多久系 有田窯 壹

肥前陶滋史考
Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

李参平の路案内
 朝鮮の役鍋島の軍勢が、間道より進みて山路に差かりたるに、岐路ありて行手に迷べる折柄、遙かに一軒家を見つけ、其家にあり三人の韓人をして路案内すべく厳命した。其中の一人二十五六才の男にて、李参平といへる者此時より引續き案内役となり、なほ糧秣の徴發や牛車の雇入などに至るまで、我軍の爲めに便宜を計り少ならざるものがあつた。

李参平の渡来
 慶長三年(1598年)十二月直茂歸陣の際、参謀多久長門守安順(此時は龍造寺六郎次郎家久と稱す)に命して李参平を我邦へ帯同せしむる事となった。それは今若し多くの財物を賞興するよしても此儘彼を韓土に残し置かば、日本軍に援助せし者とて、如何なる危害を加へらんも斗り難しとの恩命であつた。是より李参平は多久の軍勢と共に同船して我邦へ渡來することなったのである。

多久安順
 小城郡多久の邑主長門守安順は、始め家久と稱し、水ヶ江龍造寺家兼入道剛忠の孫長信の長子にて、隆信の甥である。天資英俊、武勇勝れしのみならず、宗藩の参政役として治國の政務に鞅掌し、彼の成富兵庫助茂安と共に當時の雙柱と稱せられた。殊に我有田焼の發祥に就いては安順以来、多久氏代々の管掌に負ふさころ少なくない。

舊多久氏
 肥前多久の莊は、源頼朝の時津久井義高の男多久太郎平宗直の領地となり、建久二年(1191年)其子平太宗盆は、家の子郎黨三百余人を率ゐ來りて此地に梶峯城を築き、代々其城主として、杵島の横邊田界隈に至るまで十二萬石を領有し、以で三百年相傅の地域であつた。
 然るに永祿七年(1564年)多久上野介宗利に至り、龍造寺隆信と戰ひ敗れて梶峯城陥落し、愛に舊多久氏は滅亡したのである。而して隆信の舎弟和泉守長信此地を領して一萬余石を知行し、後年龍造寺姓を多久氏に改めたのである。

新多久氏
 斯くて長信は、慶長十八年(1613年)十月二十六日七十六才を以て卒去した。此處は唐津線多久驛(元莇原驛)より一里を隔て、戸數元二百戸以上ありし由なるも、今は其半ばに過ぎないやうである。
 茲に多久氏の本系龍造寺氏の系圖を示して、鍋島氏の縁戚關係と、及び各系との關係をも知る可き参考とする。(龍造寺系圖参照)

金ヶ江三兵衛
 李参平は、同勢と共に佐嘉城に伴はれしが、茲に彌々歸化することゝなり、彼が郷里忠清南道鶏籠山の金江島を姓となして金ヶ江と改め、参平を三兵衛と通稱することゝなった。
さて何かの役目に就かしめんも、言語は勿論習慣の異なれる者とて何等の用を爲さず、さりとて彼は特に功勞多き者なれば、他の多くの韓人同様に放住せしむるも本意なしとて、城中大いに其措置に窮し、種々協議の上幸ひ多久勢と同船渡來せし縁もあり、依て参政多久安順に預けなば、何か良き分別もある可し一決し、人を附して三兵術を多久へ送ったのである。

三兵衛多久に来る
 斯くて三兵衛は多久に来りしも、此處も亦佐嘉に於けると同じく、何等の用途も出来ざれば、追々言語通するまで食客分となし、適々徒然の折など呼出して、邑主の問はれ相手にされたのである。或時安順の問ひけるは、汝元来韓國にて、何業を営み居りしぞのことに、彼はサークイ(焼物)を造り居りし由答へたのである。
 金ヶ江古文書には、朝鮮にて直茂が「汝何々業を以て世を渡り候哉被相間候右の者共申上候者二人共農業仕も其内李参平と申唐人我者古より専ら陶器を仕立候由申上候處御成の上」云々とあるは三兵衛子孫の者が、當時の事情を斯く忖度して多久家へ申立たるものにて、決してそれは事實として首肯されない。

三兵衛由緒書
 此邊の消息に就いては、文化二年(1805年)の多久家古文書中に、金ヶ江三兵衛の由緒書なるものがある。

金ヶ江三兵衛由緒之事
金ヶ江三兵衛と申者元來朝鮮人にて往昔日峯様(直茂)朝鮮御陣之節三兵衛儀於彼國御道御案内申上於御陣中身命を擲抽忠節候故歸朝之節被口□御聞候者彼の國之御導等仕候未口付て者高麗人共より害に逢候も難斗之御供被□召具由被口仰出其節長門守安順同勢內々召連渡海仕候右之者李氏にて御座候得共金江島の者に付在名字相唱へ金江三兵術と被召出候然處言語をも不通萬事御國風に不移合一同勢內召連候由綠有之長門守へ被相預於此方も同然之振合に付彼國に於て何の産業を仕罷在候哉相尋候處焼物相營罷在候由申述候に付先以て私領女山と申所にて焼方試させ候成程相應の焼物致來候付て所々にて焼方相整候へ共十分の土其外辨利無之候に付て長門守より請御意燒物試之濛御免許候故御國中燒物土見巡り於所々燒方相整候內於有田鄉最上の土見出候に付同郷上白川と申所へ致住居焼物仕立段々繁昌仕唯今には所々皿山と相成御國產之随一と相成候儀金ヶ江三兵衛動功に御座候右釜焼開基之由緒を以て車御運上被差免置堺土代々干今子孫之者持來罷在候扨又三兵衛子供孫共代々□□繁昌數人に罷成候に付美作守茂矩代々に至り小扶持申由緒之者共に付て其節兩人より判物等をも相渡し置き持傅罷在候右之通以前より格別之筋目に付三兵衛子孫之者共今以て厚く申附置き候 右之通御座候 以上

唐人古場
 安順之を聞いて然らば早速其製作を試むべしと命じ、字岡の一角(大峠の上り口尾越墓地の下手なり。後年此所を唐人古場といふ)に窯を築きて試燒せしめしに、兎も角種々の焼物が出来上った。今其殘缺を見るに青茶暗色釉にて繰淵の小皿や、同釉になほ黒味ある物にて、之に鐵猫を施しものなど何れも高台無釉である。中には軟質土を強度に焼成せし爲めに、光澤ある色となりて無惨に歪んでゐるのもある。

高麗谷と大山古窯
 次に彼は檀の木場の側なる高麗谷(山の口所謂皿屋)に移窯せしが、此處の殘缺には徑二寸位の鐵色茶碗があり、又赤き胎土にて無釉物の縁反にて、五寸徑に高さ三寸位の器がある。次に又彼は藤の川内の大山(西多久村にて大山古窯さいふ)にて製陶せしも、邃に良器を得るに至らなかったのである。

三兵衛の探見出發
 多久藩にては相應の焼物と認めしも、三兵衛は甚だ満足せず、只管良土探見を申出でしより、然らばとて安順より佐嘉領内に良土を見出し、そして至る處にて勝手に試せしめられんことを宗藩に請願し、其許可を得るに及んで、三兵衛が單身多久を出立せしは慶長の晩年らしく、彼が此地に開窯せしより十五、六年目であらう。

保四郎
 而して彼が此間に於ける多久製陶中、門人や手傳ひとなりし邦人中には其技法を習練せし者少からず、故に三兵衛が立去りし跡に於てもなほ陶業を継承せしものゝ如く、多久地内道祖の元溜池の上手なる保四郎窯などは、其後年の開窯に成れるものにて、現在十三間登の窯趾があり、右手には堆積されたる物原がある。
 此古窯品には、濃茶釉に白茶の波刷毛目を施し底は同じ渦刷毛目を文せし七寸の淺丼や、鶯釉に白の霧刷毛目を施せし四寸丼があり、或は濃茶釉に卵色にて波刷毛目を文飾し、底は渦刷毛目を施せし七寸丼や、又鶯茶釉に白刷毛目を文せし小皿にて、底にて四つ目積せしものなどがある。

藤の川内磁器焼の交渉
 之より三兵衛出立後の晩年に於ける多久領にて、磁器製造を企畫せし顚末を概略せんに、茲に西多久山中なる藤の川内の大山窯は、享保年間(1716-1736年)廢窯せしを其窯跡を修理して伊萬里郷市の瀬山の窯焼原傳兵衛(多久氏の被官か)を迎へて再興せしめんと目論んだのであつた。それが舊來の陶器にあらずして、天草石を以て白磁を製作せんとの希望なりしを以て、此起業に就いては有田なる金ヶ江一統の者や、其他の窯焼に對し頗る憚りしものゝ如く、當時の内相談と有田代官等へ交渉の次第など、多久古文書に就い重なるものを摘録して之を示さん。

多久古文書
口達覺
此方私領所々エ以前陶器山數ヶ所有之候處近十年及破壞候元來右陶器山仕立候儀日峰樣朝鮮御歸陣之砌御供ニ而渡海仕候金ヶ江三兵衛輿申何ノ御用ニモ相立候付長門守同勢內召連候處緑ヲ以テ長門守へ被相預候由右之者彼國ニテ何等ノ産業等仕馴候者ニ候哉相尋候處焼物ヲ相營罷在候由申候依之爲試於私領所々焼方爲仕候處相應/焼物出來立ニ付請御意御國中燒物土巡見爲仕候處有田山ニ宜敷土見出上白川ニテ焼方仕候處最上之陶器出来立候ニ付右場所へ引移候由末段々繁昌仕御園産ト相成候右ノ者上白川之方エ引越候跡二而在所釜々之内藤之川內ト申所年久敷連續仕右之所去ル享保大飢饉年之砌ヨリ年々衰微仕自然釜燒共及□□□丈釜跡其外釜燒之末干今相口口居年來再興之存意御座候得共物入何角之義ニテ是迄押途差延置候乍然一体私領方之儀田地等モ手寡ク商賣之便利モ不束之在所ニ付而近年様々産物之仕組ヲモ口在候ニ付而ハ前斷由緒彼是ヲ以何卒此節再興仕度一先右場所古釜跡等少々相燒試等爲致候處相應ノ地土モ有之□□合左右ニ御座候得共久敷打絕候末ニテ釜塗立其外一体之手配方吞込心遣候者無之役人共モ不案内之儀ニ付而ハ余計之雜費モ有之旁々ニ付而ハ何レ案内之者等相手取申成ヲモ仕候半而ハ不相叶候就者右市ノ瀬山罷在候原傳兵衛與申者此方前□□通之者ニテ釜方か勿論私領方□□底ヲモ心得罷在候二付右之者再興一巡節々召呼此節用辨仕度御座候勿論口口與召呼儀ニテハ無御座候得共場所柄之者ニ付右之趣御達仕候條御役筋ヨリ其筋啓合居候様宜敷御取斗被下度奉願候 以上
西二月九日 御名内 相浦 大右衛門
永淵主一右工門殿
藤山又右工門殿
灰塚喜左エ門殿
陶器山御再興方付而原傳兵衛義御私領□□輿被召呼釜燒被仰付候通二難相成譯有之候付而御再興一巡節々被召呼度由之御文面而別紙之通御小物成所之方御書附被差出候尤金ヶ江由緒書之義御付役心得迄是又別紙之通相認灰塚喜左工門迄吉岡源右工門ョリ相渡置候末源右工門名當二而御付役中ヨリ呼出有之候付而出候處喜左工門演述被致候陶器山御再興付而御家來原傳兵衛儀御再興中被召呼度由御書付被差出御年寄衆聞御願之通被仰付候尤右之段ハ皿山代官關儀右衛門ニハ其心得有之候樣達越置候條右樣可相心得由被相達候事
附右一件御書付被差出候處事姦敷譯有之段々御小物成御付中毛途內談漸一巡被召呼候分之御書付被差出候御願通相濟候通御吟味之通モ可相付由喜左工門ョリ内々被申聞候付而一体之御主意傳兵衛□奥御私領之方引越候而釜燒被仰付筈候處一巡輿申分而向々 迄罷越居候之儀支所等有之共而無之哉其次第之時訊被相遠候振合毛可有之右之渡喜左工門及内談候處御再興中與候得何時迄之御建立被成不相知右之處廣ク被相整何之支有之間敷大山之道副差啓ヶ居候共遊オヒ下候□□着有之間敷元來內皿山之義候御願出相成候而引合其外六ヶ敷事ニ候得共外皿山譯モ少々相違居事二而本役々之通代官筋二頭ョリ其旨達捨ニシテ相濟候由被申聞候然時成程數十間之釜段々御仕立相成義而候得共問矢張御再興申輿申唱随分差啓候道理相見へ喜左エ門差圖通御再興中一巡被召呼御願込二而モテ向々迄被召呼□□御案之所、有之間敷與申合之上御聞候上御書付被差出候尤右之次第付而釜焼名代職之儀外相立傳兵衛内々心遣之義ニシテ當分被差置方振合可宜事
御答札致拜見候今度陶器山御仕立方=付筋々之御願不相啓内之義者原藤太夫義一先市ノ瀬歸居候振合被相整置方可宜哉ト被相談右之者頃ヨリ罷候由委曲之御紙面致承知御尤之御取計相心得候扨右御願付一件之儀御小物成所御付役中此間相□□年寄役兩人二而及示談候末儀工門人々ヨリ被及內談候處一体之所最前ヨリ被申述候通御領內タリ共他山右職方罷出候儀不相叶前々ョリ御法之由併格別之御418由緒モ有之御吟味相付候、パ於代官筋、何角可申述樣無之候得共御願之義御請役所被召出御小物成所偖亦代官筋へ支之有無問合二可相成乍其上者皿山釜燒共一往問合候而ナラデニ不相成尤何角申立候義等有之哉難斗其邊之成丈教諭ヲ加へ可申由申談候條御願其筋差出方而可有之ト御附役ヨリ被申聞付而御請役所筋被差出候通ニラ色々御酔酌之筋有之第一者内山釜燒トモ右體問合ニモ相掛り候而必定様々故障申立彌以テ何等妨ヲモ相整候哉モ難斗彼是其通り□□クレテ決而生意通不行届次第ニモ可成立甚示談中致常感候就夫最前ヨリが塚喜左工門打掛り致內談候末而専同人口口之申談等被致振合付內山之者共様々流言等爲致陶器山相立候義不好之模様等打明ヶ申咄何卒御願書御小物成所差出末御口聞届而相濟候通取斗之道有之間敷哉下重疊其內多久系有田窯二者色々筆上難申砕□□□末□仕候末喜左工門義様々心ヲ副被申內山之者被召呼候通ニチハ無據人柄等差極メ釜焼トモ問合ニモ相掛リ候而不相叶譯合付而者最前主意之通原藤太夫一人罷越候得夫ニテ相濟義ニテ無之哉ト被申聞候ュエ勿論専右之者=相限り候得共金ヶ江ノ者共取□□候御願詮無之事ユエニ候得者随分右壹人副罷越候得者無此上義候段申述段申談今藤太夫斗□□與御呼越之振合相心得節々御呼越候意味相付御□□□□□之聞届相濟其上而代官筋者頭ヨリ北心得有之候通可相達由段々喜左工門トモ申談儀右工門トモ右之手被相整候時於役筋差支義無之由被申述趣相決昨日漸ク別紙之通御書付右役筋被差出置候御役人方相圖内々差通置候得者最早御別條有之間敷尤今日日柄等二付明日吟味相成早々御年寄方聞届有之候樣被相整筈御座候段々右之振合ニテ其マ、御順書被差出候通不碎合前之通御達込=相成候得十中八九相違有之間敷歟與相心得候尤藤太夫義□□引越候不相成次第二候得共向キ々何ノ手段モ可有之リ只今ョリ難□御定□□被成候而却而不行届□モ可有之下右之通喜左工門任申談被相整義ト□願面ノ振合も御座候へ御斟酌筋モ可有之付而釜焼職之□□外二名代被相立置候ハラ相時間敷哉=相見候兎角御願濟ノ上ニテ早々被相歸候條其上ニテ右ノ渡リスク被相談可十二日三日間ニ罷り候通可相成相心得候是迄之振合中々書中ニ難由碎意味有之追歸宿ノ上可及御沙汰候得共先以大辻申越候條御頭人方へモ可被仰置候恐惶 謹言
二月十日 吉岡源右工門
梶原 九郎左エ門殿
追テ本文ノ次第二付而金ヶ江一黨之者共ハ素ヨリ被召呼ニ不相及義ニテ色々意味合モ有之候得ハ今更幸ノ御事ニ相見候夫トモ未御願成モ一両日ハ隙取可申候得共彌以テ本文之模様ハ御秘事可被成勿論ノ御事ニ候藤太夫被召呼候義モ私ハ罷歸り候上之御手當二而可相濟義御座候尤材木共外ノ諸手配ハソロソロ其御氣組被成候而毛最早別條有之間敷模樣之御座候條御勘心行可被成候數H爲何□□通用モ不相整置御案シモ可有御座候得共是迄ノ次第中々心勞而已ニ而可申越越樣モ無之漸昨日致決定則席ニ御願書等モ振替リ取立差出位ニ而延引仕候 以上

多久藩の苦心
 右は金ヶ江三兵衛が、有田の白磁臓を發見して磁器製作を創始せるより、百数十年後の出来事である。右の文書を見れば、若し多久領の陶器山が、愛に磁器山として復興することは、有田窯焼の好まざる事とて、畢竟彼等より異議を提出するか、或は又妨害の運動を起すべしとの氣分見え、多久藩に於いて頗る苦心せし様子がある。
 蓋し三兵衛をして、有田の磁礦を發見せしめ、且製作事業の監督者たる多久氏の立場としては頼るデリケートにありし事は察するに余りある。

大山新窯
 斯くて此企業問題は漸く解決して、磁器製造の手順にまで運びたりしが、數年の後又廢窯するに至りしものにて、之が藤の川内の大山新窯である。(西松浦郡松浦村の藤の川内は別なり)
 而して文政元年四月(1818年)の多久古文に依れば、陶器山仕興しの件として「仕入元尾形三右工門並多久川只吉ヨリ舊冬仕入方御斷願差上候末山元興廢ノ振合木村又四郎見渡之處」云々といふのがある。之は同所の大山古窯を、木村又四郎に依って再び復興せしものゝ如く、斯くて之れも天保年間に至つて經營難に陥り、遂に廢滅に歸したのである。
 此外同系にて杵島郡北方村西浦甕星の谷は、萬延元年(1860年)頃磁器を焼きし跡であり、なほ同地より南七八丁山越しに、唐人原と稱せら窯跡あるも、之は韓人系統のものにてはなく古来よりの日本式土器を焼きし跡である。以上を以て多久窯を終り、是より記事は立ち返りて金ヶ江三兵衛が有田鄉入を記述する。

三兵衛南川原方面へ下る
 鍋島宗藩より、陶土探求の願を許されし三兵衛は、其頃下松浦有田鄉なる南川原邊に、韓人の製陶盛んなる由を聞き傳へ、一と先づ此地を目ざして、杵島街道を南下するうち、板野川内といへる處にて、同郷韓人の製陶せる山に差かりしが、此地に滞留せしや否やは不明なるも、通路のこととて必ず立寄りには相違ない。それより彼は隠れ道より小樽に入り、大神宮山金山を右手に仰ぎつゝ、大谷道より岩谷川内に出で、そして南川原の邊り、亂れ橋(今三代橋といふ)に旅装を解いたのである。

深山の有田
 當時の有田郷とせられしは、今大山村より曲川村及有田村までをさせしものにて、それが大山村唐船城主有田氏の支配地であつた。其頃大木の宿が主驛なりしが如く、そして吉野、山谷黒川など、夫れぐれ一集落をなせしも、現今の有田町は當時全く深山幽谷にて、僅に樵者の徑路ありし位なる可く、唯隠れ道より小樽あたりへは五六の農家疎らに散在せしを、田中村など稱へしものであらう。故に陶山としても黒牟田や南川原地方が夙に開窯され、今の有田山の中にては、通路に面せる小樽と岩谷川内のみが、韓人最初の開窯地であつた。

百間窯説と亂橋説
 偖三兵衛が最初何地にて開窯せしかにつき、従来の亂橋説に反し、板野川内の百間窯なりいふ論者もある。而して彼が多久に於いての製品と、百間窯の製品を比較して、技術の風格と其多種なる百間窯の様式とが、余りに相應はしからざる觀あるも、蹴れ橋の製品に至つては、或は多久製作の連系と見るも全く首肯されぬことはない。
 或は又百間窯の古窯品が、一面相似たるものあるを以て之を武内系となすものあるも、此處は全く別系にて、三兵衛と同郷なる金江嶋出身の韓人なることは、後段に於いて之を説くであらう。此機會を以て板野川内系の各窯を記述して、記事の混雑を避くる事にする。

板野川内系
 板野川内は今の杵島郡住吉村の小字にて、有田皿山より十五六町の東方に當り、山間に入りし現今十二三戸の小村落である。此處は寛永十四年(1637年)制定されし、十三皿山の一にして、當時泉山の原料を用ひて製陶盛んなりし頃は、多くの戶敷ありしものゝ如きも、今全く廢滅して抑いつ頃よりの開窯なるか、又何れの時代に廢山に歸せしかは不明である。此處の古窯趾は四ヶ所ありて、入口の左が空山であり、右が檀場切次が窯の辻、そして谷奥の堤のりが有名なる百間窯である。
 百間窯とは、百個の室を連鎖せし故ではなく、特に長き登窯なりしより抽象的に呼稱せしものゝ如く、後年小樽にて三兵衛が改築せしものにも、百間窯の名が用ひられてゐる。

ゼーゲル發掘
 此板野川内百間窯にては、當時の韓人が青磁釉薬の耐火抗度を試焼するに、ゼーゲル(粘土耐火檢定)を使用し居りしことは、有田郵便局長原鳥臓が、殘缺發掘中收得せしもので判断することができる。
 此立体式ゼーゲルの外に、宗傅の内田窯にては橋の如く掛け渡し、共たるみ加減に依って測定する、横架式ゼーゲルを使用しつゝありしことが發見された。我が斯業界に普くゼイゲルコーンを使用し始めしは、明治二十三年ワゲネルが中途歸國の際齎らせしものなるに、彼等は既に二百七十年以前に於て此れを工夫して試みしものであつた。

百間窯
 百間窯の古窯品には、飴色釉に精巧な花三島手象嵌の皿や、鶯茶釉の剣先三島手に、底菊花刷毛目文節の皿があり、或は天目涙痕にて下部光澤なしの耳附五寸花立や、飴釉にて曲線万筋文の櫛目を掻き、化粧掛の上に呉洲にて山水を描きし大皿があり、又海鼠流しの花瓶や、刑皮釉及立浪刷毛目皿がある。
 其他卵色釉印花壺、建盞天目の筒茶碗 灰色釉のどろけ物や蛇蝎釉や桃色釉茶碗、黄瀬戸に鐵描文様、油滴天目の花瓶、化粧掛に李朝風の威描物又は朝鮮式薄青瓷があり、中には型紙を使用して地肌の上に浮上文飾を顕はしたのがある。其技術の優秀なるは勿論、後代の白磁、青磁、瑠璃、窯變物に至るまで多種多様なることに於いて、肥前古窯中最たるものといはれてゐる。

百間窯の磁器
 又磁器に於いては、彼等が従来の作風なる小高台にて、大皿などを焼いてゐるがそれは勿論泉山の硬質原料にあらざれば、不可能の製作である。中にも尺三寸鉢の高台が、僅に二寸五分徑の太さにて焼かれてゐる、それは桔梗緑の染附にて、縁猫は牡丹唐草を文し、底には狩野風の楼閣山水を書きたるが、其唐松の筆法雄健なると、雅致なるは眞に勁抜である。
 其他の染附には、地文繪六角形の香焚や、内紋機描にて、外青磁の丸碗があり。突立形三寸の火入には、松粕、竹粉、梅繪、菊繪等があり、或は千段卷形に、横書福壽繋ぎの香焚がある。又突底の茶碗には、洒脱な吳洲畫や文字書ものがあり、中には磁州窯物に見る如き、健筆な花鳥の散文がある。其外雲嗇詰の大皿や、底菊紋畫の五寸皿等がある。

檀場切
 檀場切の古窯品には、黒天目の茶碗や色釉に黒斑点の突六寸皿の底目積があり、又青茶釉の氷裂文出し茶碗がある。染附磁器には底に角福銘を書き、脇に松葉を散文せし小皿があり、ギリ書の煎茶々碗にて、恰好良き厚高台のものもある。又附高台の角皿に、古印の押文を現はして、緑紅を施せし細工の巧みなものがあり、或は葉文浮出の上に薄吳洲を掛けし中皿や、菊に雲散文繪の四寸皿などもある。

板野川内窯の辻
 窯の辻の古窯品には、染附磁器にて粗拙な芦邊舟畫の中皿や赤繪地の縁梅畫外誼染にて、廣底内牡丹文様の八角四寸皿がある。又鎬形の煎茶々碗に、壽の字を三方書せるもの、或は内青磁外吳洲にて、古雅な柳を描きし同物などがあり、此處は多く煎茶々碗を焼いてる。斯くの如く製陶盛んなりし板野川内も、今や全く廢滅して農家疎らに点在するのみ。見渡せは打拓かれたる畑一面へ、磁器の破片が秋光に輝きつゝ、往時の名残を留めてゐる。

筒江山
 此板野川内の韓人が、有田の小樽と宮野方面の筒江(住吉村)とに分窯せしもの如く、尤も筒江最初の開窯は、寛永九年(1632年)平戸の今村彌兵衛(巨關)が黒髪山に隠棲せる折、山下の此處にて陶土を発見して開窯せしと稱せられ、其後廢窯に歸したるを、後代板野川内の韓人來つて、磁器時代より此處に製造を開始せしものであらう。
 筒江山は、有田皿山より一里余り、又三間坂よりは一里にて、今は戶數十五六戸があり、板野川内と同じく武雄藩の領内なるも、磁器發祚闘係深き板野川内の分系として、後代まで毎年泉山の原料を、八萬五千斤丈け探ることを許されたのである。古窯趾は窯の辻が一番古く、次に新窯より白岩の尾先上窯、及同下窯が開窯されたのであるらしい。
 概して筒江の染附磁器には、九紋畫や根曳の松を描きし突底の茶碗が多く焼かれてゐる。殊に多きは緑地文描梅底畫にて、外青磁の茶碗である。或は小丼などの釉色と模様が、支那の古染附に似たのがあり、就中出色なるは外菊模様の雄健なる筆意を見せ、中なる底筋内へ、粗笨な山水畫を描きたるが、頗る勁扱を極めた小丼である。

筒江窯の辻
 窯の辻の古窯品には、立浪菊模様外大筆ギリ盡の四寸皿や、松竹梅六寸丼の外青磁物にて筒江長春の銘がある。又内山水繪にて外青磁の向附や、水草繪の丸奈良茶碗があり、或は底梅縁地文なる外青磁の菓子碗などがある。

筒江新窯
 筒江新窯の古窯品には、染附山水盡外青磁の丼や、雷紋詰畫の中皿があり、或は緑地文外青磁突底の茶碗などがある。 此處の窯趾は、今十間斗りが段畠に拓かれてあるが、其大窯の床堺が美しく現れて、頗る整然たる観を呈してるる。

白石の尾先窯
 此向ひの丘は、白岩の名の如く白地肌を現はしてゐる。此處の尾先窯の製品も前二窯と共通にて青磁物が多く、七八寸の丼や大皿を焼いてゐる。尤も丼は内染附にて外青磁を主とし、中に書院棕櫚畫六寸丼、矢羽詰畫突底の茶碗、外青磁内緑地文畫の望料などがあり、又丸紋畫突底の茶碗など、叩きハマにて焼いてゐるところ、全く後代作品の殘缺が少なくない。

袋吉の紀念碑
 此尾先窯が、一番終りまで繼續されしもゝの如く、明治五六年(1872年)に至つて廢窯されしといはれてゐる。此處の窯頭の高手には、記念碑が建立されてあり、それには當山再興江頭鶴太郎と刻し、横に慶應元年(1865年)伊萬里田畑と記されてある。伊萬里有田町の陶商袋吉(江頭鶴太郎)が、此白岩に窯仕込をなして、再興せしめし頌徳碑であらう。

筒江の青磁釉原料
 窯の辻の隣なる山を登れば、其奥に三間四面位の洞穴があり、世俗に上藥穴と稱せらるゝも、鐵分多き褐色石にて、筒江の青地の釉料は、全く此處より採掘せしものらしく、廢坑後は此坑内を利用して、常習者の賭博場にせしといはれてゐる。

水尾の窯の辻
 路序でに同じ住吉村の水尾窯を記述せんに、此處は三十戸許りの戶敷があり、有田より半里位の行程にて、筒江山と殆んと中間の村落である、此地の山畑なる窯の辻と稱するは、筒江よりもなほ後代の開窯らしく、全く完成期の製品なるも、開窯廢窯ともに詳でない。此處の竹林を漁って漸く發見せる殘缺は、多く柿右工門を狙った作風である。
 それは泉山の原料磁器にてギリ繪の小皿や、杢甲緑大白に、紗綾形を浮出せし外、ギリ粕の七す皿があり、又柘榴書五寸の淺井や、古染附尺口皿或は梅底緣ギリ書突底の小皿などがある。中に深彫のある濁し手の破片を見出せしが、共釉相は筒江の同作品よりもなほ進歩せし作風であつた。
 昭和七年頃此地の前田龍入なる者、此水尾街道に一問窯を築造し、天草石を原料として磁器を製作した、それは染附の中附(向附の深形)が重なるものであつた。そして一ヶ年許にて廢窯し、同九年有田の山本米司又共跡に改窯して、泉山の原料を以て今電機用のノップを製作しつゝある。

小樽の古窯
 次に板野川内韓人の分系にて、最も古き有田山小樽古窯の古窯品には、飴色釉や灰色釉の、中皿や茶碗が多く、又鐵地に白化粧や刷毛目を施せし茶碗があり、或は玳玻盞や朝鮮式薄青瓷等がある。中に高の字を銘したるは、高麗の一字を取りしものか、又は其韓人中高なる音の銘なるか不詳である。就中珍奇なるは此處の窯趾より、古代式の縄目土器が発見されしことである。
 此處の染附磁器は、高台の小さき作風など板野川内其儘なるが、就中皿などの模様に至つては質に拙劣の限りを盡してゐる。而して中に立派なる染附物をせし殘缺あるは、想ふに文化七年改窯せし後期時代の作品であらう。此處も板野川内山と同じく、寛永十四年制定の十三皿山の一成つてゐる。之より記事は再び前の本筋に戻り、金ヶ江三兵衛が行動に入るのである。

亂橋の同郷人
 三兵衛が亂れ橋にて開窯せしことは、金ヶ江古文書にも「亂橋と申處へ暫被置居付右在所野開仕日用相辨候但右唐人罷在候處高麗金江と申處中の産に御座候由」とある。之に依れは南川原方面にも亦、既に三兵衛と同郷韓人が住ひ居りしものゝ如く、思ふに板野川内韓人の内より此處に移轉し來りし者であらう。

肥前窯韓人渡来の始
 一体肥前地方に於ける陶山の其由来を説くに當り、まづ文祿年間戦後歸陣の節、領主に帯同され來りし韓人の陶工、云々さいふことが紋切形に成ってゐる。然し最初釜山へ退陣せしは文祿三年にて、同五年十一月改めて慶長元年の正月が、前役の陣であるらしい。要するに多くの陶人が朝鮮役の開窯のみ頭にコビリついてゐる風がある。蓋し戦役中とても、度々歸船の重荷代りとして便乗せしこざは申すまでもなく、況んや我肥前の國とは、僅かに一海水を秘め對土なれば、尚夫れより以前に於いても、渡來せる韓人ことも考へねばならぬ。

テンシヤウ
 佐賀地方にて物の始まりをコーチウさんからさいふ、それは隆信の祖父家兼入道剛忠の事であらう。我有田地方にても最初といふことをテンショーといふ方言がある。例せば何某がテンショーから勝つたとか、或はテンショーから割引されたなどゝいうてゐる。若し之が此地方の開窯されし始めなる由緒語と定義を下せば、天正と解されぬこともない。而して此有田鄉の製陶創始を、天正にまで繰上ぐれば、文祚より二十年古き以前の開山といふことになる。
 然る時に於いて、黒牟田なる文祿二年の韓人墓碑も、内野山の天正十六年の高麗神祠も、決して怪しむに足らぬであらう。故に板野川内の韓人が 秀吉の朝鮮役以前、既に渡来し居りしやも計られぬ、又南川原より黒牟田及小溝地方の韓人は頗る古き渡來者の如く思はれる。

清六の辻
 斯くて三兵衛は檀れ橋なる清六の辻一の窯にて開窯した。それは三尺五六寸巾の小さ登窯を築きしものにて、後年まで今の鐵道線路下がりの勾配に六七間ばかり残存してゐた。又清六の名は其後來りし清六なる韓人が、此遊に來つて製陶せしより其地名となりしといはれてゐる。
 此處の古窯品には、飴釉や灰色釉にて、縁反突小皿の殘缺があり、中には其皿の眞半面だけは薄き鐵釉を掛けしものがあり。又白の化粧掛の上に、鐡釉にて粗雑な文飾を現はせし茶碗がある。
 或は天目茶碗もあるが、其無釉高台が半月形に成りしものがあり、臺輪の中に縮緬皺を現はしたのがある。又突底の小皿に鐡釉掛のものもあるが何れも底にて三つ目積に焼いてゐる。

清六の高麗神
 線路を越て、此向ひが二の窯趾にて、此處の丘阜に高麗さて、忍草の密生せるサネ石の小碑が二つ並び、片方のが高麗神と彫られてある。蓋し此碑は後代の建立らしく、元のは其傍にある小さき自然石である。此處の勾配か考へて、此碑のある所は登窯の頭に當り、例の窯の神として祀られしものらしく、今之を韓人の墓碑などと見るのは誤解であらう。

三兵衛清六を去る
 此處は先住韓人の製陶せる小溝南川原の間に介在せる所なるが、此邊にては良き原料を得ざりしか、又は燃料の乏しかりしに依るか、或は何かの理由により三兵衛の意に満たざるものありしが如く、幾許もなく彼が立ち去し跡を、他の韓人來つて又此地に築窯し、或は擂鉢の如き物まで焼きしものであらう。蓋し三兵衛の築窯が頗る小形なりしより推考して、彼が假住的の試作なりしことは申すまでもない。

磁礦發見の一説
 清六を去りし三兵衛は、元來し道より板野川内に移轉せしものと推定される、それは其處の韓人か、三兵衛と同郷人のみの集団なりしことが有力なる理據である。而して従来の説にては、彼は或日亂れ橋にて、有田川の水面を熟蔵せる折、明礬の匂ひを感ぜしより、此奥に必す磁石あることを認め、流れに沿うて行せしころ、果して河底に磁石の破片を見出し、遂に泉山まで行き盡きて磁礦(通稀石場)を探見せしといふのである。
 蓋し三兵衛は、元來優良なる陶土(くろもの土)を發見することが目的にて、當時容易ならざる磁石製作を志し、其原料を探索せんとの念願を抱き居りしとは認められぬ。而して未だ一鑱も試みざる石英粗面岩が、雨露の爲めに破砕されて、流れ来る道理もなく、又三兵衛の嗅覺官能が、如何に鋭敏なりして、其下流に於いて明礬の香を嗅き得しとは請取り難い。況んや此邊より泉山磁礦までは、三十町位の流域を溯行せねばならぬところである。

泉山磁礦發見
 吾人の推測にては、三兵衛は板野川内に落つきて、其界隈を探見中、今兩郡の堺なる堺松の近傍に於いて、偶然此の一大磁礦にぶつかり見るの外ない。有田深山の幽谷中に、第三紀新火山岩が、永年の硫黄瓦斯の作用と、温泉作用に依って、噴火後磁石化せしものにて、其粗面岩の一部が白く露出したものならんと察せらる。之に逢着せし三兵衛は、さては陶器製作の化粧料や、或は其刷毛目などに適す可きか位の考へにて、之を採取せしと見るのが妥當であらう。
 彼は之を板野川内に持踊りて試焼せしところ、質分甚硬度なることを發見せしより、茲に始めて天然の單味磁石なることを識り、是より種々製作研究の結果は、やがて硬質なる磁器製作の完成となつたのである。而して此製作研究が、三兵衛一人にて完成せしか、或は又板野川内の同僚と協力結果なりやと考ふる時に、著者は必ずやそれは協力的に完成せして推断せざるを得ぬ、其理由に就いては後段に於いて説くであらう。

境松山林の地域
 此發見されし磁礦は、今の西松浦郡なるも、杵島郡との堺目にて、所謂堺松と稱する山林五十二反二十一畝宅地一畝十五歩の地域と成つてゐる。蓋し此處を泉山と稱するは、磁礦發見後名つけしものにて、當時三兵衛が發見せし個所は、何れなりしや既に採崩されて、其方角さへ知るに由なきに、今の石場の入口に、三平坑といへる古坑趾あるを、其遺跡の如く早合点する人もあるが、之は後代の肝煎納富三平が支配せし土坑跡である。泉山磁石は石英、長石及雲母より成り、それに硫化鐡を含有してゐる。又之を浸出すれば、小量の明礬分があり、比重は一・五乃至二・七にて、耐火度はゼーゲル錐十七番乃千四百八十度である。尚一等石は膚理密にして、白石の表面に虹狀重線の淡黄色が飛びとびに現はれゐるも、手に触るれば白粉の附着するものがある。
 泉山磁石を、一等より七等まで選り分け、其七種を合せし均成分と、そして一等及三等石の成なるもの左の如くである。

泉山磁石分析表
泉山磁石平均分析表
珪酸 78.63
礬土 14.57
酸化鐵 0.46
石灰 0.36
苦土 0.19
加里 2.24
曹達 0.66
灼熱減量 2.63

泉山一等石分析表
珪酸 80.39
礬土 13.92
酸化鐵 0.39
石灰 0.03
苦土 0.04
加里 2.72
曹達 0.56
灼熱減量 2.40

泉山三等石分析表
珪酸 80.05
礬土 13.10
酸化鐵 1.01
石灰 0.06
苦土 0.02
加里 2.69
曹達 0.53
灼熱減量 2.70

 釉薬原料及分析表
 此處には又、第三紀の噴出岩が、礦泉作用の爲めに、分解されし其程度に依つて、前記素地料の外、釉薬料の原石が存在する之が上藥坑と稱せらるものにて、分析成分左の如くである。

珪酸 61.97
礬土 12.92
酸化第二鐵 0.39
石灰 1.59
苫土痕跡加里 4.17
曹達 1.12

天狗谷に於て開窯
 斯くて三兵衛は、此磁石發見の儀を多久安順に上申し、其許可を得て有田山中なる、上白川溪の天狗谷に本據を構へ、彌々磁器製造に着手することに定め、舊地多久にありし工人二拾余名を呼寄せる事となつた。此處の消息を推考するに、資金の如きも多久氏よりか、或は其執成しに因つて宗藩より支出せしものであらう其後彼が宗藩へ届出でたる書立なるものがある。

宗藩への書立
皿山金ヶ江三兵衛高麗より罷越候書立
一某高麗より罷渡數年長門守様へ被召仕今年三十八年の間丙辰の年より有田皿山之郷に罷移申候多久より同前に罷移候者十八人彼者共に其子に而御座候皆々車抱申罷在候野田十右工門殿内之唐人子供(唐人子とは韓人なりし自分の製陶弟子といふ意味なるべし)八人木下雅樂頭殿内唐人子共二人東の原清元内之唐人子三人多久本皿屋之者三人右同前に車抱罷在候
一某買切(前貸金にて年雇切の者か或は幼年より育て上げし年期者か)之者高木權兵衛殿内之唐人子四人千布平右工門殿内之唐人子三人有田百姓の子兄弟在伊萬里町助作合十人所々より集り申罷居候者百二十人皆々某萬事之心遣仕申上候
巳四月二十日 有田皿山
三兵衛尉印

元和二年の發見
 此書立に依れば、今年三十八年の間丙辰の年より云々とあるは、彼三兵衛が三十八才の時にて、丙辰は則ち元和二年(1616年)である。而して此書立を差出せしは巳とある故に、翌三年の四月二十日に當つてゐる。此前後の消息より考察して、我邦の白磁を創製されし泉山磁礦の發見は元和二年(1616年)に相違ない。是實に紀元二千二百七十六年にて、西暦千六百十六年、明の神宗の萬暦四十四年に當り、今年昭和十年より逆算して三百二十年前の出来事であつた。

此書立の中に
、皆車抱へ申在候とあるは、元三兵衛の轆轤弟子にて、何れも一通りの練習をしものらしく、そして銘々自己使用の陶車を持せしものである。此總勢百二十人とあるは、細工人並に手傳ひ人夫(最初は畫工などはなかりし見る)の外、石採掘夫など、皆此中に含まれしと見る可く、蓋開拓に相當大勢の人夫を要して、製造を開始せしこさが察せらる。

直茂始て奨勵す
 最初上白川の天狗谷に窯を築きしは、薪材の豊富なる便宜さ共に、白川の清流を愛せしものゝ如く、金ヶ江古文書にも「第一水木宜」とある。又「太守様珍敷事に被思召」とは宗藩主鍋島直茂の上聞に達せしところ、是まで川原屋敷や嘉瀬を始め、近くは川原小路の製陶にさへ、それ程闘心せざりし直茂も、白磁の製作は本邦にては珍事とて、産業上獎勵することゝなり、それも従来の關係より、事業の支配を多久氏へ命じて管掌せしめしものであらう。(此書立を差出せし翌元和四年に直茂は卒去してゐる)

三兵衛の妻帯
 同古文書中に「長州様(多久長門守安順)より其後宿在付下女下し給はり夫婦の睦を致し」とある、單に安順より下女を貰ひしと見るのは早計である。當時は既に百余人を召使ふ程の三兵衛に、端女位なら此邊より娶り得べきも之は安順の計らひにより、三兵衛も獨身にては不自由なるべしとて、勿論相應の者を多久にて見立て、宿在付といふ名義にて妻に差遣はしたるものにて、此時の上申書に長州様御媒約と書くは失禮なりと憚り、態と卑下して下女を給はり云々と書立てしものらしい。

泉山磁の切拓き
 又同古文書中に「然れば土場の義最初伐開候に付て三兵衛支配にて段々伐出致繁昌伐子四拾人組にも相成廣々に掘崩候ところより爲冥加御運上相願年々相納候今御盆に相成居候最前は右土代銀無之伐賃丈にて引取候」とあるは、三兵衛四拾人の人夫を雇入れて、石瘍を切開き其支配となり、各窯焼よりは冥加金として、運上を取立て宗藩に納入し、三兵衛は只伐賃にて運上などはなかりしも、子孫に至つては徴収さるゝに及んだのであらう。

天狗谷最初の焼成品
 三兵衛が最初天狗谷にて製作せしとも見る可き磁器中には、何分搖監時代とて、色相頗る不純なものがある。それは磁礦の上皮部なる、或は天然ギチの如きものにて製作せし爲か、又硬軟何れに過ぎしか、不明なるも、蓋焼成技術の未熟のためであつたらう。又積具のトチンの如きは、原料の軟質なりしため、弓形にくねりしものがあり、開窯當時の製作に就いて、如何に惨憺たる苦心が拂はれしかを察するに余りある。それが追々良質の採石と、焼成法の練達に依り、途に今日の有田焼なる基礎を作り上げたのである。
 此初期の作品と見る可きものに、陶器の如く酸化焰にて焼きしが如きものありて、釉面未だ光沢を現はさす。又中には淡黄色に氷裂を生じて、恰も淡路焼に似たものさへあり。而して呉洲の如きも發色未到にて、鐵彩と見紛ふものさへある。之は百間窯にても發見され現象にて、創製時代に於ける當然の過程である。蓋し後代に於いても此還元焰の焼成法に、攻め焚の不充分なるか、又は火廻り惡き積座などにては、此現状を呈すること珍らしくない。

天神の森創始の虚説
 然るに爰に創始窯と稱するも、なほ前記の如き失敗の形跡もなく、完全に焼上げてゐるものは、獨り南川原の天神の森窯のみである。故に此一事に徵しても此處の磁器獨創説は全く談たるに相違なく、勿論天狗谷や百間窯などの製法を習得して、而して後に製作しことが歴然として證據立てられてゐるのである。

天狗谷製品
 天狗谷製磁の種類には、大小食碗や壺形の花立最多く、次に皿、鉢、丼、水入、油壺、香焚及根附物などがあり、そして焼過ぎのめ、釉面に縮緬のものさへある。又皿井等の高台小さきは、韓人達が陶器時代からの製作慣習しく、武雄、藤津、伊萬里、平戶、大村の各系が共通的に此作風を踏襲してゐる。蓋し彼等は器物の高台を廣くして、裏底に針目を支ゆる技法などは、未だ知らざりし故であらう。
 最初此處にて創製の際は、白地のみを焼きしもの如く、長崎の支那人に相談して、彼等の手を経て始めて呉洲を入手せしより茲に染附なるものが出来たものらしい。而して其模様に至つては磁器に當てはまらざるもの少からず、中には全然陶器にのみ用可き文飾を、其儘に試みし奇体な圖案が施されたのがある。
 後年小樽の新窯でさへ、呉洲にて波刷毛目を現はし、又底にも六角紋様を、刷毛もて交飾せし食碗があり、或は吳洲にて暦手を描いたのさへあつた。此處の天狗谷や天神山にては、茶碗の外部に天目釉を擬したのがあり。(應法の柿の谷にも此種があつた)同器に飴色釉を施したのや皿などに呉洲にて結び鳥を描きしものがある。蓋し天狗谷古窯の代表模様としては、丸茶碗に描きし穂薄の如き柳繪のものにて、畫風粗談にしてる古雅である。

混合殘缺
 天狗谷の殘缺場には、前記の初期作品の中に優秀なる完成期染附や青磁などがある。之は隣窯なる中白川窯の殘缺を取雜せしものゝ如きも、取敢へ現場の値に記述すれば、染附草繪散らしの小徳利や、三方割外壽の字散文二段描詰を始め松竹、桐、丸紋書及簡素なる山水等の九碗があり、殊に松竹散らし書の同物などは無釉高台である。そして一体に初期品と見る可きものは、渲染の手法が頗る不熟なものが少なくない。
 一面には黒蕎麦釉にて、内太白の高臺輪の茶碗があり、染附線愃染筋入芦の葉にて、碗形の向附がある。或は釉裏紅の茶碗や、支那古染附の如きを略せる小丼があり。又小瓶子に形をせ青磁の如きは、勝れたる發色を呈し、且鐵足を現はしてゐる。其外草色青磁にて原形を止めざるも、八寸の丼らしきが、唐松模様に腰唐草浮彫のる精巧な出來榮がある。

盗伐防禦
 藩制時代までは、此古窯の前面に御山方なる役所ありて、白川谷と天狗谷裏山谷の三面なる山林盗伐を監視したのであつた。それは製陶地に於ける貧民が、金銭を得る方法としては、一荷にても薪材を採る事が、最手取早き行動なりし故からである。之に封し山方役所は、天狗谷と隣窯中白川山に殘缺あるを幸ひ、共破片を集めて悉く天狗谷の山林中へ散布せしめ、夜中盗伐者の侵入を防禦せしものと推考するの外ない。故に前記の如く、創成期と圓熟期の製品破片が、此山中に混合されしものであらう。

中白川窯
 中白川の古窯趾は、天狗谷の隣地な秋葉山麓である。此處の創始期は不明なるも、勿論天狗谷の分系と思はれる。古窯品は圓熟期の優品少からず、呉洲の色など殊に勝れたものがある。それは茶器、香爐、筆立、盃臺、青磁釉の丼類があり、或は古染附風の緑吳洲塗皿や、祥瑞式九枚書の盃洗がある。又浪鶴外誼染畫の蓋物や山水繪の八寸皿等何れも本格物にて、就中楓繪の三つ足附菓子器等は、頗る後代の作品であるらしい。下白川窯とは既に明治時代迄使用された、所謂白川登にて今深川本家の別荘路と成つてゐる。

我邦磁器の祥地
 要するに、我日本に於ける最初の磁器發祥地は、此上白川窯則ち天狗谷を措いて他にはない。他山に於ても、此白磁製造を聞傳へて大いに羨望し、領主や邑主は、只管其製法を習得せしむると共に、之が創作を奬勵すること頻りなるより、彼等は如何にもして此原料を發見すべく、各自領内の山野を漁り、漸く似寄の原石を探見し得て焼上げたるは、薄鼠色の半磁器にあらざれば、色相のみ成功して成器をなさゞる軟質磁器であつた。而して之より白磁の製作熱は各地方に勃興し、恰も強力なる植物ホルモン質野草の繁殖が、従来の雑草を歴倒するが如く、黒物(陶器)製作に取つて代つたのである。
 無論當時に於いては、天然産なる單味原料を發見するにあらざれば、到底磁器は製し得なかったのである。若し彼等が最初より、珪石と長石及磁土との調成法に依って、白磁製作の知識ありたらんには、朝鮮役後我邦に渡來せし多数の韓人中、一人なりとも之を試みてあらねばならぬ。然るに敢て之なかりしを見れば、韓土の磁器も、無論此單味原料を得て、焼成せしものと見る可く、此天恵物に逢着せざれば全く製作不可能の時代であつた。然る時に於いて此天然産の大磁礦を發見せしは、三兵衛が探索の熟誠に依るも、又彼が大いなる僥倖なりしといはねばならぬ。

磁器製造の各窯起る
 之より板野川内と、小樽及岩谷川内高麗山の韓人等は、皆陶器より磁器製作に轉換され、同時に黒牟田、南川原、小溝方面よ戸杓へ擴張された。又板野川内よりは筒江に分窯し、有田山にては天狗谷より天神山や稗古場窯へ開窯し、岩谷川内は高麗山より猿川、山越、長吉谷に壙がり、中樽は小樽古窯より山小屋小樽新窯、舞々谷へ展開し、泉山は大公孫樹下や枳丘、大樽は大樽古窯などの製磁窯が開築された。
 なほ後年長期に涉つて焼成されし古窯には泉窯、泉新窯(年木谷窯)中樽窯、西登窯 東登窯(大樽窯)白川窯(下白川登)白焼窯、谷窯、稗古場窯、岩谷川内窯等がある。此外にも幾多の古窯ありたらんも、元来此地は地域狭隘にて、斯業の發展は窯趾の如きも宅地や道路となりて、漸々湮滅せしものと見る可く、前記の内現今其形骸を存して使用されつゝあるは、中樽窯の幾間のみと成ったのである。記事の序を以て前記古窯に於ける一部の殘缺を記述するであらう。

枳藪丘
 泉山の枳藪丘の古窯品は、概して高台小さき皿類が重なるものにて、多くは底に廣筋を廻はし、中に呉湖にて網繪や蔓葉模様、又は笹に鬼や、笹に案山子などの繪柄があり。或は枝に雲花模様の六寸皿、及捻菊形の中皿がある。其外雲繪丸小皿の如きは、薄青磁かの如き厚釉が施されてあり、面も細工模様何れも頗る幼拙なるものである。

大公孫樹下
 此處より少しく隔てし辨財天社には、枝葉の繁茂天空を掩ふ大公孫樹(根元の廻り四十尺高さ百二十余尺あり、大正十五年十月天然記念物指定)がある。是こそ千年以前の深山に産せし有田山の生へぬぎであらう。此大公孫樹下な境内を修理中、不圖窯趾を發見せしものにて、中より原形五寸程なる破損人形を強掘せるが、それは結髪せる韓人其儘なりしといはれてゐる。
 此種の小人形や、佛像又は猿の如き、善く韓人が造りしものにて、天狗谷の發掘品にも、婦人の○部を現はした彼等の戯作物があつた。而して今埋没されてゐる此古窯丈が、獨り勾配緩なる土地をトして築造せしは、甚珍らしき事なるが、想ふに此地が石場の附近なると、一面傍なる年木谷川の水確を利用せしためかも察せらる。

韓人築窯の地勢
 従来の慣例に依れば、韓人の築窯地勢なるものは、凡て高丘地や山麓などが多く、それは積込む器物又は燃料等の運搬よりも、窯出しの際に於ける破損物と、積具の焼却物を棄つる為に、必ず谷間を要しものにて、そして當時は其谷が物原に埋まりても、別に取片付けの苦情さへなかりしものゝ如く、此處にも彼等の無精行爲が露はれてゐる、蓋しそれは合理的といはねばなるまい。

山小屋
 山小屋の窯趾は、中樽天神社に並べる高地にて、今畑地に成つてゐる。此處の古窯磁器には、垣笹畫小縁淵の中皿や、底筋内蒲公英畫綠切縁淵の中皿があり、廣底筋內枝花畫の丸小皿や底筋模樣桔梗廣縁の手塩皿がある。或は天龍寺靑磁に、種々の浮彫や毛彫を施せし破片があり、又高台内無釉にて、内薄掛外濃掛青磁の茶碗があるが、何れの模様もいる幼拙である。
 殊に概して高台小さく、或皿の如きは底目にて重ね積に焼かれてゐる。又此處の特製品に錆地の眞底に菊座だけ施釉をなし、其上を呉洲にて粗雑なる菊割を描きし大小の皿類がある。而して一面には後代製品の上呉洲を用ひし小丼や、韲物碗などがあり、又コバルト料素書の小ぶく茶碗にて、釉色の光澤鏡の如き逸品の破片などがある。

舞々谷
 舞々谷の古窯品には、染附四方割龜底畫の八角形六寸丼や、剣先割ギリ外渲染の八角形丼があり、又外山水畫麒麟底の奈良茶碗や、三方茄子なる反形の同物がある。或は腰波畫墨彈きの重箱や、腰シノギ形割描にて、中外渲染上は山水の丸物碗等あるが、何れの製品も、本格的古伊萬里物である。中に舞々谷山口造とあるは明治の初年山口一が焼きしものである。

大樟古窯
 大樟古窯は、今三空庵の墓地と成りて、全く湮滅に歸してゐる。此の古窯品には、青磁の目積茶漬碗や、又蛇の目積の同物があり、後代作には種々の古伊萬里染附にて、優秀なる物が製造されしといはれてゐる。創業は詳ならざるも、此處は芥屋といへる大窯燒(藤井寛藏邸前の宅地にて諸隈氏)が、代々一手登にて製造せし由にて、今に大地藏尊上部の墓地に立派なる古碑が多く建立されてゐる。中には寶暦六年六月二十日(1756年)諸隈伊左工門などの墓がある。

天神山窯
 稗古場天神社の丘を頭として、登つてゐたのが天神山の窯である。此處の古窯染附には、縦淵の六寸皿や、亀甲模様の七寸皿があり、何れも粗拙な文様が描かれてゐる。或は突底の茶碗や、内染附にて外は鐵砂釉なる、六寸の繰鉢があり、又古染附の鳥畫尺口の鉢や、其他瑠璃の濃色は淡色の七寸皿がある。
 此處は又砧青地を多く焼いてゐる、それには緑に唐草模様の線彫ある破片があり、或は陶器風に飴色釉や天目釉の茶碗を製せるは、天狗谷と同技巧である。又鐵砂釉の中には、無光澤物があり、錆鐵砂には緑付七寸の反丼や外鎬形の丼がある。
 其他辰砂や釉裏紅なども、發見されしといはれてゐる。
 彼の内田より九百余人を引連れて、此稗古場へ轉住せし百婆仙一家の窯は、此天神山ならんとのあるも詳でない。而して三兵衛も又稗古場に於てゐることは、金ヶ江古文書にも「右三兵衛儀於稗古場山釜を焼」云々といふのがある。或は彼が上白川と掛持に焼立てしものか不明である。蓋し後世何れの窯にてか、其證とすべき破片が發見さるゝ事なしとせぬも、今稗古場窯の物原が掘取られし断面には、多く本格的の古伊萬里染附が現出されてゐるのである。

稗古場窯
 稗古塲窯の古窯品は、天神山よりも數段の進歩を示し、中には古伊萬里物の代表的作品があり、或は明治初期時代の花々しきコバルト染附がある。其殘缺の一部には、輪違ひ切透し緣水仙繪の七寸皿や、鳳凰畫に外龍畫の丸茶碗、蘭畫廻し外渲染の春酣皿、山水繪突底形の茶碗、竹畫の蠟燭立等がある。
 又寳袋畫外渲染の丼や、七寶文型打のなぶり形角皿があり、貝吹龍宮畫六寸の刺身皿に、墨描せる波の上を、海碧交せ呉洲にて薄渲染せしものがある。或は唐山水や大筆山水等に、面白き筆意を見せし深皿などもあり、就中鳳凰繪二重描雲詰の巨器の破片に至つては、後代の嘉十燒らしい逸品であつた。

高麗山古窯
 岩谷川内の高麗山は、南川原方面の韓人來つて、陶器を焼きしといはれし窯跡である。當時の古陶殘缺には灰色釉や、飴釉又は天目茶碗などありし由なるも、開拓の際多く取除けられて、其物原の跡は、今雪竹工場の下に突込まれてゐるらしい。而して今現出する殘缺は、山裾方面の磁器のみである。
 中には軟釉の細かき氷裂を顕はせし半磁器にて肩附形耳付の壺があり、それが高台の釉薬を剝取らず、朝鮮式に目砂を敷いて焼いたのがある。此韓人の窯跡へ副田喜左工門が開窯し、それが宗藩の御細工屋を創設せし鍋島焼の發祥地にて、尚其外にも種々の人に依つて製作されてゐるらしい。
 中には天狗谷風の染附柳水畫の丸茶碗があり、又見込筋內草水畫、緣筋九紋畫、緣淵獅子畫等の中皿があり、或はかすり山水畫の五寸皿や、緑淵瓜畫の小皿がある。又山水畫や奇抜な松竹梅畫の突立の茶碗があり、稚拙な細を描きし徳利などもある。特種の物には突立形にて、三寸程の厚茶碗五方鎬形に削り、其間に高麗山や香席山等、達筆に呉洲書されたのがある。
 又内縁と外に天龍寺青磁を施し、底に染附を描きし小井があり、或は鎬形の厚茶碗に、八方福を書きしものがある。一番多きは白地厚手の丸茶碗にて、初期製品らしき無釉高台内には、縮緬皺が出来たのがある。中に頗る珍重されしは、染附の中に釉裏紅の三つ星を文飾せしが如き破片であつた。

山越古窯
 山越窯の古窯品は、高麗山よりも後代らしき製作である。それは底筋に、立棒割梅散らし畫七寸の丼や、梅花に松葉散らし畫の小丼があり、又山水書の食碗がある。或は四寸の火入に光琳風の梅書を描き、縁筋に青繪薬を用ひてゐる。
 又白にて蓋撃子(蓋茶碗)の薹らしきものがあり中にも網畫の結目に大筆点をうちし茶碗や、底描に割模様ある六寸皿などは、勝れた出来栄えであつた。

猿川窯
 猿川の古窯品は、前二窯より猶一段進歩せる作品多く、それは染附着け葉牡丹の丼や粗網畫の丸碗又は縁筋粗山畫のひ碗がある。
 その中に底描に岩へ菊をあしらひ、岩には大海老が乗上ってゐる奇想的の七寸皿があり、或は蛇籠模様や面白き龍畫の中皿の外、同手の楓に鹿畫も雅致あるものであつた。就中勝れたる濁し手の破片があるのは、無論隣谷なる辻の石を使用せものであらう。

長吉谷窯
 拓き路の左手山裾に長吉谷の窯趾がある、古窯品は皆古伊萬里染附の本格的製品にて口物や丼類よりも、七八寸以上の鉢類が多く焼かれており、そして模様は、概して支那の古染附を模してゐる。中に牡丹葉繋ぎ書、観世水書、龜畫及草花繪の如きものがあり、或は緑のみ古染附模様にて、底の中央には、淡雅なる水仙の一束を畫き、其脈線を美しく墨弾きせしものがある。
 又古染附繪縁淵の丸本皿や阿蘭陀人物畫の丸本茶碗などがあり、或は一種壺の如きが内部丈施釉されてゐるものあるは、蒔繪か七寶料の素地なるが、又はカルボイ(外部を藤蔓などにて網み保護せるもの)なるか不明である。其他突立形火鉢の破片の如きに、巧みに眼象(猪の眼に象りし枠の形)をつけしものがあつた。総じて此處の作品は、細工頗る上手にて、皿鉢類の底裏には多く針をあてがひ、そして高臺内の弘き後期完成品である。

有田皿山の發展
 之より又前述の続きなる、三兵衛時代の本筋に移る。斯くの如く有田山磁器製造の發展に、上は杵島方面より、下は有田郷界隈は勿論、其他諸々の陶器山より移住し來り、或は道路を作り又は山溪を伐り開きては、そこはかに開窯する者、彌多きを加ふるに至った。なほ是に従事する工人や、商人など蛸集して、忽ち繁昌の工業地となりしが、此中にて矢張勢力を有せしは、金ヶ江一統であつた。

金ヶ江一統
 金ヶ江一統とは、板野河内韓人族三四十人ありて、此中より先に磁器完成に就て、三兵衛と協力せし功労者の代表たるべき九人を選び、彼と共に十人の者が何れも茂辰代より多久氏の名被官(役義を勤めざる被官)とされ、小禄ながら一様に扶持米を興へられしと同時に、又最初にみな金ヶ江姓を許されたのであつた。尤此内一人徳永姓を用ひし者丈が、金江嶋以外の土地より渡來せし韓人に相違ない。
 従來金ヶ江一統を、悉く三兵衛の家族と見しは大いなる謬見にて、僅かの間に三四十人といふ大家族が、卒然として繁殖する道理はない。抑三兵衛が寛子といへるは、たゞ興助左エ門(二代目の三兵衛)と、清五左エ門の二人にて、他は皆三兵衛と同郷の金江嶋出身であつたらしい。
 猶此邊の消息は、金ヶ江文書にも「元来金江と申所の者は皆金ヶ江と名乗り釜焼方へ手傳仕候者數人被相選金ヶ江氏血脈の者には無之候得共一類同前應に付頭取の内拾人金ヶ江氏へ被召成長門様へ御預の末御被官に被相成下」云々とあり。之に依れば、最初磁器の完成を研究せし韓人達は、皆天狗谷に來つて協力し、そして共緑者や他の同郷人は板の川内にて製造せしものらしく、要するに此仲間にて三兵術が牛耳を執りしには相違ない。
 別の同書に「三兵衛子共孫共段々繁昌仕候處何れも不殘御被官に被召成」とあり。又「凡仲間三四十人斗の内右三兵衛身近き我々先祖拾人被相選其末被官」云々と記載されてある。第一文の一類同前應へとは、同郷の者にて殊に協力せる功績を述べしものの如く、長門様へ御頃とは、磁器を焼く事となりて、それ等韓人の支配を凡て多久氏より管掌せしをいひしものなる可く。第二文は、三兵衛及吾々子々孫々段々相殖へ、それも代々御被官に被召成と解すべく。第三文は、凡仲間大勢の内、三兵衛が身近くに働きし者、換言すれば傍にて協力し、吾々の先祖九人をと解すべきものにて、此第二、第三文は仲間十人の子孫より多久氏へ上申書中の文句である。

鶏籠山下の金江島
 茲に朝鮮国忠清南道公州郡の鶏籠山腹に、金江島と稱する陶山ありて、當時盛んに製陶せしものの如く、今此處の製品とて、寫眞石版にて掲載されし物と對照すれば、刷毛目や製碗などの手振に於て、百間窯の古窯品なる或者との説がある。果して然らんには、彌板野川内の韓人が、三兵衛と同郷人なることを立証するものとすべく、故に彼が亂れ橋を立去りて、再び板野川内に来りて足を止めしは、爰に異邦に於て十数年振に、同郷人の親しみを味ひしものと解したい。
 而して三兵衛と協力せし此九人の者が、彼と高下の不同なく、扶持米を給せらるゝに至りしも、磯磯發見に就いては何分三兵衛の偉功なるを以て彼が石場の支配者となりしは當然であつた。要するに最初板野川内にて研究し、次に上白川天狗谷に移りしものにて、此理由に基つき、板野川内は武雄藩の采邑なるも、宗藩直轄地同様に採石を許さるゝことゝなり、なほ其分窯地なる筒江山まで一定量ながら又特権を得たものらしい。

金ヶ江姓
 板野川内の廢窯期は詳ならざるも其後有田皿山や南川原方面に移轉せしもの如く有田には金ヶ江姓を名乗るもの頗る多く、又南川原地方より、南川良原へかけても少なくない。而して岩尾姓谷口姓も韓人系と稱せられ、其外諸隈姓にも同族ありとの傳説あるも、其何れの系統なるか詳でない。

百田姓
 百田姓は、武内より移轉せる深海系の韓人と稱するも、眞手野なる圓楽寺の過去帳に依れば、早くより有田の檀家に百田姓があり、而して此寺は真宗にて激派を異にしてゐるのである。若し深海系ならんには武雄廣顧寺の關係上、此處の桂雲寺か、伊萬里の圓通寺か必ず臨濟の檀徒であらねばならぬ。察するに百田姓は元武内韓人の一派にて、當時より既に眞宗に歸依し、圓楽寺檀徒なりし者が、有田へ移住せし陶家であらう。

有田皿山の地勢
 有田皿山の地勢たるや、新火山質なる山嶽に抱圍されし溪間にて、東方は峨々たる英嶽屹立し、北は蛇頭、秋葉の連山より白川谷の峯重疊し、霊岳黑髪は其後背に聳へてゐる。南は大神宮、釜山を仰ぎ、西は象頭山、祇園山相亘りて、金比羅山さ對立してゐる。此深林幽溪中羊腸たる徑路を辿りしも、茲に富源の大磁礦發見されてより新に通路が開築されたのである。

有田の通路
 當時の舊通路なるものを推考するに、杵島郡街道堺松の峠を越えて、隠路より今の工業試験場橫の谷路を経て小樽に出で、中樽よ八幡島を経て八幡社の前を沿ひ、桂雲寺裏の山路を登り、金比羅山の後なる薬研川を下りて猿川に出で、此處にて大谷よりの舊道路と合し、そし今の山德工場邊より、拓きの山路へ登り、正司家の墓地邊より桑古場へ出でしもの如く、今の本土病院のより有田川の堰石を渡りて、外尾宿の川沿より、外尾田原の古道を通り、此處に南川良橋邊の飛石を渡り、次に今の丸山工場邊より、小物成の背越に南川原へ着き、そして原明の長崎街道へ出でしものと思はるゝ。
 其後又桂雲寺裏よりの山路を廢して、法元寺の裏路を通り、金比羅下に沿うて、動石の上部を經て、中野原脊の鞍部を涉り、岩谷川内への山越え道が出来たのであらう。往時は橋などは滅多になく、偶にありしは假架のゆらゆら橋にて、出水毎に水と共に流さるのが定であつた。岩谷川内の眼鏡橋の如きは、文政子歳(1818年)の大火と洪水とに鑑み、安政の始(1855年)に於て建築されしものにて、正司碩溪専ら之を監督し、大谷のニッ巖や猿川の石を運びて、堅固に構造されたのであつた。(今回町道改築の際取崩されて只名のみが残されてゐる)

有田の村路
 夫より陶業の發展と共に、漸く人家稠密を加へしと共に、屢通路開拓されしも、動き石丈は、金比羅山腹より墜落せし巨巌磐石累々と、河岸に横たはりて行路通せず、今の清見橋下の飛石を渉りて、稗古場より白川に至り此處より蛇頭山下を通りて、大樽の三空庵邊に土橋あり見る。そして今も中島と稱するは、以前川と溝の間にありし所にて、今の倉庫邊より物産陳列館前の溝が、以前の川筋なりしが如く、山端の小流れが今本川に改築されたのであらう。

動き石と赤檜町
 而して下幸平の下部は、動ぎ石にて行止まり、通行出來ざるを幸ひ、此袋町へ秘法の赤繪屋十一軒を打寄せられしものゝ如く、其後動ぎ石の一部が漸く取除かれて、狭隘ながら中野原へ連絡するに至りしものにて、寛永年間(1624-1645年)下幸平の下部を割きて、赤繪町と称するに及び、下幸平は單に幸平と稱せしが、後本幸平と改稱せしものである。
 而して赤繪屋業者は、赤繪町の九軒と、幸平の二軒に限られしも、明和七年(1770年)又本幸平に一軒、大樽に一軒、白川に一軒、稗古場に一軒、中野原へ一軒計五軒が更に許されて、茲に十六軒の團結が出来たのである。又動ぎ石は維新後明治年間にも道路が改築され、その度ごとに巨巖を炸裂し、今や全く片影さへ止めざるに至つたのである。
 今有田町は東西十九丁、南北三十五丁、面積七百六十三町歩の地域を有し、戸數一千三百戸、人口六千五百に達せしが、元此有田地方は何人の支配に属せしか、再び記事は湖つて、其全貌に就て今少しく當時を追究するであらう。

爲朝と有田の地名
 有田郷の起原は詳ならざるも、仁治元年(1240年)六條判官源爲義の八男鎮西八郎爲朝此地に来りし時、既に有田なる地名ありし如くである。

平瀬の舘
 久壽二年(1155年)巡遊しし爲朝は、唐船山の要地と景勝を讃美して、此處に平瀬の舘をしつらへ川古の舘(杵島郡若木村にて今にも御所といふ)より轉住せしといはれてゐる。而して今山下二の瀬の渡しに八郎瀬と稱せらるゝところがあり、又伊萬里江湖の辻なる明善寺脇の小丘には、遺子江湖の八郎爲家の墳墓がある。

有田榮
 其後松浦兵衛尉源直が、今福より御厨に本據を構へて此地方を領有するや、三男四郎榮をして、有田郷を来邑せしめ、姓を有田と稱するに至つたのである。

唐船城築造
 斯くて建保六年(1219年)此唐船山の要地をトして、唐船城を築いたのであつた。當時は此邊一帶より、今の杵島郡住吉村及中通村近くまで、其支配地なりといはれてゐる。
 有田氏の系圖左の如くにて、中途六代の子孫行方不明となりしため、宗家松浦氏の兼領支配となり、後代平戸松浦氏への牽制上、島原有馬氏の繼承するところとなりしも、途に龍造寺系に依って繼續さるゝに至ったのである。(有田氏系圖参照)

唐船山
 往時は有田川の下流頗る深く、而して今の伊萬里市街の地は、潤内なりしと共に、二里村の大部は、後世に及んで漸次干拓されし面積といはれてゐる。故に當時は山谷邊まで海運の便に富みしより、此處も松浦氏の一貿易港たりしが如く、斯くて甦唐船の入舶せるものありてより、それが唐船の端させられしにあらざるか、なほ此界隈が深く彎入し居りしことは、大木の立部川にさへ汐入といへる地名が残つてゐるのを見ても想像できる。

有田給
 有田四郎榮は唐船城主として、有田鄉の采邑を支配し、四代丹後六郎給に至つては、松浦黨の同族山代彌三郎階、伊萬里源次郎滕、波多太郎勇、峯五郎有、鶴田五郎馴、石志次郎兼、志佐次郎繼等と共に、文永、弘安の外寇に防戦よくつとめ、建治二年(1276年)には唐船山に圓満寺を建立したのである。

有田持
 五代出雲守持に及んで勢威大いに振ひ小城の莊を併領せしが、後年佐嘉に於て歿し、六代薩摩守實に至つて子孫不明となったのである。

宗家松浦の兼領
 故を以て宗家松浦勝(丹後守直の男、御厨城主)より代々唐船城主を兼ねて、有田鄉を支配するに至った。十代松浦盛の時、相神浦(今の相の浦)に移り、太智庵城を築造して有田を兼領し、そして丹後守政に至つた。

松浦政の威力
 此時豫て南進の策謀ある田平城主松浦興信は、嚮に宗家政が、有馬の聯合軍に加はりて、田平城を陥れたるを名とし、相神浦を攻略すべく密に畫策せしも、當時政は頑地今福領及黒瀬、有田を兼領し、大野村瀨戶越太智庵城主としての威力に對し、正攻法にては打つべく頗る疑問であつた。
 依つて彼は卒然奇襲するに如かずとなし、明應七年十二月二十三日(1498年)興信は、大野源五郎貞文を將となし、南入道宗知、西島玄番、加藤左馬等三百騎を以て海路密かに兵を進め夜の子の刻(十二時)を期し、全軍枚をみて忍び寄り、彼に太智庵城を攻撃した。

太智庵城陥落
 不意のこととて城中狼狽せしも立直して防戰良く努むる折、嚮に崎邊の鹿狩にて政の勘氣を蒙りて、平戸に走りし山田四郎左工門弟文右工門兄弟は、間道より城中に放火せしかば城忽ち烏有に歸し、政又途に戦歿するに至つた、時に年二十一才であつた。而して政の室は、今年生れの一子幸松丸と共に、平戸に捕はれたのである。

幸松丸
 此時家臣井關兵部允は切に興信に勤め此際幸松丸を亡くして後日の憂を絶たんことを献言した。然るに一度び幸松丸を見し興信は、流石松浦族血縁の愛着と、殊に政の未亡人は肥前の管領少貳政資が女なるを以て、後難を慮って手を下さしめず、却って母子を川内村の別邸に優遇したのである。
 未亡人は、幸松丸殺害の風聞に驚きて、心も心ならず、密に腹心の侍女をして唐船城に内意を通ぜしより、城内は庄山、池田、山田を始め重臣の密議となり、此に一計を建て之に策應するところあった。かくて明應八年十一月十五日(1499年)未亡人は、幸松丸の開運を祈らんとて、特に興信の許しを得たりしかば、松浦家の祖地今福なる、年の宮の祭典に詣でたのである。

年の宮の活劇
 豫て山伏に變装して、母子の前後守護せる唐船城の家臣、川窪、池田、大曲、浦の四士あることを、神ならぬ身の知る由なき井闘兵部は、此群集こそ時を得たりと待ち構へ、母子が参拝の歸途を一刀に打果さんとせしところ、過つて石鳥居に斬りつけしを、心得たりと川窪、池田等抜き連れて、直ちに兵部を斬り倒し、母子を擁して唐船城に引上たのである。

有馬氏の兼領
 之より唐船城にては、平戸を牽制する必要上、強力なる後援者として、島原の有馬修理太夫義(後晴純入道仙岩)と好を結び、義は此に唐船城十三代の城主を兼ねて、有田鄉を支配することとなり、次いで四男次郎を十四代の當主として唐船城に居らしめ、之が松浦丹後守盛を改めたのである。
 永正九年(1512年)幸松丸十五才に達するや、爰に元服の儀禮を行ひ、重臣池田武藏守は唐船城より相神浦に来り、太智庵城は嚮に焼失せるを以て、新たに飯盛城を築いて之に居城するに至り、幸松丸は松浦丹後守保(或は親に作る)と改めしが、後宗全さ號して隠棲せし此績史は、平戸編に記述せるを以て省略する。

龍造寺の攻略
 天正四年六月(1576年)龍造寺隆信下松浦を攻略するや、伊萬里の北岡城主伊萬里兵部少輔治(鍋島芳太郎の祖)は戰敗れて開城し。尋て山代の飯盛山城主山城彌七郎貞(鍋島千太夫の祖)は奮戦遂に捕はれて降るに及び、次には有田唐船城に逼るべき氣勢であつた。

唐船城媾和
 唐船城主松浦盛は、大木の山田高大里の吉野、曲川の庄山等の重臣を始め、川窪、松浪、平野、井手、北川の諸士等と評議の上、隆信へ和を乞ふこと成った。蓋し盛の長女は隆信の舎弟須古の城主龍造寺信周の三男、太郎信昭(後須古下総守)に娶はせて盛が嗣となせる姻戚の關係あるを以て、隆信は直に共乞を容れたのであつた。

有田茂成嗣ぐ
 龍造寺信周の四男、有田八右工門尉茂成は、始恵日山寶琳院(佐賀鬼丸)の徒弟にて、豪圓と稱せしが、還俗して松浦傳藏と云つた、それは兄信昭と共に、松浦盛の養嗣となりしものにて、中比は龍造寺太郎次郎と稱して、出兵軍に従ひしも、盛は交祿二年(1594年)朝鮮役中卒去し、茂成の長兄彦右エ門尉家俊征途に於いて戦死せしを以て、次兄信昭は須古家に復し、再び茂成をして有田松浦氏を相續せしめしものの如く、故に龍造寺太郎次郎時代より、既に有田氏の継承者として、歸陣せしものと見るべきであらう。
 顧ふに盛には、二人の男子ありながら、唐船城主は途に龍造寺系に依って嗣がるゝに至り。盛の長子某は島原にて安德寺村を領し、次子某は生母の實家大村氏に頼りしと稱せらる。戰國時代に於ける敗者の境遇洵に憐むべきである。
 茂成は唐船城主として有田郷の知行三千三百石を有せしが、後年神崎に移封されて、一千石を給せられ、己れは佐嘉城下八幡小路に居住した。其子孝紀は多久安順の養女(實は後藤圖書頭茂富の女にて多久茂辰と同腹である)を室とせしが、彼は給禄に甘んじて、安逸に處するを得ざりしもの如く、而して彼の起ちしは切支丹の跋扈に對する佛門の擁護であつた。
 彼の大村純忠や長崎純景の洗禮信仰は、此地方切支丹布教に、彌拍車をかくるに至り、遂には多くの寺院を廢滅せしめて、教會堂と代らしめたのである。此神教及び仏教歴迫に憤慨せる、佐賀金重院の修験青木賢清は、元和年間(1615-1624年)長崎に出て諏訪神社の復興を圖り、同社の宮司と成った(明暦二年七十七才を以て卒す贈正五位)

道智の正覺寺開基
 有田孝紀も亦、同志を抱きて憤慨止み難く、途に自ら佛門に入って名を道智改め、慶長九年(1604年)長崎村小島郷に、光壽山正覺寺(真宗佛光寺派)を開基して、大いに専門の弘敢に努めたのであつた。而して有田家は後代に至って五百石に減祿され、更に又二百石と成ったのである。

石場番所建つ
 偕有田山は、陶業の發展と共に彌膨脹を来し、山溪に沿ふて人家蜒々と建並ぶに至りしが、(蓋薬家のみ多く或は朝鮮の集落を見るが如きありしなるべし)泉山石場は未だ坑法などの設けなく、採掘者の増加と共に、中には密に他山へ運ぶ者さへ生するに至った。之より此嘘に棚関をしつらへて、五ヶ所に監守舎を設け、新に番所を建築して藩吏出張し、而して他方への搬出は勿論、猥りに採掘することを禁することゝ成った。
 尤有田氏が神崎に移領されてより、有田鄉は鍋島宗藩の直轄地となり、下松浦(有田、伊萬里、川古後又楠久を加ふ)の横目(監察官にて農及山林監視)役所が唐船城下の大木の宿(今の大山村)に建設された。初代は何人なるか不明なるも既に光野久左工門、鑰山九太夫等が此處に有田皿山代官として赴任したのであつた。

山本神右衛門の横目監察
 寛永十二年正月(1635年)宗藩の山本神右工門(中野神冶工門清明の男にて諱は重澄、佐嘉論語葉の著者神右エ門常朝の父也。中野系圖参照)は、下松浦の横目監察と牧奉行(牧島と大川内及廣瀬)を兼て赴任すること、成った。

山林税
 彼は此地方の山林が、製陶者の増加と共に、乱伐さるゝを建言し、藩は此頃より斯業者に對し、新たに山林を賦課すること成りしが、斯くて製陶者の増加は、一面又頗る粗製濫造の風を生ずるに至ったのである。

陶業者の大淘汰
 寛永十四年三月二十日(1637年)參政多久美作守茂辰は、此地方陶業者の大淘汰を敢行し男女八百二十六人を廢業せしめしが、それは内庫所の泰盛院様(勝茂)御書出に記録されてある。


一古唐人(古く渡来しゐる韓人のことなるべし)
同嫡子一職數年居附候て罷在候者は先様燒物可差事
一唐人之内にも他國より参り其所に家を持候はぬ者は可相拂事
一又扶持人從者町人旅人此者共何も焼物先様法度可申付但其處に居附候て罷在候者百姓を仕可罷居と申者は共儘召置燒物は不仕様堅可申付事
寬永十四年三月二十日
多久美作殿
此時子細有之者へは美作より切手に而被殘置丑閏三月十五日切に男女八百二十六人被相拂内男五百三十二人女二百九十四人此時改人山本神右工門也拂帳山本家に有
 右の如く製陶業に従事する者、有田郷にて七ヶ處、伊萬里郷にて四ヶ所の男女を淘汰せしものにて、但し舊來縁故ある韓人や、代々有田に居住して、深き子細ある者へは、願出により、多久氏より符信を興へて、継続することを許されしが、結局陶家の数を、百五十五戸陶車百五十五個と制限されたのである。

十三ヶ皿山に打寄せ
 寛永十四年處々に散在して、営業せる窯焼(陶家)を、取締及其他の便宜上一定地に打寄せらるゝことゝ成りしが、承應二年(1653年)の小物成算用帳に依れば、上白川山(乃ち天狗谷)、中白川山、下白川山、歲木山、中樽山、小樽山、大樽山、冷古場山、岩谷川内山、(以上有田皿山)、外尾山、黒牟田山、南川原山、板野川内山の、十三ヶ山に限められたのである。
 蓋し此時の山とは、多数の窯焼にて、積入るゝ陶窯の一登を一山と稱せしもの如く、就中白川は三兵衛が発祥地丈に、三ヶ登にて一番の繁昌地であつた。又蔵木とは新春早々伐ることを忌み、年の暮までに樵り置く事にて、之は全國何れにもある用語なれば、此歳木山は後に泉山さ改められたのである。

多久安順卒す
 寛永十八年十月二十六日(1641年)多久長門守安順卒去した、行年七十九才であつた。彼は同十二年正月老を以て参政を致仕し、養子曾姪茂辰を以て之に代らしめたのである。
 有田皿山より微收する運上金なるものは、嚮に光野久左工門、鍮山九太夫等の代官時代より總額僅に銀二貫百目を過ぎなかったのである。其後の代官諸岡彥右工門(茂之)の意見に基き、先に淘汰を加へし業者の一部に免許を興へ、之に数人の韓人を加ふるに及んて、百五十五人となせしが如く、而して多少運上の増加を來すに至りしも、蓋し従来の額を出づる事遠からざるものであった。

大阪商人の專賣請
 爰に大阪の商人にて、鹽屋惣五郎の手代鹽屋與一右工門、ゑらや次郎左工門の両人は、今度有田焼の仕入方にて、伊萬里へ來りしを幸ひ、山本神右工門は同地の陶商東島徳右工門に内命して、両人を説得せしめ、運上の増加を理由條件として、有田焼の専賣を願はしめたのである。宗藩に於ても最可然聞へしを以て、此旨石井右工門佐を以て、藩主勝茂へ言上し、其許可を得ることゝ成った。

大阪商人の遁走
 かくて寛永十九年(1642年)と、同二十年の二ヶ年を、前記大阪の二商人と、東島徳右工門との三人へ、山請を命ぜらるゝことゝなり、そして一ヶ年の運上を銀貳拾壹貫目と定められた。然るところ右大阪の二商人は、賣買方意の如く成らず、甚だ損失を蒙りして、脇差や衣服など賣却せしが、運上銀未進のまゝ、大阪へ向け遁走したのである。
 神右工門打驚き、早速伊萬里心遣ひ岩永傳右工門に命じ、二人の跡を追はしめて、下の闘にて取押へしが、運送中の焼物荷を差押へて、之を宿主の土臓に預けし上、二人を大阪へ還らしめたのである。此顛末の報告に接せし藩は、再び傳右工門を下の闇に遣はし、抑留せる焼物を適宜に處分して、運上未納の分を徴収したのである。
 其有田皿山の窯焼達は、前記の如く或る特定者のみに、山請せしむることは、特産地たる全山の利益を、熊断さるゝの弊ありとなし、多少の運上銀を増額するも、以前の如く山元賢捌の復活を出願すること成った。依つて藩は、一ヶ年銀三拾五貫目宛の上納を定め、以て三ヶ年山請の許可を與へたのである。

中野數馬の増税意見
 正保四年九月(1648年)宗藩の執政中野数馬政利(神右工門清明の養子内匠茂利の男)は、江戸勤番より歸藩するや、有田皿山の運上銀三拾五貫目位にて、近傍の山林を荒廢せしむるの損害大なるを説き、彼等窯焼の所得が頗る有利なるに比較して、なほ以上の増税は當然たるべしとなし、此命に對し彼等が不承を唱ふるに於ては、山林保護の見地より断然立退を宣するも亦止を得ざるとの意見であつた。
 依つて石井兵庫は、其命を含んで問題を解決すべく皿山に来り、藩窯の副田喜左工門を始め、金ヶ江一統其他主なる窯焼を集め、上納増額に應すべきや、將又皿山立退きをなす可きや、蓋し斯く失業の外なきを以て、此際従来の運上三十五貫目の上に、猶幾許の増額をなし、以て退去處分の御免を乞ふ可く、願出ては如何談合した。

窯焼交渉の不調
 然るに窯焼の面々は、従来の運上額でさへ容易ならざるに、尚其上の増額は到底不可能の事なりと断言し、一同何れも不承を申立たのであつた。斯くて兵庫は若し彼等一同廢業するに至らば、其始末の困難は重大なるを以て石井右工門佐、土肥喜左工門及山本神右工門をして、有田皿山窯焼の惣人敷を召集の上、適宜の方法を講ずべく、再び出張を命して、二人は夜を徹して大木の役所に神右工門を訪ひ、之より三人皿山に来り、種々説得に努めしも、結果は邃に不調に終ったのである。

神右衛門の目算
 神右工門情々考ふるに若し此彼等が立退くに於ては、其迷惑は獨り當人而已に止まらず、我藩の失へる無類の国産が、一面其技術を他國に扶植される憂もあつた。蓋し運上の増額は決して不可能ならざるとなし、彼は皿山の總運上を、一ヶ年銀六拾八貫九百九十目の概算を立て、再び彼等一同を招き三人にて懇々説くところあつた、而して百五十五人の約半数の窯焼丈は漸く之に應ずること成りしが、若し倒産することあらば運上用拾あるべきことを條件とした。
 而して残りの半數者は、到底右様の上納は不可能なるを以て、此際立退を命ぜらるゝも、亦止を得すどの、連判状を差出すに至ったのである。右工門佐と喜左工門は、以前御納戸役を勤務せし經験あるを以て、納税の事情を察し、従来の成行上到底不可能視せしも、とも角三人同道にて佐嘉へ儲り、此旨石井兵庫へ申達したのである。
 兵庫も亦余り過分の運上は心元なく思ひながら同年十月二十五日附を以て之を數馬へ復命し、數馬は七十五人の不承窯焼の連判状を所持して江戸へ参上し、藩主勝茂へ上申の上、種々評議の結果十二月十五日附を以て、山本神右工門を有田皿山代官に任命し、そして向出雲監物、中野數馬、中野兵衛の三人より、急き赴任の上斯業の發展と共に、運上取立の意見を實現すべく命せられたのである。

神右衛門の皿山代官
 正保五年改め慶安元年正月八日(1648年)、山本神右工門重澄更に有田皿山代官に就任した。之より彼は斯業の發展に努力し、傍ら自己目算の實現に盡瘁したのである。而して此年の終り、乃ち慶安元年十二月に於て、銀七拾七貫六百八拾八匁を取り立て藩へ納付するに至り、此外なほ伊萬里、有田に於て多くの銀を收入し、且米八百七十七石余を納入した。蓋し彼は其方法宜しきを得ば、皿山の運上が斯くの如く増額の道あることを考究したのである。

窯焼の數と車税
 是より窯焼の數百五十五戸、乃ち一戸に一陶車の制度として之に封し、車税として運上を課するに至ったのである。(いつ頃よりなるか、油税と稱して極僅少の上を、多久氏へ納めし由である。蓋し之は現代の附加税の如き物なりしか)

有田皿山代官の管内
 代官は其地産業盛衰の責に任じ、管内の司法行政の權力を有してゐた。そして有田皿山代官の横目役所(大木の宿)より、伊萬里へ出張所(心遣ひ)が設けてあつた。内庫所の記録に依れば、元祿三年六月二十一日(1690年)附二代藩主光茂より、代官共へ相渡候手頭に依れば、有田代官の管内は伊萬里近傍の外、横邊田まで管掌されてゐる。蓋し横邊田とは今の杵島郡北方より小田、山口、佐留志までにて、此處にそれぞれ心遣ひ役を置きしものであらう。

御山方役所
 なほ當時の有田代官出張所は、今白川葬式場の手前なる川沿の石垣地畑(廣さ二畝斗り)にて、専ら白川谷一帯の山林監視の要地であつた。故に之を御山方役所と称せられたのである。而して後享和元年十二月(1801年)八代藩主治茂の時、今の町役場邊り、乃ち舊小學校のありし敷地に於て、始て有田の内に代官所なるものが建設されしものゝ如く、それまでの皿山代官の本廳舍は、大木の横目役所であつたらしい。
 承應二年(1653年)窯焼の數百二十戶なりしが、此頃より陶業彌堅實を加へ、此地方の韓人も良く順和して我邦人と相互結婚する者彌多きに至った。

李参平卒す
 承應二年八月(1653年)、李參こと初代金ヶ江三兵衛は、上白川の住舎に卒去した、行年七十五才であつた。元和二年石場發見後、磁器製作に従事すること三十八年にて、多久製陶以來實に五十五六ヶ年であつた。墓碑は稗古場の報恩寺墓地にある、金ヶ江系左の如し。(金ヶ江略系参照)

金ヶ江一門へ心得書
 明暦二年八月三十日(1656年)多久美作守茂辰、同長門守茂矩より金ヶ江一門に對し、左の申書なる物を下したのである。

一三兵衛以来数年出入申儀に候故一門之者拾人先様小扶持申付候然者自然人入用の刻は相當之儀可申付候手頭者至其時可申渡事
一御法度並山之掟等不相背御上等少も相違無之様に相勤可申事
一我等被官として至餘人萬狼藉成儀共不仕扨又喧嘩等有之刻黨を結び方人など仕候儀別て無之様に内々其覺悟可仕事
右條々爲後日申渡候條共旨可致者也
明暦二年八月晦日
長門守花押
美作守花押
金ヶ江 興助左工門
同 津左エ門
同 佐左工門
同 藤左
同 十左工門
同 十右エ門
同 清五左エ門
同 十兵衛
同 八左ヱ門
徳永彌三右工門

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