石場採掘支配
泉山石場に於ける磁石採掘は、最初三兵衛の肝煎にて切開き、支配者たる彼のみ、無税切取を許されありしも、他は皆冥加金と稱して僅少宛の上納をすることゝなつた。而して三兵衛は専ら製陶に従事するために、此支配権を次男清五左衛門に譲りしも、清五左衛門死去の後は、全く本藩より支配せしものゝ如く、其頃より石場番所は上役の下に、足軽四人を置きて取締るに至った。蓋し役人にあらざれば監督不可能であつたらしい。
而して監督は、石場番所に隷属せしも、其探掘支配に至つては、先の余德を以て、なほ清五左エ門の子孫のみに許されてあつた。後代にては坑數も加はりて、白土坑、境目土坑、辻坑、上藥坑等があつた。然るに後年此清五左衛門の一門中に採掘權の公事起り、(後に出づ)此頃より金ヶ江一門の権威も頗る衰退するに至った。
蓋し一家のみに之を支配せしむる時は、後には自家所有權の如く思惟する弊あるを以て、後代に於ては切立支配人を造りて、各坑を五六人に分擔せしむること成った。而して清五左工門の子孫には、境目土坑(二等土)のみを支配せしむるに至ったのである。
山領主馬の覺書
後代に於ける切立支配につきの内儀典山領主馬利昌(字は師言、號は梅山)より、中樽の岸川勝十(彌太郎の父にて常四郎の祖父である)へ遣はしたる左の書がある。
土場白土穴巳前より持來之場所彌其方可致伐支配候依之爲運上毎月丁銀三匁五分宛年々尖に可相納者也
文化十一年成十二月 山領主馬判
維新當時の切立支配人は六人にて、それは岩永源右工門、納富三平、岸川常四郎、古賀力次郎、金ヶ江金次郎、以上五人の土穴持の外、上藥穴は古賀財蔵であつた。(蓋し境目土穴の支配人金ヶ江金次郎が、清五左工門の末葉にはあらざるか)
有田より内外山の區別 肥前の各陶山は、泉山の原料を使用すると否とに係はらず、磁器製造地を大別するに、内外山と大外山との名稱を用ふることゝ成った。乃ち有田皿山を内山と稱し、有田郷の外尾山、黒牟田山、王寶山、廣瀬山、南川原山と伊萬里郷の大川内山、市の瀬及杵島郡の筒江山を外山と稀へられた。
そして杵島郡の弓野山、小田志山、藤津郡の内野山 吉田山、志田東山、志田西山、東彼杵郡の三河内山、江永山、木原山、稗木場山、中尾山、三の股山、永尾山等を大外山と稱するに至った。
泉山原料の使用地區別
有田鄉及伊萬里郷の外山は、鍋島藩の直轄地に因りて、共採るところの原石には上下の區別あるも、何れも泉山の磁石使用を許されしが、就中禁裡御用なる有田の辻家と大川内の御細工屋だけは、最上の原料を使用されたのである。
又市の瀬山はこぼれとして、各坑の採掘せし跡の細片のみを掃き取ることに限定されしが、之が各種調和されて、却って好成績を繋げしといはれてゐる。 廣瀬山は下等の石のみを許されて、地元の軟質なる石と混用した。王寶山は小瓶子等下手物製作なるを以て、最下等石の俗にナレとい種類のみ採ることに定められたのである。
弓野山と小田志山は、家老鍋島氏(武雄なる元後藤氏)の采邑なるを以て、泉山の原石を探るこを許されず、但し筒江山のみに限り、板野川内韓人の分系なる關係上、毎年二等石千苞乃ち八萬五千斤採ることを許されたのである。
志田東山は宗藩の領邑なるも、其再興後世に成り。同西山は支藩蓮池鍋島氏の采邑ゆへ、共に探ることを許されず。内野山は宗藩領なるも、當時陶器のみにて磁石分奥の必要を認められず。吉田山は宗藩と蓮池藩の分領する所なれば、宗藩に屬する者に限り、寶曆十二年(1762年)より毎年五百苞、乃ち四萬二千五百万斤丈採ることを許されたのである。
其他東彼杵郡の三河内山、江永山、木原山は平戸藩の領地であり。稗木場山、中尾山、三の股山、永尾山は、大村藩の領地なるを以て、勿論採石を許さゞりしも、彼等は後年天草石使用の發見に因りて、何れも白磁の製作に成功し、今や却つて泉山石を凌駕するに至つたのである。蓋しそれは一面製作し易き特長あるを以てゞあつた。
九谷焼
萬治四年(1661年)加賀國江沼郡に、九谷焼が完成された。之より先寛永の始金澤藩主前田中納言利常(利家の男)は、越中瀬戶の陶工を招きて、吸坂燒を創製せしめしが、同十六年三男飛彈守利治(萬治三年四月二十一日卒四十三才、贈従三位)大聖寺に封ぜられてより、萬治元年藩士田村權左工門及後藤才次郎をして、大日方山の原料を探って、之を試燒せしめしところ、皆窊みて器を成すもの稀であつた。
後藤才次郎
大聖寺二代の藩主飛彈守利明(元祿五年五月卒、五十六才、贈正四位)又其遺志を嗣ぎ、遂に才次郎をして肥前に下らしめ、密に白磁の製法と、赤繪の彩法を探らしめたのである。
彼は鍋島藩の警戒線内に潜入し、身を扮して有田赤町の陶商富村某の傭奴と成ったのである。
(富村森三郎の祖先にて森三郎の父 好右工門は、天保六年二月十八日卒し、其父重工門は寛政元年九月五日卒し、其父七左工門は安永三年五月十八日卒してゐる。然れば七左工門の祖父時代であらう)
才次郎日夜勤勉して、大いに雇主の信用を得るに至り、居ること四年、製磁の法は略得得せしも赤繪の彩法は、未だ有田に普ねからざりしかば、彼は傅手を求めて屢南川原に至り、柿右工門の上給附窯を窺ひて、漸く其要領を識ることを得しより。此に要する顔料を、長崎の中國人より購入して、故園へ遁走せしといはれてゐる。
久隅守景
之より九谷焼は、全く製法の面目を改むるに及び、延寶年間(1673-1681年)京都狩野派の大家なる、久隅守景が来るを聘して、下畫を工夫せしめ、大いに古九谷の特色を發揮するに至った。後藤才次郎定次は玄意と號し、大聖寺藩の吹座役にて、百五十石を食祿し、天和三年三月四日卒去したのである。
長崎出島ラクバサール
寛文二年(1662年)阿蘭人の請を容れ、長崎奉行(慶安四年より寛文四年まで黒川興兵衛とあるも、一書には寛文二年より五年まで島田久太郎守政在勤すあり)は、出島に於て我日本の国産を陳列販賣することを許せしが、就中共重なるものは、我有田焼であつた。之即ち本邦人が外人居留地に、見本市を開始し唯一店舗にて、彼等は之をラクバサールと稱してみた。
之迄蘭人の手に依って、此出島より密に輸出されつゝありし有田焼が、始めて公然と賣買を許されたのである。(此出島バザーは、明治元年より有田の八代深川榮左工門が陶器販賣店となり、後年には其次子忠次の所有と成りしものであつた)斯くて寛文四年(1664年)、阿蘭陀へ輸入せし伊萬里焼は、四萬五千個に達せしさの報告が、後年同國政府の發表せし統計である。
辻喜右衛門
寛文八年(1668年)江戸の陶商伊萬里屋五郎兵衛は、仙台藩主伊達陸奥守綱宗の霊に依り、有田へ下りて商品仕入の傍ら、精巧なる食器を物色せしとろ、絶品を得ず。此儀二三の窯焼とも相談せしに、當時の名陶家辻喜右工門を推進した。依て五郎兵衛は早速彼に注文して、青花の美事な食器を得るに滿足し、携へ歸りて伊達家に納めたるは二年目であつた。
辻家へ禁裏御用命下る
綱宗大いに共精巧なるを賞讃し、これ貴賓の用ふ可き器なりとて、直ちに之を仙洞御所に奉献したのである。然るところ人皇百十一代霊元天皇は、殊の外嘉納あらせられ給ひ、之より佐嘉藩主鍋島光茂へ御下命ありて、喜右エ門へ「禁裏御用御膳器一切其他御雛形を以て尚一層清浄潔白なる製品を調達すべし」との勅諚あり。糖て辻家へ御紋章附幕、同高張提灯等の御下賜品があつた。乃ち此時より 陛下御常用の御膳器は、鮮麗なる青花白磁をめさるゝことゝ成りし由洩れ承はる。
藤本長右衛門の奨勵
寛文八年(1668年)頃より、中野源の陶商藤本長右衛門及吉太夫等は、有田焼を諸國へ販賣する重なる商估であつた。彼等は最初柿右工門の赤釉物を賣捌き居しも、正保(1645-1648年)頃より既に赤縮附の法有田に傳はり、寛文二年(1662年)には十余戸の赤繪業者が起り、従つて斯法に巧なる者多く生ぜしかば、長右工門又大いに之を奬勵し、是より斯業著しく發達せしといはれてゐる。
多久茂辰卒す
寛文九年正月六日(1669年)多久美作守茂辰卒去した。行年六十二才であつた。彼は武雄の領主後藤貴明の孫圖書頭茂富の長子にて、先代長門守安順の養嗣子と成り、多久氏三代の邑主とし宗藩参政の治績少からず、且有田焼發展の保護者であつた。晩年薙髪して愚溪號したのである。
窯焼百八十戸、赤繪屋十一戸
寛文十二年(1672年)赤繪業者の襤殖を防ぐ為に、之を現在の拾一軒に制限し、又窯焼業者を百八拾軒に定められた。而して此際共許可證を所持する者の外は、絕對に許さゞる事なし、業者に窯なるものを徴収さるゝ事となった。又此頃赤繪業者を打寄せし下幸平の一部を割きて、別に赤檜町稱せしことは、稗古塲報恩寺楼門上の梵鐘の銘に依って證せらる。
當時有田皿山内の區劃小字は、泉山、上幸平、中樽(小樽を合せ)大樽、上白川、下白川(中白川は上下に別ちしと見ゆ)下幸平、赤繪町、稗古場、中野原 岩谷川内の十一區なりしが、後に白川の上下が合併されて單に白川となり、そしてすに改められ、下幸平が本幸平と改稱し、又冷古場が稗古場と改善されたのである。
本願寺經藏内の陶板
貞享頃(1684-1688年)に至つては、製造技術大いに進み、彼の本願寺の寂如上人が、經臓の内壁を貼るに用ひし八寸角の陶板に、赤の着色を施せし精巧なる作品がある。そして此作銘には、松浦郡有田皿山土肥源左工門造之にある。
俳人三千風の有田實見記
貞享二年八月二十八日、伊勢國射和村の俳人大淀三千風(呑空法師)が有田皿山より南川原に來り、五代柿右工門を訪問せるが、其紀行文中に、有田實見の一節がある。
今利燒(伊萬里焼)の土物を調する皿山に往く、此山皆白妙の眞土山、小屋千軒余り、窯十登、但五百口、此外近鄉小屋算ふるに遑あらずとあり。之は頗る抽象的なるも、當時の眞相らしく、蓋此山白土の真土山とは、白磁の製造地て家も人も白土に汚れたるを、大観して概念的に記せしものにて、石の全貌を述べしにはあらざるべく。又藁葺滕なる小家ながらも、千軒余りとは如何に當時より、急速的に發展せし様が窺はれ且又近鄉外尾、南川原邊まで、算へも切れぬ程、人家建ちをしことも察せらる。
就中窯十登とは三千風が、此地に於て聞得る數ならんも、之は前記の山區劃数に符合する。而して但五百口とあるは、窯の口數らしく、それが一登り平均五十間有りし勘定である。勿論其頃は小形のアンコ窯多かりしと思はるも、當時製造の盛んなりしことを察すべきであらう。尤泉山石塲も開礦既に八十年を経たるより、處々白き地肌をはせしことは、前記行中の白妙の望見中に入りしなる可く、後年此地の碩儒谷口藍田の詩に左の如きものがある。
満山如雪石縱橫 萬國淨傳良器名
二百年前開此業 朝鮮名手李三平
伊萬里心遣ひへ達しの一節
元祿年間(1688-1704年)に至り宗藩主光茂より、皿山の陶技他山に漏洩せざる様取縮方を達せしが、同三年十二月十二日(1690年)伊万里心遣ひ役大木彌右工門へ達數ヶ條の中に、左の如き一節がある。尤此地は御船倉の地とて特に厳敷取締りしものであらう。
付タリ粉レ者ノ儀念ヲ入ル可ク候若クハ商賣ニカコツケ滞在ノ者ノ中二紛レ入ル可ク候若クハ商賣ニカコツケ油断仕マジキ事
有田皿山番所
有田皿山上下の要所には、藩主定紋の屋根を葺きし番所を構へ、内には槍棒、袖搦等を備へて、怪しき他國人の出入を警戒し、或は通行手形を検査した。上の番所は泉山(今川浪喜作の宅地)下の番所は岩谷川内眼鏡橋の両脇にて二ヶ慮あり(上橋脇は今大島幸一貸家であり下橋脇は平野興一が居りし家)獪外に大村領堺の戸矢と、平戸領堺の原明にも番所があつた。
番所の役人は藩より出張せし者にて、維新當時には泉山の番所に徳富惣七(菓子屋吉三郎の父)が居り、岩谷川内の番所には上橋脇に北島嘉右工門(義朗とし提灯屋周平の父)が居り、下橋脇には島田與一が居たのであつた。又石場の土番所上役には島内新吾が在勤し、後年の定番には山代の大庄屋なりし、多久島徳之允なども其一人であつた。
尚石場には正門の本口屋番所の外乗越の番所(上藥坑の方面)には何の文平といふのが勤番し、境目の口屋番所(境松方面)には眞木嘉右衛門といるが勤番した。然るに明治二三年の頃に於て、杵島郡宮野の黒髪神社祭なる流鏑馬(毎年舊九月二十九日例祭にて、馬の走りといふ)を見に参りし嘉右衛門は、同地蜂の巣のしけの薬屋某宅にて、武雄藩の某士と酒酌み交せし果は口論となり、彼は一刀を引抜ぎて相手を突刺し、其儘走り歸つたのである。
不意に突かれし相手の武士は、追來らんとせしものゝ如きも、臓腑露出して途上に斃れしより、同藩の士及其他三拾余人、何れも復讐のため境目番所へ押寄せ來った。此間一髪妻の氣轉にて、嘉右工門は裏口より遁走せしも、武雄藩よりの訴へにより打棄難く、取調の上遂に所刑されしといふ一騒動があつた。
札の辻
元祿年間(1688-1704年)大樽と本幸平の間に於て、陶業に關する事項は勿論、其他一切の布告を掲載すべく大いなる掲示臺が建設された。(今の床屋の前面である故に之より此處を札の辻と稱するに至ったのである。
光茂の手頭
元祿六年八月十二日(1695年)藩主光茂より有田皿山代官へ相渡手頭として、内庫所の記録に左の如きものがある。
小物成頭人諸役所
一於他領燒物仕候所へ領分の書細工人相越細工方指南の儀は不及申日料取の儀堅く法度申付置候自然密々相趣細工仕候者於有之者定之科銀可爲指出候義品糾明之上可處罪科事
付焼物に相成候土他領へ一切差出間敷候ひ領中たり共焼物土以前より定置候所も外へ新規に差出間敷候若差出儀等有之候は頭人へ相侗可仕差圖事
一皿山上並燒物方其外彼在所の格式の儀元四年未八月大和(家老鍋島大和なるべし)より手頭相渡置候右之外にも段々頭人より申付可有之の彌守共旨爲能様に可和調候若格式相替候で不叶行懸りも候、時々頭人へ相伺ひ可仕差圖事
辻家へ直進の命
寳永三年(1706年)上幸平の四代辻喜平次愛常は、特旨を以て磁器直進の命を蒙り、(之迄鍋島宗藩の手を経て納進せしもの)常陸大椽に叙せられ、綸旨及天盃を拝受したのである。其後辻家にて謹製せらるゝ菊花御紋章の物は、御器の外皇族各宮殿下の御常用に供せらるゝこと成ったのである。
正徳二年(1712年)木原山の横石藤七兵衛は、天草石の使用すべきを発見して、製磁界に一革命を起すに至った。而して之迄泉山の磁石にあらざれば、磁器製作は全く不可能とのみ思惟せし有田の斯業者をして、驚異的に感しめたのに相違ない。
後藤宗印
豊臣時代より、徳川の初期時代までは、我邦産業の發展と、國利民編の爲なりとて、大いに海外貿易を奨励した。當時長崎町年寄の後藤宗印(武雄後藤氏の支族富岡天神山城主中務太輸貞明の男、左工門貞之、始惣太郎と稱す、寛永四年十一月廿四日卒)の如きは、プルネイ(馬來半島の主大島プルネオ)カンボジヤ(印度支那今佛園の保護國カンボジヤ)或は暹羅 安南地方へ渡航貿易して、國外の利を収めつゝありしが、文祿元年名護屋城に来って謁見を乞ふや秀吉は猩々緋の陣羽織を與へて、宗印を賞したのである。
薩摩の南洋貿易
家康も亦薩摩の島津義弘に命じ、琉球王をして、明の福建總督に書を送らしめ以て我園に余りある金銀及器皿の如きを、中國の錦繡其他の商貨と交易せんことを交渉せしめ、薩摩は大いに共商利を収めしが、後年幕府が此禁命を發せし後と雖も、なほ此藩地は外邦に近きと邊境に在るとを利用して、琉球通ひなる名を以て、密に交易を繼續せしといはれてゐる。
唐渡り
當時は又唐渡りを稱し、京阪及長崎を始め、平戸、唐津地方の冒険者が、交趾、暹羅、東京、カンボチヤ等の地方へ渡航するもの頗る多く斯くて此際交趾焼や、暹羅の宋胡緑などの所謂南蛮物の陶器が多く輸入されし稱せらる。
八幡船
是等の渡海中には、開ヶ原敗戦や、大阪落城後の身の寄なき落武者達が、世を忍ぶよすがには商佑となりて、此唐渡りを成す者頗る多く、就中打績く太平に、脾肉のに堪へざる松浦黨の猛者共が、曩に東洋の海上を跋扈せし彼八幡船なる海賊的通商さへ敢行せしものであつた。
或は暹羅へ押渡つて日本街を建設し、又は王の許可を得て、此地に於て有田焼に擬せる、染附陶器を製作せし者さへあつた。若し此趨勢をして自然的に進出せしめたらんには、我邦の産業通商は勿論、我有田焼とても著しく海外に其販路を植し得たのである。
鎖國令
然るに寛永十三年七月五日(1636年)の海外渡航禁止令は、茲に日本民族發展の雄志を挫き、再び彼の山田長政や、原田藤七郎、呂宋助左エ門又は銭屋五兵衛の如き、偉傑を生するの機會なく、従つて生産的及經濟的の進展を閉塞せしめたのである。
享保十年(1725年)有田皿山の豪商富村勘右工門及嬉野次郎左工門の海外密貿易事件なるものが出來した。此顛末を記する以前に、先づ勘右工門が祖先の事業と、皿山へ轉任せし其來歴より概述する。
島津攻
時は天正十五年三月(1587年)、秀吉は軍を九州に聚めて、島津義久(入道瀧伯、慶長十六年正月二十二日卒、七十九才、贈従三位)を征討するや薩州の軍勢頗る頑強にて、秀吉の先鋒なかなかに惱んだのである。
六字の名號旗
秀吉は薩軍を征伏することの容易ならざるを知り、一の諜計を案出せるは、當時此地方に於て熱烈なる信徒を有せる、本願寺の定
紋染めし旗差物を擬造して、或は甲冑の上に法衣や輪袈裟を掛けし入道を仕立て、馬上には六字の名號旗を押立て來りしかば、薩軍に於ける浄土真宗の門徒は、忽ち鋭鋒大いに鈍り、中には敵軍を引入れて、間道より道案内せし者ありしより、さしもの薩軍も遂に敗北にしたのである。偶戦禍を憂へる本願寺八世顯如上人は、此間に斡旋し、義久をして川内の泰平寺に於て燐和せしめたのである。
義久の眞宗壓迫
後年義久京師に於て、前記の事情を知るや、是眞に本願寺が共謀せるものと誤認して大いに恚り。之より領内に於ける真宗門徒に大壓迫を加へ、其教旨を奉する者は磔刑に慮することゝ成りしは、文祿三四年(1595-6年)の事であつた。
源兵衛退去
茲に鹿児島城下に富村源兵衛といへる豪商ありて、二千石余の巨船五六艘を所有しつゝ、琉球通ひの名のもとに、常に印度方面に通商し居りしころ、豫て一向専念の信徒とて、此度の禁令忍び難く、邃に意を決して此地を退去することに定めたのである。
明善寺開基
彼は別家の某と共に、許多の家財一切を巨船に搭載するや、歸依寺なる明善寺の住職之と行を共にし、之より肥前國松浦の伊万里港に上陸した。そして富村雨家は此地に居住して以前の如く雑貨を仕入ては、印度貿易を繼續し、そして明善寺住職には、此處の江湖の辻に今の明善寺を開基せしめたのである。
其うち貿易の重要品となりし有田焼との關係上源兵衛は有田皿山に移轉して、中央大樽に本據を構へ。(今の井手長作宅地より山本文平宅地まで)そして分家某は、下幸平に居住した。(後赤繪町と改まり、彼後藤才次郎が身を寄せし富村森三郎が祖先)源兵衛又伊萬里に出張所を設け、番頭嬉野與右衛門を船主として、印度方面への貿易彌進展するに至り、家運益々繁昌した。然るに二代勘兵衛の時寛永十三年(1636年)の鏁國令となり、外國船の長崎入港さへ禁せらるゝに至ったのである。
四代勘右衛門
四代勘右工門に至り家產益々富みへ、果ては此家の味噌庫にさへ、判金が沸返へるとまで稱へらるゝに至りしかば、巷に遊ぶ童戯にも「勘ねんどんの倉には味噌搗き金搗き沸返てそうらう」など云ふのがあつた。然るに天性進取の氣に溢れる勘右工門は、祖先の偉業を追懐するときに、如何にもして印度貿易の壯圖を試みたき雄心勃々たるものがあつた。
嬉野次郎左衛門
茲に藤津郡鹿島藩の犬塚家より、勘右工門の番頭某へ養子に來りし次郎左工門といへる者にて、英俊且剛膽なる男があつた。自宅は赤繪町にて角屋といふ酒請賣を營みつゝ己れは勘右エ門の主管として出勤せるが、此葉隠れ武士の流れと、薩摩隼人の血をうけし勘右エ門とは意気大いに投合し、爰に幕府の禁制を犯して、窃に有田焼の海外貿易を盡策したのである。
印度密航
之より勘右工門は、伊萬里船にて陶器を積込ませ、一旦平戸港に假泊して、此處にて次郎左工門は一切の準備を整へ、同地の今津屋七郎右工門なる者を伴ひては、常に印度方面へ密航した。そして歸航には又彼地の珍貨奇品を齎らして、窃に内地へ販賣しては、巨利を博してゐたのである。
次郎左衛門の義心
然るに或時次郎左工門が、大阪にて販賣せし珍貨より足がつき、彼は勿論今津屋七郎右工門及船頭德右工門等悉く召捕られて長崎の獄舎に投せらるゝに至り、次郎左工門に對する拷問彌厳しかりしも、彼は断乎として自己一存の所行なり申立て、毫も勘右工門の、關知することなきを主張して止まなかつた。
勘右衛門屠腹す
勘右工門は、斯くては次郎左工門を長く苦しむるのみならず、主謀の罪科所詮かれぬことを覺り、享保十年五月二十日(1725年)大樽の自邸に於て屠腹した。獄中の次郎左工門は、勘右工門の自刄を聴き、今はすでに詮方なしとて、同年十一月十八日慨然として自ら刑につき、七郎右エ門、德右工門と共に、長崎の白坂に梟首されたのである。
勘右工門の巨碑は大樽三空庵の墓地にありしが今本幸平谷窯の墓地に移されてある。
平維盛の後胤説
平維盛の子六代は、借文の弟子となりて妙覺と改め、又世に三位の禅師さ稱せられしが、文覺と共に不軌を周りしより、相模國田越村に斬られしとあるも、一説には肥前國杵島莊船の原(今の中通村)に忍び、後移りて藤津の莊久間村に來り、此地の岡田丸の女を娶りて六之助といへるを生めるが、其長子某久間の邑主となり、久間を姓として子孫連綿し、後裔に至りて住吉城主後藤貴明に仕へし久間の城主久間薩摩守盛種にて、舎弟が辻の城主辻右近太夫豊明といはれてゐる。
久間と辻
此久間氏の血統より出でし者が、前記の嬉野次郎左工門の生母の由にて、遠祖盛種の舎弟右近太夫が禁裡御用焼の辻家の祖先といはれてゐる。蓋し辻家は武雄十代後藤八郎幸明の舎弟辻後藤九郎宗明より出でしものゝ如きも、當時久間盛種の弟盛廣が辻家の養嗣となりて、豊明改めしものであらう。扨郎左エ門の梟首より、子冶工門は嬉野姓を棄て母方の久間氏に改め後代に至つては稗古場に於て窯焼と成つてゐる。又此傍系に赤町の久間爲臓があつた。
御手の観音
次郎左工門が、豫て信仰厚かりし御手の観音といへるは、彼が印度の某地より需め歸りし物にて、玉彫の美しき刻物なりしを、桂雲寺に奉祀中盗み取られしかば、今それに擬して木彫の御手を製し、同寺山門脇の小堂に祀ってある。そして次郎左工門夫婦の墓碑も、此處の本堂の西脇に建立されてあるも、俗名の記載なきは刑死の爲に憚りしものか、不明である。(其他の久間の墓は、稗古場観音巌下の墓地にある)
享保時代(1716-1736年)となりて、京阪問屋への委託販賣は彌多端に至りしが、蓋しそれが取引狀態に就ては、意の如く運ばざりしものなる可く、左に京都問屋より皿山の荷主と、辻喜右工門(禁裏御用燒辻家五代)へ當てし、口上の古文書がある。而して辻家は當時此處の代表的窯燒なりしものであらう。
京都問屋との取引状態文書
口上
一燒物問屋商賣之儀近年相續仕罷有候處無存掛去秋より御屋敷賣に相成其後は仲買方へ少之荷物も仕不申故是迄之賣掛銀一向に相滯依之御國方への仕切銀延引に罷成候に付今度御兩所様被御登急度相拂候樣被仰聞承知仕御光千萬に奉存候得共爰許仲買中之儀去るよりは御屋敷賣に相成組合請をいたし代銀三十日限に買請商賣仕候得ごも切短に御座候へば荷物多く買入候儀不多久系有田窯相叶候故德意(得意なるべし)方へ荷物澤山に不申候に付掛方集り不申右之限り銀之分さへ拂兼迷惑仕候位に而問屋方へも當時拂方不相叶候間遲々請取吳候様に申聞候に付是迄は用捨も仕置候得とも段々延引に相成此末難捨置奉存候得ば此上は如何様に成共請取候樣急度相對可仕と奉存候共上にも不埒明仲買之分を御番所へ御訴申上候より外無御座候得とも御番所へ御訴申上候而は一向捨りも同然に御座候得は何卒宜申談少々宛成さも次第に請取候様に仕度奉存候得は今暫くの御用捨被下候は随分取立仕切表追而引合可仕事
一某御地御荷主中様方へも爲替銀之渡し過又は取替銀等も仕置候故折々書状を以荷物に而も銀子に而も御登せ被下候様御催促仕候得共有無之御返答も無之迷惑千萬奉存候右申上候通當時間屋商賣相止仲買方は一向相滯其上御國方へ取替銀等は御登せ不被下旁以難儀仕罷有候此末仲買方之儀随分取立又は山方へ仕込前銀御荷主方へ取替銀等之儀佐嘉表へ御願仕隨分請取追而御引合可仕候間夫迄御用捨可被下候
一去る申之年(享保十三年)原田彌三右工門義燒物一手間屋被相願則願之通被仰付候末山方へ仕込前銀高四拾貫目右彌三右工門方より可被差出候處不如意に付拜借被相願候得ば銀貳拾貫目被仰付候得共殘貳拾貫目相調不申候故京大阪御在役人中様方より亡父清兵衛差出候樣御賴被成尤御屋敷より御請負奥御点合迄被差出候故銀貳拾貫目清兵衛肝煎仕置候得共至只今元利相滯銀主よりは私方を相手に仕京都御奉行所に訴出迷惑仕罷有候に付元より右貳拾貫目銀之儀は御役人中様方より御請合被成候故清兵衛より肝煎仕候得ば原田方より急度相拂候樣被爲仰付候か無左ば御屋敷より御渡被下候哉右兩様之內被仰付被下段京都御留守居馬渡市佑殿迄右之起書付を以去暮御願申上候處佐嘉表に被仰越候然るに當時御差支故か又者御繁多故哉此節迄何之御沙汰無之千萬迷惑仕罷有候事
一石原田彌三右工門一手問屋被相勤候に付蓮池御領分三ヶ所之焼山(吉田山と志田の東西山なるべし)へ前銀貳拾貫目被差出に請合被置候得とも問屋不相緻に付其末私方へ問屋致相讓依之右前銀貳拾貫目私方より相納候蓮池御役人小森六左エ門殿より被仰聞候一旦は得心不仕候得ごも右前銀相納荷物脇方へ參候時は一手問屋端的破可申候間半銀成共相納候樣大隈彦兵衛殿より再三被仰聞不得止去る酉の暮享保十四年十二月)銀拾貫目差出置候一兩年は荷物も少々宛御登せ被下候得共近は荷物一切御登せ不被下只今に而は元利相滯罷有候得ば此等之儀も佐嘉表へ御願申上少々に而も請取候様に可仕と心懸罷有候事右害載仕候通去る酉之春以來仕込前銀之初問屋商賣に銀多仕込仕候處右之通一向相滯當時繰合極々差間難儀仕罷有候得ば此上は願筋を相調迫々仕切銀等も御勘定可仕候間兎角來春迄の内には佐嘉表へ某罷下り御願可仕候問右願筋相調候迄御用捨被下度偏に奉願上候 以上
享保貳拾年乙卯五月
橋本文右衛門判
皿山御荷主中樣
辻喜右衛門様
右の書面に依って推考すれば、當時間屋取引の方法も、最初の仕組よりは稍變更されし者の如く、之は窯元の便宜上藩史より改めしと見る可く、蓋し手前に不利なりとせば、用捨なく仕組を更へしは、町人に對する士分達の通有権にて、相當勝手なる振舞も有りして推せらるゝも、相手とて商賣の掛引と金利の採算に目なき上方商人なれば、悉く手ぬかりありしとも思はれず、角技に例せば前者は力押しの一手にて、後者は下手反りの手取りであらう。
有田焼の不窯
幕府の政策は、海外輸出に對しては禁壓を加へしも、國内に於ける有田焼は既に眞價を認められて、京阪より地方への取引彌進展するに至つた。然るに享保(1716-1736年)の頃より有田の各登火廻り悪く、焼物の不窯(不出来窯の略)打續くを是必ず妖魔の障碍ならんとて、山中衰微の噂に怯へたのである。
磁器製造が末段なる焼成に依って、興廢の運命を決するとせし當時なれば、只管神佛の加護を祈り、今なほ窯の火入前には、鹿島の祜徳院に参詣して、上出来祈願を定とする窯焼さへあるに、まして科學の何物さへ解せざる時代とて、人々の恐煌せしは無理もなかつた。
考法元寺の祈禱勵行
元文元年十月(1736年)五代藩主宗茂は、鍋島杢之助、納富十右工門、多久蔵人に命じ、赤檜町の法元寺をして、山中繁昌陶器完成の祈禱を勵行せしむることゝ成った。
覺
皿山陶器爲産物大阪其外にて賣渡相成候恢之山中繁昌爲諸災轉除祈禱の事彌無懈怠可有勤行候仍如件
元文元年辰十月
鍋島杢之助 花押
納富十右衛門
多久藏人 花押
法元寺
法元寺は寛永七年(1630年)敕願所護國松尾山光勝寺(小城)の、第十六世日億が開基にて、法華弘通の精舍である。弦に於て當山は法華經五千部を讀誦し一七日の間、國家安全陶器成就當山繁榮の祈禱を勤行せしところ。其効驗著しかりしかば、是より當寺へ毎年定銀二枚宛を興へらるゝことゝ成ったのである。
法元寺の祈禱札
今も法元寺の山門には、陶器祈願所の石が建てゝある。明治時代まで山中の窯焼は、窯火入度に法元寺の祈禱札を請けて、竹の端に挟み、揚て見狭間(色見穴)の邊へ建たのである。又正月と七月の十六日には、法元寺より御祈禱の木札を、各窯の登支配者へ配布したのである。それが後には各神社などが、此御株を奪ひ勝手に陶器竈祈禱札を刷りて、窯焼へ配布するに至った。
磁石盗人取締の達
元文三年七月五日(1738年)多久美作茂明より、近來泉山の磁石を窃に持出す者ある由甚不屈に付、見當次第早速皿山會所(之は代官の配下なる陶器取締の役所にて、上幸平なる今の青木幸平宅の前に、以前は一段高き邸趾があった)目付まで届出べし、然る時は褒美として其者へ、白銀十枚遣はすとの懸賞的布達ありしものにて左の如くである。
有田皿山陶器土他領へ持出候儀兼而御法度に候處今度土盗出し候者顕然被捕之口被仰付候右附向後之儀內外へ山盜人改之者數人被仰付置候事尤も右之者共に不限土益出候者承付又は見當候節は御領内の者は不及沙汰旅人たりとも差留置早速皿山會所御目附手寄之御番所間へ可申届候於然者御褒美として共者に白銀抬枚宛可被下之由候若組合之中右體之者有之脇々より於題然は其組合迄可被申越度候條右旁之趣筋々懇可被為達候
右之通被相觸候條御私領御番所々々へ右之趣
可被相達置候
午七月五日
杉町新右工門
川浪彌右工門
徳島元工門
右之趣承届候 以上
大塚平內
諸家中
右之通申來御私領御番所兩津(伊萬里と諸富か)
其外村々へ鯛達相調候事
窯揚度數税
寛延元年(1748年)內外窯燒、及十一軒の赤繪屋に對し、従来の窯を改めて、窯揚度事に運上を徴収することゝ成った。
寶暦の改革と名代札
寶曆元年(1751年)皿山諸般の制度を改め、特に宗藩鍋島氏の捺印ある、御印帳なるものが作成され、窯燒及赤繪屋等が登録さることゝなつた。又窯揚度數税を廢して何れも戶税に改められ。そして従来の営業者數即ち窯焼百八十戶、赤繪十一月には、名代札(永代免許鑑札)を興ふることゝ成った。故に後年には此名代札を擔保として、六七十雨程の貸借や又高價にて買さへ行はれたのであつた。
別紙は元治元年の名代札を寫せしものにて、之には脇圖の如く水碓札や、細工札、書札、荒仕子札、釜焚札 底取札等の小札が附属され、水碓通札の外は、何れも丁銀七分づゝの上が課せられてある。而して小札の運も、すべて窯焼か上納する仕組であつた。
底取札
又底取札とは、生造りを削り取りし底土(乾燥せ土)、甲窯焼より乙窯焼が買取る際の免許札か、或は下手物製造山よりの、買取に臆する爲であらう。
寶曆十一年九月一日(1761年)御用山の、厳密なる規定を諸山に知らしめん爲に、有田代官より大樽の観請寺(天台宗にて今の陶山神社々務所)に於て人民に論達せしが、之より毎年二月此寺内に召集して一般に誦告することゝ成ったのである。
火口名代札
寶曆十三年(1763年)窯焼名代札百八十枚の制を、火口名代の名義を以て、更に数枚増加さるゝことゝ成った。即ち斯業の膨張を緩和せる爲、準窯焼としての名代札を、交付されたのである。
元来磁器を焼くところの連績窯なるものは、最初の焚口は恰も下屋の如き構造にて、梢を以て練らし焚する故に、之をツーギー窯(胴木窯の訛りなるべし)又はアンコー窯と稱せられた。此焚口にては、上窯への熟度を起すまでにて、燒跡には紺屋灰が出来てゐる。それで一名アンコーといふのであつた。次からが火口窯である。
安火窯
此火口二三間を経て、始て本登窯と成るのである。尤火口窯も丸窯なる形は同様なるも頗る小さき故に行火(火箱)の如してアンクハ窯と稱せしが、アンコー窯と訛りしものであらう。此火口アンコーにて、紅猪口や戸車、角皿、呑水、小重など燒つゝありし、所謂アンコ窯焼なる者が、後年には大窯焼と成つた者も少くない。
赤繪屋十六軒となる
明和七年(1770年)之迄十一枚なりし赤繪屋名代札を、更に五枚を加へて拾六枚なし、之を永代の限定数と定められた。
金ヶ江一門復縁
明和七年八月二十三日(1770年)金ヶ江一統よりの願に依り、多久美作茂孝は一門十人へ扶持米六斗を興へ、且窯燒運上を免じたのである蓋し此一門中には、既に當時より三四代を經しことゝて、明暦二年(1656年)の心得達に違背せし者もありしと見へ、折々小扶持を取上られ、又免税の特権をも没収されしものゝ如く、一門は其度ごとに、先頭なる三兵衛の勲功を立て、多久氏へ哀願せしものであつた。此時の願書連名者は、徳永伊勢太夫、金ヶ江清五右エ門、同藤兵衛、同萬右工門等の名前であつた。
名被官廢止
然るに安永元年(1772年)に至り、鍋島宗藩よりの布達にて、従来何等の役義さへ勤めざる者へ、名被官にて扶持米を給するの理ある可からずとなし。爾後此種の被官扶持を禁せられしかば、金ヶ江一門も亦舊來の扶持を取上げらるゝの止を得なかつた。斯くては吾々の体面に關はる重大事とて、一統協議の上又々左記の願書を多久氏へ呈出したのである。
金ヶ江一門の願書
我々仲間數代毎年御切米拜領仕來候處御上御支に付て不被爲拝領之段近來以迷惑至極奉存候次第御訴詔申上口上
一我々先祖に御扶持方最前被爲拜領候謂は元祖金ヶ江三兵衛と申者御先祖様前に長州樣高麗御陣之砌右三兵衛儀身命を抛抽忠義之故御歸陣に被召連御供被仰付其後御側へ混て數年御奉公仕罷在高麗にて御道引仕其外噂に時々爲被聞召上御伽者之様に仕爲罷有由候へ高麗人の儀に候得ばしていづれ御國風に不相似物云ひ其外萬端本朝に一化不仕儀共多く御座候故御奉公之儀御斷申上釜燒職相願申候右之趣長州様被聞召上御尤に被思召御家中給人並皿山越儀御免許の上當有田郷の内皿山開け段々繁昌之末只今之通皿山と相成候儀右三兵衛一人之動功にて釜焼の開基と相成此謂を以て御上車御運上御免被下罷在候事
一右三兵衛子共孫共段々繁昌仕候處何も不殘御被官に被召成候識自然人御用之節は相當之役儀等被仰付子孫の物へ御座候末御屋敷被召出被渡御目の所何も御被官被召抱難有仕合奉存居申候然泰院(茂)御代にて御國中名被官之儀爲御法度之由有之に付て我々先祖其外者同前に可被相拂仰出御座候其節我々先種差付申詔候は右三兵衛御厚恩之者と申忠節の末に付て御被官に被召抱置下る不被相叶趣逐一申上達御聽に尤と被思召上凡仲間三四十八斗の内右三兵衛身近き我々先祖拾人被相撰其末名被官斗にては難被召置に付て御扶持方被爲拜領之儀難有仕合奉存候其節仰出之條数も多々御座候就中于今傳承候は大扶持被仰付仰出の處我々先祖共より相願候は大祿を戴候ては御奉公等も申上候はで不相叶趣申詔候之我々先祖拾人へ米壹俵宛合三石前作州様前長州様以御奉書永代無相違被爲拜領趣之御直書被下難有頂戴仕無他事干今秘藏三兵衛所持仕罷在此節右御蔵狀の寫乍恐別紙差上申候事
一前々長州様御代より毎歳正月御目見仕其上御酒等迄被爲拜領且又御先代樣多人御入部之刻於御屋形我々先祖迄乍夫婦子共被渡御目候事
付り當作州様御入部の節迄も以前の謂を以て同姓三兵衛夫婦共御目見申上候事
一我々名字最前高麗にて相名乗候は李名字にて御座候高麗在產金江と申候趣御上被聞召上候末在名と被極御用金ヶ江に被召成候事
右之次第を以て先年前三兵衛身近の一門中が拾人御切米拜領仕來候然る處當節之儀御支に付て御切米被差之段自餘例格も可有御座儀にては候得共右之由緒を以て毎歲無落拜領仕來候處右参掛何共氣の千萬存候我々平日何の御奉公も申上げず無盆に御切米頂戴仕に付ては兎角も可申上様無御座候得共乍恐御奉書に頂戴仕有候を反故に相成候も對先祖且又對世間面目次第も無御座候殊更皿山儀御親類様御家老樣其外御被官がちに有之場所に候得ば外聞の取沙汰も迷惑千萬に奉存候何卒於此儀は偏以御憐愍以前の通御扶持米拜領不仕候得ぼ失面目參掛に候偏奉願候又御先祖様より以來厚恩を尊び先祖三兵衛忠節を咸毎歳正月元日御切米の初尾を相備儀共候右旁以御繁多之砌何共申上候儀恐多奉存候得共之切米の儀に御座候條先祖三兵衛に乍慮外被相對扨又皿山他家中名聞に何の道拜被仰付被下度深重百拜仕奉願候此段急度御筋に被仰上願相叶候様乍憚偏奉願候 以上
辰十二月十八日
徳永彌三右工門判
金ヶ江平左工門判
同 利左エ門判
同 萬左工門判
同 彌五右工門判
同 辨之助刊
同 源右工門判
同 佐左工門判
同 久左工門判
同 三兵衛判
一門の願書聞届らる
安永二年正月十三日(1773年)前記の願書に封し、多久美作茂孝は舊來の關係上打棄難く、特に左の墨付を下附するに至つたのである。
皿山被官ノ儀由緒有之者共付切米三石永代合給者也
安永二年巳正月十三日
美作 花押
元來石高を以て給興せらるゝは、領地の凶作なりし歳は滅石の憂あるも、(故に以前は幾百丁幾十丁と稱してみた)扶持米は現米の給典にて一人扶持は六俵である。たとひ十人に三石の微祿たりも、此節廢止の布達ありしにも係らず、何等の役目さへ勤めざる者へ給興せしは、多久邑主が如何に金ヶ江一門を優遇せしかを察するに足であらう。
常陸大掾源朝臣
安永二年十二月(1773年)、禁裏御用達辻七代の喜平次へ、常陸大橡源朝臣愛常と口宣された。そして翌年六月更に舊盟を尋ぎ、後世其約を履み渝らざる可きことを誓盟した。(朝臣の稱に就て後年藩士中野致明より、京都聞番に乱されしところ、全く相違なかつたのである)而して辻家は武雄後藤氏の支族なれば藤原姓であり。中途養子に来りし久間氏は姓である。然るに愛に源姓を用ひしは、爾く辻家より届出でしものか詳ならず、委しくは考ふ可きであらう。
朝鮮へ有田焼の輸出を試む
安永三年(1774年)有田焼を朝鮮へ向け販賣を試みる者ありしも、彼地一般の民度頗る低級にて、安價なる下手物にあらざれば全く購買不可能であつた。斯くて對馬藩主宗氏の手を経て、輸出を開始すること成った。
對州土發見
安永年間(1772-1781年)對馬國嚴原に於て、製磁の釉料溶和に適する對州土が發見され、後には天草石に次ぐ重要なる一原料と成った。共當時の反別は一町七反十二步(五千百十二坪)にて、最初はギチと稱する粉末状態と、石質のものとがあり従つて性質同じからず、何れも長石と珪石とをずるものであつた。
曹苦酸
嚴原東部の花見壇石の如きは、海邊に散落して海藻及生物の附着せし儘を船積にて送り、それが有田にて粉砕の上使用されしが、同地が要塞地帯となりしめ、明治三十四年頃は、採掘を禁じらしも、今は解禁され需要大いに増額して、珪石多きギチの使用は全く絶へたのである。
對州土分析表 野州土の強石分析表
珪酸 79.53
礬土 13.07
酸化鐵 0.25
石灰 0.23
苦土 0.28
加里 0.12
曹達 5.00
灼熱減量 1.63
對州土弱質質分析表
珪酸 78.45
礬土 12.80
酸化鐵 0.54
石灰 0.32
苦土 0.28
加里 0.51
曹達 5.83
灼熱減量 1.45
安永年間(1772-1781年)泉山年木谷に、新登を築造して窯の不足を補充することゝ成り、宗傳か宗家深海市郎此經營の任に當つた。之が泉新窯又は年木谷窯と稱せらるゝものである。
久米代官の赤繪屋取締
安永八年五月(1779年)有田皿山代官久米彌六兵衛甫昌は、赤繪屋畫附方の秘法漏洩を防止する爲に、其家督相續法を協定せしめた。即ち斯業の十六軒戶主は、たとひ幾人の子ありとも、其相續者にあらざれば、金繢彩釉の調合等一切傳授すべからざる盟約をなさしめしものにてその顛末に左の如き古文書がある。
赤繪付家株家督相續定法
皿山赤物の儀本朝は不及申異國迄も通達交易の産物に候處近年長崎奉行御仕組に而天草之燒物仕立阿蘭陀渡し皿山同然請合被仰付の由相調勿論繪書細工人皿山より不参候て相調不申由然る所平戸大村領にても致出来候由相聞候に付早速手當仕り合候得ば薄手上物は出來不致乍去細工人約書上方より罷下近年三河内に在付罷在候故彼者造立候細工の焼物取寄見候へば皿山物に似寄候程にも不相見下品に有之雖然皿山赤も最初は甚見苦敷有之年々工夫を以て拾六軒の赤繪屋銘々具調合の致肺肝を究只今にては他家に不洩家々の家傅になし一子相傳に仕置候乍下働の下人共は見及推察も仕面々利慾に耽他領に数々可致指南も難斗に付而去年以山中内外の者共に人別調相始り私領よりも時差出を取り一人に而も他領に参不申様手を當就中赤物の儀は日本第一御國の名産に格別に締り方の儀赤繪屋中の吟味爲被仕候次第尤押付被仰付而も違背可仕樣無之候得共若不圖の儀有之以後却而不縮の根共相成候ては無其詮候
故此節は面々より自分の大法を立置無亂家職相營候樣手常致候左之通
一嫡子は相の人物に候て家職可致儀勿論候
一次男三男年老候ても其家内罷在妻子相育申儀候哉若別家に罷成候節は新株相增候ても不苦候哉
一次男三男別家業も仕度存候今迄何れの通付候
一女子は何れ他家へ参候而は相成間敷然者赤納屋の家内罷在候ても家傳杯は一向不存樣生立候哉無左時は只今迄何れの通相片付候哉
右之取締致様子より必秘事相洩候儀も可有之然時は日本一山の大切も空敷罷成未た當山之衰微可相成儀目前の様有之候付只今迄の様承々理差詰なる趣に候て幸の至自然是迄右體の吟味に不相及事に候て早速致吟味向後此通り可仕の作法相立置此段相候條急々申談否可被申
聞候 以上
安永八年三月十七日
赤繪屋よりの答申書
右に對し赤繪屋共返答書左之通
一赤繪付次男三男の儀繪書職仕候者は別家に妻子相育自餘粕書同前に仕候て只今迄在候乍併大次男三男の儀は別家業仕らせ候共通のものは幼少より繪書職等者不仕其道々の商賣仕候に付ては一向赤繪付繪具調合秘傳之義存不申素より一子相傳の儀に候得は相洩候儀無御座候
一赤繪付株別に相立候ては職方手薄に相成候故只今迄次男三男別業仕來候只今拾六人の赤繪屋へ罷出職方仕立に御座候
一女子の義者一向赤釉方へ携不申候得ば決而繪具調合其外存不申
一赤繪付實子無之ものゝ以前より養子等仕職方相讓來候尤赤付の内へ相の人柄無之候節は一類其外よりも養子仕來候勿論近十年の儀は左様の義無之候右之通に御座候唯今迄他國へ赤繪付候もの京燒繪具の法存候者皿山赤繪付の法心掛候て相洩候義も可有御座奉存候恢之仲間中も先年より段々致吟味唯今迄市中に赤繪付罷在候輿拾六人一所に赤繪付家居等相集り旅人の儀は不申及繪書より外出入不仕候様仕度申談候得共何分の物人の儀に付只今迄其儀不相叶末々に相成候て自然他國に相洩れ候而者甚気の毒に奉存而夫而已かは敷奉存候に御座候條倫又宜被逐御吟味可被下候 以上
亥五月 庄屋金兵衛
久米代官より再度の諮問
なほ又久米代官の諮問
赤繪家業相之致様是迄の儀承度相尋候に付而吟味の趣得又申承候次第左に
一次男三男の儀繪書職仕候ものは別家に妻子相育自餘書同然仕居候由
右は以後も此通可然候
一大形は別家業者は幼少より繪書職等者不仕道々商賣仕候に付而は赤繪方之秘傳存不申一子相傳の儀に候得者聊相洩候儀無之由
只今迄は此通に仕來候得共自然家元不如意の儀有之株難相立節は他職の書又は無縁のもの致相候遁成行可申哉然者家々幾久親族よ相續候樣有之度候得者には相届間敷候得共年々以老病氣相果候無線の書は相減男三男のもの共作業相營候有之萬一元家不意に家職不相調候節親族より相應のもの見候通有之候尤も右三家に或は主妻又は娘有之年頃相應不仕様與申可有之共儀者御國の至而御寶産且家に可潰を相起候大道の重さを以少々の事者不育可仕事候無縁のもの自然離縁外仕候節は右の趣今又如何様とも途吟味被申候 以上
亥五月 久米彌六兵衛
赤繪屋側より再度の答申書
右に對し再度赤屋側よりの答申書左に
赤付定法御立被下候に付而被仰向趣先頃書載を以て申上候得共不差詰之儀等有之今又左に申上候
一赤納付次男三男之者別業相營在候者も有之候旨先頃申上候に付而今更御差留御座候而は人に依難にも可相成の段被仰間御賢慮の通御差留に相成候而は難義に相成候ものも可有之奉存候只今迄の通別業勝手次第に仕候様御定被下度奉願候
一不意に病死等仕實子も無之候得者未だ幼年に而職方不相叶ものゝ儀は其家の親族のもの候而別家に妻子相育別業仕來候其嫡家相仕候而不相叶節は先頃被仰出候通其身斗相越自宅は其子は養子抔に相讓双方相續仕候哉及は赤繪付次男三男に相應之者有之候半は譬年齡不相態に有之候とも赤釉付中より相見立後家入抔申談候通有之度奉存候且又實子無之ものゝ儀も前邊者一類其外より相應のもの等見立養子等仕候由申上候に付而は先頭被仰出者無縁のもの養子等仕萬一共者雌線等仕候節は大切成秘事相る道理にも成行可申段被仰聞御尤に奉存候之向後の儀は赤箱付次男三男より外一向他家よりは養子不相叶通御定被下度奉存候尤も右の通養子等申候而も次男三男に相態の者無之相續不相叶無職方相止候參に成行候儀も御座候節は赤屋名代札御役所御預申上御運上銀の儀者仲間中より割合相納可申候
秘傳迄持歸候道理に候得者其替に付加は若年にて嫁姿の沙汰に不及極不相應にも有之時は今不見儀候條何れ親類を不離候様に其節の趣にひ吟味候て可然勿論次男三男のもの別家業者一向差留候而は人に依り難義も可有之自宅に而は別家業勝手次第に相立自然の別嫡家相續仕候而不相叶時は其身斗り相越自宅は子又は養子抔に相嫡家別宅を心遣双方共に家業相立候樣有之度若幼少より赤方不及申候事も可有之哉其儀者他より入來候ものと一子相傳を存可罷在樣無之候得者何親族同職のものより本家相績の道相立度事に候
一赤釉付株別に相立候而は職方手薄相成候故只今次男三男別家業仕來候而勿論拾六人の赤箱付に而も焼物拂底のは付物無之餘の赤繪屋に参り職方仕候位の由
右者面々の親類は別渡世仕らせ無縁の職人召抱候故儀相聞候様之儀を約々內分致儀定申候て年々を以て手明不申樣致方可有之候尤も自分に付物無之他に有之時は其所へ押寄不手明樣繰合候儀者何職與候而も同然にて不及申候
一女子の儀者書載之通に而可有之候
一赤繪付實子無子者以前より養子等仕職方相譲り候相應之もの無之節は一類其外よりも養子出候由又跡書にも平日無怠吟味して秘傳相洩儀有之間數由
右平日の吟味可有之與之仕書に置只今行形に而差置候分に而は役人興しては安心難成候夫共道群に致様有之候て赤繪屋中申談の次第精々書載置共手數承置及候
一不相應に而職方不相叶もの儀は前者脇々よ相望候もの有之候得者御願申上相讓來候得共此以猥ヶ間敷存候故近年は赤繪付次男三男より外一向他家に相讓候儀不相叶通兼而仲間申談候此節御法被爲相立被下候に付而彌以右之通御定被下度奉存候勿論相續候人物も無之無據株潰侯節は名代札の義は御役所御預御運上銀之義は割合相納可申候
右之通仲間中打寄吟味仕書載申上候御賢慮宜被聞召分被下度且又先頃も申上候通赤繪付中市中散々に罷在候而は萬端不稀に有之候に付而一所に集度棄而申談罷在候得共近年別而職方不景氣に罷在何分にも不仕所存罷在儀に御座候
亥五月 庄屋金兵衛
右之通定法定相極置候條自然ヶ條に相洩候儀も有之候得者本文之趣を以相準猥不相成様何も兼而得其意可罷在候仍而證交差上申候 以上
署名の赤繪屋十六人
そして前の如く庄屋金兵街(當時の赤繪屋頭であらう)を始め、跡十五人署名捺印してゐる。それは八十右工門、七兵衛吉右工門、淺右工門、九兵衛、武右工門、覺左工門(今泉氏)、三右エ門源吾(北島氏)、兵右工門(牛島)、千太夫、七兵衛、番五郎、幸兵衛(田中氏)、源三郎等であつた。
六府方制度
八代藩主治茂の時に於て、藩士長尾東郭(彌治馮元幹藩主の侍講又搦方奉行となる)石井鶴山(有助名は有字は大有又は仲車藩黌弘道館の教授)古賀精里(彌助名は撲字は淳風幕府昌平黌の教官となる寛政三鵜の一人享和十四年五月六日卒六十八才贈従四位)等の案にて、六府方(里方、牧方、陶器方、搦方、貸方、講方)制度が設けられ。田地の租税を大物成(蔵入物成)に納入して藩を足し。六府方の収入を小成成に編入して、藩主の掛硯方(藩主の手元軍用會計)に備へることゝなった。
南川原の小物成
殊に陶磁器は藩内の重要國產として、皿山なる斯業の發展に力を注ぐことゝ成つた。之より先南川原の入口には、既に小物成役所の設けありて役人出張し、雑種商の営業鑑札を下附して、其運上を取立てつゝありしものにて、それが今にも小物成を地名として残されたのである。
大阪仕込
就中此地方製陶の保護を厚くし、若し不景氣にて窯焼方困窮の節は、藩にて其製品を買上げて内金を渡し、それを大阪なる藩の倉庫へ運び置きて、時機を見計らひ、紀州や大阪の商人を集めて公賣に附したのである。之を大阪仕込と稱し、此方法は藩札にて仕入ながら、一方金銀にて賣渡すが故に、藩は頗る有利なるのみならず、窯焼が金融の爲と、又濫賣を防止するにも頗る妙手段であつた。
出石焼
寛政元年(1789年)但馬國出石にて磁器が製作された。之より先明和元年(1764年)長谷治郎兵衛が、室垣村細見に於て陶器を製せしが、寛政元年二八屋珍左工門藩主仙石氏の補助を得て、密に有田へ潜入し、某工人を伴ひ來りしも資金足らす、其後珍左工門は、丹波薗部藩主小出氏に仕へしより、有田の工人は此地の陶業に就職せしも同十二年三月藩は、藩士林村右工門を焼物方取締となし、茲に始て出石の磁器が継続さるに至つたのである。
會津焼
寛政十二年(1800年)磐城圖會津磁器が創始された。元正保二年(1646年)美濃の人、水野源左工門成治此地に来り、藩主保科正之に仕へて、大沼郡本郷村に於て開窯し、歿するや舎弟長兵衛成長繼ぎ、共後數代陶器を製作した。之より先同十六年佐藤治兵なる者本郷に至りて、瓦役所の瓦師となりしがそれより六代の孫、左吉道の次子伊兵衛に依つ磁器製作が目論まれたのである。
佐藤伊兵衛
寛政九年九月十一日(1794年)彼は故國を出志戸呂、瀬戸、常滑、信樂、清水、粟田の諸窯を見學して大阪に来り、鍋島藩の御用達、布屋新右工門の菩提所、高傳寺の添書を得て肥前に下(途上讃岐の志戸焼を観察す)。 佐賀郡本庄村なる高傳寺を訪ね。磁器傅習の紹介を求めしも、當時警戒厳重にて到底達成せざるを以て、伊兵衛は高傳寺の寺男と偽りて、繁く有田へ往復し悉く其製法を探り得たのである。
之より長崎に出て、呉洲其他の材料を購入し、歸途長門の萩焼 備前の伊部焼を見て大阪に着し再び布屋の周旋に依り、此地の樂焼師千助に師事し、又京都の篠田五郎右工門に入門して後江戸に歸り、寛政十年八月會津に着して磁器製造を開始し、同十一年藩主は石焼製造の役場を建設して、伊兵衛に三人扶持を給せしが、同十二年十二月漸く成功したのである。而して彼は瀬戸方棟梁を命せられたのであつた。斯くて佐藤伊兵衛豊義は、天保十三年十月十四日八十一才を以て卒去した。
前川焼
寛政年間(1789-1801年)伊萬里江湖の辻の前川善三郎前川焼を販売して盛名があつた。 前川家は代々陶器商として有田諸山の製磁を取扱ひしが、善三郎に至り、學を好むと共に、頗る氣韻に富み、己が工夫せる雛形に依て、柿右工門や有田の平林等にて製せし物、大いに顧客の賞讃を得て、之が前川焼の名を博するに至つた。(善三郎廣昌は四代善右工門昌清の三男にて、長兄天し次兄善八西岡氏を継ぎて幸兵衛と改め、三子善三郎宗家を嗣いたのである)
有田代官所
享和元年十二月(1801年)藩主治茂は、大庄屋を廢して新に代官所を設けしが、それは川副、與賀(以上佐嘉)市武(三根)神崎、白石(杵島)横邊田(佐留志より北方まで)皿山(有田)以上七ヶ所であつた。而して代官は有力の人物を任命し、年を限りて其地の村民と親しみ、共撫育の遺憾なきを期せしめたのである。
有田皿山代官の廳舎は、従来横目役所として、唐船城下の大木の宿に設けられ、燒物方は上幸平の皿山所にて支配し、御山方は白川谷(今の葬場の手前)なりしを、此時より舊小學校の敷地なりし、今の町役場附近へ、新たに皿山代官所が設置されたのであるらしい。
而して當時の任命役は、皿山代官の下に助役二人、手許並會所取調役手明鎗六人、内見習一人、外に年季満改に付手元本役一人、一組差次三人(此差次之内一人見習三人無之)下役並教導所方下役足輕八人と成つてゐる。
伊萬里市場の指定
文化(1804-1818年)の頃より、陶磁器販賣の取締を統一する必要起り、内地向焼物は、一切伊萬里市場に於て取引すべきを命じ、特別の事情ありて、共許可を得ざれば、他方に於て取引する事を許さざる旨布告された。勿論従来とても、此處を主要地として、伊萬里焼の名を冠せらるゝに及びしも、之より彌伊萬里市場の繁榮を加ふるに至つたのである。
大阪藏屋敷
文化二年(1805年)佐嘉宗藩は、大阪表に於て、肥前国産として有田焼を専することを公開した。 之迄は一旦大阪堂島五丁目の屋敷(元鹿島藩邸)に輸送し、藩使出張して、之を藏元(大阪の銀主)二十九人へ卸して、其賣上高の五分を収録し、藏元より仕入れし仲買又之を小賣商人へ卸したのである。
加藤民吉泉山へ来る
文化三年(1806年)瀬戸の加藤民吉は、泉山の築窯師堤惣左工門方へ來り、丸窯の築造法と、還元焰の焚方を研究し去りしが、蓋し彼が陶法習得中、重要なる収穫であつた。
宮田熊吉来る
文化三年(1806年)京都の陶工宮田龜熊來て、有田焼の製法を習得した。是より先元祿四年(1692年)、美濃大垣の藩士八郎太夫の男和氣平吉(鑑屋)は、京都五條坂の陶師龜屋宇右工門に學びて開窯せしが、四代平吉に至り、晩年磁器の製作を起さん腐心し、尾形周平等と計り、門人龜熊(通稱熊吉)を有田皿山に潜入せしめて、白磁の製法を探究せしめたのである。
清水白焼起る
彼は有田皿山の窯焼某方の、荒仕子(下手傳ひ京師にては裏仕といふ)となりて勤勞すること數年、悉く其法を修めて帰京した。平吉大いに其功績を賞し、龜熊に二代龜亭を嗣がしめたのである。之より尾形周平、高橋道入、清水六兵衛 水越與惣兵衛等の名工天草石を以て青花の磁器を製作し、清水焼の名聲を喧傳せしむるに至ったのである。
能美九谷焼
文化四年(1807年)有田に在りし、肥前島原の陶工本田貞吉は、加賀國若杉村(能美郡)の十村役(名主)林八兵衛の家に滞在中、花坂村に於て磁石を發見し、八兵衛に勧めて、藩主前田氏より資金を拝借せしめ、有田式の丸窯を築きて、能美九谷焼を開始したのである。然るに創立後五ヶ年にして、貞吉病歿(或は文政二年四月六日卒す、五十四才の異説あり)せし折がら、有田の陶工三田勇次郎(元伊萬里人)來合せるに及び、爰に又若杉の赤繪をも完成せしめたのである。
金ヶ江傍系の石場採掘公事
文化四年(1807年)石場穴探掘支配權に就て、庄屋金ヶ江清五兵衛と、多久藏人の被官なる、上幸平の福田徳次郎と公事を生じ双方より多久美作茂孝へ訴状を提出した。元来兩家は李参平の次男清五左工門より出でし、金ヶ江傍系(前記金ヶ江略系参照)である。
理由は先祖清五左工門より、石場土穴伐出の支配を許されて、代々其特權を世襲せしところ、曾て徳次郎の父與次兵衛は、其伐子なりしも、先代久左エ門の養子となりし關係上、興次兵衛の子が此特權を継承すべきものと主張するに對し、清五兵衛の申立は、己か年少なりし故に、叔父與兵が後見せし儘、世襲の支配権を横領せしといふのである。
金ヶ江宗家稗古場へ移轉
茲に又宗家なる金ヶ江三兵衛は、四代まで上白川の天狗谷にて製造せしところ、五代惣太夫に至つて上白川の住宅も同門金ヶ江萬右工門(明治時代に残せし繁三郎の祖にて住宅は父の代にて普請せしもの今寺内信一の居宅と成つてゐる)へ譲り渡し、全然稗古場に移轉して窯焼きしは、既に家運傾きし爲であつた。次の文中にも「五代目の惣太夫にて焼倒れ職方相止め後の三兵術より以来は繪職等にて過賭」云々と難儀の由を申立てゐる。
尤初代の三兵衛時代は、上白川より掛持として稗古場窯を築きものゝ如きも、後代にては、此にても営業困難となり、窯も人手に渡りしものであらう。此五代目惣太夫は晩年南川原の柿右工門方へ、職人として就業中死去せしと覺しく、其墓碑が明和六年十二月十九日金ヶ江三兵衛として酒井田家の墓所内に建てられてある。想ふに死去前三兵衛と改名せしものなるべく、斯の如く名家の後裔とても、移りゆく代の盛衰浮沈は是非もない。
當時三兵衛の子孫は、繪書職人として、僅かに生計を立て居りしが、前記同族間の公事に割込み又左の訴願を多久孝へ提出するに及んだのである。
金ヶ江訴願書
乍恐某先祖の由緒を以御訴証申上口上候
某先祖之儀者忝も慶長年中太閤公高麗御征伐の砌御當家御兩公殿様(直茂勝茂)彼地へ被爲遊御詰色々資口御工夫之節日峰(直茂)御勢山道不相知所へ被御行進御案内仕候者も無之遙の向への小家三ヶ所相見候故御家來方御立寄宜道筋被相問候得者家より唐人三人名出し聽候得共申口韓語にて難相分候得共手振など仕候へ者大形に差分り共筋へ御掛り被責入其末大勢相き御合戦の處全御勝利有之たるも其後高麗御取鑲御歸路の節船場にて最前道案内仕候唐人被召呼御褒美の御言葉被成下其上被相尋候者名元地名被相記且又何の業を以て世を渡候哉被相問候處右之者共申上候我者古より専陶器を仕立候由申上候御の上被仰候者此節山道導仕候得ば地下の殘黨仇を報可申に一先我日本へ引越家業仕間敷哉さ懇に被遊御意候故致承腹速に御供仕候て御當地へ相渡り其節多久長門樣同御出陣御歸國の上被蒙仰右之者共御預に候よ有田郷亂橋と申處へ暫被召置居付家業の者右在所野開等仕日用相辨候但右唐人罷在候高麗金江申處の産に御座候由
其砌皿山の者至つて深山にて田中村と申人家飛々に有之機の田島にて百姓相立居候も其末右唐人御合により段々見廻り候處今之泉山へ陶器見當り第一水木宜敷最初者白川天狗谷に釜を立工子孫に相紋漸々繁榮仕候處太守樣珍敷事に被思召御勞り被爲候內長州様より其後宿在付下女等下し給はり夫婦のをいたし釜焼方重に相鋤細工方其外相敬候處より地方の者は素より他方より居付候者迄致習人家多相成漸々繁榮の相成上幸幸平中樽奥へも百軒程の釜登相立候處餘り片付候場故相止其後者村々所々へ釜を移したるも百軒釜跡今に畠地に相成居候諸人存じに御座候事
一唐人三子を設候某先祖金ヶ江三兵衛に御座候元金江申所之者は皆金ヶ江と名乗釜焼方へ手傳仕候者數人被相撰金ヶ江氏血脈の者にては無之候得共一類同前應に付頭取の内拾人金ヶ江氏へ被召成長門様御預の末御被官に被相成干今年々御扶持頂戴仕候然ば土場の義最初伐開候に付て三兵衛支配にて段々伐出致繁昌伐子凡四十人組にも相成廣々に掘崩し候所より爲冥加土御上相願年々相納候付干今御盆に相成居候最前は右土代銀無之伐賃丈にて引取候段申傳候義は只今の窯焼の人共存在候左候て右三兵衛儀於稗古山窯を焼過分の仕成仕候に付て土場心遣迄不行届に付土伐頭取共へ相任置たる由然れば三兵衛同子三兵衛其跡惣太夫其子三兵衛さ相續今の惣太夫迄元祖より六代に罷成候然處時節に随ひ陶器の不景氣等にて釜焼も盛衰有之五代目の惣太夫迄に焼倒れ職方相止後の三兵衛よ以来は繪職等にて過賄仕候處彌賃金落家居も幽に相殘潰同前及難義罷在候事
一右之由緒に御座候處中比より土伐の内より何の首尾を以て相願候哉銘々土穴持と相成職分仕候然處近年清五兵衛と與次兵衞跡の人々土穴之儀及争論双方出訴等仕御上御難題罷成候段殆心外に奉存上候一體前に申上候通某先祖三平最初伐開候得ば開基にて支配被仰付置候得者専某一手之筈に候處年經り候得ば銘々の物と相心得双方相手候義心得違かと被存候右之謂に候故土場は當窯焼方繁榮爲被仕候爲御褒美從長州様も御判さ物頂戴仕候義証據歴然之事に御座候就ては本家は及衰微末葉相昌口論仕候義甚以て不宜右清五兵衛與兵衛義者元兄弟之分に御座候得共何も死後に付ては不相分出訴申上る儀と存候ヶ様の儀向後脇々へも出入紛敷候得者常は境目土穴一通尤御用穴を除き且辻穴白土穴迄此節御取揚被下元來之通某方支配被仰付被下度奉願上候向後其通於被仰付は□□□伐心遣の義は元々之人に被申付過賄仕候通可仕被存候然上は本家の義に候得者穴心遣より年々私方町組合力仕候通相定候節は御蔭に家名不相倒末相纒可仕奉存上候尤某先祖之義は高麗人之末に付ては可貴様無御座候得共御先代樣御執立被成下就中長州樣御代之御懇之末是迄御扶助を請候通御重恩の程難中盡次第に御座候處最早相籟相不叶候通成行候義對先祖近來無本意義に付て右之通奉訴証候條乍恐御上筋宜(被仰上御吟味に相成候樣重疊奉願上候條不能申上候得共猶又御屋舗様よりも乍憚被爲副御言葉本家斷絕不仕相殺候通幾重にも可然様被仰達可被下儀深重奉願上候 以上
卯九月 金ヶ江三兵衛悴
金ヶ江惣太夫
同 三兵衛兄
金ヶ江久四郎
長門 御役人中 御披露
石場坑支配權の判決
文化六年九月(1809年)前記の石場穴支配権訴訟に對し、多久家に於て取調吟味の末惣太夫の訴願取上げられず。又福田徳次郎の申立不所存なりとて、境目土穴、白土穴共に取揚げられ、金ヶ江清五兵衛に其支配を差許さるゝに至つたのであつた。
窯焼名代札増加
文化六年十一月(1809年)窯焼名代札の個数を増加して、合計二百二十枚に定められた。
文化七年(1810年)小樽に新窯が築造された。但し從來の登数にては、製陶上不足を告ぐるに至りし故に増築されたのである。
極眞焼發明
文化八年六月(1811年)辻八代の喜平が、極真燒と称する焼成法を發明した。三代以来禁裏御用命を拝せし彼は、益々斯道の向上に除念なかりしが、或時の窯出しに、室内の器苦窊みて墜落し、數個密着せる物があつた。毀ちて之を檢すれば、其中にありて焼成されし小器が、玲瓏玉の如き出来なりしより、喜平次之にヒントを得て、茲に一種の焼成法を案出した。
それは焼く可き器の別に、之を容るべき程の外廓匣を、同じ白土にて造り、共中に器物を容れて密閉し、葢合には釉薬を以て之を封じ、全くの眞空器中にて焼成する特種の方法である。然る時は直接火焰に鯛ることなき故、釉相は勿論、呉洲顔料の色まで、殆と理想的に焼かるのである。
斯くて焼上りたる時は、鐵槌にて外匣を打毀はすものにて、此時音を發して、硫化水素の臭氣を發散する。そして取出されたる器は、たとひ釉薄くとも、青花の焦燥なく、光澤膩潤無双の成器を得るもの、之を極眞焼と稱せらるゝに至った。是より禁裏御用の御器は、皆此特種法に依って、謹製することゝ成つたのである。
御用品製作の精進
尚辻家にて使用する泉山の原料は、御用坑と稱する、最上の磁石より精選されてゐた。又謹製中吳洲描御紋章の如き、一線をも澁滯の筆痕あるを赦さす、或は上繪附御紋章の純金磨きには、瑪瑙を以て除々磨研する故に、一つの御紋磨きにさへ、一日を要すること珍らしくない。
又生造り仕上なる水拭きの際には、器の素面に、不純の微物が夾雑するなきやを、眼鏡越しに檢する杯、念入可きものがある。斯くて焼成されし釉面に、スポサシ(微窪)一つ有りても、納進出來ざる故、此不納品丈は、悉く破砕されつゝありしが、後年に至り御紋章を上繪附にて塗捒して、私に使用するに至つたのである。
百田辰十の天秤積
文化年間(1804-1818年)泉山の窯焼百田辰十が、二段重ねの天秤積法を發明した。従来の窯積法は、ハマといへるを焼臺として、窯室内へ平一面に、一個づ並べて燒たものである。之は陶器燒時代より永年の慣習法にて、今より考ふれば洵に嘘の如き事質であつた。
故に小皿は底に三つ四つ、鉢や丼に於ては五つ六つ或は大いなる器は、九つ位の目積をなして燒上げたのである。次には表底の釉薬を、高台程の蛇の目形に剥ぎ取って、重ね積せしものにて、之とても今古窯趾の殘缺を漁れば、五六枚も密着せし皿が發見される。之が當時の磁器時代まで應用され積入法であつた。
而して此重積法を排すれば、矢張一個づゝ平列する外なかりしゆへ、辰十は此平積法の甚不經濟なるを遺憾とし、日夜之が工夫の結果、終に二段重ねの天秤積法を案出した。それは大トチミの柱を据へ、上に大臺ハマを載せて一階段を造り、又其ハマの中心にトチミ柱を置き、其上に又中臺ハマを重ねて二段に列するも、なほ地面上にも積得るを以て三段積となる譯である。
此天秤積法に改まりしより、従来より数倍の積込能率を舉げ得るに至つたのである。此發明は窯業史上特筆すべき事柄にて、此基礎考案が成立すれば、匣鉢重積法にても、棚板組立法にても、第二段の工夫が生れて來る。要するに辰十が此改良は、斯道の發展上著しき功績として、後年に及んで追賞されたのである。
深海市郎の伽藍積
後代此二段重ねより工夫されて、三段重の天秤積となり、頂上にはいつも一枚の大鉢を積むことと成った。次には此段ハマ両段の上には、又小形なるトチミを配して小ハマを載せ、其高低を利用して、蜘蛛手に交叉積するに至りしものにて、此伽藍積の考案は、八代深海市郎が工夫に成りしといはれてゐる。
有田川の水碓
屢述べし如く、有田皿山の地勢は溪谷を開拓し工業地さて、地域高低頗る多く、年木谷と石場よりの水流は、中樽の流と併せて本川となり、次に白川の清流と合して、此地を西方へ貫通し。又岩谷川内の奥なる大谷の一大潴水は、断崖絶壁の間を流れて、猿川の深淵となり此間磁石を粉砕する、多数の水碓か設けられたのである。
水碓とは天秤式にて、長さ四米突位の角材を支点上に置き、其頭部に水槽を作り、尻部に杵頭を具へしものにて、渓流を引く戸麺の水が、水槽に充つる時は、乃ち敵傾して潟出し。同時に一方の杵頭は、碓中の原料を搗く一種の敬器である。而して此大形の確に至つては、一度に三百五十斤の原石を容るに足るものがある。
猿川は又本流と合し、茲に曲川の名に北曲して伊萬里に注ぐ有田川と成つてゐる。遡って年木谷や、中樽及白川谷を始め、勾配ごとに堰を設けて、點々と設置されし水碓小屋は、如何に當時の水流が、豊富なりしかを察すべく、良夜逍遙すれば、月影砕く碓音が、清楚なる河鹿の交響楽と交錯されしも、今や此數百挺の水碓は、専ら電氣動力なるスタンプ式と交代して、唯敷ヶ所に名残を止むるのみである。
有田と伊萬里
伊萬里町は、此有田川の終點を注く海津にて、灣入深く波穏かなるところ、此地方の要港とされ、有田焼一手の販賣市場であつた。此處にては陶磁器の卸問屋や、委託問屋を主とせる一區街が出来て、そこの町名を有田町と稀せるに至ったのである。
有田より伊万里への行路は、東端泉山石場口を出て、杵島郡の水尾より宮野を越え、次に大川内村を經て、大坪村金谷を下る伊万里の門外入り、一方又有田の西端岩谷川内より、有田村外尾を經て、曲川、大山、二里の三村を通り、江湖の辻を下りて、伊万里の下土井に入るのと兩路があり、何れも約三里の行程である。
伊萬里焼の汎稱
内地向の製品は、有田内外山の外、大外山の製品迄も、此伊萬里市場を経由して搬出さるゝに至りしより、世に肥前磁器の汎稱を、伊萬里焼させられたのである。明治三十年頃迄は、有田内外山の仲買商人(多くは赤粕屋彙)は、皆此伊萬里の有田町や立町、濱町の問屋に手頭(見本)を委託して、諸國の御客と取引したのである。
後年長崎線が、有田皿山へ開通せしより、從來伊萬里へ集りし仕入客は、直接産地の有田へ来ることゝなり、そして又一面には、有田地元の仲買商が、何れも汽車にて縣外販賣を開拓し、或は樞要地に支店を設けて、直接販賣を試みるに至つたのである。
之よりさしも繁昌を極めし、伊萬里の陶器街も全くうち疲れ、それは恰も尾濃陶器問屋の本場なりし、名古屋の竹屋町同様の観を呈せるは、時勢の變遷として是非もない。今後は灣内を浚渫して漁港を主とするの外あるまいと考へる。然し従前は皆此伊萬里を中心として荷こしらへ、帆前や汽船にて、京阪地方をはじめ、中國四國北陸邊までも盛んに積出されたのであつた。故に本邦中、未だ白磁の製作を見ざる當時に於て、伊萬里焼とは、磁器の代名詞とされたのである。
それは歐米人が、支那焼をば磁器の代名詞として、チャイナと呼び、日本の漆器を塗物の代名詞して、ジャパンとせるのと同一であつた。而して又古製品の特色を観賞するに、オールドチャイナと稱する如ぐ、我伊萬里焼の古製品に對して古伊萬里の名稱が冠せられたのである。
古伊萬里
一体古伊萬里物とは、染附や赤繪物の何れを問はず、凡て有田焼固有の、ローカルカラーを現はせし、舊製品の名称にて、寛永より明治初期までの純呉洲應用時代の製品である。而し彼大川内の鍋島風や、又南川原の柿右工門式とは、模様の様式に於て、全く別されねばならぬ。
有田焼の窯銘
元來古伊萬里は、支那の作風を模倣せし意匠が發端である。故に之を日本化せしといふも、其畫柄に於ては全く之に類するものが少なくない。又窯銘の如きも、多くは支那の年が用ひられてゐる。さりとてそれが、其年號時代の作品に、順應せし物にはあらずして、皆良い加減に記入されたものである。
年號記入の辯
或は稀に、我邦の年號を記入せしものあるも、それが磁器創始以前なる天文や、文明なごの年號を用ひしものがあり。就中甚だしきは和銅年製といふのがあつた。是等は成丈古代の製器たらしめんとの無知識なる窯元が、製年圈外へ脱線せものであるらしい。
或は又支那風の縁起的文字の窯銘も少くない例せば福壽や富貴長春や、祥瑞などの文字も此部類であらう。尤有田焼なるものは、凡て各種技工の総合作品なる故に、各自の個性を願はすこと難く、従つて工人が、個々の作銘を記す観念にも、頗る薄かりして見るの外ない。
たゝ鍋島焼のみが、たさひ窯銘なくとも一見して、判明さる獨得の超越を見せてゐる。而して此時代の名陶家とても、主として支那式の銘を用ひしが、或は無銘のものも少なくない。又中位以下の陶家にては、畫工達の書くに任せ、陶家の氏名など、良い加減に記銘せしめし如く、就中西洋向などに至っては、たゞ漢字さへ用ふれば足る位の考へであったらしい。
松平銘
此氏名字を用ふる時に、當時の領主や上司などに同字あれば、忌諱として改銘せし物にて、たとひ同文字を用ふるも、必ず宇畫を變改した。會て上幸平の窯焼松本平左工門が、氏名の頭字を取りて、松平と記銘し居りしを、突然代官所に召喚され、松平とは恐多くも將軍家の御苗字であると、さんざんに叱責されて、改銘せし挿話が、一のナンセンスとして残されてゐる。
古伊萬里の古典的な特色の中に、最華麗なるは成化式の赤外塗の錦襴手にて、其赤釉の出色に異彩を放つてゐる。又明の赤玉を模せし瓔珞繋ぎにも、立派な錦手がある。一体此錦赤繪手は、柿右工門が支那赤紛を模せしに始まり、而して和蘭人や、嬉野次郎左工門の手に依って海外に輸出され後には本場の支那に於てさへ珍重さるゝに至ったのである。
世界一の磁器
まして未だ磁器を製し得ざりし常時の欧州に於ては、驚異的に愛翫し、獨逸のドレスデンや、和蘭のアムステルダムの博物館に、陳列されし古伊萬里の如きは、其頃世界一のポースレインとして稱揚されたのであつた。それが海外輸出禁止となり、有田焼は内地向として大いに發展し、全國の卸商を伊萬里へ引寄せて、巨額の取引を成すに至った。
撰上方法
取引方法は、まづ窯焼が最初仲買に賣渡す慣例には、窯出し選上げ品の、總出来平均を見定め置き、其一種の中より少しく勝れし物一個を執り、之を手頭(見本)と稱し、それに濃墨にて、選上全敷を三段に書上げて取引した。此選上を成す者は、選方荷師とする権威ある専門職である。
三段選方の方式は、第一段選の上を十と做し、第二段選のツラ物には七を乗じて掛け、第三段選の下物には五を乗じて掛け、此平均選位を八合六杓と見做し、外に割れ引き等の選損じを見越してなほ僅少の分引なるものがあり。或は焼上げの成績に依りては、上の一段に代はるに、九合物のイハクなる選位を主とすることもある。
數音符調
又數音符調は分(一十百千)厘(二)貫(三)斤(四)両(五)間(六)丈(七)尺(八)寸(九)の、六金勘定といへる頗る複雑なるものであり。そして共數字は蘇州碼字が用ひられてゐる。
卸商の販賣地分野
大仕入の卸賣商即ちお客さんなる者は、例せば越後の〆とか、大阪の忠とか、皆伊萬里へ來り、有田仲買商の委託せる問屋に於て仕入をした。最初は紀伊、筑前、越後の三方面を主として定められ、紀州客は江戸關八州を卸し、筑前客は京攝及五畿内より九州を卸し、越後客は北陸道筋の総てを以て、御縄張させられしが、此專屬區域も、年々と緩みを生じ、後には大阪、東京、土佐、越中、出雲、長門方面よりも、有力なる大仕入客が来るに至つたのである。
紀州客
最初紀州客は、其御三家藩たる勢力を以て、有田焼を自領男山産物として、江戸市場を開き、大いに商權を占むるに至つた。此名義問題に就ては、宗藩に於ても兎角の議論を生やしが、結局擴賣手段として利用する見地より、暫し默許することにしたのである(後年百武郡令の時改革せことは後段に述ぶ)
伊萬里問屋
伊萬里問屋が、有田仲買商の委託せる見本の内、お客さんとの商約が成立すれば、早速共通知により、有田から總荷が運ばれる。蓋し見本にて、中には上繪附の未成品もあり、之を青田賣と唱へられた。それは一種の皿にても、二三種の見本繪附をなし置き、相手の客筋次第にて、何れが向き物となるやの試みもありて、強ち先物質の手段のみは言へなかつた。
偖商約済の品は、問屋にて荷造師の手に依って荷造りが行はれ、大物は輪に紮けられ、小物の特級品は、石油箱詰であつたが、概して俵包や小口切荷である。それにはお客から貰ひし、印入の札木の表へ、各俵中の個激が記入され、船問屋扱ひにて、各地へ運送されたのである。當時の荷造個数は、今多少變更されしものあるべきも、現今紮け荷一俵の個數は、概略左の如くである。
荷造個數
皿鉢類
二尺口 弐個
尺八寸 四個
尺五寸 七個
尺三寸 拾貳個
尺二寸 拾五個
尺口 貳拾五個
九寸 參拾個
八寸 五拾個
七寸 六拾個
六寸 八拾個
向附 百個
中附 百五拾個
中皿 百五拾個
小皿 貳百個
食碗類(蓋付)
食碗 七拾五個
望料 四拾個
外蓋 六拾個
湯吞 百貳拾個
以下蓋なし
湯吞 百四拾個
煎茶 貳百五拾個
猪口 五百個
番茶器 貳拾壹組
丼類
尺口大 四組
九寸大 五組
八寸大 六組
七寸大 拾組
六寸大 拾貳組
火鉢類
尺八寸以上 壹個
尺五寸 貳個
尺三寸 貳個
尺二寸 參個
尺口 四個
八寸 六個
六寸 拾貳個
五寸 貳拾個
花瓶類(葢小胴表準)
二尺 貳個
尺八寸 貳個
尺五寸 貳個
尺二寸 四個
八寸 六個
七寸 九個
五六寸 拾八個
登支配と窯仕込
製陶窯は、連續する一と登の所有者ありて、各窯焼に割當て、貸附けるもの、之を登支配し、多くは有力なる窯焼であつた。或は窯焼にあらざるも、登窯丈所有する者もあり、此種の登支配者には、割當てし各窯焼へ製造資金を融通する者之を窯仕込みと稱し、窯焼は燒上後其販賣方まで、一切之を仕込主に委ね、斯くて窯借料と仕込金の元利を差引きて、其餘分を收入する者と、又燒上がれば、窯借料のみを納め方と稱して支拂の上、窯出しするのもあつた。
火入吟味
窯焼は一人にて、一間、又は二三間の窯を借る者があり、或は半間宛二人にて催合積するのもあつた。要するに連鎖的焼成とて、窯の火入れ日丈は、一旦定めし期日を決して變更することは赦されぬ。故に其度毎に火入吟味と稱し、一同登支配宅に集曾の上、火入期日を確定し、相背かざるの盟約に調印して、之を火入連判と稱せられた。斯かるゆへに、若し積込方の後れたる者は、下窯より噴出づる焼姻に咽びながら、眞黒く燻ぶりて窯積することも珍らしくなかった。
登窯の分割所有
登窯は全部を所有する者と、其中の一部を所有する者との連續登もあつた。例せば東登(大樽窯)は川原善右工門(善八の名)の所有にて、一番より六番までは小窯であり、七番より九番までが中窯となり、十番より二十四番までか大窯であつた。此二十四間の中、十三番が岩尾郡兵衛(兼太郎の父)の所有にて、十一番が藤井惠七寛蔵の父)の所有であり、そして此窯持には一間ごとに、釜沽券状と稱する株券の如きものが、下附されてあつた。其内の一枚を左に掲ぐることする。
窯持の沽券状
東登釜沾券狀
但 拾番 大山善右工門
大釜壹間
右釜當分共方持主其紛無之候追而釜焼へ相讓會所願出沽券致替可申候仍沽券狀如件
文久三年亥二月 會所 印
右釜相改仕處相遠無之候 以上
森與兵衛判
右釜改立會致存候 以上
なほ裏面に左の通裹書されてある
表面之趣承届候 以上
原五郎左工門判
そして五郎左工門は皿山代官にて、興兵衛は皿山會所の目附役であらう。
唐人藥
後年有田に於て、顔料及熔融劑等の發達は見る可き物ありしも、彼青花顔料なる吳洲に限り、我邦に良種の天産を得ざるを以て、全く支那より輸入を仰ぐの外なかつた。故に之を唐人薬と稱せられて重要視し、維新後八代深川榮左工門は、主管田代興一を長崎に遣はして、多量に之を買収せしが、後年は専ら同地の虎屋に於て販賣した。而して毛髪ほどの細さへも、歴然として色せし當時の上吳洲は、今其跡を断ちしが如くである。
龜山焼勃興
文化三年(1806年)長崎の龜山燒創始のこと、佐嘉藩廳の聞くところとなり、斯くては有田焼の模造品續出し、曳て我皿山の産業に打撃を興ふべしとなし、窯焼は勿論赤繪屋とても、此際一層殿密に取締りて、秘法漏洩と、職人の他山稼防止に努めしが、其間各國他山の工人は、それぞれ巧妙なる手段を以て技法を習得したのである。
成松信久
文化十二年十二月(1815年)有田皿山代官に補せられし成松萬兵衛信久は、窯焼の製品種別制度を設けて、他山の追従を赦さゞる迄に熟練せしめ、そして各山舊來の特色を保たしむることゝした。同時に又大川内藩窯の、製品様式を侵すなからんことを厳達した。例せば高台皿の形体及其櫛の歯描、或は梅花を撒布する模様の如き、又は染附茶碗に清楚な春蘭を描くなどの様式であつた。
各製品の分野を制定
而して各山定むるところは、南川原山は型打丼類、外尾山と黒牟田山は型打角鉢及小判型皿、廣瀬山は嗽ひ丼及八角丼、應法山は神酒瓶及小瓶、市の瀬山は六角丼等であつた。此制度は有田内山にも行はれ、泉山、上幸平、中樽は膳附物即ち食器類とし、大樽は丼と鉢、白川、幸平、稗古場は鉢井と花瓶に定め、岩谷川内は、火入と辨當重類に限られたのである。
有田皿山へ宗藩の保護
又藩が窯焼へ對する保護は、頗る周到であつた。燃料については、御山方役所にて伐仕組を設け、窯焼各自の請願に依り僅少の納金を以て拂下ぐることゝなし。又御米と唱へて毎年窯登支配へ割當て、此返納期を年三度に定めて、多数の御臓米が貸興された。更に不況の時は、製造資金として、無利子、或は薄利附年賦償還法にて、金穀を融通されたのである。
米俵と正月
窯焼と赤繪屋は、毎年代官所を御米を拝借し、そして大年の日に自家の雇用と定まりし繪畫、細工人、荒仕子、釜焚、荷擔ひに至るまで、皆一俵づゝ貸輿する慣例であり、件の職人達は、一ヶ年雇用の契約前金の外に、此米俵を我家の土間に据置て、始て御正月氣分に浸るのであった。
其他陶器商人も亦後年此藩金を拝借しが、何づれも維新の際に於て未済者が多かった。明治四年七月廢藩置縣の折、各藩の債権債務は、悉く新政府にて継承することなり、大蔵省に判理局(局長北代正臣)なるものあり、當時の未納額分を其後四十ヶ年賦にて徴収する仕組に定められし由なるも、此結末に就ては詳でない。
窯焼の門地
窯焼は何れも其門地を高められ、従つて家屋の構造など、全く士分同様の門構へを赦された。蓋し一面には、外部より製法を窺は警備でもあった。尤窯焼以外にても貿易商な久富與兵衛邸の如きは、藩主來泊の本陣とて特別の構造りしことは申すまでもない。
有田の窯焼は、元韓人に依つて開山され、其金ヶ江一門さえ被官位で、僅かの小扶持を給せられし程なれば、尾張や美濃の如く鹿爪らしい諱なごある者は少なかった。蓋し後代に及んては、兩刀をたばさめる侍氣分を、こよなき榮譽として買取りし者も、亦全く皆無ではなかつたのである。
窯焼の士分と被官
中には他郷の浪士が、此地へ來りて再び士分株を買ひし者、或は名乗はあつでも平民で済ましたのもあった。安政久時代(1855-1864年)には多額の納金にて十分に成りし窯焼もあつた。其諱を有する重なる者には、田代紋左工門守義(何某の家來)山口伊右工門信明(武雄藩の浪士)深川榮左エ門眞忠(鍋島縫殿之助家來)中島儀平秀實(村田若狭家來)平林伊平忠篤(諫早益千代被官)等があり。 窯焼以外には蒲池兵右工門鎮晴(村田若狭家來)正司泰助信敬(多久美作被官)川原善右工門速(鍋島千代之亟被官)等があつた。
大樽の被官窯焼
尤も被官となれば、苗字を用ふることを許されしより、窯焼には被官となりしものが少なくなかった。例せば大樽の窯焼のみにても、柳ヶ瀬平左エ門(鍋島安房被官)林伊十(嬉野彌平次被官)藤井恵七(深江助右工門被官)藤井佐太夫(成松新兵衛被官)森常吉(鍋島安房被官)森辰十(川崎孫之允被官)井手友七(成松新兵衛被官)川崎鶴助(鍋島卓之助被官)諸隈松藏(嘉村治兵衛被官)等ありしが、中にも江副嘉吉、岩尾郡兵衛、百武幸十の三人は、鍋島安藝の中小姓であつた。
工人の夜業
當時は未だ行燈に乗燭の時代なれば、窯焼に夜業する職人達は、多く短檠に鯨油を灯して燈明した。細工人は畫間に轆轤の地伸べ(生造り)をなし、夜は削り仕上や、又劔先にて型打物の縁切抔に従事した。此土間仕事は半敷(一人用庭疊)を用ふるも。當時トンパン(板差棚)が母屋の上り框の上に吊られ故に、此邊りの疊はいつも眞白けであつた。
繪書座の寝起
少し遠くより通ふ畫工などは、繪書座の火鉢に小鍋を仕立て、辨當のお數を作りては食事をなし、睡魔到れば其儘に伏し轉び、覺むれば真夜中でさへ繪筆を執るといふ、凡て萬事が呑氣であつた。斯くてこそ彼勁妙雅致を極めし繪模様や、又版書の如き地紋や素書(千條)などが描き出されたのであらう。
閑静の天地間
要するに物前(紋日前)と窯前(火入前)の外は頗る閑静で、夜は更ゆく車壺に、生乾器仕上を削る音や、繪薬を挽く臼の音、あるは水碓の緩調なる遠音を聴ながら、主人の窯焼が行燈の灯を掻き立て、あすの飯米代(五日目や十日目に職人へ渡す賃錢)の勘定するのが、面倒な仕事位で、汽車や自動車や飛行機の騒音もなく、静寂なる天地間に於て、此古典的なる古伊萬里の製作が続けられたのである。
材料や製作の念入
笰琳彩焼附の色なる赤釉は、紅柄など用ふることなく、皆丹礬(硫酸銅)を焼きて、五年も八年も湯酒しせしものであつた。又燒物地土の拵へ方も、細かくして粘土となし、それが半歳位經て、黄色に成りし物を使用せし故に、粘着力も豊富であつた。又釉薬を施すには器を轆轤に乗せて、大筆もて幾度も塗廻せしもので、此厚釉より生する奥床しき色相が、古伊萬里焼の特色であつた。
乾かし木
素焼窯を焚く燃料は、素焼木と稱し雑木なるも、本燒燃料の多々良木(松村)は、一度乾かし窯に入れて、枯松葉にて燻ぶし、其篇色に成ったのを用ひたのである。中には火入窯の通(連續せる窯と窯の間なる通路)に揚げて、通枯らしをなすことありしも、折々失火を起す憂あるを以て、今は滅多に行はざること成った。又多々良木は、皮を剥き置く方が火花が上がるとて、枯らす前に近所の女達が、銘々薄刀へ手拭を押當て、一々皮を剥取りては、薪にすべく持去らしめたのである。
窯焚き方
素焼窯や、赤繪窯にて巨器を焼く時は、生木か枯木にて二日も三日も練らし焚を行ひしが、それは一時に火力を強めて、器物を焚き破らぬ注意の爲であつた。凡そ此製造行程中、最肝要なるは窯の焚き方である、それは船頭が船癖、馭者が馬癖、銃手が銃癖を識る如く、窯焚は其窯々の火廻り癖を識り置く必要があり、そして最初の練らし焚より、攻焚、揚げ火、揚て見(色見)に至るまで、之が甚だ熟練を要するのである。
たとひ如何なる美術的作品とても、製作行程の終點たる此窯焚方が、千番に一番の兼合である。故に斯業の職人中にても、此窯焚なる者が、一番驕つてゐた者で、それは火入中、窯焼より賄ひ膳を持参し時に、少しく不味いおかずでも添てあれば、彼等は用捨なく打楽たものである。
細工習ひ
繪書習ひの修業には、特に年期の定めてなく、多く自宅より通ひおりしも、細工習は七ヶ年間窯焼の家に奉公して、轆轤の道に練達せねばならなかった。それも最初の二三ヶ年は、小使と手傳ひ斗りで、滅多に車壺へは入れなかつた。そして此年期を終へるとなほ跡一ヶ年は、御勤めて義務奉公をせしものにて、漸く八ヶ年目に於て、一人前の細工人と成って、巣立ちしたものである。
之より彌賃金を定め、親の膝元より通勤することと成る。斯くて就業する凡ての職人は、大晦日の夜までに翌年の勤務先を取極はめ、其契約金として若干の前借をするのが慣習であつた。
前借勘定
此借金の支拂割賦は、三月の雛の節句、六月の山登り、九月の御供日、十二月の除夜とに四分されて、仕拂ふ仕組にて、それを又五日目や十日目の飯米代より、等分に差引くのである。
山登り
六月一日よりは山登りと稱し、各職人は五六日位業を休みて酒宴を張り、或は湯治や遊船等に連立つなど、之は彼等にとつて一年中の行樂事である。此慣習はいつ頃より始まりしかは詳ならねど、此頃花見るには既に遅く、さりとて秋晴の遊山時節でもない。想ふに最初は花見頃なりしを、其頃製造時期の繁忙都合に因り、第二期勘定頃へ繰伸ばされしと見るの外ない。
禮廟を祭る
有田の山登りも、彼內田黒牟田や小田志のヒウラク舞と、同種の興樂に相違ない。而して此皿山の山丘中、酒宴場の適所を求むれば、まづ稗古場の観音殿であらう。此處の松樹下の巖上には、屋根造りの古き石塔ありて、表面に祭礼廟と刻し、其下の右に金ヶ江氏、左には深海氏と彫られてある。
當時此殿下にて宗傳の未亡人が、内田より移轉して開窯し、李参平も亦上白川より掛持にて此處で焼いてゐる。故に其頃多くの韓人達を代表し此上に小塔を建立し、以て故の祖先を祀り、或は望郷の念禁じ難き新渡者も、此千疊にて宴を張りては、例のヒウラク舞(風樂舞)を演じて、日頃の憂懐を散ぜしより、此風習が傅へられしものと想はるゝ。
荷擔ひと車力
陶磁器を有田より伊萬里へ運ぶには、皆荷擔ひの肩であつた。後年大樽の古酒場(川原家)にて、運搬用の大八車を用ひ始めしが、頗る便利なりしより、岩谷川内の鍛冶職馬場虎助に頼みて、之を陶器用荷車に改作した。(此地方にて、未だ護謨輪のなき自轉車の初期にも、其子虎蔵が製作したものである)此運搬車力の使用始まりしより、下手物は間藁を挟みて、牛馬や人手にて曳くことゝ成りしも、上手物丈は矢張荷擔ひの肩にて運ばれた。それは荷籠の緑に網を着けて、共内に積み重ね、網を掩うて器物のを防ぎ、上にてしかと結ばれたのである。
擔ぎ荷の重量計算
上手路の荷擔ひは馬乗場より、佐敷峠の茶屋が中央の休憩所にて、下手路の荷擔ひは、黒川より唐船の茶屋が中央の休憩所であつた。軈て伊萬里の問屋に持参すれば、此處にて荷籠ぐるみ目方を量り、其量目を計算して賃錢が仕拂はれた。それは時に於て相違ありしも、まづ百斤參拾銭位であつた。(車力荷はぐつと安かつた)荷擔ひの中には、これが辨當迄此中に潜ませて、量目を殖し、跡にて取出し晝食する絞るいのもあつた。而して此荷擔ひより後年第一流の商人と成った者が少ない。
長崎荷運搬
天保年間(1831-1845年)より長崎貿易が行はれ、其頃の送荷は、今の有田村岩峠を越え、大村領波佐見を過ぎて川棚に達し、此地より船にて大村を横断して、時津に着けたのである。若し風波の折には、其東方伊木力に着船し、それより再び擔ひ荷として、長崎へせしものにて、有田より二十里と稱し、一日がりの行程であつた。船は普通二挺櫓なるも、特別の場合は櫓夫を増すのであつた。蓋し大貨物に至りては、馬背に依って運ばれたのである。
韓語らしき名詞
製陶上に用ふる名詞には、韓人より傅はり韓語とおぼしきものが残されてゐる。
○ハマ
窯積の際器物を載せる臺にて、焼き着きを防ぐため、其表面へ目砂を塗る。尤器物の高臺下にあるのは小ハマにて、天秤の臺となるものは大ハマである。なほ鹿児島の正月には、丸木の小口切にせし物をハマ投げと稱する小供の遊戯がある。之も此窯具より起りしものか、識者の教を待つ。
○トチミ
實はトチンと稱し元陶枕より訛りしといはれてゐる。前記の大ハマを載するところの柱にて、或は天秤トチミとも稱し、其上に二段トチミ、三段トチミがある。
○ヅーギー
小トチミにて、小ハマやチヤツを載せる棒形の積具である。瀬戸にてはツクといふのである。或はヅーギーとは、邦語にて胴切の訛りかとも思はるゝも、不明である。
○チヤツ
小ハマの種類にて、中窪に成つてゐる。之は丼などの高台内に差込んで、焼くところの台具である。
○オンザン
連續する登りの、窯と窯との間にある、多數なる焰の噴き出し穴にて、此調節は焼成上大切なものである。或はオンザンの巣(温散の孔か)ともいふ。
○トンバイ
築窯に用ひる煉瓦形の材料にて、耐火性の粘土を以てせしものである。
○トンパン
製器を載せし皿板を架する吊段棚であり。又戶外にある單式の柱トンパンは、天日乾燥架である。
○オロ
戸外に築ける、長方形の土練り臺にて多柱トンパンの下にある。
○チョッパゲ
土用や、釉薬調合用に使ひし干瓢器である。則ちパカチを切半し、柄を着けしものにて、朝鮮ではチョパギといふ。