多久系 有田窯 参

肥前陶滋史考
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鶴田 純久の章 お話

北島源吾の朝鮮貿易の一手
 文政三年九月十五日(1820年)成松代官は、朝鮮向陶器輸出の権利を、赤繪町の北島源吾が一手營業に許可したのである。

赤繪町 北島源吾
其方儀朝鮮向陶器注文引請燒立一手に被仰付候に付ては劉州より注文申來候節は源吾請取燒地相整地へ仕向可仕候萬一際に注文を請け焼立或は荷物致候者有之時は差押さへ早速會所に可申出者也
文政三年辰九月十五日
成松萬兵衛 花押

 是より先安永年間(1772-1781年)佐嘉藩は、對馬藩主の手を經て、有田焼を朝鮮に輸出することを認めしかば、藩主宗氏は、伊萬里の陶器商へ朝鮮用達を命じ、後稗古場の窯焼北島萬吉と、赤糸町の北島源吾との二人専業となりしが、茲に源吾が一手に歸するに至つたのである。

盤盞器
 此朝鮮向は主として磐盞器(又飯床器と書く十八揃大白金福膳部通)と稱する彼國食器の高級品にて、蓋共に三十二揃であり、そして蓋は皿に代用さる物である。錦附にて普通一組八拾圓より百圓位なるも、現今滅多に需要がない。
 北島源吾常典は十六軒赤繪屋の一人にて、元治元年十月二十七日卒去したのである。

成松代官任滿て歸る
 文政八年代官成松萬兵衛信久は、任満ちて佐嘉へ帰ることと成った。彼は龍造寺隆信が四傑の一人成松遠江守信勝十一世の孫にて、二十三才にて藩の評定所究役試補となり、文化十二年三十八才の時、有田皿山代官に補せられしが、仁惠治獄甚正しく、清廉質素にして、能く民心を指導した。
 甞て有田皿山の祭禮には、必ず浮立と稱する途行楽が、打囃さる慣習であつた。故に皿山の町々十區は、何れの區も、大小七八個の鉦、締太鼓、横笛、大太鼓等一組つゞを備へて、豫習を怠らず、斯くて祭禮或は雨乞到れば、大撃して打出したのである。

浮立喧嘩
 就中上幸平は、十二人擔ぎの一番鉦の大を誇りし、本幸平は三番鉦の音色が自慢なしも、奏曲に於ては白川が一番上手といはれてゐた。元來此地の民俗剽悍にて、神事や雨乞の途上に於て、兩區の浮立相會する時、曲節忽ち急調となり、必ず大闘争を起すことを定とした。
 信久此地に赴任する始めに當り、邑吏を招きて命するに、吾豫て兩區の浮立相會ふ時は、必ず闘争すると聴く、故に親しく之を觀んと欲す、某日を期し兩區の奏者を聚めて、浮立を囃さしめよと。而して當日に至れば、信久其正面に胡床して観覧するに、奏終るまで闘争するものなし。之より有田の浮立喧嘩大いに治まりしといはれてゐる。(後年此種の弊を考慮して、従来の二區神事當番を、年々一區づゝに改めたのである。)

信久自ら廳舎を繕ふ
 當時宗藩の財政頗る窮乏し、皿山代官所の廳費年米僅に五石を以て充てしめた。故に廳舎の如きは、屋根棟大いに破損して執務に堪へざるを、信久自ら篠竹を伐り来り、縄を挿し、或は蓆を縛りて雨露を凌ぐに余んじつゝ只管陶業の繁栄と、町民の福利を念とする外、又他事なかったのである。
 信久任満て歸るや、有田町民は其徳を追慕し、成松社なる祠を建てしも、石質粗にして湮滅に歸せしを以て、明治二十三年有志相計り、横尾謙撰文して建設されしもの、今陶山社公園にある頌徳碑である。(大正二年四月再修理を施したのである)

對州焼朝鮮輸出の失敗
 文政十年頃、對馬嚴原の犬塚小十郎、吉田市等は、先に發見せし對州土を原料とし、三河内より工人を雇いて磁器を製作し、以て朝鮮輸出を計りしころ、濱上の手數は既に同三年より、有田の北島源吾が專賣と成りゐるを以て、如何ともなす能はず、彼等は百計盡さて、遼に三河内焼を對馬へ運び、劉州焼とし再び輸出を計畫した。然るに宗藩主の特派せる、釜山詰役中村存兵衛、伊藤忠兵衛は、其輸入陶器を験するや、甚だ脆弱なりとして、之を禁じたのである。

子の歳の大颶風
 文政十一年戊子八月九日(1828年前)なる前代未聞の大颶風は、翌十日の朝五つ頃(午前八時)まで吹き続け、九州より北陸奥羽地方へかけての大災害であつた。此時諸藩よりの損害高書出しに依れば、我肥前鍋島藩の三十一萬石が筆頭にて、則ち總石高の九十%を失ったのである。
 加賀の七十八萬石(十分の八)仙臺の四十三萬石、肥後の三十七萬石、久留米の十四萬石、阿波の十七萬石(以上十分の七)薩摩の四十一萬石、越前の十四萬石(以上十分の六)備前の十四萬石(十分の五)長州の十三萬石(十分の四)藝州の十二萬石(十分の二)筑前脱すとあり、如何に損害の大なりしかを察するに除りある。
 佐嘉領の災害然も佐嘉領内は、田畑七千七十一町五段の損害にて、山潮八千三百十八ヶ所、潰家三萬五千三百六十四軒、流家千五百十二軒、焼失家屋千六百四十七軒、破船二千八百三十二艘、流失船八百十三艘、怪我人一萬千三百七十三人、溺死二千二百六十六人、横死七千九百〇一人と註せらる。此際死者の家々には、藩より三百石の救助米を下し、なほ又藩の御藏米を拂下くることゝなりしが、それは筑前、久留米、柳川の平均相場三斗値、銀二十四二分の定めにて渡され、そして藩主齊直は手元不如意の中より、三千雨を救恤したのである。

有田皿山全焼
 而して此八月九日の有田皿山は、九つ時(正午十二時)より北東の風吹き荒み、天は電光々として射るが如く、地は震動して風位は辰巳へ廻り、豪雨中の大颶風となった。斯く屋根瓦は鴉の如く吹き飛ぶ中に、岩谷川内の窯焼山口森吉方の、素焼窯の火を吹き飛ばして大火となり、焰々金比羅山を焼き越したのである。
 之より忽ち本町を甜め上ぼる火炎の猛烈さは、火馴れの町民とても如何んともせん術なく、全山阿鼻叫喚の果は、岩谷川内四十戶、白川百戶年木谷十戸許りを残し、さしも繁華といはれし千軒の焼物町は、全くの烏有に儲し、焼け残りは頑丈なる數軒の土臓のみであつた。
 猶此豪雨は、河川汎濫して洪水となりしも、當時は飛石のみにて橋梁なく、多くの假橋は悉く流失して、人々遁れ路に窮し、或は窯内に逃げて焼畑の爲に窒息死せるがあり、中には高手なる深井に忍びて、漸く一命を拾ひしもありしが、不幸燒死溺死合せて五十餘人といはれてゐる。前記なる藩の統計中、焼失家千六百四十七軒の大部分は、勿論此皿山でありしに相違ない。

系圖記録の焼失
 此際各登窯の屋根悉く焼けて、残りしは白川の一と登となった。辻家にては禁裏より御下賜品の全部を失ひ、寺々は法字と共に、過去帳が焼失され、其他各舊家の古器珍什は勿論、系圖記録の如きも全く灰燼に帰せし爲、古よりの正確なる史質を徹すること、殆んど不可能と成ったのである。
 焦土と化して燒出されたる数千の窮民は、住むに家なく、着るに衣なく、喰ふに食なき情態に、隣村各地の知己縁者は、有らん限りの救助にせるも、此多人数を救恤するには、いつ迄も績く可くもなかったのである。

庄司庄治の救恤
 此際焼失を免かれし岩谷川内の質屋(後の碩讓邸)正司庄治は、大火に依って貸金三百兩を失ひしにも係はらず、洗質衣類二百點を始め、家財及貯穀の有丈二十俵を悉く別ちて窮民に興へ、之に因つて身代忽ち空しく成ったのである。

大窯焼門前の給食 叉燒残りたる白川や、年木谷の大窯焼の門前には、夜な夜な頰冠りして佇む者引も切れず、之等の家内は、毎日掛りにて握飯を結び、又は粥を焚きて門外に持出すなど、毎夜の救恤に忙殺さるゝに至り。中にも附近の郷村にては、此窮民の為に、畑の野菜や果實を荒されて、迷惑する者も少なくなかった。

有田工人の散布
 此大火より多くの職工が、地方の各山へ移轉する者多く、小田志山轉者の如きは、百餘人ありしといはれ、而して其結果は大いに他の製品を向上せしむるに至った。是は恰も東京大震災の如く、下町の住民が山の手方面に移轉して、爾来市郡の境界なきまでに繁昌し、遂に大東京市を形成せしめしが如く、有田崩れの工人散布が、各山をして肥前焼なる大グループを形成せしものにて、或は又此際の分布は全國的とも見る可きであらう。
 九日の伊萬里町は、格別の損害とても蒙らざりしが、越えて二十三日の夜の大嵐にて、忽ち高汐を呼起し、襲来りし津浪は屋内へ浸水して、怪我人許多生しも、倒壊せしは草葺家五六軒のみで済んだのである。

有田窯焼の豪奢
 當時有田の窯焼は、職工を雇用する人数に於て相違あり、製品に就て優劣ありし如く、其資格に於て高低ありしは勿論なるも、職工よりは皆親方として尊敬され、何れも十分に比肩する門地と待遇があつた。故に歳の豊凶に拘はらず、衣食住には常に豪奢を極めたので、之を陶山生活と稱せられた。

眞の温情的
 一面又雇用せる職工は、家族同様に親愛し、彼等が冠婚葬祭は勿論、家族の疾病にまで悉く世話せざるはなく、所謂真の温情的であつた。職工も又窯焼の家族の如く馴れ親しみ、若し旅中大風雨などあれば、彼は工場や窯の安否を氣遣ひて、途上より引返したもので斯くて中には、十年も二十年も積して仕へしのみならず、何事も親方に頼ることが當然とのみ思惟してゐたのである。

俳人と遊藝
 又此山紫水明の地は、風雅のを樂める俳人頗る多く、其一面には遊藝盛んに行はれしより、有田人にて發句と一口瑠璃知らぬ者なしまでいはれてゐた。折節大一座の興行などは、窯焼中が請元となりて、経費を負擔し、職人や其他一般の町民へは、僅かの入場料にて、観劇せしめたのである。

有田人の誇り
 而して製陶に従事する職工は、他業の職人よりも、収入の豊に馴れて親方を見習ひ、身分不相態の生活を成す者多く、好況時に於ける神事區の如きは、互に綺羅を競ひ、百金の祭衣さへ惜まざるを、有田人としてプライドせし程にて、従つて平常貯金などする者は、却って衆人の軽侮を受けたのである。
 それが一朝此災厄に遭遇しては、水を放し池魚の如く、實に悲惨の極みであつた。宗藩よりは勿論手厚さ救助を施せしも、何分多数の町民とて結局は此際積極的に進んで、生活の改革を計るの外なかつたのである。

多久茂澄の英断
 宗藩主齊直は、参政多久茂澄に命じて、皿山の救済を善慮せしめたのである。茂澄は十代茂郎の三男にて、當年十八歳の青春なるが、彼は文政九年三月(1826年)催に十六歳にて抜擢され藩の参政に列せし程の英才であつた。而して彼は此大風災後、必ず来る可き饉の惨状を察し、宗藩領内の酒造を停止するの、大英断を敢行した。そして此機を以て、有田風習の宿弊を排除すべく皿山代官に命じて、根本的に検素の強制を厳命した。
 蓋し當時の皿山は、倹約すべき何等の物質も所有せず、只其布達に立脚せる而已に止まりしも、實際此強制が履行されしは、其後三年目齋正相續後の、天保元年五月(1831年)なる粗食令、次いで同年八月の倹約令の布達にて、豫て着倒れ喰い倒れの皿山をして、大いに警醒せしめたのである。

質素の強制
 是より焼け太りの復興に燃ゆる皿山は、如何なる富裕の身分たりとも、冠婚葬祭に見栄を飾ることを赦されず、又一切絹布の着用を禁じられ、或は金銀珠玉類の使用を差止め、同時に芝居興業物は勿論、凡ての遊藝さへも、厳しく停止されたのである。

斯くて真夜中輿入の花嫁御が、巡見の下目附に出會はして、絹布を剥ぎ取られ、又は銀の簪を挿しては、取上げられた者も少なくなかつた。或時は窯の内に隠れながら、地狂言の稽古中見つけられ、師直も判官も、一夜代官所の溜(牢)の中へ、押込められたナンセンスさへあつた。

築城献金を免ず
 文政十二年(1829年)藩は、當時火災後
の佐嘉城本丸の工事中なりしが、去秋収穫皆無の爲、一般の困難を察し、築城に對し、家中及市中郷村の諸津庶民より、年割の献金献米は、先に一旦聽納したりしも、目下金員を受くるに忍びすとて 納否は各人の随意たるべしとの布令を下せしに依り、皿山の献金は皆中止と成ったのである。

舊制度を踏習
 藩は又、有田窯の復奮に助力して、資金を貸興し、制度の如きも猥りに改廢を行はず、舊時代の儘を踏襲して、窯焼名代札二百二十個、赤繪屋名代札拾六個、陶器商人札拾八個に制定した。當時の皿山代官久布田權左工門より、赤繪屋への達文に左の如きものがある。

皿山赤繪附箔請以前より如定其方共へ被仰付置候條其爲運上一度判銀三十匁四厘宛正月五月九月年に三度毎歳先に可相納者也
文政十二年丑八月 久布田權左工門
當時の十六軒赤繪屋 當時の十六軒赤屋なる人々は左の如くであつた。

北島源吾─勝助 赤町 慶應四年四月二十六日卒去 五代目にて前名榮助俳名松と號す
今泉平兵衛─助五郎 七代目なり 赤繪町 天保十四年二月七日卒去
牛島源右工門─兵右エ門 赤繪町 嘉永三年四月二十九日卒去
田中幸兵衛─長十 赤繪町 天保十年三月二十一日卒去
富村芳右工門―森三郎 赤繪町 天保六年十二月十八日卒去 元同町松枝今吉の名代札を買受く
北島忍松——宇之吉 赤繪町 天保十二年七月十二日卒去
北島寅吉―橘次郎 赤繪町 弘化四年十月五日卒去
光岡幸平―久吉 赤繪町 文久二年六月二十日卒去
古田友吉―茂三郎 後辻氏に改む 赤町 安政六年六月二十八日卒去
藤重易吉一太造 本幸平 明治二年六月六日卒去
小島吉兵衛─富吉 本幸平 天保二年十月十九日卒去
川浪卯三郎─丑之助 本幸平 天保十五年十月卒去
辛島彌十─弘助 大樽 天保十三年八月二十三日卒去
大塚松太郎─財四郎 白川 明治八年十一月十四日卒去
古田坩右工門─森吉 稗古場 安政二年十二月七日卒去
西山幸十─孝蔵 中野原 弘化五年二月二十二日卒去

宗藩の財政窮乏
 之より先宗藩の財政は、極度に窮乏し、士風民俗頽廃して遊惰に流れ、従つて奢侈淫逸の風増長するに至つた。依って財源逼迫に對し、去文政六年(1823年)より相米渡しの苛制を設けしも、同八年に至りて内廷の破綻を来たし、有田權之允 納富十右工門の切腹となり。同十年には赤札と稱する不渡り藩札の發行となりしが、前記十一年の大天災にて全く破産の狀態となった。

齊正の相續
 途に濟直は隠居することゝ成り、天保元年二月七日(1831年)名君齊正(税直正と改め文久元年十一月閑叟と號す)年僅に十七歳にして封したのである。そして同年五月朔日執政鍋島十左工門茂義(武雄邑主)を召して倹約の命を傅へ、同時に彼自ら徹底的儉素の範を示して、藩の財政を立て直し、勤勉貯蓄を獎勵して、一面産業の隆盛を計り、殊に國産有田焼の復興に意を注いだのである。
 蓋し當時に於ける諸侯の財政窮乏は、獨り佐嘉藩のみに止らず。彼の福井藩の由利公正が、國産羽二重を長崎へ持込みて、外人へ直賣込をなし、裃姿に大小を帯びながら算盤を弾き、權衡の目を量りて、藩の財政を立直せしが如き。又紀州藩の伊達宗廣(陸奥宗光の父)が、熾に八丈縞を織出して、大阪の藏屋敷に運び置き、名優尾上多見藏が出演に着せしめて、大々的賣出を計策し、以て同藩の財政窮迫にせしが如き、其一例であった故に鍋島藩に於ても、國産を奬勵して、其の財源補足に供することは、藩の立場としても、喫緊の事柄であつた。

玉座御褥を拝受す
 天保三年(1833年)辻十代喜平次は、常陸大椽を襲ひ、忝くも先帝光格天皇の召され賜ひし玉座御を拝受した。(今に同家の座敷に扁額として掲げ奉りつゝある)

仲質
岩谷川内の正司庄治は、嚮に大火の際有丈の家財を販給して質屋を閉ち、其他の同業者又再び開業するの資力を失ひしより、有田の金融は非常に窮迫せるを以て、止むなく武雄其他の筋を便りて、町々へ仲質を立て、利息三步限り月十二ヶ月と定めたのである。

年賦拂貸金
 天保四年十月(1834年)泉山の庄屋深海和十(宗傳末葉)、喜右工門(大樽金子氏か)、平右工門(白川中島氏か)、虎助(幸平諸岡氏か)、長右エ門(赤繪町田中氏か)、廣吉、興七、及別當武十、安兵衛、喜平次(上幸平辻氏か)、彌三右工門(幸平吉富氏か)等連署して、時の皿山代官吉谷判兵衛へ願し、茲に年賦拂貸金振出となつたのである。
 此年賦拂の貸金は、直に有田窯業の金融を霑ほし、同十四年十一月には、金百六十七兩三步一朱錢百〇五貫二百三十四匁、此金百五十四匁三步、計金三百二十二兩二歩一朱の巨額に達したのである。
 天保六年八月(1836年)中野原の久富惣兵衛と、大の柳ケ瀬儀三郎(茂平次の父)は、實地視察の爲上阪して、肥前屋敷に至り、大火後の有田焼販賣策につき、種々考究するところあつた。

大鹽の亂
 天保七年二月十九日(1837年)大阪町奉行(跡部山城守良弼)の施政振に、憤慨せし興力大壚中(平八郎)は亂を起し、神社、佛閣、大名の屋敷等を始め、民家一萬八千二百五十戶を焼盡した。蓋し文政の凶作は、延びて各藩の作米津留を行せしより、大阪への廻米塞がり、市中餓死相次ぐの狀態を呈せしかば、彼は義憤の結果反感的暴譽に出てたのである。

天保の機饉と拝借金
 天保七年(1837年)又々天候不良にて、五穀稔らず、關西地方特に米價の暴騰を來し剰さへ金融杜絶するに及び、有田伊萬里の陶器商は、大いに困難するに至ったのである。此飢饉より刻々と逼り来る食米の窮乏は、有田の陶業を脅すこと頼りなるより、天保八年正月十三日(1838年)藩主齊正は、有田代官の請を客れて、内庫所より資金を貸興し、窯焼を救済して以て、有田陶業の危機を脱せしめたのである。

教導所
 天保九年(1839年)陶業の監督所なる、上幸平の皿山會所へ、新たに敬導所を設くることゝなり、別に藩吏二名を置き、有田總心遣ひの職務を以て藩民の間に立て、事務を執ることゝ成った。猶此教導所の前庭には、一尺角に高さ一丈餘の柱を建て、法に背く者を括りつけて、衆民へ酒らすことしたのである。

草場佩川講教す
 この大火後、此地の人心荒み民俗演悍となり、郡代其人を得ざれば、物議紛擾甚難治なるを以て、なほ別に宗藩より、頑儒草場佩川を、此教導所に派して講教せしめ、以て陶甄の法をとることにしたのである。

蒔繪陶器
 此頃長崎今鍛冶屋町の、漆器商淺田屋茂兵衛は、蘭人と貿易を始め、佐嘉より來りし蒔繪師松尾政治をして、漆器材料に加工せしむる外、陶磁器に蒔絵を施して、装飾を加へることを創始したのである。

久富の和蘭貿易
 天保十二年(1842年)中野原の豪商久富與次兵衛は、長崎輸出の和蘭貿易を開始すること成った。彼富村勘右工門が、印度密輸出事件後、柿右工門の外、有田焼の通商久しく絶せしもの、茲に再び公許復興の機運に向つたのである。

古伊萬里鑑定
 之より先與次兵衛は、前記の田屋茂兵衛と提携して、有田焼を長崎に送りて販賣しつゝありしが、此頃蘭人キヤピテンに、本國より磁器を送り來り、之は東洋の製品には相違なきも、抑支那製なりや、將又日本製なりやとて、茂兵衛に見せしめしに、それは正しく古伊萬里焼なることが判明された。
 キヤピテン謂へるは、斯くの如き良磁器は、未だ歐羅巴にも製し得ざる物なりとて、尚通詞山口某の紹介にて、其節長崎に来れる與次兵衛の鑑定を乞ひしところ、全く有田焼に相違なく、察するに今より約百餘年前に於て、嬉野次郎左衛門が、密輸し物ならんとの説であつた。

一枚鑑札
 是より談は和蘭貿易のことに及び、蘭人とても産地人との取引を希望せるより、途にコンシュル(領事)の交渉調ひ、與次兵衛は更に佐嘉藩廳の許可を得て、和蘭貿易の一枚鑑札を得るに至り、長崎の大村町に支店を開設したのである。

與次兵衛の意匠
 與次兵衛は、豫て古器の鑑識に長じ、窯焼にはあらざるも、自ら其形状及文様の意匠を工夫して、白川の嘉十や、南川原の柿右工門及樋口等の第一流窯焼に、製作せしめたのである。又薄手碗や珈琲器など、普通物は三河内に注文し、そして此時代の和蘭向には、多く赤繪にて、我邦の武者繪が描かれたのである。
 與次兵衛昌常は先代與次兵衛の長男にて、俳諧及點茶に通じ、蔵春亭橘齋(又吉哉)と號した。
長子三保助昌保興次兵衛を襲名して俳諧に出藍の譽あり。六男與平昌起長兄の嗣として宗家を継ぎしが、彼は白眉の傑物であつた。

天草混用と網代及五島土
 昌常始て泉山の磁石に、天草石を混用することを試燒し。又施釉の際泉山の釉薬のみにては、乾燥遲きあるを以て、工夫の末網代を加へて、共目的を達し、大いに製作上の煩を省くことゝなった。其外五島土使用の如きも彼の發見であつた。而して彼父子が製品の意匠と選擇は、大いに蘭人の嗜好に適して利を得るに至り、當時一ヶ年の貿易高一萬兩と稱せられたのである。

久富の有田時代
之より興次兵衛の家運彌繁昌し、中野原の一區は久富一門を以て巨屋軒を連ねるに至り、彼富村工門の有田時代より、今や全く久富の有田時代と成った。尤も其間に吉富の有田時代ありしも、彼は酒屋質屋業さて、陶業には直接の關係がなかったのである。(居宅は本幸なる、今の萬成堂より床屋までにて、初代吉富彌三右工門は、享和三年六月二日卒し、今後裔鶴太郎がある)

辻判三郎の差入手形
 天保十五年十月(1845年)、十六軒赤屋の一人なる、川浪卯三郎死去せしところ、子之助未だ幼少なるを以て、當分の間名代株を、親類なる赤繪町搖ぎ石の、辻判三郎が譲り受くることゝなり、同じ緑者の古田友吉(後辻姓に改む)が保護人に立ち、先に諒解を得し十六人の同業者へ、左の如き手形を差入たのである。

差入手形覺
本幸平山赤粕屋卯三郎義長病の末死去助幼年に付職方不行届一類の譯を以私へ譲に相成候申談の上各様へ其段御示談に相成候御承知被成下忝奉存候就而は各様御袍約書へ間仕事等爲致仕申間敷扨又附賃等の義勝手不相心得事に候得共各様へ時々御仕附方可相整候尤右丑之助追々には成長仕候に付向酉の年には又々右之北之助へ相讓候双方申談仕置候條各樣左樣御承知被成下酉年に相成候は丑之助へ讓願御手數可被成下候右之趣後日違約等無之様一札差入置申候仍而如件
天保十五年辰十月 赤釉町
判三郎判
友吉判
 そして名當は十六人の同業者なる辛島彌十、小島吉兵衛 大塚松太郎、藤重易吉 古田友吉、今泉助五郎、北島虎助、北島榮助、牛島兵吉、北島橘次郎、田中幸兵衛、富村森三郎、光岡久吉、古田增右工門、西山幸十等であつた。
 弘化二年十二月八日(1846年)多久長門族は、金ヶ江一門の願に依り、先に一旦停止せし被官小扶持を興ふること成った。此時願書の連名者は、金ヶ江三兵衛、同平左エ門、同利左エ門、同萬右工門、同彌五左工門、同辨之助、同源左エ門、同佐左工門、同文左工門、徳永彌三右工門等であつた。

山方の陶器監督
 嘉永元年(1848年)藩は山方に國産方を置き、長崎の人へ、肥前の國産品を販売することゝなり、之より一層有田焼の製造を奬勵するに至りしが、翌二年六月より、更に國產方より山方を分離して、内廷に別局を建て、側頭及側目附より其事業を兼帯せしめ、以て有田大川内等の陶器製造を、監督せしむることゝ成つたのである。

有田焼と瀬戸焼との對抗
 嘉永二年紀伊藩主徳川中納言は男山焼を、大村藩主大村丹後守は波佐見焼を、蓮池藩主鍋島攝津守は嬉野焼を、何れも大阪に賣出して、有田焼と瀬戸焼の中へ割込んだのである。之より佐嘉藩と、尾張藩の、大阪店舗は、彌對抗的に發展し、尾張は値安をモットーして擴賣し、有田は堅質を以て宣傳した。一方又江戸の肥前問屋大いに繁昌し、運上金年二百兩といふ規定であつた。
 嘉永六年(1853年)藩は、長崎奉行大澤豊後守定宅(乘哲)に乞ひて、佐嘉商會(長崎豊後町にあり)より直納の途を開き、翌年四月長崎聞役鍋島新工門に其取締を命じ、そして有田燒直輸出の計畫を立つるに至った。

田代紋左衛門
 安政三年(1857年)長崎奉行川村對馬守修就の時本幸平の田代紋左工門は、五國假條約を結んで外國貿易を畫策したのである。

齊正の社會政策
 之より先天保十三年三月(1843年)藩主齊正が、断行せし社会政策は、伊萬里、有田、山代三郷の大地主に大打撃を興ふるに至った。それは彼が、細民保護の目的より出でしものにて、土地分配の状況を調査し、地主が小作に出す田地をして、小作米年百俵以上、次は同五十俵より百俵まで、犬は同三十俵より五十俵までの三階段に分ち、此年八月十ヶ年間の小作獪豫を命じたのである。

加地子バッタリ
 是れ世にいふ加地子バッタリと稱するものにて、以後十ヶ年の期間来る毎に、更に十ヶ年の猶豫延期を命すること三回にて、明治四年の廢藩置縣まで繼續されしものである。地主は三十年間の小作料を収納する事能はず、小作人は作り徳といふことゝ成り、地主は運上する而巳に堪へず、其所有田地を放棄して、自然小作人の有に歸するもの少からず。斯かる故に佐嘉藩内は、他藩に比較して、貧富の差等平均するに至りしも、之が爲に大打撃を受けしは前記三郷内の大地主であつた。

大地主の恐惶
 中にも其主なる大地主は、中野原の久富興次兵衛、有田郷の前田儀右工門、松村丈右工門 伊萬里郷の前川善太夫 山代鄉の多久島徳之允等であつた(後年彼等は協議の上、松村丈右工門、及與次兵衛の五男久富龍右工門等上京し、司法卿江藤新平に面接して、大いに交渉するところありしが、明治五年新政府は、土地所有權を凡て三十年前の天保十三年に還元して、元の地主の所有権に復し、其代り小作料を半減すべしと布告した。然るに既に三十年間も自分の土地の様に、思込める小作人の大反對を起せし爲、明治六年に至り元の地主には、舊所有の二割五分、小作人には七割五分の割合に分割せしめしところ、今度は地主側が承知せず。依って明治十年に至り、土地を地主と小作人に二分し、地主に對して小作人は、其手に移りし土地なる地價の、四分の一に當る償金を交付する事にして、漸く終結したのである)
 此徳政敢行に依って、西目地方の人心恟々たるものありしかば、齊正は丹羽九郎左工門を有田皿山代官に任命し、久米雄七と共に、伊萬里牧島の牧馬を増蓄し、或は山代郷の石炭開拓を創始せしめしが、さしも全盛を極めし久富藏春亭も、此徳政の爲、家産を傾くるの止を得なかつたのである。
 當時長崎大村町の支店は、久富興平其任に當り居りしが、前記の始末にて、顧客外人の需要に應ずべく、經營費支出に窮せしより、途に條件附にて田代紋左エ門へ、貿易商の一枚鑑札を譲興したのである。

久富與平の高島採炭
 而して興平は、英人グラバー(歸化して倉場姓となる)と計り、同國技師モリスを雇ひ、高島炭坑採掘に莫大の経費を投じつゝありしが、當時未だ採炭の方法發達せず、頗る損失を重ねたのである。蓋しこれ本邦採炭事業の率先者といはれてゐる。斯くて後年此高島經營に當りしは後藤象次郎で、次の三菱に至つて、大いに利潤を収めたのである。

正司碩溪卒す
 安政三年十二月六日(1857年)正司庄治考棋卒去した。行年六十五歳であつた。彼は宇多源氏の末流にて、雲州富田の城主尼子經氏の後裔正七郎の三男に生れ、通称米十字を子壽、號を頑溪(大谷の意)稱し又南鶏と別號した。
 彼嚮に質屋を営業するや、園中に小祠を建て先聖を祀り、家業の除暇郷黨の子弟を教諭した。晩年一皐を拓き、新たに三戸を置きて、農事に従事せしめしが、文政大火の際財物悉く賑救し、居宅は三男碩齋(碩讓の父)に譲りて、拓きの山上に隠棲した。

豹皮録一百巻
 天保(1831-1845年)中彼は、江戸に遊撃し、佐藤一齋、安積艮齋等と交はり、又昌平校の林述齋(大學頭衡)の知遇をうけ。歸途浪速に大壚中齋を訪ねて、逗留数ヶ月に及んだのである。儲來讀書益勤め、其撰するものに豹皮祿一百巻があり、之には廣瀬淡窓、帆足萬里、篠崎小竹、後藤松陰、奥野小山、草場佩川等、當時大家の叙跋がある。平戸藩主松浦肥前守凞本書を読みて推賞措かず、即ち和歌一首を添へて頑溪に贈る
山すみは人知らねとも書おける
文こそ四方の海のはてまて

其他の著述
 又其頃宗藩の財政窮乏し、當路者の困惑せるを聞き、富強録一部を著はして、之を藩に献じた。其他經濟問答二十卷、家職要道八巻環堵日記二十卷、天明録四卷、武家七徳二十巻を著述してゐる。彼山荘にあるや、天下の有志墨客來り訪ふ者頗る多く、岩崎彌太郎の如きも其筆蹟を止めてゐる。

著者への謝恩
 後年大阪の時計商生駒權七、嘗て碩溪著はすところの、家職要道を読んで感激し爾來修身齊家の道、一に此書にありとして、奮剛努力以て巨萬の富を成すや、是偏に著者の賜となし、頑溪卒して五十餘年の後、孫曾彌(泰助信敬の孫)に其由来を叙し、金若干に置時計を添へて謝恩の意を表せしが、大正二年叉一小冊子に、明治大帝の御聖徳を輯録せしもの二百部と、金百圓を添へて、以て故人祭奠の資として贈ったのである。これ碩溪の學徳高さは勿論なるも、權七の人格崇敬すべき美談である。

鶴田次兵衛の對州土應用
 釉薬の合化料として五島土を加へて焼成されし素地は、稍黒味を帯びるのみでなく、上繪附の際に、折々縁金流れを生じて、折角の製品を損するの缺點があつた。泉山の名陶家鶴田次兵衛(二代玉泉)は、種々之が改良に腐心せし結果、代ふるに對州土を用ふれば、全く此を免かるゝことを創見したのである。
 之より對州土大いに需用され、後明治年間對州士族共立授産所の支配となり、同理事袖岡權之進より、伊萬里搦の牛島濱助へ積出されつゝありし頃までは、年々十五六萬斤に過ぎざりしも、今や全國中へ、莫大の數量を搬出するに至つたのである。

名陶家の輩出 大火以来の有田は、一時不振の極に沈淪せしも、藩よりの強制的勤儉力行と、資金融通の救済は、茲に漸々恢復の曙光を現はし、其復興に伴なひて、技術の進歩は、空前の名陶家多々輩出するに至つた。それは献上伊萬里の辻喜平次や、宗傳嫡系の深海喜三(後平左工門)を始め、白川の南里嘉十、泉山の深海乙吉、大橋の田代伴次郎等の如き、其製作にかゝる玲瓏玉の如き青花は、古支那の名器と比して遜色な程の逸品であつた。

田代伴次郎
 田代伴次郎は、或年作るところの盛器若干を携へて江戸に上り、斯業の商估数人を招きて見せたるに、何れも玉の如き作品に對して、歡賞措かす、悉く伴次郎が言へる値に任せて之を購ひ、敢て一銭の値切る者さへなかつたのである。
 彼再び逸品數十個を齎らして江戸に上り、而して商估を呼ぶや、此度は前より三倍の人數集ひ來りて、各争ひめんさ、價を問ふに願る急なるより、伴次郎自失して答ふる能はず、皆を制して謂ふ、諸君先づ購ふ前に、一度此器を拝む可しと、商估等此一語に不快を成し、袂を連ねて座を起つや、伴次郎愴惶として、荷物を纏めて歸國した。
 蓋し名器を作るの外、如何にも彼が、世事に疎かりしことが察せらる。

深海乙吉
 深海乙吉曾て所用ありて、佐嘉城下に至り、帰途一道具屋に、支那古陶の勝れたる花瓶あるを見つけ、入りて價を問へば、方外なる高値にて需む可くもあらず、而して彼は其器を眺めては激賞措かず、途に乞うて若干の代を拂ひ、其形状模様等仔細に模寫して立去るや、爲に十里の夜路を踏んで歸山したのである。

南里嘉十
 南里嘉十は晩年に至るも、彼の老手を待たされば、成器を得ざる物があつた。故に最初雇ひの轆轤工人にて、粗形を作らしめ、其成れる告ぐれば、爐座にありし彼は褞袍の儘、やをら起ちて車壺の縁に据み、上より右手を伸ばし回轉せしむる大繰鉢へ、篦をあてがふこと二分ばかり、初めてよしと一言、之にて完全なる成器を作り出した名工であつた。
 彼は又辻式極眞燒の如く、全く密閉せずして、之に劣らぬ釉相を焼上げた。それは磁土の匣鉢にて、冠せ焼きしものにて、大川内藩窯のトントゥ同式であつた。そして燒終へし此匣鉢は、跡にて火鉢や漬物桶に代用されたのである。

赤繪屋制度の改革運動
 窯焼には、右の如く名陶家多く輩出せしも、十六軒の赤粕屋は、其五六軒を除けば技術頗る劣り、徒に我有田焼の工藝美を傷けるが如き者多しとの説起り、斯くて赤繪屋制度の改革を叫ぶの愈高く、此際寧ろ分業制度を廃止して、窯焼と合併營業をも、自由ならしめんとの許可を請願するに至った。
 皿山代官石橋三右工門は、事重大なりとし、舊法を固守して之を許さゞりしも、改革派の運動容易に止まる可き様子なきを以て、彼は其主張者の重なる者、泉山の深海平左工門、鶴田次兵衛、本幸平の深川榮左工門等を拘禁礼治すべき權幕を示したのである。

富村森三郎の反抗運動
 一面赤繪屋側にては、自家營業の死活問題として、桂雲寺に集會し、富村森三郎主宰と成りて、改革派に對し抗辯頗る力めしが、形勢容易ならざるを以て、森三郎の姉聟北島橘次郎は多久に至り、邑主茂族に面謁して、具さに其主張を纏陳せしより、此争議は改革派の敗績に了つたのである。

橘齋與次兵衛卒す
 文久元年七月十日(1861年)久富與兵衛昌常(橘齋)卒去した。彼は公許の和蘭貿易を開始し、傍ら諸國の文人墨客と交はるや、豊後の書聖田能村竹田(行藏孝憲天保五年八月二十六日卒五十九歳贈從五位)の如きも來遊して磁器に染筆せる物がある(煎茶々碗に海老を描きし物あり)又斯業の改良に貢献せしこと既述の如く、或は公共事業に盡瘁せしこと、少くなかつたのである。

長崎奉行の檄
 文久二年(1862年)長崎奉行(高橋美作守和貫大久保喜次忠恕「豊後守」の二人)はを有田及三河内に發せしが、要は此頃歐米人との接觸漸く頻繁を加はへ、長崎よりの陶器輸出彌多きを見るに至りしも、大火と機の影響にて、一度其根本より覆へされし有田焼中には、なほ一面に粗悪の製作を爲す者あるを以て、之を警戒せしめられたしといふのであつた。
 石橋代官は此檄を受けて、直に窯焼一同に警告し、併せて斯道の向上を激勵すべく、皿山會所より札の辻へ、左の布告を示したのである。

(前略)右之通長崎奉行より相達しの段申付け聊の儀等無之様懇に被相達候總て不正の品等取扱儀は毎々相達置候次第も有之殊に此節嚴格の相達面に付ては屹度共旨を守り候様自然不正之器等持越候旨も有之候得ば差押さへ其段早速筋々へ相達候樣萬一不行届儀の有之候に於ては於手當筋緩々様相聞可申候條申候 以上
 文久二年十一月六日 皿山會所

年木庵の紫薬
 文久年間(1861-1864年)泉山の深海平左工門は本窯彩釉研究の結果、酸化銅にて棕梠色を發する事を創見し、年木庵の紫薬とて頗る珍重さるゝに至つた。最初未熟の間は、其顔料裡面に必み流れて、器物を傷づけ、爲に多大の損失を蒙りしも、漸次其用法を改良するに及んで、完成の域に達したのである。

一枚鑑札の利権問題
 嚮に萬延元年(1860年)有田焼輸出の利権は、英國貿易の名義にて、本幸平なる田代紋左工門の占有することゝ成りしより、他の商工家との間に、利權償値上の争議を惹き起し、一枚鑑札の一手販賣は、有田一般の利益を、襲斷するものなりとの物識を生ぜしが、剛氣の紋左エ門は、更に屈することなく、益々事業を擴張し、舍弟慶右工門は長崎西濱町に出張して著しく貿易を伸張し、後には横濱にまで支店を設立するに至つた。(横濱貿易は安政六年三月(1860年)神奈川の開港よりである。)

薄手物の三河内注文
 真白の色相と、輕き薄手物を愛する欧米人は、有田焼よりも寧ろ三河内燒を嗜好した。然も有田よりは、三河内の方が安値にて、製し得る素地の可能性がある。故に蔵春亭の貿易時代より、薄手物の普通級品丈は、三河内へ注文製作の上、それを有田にて赤繪附を施した物であつた。

長崎奉行の黙許
 勿論宗藩の典法としては、堅く之を禁制されるも、長崎奉行は國益上の見地より、許してゐたのである。田代紋左エ門も三河内に薄手の蓋碗や、珈琲器の素地を注文し、之を有田へ運びて赤繪を施し、高台内に肥礫山信甫造、或は有田山田代製などと記銘して、貿易しつゝあつた。

元來有田にては、天草石が泉山石と比較して、甚だ脆弱なるものと信じ、一般に之を混入し、若くは使用することを禁した。故に維新後と雖も密に混用するものゝ外、公然と使用する者はなかつたのである。故に明治二十九年西松浦陶磁器品評會審査の時、天草原料混用品には、等賞を附輿せざりしも、偶之を知らす賞興せし後に於て、頗る物議を生ぜし程であつた。

揣摩的排斥
 有田に於て、天草原料を厳禁せしは、勿論科學的試験の結果でなく、主として其地方の製品の下手物多きと、一は赤釉附の際蚯蚓篏入を生する等の缺點より、特に脆弱なりと揣摩せしもの如く、一面には又我泉山石を尊重する特種の名譽を、永遠に保持せんとせしものに過ぎなかつたのである。
 明治の晩年に至つて、天草石が泉山石の如く硫化鐵の含有多からず、且粘着力に富めるなど、製造上有利な諸點を實験上より知得するに至つて、一層多量に使用するに至りしも、當時に於ては、泉山の原料にて製せし物にあらざれば、真の磁器にあらずさまで思惟せる有田人は、色相硬度共に及ばざる、他山の原料を混入せるは、我有田焼の權威と信用を失墜せしむる反逆的行為となし、茲に一騒動が持上つたのである。

紋左衛門の懲治を計る
 時は慶應二年(1866年)にて、前記の三河内素地へ、赤綸附の件につき、一度紋左工門へ交渉せんとの議起りしも、彼の剛情不屈なる到底尋常手段にては、説得せしむることの不可能なる説に一致し、彼が上繪附せし未燒品を取來り、高台なる内銘の剥脱を防ぐ可く其上に紙を貼りて持参なし、そして代官に訴へて大いに紋左工門を懲治改悔せしめんと計ったので其時窯焼惣代理として、大将の手塚倉助(後の久富龍右工門)平林伊兵衛(後の伊平)泉山の深海政之助(南里平一の兄)等選まれて代官所へ出頭した。

總代を打擲抑留す
 然るに何ぞ圖らん、代官石橋三右工門は、彼等が高台内の銘を紙貼して、抹殺を防ぎたるは、代官が證擄湮滅をなすを疑へる所置にして、甚だ上司を蔑にせしものなし、總代三人は打擲の上代官所に抑留さるゝに及んだので、之を聞きたる窯焼等は大いに激昂し、悉く勸請寺(今の陶山神社々務所)に集合したのである。

勸請寺の集合
 而して彼等は、此不當なる所置を憤慨し、斯かる私曲横暴の代官を相手にしては無益なり、此上は窯焼全部佐嘉表に押出して、宗藩の公平なる裁決を仰ぐに如かずさ一決し、大いに氣勢を揚げしより、代官は頗る憂慮し、吏を派して鎭撫に努めたるも彼等はなかなかに聽入れざりしが、伐に總代三人を赦して、種々手を盡せるに及び、漸く騒擾を鎭め得たのである。

助作の責付と赤繪屋閉門
 一方歓左工門は、嚮に献金に依り苗字帯刀を許されし身分なれば、士分の商法は相成らざるを以て、貿易は一子助作の名義であつた。故に助作は、代官所に引致されて毎日責附に會ひ、尚豫て田代屋の依頼にて、此上繪附を施せしとて、赤繪町の北島源吾、大樽の小島理兵衛辛島弘助、稗古場の古田森吉等は、青竹閉門に處せられたのである。

放免と解門
 此時紋左工門は、三河内素地の錦附物の有丈を、夜中密に運びて薬研川へ打棄させ或は邸内を掘りて地中に埋没せしめしが、漸くにして助作は放免され、赤屋四軒も亦閉門を解かれて一段落を告げしが、紋左工門にとつては、何物にも代へ難き一子助作の遭難には、遉が剛毅の彼も、一時は事業を廢止せんとまで、歎息せしは無理なかつた。
 而して三河内素地赤釉附の取締も、其後漸々大形なるに至つたのである。勿論有田の原料のみにても、此紙の如き薄手の製作は、決して不可能にはあらざるも、粘着力の相違等にて、頗る高價を要するを以て、有田商人も、此素地丈は三河内へ注文するの外なかつた。深川榮左工門も、明治六年の澳太利博覽會出品には、三河内の紅茶器へ、六歌仙繪の極彩色をなさしめて、大いに販賣せしものであつた。

佐嘉商會の上海進出計畫
 長崎の佐嘉商會は、専ら藩内の産物擴賣に努めしが、商會主幹松林源藏は、藩主閑叟(直正始め齋正)の内意を含み、久富奥平と田代紋左エ門とに交渉せるは、外人の手を省きて率先海外貿易を開拓すべく、最初は支那の大市場上海に、佐嘉商會の支店を設立し、伸びて欧米市場に、販路を擴張せんとの企圖であつた。
 佐嘉藩の特産物は、有田焼を筆頭として、次は其他肥前国産の白蠟、和紙、麻等と共に、長崎寄港の和蘭軍艦に搭載し、一行も弥之に便乗したのである。

滅法買入
 元來歐州人の嗜好も用法も、全然不案内なること勿論なれば、扨如何なる品が、彼等に適用さるゝかは不明なるを以て、此選擇とても所謂盲滅法の買入れにて、今より考ふれば、頗る英斷的行爲なりしが、此巴理滞在中に於いて、親しく彼等が嗜好と、習慣の用途を調査し得たことは、申すまでもなかった。
 斯くて一行は、佐野主任の下に、通譯として長崎致遠館(慶應元年佐嘉藩立の英語教授所にて五島町の深堀邸内にあり、教師はフルベッキ)の助教授小出千之助光彰、販賣主任は佐嘉の豪商野中元右工門、副主任は同深川長左工門、及藤山文一等であつた。何れも葉隠れ道の面々とて、我國威を失墜せざらんよう、深き注意を以て乘込んだのである。

石丸虎五郎
 之より先致遠館の學生にて、石丸虎五郎(後の安世)といへる宗藩の青年ありが将来有望の士として、舘中の注目者であつた。適々英國の豪商なる、在長崎のグラバは、屢々虎五郎と面接して、其非凡なるを認め、彼にむるに歐州文化の見學を以てした。虎五郎意大いに動き執政鍋島河内直誌(白石邑主)を経て、此儀藩主へ内申請願したのである。

馬渡八郎の同行
 閑叟又頗る賛成なりしも、當時國禁の赦さざるを以て、密かに脱走の名に於て決行せしむることゝなり、なほ一名彼の交友中より、俊秀の同行者を加へることなり、内命にて馬渡八郎(後の俊邁)其選に入り、二人はグラバ商會の帆船に便乗して、密かに長崎より英國へ渡航せしは、去元治元年(1864年)であつた。爾來具さに歐州の文化を見學すること四ヶ年なりしが、此際二人は通譯として、巴理の博覧會に呼寄せられたのである。
 博覧會場に於ける出品臺には、佐嘉の漆工が手に成りし金蒔繪にて、鍋島氏定紋の杏葉を交飾し之が有田焼の青花や錦附繪と相映して、金色燦爛たる物であつた。此時薩藩の陳列店には岩下佐治右エ門方平(家老典膳道朗の男後元老院議官子爵明治三十三年八月卒)ありて、日の丸の旗と島津氏定紋轡の藩旗とを交叉し、當方へも之を勧めしかば、佐嘉藩も可然同意して、旭日旗と杏葉紋の藩を交叉掲揚し、眼中既に徳川幕府なき如くであつた。
 依て幕府より 出張し居りし徳川民部太輔昭武(水戸齊昭の十一男にて將軍慶喜の舎弟也水戸爵家を承ぐ)より抗議ありて、撤回方を希望せしも、決して承伏せず、博覧會終へて歸朝の上は、彌々倒幕を實行して、以て王政復古を計るべく、佐嘉藩士と語らうたのである。

島田惣兵衛の指圖
 斯くて佐嘉藩の店には、深川長左工門が應待すること成りしが、此際幕府側より出品管理者として來りし、島田惣兵衛の指圖により、小皿の上に茶碗を載せ、中皿には湯呑を載せたのである。それが形体模様の異なること、竹頭木に接ぎ、狗尾黏に續くが如き洋式組合せにて。鉢類は尺口より二尺まで扁額となし、徳利は細口の花瓶と答へた。就中赤繒美人繪薄手の盃を、バタ入れと唱へて平然とすましたのである。
 此の俄式の、無理なる組合せにも拘はらず、意外の好結果を得しは、彼等歐州人が始めて日本人の販賣せる商品に親接せし驚異と 珍奇に對する好奇心が、其用途の如何を問はず、争うて購買せし理由であつた。

細口の蘭弗臺
 中にも細口の徳利が、頗るよく賣れ行くより、其目的を質せしさころ、彼等は是に金具を附して、ランプスタンドに應用するといふのであつた。而して此細口徳利應用が、本式に流行を来たし、後年に及んて異人向と稱し、多数の輸出を見るに至ったのである。
 又日本の履物賣店に来りし洋婦人が、雪駄の滑かなる裏革もて、軽く己れの頬を叩きつゝ之は元來何に用ふるかと尋ねしかば、夫は日本の履物なり答へたのである。然るに外國品の如く、左右の區別なき爲に、彼等は二つが一組なることを覺らず、代價を拂つて一個のみ持ち行くゆえ、引止め或は追駆けて、今片方を渡さんとすれば、彼等は背んせず、吾等は只珍らしき記念に購ふのみなりとて、畢竟日本人が押賣するものと誤解して逃げ足なるを捕らへ、是は二個一組なる旨を説明して、漸く彼等を納得せしめたのである。或は日本紙が強靭なるより、衣服に仕立てんと購へるがあり、又は昆布を壁紙として求めしナンセンスさへあつた。
 就中欧州の美術家をして、其精巧なる技術に驚せしめたるは、藩窯製品の鍋島焼であつた。要するに彼等の人気は、凡て日本製品の賣店に蛸集せし盛況に、望外の利益を収めた一行は、欣然として長崎へ歸朝せしが、只一事の遺憾なりしは、商傑野中元右工門が巴里滞在中の客死であつた。

野中元右衛門の客死
 野中元右工門は、佐嘉材木町の名薬烏犀圓本舗七代の主にて、古水と號し和歌を古川松根、中島廣足に學び、豫て外國貿易を志す達見の商估なりしかば、閑叟の知遇を得て士籍に列せられし者にて、時に慶應三年五月十二日行年五十六才であつた。(今の野中太郎は十二代目にて製薬烏犀圓の容器は代々有田泉山の鶴田五太夫一家にて製作されてゐる)向後年嬉野茶にて縦茶をして米國に輸出し、又起立工商會社を創立して、東京繪附の陶磁器を以て、英米へ貿易を企業なし、其遺志を實行せし松尾儀助は、此元右工門の番頭であつた。

佐野一行の歸朝
 博覧會閉會するや、佐嘉藩の軍艦日進を注文して、佛蘭西より歸朝せる佐野榮壽左エ門は、馬渡八郎と共に京都へ上り、閑叟に謁して具さに結果を報告し、石丸虎五郎と深川長左エ門は長崎の役所に於て残務を處理せしが、之より虎五郎は此開港地を根據として、親しく外人と接し、我松浦の地を開發して、大いに海外に伸張すべく計畫したのである。
 虎五郎は又、當時有田の壯年有志、深海平左工門、百田恒右工門、深川榮左工門等に紹介して、我日本の歐州に於ける地位を示し、彼等が其需要の希望或は製作上改良の要點を告げ、今後の方針に就いて、同業者の協議を開かしめたのである。

黒白二色の産石
 又長崎に在る久富奥平と親交し、有田の磁器と松浦各地の五平太(石炭)開掘の有望なるを説き、此黒白二色の石を以て、大いに松浦の富源を開拓せんことを談じたのである。

虎五郎の卓見
 此頃世は開港と鎮風との両論にて騒がしく、天下の志士は京都に集りて國事に奔走し、各藩又勤王佐幕と相争へるを、斯くの如き現象は、時代の一波瀾に過ぎず、就中鎖國論や、攘夷説の如きは、井蛙的愚見の極である。宜しく活目して世界の大勢を明察し、大いに貿易を伸暢すべしと警告した。此虎五郎が實験を基礎とする卓見は、屢々接見せる有田人士が、いち早く世界的知識に、教養されし一因であつた。

閑叟の達識
 當時此過牛角上の争闘裡に超越して、東西の大勢を達観せる閑叟は、又藩士をして軽跳なる妄動を警めたのである。故に佐嘉藩よりは、維新當時の犠牲者甚少かりしと同時に、政治上他藩に其主位を譲りし観あるも、軍備を充實せる國威の下に、貿易を盛んにすべしとて、其實踐に率先し、そして海防に鋳工に全力を傾注し、又或は醫學に、法律に、殊に殖産に力を盡せし事は周知のことにして、就中藩内唯一の國産として、我が有田焼の發展に留意せしことは申すまでもない。

草場佩川卒す
 慶應三年十月(1867年)嚮きに有田教導所の講師たりし、鴻儒草場佩川卒去した。行年八十一歳であつた。彼名は韡字は棣芳、通称を瑳助と言ひ、玉女山人、濯珮堂主人、復宜齋、可亭、索綯、水漁者等の別號がある。 多久藩士草場泰虎の男にて、會て佐嘉の古賀精里に學び、藩校弘道館の教論であつた。國事及び教學に盡瘁せしと少からず、又畫を江越繍浦に習ひ、特に風竹に妙を得た大正五年十一月特に従四位を贈られたのである。
(嗣子立太郎船山と號し伊萬里學舎を起す)

モリスの石場調査
 慶應三年(1867年)末閑叟の命により石丸虎五郎と久米丈一郎(後の文學博士邦武)はグラバ商會へ在勤の、磯山機械技師たりしモリスをして、松浦郡山代郷の炭層を調査せしめしが、此機會を幸ひに有田有志は、モリスを中野原久富輿兵衛邸に迎へ、そして泉山石場の調査を乞ふたのである。元和以來數百年間採掘せし磁破も、當時未だ其一部を缺ざしに過ぎなかつた。而して處々滴水溜りて小池を成し、其間細徑を存して運搬するなど、頗る不便利なりしが、モリスは探掘法につき、種々改良すべきことを指摘したのである。
 其後虎五郎は長崎に在って、松浦開發の計畫に従事し、同時に有田焼の貿易に斡旋するところあつた。 左の手紙の如き其一節を語るものであらう。

虎五郎の手紙
別紙金子五百雨の手形リンガ商會へ御自分持參にて右金子御請取慥なる者才領存じ候て爰許金正に御仕送り被下度賴入存候
四月七日
尚は金札ならば吃度御見調べ貳歩金ならば慥成封包の儘御座候て可然惣て右は源七殿一雨日中より成丈持参候て被歸候樣若其儀不相叶節は誰を別而慥成人物に而御賴越被下度賴入存候
虎五郎
 名當は龍右工門殿(久富氏後龍園と改む)源七殿(正司氏)五兵衛殿(手塚氏)とあり、なほりンガ商會とは、長崎大浦居留地のホーム・リンガ商會であらう。

手塚龜之助
 明治元年正月(1868年)大榕の陶器商手塚龜之助は、陶磁器を携へて京阪地方へ販賣すべく出張せしに、當時伏見鳥羽の戰ひ纔かに終り、尋いで奥羽征討の師起るに及び、人心胸々として歸する所定まらず、龜之助は此間に往來して、種々計策するところあつた。

改革派再び起つ
 明治元年百武作右工門秉貞は石橋三右工門と代り、有田皿山代官として赴任した。而して嚮に容れられざりし窯焼の赤繪屋兼營主張の問題は、此機を以て再び擡頭し、深海平左工門、百田多兵衛、(始恒右工門)深川榮左工門等の改革派は、長崎輸出の一枚鑑札を拾枚に増加し、窯焼の名代札二百二十枚を二百四十枚に、赤繪屋名代札十六枚を二十二枚に増加すべく主張した。

西岡春益の斡旋
 明治元年三月前記改革派の三人は、佐嘉表に出でて、藩の儒醫西岡春益(柏盧又拙翁と號す函館控訴院長西岡諭明の父)に依りて、藩の重役に、事情の経緯を開陳するところあつた 之に對する藩内の討議は、賛否両論に別かれ、張りに世襲業の特権を、破壊すべからずとの天草上田家の別傳までも研究せし有田の赤屋は彌々斯業の完璧と思惟せしところ、百武郡令は、尚其研讃の意志を弛めしめず、嘗て己れ京都留守居役當時に相識れる、清水の陶工三代高橋道八を有田へ招聘して、其手轆轤法や樂焼の趣味、さては京窯錦附の傳習を囑托したのである。
 明治二年三代道八を、上幸平の敷導所に迎へしも、有田の斯業者は、彼が磁器と赤繪の本場に来つて、何を敷へ得るものぞとの蔑視的傾向を有し参集すべきもの稀であつた。依つて作十は、窯焼及赤糟屋の青年にして、若し此教授を受けざる者は、屹度責罰を加ふべしと布達せしより、何れも止むなく教授を受けることゝなりしが、此時より始めて自邸に於て、赤釉窯を築造して實驗せし窯焼が出来たのである。

平左エ門道八を喫驚せしむ
 斯業の名家深海平左エ門は、頗る達見にして且膽略があつた。此時徑二十尺高さ十餘尺の巨窯に、天秤式にて焼上げたるを、今口を切りて窯出しするに當り、道八を招して見せしめたのである。中にも巨器を烈しく鐵槌にて打毀せば、内より施釉にて密封され、極真燒なる玉磁が取出され、傍には又五尺餘の大花瓶を、無雑作に抱へ出せる舉動と、其技術や製造規模の壮大さに、道八を喫驚せしめたのである。
 平左エ門は後にて、墨之助及竹治の二子に向ひ今日は抹茶的陶工の道八が、度膽を抜ぎし故彼も大いに心するならん、汝等温順に彼の教を聴き、清水風の特長を學び置く可し、京焼の技術には土瓶に口附ける篦の使ひ方、又は茶器の意匠など必す學ぶ可きものがある。宜しくを以て感激たるべしと、之より二人は道八に就いて熱心に研究したのである。
 後年深海年木庵の作品に、有田傳來の外、一種のオリジナリティーを發揮せる茶器あるは、造に道八の京風が、加味されしものと見るべきである。斯くて道八は、一ヶ年にして歸京せしが、其間彼が製品には、肥前官窯の銘が記されてある。

瑞穂屋卯三郎を聘す
 明治二年百武郡合は、先に佛國博覧會に渡航して、磁器の顔料を購ひ、且施法を習得して帰朝せし清水卯三郎(江戸の醫療器械及薬品商にて瑞穂屋とし清水連郎の父なり)を有田に招聘して、窯焼の子弟へ、その齎せる新顔料の使用傳授をうけしめた。此時始めて彼が持参し、酸化コバルト青を試用せしところ、彼は地土を加へて稀薄する法を知らず、餘りに濃厚にして、途に用ふ可からざる物として止んだのである。

服部杏圃の練習所
 明治二年九月東京の陶工服部杏圃が、佛國博覧會に渡航して傳習せし、同國式彩料の寫眞繪附法、油繪法、及石膏型使用法を教授するや、百武郡令は泉山の深海竹治、白川の大塚爲助、中野原の西山盛太郎、大川内山の光武蒼七等を選択して、上京練習せしめしが、此時維新の改革に遭ひ、資學の支途絶わたるを以って、六ヶ月の短時日にて一同歸國するの止むを得なかつた。此中大塚爲助は、横濱に貿易を試みしが、後年松尾儀助の工商會社へ入りて、米國へ渡ったのである。

江副廉造の出品
 明治二年窃かに上海へ脱走して三松洋行にありし藩士江副廉造(大隈重信前室の舎弟)は、新嘉坡の博覧會へ、有田焼を出品して、大いに我美術工藝の整價を、宣揚したのである。

紋左衛門の米廉賣
 明治二年(1869年)は餘程の磯饉にて米一升の價六百八拾匁に騰貴し、併かも在穀甚だ乏しきより、多くの人々は山野より、石蕗其他諸種の草根を探して雑食するに至り、諸民大いに窮せるを、斯くては産業上に影響するところ少からずとなし、田代紋左エ門は、北國筋より多数の下等米を買入れ、勤請寺下の持家(今の有田劇場敷地)に於いて、原價賣を成すや、全町民は毎日堵列して、之を購ふたのである。

平林の西洋食器
 明治二年大樽の平林伊平は、長崎に居留せる、洋醫ボードインの注文に依って始めて西洋食器の種々なる揃ひ物を製作した。

虎五郎と丈一郎の談
 曾て英人モリスを、久富邸に迎へし席上に於いて、深海兄弟や、深川榮左エ門、辻勝藏等を始め、磁器製作上の談話を交換するや、彼等が只管傳統と、經驗のみに因り、良く火熱を利用して白泥を熔化し、精巧の器を焼成する模索的技術に感服せしが、なほ此上に概念的たりとも、西洋の理化學を知らしめなば、製作上頗る裨益すべしとは、後にて石丸虎五郎と、久米丈一郎との相談であつた。

ドクトル ワゲネル
 其後虎五郎は、近頃長崎に渡せる、獨逸の化學者ドクトル・ワゲネルが有田磁器製造を研究したき意を洩せし由を聴き、これ幸ひと、親交ある久富奥平の紹介にて、ワゲネルを有田に招くべく、誘はしめたのである。
 ドクトル・ゴットフリード・ワゲネルは、天保二年(1831年)獨逸ハノーヴァーの某官吏の家に生れ、ゲッチンゲン大學に於いて、數學、物理、地質、結晶及び機械学等を修めドクトルの學位を得しは、二十二歳の時であつた。其後佛國や瑞西等に在りしも、舎弟ワルシが、石鹸製造所の設立に招かれて、我が長崎に来りしは、1868年乃ち明治元年五月十五日、彼が三十七歳の時であつた。
 ワゲネルは、折々長崎の佐嘉商會に來つて、磁器を購ひ、未だ歐州にも製作し能はざる、有田焼の研究に心動いたのである。或時商會に來つて焼物に開する有益なる化學あることを語り、尚店員手塚五に、有田磁器製法の概略を聴いて、大いに感すると同時に、一面又製作上不備の点あることに、興味を唆つたのである。

五平に化學の實験を示す
 或時ワゲネルは、五平を自己の寓居ウオールド商會に伴ひ來りて、種々化學の實験を示したのである。従来有田の赤繪屋にて、黄金を彩料とするには、薄葉紙の如く叩き伸べて、鋏にて細切なし、それを摺棒にて、機械的に摺潰せしものであつた。然るにワゲネルは、硝酸塩にて溶解せしめ、硫酸鐵を以て沈澱せむる便法を實現し、更に有田の陶家中熱心なる者を連れ来るべく勧めたのである。

代次郎と孫一
 依つて五平は、百武郡令の許可を得て、窯焼より岩谷川内の山口代次郎(伊右工門の男)赤繪屋より中野原の西山孫一(幸十の男)の二人を呼寄せた。二人は毎日ワゲネルの實驗室に通ひしところ、未だ化學の何物なるかを知らざる彼等は、其學理の珍らしさに驚いたのである。

伊萬里商社
 明治三年四月伊萬里商社が設立されたのである。それは近来中產以下の窯焼が、伊萬里商人より資金の融通を仰ぐより、自然彼等より値安に踏まるのみでなく、一面維新當初藩内の諸制度改革されし結果は、販賣取締遲緩となり各陶商は任意諸國に行商するもの生じ、従つて競争の結果は、製品粗悪に趣くの傾向あるを以て、百武郡令は之が防止策として、従来の伊萬里市場集散の特権を改め、諸國に販賣所を開設すべく、爰に伊萬里商社一手にて、此販賣權を獨占するこに定めたのである。

伊商人の販賣權取上
 而して伊萬里商人は、此商社より仕入る仕組となし、委員を設けて該社への出資を勧誘せしところ、彼等は結束して之に應せず、従つて郡合は、断然伊萬里商人四十餘人の販賣権を取上げたるは、彼等に大いなる恐慌であつた。一方有田内外山に於いては、四千雨の出資を得るに至り、郡令又斡旋して、藩金一萬兩を拝借し、之を商社の基金としたのである。

商社の役員
 斯くて製品は、悉く倉庫に搬入し郡令は之が監督となり、支配人は平林伊平、元締役は大樽の柳ヶ瀬平左工門、同手塚龜之助、中野原の針尾徳太郎であつた。又中野原の久富惣右工門宅が仕入部にて、同區の犬塚儀十、大樽の藤井喜代作、其衝に當り、泉山の諸岡新太郎が執務者であつた。其他大樽の川原善八、中野原の久富惣兵衛、本幸平の深川榮左工門、中野原の金ヶ江利平等が評價員となり、評価済みの製品にしては其の八掛代金を支給したのである。

伊萬里の三店
 伊萬里は同地の有田町に本部を設けて、岩谷川内の角源平が管理することゝなり。魚の棚(中町)には中野原の久富太八、同毛利常吉が管理者となり、之等の執務者に城島傳三郎と副田十兵衛があつた。そして濱町には、柳ヶ瀬平左エ門が、外山一手を管理したのである。

其他の商社
 次には江戸商社が設けられ、犬塚儀十之が主任となり。横濱商社には大樽の川原忠次郎主任となり。長崎商社には手塚五平が主任であつた。そして此商社規定に違犯せし者は、相當の制裁を加へる事となし、一時商勢活況を呈しも、廢藩置豚と共に中止さるに至り、再び従來の狀態に、逆轉するに至つたのである。

久富與平卒す
 明治四年六月二十一日(1871年)久富與平昌起卒去した。彼れ名は子藻號を西畝と稱し、橘齋興次兵衛の六男に生れしも、長兄山畝與次兵衛の繼嗣となりて、宗家蔵春亭を相續した。天資英遇膽斗の如く、嘗て小城藩主鍋島直亮興平の偉才を愛し、嗣子欽八郎(直虎)に呼びなぞらへて常に興八郎と呼び、且士分として遇したのである。
 彼は長崎大村町の支店にありて、貿易の傍ら天下の志士と交はり、或は其費を給せしことも少くなかつた。或は高島炭坑を開掘し、又は小城藩の大木丸に乗り、船長内山辰助を唆かして、北海道千島の間に交易を開拓せしが、明治三年十月八日北航の途上、千島沖にて颶風に遇ひ、難船して氷海を浮流すること半歲なりしより、大寒の爲病を得るに至り。越えて翌年六月釧路國厚岸海岸の船中に卒去した。行年四十歳であつた。
 興平死に臨んで言ふ、吾巨資を得て、五大州に商威を振はんと期せしに、事茲に至る是れ天命なり、よろしく余が屍を洋中に投ぜよ、願はくば長鯨に跨って、壯志を遂げん哉と、其意氣想ふ可しである。曾て長崎にて藩の江藤新平胤雄、大隈八太郎重信等と知遇せしが、後年彼等が参議と成り時、興平を招きて、中央樞要の地に擧用せんとせしも、彼れ大志を抱きて、遂に應じなかったのである。重信嘗て人に語りて曰はく、若し興平をして尚今日あらしめば、三菱と覇を競ふもの、必す彼なりしならんと、如何に與平が大なる傑物なりしかを察するに足る。

長鯨碑
 昭和七年(1932年)輿平の甥久富季九郎、報恩寺境内に、彼の碑を建立するや、臺石に長鯨の形を以てした。碑文は鴻儒谷口藍田の撰にして、子爵鍋島直庸(小城藩主)の題字である。

諸営業の開放
 曩きに名代札増加を唱へて、屢々争議を繰返へせし赤粕屋、及び窯焼問題も、維新の改革に依って開放され、兩營業者諸所に續出するに至つた。窯焼は嘉永の末年(1855年)より其數百二十七戸あり、寶曆(1751-1764年)頃に比較して却って減少し、安政年間(1855-1860年)又六戶を加へて百三十二戸となりしが、茲に開放されて二百〇六戸を數ふるに至った。蓋し後年に至つて比較的減少せる観あるは、一戸の製造規模が、往年に比して、遙かに擴大せることを考ふ可きである。

名代札買の悲劇
 之より先き中樽の細工人某は如何にもして窯焼を営業すべく、宿望を抱きおりしが、遂に己れの住宅を數百圓に賣却し、漸くその名代札を買求めたのである。然るに未だ其緒につかざるうち、維新の開放に會ひ、名代札なく誰しも営業し得ることゝ成りしかば、某は大いに悔しがり、毎日其賣主の門に立て高らかに、御題目を唱へしといふ、悲劇さへあつた。
 之より先き石丸虎五郎と、久富興平の周旋に依り、ワゲネルは有田へ来るべく、宗藩の許可を乞び、英國の豪商アペンを同伴して、中野原の久富邸に宿泊し、親しく有田焼の製法を實驗せしが、一旦長崎へ帰り更に虎五郎と百武郡合との協議の結果、彌々彼を有田へ雇入るゝことに決定された。

ワゲネル雇用の契約書
 百武郡合とワゲネルとの、契約書なるものが左の如くであつた。

支配所有田郡令百武作十藩知事の命を請獨逸人ワグネル氏と假契約を結事如左
第一條
陶器方石炭竈硝子繪樂染物薬製其外不依何品郡令望次第爲製造三ヶ年之間有田罷越住居可致事
第二條
右給料として初年十二ヶ月一ヶ月洋銀三百枚ヅゝ、二ヶ年目一ヶ月同三百五十枚ヅゝ三ヶ年目一ヶ月同四百枚元月始前金にして都令よりワグネル氏へ相拂可申事
附りアルビン陶器商法取極の上本條約取替し可申事
第三條
郡令者ワグネル氏に毎年十五日程之間暇を可許事
第四條
郡令者於有田ワグネル氏の爲相當の家室を設備すべき事
第五條
ワグネル氏並従僕往来に付而荷物運送道中雜費の儀者郡令より相辨外面倒なる儀無之様兼而心遣可申事
第六條
ワグネル氏皇暦明治四年辛未十月上旬有田に到着の日より右の條可相行事
皇曆明治四年辛未七月五日
西曆千八百七十一年第八月廿日
右を約定す
佐嘉藩有田郡令 百武作十
ワグネル 君

伊萬里縣
 明治四年(1871年)七月十四日廢藩置縣となり諸般の制度に大變革を生ずるに至つた。此時宗藩主鍋島直大佐嘉縣知事となり、鍋島直虎小城縣知事となり、鍋島直柔蓮池縣知事となり、鍋島直彬鹿島縣知事となり、小笠原長行唐津縣知事となりしが、同年九月四日には之を廢し、以上凡てを管轄するに伊萬里縣が設置され、宗藩士古賀一平(定雄)が其縣令と成ったのである。

百武郡令の解任
 明治四年八月(1871年)郡令百武作十兼貞は、任を解きて佐嘉へ帰ることゝ成った。彼れ皿山代官として赴任せしより、郡令勤務に至るまで、治政の刷新、有田焼の發展に努めし功績甚少かざりしも、輙もすれば干渉に過ぎしより、口性無き有田人中には「百武雀が飛んで来て有田伊萬里を啼き荒らす」などゝ批難せしも、蓋し彼が盡瘁の功労は没すべきではない。

有田皿山代官
 我有田皿山代官として、來治せる斯役の人名、及び其赴任の次第等、今詳ならざるも、其内氏名を知られ而已を掲ぐれば、光野久左工門、鑰山九太夫、諸岡蒼右工門(茂之)、山本神右工門(重澄神右工門常朝の父)馬渡角兵衛(俊貞後市祜)、福地勘右工門、深堀孫六、石井五郎太夫 千葉忠左工門、久米彌六兵衛(甫昌)、成松萬兵衛(信久百武作十の父)、久布田權左工門、吉谷判兵衛、馬郡長左工門、深江武兵衛、關儀右工門、南部董兵衛(春忠始剛之助陸軍中將南部麒次郎の祖父)、江藤助右工門(胤光江藤新平の父)原五郎右工門、南部大七(長恒後又七郎)、久米外五郎(邦鄉文學博士久米邦武の父)、丹羽九郎左工門、石橋三右工門、百武作十(兼貞始作右工門)、等がある。

横邊田管内へ編入
 百武郡令の解任と同時に、伊東源藏其後任を命ぜられしも、事故ありて赴任せず。依つて林清左工門有田郡令として就任せしが、明治四年八月より、横邊田郡廳管内(横邊田は、元有田皿山代官の管内にて、杵島郡の北方、大町、小田、山口、佐留志まで)に合併され、有田郡廳は、横邊田の出張所となり、副郡令倉町儀一が、任命されて赴任したのである。

石場下附の達文
 明治四年八月宗藩は、副郡令倉町儀一に命じて、左の達文を以て、泉山石場を關係者に下附したのである。此達文は後に起りし石場争議に開する重要な書類とされたのである。

達文
一泉山 土床
右ハ内外皿山へ受地ニ被差出候ニ付土代銀並ニ土穴運上銀打寄法丑年ヨリ巳年迄五ヶ年平均ヲ以テ被相縣候條手絞ノ儀當十五日ヨリ受主相整候様
一 土番所
一 口屋番
右ハ被相廢候 以上 皿山出張所
辛未八月
右之趣致承知候也
土番所 島內新吾
請書
今般御改革ニ付土場並ニ兩口屋御番所被廢止內外皿山請畔ニ被差出旨御達畏候就テハ一山中第一ノ品柄ニ付嚴重規則相立夫々分配可仕但シ土場受主へ引渡仰付ケラレ被下度尤モ税銀ノ義ハ被仰付次第奉畏候此段御受書差出申候條御筋々へ宜シク仰達可被下義深重奉願候
内外山中
 此時有田内山よりは、咾十人(乙名役にて今の區長の如きもの)外山からは、村役の人々達帳に署名捺印した。それは外尾山村役覺左工門(大串氏)黒牟田山同峰助(益田氏)應法山同國太郎(久保氏)廣瀬山同左七(大串氏)南川原山同太平(樋口氏)大川内山同嘉兵衛(福岡氏)一の瀬同團助(岩崎氏)等であつた。
 前記請主の外、尚窯焼は凡て連署を以て、十五日以内に差出す筈なりしも、此頃内外の窯焼頗る多数となり、中には他行者などありて、調印なかなかはかどらす、依つて兎も角五ヶ年平均の、運上銀丈を上納し置き、翌年三月に及んで、更に伊萬里縣に手続きなし、其許可を得るに至つたのである。

ワゲネル有田に引移る
 明治四年十月(1871年)ワゲネルは、上幸平の教導所に来りしが、次に白川の舊御山方役所跡に引移つたのである。此處は居宅傳習所を兼ねしものにて、其時通辯人として、二里村の藤山榮次郎(貴族院議員藤山雷太の兄)が附き、外に島原生れの洋妾が、萬事世話したのである。

有田の研究生
 此際直接の研究生となりし者には、泉山の深海墨之助(平左工門の男)上幸平の辻勝蔵(十代喜平次の男)大樽の平林兼助(伊平の舎弟)本幸平の山口勇蔵(嘉右工門の男)中野原の西山孫一(幸十の男)等五人にて、教科の重なるものは、本窯彩料の製法即ちコバルト青、クローム鐵、金臙脂等であつた。

石炭窯の元祖
 ワゲネルは、白川稲荷神社の下場に、二間續きの石炭窯を築造した。式は従来の丸窯を少し改造せしものにて、それは一間に七合五勺(即ち一坪の四分の三)の形にて、そして前室が本焼室であり、後室が素焼窯であつた。
 火床は胴木間でなく、鎧のサナが設けられ、焚口は三ヶ所ありしが、煙突は全くなかったのである。之に試焼する素焼の坏は、數家の窯焼より取集めて、夫を匣鉢積にした。蓋し有田地方には、耐火粘土なきを以て、此匣鉢を造るには、磁器の粉末に、赤土を混じて胴を造り、底には一枚の大ハマをあてがったのである。
 此焚方に至つては、勿論不熟練なる研究生などが、焚上げしものならんも、火廻り甚だ均等ならす、中央の一部丈白釉を現はせるに、周圍はとりどりの焼け色を呈せしより、宗藩の役人など檢分の際は、他の窯にて焼成せし器を取雜せて、將來の有望なることを取ひしといはれてゐる。
 此試焼に於て、吳洲は多々良木(松材)にて焼けば、藍色を呈するも、石炭窯にては、其硫黄分の作用に依るか、呈色稍暗味を帯びる事を實験した。何分未だ短日子の試験中、既に七月より廢藩置縣となり、諸般の藩政改革は僅かに五ヶ月目に於て、ワゲネルも遂に有田を去るの、除儀なきに至つたのである。蓋し本邦に於いて、磁器の石炭窯試焼は、之が濫觴なりしこさは申すまでもない。

コバルト使用
 當時の青花顔料は、皆支那吳洲を輸入せしものにて、品種の等差頗る多く、上品ほやに至つては優甚不廉であつた。ワゲネル一見して之は酸化コバルトの化合物にて、元金屬原素を含めるものである。我獨逸にては、此含有せる碾石より、精製されたるコバルト(コバルトプリュ又テナーズとも稱し、アルニウーム酸コバルトにアルミナを含有する、耐火性に富む青色顔料である)なるものがあり。之に硬度の白土を混和して焼き、白磨して用ふることの、大いに便利なることをへたのである。

保屋谷の地土
 此白土は地土さ稱せられ、中樽の保屋谷より産するものが、用ふるに足ることが發見され、コバルト一斤に地土二斤、或は下手物の如きは六斤を調合し得るに至り、夥しき分量となることを識り得たのである。(先に瑞穂屋卯三郎は此稀薄法を知らなかった)支那にて此コバルトを用ひ始めしは、宋以後の元窯にて、尤も高火度に使用されしは、明窯時代よりといはれてゐる。

コバルト販賣者の巨利
 副郡令は、此コバルト青を長崎のウオールド商會へ注文して、二三の人々へ賣捌かしめしが、後年此販賣に依って巨利を占めたるは、大樽の藤井喜代作、上幸平の青木初太郎、及び外尾村の松村九助であった。尤も最初の注文輸入品を試験すべく、明治五年九月東京へ携へ上りしは、手塚龜之助であつた。而して保屋谷産出の地土は、瀬戸口源吾の所有地にて、百六十目一斤五六錢なりしゆへ、下手物製作者には非常なる便利であつた。

有田焼の呉洲本位
 而して赤繪素地の彩料として、コバルトの出色は、餘りに華麗に過ぎて金色をし、有田焼の古典味が失はるを以て、多くは中等以下の呉洲或は兎の糞(滿俺鐵分の多き茶褐色の最下等吳洲にて、又茶園の實ともいふ、多く琉球の産地)へ、少量のコバルトを加へ、以て發色に沈着味あらしむるに至つたのである。
 尤も最初コバルトの流行時代には、其華美なる紺色にて、染附の着け葉牡丹や、山水檜或は派手なる瑠璃釉など、製作されしこさあるも、結局有田焼固有の釉相調和せるを以て、漸次染附も洲本位に復し、コバルトは一部の加合彩料にのみ、用ひらるゝに至つたのである。

粗成分の優質
 近代化學の進歩は、植物より分析摘出する、アルカロイド(類撫基)薬剤に於ても、其有効成分とせる物のみにては、原質の効稀薄ならしむるもの少なしさせぬ。故に其以外に含有せる物質にも、薬効を助成せる何かの存在することが認識されて、有効成分のみを純粋に精製するよりも、舊時の如く生薬の儘態用する傾向が生じて来た。
 例せばデガーレンに精製されし物よりも、其原草なるゲキタリスを乾燥せし儘がれる如き、又彼の主成分なる青酸液よりも。 枇杷の葉其儘の薬功には質に抜群なるものがある。此原理に基き、コバルト青の發色に於ても、原礦の粗製物たる呉洲(酸化コバルトの外珪酸、礬土、酸化鐵、酸化ニッケル、酸化銅、酸化滿俺の外石灰や苦土、加曹達等の夾雑物混入す)だけの深味ある發色が不可能なるところあるは、矢張吳洲の夾雑物中に此優色の發生をなさしむる或物が、混入されゐる見るの外ない。
後年肥後の八代に産出せる、青花彩料ありしも稀薄にして用ふるに足らず。又黒牟田の梶原幸七が、筑後國星野に産する礦物より、之が製作を試みしも、完全なる原料は、内地に於いて途に發見されなかった。(近年山口縣にてコバルト大礦脈が發見され、始めて国産のコバルト礦業株式會社が出来た)

古伊萬里の時代區劃
 之よりコバルト使用は、全國の陶山に擴まりしが、明治四年を分岐して有田焼に吳洲時代、コバルト加合時代に依りて、新古の區別が、歴然と劃せらるゝに至つたのである。結局良呉洲を顔料とせし、青花の氣品は到底コバルトにて構成することは、不可能であつた。
 此時代より有田焼の製法が、彌々便法にのみ工夫され、全く古伊萬里特色の跡を断つに至りしも日用品擴賣の經濟的工業より観れば、大いなる進歩であつた。同時に又一面審美的製品の堕落であつた。而して又此コバルト使用の流行にて、舊來盛名ありし名陶家が、家産を傾けし半面には、コバルト使用の下手物製作にて、産を起せし窯焼も亦少からず、茲にも塞翁が馬の禍福があつた。

海碧の調合
 最初深海左エ門一家は、此コバルトを用ふる分量に就いて、試験をくるうち、地土の加合を少なうすれば、良き華色を呈するも濃度に從ひ暗味を帯びて、韻致に乏しきを遺憾とせしが、後年獨逸製の群青コバルト(海碧)の入手に依りて、中呉洲に此少量を加へて、上呉洲類似の色を得ることを発見した。

玻璃の顔料
 又きに紫薬の創製に成功せし深海一家は、ワゲネルに就いて、歐州にて使用する玻璃製作の顔料は、鐵を青藍色に、銅を深青色に滿俺を玫瑰に、クロームを黄色に、コバルトを藍色に、而して黄藍兩種を合せて緑色をせしめ、又銅は化合によりて棕櫚色を顕はし、黄金は艶な薔薇色を呈することを教へられた。

深海一家の研究
 彼一家は、更に之を實地に試驗して、鐡と滿俺とは、玻璃を熔かす熟の程度迄は、色彩を保つも、磁器を焼成する高熱にては、却って汗斑を呈することを識り、又酸化焰にて赤き鐵は、還元焰にて青く成るが、還元焰にて赤くなる銅は、酸化焰にて青く成る發色の變化を經驗し、銅の棕櫚色を發する偶然事に、自家の研究結果をも、諒解するに至ったのである。

深海の本窯錦
 則ち従來自家發明の薬は、其色彩磁層に浸み、筆畫散りて器面を汚し、器背に透るの嫌ありしも、之を研鑽して途に筆畫明白淡意の如くなるを得るに至つた。之より深海兄弟は熱心に研究して、青華、紫銅、黄色、黒色等の釉下彩料八九種を完成し、當時是を本窯錦と稱せられて、歐州各國にまで賞讃さるゝに至った。明治四十三年東京帝大工科に於いて藍色百五十餘種を調色する等、現代に於いては諸種の釉下彩料發見さるゝに及びしも、當時化學的素養なき工業時代に於て、年木庵の本窯彩料は、柿右工門の上繪附に劣らざる功績であつた。

黄色と薄墨色
 後年の發見中にて、特に發色困難とされし黄色は、明治二十九年美濃の中津川村より、産出する茶金石(フェロガソナイトに似し

礦石にて、明治三十一年佛國博覧會出品協會の折荒木、和田、寺内等の技師に依って、始めて有田へ齎らされた)が發見されしが、近年酸化チタニウム、錫酸カルシウム、石灰酸化亜鉛等の調合を用ふると稱せらる。
 薄墨色彩料は明治十二年に、深川左工門佛國より歸朝の際、需め来りし艶なし丹黄(ウラニューム彩料に酸化コバルトを混用せしもの)にて、是が最初のものであり。當時黄金より高價なりしより、或はプラチナならんと稱せられたのである。

紅色と緋色
 紅色は佛人エンヂの發明ゆへ、我邦にては臙脂又は正圓子と稱せられ、紫と共に黄金を以て製する故、或は金臙脂とも言ひ、之はワゲネルに依って慱へられしも、李朝磁器の釉裏紅の如きは、孔雀石を用ひしといはれてゐる(多分銅の含有礦であらう)緋色に至つては、古來未だ完全なる發見なく(近來クローム酸バリーム酸化錫石灰珪石等の調成説がある)明治三十一年東京の友玉園加藤友太郎が發明せし陶壽紅あるも、果して有田の硬度磁器に使用して、發色するや否や不明である。

染附の範圍
 蓋し是等の色彩料は、將來外國向のデザイン研究に於て特に必要を生すべくも、要するに有田磁器特有の青素地には、華美過ぎぬ呉洲のブリュー色が最良く調和することはいふまでもない。此藍色が支那に於いても、染附の主色さされて、青花の名を用ひらるゝに至つた。 尤染附稱する範圍は、此青花のみではなく、本窯彩料の総ての色模様を指せし名稀である。

釉灰の種類
 次に白泥に灰を混和して釉薬を作り、之を陶坏に塗用して焼成するは、灰類が凡て硅砂を熔化する作用に依る。故を以て総ての灰類が、此作用をなし得ることをワゲネルは教へたのであった。之迄有田にては檮灰の外、決して磁器の釉薬混和には、不可能とのみ思ひ居りしころ楢灰にても栗灰にても、或は竹灰や藁灰まで試験すべきことを教へられしには意外であつた。(後年英國磁器のボーンチャイナと稱する、同國ウースター焼や、丁抹のコーペンハーゲン焼の白磁など、何れも骨灰を用ひしことあつた)
 斯くて玻璃は凡て灰水の作用と、硅砂末が火熟を得て、透明質に熔化せらるゝも、磁器は白泥の不可熔なる硬質と、之を熔成する熟度の高下に因りて、釉泥の調化に差異ある理由につき、ワゲネルと墨之助とは、種々灰類を和合して試験を行ひしも、理想の如く成らざるを以て、其作用に天然の微妙なる性分あることを知り、古き檮灰が、釉に玲琅たる光澤を發するのは、問題として、他日に保留されたのである。

石灰代用の發見
 此試験に因つて、他面に石灰や、他の木灰を調合して、高価なる檮灰の代用たらしむる便法を発見し、日用品には石灰を使用する事の大いに経済的なる事を立證したのである。而して此石灰應用時代より、従来の素地が生白く變相され、灰使用時代の重厚なる特色が、全く失はるに至ったのである。

檮灰の精選
 石灰使用以前の有田に於ては、特に檮灰の精良品を需むることに腐心した。會て安政三年(1857年)宗藩の精練方にて製作せし、電信機を贈るべく鹿児島に到り、島津齊彬に面謁せし千住大之助任(後代之助さ改む西亭又西翁と號す閑叟の近侍長御側頭兼目附役たり、今の千住武次郎の祖父)は、其際佐嘉藩よりの橘灰購入に就いて、必ず劣質を輸送することなき様注意せしも、其後又薩摩産の粗悪に傾きしより、野中元右工門は、之を日向山中産の檮灰に改めることゝなし、そして薩摩よりは代わりに木炭を買い入れて、我陶器や米と交換したのである。
 檮又ユスと稱し(或は柞の字を用ふるも、柞は槲の別名である)或は蚊母樹と書けるものにて、子供が吹ける彼ヒョウヒョウと鳴る、寄生虫の笛を生するヒョンの樹である。九州南方暖地に産する常緑樹にて、此皮を剥ぎ焼いて灰とせしものである。天保十五年(1845年)島津齊彬が、藩吏中島清六や山元莊兵衛盛富(安政三年四月二十七日卒六十二歲贈從五位)をして、日薩兩國の植林に従事せしめしものには、楠、松及杉苗にて、檮に就ては何等の文献もなかりしを見れば、該樹は元來生成鈍き自然木であらう。

深川と川原との專賣
 此檮灰は本幸平の窯焼深川榮左工門(七代)と、大樽の酒造家川原善之助(古酒場)が、宗藩の国産方より、一手販賣の権利を得て、白川の代官所脇(今の公民學校の傍)に於て、灰方役人に保管されて、賣渡せし故に此處を後迄も灰方と稱せられた。外に此種の極製上灰は、御手山と稱し、代々禁裏御用焼の辻家にて、取扱ひゐしを、十代喜平次の時、長女を八代深川左エ門へ娶はすに當り、其婿引出して、販賣権を譲興したのである。
 斯くの如く檮灰の販賣權は、榮左工門と善之助との一手にありしより、有田内外山の外なる大外山にては、買入方に就いて種々の苦情起り、遂に武雄藩内なる小田志山、弓野山、筒江山の窯焼は別に自領高橋(杵島郡朝日村)へ、檮灰請元(請賣捌所)設置の願書を提出することゝなり、遂に其筋の許可を得しが、時の願書は左の如きものであつた。

灰請元設置願書
乍恐奉再願口上覺
一我々義先般陶器製作用之檮灰私領高橋町に請元一人被仰付度奉願置候へ共如何共御差圖無御座候惣ては至當今焼物殊の外景氣相成上品にさへ焼立候得ば何程燒立候とも買入可申段所々商人より申聞候へ共上品之柞灰存通手に入不申釜火入仕候樣無御座就ては不景氣の儀は數ヶ年打續候得共景氣は稀にならでは無御座候處前断(段か)之次第残念千萬此時に奉存候條何卒格別御仁惠之被爲慮御評議最前奉願置候通御差免被下度今又奉歎願候
一先般被仰逵候繪書細工人他領罷出候者無御座義吃度取調へ候樣御殿達之趣奉畏則取調へ申候處只今迄は他山へ罷出候者無御座其段は御仕置通に御座候乍然方願不被御差免は釜火入致速ならず付ては夫丈は繪書細工人仕事罷出義も不相叶又皿山より同職人は召呼候義も不相叶由吃御法に御座候由依之懸り!~吃度手締仕義には候へ共勿論皿山之義は三里も相隔候場所にて弓野山小田志山よりは就中大村領皿山之義壹里567肥前陶磁史考位ならで無之殊に山越にて往來致能場所柄に御座候へは親妻子養育出來不申場合に移行候節は御法とは乍存間には忍々如何之不所存出來可申不容易場合にも移行申間敷も難斗邊甚當惑至極奉存候
一去月廿日晩皿山御代官所より灰方に付御役の御兩人様弓野山庄屋へ御出之末小田志山庄屋へ御出被成候に付日晩にも及殊に灰方御役人様に御座候へは至極幸之儀に付何卒御泊り被下山元難澁の次第を御聞被下度只管相鎚り候へ共内野山へ急成御用有之候に付御泊り不相叶旨と仰聞候そして小田志では一ヶ年の何程位相用候哉御尋に付凡上灰五百俵斗り中灰武百俵都合七百俵位之高に御座候へ共去年遊りは上品之灰無之焼立候へば損失而己相立候に付存分燒整候義不相叶漸く繪書細工人他山取散不申樣取繫候迄にロ之間斗り爲仕事夫丈族を少く相遣ひ漸く四百俵ひ位にて所有御座候旨申上候又弓野山の義も同様の譯にて兼ては三百俵も相用候へ共貳百俵餘に相濟申候筒江山の義はては拾登壹年に武百俵斗の入方に御座候へ共四登五登(四五間なるべし)致火入右の割合を以相用申候之一釜焼手元大(二字不明)仕候義は専善之助左工門取斗故にて御座候段外荒辻(粗筋か)御咄申上候處以後の所は一ヶ年分宛前以相備副は多く候はゞ可然事にては無之哉と被仰聞候右之御取斗とも可相成哉之御口氣乍憚奉察候へ共灰之入方一ヶ年分致相備候こと第一は灰の性合に相懸り加之善之助左工門より薩州上灰卯之春迄壹俵四拾斤入代金壹兩にて買入其上正銀壹五分の駄賃に御座候處漸く懸目も輕相成候上當春よりは致買方候樣無之旨申一向相渡不申偕又日向上灰之義も前方は壹俵にて三十五六斤御座候へ共當今よりは貳拾四斤入目に相成代銀山568元屈にて三十九匁五分に相當然處去冬大村より買入候は三十五斤入にて届貳拾武久にて買入此遠目壹俵に付正銀拾七匁五分間境御座候其上目凡壹俵に付拾斤斗り輕く有之此代銀凡拾五匁位に相成候然は三十五斤入の灰壹俵にて正銀參拾貳匁五分致相違右は日向灰の引合に御座候右様の間境有之大に致難澁候條何卒私領方へは別段請元被仰付候様相願爲申義に御座候惣ては小田志山にて惡敷灰にて燒立候陶器見手本相渡置申候そして右御役人様方御出之砌幸私領産物方役懸り三人居合被申面會之上被致挨拶候は灰之義先年之通相對買入仕候通にては何れ之筋へ差支御座候哉惣ては御仕組之義御皿山には釜焼一統の為に相成義に御座候哉私領の山には大に難澁仕候併御皿山に釜焼相殖の爲に相成義にも御座候得ば私領方より皿山之致差別取斗相成候義と相見申候其の事に御座候へば御國產方より最初御觸達に相成候御趣意と大に齟齬いたし候何れにしても只今の通にては滅亡仕候御郡方へ嘆願仕置候次第其外被申咄候所委細被御聞右様の譯に候へは私領方は別段御引分け請元へ仰付候ても可然事にては無之哉尤灰方役場の義は年より潜り候通哉其通は如何共斗振可有之哉に被仰聞候由にて御座候そして御郡方差出置候願書所持不仕哉御尋に付寫し相渡申候
一小田志山凡壹年本登り總釜火入にして灰入高凡七百俵此代銀前斷違目貳拾貳貰七百五拾匁弓野山の義本登拾釜にして灰入高三百俵此代金九貫七百五拾匁筒江山拾登にて武百俵に御座候へ共當時致零落山と比較に不相成候凡百五拾俵として此代銀四貫八百七拾五匁〆三ヶ山にて壹ヶ年に積もり凡正銀參拾七貫參百七拾五匁相違仕代金にして五百五拾兩餘其上性合惡く燒物値段之處凡平均九合にて小田志山に凡七百兩弓野山569肥前陶磁史考に凡武百廿五兩筒江山に凡五拾兩此金高九百七拾五兩直段違彼是取東千五百貳拾五兩餘の損失に相成申候
一御國產方より善之助榮左工門引請の砌是迄御役筋より御斗相成來之通釜燒無難澁取斗吳可申候小田志山より及相談候處少しも相違無之通相呉可申旨屹度及約束置候次第々々に相違仕斯之通難澁之場に相移り候へば以来の所彼是譯合被申聞候とも迎も規定仕候機無御座同人共相手には打追従來之通)の義御断り申候
一薩州其外へ灰諸口より買入候通にては直段せ上け自然に釜焼難澁の場に相移り可申哉に頃日皿山御役人様方より粗御沙汰も御座候へ共右は逆仕哉に相心得申候譯は平戸領早岐に差船に三河内山其外へ調入候薩州灰五貫目入にて正銀貳抬匁位賣方仕候由に候へ共善之助榮左工門如何の斗振仕候哉に奉存候事
一前斷の通他邦より買入候と善之助左工門より買入候とは格別直段相違右は同人共向方より致高買候哉又は高利を相貪り候哉に掛念仕候何れにしても願の通被仰付候様奉嘆願候薩州日向肥後三ヶ之大國より千俵位の灰買入候差支直段引揚け候儀有御座間敷奉存候尤銘々辨理能(便利良く)勝手々々値段仕候まゝ右同人の者共へ熟和向方へは右人共之手代の姿にして内輪にては致別議候様私領方へ請元壹人被仰付候義は被相叶間敷哉於然は代銀等は其時に相渡愛詐粉骨差格成沈下直に買入仕候様惣べて請元の利益を取相續仕候仕組にては毛頭無御座私領方釜燒共相緻之爲に請元の人へは立走り手間賃銀且藏敷丈吳後代銀の義は有徳の釜焼より差出置内証にては買(催合買)の楯にして薄身の釜焼には謎の利銀且は雑用銀丈相懸け無難澁通救合の致取斗義に御座候就ては賣買の手締亂ケ間敷義無之通義は成請元相立吃度致心遣候様申談所存に御座候
右旁之次第格別之御仁情を以何卒先般奉願置候通被仰付候樣奉再願候願之通御差発被下は御蔭に何れも職業に相付(有附)御重惠獪以難有仕合奉存候此旨御支所無御座候ばゞ御筋に宜敷仰整可被下深重御願仕候委細は先書に御座候尚又上灰にて製作仕候燒物性合惡敷にて製作仕候燒物爲見手本相副申候 以上
閏五月
弓野山 釜焼中
小田志山 釜燒中
筒江山 釜燒中
庄屋左工門殿
同 傳吉殿
同 右工門殿
前書之通奉再願候條御筋へ宜しく被仰達可被下義深重奉願候斯の如くの義に御座候 以上
閏五月
弓野山 庄屋平右工門
小田志山 同 傳吉
筒江山 同半左工門
江口卯之助殿

 願書中にある川原善之助は善右工門の父、又深川榮左工門は七代忠顕の如きも、郡方とあるは群令時代らしく、以前卯の春とは、慶應三年と見る可く、果して然らは善之助清名義の善右工門速(後善八)にて、榮左工門は矢張八代眞忠に當りそして時は明治元年か、二年の五月であらう。

本邦電氣碍子の始
 明治四年(1871年)深川榮左工門は、工部省電信局の命により、低圧電氣碍子の製造を研究し、刻苦勉勵日ならずして、舶来品に遜色なき品質を製作し得るに至つた。是本邦電氣具磁器製作の濫觴である。其後同十年内國勸業博覧會へ電信用器一切を出品して、賞状を授興せられ。同十二年には清國電報局及露國電信局へ該製品を納付するの契約を結ぶに至つた。

深海平左エ門卒す
 明治四年十二月年木庵主人深海平左工門卒去せしが、爰に維新前後の名陶家中重なる人々を擧ぐれば左の如くである。

維新前後の名陶家
深海市郎 實太郎
泉山窯焼 文久二年十二月十一日卒去
宗傳の宗家八代にて、代々宗傳路起の銘を用ふ。禁裏御用品を謹製せしこあり、製品は重に食器類である。
深海 平左エ門 墨之助
泉山窯燒 明治四年十二月二日卒六十歲
宗傅の嫡系にて前名喜三と稱せしより、年木庵喜三製の銘がある。製品には茶器及食器多く、或は紫薬其他諸種の釉下彩料を用ひしものがあり。名陶家竹治は其次男である。
深海乙吉 米太郎
泉山窯爐 安政五年九月二十八日卒去
市郎の舍弟にて同族の庄屋和十の養子となりて、後に又和十と改む。製品は食器類であり、養子米太郎は池田傳平の次子である。
鶴田次兵衛 已之吉
泉山窯燒 明治十三年七月二十四日卒八十三歳
二代次兵衛にて俳諧を良くし、鶴芝と號した、製品は重に食器類である。
池田傳平 菊次郎
泉山窯焼 明治七年三月十四日卒七十一歳
製品は食器類にて、焼成上釉色の玲琅ならんため、必ず小窯のみ焼きし者である。
深讧鶴次郎 兵之助
泉山窯焼 明治二十二年七月七日卒六十五歳
製品は食碗にて、特に鶴次郎奈良茶の名があつた。長子要太郎は、深海富助の嗣となり、次子兵之助が後継者と成った。
岩松平吾 龍一
上幸平窯焼 明治二十三年七月二十七日卒六十四歲
角岩銘膳附ひ物食器の製造家である。
辻喜平次 勝藏
上幸平窯燒 明治四年九月十四日卒六十四歲
十代目にて禁裏御用の常陸大椽である。
田代伴次郎 政太郎
大樽窯燒 戸籍位牌過去帳全く湮滅す
製品は丼及び鉢である。嗣子政太郎は鹿兒島に於いて卒してゐる。
平林伊平 專一
大樟窯焼 明治二十六年七月三日卒五十三歲
染錦の振金物や、外國向食器の逸品がある
南里嘉十 平一
白川窯焼 明治十三年十一月二十九日卒六十三歲
二代嘉十にて世に嘉十焼させらる。製品は丼鉢及花瓶等にて、或は幕府の御用品を製作せしことあり。養子平一は宗傳傍系の深海元右工門の次男である。
中島儀平 精造
白川窯焼 明治二十五年五月三十日卒六十九歲
五代儀平にて始め清藏と稱し、後秀實と改む。製品は鉢及型打丼にて、特に清藏丼の名があり、又民藏細工の一斗入大徳利がある。
家永熊吉 彌七
白川窯焼 明治十五年十一月二十七日卒六十二歲
花瓶壺の如き巨器の製造家にて、大いなるは九尺に及ぶものがある。それは熊吉が妻の弟名工民の細工である。山本柳吉 周周藏
白川窯燒 明治三十年七月二十日卒六十八歲
角物の巨器製作家にて、燈籠柳吉の名高き大燈籠の作品を遺してゐる。
山口清吉 平四郎
本幸平窯焼 明治十八年六月九日卒五十八歲
製品には清吉井及火鉢花瓶等があり、又釉下彩料を用ひしものや、赤附の油彈き等がある。養子平四郎は中島儀平の次男である。
田代紋左衛門 助作
本幸平窯焼 明治三十三年二月二日卒八十三歳
田代屋の総本家にて、貿易品さして種類頗る多く、就中錦手物に絢爛たる逸品がある。
深川榮左エ門 興太郎
本幸平窯焼 明治二十二年十月二十三日卒五十八歲
八代眞忠にて青花の花瓶に逸品があり、貿易時代となりて製品種多岐に涉るも、瑠璃釉及薄墨描鯉書、及小笹人物繪等の製品がある。
今泉今右衛門 藤太
赤繪町赤粕屋 明治六年六月十六日卒四十五歲
九代目にて十六軒赤紛屋の一人、殊に藩窯色鍋島の上納附者である。養子藤太は稲富武平の次男である。
北島源吾 榮助
赤繪町赤繪屋 明治七年九月二十日卒三十三歳
十六軒赤繪屋の一人にで、先々代松巨繪畫くせしより斯業に優秀であつた。源吾始め盆臓と稱し、質は中島儀平の末弟である。
西山孝藏 盛太郎
中野原赤檜屋 明治二十二年十月十一日卒五十五歲
十六軒赤槍屋の一人にて、前名孫一と稱し斯道の研究家であつた。
青木嘉平次 與一
外尾山窯焼 嘉永六年四月十四日卒去
青花角鉢の製作者にて、素書模様に頗る精巧なものがある。
梶原忠藏 文吉
黒牟田窯焼 嘉永五年十二月四日卒去
大鉢製作の鼻にして、豊後國杵築藩主松平家の御用窯焼である。

 其他當時の重なる窯焼としては、泉山の百田彌左エ門、中樽の瀬戸口源吾、山口惣太左工門、大樽の金子喜右工門、林伊十、柳ヶ瀬茂平次、城島熊三郎、本幸平の山口嘉右工門、稗古場の北島徳右工門、赤繪町の蒲原徳太夫。岩谷川内の山口伊右工門、外尾山の大串左工門、黒牟田の梶原八百吉、梶原平、廣瀬の中島森右工門、上南川原の樋口利三郎、樋口太右工門等があつた。

有田焼の窯銘少き理由
 此代表的陶家にて、製品に家銘を用ひしもの甚少く、それは支那の唐宋元代や、朝鮮の新羅、高麗各朝及李朝初期頃迄、或は又徳川初期時代までの製品には、なべて窯銘の稀なりし如く、有田焼も亦此例を洩れなかつた。それは前にも述べし如く、綜合的成技に屬するを以て、従つて自己作品としての、主張心に淡かりして見るべく、蓋し個々の製品を深く吟味する時に、そこに何物かの個性的風趣を見出すであらう。

概念的鑑定
 而して此無銘物や、お座成式の支那銘ある逸品に、多くの後人が概念的鑑定は、まづ嘉十、喜三製或は柿右工門などゝ看做さるゝに至った。それは恰も無銘の名刀が、相州正宗や、肥前忠吉などに推定さるゝのと、相似たものであらう。

維新前後の名工人
 次に當時の名工を繋ぐれば左の人々があつた。(此外に小栗房助、丸田米助、小山鶴次郎、山本鶴五郎等の名を繋げしものあれど經歷未詳なる故に預り置くことする)
深江政助 明治二十三年九月三日卒六十二歲
泉山の名陶家鶴次郎の舍弟にて、製法一切に通曉し、殊に釉薬調製につき、特種の技能者であり、當時高麗人の渾名があつた。
高柳快堂 明治四十二年五月二十二日卒八十六歲
通稱文諱は高敬又鹿瀬老漁人、窪水漁夫號した。佐賀郡嘉瀬村久保田小路の人にて、外 6相たりし本野一郎博士の叔父である。佐賀の武富南に漢文及書法を習ひ、又長崎の僧鐡翁に南書を学んだ。或は大阪の篠崎小竹及び岡田月州に詩文を修め、又中村竹洞、田能村直入に師事するに及んで、造詣彌深く、南書の名家さして並ぶものがなかった。
 彼は當時白川に居住して子弟を教養する傍、陶畫を描いた、山水、草花殊に妙を極む。其頃黒牟田製四尺の巨鉢に畫ける染附龍虎の如き、筆力雄渾の名作させらる。又京都南書學校の副校長たりしこともあった。(男豊三郎は名古屋商業學校長たりしが、後東京讀賣新聞社長となつた)
犬塚民藏 明治十八年七月二十七日卒五十七歲
中野原なる仁太郎の次男にて、稗古場峻に任せし轆轤細工人である。大は八九尺の花瓶、壺、半洞より、小は碗、猪口、酒盃に至るまで、巧なる稀世の名工であつた。
其頃巨器の胴継ぎをなすに、乾燥後に及んで行はれゆえ、焼成すれば継目著しく現はれしを民藏工夫して、生乾きの頃継合はすことを發明し、之を冠ぶせ継と稱せられた。又巨器の底締りを良くして、燒割れを防ぐ底叩きの法も、彼の考案であつた。
成富椿屋 明治四十年二月五日卒九十三歲
神埼郡蓮池村の人にて、名は鵬と稀し佐賀の中島藍皇(伊萬里生)及び長崎春徳寺の釋鐵翁に南書を學び、當時名筆と稱せらる、有田に仮寓して、紙素の外子弟に教授し、傍ら陶畫に執筆したのである。又明治三十三年皇太子殿下佐賀行啓の際、前記の快堂と共に、御前揮毫の光榮に浴したのである。
大串又兵衛 文久三年十二月二十日卒
泉山の書工にて人物書が得意であつた。
成富治十 明治四年二月十二日卒七十六歳
上幸平の畫工にて狩野風を學び、特に染附にて梅を描くことが得意であつた。
堤三兵衛 明治五年八月七日卒五十三歳
泉山の畫工にて大串又兵衛の門下である、花鳥畫を善くし、大物描として名手であつた。又襖や屏風等の紙素にも畫いたのである。
梶原文吉 明治三年十一月二十四日卒去
黒牟田の窯焼にて轆轤細工の巧者であつた。始めて二尺の鉢を創作せし黒牟田大鉢の元祖である。
梶原吉 死去年月日不明
黒牟田の畫工にて、前記文吉の舎弟である。狩野派を學び、人物、花鳥、山水等可ならざるな名匠であつた。て執筆せる、外尾村椎谷神社の合天井を仕上げ中發病し、松村邸に運ばれ卒去したのである。
江頭松助 明治元年七月二十六日卒三十七歳
黒牟田の工にて一条とし、梶原惠吉の門人である。人物が得意であつた。
梶原熊五郎 明治三年十月十二日卒三十七歳
黒牟田の畫工にて池雲と號し、梶原恵吉の門人である。花鳥及人物替を善くし、又彫刻に巧みにて、種々の人形製作を還してゐる。今の覺太郎の父である。
山口龜次郎 明治十五年七月二十八日卒六十四歲
大将の細工人にて、共頃花瓶類に龍の意匠を考案し名手である。
金子文之助 明治三十七年卒七十五歳
岩谷川内の工にて竹村さ號し、花鳥、人物、動物、山水等何れも可ならざるなき名工であつた。晩年名古屋に於て卒去した。
永松爲吉 明治二十三年四月一日卒六十九歲
赤町の畫工にて人物畫が得意であり、北島源吾の製品に多く手跡を遺してゐる。名工甚三の父である。
江副琴岳 明治二十三年九月二日卒七十歳
大槍の窯焼にて鶴之助さ稱し、人物書を得意とした。小城の岸天岳(岸駒門にて小林英作と稱す、明治十年卒六十四)の門人にて、今神社の馬や、或は屏風等に其力作が残されてある。
製品には有田山琴岳造の銘があり、殊に茶器やカップ等の上附に、其筆蹟が多い。
山本喜左エ門 明治二十三年十二月五日卒五十九歲
本幸平の旅宿業伊勢屋の主人にて、英岳と號し岸流の人物畫を善くした。今屏風等に唐美人繪の遺作がある。晩年自家の隠宅にて、茶器の上繪附をなせるものに、多く十六羅漢を描き、肥磯山英岳造の銘がある。
前山雅戴 明治十八年頃卒六十歳位
通稱を平藏と言ひ、川久保か久保田邊より寄寓せし士族にて、狩野派の名畫師であり、稗古場に居住した。百老繪や百武者畫又は四十七士の如き、容貌多種なる人物繪に長じてゐた。
立林仁藏 明治三十年四月二十一日卒七十二才
黒牟田の窯焼にて、元梶原文吉門下の轆轤細工人である。始めて三尺口の大鉢を造り出せしものにて、製品には立仁の銘あるものがある。
久間平吉 明治二十年六月十二日卒五十七才
泉山の畫工にて花鳥繪を善くした、名工貞次及び川浪喜作の父である。

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