が螺旋に成っており、それに白筋を文飾せしものや、鶯釉及灰色釉に縁天目を掛けし小皿にて無釉の小高臺物があり、或は斑点ある茶釉の窯變流しを見せし天目の茶壺や、褐色釉に鐡釉にて仮名文字を書き、口邊より薄青瓷を流せし徳利等がある。

物原の眞研究
 蓋し殘缺に就いての真の研究なるものは、一つの古窯とても作品に時代があり、それが數代乃至數十代に涉つて埋没せる處あるを以て、只其表面のみに現はし殘缺や、又は數尺の發掘に依つて徹底的に考察することは不可能である。況んや谷間などへ深き層を成して埋没せる物原の如きは、一人の作品中にも其生涯を通じて進歩と風格に著しき變革を見ることなしとせぬ。
 故に此破片研究を秩序的に行はんには、其堆積せる物を面に切断し、而して其断層に露出せる破片に就て、一番下部より検討するにあらざれば、沿革的の真相を掴むことは不可能であらう。
蓋し之は経費と時日を要する大事業なるのみでなく、既に現代に於いては開墾のため全く取除けられ、或は道路と成り又宅地となりて工場の下に堅く搗込まれてあるところが少なくない。

開窯の不詳
 又開窯に於いても、他山の崩れより來りし邦人の開窯せしものか、或は二三代目韓人の開窯せしものなるか、是は唐津編に於いても頗る曖昧なる記事を掲けしが、之とても韓人の開せしものに邦人の手に成りしがあり。又邦人の開窯とせしものに、後代渡來せし韓人の手に成しものなしさせぬ。而して今之を詳にすること能はざるを以て、何れも判明せざる程度に於いて記述するの止むを得ざりしものである。

武内磁器の原料
 内田の小峠の前奥や、大谷、黒牟田の向家、呉須燒、丸尾或は宇土の谷等に於いて、陶器の跡に染附の磁器を焼いてゐる。尤も九尾は比較的多く磁器を焼きし由なるも、今は其破片さへ失はれてゐる。而して此磁器の原料は内田方面は八谷の原石を、黒牟田方面は扇山の原石主料とせしの口碑あるも、それに他の何地の原石を調合せしかは詳でない。

鞘壺焼成法
 而して此處にて既に鞘壺を使用してゐる、之は器を同形の外被中に入れ之にして燃焼すれば、火焰が直接器物に触れずして間接にて焼成さる方法にて今の所謂帽子焼である。
そして此外被器なる壺の胴に丸き小穴を穿ちしは、もしや火力の透通が微力ならざるやを懸念せしもの如く、有田の匣鉢にも最初は此穴明きでありのも、或は此處より傅へたるか、又は有田より此處へ傅へしものであらう。

武内の磁器
 而して焼成されし武内の磁器には黄味を帶べる初期風のものあるも、全体に於いて完全に焼上げられてゐる。それに子供が描きし如き菊繪や蘭とも草ともつかぬ呉須猫がある。
蓋し白磁の創始時代には、只それに藍色の點々された丈にても珍重されたものらしい。而して又其半面には整然たる線描の中に、簡雅なる山水や其他本格的の模様物もある。
就中小峠の磁器には、栗色彩具にて描三島を飾した珍奇な破片がある。而して此武内の白磁殘缺が何れも昔器を成さずして歪みゐるといふよりも、寧ろ無断に疊まれし観を呈してゐる。此様子より推算すれば、此處の白磁が成器として幾許の品が完成せられしや甚疑問させざるを得ない。
 うち見しところ匣鉢の中には美しく焼上られてゐる然しそれは悉くくねりしものにて成器ではない。故に物原より探收せる殘缺の色相のみ賞する目的には足れりとするも、容器としては何等の資格もなきものといばねばならぬ。著者寡見にして未だ武内の完成せる容器に遭遇せざるを遺憾とする。

磁器の製作難易
 土器や陶器は其原料粘土に含有する鐵分存在の儘を使用して、低火度なる酸化焰にて焼成し得るも、磁器に至つては鐵分なき原料を選擇し、其純白なる釉面には涓微の色点さへ許されない。然も高火度の還元焰にて焼成さるゝところに一段の高級技を要す、故に此高火度に耐ゆ可き硬度の原料を使用せざれば、皆歪める焼物となるの外はない。

窯變と釉裏紅
 之に反して陶器類に於いては、焼成の結果歪める出来さへ却つて雅致ありと翫賞さるものがあり、又斑点や異色を生すれば窯變物とて大いに珍重に價せらる。彼の古製磁器に於いても坏土中に含有せる銅分の焼成反應が、稀に紅色を呈するものあれば釉裏紅と稱して珍重すれど、之は由來磁器には紅緋の發色が困難なりしよりの賞である。
若し之が見馴れし呉須の藍色にて、大いなる斑点現はしとせば、累が顔面とひとしく、お化け視されて誰しも厭忌するに相違ない。故に將來眞緋の發色が容易く出来る時代となれば、従来の偶然的釉裏紅の發色などは、技術の未熟を表現するものとして一顧の値もなきに至るであらう。

愛陶の奇現象
 陶器に於いては甚だ然らず、或釉面に現はし累の如きお化け面が均窯風の窯變とか、飼面顔の醜女さへ蕎麥手とて愛翫され、桐箱に納められて京洛に上ぼり、古今集の歌心さては源氏名などの優雅な銘を箱書されて、殿上人や富豪の手に撫でいつくしまれ、或るは御大名物と成り上がる。そして小家に在る同器にても、何某家の什器と成れば、驚くべき評價を持つものが少なくない。
 之に反して同じ窯出し仲間にても、満足素直に焼かれし茶碗は平凡なりとて選り残されて、山賊や農夫の手に荒々しく取扱はれ、柴茶や除醒録の容器となりて一生を終るのみ、若し怪我しても塗師屋の修復さへうけず空しく打棄てらる。斯くては我身が片輪物に生れざりし恨みを千載に託つ奇現象を呈してゐるといはざるを得ない。

磁器製作の難
 磁器に至つては兎の毛程の微窪さへ厭はるも、陶器に於いては指先ほどの凹を造り、それが靨手として喜ばる。若し之が磁器なりせば無論一と山幾許のローズに選出されて、二束三文の下々物として賣飛ばさる。そこに陶器磁器の翫賞境遇に大いなる相違があり、そし又陶器に比して磁器製作の困難なることが立證さるゝであらう。

陶器と日本間の装飾
 尤も日本間装飾の調和に至つては、花器や床置物などすべて陶器の方應用の妙諦があり、殊に花瓶に於いては磁器に數色を彩して絢爛たらざるまでも、單に青花の清楚にさへ目的の活花が見劣りする弊がある。故に此對象觀よりは澁味ある陶器の体色や、或は單色釉に稚拙なる文飾の如き、又はレプラ 肌の掘出し物さへコントラストが頗る良い。

變態嗜好
 一体に變態物を嗜好することは進化人の通有性と観る可きか、彼の出目金の蘭鑄が河豚の如き張出し腹に、然も三つ割れの重き裳裾を引摺つて泳ぐ無恰好さよりも、緋鯉の子のスマートな形体と、其燦然たる緋色など如何に美麗なるべきを、それさへ黒白の斑点あるグロテスクな種類が珍重され、それが數百圓に價さるゝに至つては、門外漢の吾々には常に審美の戸惑ひ勝ちならざるを得ぬ。此變態賞翫と雅味の自在を現はすには、磁器よりも陶器の方無論可能性あるは申すまでもない。
 蓋し食器に至つては飽まで清淨潔白であらねばならぬ。尤も陶器に於いても白き化粧掛を施してそれに藍繪を交飾せしものなきにあらざるも、性來の生地が黒奴にては白粉も文身も却つて拙くならざるを得ぬ。例へば天目面のカフェーの女給や柚手の症痕酌婦に侍んべられては、シャンパンの美酒も、白鶴の銘酒も美味を感せしめぬ。況んや其上に御碗や御皿の底が重ね目積や、蛇の目にて焼成されては、潔癖性の我邦人に馴染まれざりしも無理はない。

食器としての磁器
 茲に至つて食器として清白透明質なる磁器の時代を創造し有田焼の発祥は我製陶界に大いなる革命であつた。此時代の雰圍氣に順應して陶業の道に活きんには、是非とも白磁の製作に轉換すべき必要逼まり、此地の韓人又有田より其製法を習得し、茲に地元の原石を調合して苦心惨憺漸くにして此磁器を製し得たのであらう。

白磁禮讃時代
 當時有田磁器に風靡されし近郷多數の陶山は大いに之を羨望し、各邑主の如きもら磁器製作を樊勵し、斯業者をして自領のあらゆる山野を踏査せしめしが、天然の磁礦容易く有る筈がなく、漸く自他の産石を調節し、有田の製法にて完成せしものが、何れも薄鼠色の軟質磁器であつた。中には有田の郷人と結託し密に泉山の原料を搬出して偶々白磁をする者が生じて来た。此消息を知りし鍋島藩に於いては、彌々泉山磁礦の取締を厳命するに至つたのである。

白磁原料の取締
 又當時宗藩にては、自領の外それに縁故ある他領陶山の一部にのみ泉山原料の探を赦せしも、それには質分の等級と分量の制限があり、他領へは中位以下或は俗にナレと稱する下等石であつた。然るに其下等石より良質部のみ選探して、意外なる良器を製する者さへ生しかば、宗藩にては此ナレ石搬出さへ兎角の議論が生じたのである。
 後年尾濃の如く磁土、長石、石英等の調成製磁法が、未だ識られぬ時代に於いて、たさひ軟質ながらも之を試み得し武内韓人の苦心は推察するに餘りある。然も他山が漸く鼠色程度にのみ製作し得たりし中に、獨り純白なる呈色に焼上げたるは流石に此地韓人の優技を認む可きも、唯色白きのみにて体質強からずそして曲りくねった不具者にては、家庭上何等の手助けとも成り得ずに生涯床にせる美人を娶りしと髣髴たるものであらう。

宗傳卒去す
 宗傳深海新太郎は、此地に陶業を開始するや、まづ最初抹茶々盌と香爐とを精製し茶盌を領主家信に献じ、香爐を廣福寺の別宗和尚に贈りしことは前記の碑文にも掲げてある。尚共後優秀の作品を屢々雨氏へ贈呈せしことは察するに難くない。そして彼が數種の優技を發揮せし事は、前記の殘缺が如實にしてゐる。當時内田の製陶は一名新太郎焼として頗る盛名があつた、蓋し白磁の製作に至つては彼が歿後の出来事である。斯くて宗傳は元和四年十月二十九日内田に於いて卒去した。
 未亡人は一子平左工門を助けて舊來の陶業を経営するうちに、時勢は磁器製造に轉換を促され彼の母子を始め研究に大なる努力を拂ひしに相違ない。

武内磁器の創業期
 而して幾度之を試みしも途に成器を得ることの難事なりしは無理もなかつた。此武内磁器の製作は、當時肥前の各山を巡視せ三河内の今村三之亟が確言せし如く、寛永六年なりこの説事實なるべく、乃ち宗傳歿後の十二年目である。
 斯くて軟質の原料にてあまたゝび失敗を操返へすの恩を覺り、領主茂綱(家信の男)の許可を得てに内田の同族は有田に移住するの大決心を起せしものにて、それにつきては何分大勢の事故に武雄領主より本藩へ交渉ありしに相違なく、又本藩にては陶工大淘汰以前の事とて、徴税の關係上直に之を許せしものなるべく、そしてそれは磁器試作後の一二年目にて寛永七八年頃に行はれしと見るべきであらう。

内田より有田へ移轉
 未亡人は此住み馴れし内田を引拂ひ、平左工門を始め同族工人九百六十人を率ゐて有田の稗古場に轉住せしは、彼亦決して尋常一様の婦人にあらざりしことが察せらる。
其後有田に於いても磁器製造者として相當の地位にありし者の如く、今稗古場觀音巖にある霊廟に金ヶ江氏と並んで深海氏と刻記されてゐる。

百婆仙卒去す
 斯くて此女丈夫は、明暦二年三月十日九十六才の高齢を以て卒去した。今同地報恩寺境内にある百婆仙の墓碑と稱するもの、即ち前に碑文を掲げし萬了妙泰道婆の塔がそれである。
深海家の略系左の如くである。(深海略系参照)

三男宗家を嗣ぐ
 五代市郎が長男平左工門次男森右エ門を描いて、三男に六代市郎として宗家を嗣がしめしは、それが白眉の名陶家なりしことが察せらる。此六代市郎の代に於いて臨時的ながら宮中の御器を謹製せしこさがあり、其當時の御用命書に左の如きものがある。


一品柄 個數
金子仕拂の事
鷹司邸 鈴木左工門大尉印
肥前有田皿山
深海市郎殿

ヒウラク舞
 内田及黑牟田に於ける古来よりの風俗にヒウラク舞といふのがある。それは舊春三月の十五日一家の老幼男女は全村々蒿飯や酒肴を用意し、又大竹二本に銘々の名を書きし短冊を結びつけしものを押立て、兩村落の中間なる岳の古場へうち登り、三味や太鼓にて歌舞の限りを盡す風習にて、秋も亦十月十五日必ず此頂上に行樂せしが、後年此山上に殖林せしより遂に中止成ったのである。

朝鮮の風樂
 此ヒウラクは想ふに朝鮮の風樂の轉化にて、韓土にては八月十五日に於いて、當年刈取りし穀物の初穂をとつて之を配ひ、其夜の明月を興じて宴を張り、その時に風樂を舞へる由にて、我邦の新嘗祭に似通へるものであらう。そして正月の十五日にも銘々祖先の墳墓を修理清掃し、此日も亦盛宴を設けて風樂を舞ふの外、種々の儀式が行はれるといはれてゐる。
 察するに遠く故園を離れて此異邦に渡せし韓人達が、折ふしは望郷の念に堪えざるものあるを此日偶々其憂心を散せん爲め此處の山上に酒宴を張り、彼等が得意のプンラク舞を興しより、それがヒウラク舞とて後世まで傳へられし遺風であらう。

丸田寅馬
 此處は黒牟田の外丸尾や幸など、有田と同じき地名あるは何か關係があるかも知れぬ。此幸平には今九田寅馬が種々の雅品を製してゐる、それには飴釉に渦刷毛目を施し是に櫛目波紋を現はせし茶碗や、栗色釉の内部だけに波刷毛目を施せし茶碗などがある。

黒牟田の現製品
 現時黑牟田の製品は多く下手物にて、湯婆、植木鉢、茶出、浅瓶等の製作者が四戸、又植木鉢、胡麻熬、胎盤壺等の焙烙焼が八戸にて、年産額一萬圓を出でであらう。而して原料は若木村本部の土及中通村三間坂の土などが調製されてゐる。

西の角
 今より四十五六年前、黒牟田の窯焼丸田大四郎、江口大吉 丸田松三、丸田友次郎等は真手野の西の角(内田より六七町、三間坂驛より十五六町の里程にて戸數十四五戸)に開窯し、植木鉢、擂鉢、徳利などを製造せしが廢窯に帰し、二拾年前同地の江口博之助來つて再興し五ヶ年にして止みしを、次に又木下安一來つて復興せるが、昭和四年全く廢滅に帰したのである。

安田原
 武内村眞手野の多々良(内田より一里半、三間坂驛より二里以上あり、戸數七十戸)には、安田原と西岳の二ヶ處に古窯趾がある。 安田原の殘缺は重に鼈甲釉にて、或は青茶釉や褐色地に鐵粉点のある茶碗が多く焼かれてゐる。そして何れも無釉高臺にて、新月形の螺尻になつてゐるのが少くない。又此山上には山の神として高麗神を祀ってある。

西岳
 西岳は全く甕類専門に焼きものゝ如く、此處の山裾なる檜原の下には當時大規模に製造されし多くの殘缺が散亂してゐる。なほ其下手には此處の邑主西岳壹岐守の墳墓がある。

多々良甕山
 現今多々良の甕山と稱するは、なほ北部桃の川より近き半里許りの地に於いて製造されてゐる。種類は甕の外土管、植木鉢、擂鉢、捏鉢、蒸甕(古代の形なるべし)等にて、此處もすでに百年以前の創業に成り、窯元には山口文八外三戸にて年産額三千圓位といはれてゐる。

川古窯
 若木村川古の古窯には、甕屋の裏の外山中にて見上の尾、戸別當、火口谷、商人山、窯の谷左、窯の谷右等ありて現在製造するところは一戸もない。川古は高橋驛より一里二十町の里程にて、往時は澁江右馬頭公勢が領地なりしが、乳母が末子公親(母は鬼子嶽城主波多氏の女)を後嗣にせんと企みし策動より、武雄の後藤純明に日鼓山城を攻落されしも、重臣馬渡甲斐守俊明下村の舘に在りて此地を支配せしが、天文十二年十二月二十六日純明の軍押寄せ來り、俊明遂に戸坂山に戦死せしより、爾後藤氏の管下に属するに至つた。

甕屋の裏と見上の尾
 甕屋の裏と稱する慮は甕類専門の古窯なりし如く、往年既に滅して今其窯趾さへ知る者稀である。見上の尾の古窯品には灰色釉や飴色釉茶碗の外、栗色釉に白刷毛目を施高臺無釉の深皿などがある。尤も川古焼の代表作品は窯の谷にて此遊は戸數三十四戶、街道端に馬渡俊明の建碑があり、此處を三丁許り山奥へ上れば窯の谷左窯である。そして大形なる窯趾と見るべきが三十間位登りしがあり、其近傍には無數の殘缺が散亂してゐる。

山中窯の谷左
 中に最多きは白化粧の上に無雑作に鐡釉を流し、それに青藥や金茶を散らせし大皿である。又白化粧に青藥の松を文し、幹枝を巧みに鐡描せし水甕があり。或は灰色胎土に褐色薄釉を掛け白にて三段筋を廻はし底には小割菊紋を鐡描しそれに暗緑釉を流せし縁付七寸皿がある。
又白化粧の上に波櫛目を掻き、鐵描せし外紺青を流せし大皿があり。又同白化粧に波刷毛目を施し底は鐡猫の柳に青藥を流し、其上を八つ目積にて重ね焼きし大皿がある。或は栗茶釉の緑鉢に縁を白にて小刻みに立浪刷毛目を文し、それに青藥を流せし大皿や、暗緑釉に底四方花櫛目にて縁金茶釉の八寸深皿がある。
 又褐色地に白化粧を掛け底は白にて獨樂筋を廻はし、緑には青藥を掛けし尺一寸の繰鉢や、薄茶釉及褐色地に紺青流しの大皿があり。栗色釉薄掛に白化粧を掛け上に蘭花模様を描せし大皿がある。或は黒褐色胎土の焼緑地に、古代文や菊文散ら印花せし獅子耳附入寸の水鉢や、鐡釉耳附四寸の花瓶にて腰以下は無釉の物があり、又此處の擂鉢には真底の櫛目を亂れ掻きにしたのがある。
 其外鐵釉緣附及薄飴縁附の小皿や、九緣皿を四方寄せにして横なすりに鐵描せしものがあり。或は二つ葉鐡猫の小皿など何れも腰部以下無釉である。又天目釉六寸の壺や、黒茶釉に縁天目の六寸徳利等がある。此處は黒牟田鍋谷方面よりの山籟きとて、その作風に武内窯と諸種の共通点が現はれてゐる。

山中窯の谷石
 窯の谷右窯は褐色地白化粧に、鐡にて水草を描きし上に薄青藥にて誼染掛けし大皿があり、又栗色釉地に白の獨樂筋を繞らせし上に暗緑色や金茶を流せし大皿など作風全く左窯と同様である。蓋し製造規模に於いて左窯よりは頗る小さき様である。

焼ケ峰前窯
 朝日村川上字繁昌の焼ヶ峯は戸數三十七八戸の集落にて、高橋驛より一里許りの村端なる高地である。此處の道路脇なる前窯は、専ら甕類のみの古窯趾にて、殘缺には壺や擂鉢等の破片が現はるゝ。胎土は褐色又は鉛色にて中には炻器の如く焼締たのがある。而て此處より卵色釉にて高臺内螺旋尻の茶碗を發見せしが、果して此古窯の製品なりや一考を要するものである。

焼ケ峰奥の窯
 焼ヶ峯奥の窯は川古窯の谷の隣接山にて、作風も亦全くそれと相似てゐる。中に鼠色地に白化粧を掛け底部丈け獨樂筋を廻はし、外は瀑泉刷毛目を文飾したる大皿があり。又栗色地に白の剣先三島手を施し、共緣淵裏は薄紫の下を白の浪掻目をせし大皿がある。
 或は褐色胎土に繰淵を暗縦筋と白筋にて波形に交はし、縁裏には暗緑釉を掛けし大皿があり。同胎土に鐵色釉をかけ緣淵は薄紫の上に白刷毛目を引き、見込には又金茶を引きし大皿がある。又内暗緑釉にて緑裏は同色釉に波猛目を施し、下部は群青釉にて文飾せし水鉢がある。

磁器未成論
 以上記述するところ武内系の陶器なるものは、其技巧美に於いて頗る優秀なることに異議なきも、磁器に於いては全く未製の時代に属してゐる。然るに唯此釉色のみの殘缺を見て、之が創業の年代をも顧みず、只管我邦白磁の鼻昶さすが如きは餘りに早計たるの譏を免かれぬ。
 若し此地の原料を以て満足なる磁器を得たらんには、何を好んで九百六十人の陶工は、四拾餘年間住馴れし第二の故郷を棄て、有田の稗古場へ轉居せしやを考可きである。
 而して此武内磁器の製作を以て、彼の祥瑞が發祥の地といふに至りては、除りに無稽極まる妄説なるが故に、此機會を以て少しく祥瑞に就いて論評を試み大方の参考に供するであらう。

五郎太夫祥瑞
 舊來の史に従へば、後柏原天皇の永正八年京都東福寺の僧桂梧が、大内義興の遣唐使として明に渡れる時、伊勢國西黑郡大口村の人伊東五郎太夫則之なる者之に従ひ、往きて居ること二年餘景徳鎮に至り、彼の製磁の法を習得して同十年歸朝した。其折五郎太夫が齎らせしさころの南京白磁こそ我國に始めせしものにて、それには五郎太夫祥瑞又は呉祥瑞の銘あり云々といふのである。

後の祥瑞説
 後年の祥瑞説に依れば、實は前記の孫に當る五郎太夫にて、文禄三年四月十八才にて明に渡り、居ること二十三年間にして元和二年四十才の時歸朝し、其後諸にて磁器を製し、寛文三年五月十六日八十七才にて歿す云々といふ説にて、前説と比べては百年餘りのひらきがある。

行路難
 而して當時支那唯一の磁器製造地なり景徳鎮とは抑も如何なる處なるか、此處は江西省の饒州府なる浮梁縣西興郡にて、元来明朝の保護に成る官窯なるを以て、製法極めて秘密を厳守され容易く外人などの入鎭を赦さゞりしころである。
 然も其行路に至つては、浙江より揚子江を経て湖口より鄱陽湖を超え、饒州河を遡りて漸く景徳鎮に達すべく、之が今より四十年前に於いてさへ守備兵の護衛附にて数ヶ月を要せし難行路であつた。然るに四百二十四年の往時に於いて、外國人が如何にして密行入鎭せしかゞ大いなる疑問させざるを得ぬ。
 又五郎太夫が製陶上に多少の経験ありしかは不明なるも、當時難中の至難とされし磁器の製法が言語不通の異國に於いて滞在僅に二ヶ年、然も直接なる研究は不可能なれば、只其周圍より概念的に模索せる程度に於いて、しかく完全に習得されしても思はれない。況んや享祿三年には、既に明國へ邦人の渡航を禁止されてゐたのである。

明と交戦中
 而して後説に依れば彼は僅に十八才位にて遣唐使へも従はず、國禁を犯して渡航せしさへ意外なるに、然も文禄は明の萬暦にて我秀吉が韓土に於いて交戦中である。此敵國の人民が同國人さへ入鎭を忽かせにせざる官窯地に、如何にして見學を詳になし得可きや、そして又習技としての滞留に、二十三ヶ年は徐りに長期に過ぎるがある。

景正入宋の例
 彼の瀬戸の加藤景正も、最初南朱の染附(炻器程度に施釉せしものであらう)を習得せんが爲め入宋せしが、それは御土窯として敕命を以て開き、又其器を焼上ぐる間は警備嚴重にして何人も之を窺ふこと能はざるを以て、滞留五六ヶ年を過せしも途に意を果す機會なく、漸く唐物茶入(實は薬味入)の土や、釉薬の研究を遂げたるまでにて帰朝しといはれてゐる。後年九谷の後藤才次郎が入清推測説の如きも頗る怪しきものにて、現代にても個人の工場に於いてさへ縦覧を禁せし表札を掲げし門内へは浸りに這入れるものではない。
 次に帰朝後の前説五郎太夫は肥前に止まりて、有田の磁器を創始せしとの説を成す者があり、就中此妄談の元祖を成す陶器考附録の文を掲くれば左の如くである。

今利燒山田五郎太夫ニ始マルコノ以前本邦ニ染附ノ製ナシ五郎太夫ハ伊勢松坂ノ人ナリ明國ニ渡リテ呉州ニテ焼物ヲ習フ青花白地ノ法ヲツタヘテ歸ル五郎太夫祥瑞造ノ宇アルモノ吳ニテ焼トコロ也桂林漫錄ニ明ノ正徳八年(我永正十年)五郎太夫日本二皈ルトキ明ノ李春亭ノ送別ノ詩アリ又コノ詩隣交徵書ニモ出ル
李春亭の詩 送居士五郎太夫皈日本 李春亭
敬持玉帛觀天顔 回首扶桑香渺間
船舶古鄰三佛地 杯傳新酒四明山
梅黃細雨江頭別 帆引清風清上還
明到賢王應有閑 八方職貢溢朝斑
右本書伊勢山田神宮寺ニ藏ス
是ニ因テミレバ遠州ノ命ヲウケラ明ニ入ルトイヒ傅フルハ恐ラクハ附會ノ説ナラン五郎太夫皈朝ノ后火候ヲ驗スルニ今利ノ近所ナル有田皿山ノ地火候烈ニシテ染附ニ合ヲ以テ同所ニテ焼物ヲ始ムトイフ皿山ニテ燒物ハ白薬藍畫ニクワシニウアリ呉須ノヤウニテ土和カ也古今利又吉祥瑞ト云品ニテ在名ノ物ト畫様相似タリ今利ニテ燒タルモノニ名ヲ入サルハ本邦ノ白石和カニシテ唐土ノコトクアラス年數タテハ古ビテアシク成コトヲ見計リタルトミユ故ニ名ヲ書セス只吳ニチ造モノハカリ名ヲ書シテ後ニツタフルノミ

祥瑞と有田
 以上記するところ一顧の値をも發見せず、元來當時の有田皿山は全く深山幽谷にて樵夫の徑さへ稀なるところであつた。後説五郎大夫が皈朝せしといへる元和二年に於いて、此深山より李参平が天然磁礦を發見して、始めて我邦に磁器なるものが創作された。然るに前説の五郎大夫は之より百〇四年前に、何を彷徨ふて此深山の地へ来たのであらう。又後説の五郎大夫が歸朝して、直ちに有田の原料を発見し磁器を創製せしとしては、彼が李参平と額合せし何等の口碑さへ殘されてゐない。

祥瑞の痕跡
 兎も角後説の五郎大夫が果して有田地方に来りしすれば、其後の彼が生涯なる四十七年の間に於いて、何物の痕跡を止めねばならぬ。然るに有田磁器の開窯に就いては五郎大夫に於ける何等徴すべき傳説さへもなく、又今回著者が普ねく肥前の各山を巡歴せし際に於いても、五郎大夫との製磁關係に就いては其匂ひさへ嗅いたことがない。

無稽の高唱
 然るに近來李参平の外に、我邦磁器の創業者ありとの異説をなす者があり、就中有田磁器の創始は全く祚端なり絶叫する妄説者あるは、其餘りに研究の幼稚なるを憫れむと共に、然も此滅法論を臆面もなく高唱して、斯界に名を成さんと企らめる其勇気は歎稀に價するも、寧ろ議論を超越せる噴飯事である。而して我有田に於いて斯ゝる妄説に耳を傾けることは、常識ある者の大なる恥辱とされゐるを以て、誰も問題にするものはない。

武内磁器と祥瑞
 次には又武内の磁器を發掘してより、彌々祥瑞の發祥地を確めしといふ説あるも果して然るに於いては祥瑞なるものは全く成器を得ざりしといふ矛盾が生じて来る。抑祥瑞と稱する磁器を見るに、有田の故乙吉、伴次郎、嘉十等の如き一流陶家の製品には勿論及ばざるも、其素地と青花の俊麗さは到底、軟質磁器などの模倣し得可き品柄ではない。

有田祥瑞
 故に當時之をイミテートせし者には有田の嘉十や、京都の木米、耕山、又は瀬戸の半治など一流の陶家であつた。尤も有田に於いては二流どころの陶家にて摸作せし物も少なくない。
そして有田製には五郎太甫や五郎太輔吳祥瑞 或は開造祥瑞、又は単に瑞の一字を銘したのもある。但し有田製は其模様殊に地紋の描き振りが餘りに規矩丁重にて本物の如き粗味がない。
而して祥瑞製なるものは模様よりも寧ろ細工の方に特長あるといはれてゐる。

支那へ注文
 要するに祥瑞の銘ある支那の青花白磁を始めて我邦の五郎大夫なる者が入手して愛翫措く能はず、再び彼地へ注文せし時に自己の名前を加へて記銘せしめたるにはあらざるか。

小堀遠州の注文
 又或説の如く其後小堀遠州等茶人の好みにて、彼地より渡來せしさの観察は頗る傾聴に値する。
 それは今日祥瑞と稀せらるゝ茶器を見るに、茶碗や水指等多く歪みや凹める物である。然らば之が四百年の昔に於いて支那の茶人達が製作せしさも鑒られず又出来損じのみを輸入せしても思はれぬ。元來磁器には笑窪の如きが無暗に出来るものではない。是は全く我邦の茶人が特に注文して態と笑窪等を製作せしものと見るべきであらう。

日本人向の特製
 斯くの如く特別なる誂へ物なる故に、縦令それが今産地に於いて同銘の品を認めずとの理由を以て、全然之を否定することは不可である。古染附の渡来物にても、現代に於いては支那人の眼にさへ疑惑を挟む物が少なくない。
それは當時の日本人向に特製されしものにて、祥瑞の銘品も其頃支那青花の初期物が、例の彼等が福壽銘の如き縁起的観念にて、記銘輸入されたるを、前記の如く五郎太夫の名を加へて、屢注文製作せしめしもの見るの外ない。
 或支那人は日本へ渡りし祥瑞銘器を見て、是こそ日本古陶の精華なりとて買取りし咄もあるが、獨逸のドレスデンにて製作し當時の柿右工門摸造品を本物と合點して、我國へ逆輸入しては珍重しつゝある日本人もある。又近き足元にては京阪の道具屋が、佐賀市にて鍋島皿を買ひ、それが京都で寫されたのを、今度は又佐賀人が本物と信じて購ひ皈り今にも自慢してゐる者さへある。此へマさ加減は我邦人の方が一枚上であらう。
 又北京宮中の博物館なる武英殿の陳列品中には我有田焼が古支那焼としてプライドされてゐる奇觀さへ考よれば、此陶磁器なる物の専門鑑定エキスパートオピニョンは其道の精通家とて容易く斷じ得べきでない。そこに研究の苦心があり、又觀賞の面白味があるのであらう。

肥前焼との無關係
 唯著者は歴史的の見地より祥瑞なるものが武内の軟質磁器は勿論、我有田焼の発祥には兎の毛ほごも關係なきことを論じ、折々起る肥前磁器祥瑞創始説の如きは、痴人の夢を説くものとして其妄を置く次第である。

三の丸焼と鍋島茂義
 前記の如く武内の磁器は未完成なりしも後年武雄城内にて製せし三の丸焼は、原料が天草石なる丈けに完全なる磁器を焼いてゐる。それは天保の初年武雄二十八代の領主鍋島十左工門茂義が三の丸(今の武雄中學校)に於いて試燒せし御庭焼である。
 茂義は當時西洋文明應用の率先者にて、進取の氣に富めるを以て、本藩主鍋島直正(閑叟)は之を抜擢し、天保五年長崎の町年寄高島秋帆(四郎太夫舜臣慶應二年卒六十九才贈正四位)に就いて西洋の燧銃及大砲術を學ばしめたのである。彼は翌六年には斯術の皆傳を受けて蹄藩せしものにて實に佐賀藩砲術の元祖である。

三の丸の磁器
 茂義は武雄城内に於いて砲銃等兵器の外、電信器、煉瓦、硝子等の製作を研究し傍ら窯技を趣味として陶窯を築き、天草原料を以て磁器の製造を試みしものにて、領内の陶山小田志(西川登村)の窯焼奥川某(今の龜右工門の祖父か)召されて其任に當り、電信用器の外皿、鉢丼等種々の染附物が焼かれてゐる。
 中にも呉須にて粗雑な牡丹など描きし九寸の深底蓋物などあるも、是等は雑器にて全体に於いて巧妙なる優製品が少くない。蓋し賣品ならざる御庭焼とて今男爵家に藏せらるゝ物と、各藩士の拜領せし物の外民間に存するもの甚稀である。

金製顔料の試み
 なほ此磁器には黄金製顔料を試みし物がある。それは正圓子の出色を研究せしものゝ如く、而して其調製法當を得ざりしため多の失敗器が遺されてある。蓋し黄金を用ひて磁器に圓子彩料を数へしは、明治四年獨逸のワゲネルが有田に於いて始めて發表せしところなるに、それよりも四十年以前に於いて其發色を試みしは偉とせねばならぬ。

三の丸の陶器
 此磁器焼成と同時に又陶器が製作され、武内村黒牟田の江口五郎召されて之を擔任せしていはれてゐる。此製品中重なるは化學試験用の坩堝や或は蘭引(蒸溜器)等であつた。
茂義は天保三年七月晦日父茂順の家督を受けしものにて、同十年九月四十才にて退隠し、文久二年十一月二十七日六十三才を以て卒去した。

研究すべき陶器の特長
 要するに武内の陶業も亦唐津と同じく現時全く休眠の状態である。方今磁器萬能時代の觀あるも、陶器には茶器や雅品の外日用器に於いても磁器にては辨じ難き特長あるを以て、是が博き應用に就いては、尚幾多研究すべき或ものが残されてゐるやも斗られない。

茶趣味の普及
 近來泰西諸國に於いて日本趣味を愛好する者頗る多きを加へつゝありと聞く、果して然らんには我邦の茶趣味や雅陶味なるものが皮想的にも普及されて、世界的に其流行の時代全く來らすとせぬ。蓋しそれは我日本の國勢が彌々隆盛なるに連れて起る可き現象にて、我邦文化の輸出として海外に傳播さる可き趨勢である。甞て西班牙も葡萄牙も、此文化輸出の杜絶せざりし時代のみが發展したのである。故に製陶家は先人の優技を研鑽すると共に、進んで弘く世界的の輸出品まで研究すべく常に其考慮を怠ってはならぬ。
同時に又一面には武雄系古窯の優秀なる遺片をして先つ足元なる我邦人に知らしむることである、可及的に廣く見せしむることである、そして良く味はゝしむることであらう。

採掘禁止撤廢
 然るに彼本山大毎社長が大々的の發掘以来、武内の各古窯跡は木標を建て、其破片探收を禁制し、他山に於いても亦之に傚へるものあるは吾人の遺憾とするところである。態々此邊陬の地に来り其處の破片を所望する人あらば、縦令それが研究と好事とに拘はらず、どしどし發掘せしめて持去らしむるが良い、而して武内陶器の盛名ある歴證を天下に普及するに若くはない。

徒らに埋しても耕人の先を潰すの外、金礦や炭礦の如く借金の擔保にも成らぬものである。

一舉両得
 故にそれが幾許宛にても探さるゝ丈開拓上の助力となり、同時に一面之が優技の宣博となるに於いては正に一舉両得である。肥前古窯跡數百ヶ處の中には、敢て武内に劣らぬ古陶片埋せるもの決して少なしさせぬ。若し之が悉く探收され得るに至らば、跡は數十町歩の耕地が出来る勘定となる。

ハイキングの採収味
 さりとて此破片を多量に探して販賣せんとしても直ちに賣れるものではない。それは八百屋の店頭に陳列せる松茸や蔵などゝは異なつてゐる。蓋し松茸にても厳にても山野を漁りて狩探るところに面白味ある如く、破片探收に於いても赤好晴のハイキングがてら、其掘出すごとに釉藥、文異或は異形さまざまの趣味がある。
 故に我肥前の古窯地は各自に陳列所(小學校にてもよし)を設けて一通りの破片を探し、以て研究者の材料たらしむることである。そして未だ湮滅せざるうち其古窯跡に記念の標柱を建て、遺跡は採取者に快く開放するが良い。若しそれが爲に田畑踏荒らしの如きは、公開さる事と注意に依って解消す可き問題であらう。斯くの如くにして陶味普及に依りて多くの数寄者と研究者を養成することが、古窯山地の為め頗る賢明の策と思ふのである。

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