多久系 有田窯 四

肥前陶滋史考
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鶴田 純久の章 お話

徳見知愛有田戸長となる
 明治五年四月数町村を合併區割して、大區制となし、有田は中野原に大區扱所を設けられ、徳見知愛(小城藩士にて和歌を薄くした明治二十八年十月十二日卒す)が區長となった。後伊萬里の第五大區の區長(郡長格)
そして、井手野の大里正なりし菊地山海郞就任し有田は其十二小區と改まるに及んで、知愛は又有田戸長となった。

佐賀縣建つ
 而して五月二十九日伊萬里縣を廢して、佐賀縣(佐賀水ヶ江町)と成し、多久十二代の邑主なりし茂族が、其權令に就任した。

小學校の始
 明治五年四月(1872年)有田白川小學校(舊皿山代官所跡)が開始され、小城藩士江越禮太が校長として就職した。之が文部省令に依る、此地方小學校の嚆矢にて、そして又其校長の始めであつた。

谷口陶溪
 之まで有田皿山の教育は、全く寺小屋式なりしも、中に二三の私塾があり、白川に谷口陶溪があつた。彼の先祖は韓人の齢化しものにて、陶溪名は栗字は子寬諱は惟清、通稱を寛平と言ひ、曾て皿山所の主簿たりしことあり、多の子弟を教養した。而して彼が武雄の碩學清水門の姉を娶りて生める者、則ち鴻儒藍田である。

頑溪と藍田
 又前記の正司碩溪ありて業餘の薫陶に力め、次が藍田の私塾であつた。藍田とはアイタの音讀より稱せし號にて、當時盛んに講教せしも、後年鹿島に博居した。

秋月定藏と松尾寛一
 其他大樽の三空庵に秋月定臓の私塾があり、其跡には鹿島の藩士松尾寬一(吉田の副島茂右工門の兄)來つて句讀を講じた。

惠日と絶元藤山之其他の寺小屋
 寺子屋方面には、西光寺の住職松山惠日最古く、嗣子絶元(智雲の父)又之を継ぎ、中樽の天神社には大里の籐山緩之ありて、當時の新人であつた。其外泉山の辨財天には佐賀の浪人陣内房之助(島田與一が妹聟)があり。本幸平の八天社(今の警察署)には、土岐寛(田守の父)があつた。
 又白川の稲荷社下には、土岐天壽院(辰雄の父)があり。赤繪町の十六善神には、土岐龍風院(磐雄と稱し徳一の養父)があつた。次には中野原祗園神社には、八雲大定院(須賀志と稱し都留麻の父)があり。何れも手習師匠なりしが、白川小學校開始さるゝに及び、前記の八雲須賀志、土岐田守等は、其教員と成って永年勤務したのである。其他外尾、黒牟田、戶矢等にも寺小屋があつた。明治五年(1871年)十月には藤山之が有田鄉外尾小學校長として就職し、そして同十年には土岐徳一と交代したのである。

白川の母校
 白川小學校は明治十三年(1880年)洋舘式に改築せしが、當時の模範建築と稱せられ、(遊歩場敷地の大部分は、家永熊吉の宅地なりしを、後年に至りて田代助作の所有となり、助作より當町へ寄附せしものである)同十五年の西松浦郡教育檢定試験の如きは、此内に於いて執行された程である。而して明治五年(1871年)より同二十四年まで、此間二十ヶ年有田陶山の實業的教育は、此の江越禮太が薫陶を蒙りしものである。

第二の母校と坂本滿次郎
 今の有田小學校は、大正二年(1913年)六月校長浦江會一の考案に依って、新築せしものにて、工費四萬四千八百四拾六圓を要し舊校地の川向ひに敷地を博ぜしものであり。 大正三年四月坂本滿次郎校長として、爾来十二年間、陶山の新人を訓育せしものである。

幼稚園
 なほ幼稚園の創始は、明治三十四五年(1901年)頃、小學校教員古賀令次郎(多久人)の母が、幼兒を集めて獨力撫育せしに始まり、それも彼が轉任と共に中止となりしを、同四十年四月十二日より、白川の鷲尾好一(町役場吏員)が再興し、長女若江其任に當り、其頃小學校長住宅の裏家に在て、私立幼兒保育所さ稱せられしが、其後久しく廢絶せしを、大正八年(1919年)六月十七日深川六助叉之を復興して、私立有田幼稚園と稱し其後が、改革されて現在に及んでゐるのである。
 有田陶山の教育史は、基礎教學としてまづ前段の如くなるも、維新當時の有田人は、他の町村人士よりも、夙に文明の一角に接触するの機會を得た。

有田のインテリー教養者
 そして當時のインテリ教養せし者に、元治元年(1864年)英園に留學せし、石九虎五郎があり、又明治四年(1871年)十一月十日、岩倉大使に随行して、泰西各國を廻り、新知識を齎らして、屢々有田の有志と接せし久米丈一郎があつた。而して江越禮太に至っては、既にスペンサーの社會學や、ミルの經濟學の如き英書を學びし校長であつた。
 又一面産物貿易の關係上、有田人には夙に洋行比較的少からず、故に世界的見聞を弘め、従つて新文化の空氣を吸収せる彼等は、改革の氣風に富み、節季の取引勘定までいち早く新暦のみを應用し、又彼軒髪の如きさへ、平林伊平などが率先して、此地方では、最早く實行されしといはれてゐる。故に當時知識の淺深に拘はらず、有田人士の眼界には、何地の市人さへも、田舎者視するの弊風ありて、ただ文化の門戸なる長崎人を除くの外は、悉く在鄉者と呼んでゐたのである。
 明治五年(1872年)豫て洋卓食器の製造を研究しつゝありし平林伊平は、横濱の本町に支店を開設して、有田焼の貿易を開始した。

博覧會御用達
 明治五年(1872年)の新政府は、翌六年開さる墺太利世界大博覧會への出品準備として田代慶右工門、平林伊平に該博覽會御用達を命じ其製作監督として、博覽會事務局出仕納富介次郎(小城人)有田に出張して、各出品者の製作を指揮したのである。

澳國博覧會
 明治六年(1873年)二月二十五日、墺國博覧會副総裁工部大丞佐野常民(先きの榮壽左工門)は、日本の出品を搭載せる英船マラツカ號に便乗して、横濱を解纜した。此度は再度目であり、加ふるに當時東京大學南校に教鞭を執れる、ドクトル・ワゲネルとパロン・シーボルト(長崎にあり蘭學の大家同獨逸人)が同行せしを以つて、種々の便宜を得しことは申すまでもなかった。此際新工藝の研究者として、納富介次郎、大樽の川原忠次郎、京都の丹山陸郎等同乗し、一行七十餘人、四月十四日首都維也納に乗込んだのである。

有田の巨器
 此時の出品に於いても、有田焼は然として輝き、好評喧々たりしが、就中白川の家永熊吉製六尺の大花瓶と、五尺の壺、岩谷川内山口虎三郎製の五尺の花瓶、及び黒牟田梶原友太郎製の三尺の大鉢には、歐州人の眼を驚かしたのである。

歐州窯業の進路
 元來歐州の窯業進路は、東洋と其軌を異にせることは前にも述べし如く、曾て回々と共に、東羅馬の窯技を地中海方面に伸張し、西班牙に居りしアラビヤ族は、マジョルカ島を経て伊太利人に、其マジョリカ焼の技法を傳へ更にファエンザの地方に傅はりて佛蘭西に挟まりしより、陶器をフハイヤンスと稱するに至ったのである。
 尤も東洋方面へも、アラビヤ人に壓服されし波斯に、此マジョリカ焼の法傳はりて、途には交趾焼などが製作されしも、支那は古くより磁器の本場であり、歐州は漸く陶器にのみ追従し得し觀があつた。要するに彼には軽量にして、色彩の自由なる軟陶が發達せしものにて、一面には彼等の玻璃器製作が、其路連れであつた。故に東洋磁器の優秀なるを知るも、未だ容易く製作し得なかつたのである。

欧州の磁器製作
 歐州に於て、始めて天然磁石の發見せられしは、1765年(明和二年)佛國のリモージュの傍なるセンイリュのカレン破にて、之がマツケエの手に依つて、セーヴル磁器を完成せしは、尚頗る後代の事に属してゐる。 是より先獨逸マイセンに於て、ベツチヤーが磁器を作りしは、1710年(寶永七年)にして、之が歐州に於ける嚆矢と稱せらるゝも(一説には佛國は1730年乃ち享保十五年、維也納にては1720年乃ち享保五年、伯林にては1750年乃ち暦元年とあり)それが各地に普及されしは、尚多くの歳月をしものを見る可きであらう。

有田磁器に驚異
 故に歐州は未た陶時代にて偶々磁器を製作せるも、それは専ら小器のみであつた。然るときに此博覧会に於て、我が有田の硬質なる磁器が、青花と赤の絢爛なるは勿論、しかも六尺の高瓶や、三尺の巨鉢を仰ぎし彼等が喫せことは無理もなかつた。

ボヘミヤ製陶地の視察
 此博覽會へ御用掛の名に於て渡せる納富介次郎と川原忠次郎は、此機會を以て、欧州製陶上の新知識を探究して、我窯業に應用せんことを企圖し、彼等は此年の十二月同國のボヘミヤ製陶地に至り、石膏模型の至便なる製法に着目し、又上繪附の油伸ばし法等を習得して、翌七年に及んで帰朝したのである。(丹山陸郎も亦七年二月始て水金を携へて帰朝した)

陶業盟約成る
 明治六年(1873年)有田陶業の繁栄を期せんが爲め、當時の有志百田多兵衛、川原善入、深川榮左工門、深海墨之助、手塚龜之助、平林伊平及小學校長江越禮太等主腦者となりて、協議の結果に陶業盟約二卷を制定して町是となし、工商會議を開き、専ら陶業の改良發達を促したのである。

平林の電氣碍子
 明治六年(1873年)十月二十九日平林伊平製作の電気碍子が、電信寮の試験に合格して、工部省電信頭石丸安世(先の虎五郎)より、爾来専ら採用の資格ある可く布達されたのである。之より先尾張瀬戸に於て製せし鳶色及黄色の碍子を納入し居りしも、是と含氣試験の結果、平林製が絶縁耐電力に於て無比の強力にして、尾張製とは非常の差ある優良品なることを、英人技師モリスの報告に依って決定された。
 然るに伊平は明治十三年(1880年)此製造を中止することゝなり、爾来深川香蘭社のみ専ら之を製作し、其後諸種の附属器を始め、高壓碍子に至るまで、探算的に研究さるゝことゝ成った。而して前記の平林製碍子につき、當時の御雇技師モリスが、試験報告の英文手記を翻譯せしもの左の如くである。

一千八百七十三年(明治六年)第十月二十九日
於東京電信寮 モリス 手記
石丸電信頭殿
モリスの含氣試験
第四十四號之貴翰ヲ以テ下命アリシ趣旨二基キ現倉庫貯スル一切之陶器ヲ取集メ電氣術ヲ以テ檢査ヲ途ヶ其實驗ヲ得テ左=具狀ス今般肥前國ョリ納メシ新陶器眞二極上品ニテ當時落成セシ並ニ降後建築スル長遠線路之用必適スル故二降後建築スル新線長短ヲ論セス在來ノ和製鳶色黄色/陶器ヲ シ此陶器ヲ用ユル事ヲ必要トス
新陶器含氣ノ度實ニ高越卓出シテ現ニ余ノ有セル試験器ヲ以テ之ヲル不能ニ至ルト蓋其含氣ノ度猊利太尼亞器ヲ以テスレバ一千三百八十六億個トシ禅緬器ヲ以テスレバ一千四百五十二億三千九百零九萬四千零六十四個トス英領印度試験衡極度(即チ緬器/五百億個)ニ比スレ殆ント三倍ナリ實=極上品ト言ハズコンバ有ル可カラス
近來和製ノ鳶色陶器モ實ニ精良ニナリタレトモ其含氣力、唯夕貌利太尼亞器之二百七十三萬個ヲ以テ極度トス
余實肥前製之陶器/焼割豐人組造等識スル爲メ試験前五晝夜間水漬浸セリ一千八百七十三年十月二十七日於東京
對照試験表 陶器試驗表
品名 貌利太尼亞器上ニテ陶器一個人含氣力
肥前製 一千三百八十六億個以上
英國製(二重臺) 同
和製桃色 二百七十三萬個
同黄色 二百零六萬個
品名 禫緬器上ニテ陶器一個含氣力
肥前製 一千四百五十二億三千九百〇九萬四千〇六十四個
英國製(二重臺) 同
和製鳶色 二百八十七萬三千三百二十二個
同 黄色 二百十七萬〇七百二十一個
 但シ唯タ貌利太尼亞器ヲ以テ試験セット雖モ禪緬器大同小異ナル故ニ此ヲ推等比較校訂ノ爲メ二行表シ以テ其實験ヲ示スト云爾

佐賀亂と伊萬里の騒ぎ
 明治七年(1874年)二月一日征韓のを容れざりし政府を倒すべし元司法卿江藤新平、元開拓使長官島義勇等が佐賀城下に兵を繋ぐるや、政府の軍艦雲揚は伊萬里小島沖に来りて實彈を打放ち、以て叛徒の有無を警戒した。然るに伊萬里町民は、すは佐賀軍の攻來るものと誤認して大いに狼狽し、中にも黒牟田物一手間屋なる濱町の井上國助は、田代宗一方の空地を大がかりにて穴を掘り、陶器の有り丈を埋藏し始めより、他の陶器商又之に傚らひ、各自邸内の空地を掘りて有田焼の上手物は此時殆ん埋匿されしさいはれてゐる。

榮左エ門と龜之助の上京
 明治七年(1874年)深川榮左工門と手塚龜之助は東京に上り、嚮に歐米各画を巡歴して帰朝せる編修官久米邦武(先の丈一郎)を訪ひ、具さに海外諸國の形勢と、陶業の實況を聴取して大いに見るところ有った。偶々米國フィラデルフィヤ大博覧開設のあるを聞き、龜之助は内務省の業察に出頭し、其詳細を尋ねしころ、當時政府は臺灣事件問罪の帥起り國事多端にて未だ是等の事を處理する暇なき由を答ふるのみであつた。

費府博覧會出品運動
 而して二人は、僅かに臺灣一島程の問責の為、國益上此重大なる機會を失ふが如きは餘りに當路者眼孔の偏小なるを識せしが、一先づ榮左工門は帰国の途につき、龜之助より一通の願書を勤業寮に呈出して、速か該博覧會に闘する布告ある可きことを乞うた。政府も大いに動かされて、彌々其斡旋に盡すことと成ったのである。之より龜之助は書信を以て、榮左工門及深海墨之助、辻腺藏等と計り、此際大いに我が有田焼の眞償を、米國へ宣揚すべしとなし、直ちに出願して四人等しく出品の許可を得たのである。
 明治七年(1874年)平林伊平は、自邸の前面に陶器倉庫として石庫を建築した。此石材は白川谷の長尾より採取せしものであつた。(今の商品陳列館の前庭にあるもの)
 明治七年(1874年)七月十日柳ヶ瀬左工門卒去した。彼は大樽より率先伊萬里の濱町に移轉して有田焼の内地販賣に盡瘁せし一人であつた。

松村九助のコバルト販賣
 明治七年(1874年)十月有田新村字外尾村の農家松村九助は長崎の一商人よりコバルト青數百斤を購ひ、大阪の繪具商草場善兵衛にして色見をなせしに頗る良好なりしかば、彼は郷里に歸り再び数千の同品を購入して、更に名古屋の七軒町に居を構へ、之を尾濃の陶山に販賣することとなった。そして又同時に其稀薄土をも賣出したのである。之は中樽保屋谷のギチ土にて、一斤袋入七銭位なりしが後年其性質が判明せしより、何れも各地の原料を用ふるに至つたのである。蓋し九助とても、其質分上に就ては勿論不案内であつた。

瀬戸の地繪藥
 元來瀬戸は文化頃より陣屋川原の外四五ヶ所に於いて、小粒の呉湖を探取せしが中にも陣屋川原の産は、砂繪薬として頗る優良なりしも、他はゴロ又は瀬戸繪薬といへるものにて、其外面は全く石であり、中のみが釉薬を含め下等品であつた。文政八年(1825年)尾張徳川瘡莊が、城内にて御深井焼を創めし時、陳元が安南風の製陶に、此地繪楽を用ひ始めたのである。
 然し支那渡来の呉洲と比較して、砂繪薬の外何れも頗る劣等なるを以て、此地方磁器を製するに及んで、専ら高償なる支那吳洲を使用するの止むを得なかった。然るところへ安價なるコバルト應用の普及は、日用製作を主眼とする此地方にとつて、寧ろ有田よりも天來の福音であつた。之より尾濃は勿論京都、會津方面までも、携賣さるゝに至ったのである。

小田志との石場礦區爭ひ
 此頃小田志山の窯焼奥川太右工門(今の龜右工門の父)は、泉山石場續きにある杵島郡堺松方面の礦區採掘の許可を得て之を小田志山に運んで使用しつゝあつた。然るに此礦區の境界に就て、石場肝煎と争議を生じ小田志側は自己の區域なりと主張するに對し、石塲頭取百田恒右工門より交渉中、肝煎達は理否を言はせず押寄せて、既に暴力に訴へん氣勢なるより、太右工門は断然採掘を中止するに至り、斯く此の採掘権も全く放棄したのである。

溶造法及匣鉢重積法
 明治七年(1874年)墺太利より歸朝せし、納富介次郎と川原忠次郎は有田に於いて、新たに齎らせる石膏型に依る、泥漿溶造法、及び匣鉢(烟護墟)製作法並に共の重積法(従来は一個づつ蓋をなし、或は冠せ積をなせしもの)等を二三の斯業者に傅へて、大いに製作上の改良を促しつ、介次郎は上京したのである。然るに翌八年588忠次郎も命に依って上京するに至った。

香蘭社創立
 明治八年二月(1875年)香蘭社が創立された。先に東上の際久米邦武の所説に基づき、深川榮左工門と手塚龜之助は、時運の趨勢に鑑み、區々たる個人經營にては、到底事業の大なる發展を期し難しとなし、深海墨之助、辻勝臓と四人協同の製造會社を起すことに決し。工場は當分榮左工門と墨之助及び勝藏邸となし、榮左工門社長に推され社名を香蘭社と稱し、製品のマークには、蘭花を用ふることに定めたのである。
 此定款を、當時の佐賀縣令北島秀朝に示せしところ、秀朝大いに之を賞讃せしといはれてゐる。之が有田に於ける會社組織の濫觴にて、又我邦製陶會社の嚆矢であらう。而して従来辻家に於ける宮内省御用達も、香蘭社の名義を以つて調することなった。

竹治の含珠焼
 而して此會社中大いに技能を振ひしは、墨之助の舎弟竹治にて、彼は此年含珠燒を發明したのである。

澳國式陶法傳習所
 明治八年(1875年)四月二十八日東上を命ぜられし川原忠次郎は、太政官の勤業寮に奉職することと成り、彼は納富介次郎等と共に、官立墺國式陶業傳習所(内山下町なる海外工藝參考品陳列所内の一部に設けらる)に於いて、全国陶業者の子弟を教授することと成り、而して此招集に應じて入所せしは、佐賀、愛知、石川、京都、鹿児島等の諸陶家であつた。
 此際有田よりの傅習生としては、大樽の藤井寛藏、白川の中島儀三郎、同深川龜藏、本幸平の山ロ巳之吉等四人であつた。瀬戸の川本富太郎、加藤友太郎等も亦此の中にあつた。之より石膏模型の溶造法、及匣鉢重積法、又は水金使用法等が、全國に普及するに至つたのである。

納富介次郎の指導出張
 明治八年(1875年)內務省勸業寮出仕納富介次郎は、有田に來つて、米國費府大博覧会出品物の製造を指導すること成った。此時出品輸送上に開する要件を帯びて、上京せる手塚龜之助は、該博覧會に就いて、社員は勿論同業者一般にも良く其趣意を貫徹せしむる可く、政府員の出張を乞ふたのである。

鹽田眞石原豊来る
 依って内務省よりは、博覧會事務官擅田眞、石原豊を之に應せしむることゝなり、龜之助は同伴して有田へ歸山し、之より三河内山、大川内山等へも案内して、普く各山の美術工藝品を網羅すべく盡瘁した。

陶業盟約の範囲擴張
 明治八年(1875年)更に陶業盟約の條項を補足して、着々其効果を顯はしたる結果、有田内山の外陶業に關する條項は、外山同業者も其範圍に加盟して、制裁するに至り、之が支部を黒牟田山に設けて規定の行に努め、又大外山なる杵島、藤津の各山より長時縣三河内及び波佐見地方の同業者連絡して、粗製濫造と職工濫傭の弊を厳重に取締り、(前借にて年期契約の職工が他山に走る者)其他利害關係の問題は、普く各陶業地より委員を招集して、審議協定の上決行するこさと成ったのである。

石場借區額
 明治八年(1875年)六月內外窯焼協議の上、深海墨之助外二百六名より、来る十五ヶ年を一期さして石場を借區し、同九年一月聞届假券状を附興せられた。而して之は去る明治六年七月發布の工部省日本坑法土石掘採規則に依って手續を取りしものである。

借區開坑願
私共明治五年三月伊萬里縣ノ許可ヲ請ヶ肥前國松浦郡有田村字泉山=於テ陶器土掘探罷在候付引續別紙圖面之場所ニ於テ借區被差許此段奉願候
明治八年六月
佐賀縣平民松浦郡有田村住 深海墨之助
同 平民同 郡大木村住 中島森右工門
同 士族同 郡 新村住 樋口 太平
同 平民同郡大川内村住 富永文右エ門
外二百三名
前書願出之通御聞届相成度候也
佐賀北島秀朝代理
參事 野村維章
書面願之趣聞届証券下渡候事
明治九年一月二十三日
工部卿 伊藤博文
 明治八年(1875年)十月二日富村森三郎卒去した。彼は赤繪町十六軒赤繪屋の一人芳右工門の男にて、前記の如く改革派の運動に對抗し、赤繪屋一同の牛耳を執り、維新の解放に至るまで、舊盟約を固持した第一人者であつた。又長崎石灰町に支店を設け甥毛利常吉を置いて、貿易に従事した。(養嗣子富一の先代である)

費府博覧会の開催
 明治九年(1876年)三月米國費府に於ける、亜米利加獨立三百年祭記念大博覧會開催され、香蘭社より多数の出品と共に、社員手塚龜之助、深海墨之助、深川卯三郎等渡米するに至つた。そして彼地の陶業地を巡視し、或は夫れに關する一切の調査を終へ、滞在一ヶ年除、翌十年三月大いに新知識を齎らして帰朝したのである。
 此博覧會に於ける香蘭社出品磁器の精巧さは、佛國のセーヴル其他各国の製陶を圧し、深海が製せし花瓶の如きは、一個の價一千弗(二千圓)に或は深川製の碗一個三十弗(六十圓)にて賣却されしに徴しても、如何に製品が歓迎されしかを察するに足るのであつた。而して従来支那の市場を経由して輸出されし有田焼が、此博覽會後年々巨額の製品を直接米国に搬出するに至つたのである。

陶業盟約改正願連名
 明治九年三月(1876年)陶業盟約定則を改めて、有田内外山のみに限定すること成った。當時の定則及び連判者等左に掲す。(但し人名の下に括弧せしは、窯焼の後継者或は其遺族を調査して、著者が記入せしものである)


有田山
右有田字泉山璽坑及內外山窯連幡之儀舊殿密之規則ヲ以テ保護有之候處廢藩後諸規則相弛ミ貸借不融通ヲ生第一璽坑勝手掘等一山衰基付今般規ニ基キ潤色ヲ加置約定則議定仕即今ョリ執行致度奉存候然ル處私約ノミニ自然等閑習陷り候憂有之候條何卒御許可ス御達被下度奉願候然ル上一山愈確乎一同安堵營業可仕候依之盟約定則書相添此段御

明治九年第三月
第五大區十小區一ノ瀬山
惣代 岩崎團助
内外山惣代の連名
次に連名せ惣代左の如くである。

同區大川内山 惣代 柴田伊左工門
同同區應法山 同 久保國太郎
同區黑牟田山 同 益田峰助
同區外尾山松村甚九郎
届仕候也
同區南川良山同 樋口爲吉
同區廣瀬山 同 今泉福太郎
有田岩谷川内 同 山口虎三郎
同 中野原 同 久富鶴吉
同 稗古場 同 金ヶ江伊與吉
同 赤繪町 同 光岡勇治郎
同 白川 同 南里平一
同 本幸平 同 中村 勘富口泉口村
同 大樽 同 林康造
同 中樽 同 瀬戸口富右工門
同 上幸平 同 岩松龍一

592同 泉山同 北村徳兵衛

佐賀縣北島秀朝殿本書屈之趣從來之規定案亂致シ職業差支不少候付今般舊規=基聊潤色加へ協議結約ノ上御届仕候付何卒御聴届有御座度此段副書進達仕候也
第五大區副區長
菊地 山海郎
同十二小區戶長
徳見知愛
盟約定則の上款
盟約定則
緒言
松浦郡有田內外皿山陶業凡一萬餘人命ノ所繫也其維持ノ法一日モ忽ニス可カラス而〆廢藩以後
其法漸ク弛ミ其弊隨テ生ス故ニ皙法潤色盟共法弛ミ其約結ブ左ノ如シ
第一條
明治八年瓷聖借區開坑官許ヲ得タリ此規則ヲ奉スル無論タリ且限有ルノ物ヲ以テ限り無永世業保タントス故ニ礦中ヲ案シ瓷堊ノ原ヲ騰貴スルノ弊ヲ防ク事
第二條
一瓷堊掘探運搬節ハ窯焼人々ヨリ左式雛形之通(石場取締出納掛ョリ摺出ノ罫紙ヲ用フ)証券二課金手数料相添時々石場出納掛へ可納事
雛形
記 內山分
一境目(土名) 何拾俵
右之通被相渡度候則課金手數料金何圓錢相添候也
窯焼 何某
年號月日
何之何某殿
記 外山分
一辻土 何拾俵
右者何山窯燒何之何某へ被相渡度候則課金手數料金何圓錢相添候也
年號月日 惣代 何某
何々某殿
第三條
一瓷一俵八十五斤入之事
一壹俵ニ付課金手數料合金四厘宛之事
一上藥一俵ニ付同入厘宛之事
第四條
一石場頭取一名公選ス可シ月給金壹圓ノ事
第五條
一頭取肝煎諸係りノ勤惰並金銭出納其他百事ヲ監督ス可キ事
第六條
一肝煎取締兼出納掛一名公選ス可月給金五圓ノ事
第七條
一石場取締出納掛第二條窯焼人々ヨリ差人々ル運証券手扱料課金出納並罫紙立掌リ石場不時巡廻稼人掘探方法將々白亜他方へ濫出ヲ監護スル事
第八條
一肝煎定番係り一名選定ス可シ月給金五圓ノ事
第九條
一定番第十二十三條ニ揭ケタル石場稼人瓷亜運送時劵ェ捺印手數調理シ出入遺ナキヲ要スル事
第十條
一肝煎見ヶ稀係三名選定ス可シ(岩谷川内一名戸矢一名原明一名)壹人二付月給金五恰錢宛ノ事
第十一條
一見ヶ緑係無手數ニテ他方運輸見常次第相預ル儀勿論不時=近村巡視シ不審ノ筋逐一尋問へ尤預置タル物品其筋ノ分のフ可キ事
第十二條
一石場稼人掘探運搬時々左式券狀ヲ出シ肝煎定番係捺印手數受猥所行無之様嚴二可守事
雛形
運雰狀
何拾俵之内 窯燒
一辻土 拾俵 何之何某
丙子何月何日 泉山土塲之印
第十三條
一石場稼人無手數等都テ規約違背ノ人石場出入屹度可差留事
第十四條
一惣窯焼ヨリ一名宛毎日輪番ヲ以テ石場ノ事務監察シ獨ナラサル事件、惣代役へ協議ヲ可途事
第十五條
一第三條ノ集金二ヶ月毎二取纏メ頭取並惣代役立會頭取肝煎/月給並修繕費其他諸費一切出納係ニテ詳細計算ヲ途ヶ受拂金員及殘金一々檢印ヲ捺毎度殘金高頭取ニテ預リ其冊預髙金員へ受取印ヲ可捺事
第十六條
一石場小普請ノ儀第十五條/預ヶ豫備金ヲ以テ償却ス可キ勿論ナレ共大普請ニテ豫備金不足時内外皿山窯燒中へ分課シ且一時募金等方法共主任勿論其惣代役其外へ報告シ速ニ途協議ヲ大破=至ラシメサル事
第十七條
一每年六月石塲惣會計並頭取肝煎交代人選投票等百事理整可致事
第十八條
一頭取肝煎選定陟ノ時ニ扱所へ可届出事
盟約定則の下款
下欸
第一條
一窯一登(窯十三四口ヨリ乃至二十五六口一列ヲ登ト云)毎ニ支配人一名宛衆議公選ス可シ即今十二登二十二名ヲ可置事
第二條
一支配人事務一山盛衰關涉シ責任重大ナレパ其所掌ノ一登中萬事ヲ擔當シ窯焼ノ便不便ヲ考維持鞅掌ス可キ事
但一山中ノ義務タルヲ以テ給料ヲ議セス
第三條
一窯連燔狀議定ノ節ハ(窯連判又火入吟味ト云)支配人盟主トナリ所掌ノ窯焼中列座上期日確定左式雛形通定約書印調理ス可事
雛形
窯連燔狀
一何登 壹番 何某
    貳番 右同
右ノ通り壹番ヨリ何番迄當何月何日限り火入結約致候處相違無之候就テ盟約定則々堅ク可相守候萬一逹約候節ハ定則下欸第五條ノ通處分有之儀勿論ナリ淇期=及ど少モ異議無之候仍而連燔狀如件
年號月日
 某印
 某印
何登支配人
何ノ何某殿
第四條
一窯連燔議定ノ上一名違約人アレバ連幡一同ノ妨碍ヲナシ其害數千金ニ及故=嚴密盟約確定ス可キ事

第五條
一窯焼中、第三條確定ノ規約ヲ遵守期日過ル最厳禁タリ萬一違約人アレハ其違約ノ顚末ヲ記載シ各支配人エ廻達シ爾後十二登窯々貸方堅ク致間敷事
但金穀負債=係裁判所上告勿論ノ事
第六條
一石場修繕準備トシテ惣窯焼一人毎二一ヶ月金壹圓宛出金ス可キ事
第七條
一石場準備金毎月其地惣代ニテ取立テコレヲ支配人頭取渡頭取コレヲ受取貯蓄ス可キ事
第八條
一窯揚ノ節一支配人ョリ各自印鑑ヲ授ク可シ印鑑所持セズシテ窯ノ鎖ロヲ開ク厳禁タル可キ事
第九條
一一登二付窯番一名ッ窯焼中選ヲ以テ可置事
第十條
一窯揚ノトキ窯番ニラ支配人ノ印鑑の改ム可シシ所持セサル者へ開緘ヲ拒ムノ權アル可事 附窯番萬事支配人指揮二階と精實勉強ス可キ事
第十一條
一支配人頭取以下撰定/時扱所へ可届出事
外尾山以下十一登規約定例準之
右上十八條下欸十一條之盟約定則議定!上則官命ノ規則ト齊シク可相守一個ノ不便アルトモ全山ニ不關儀ハ決シテ變換不得後年ノ景況ニヨリ全山ノ不便アル更區戸長ニ乞ヒ一般協議ヲ途ケ改訂ス可シ萬一盟約ヲ破り暴行ノ所爲アル者ハ則官ニ訴へ裁判ヲ乞フ可シ仍テ連署シテ一山ノ規則ト成スモノ也
明治九年第三月
次に前記の惣代拾七名が連署し、そして又窯焼の連署がある。
連署窯焼人名
泉山窯燒
深海墨之助(峰一) 深海長藏(關治)
百田藤三(政助) 深海政之助(豊助)
鶴田善作(關太郎) 鶴田五太夫 (長七)
百田喜太郎(兵吾) 百田源次郎(ハマ)
深海市郎(光) 溝上五平(福一)
池田米太郎(駒太郎) 池田傳平(菊次郎)
百田米太郎(甚三) 百田理三郎(繁次)
百田房太郎(治右工門) 深江鶴次郎(兵之助)
伊藤甚三郎(五平) 青木福太郎(カメ)
鶴田次平(治一) 溝上竹太郎(丑之助)
百田喜代助(助) 溝上三郎(一郎次)
中島熊太郎(吉之助) 溝上爲市(カチ)
上幸平窯燒
山口長太郎(卯一) 宮田覺左エ門(文一)
福田仁助(サカ) 丸田權九郎(平)
松本平左エ門(政次郎) 岩松平吾(龍一)
川浪本太郎(俊入) 松本熊一(倉助)
小栗卯吉(虎三郎) 友重忠藏(長七)
田中房助(庄三郎) 畑江伊之吉(熊四郎)
楢崎藤吉(禮次) 楢崎熊助(倉助)
辻勝藏(喜右工門)辻幸次郎(熊次郎)
江副嘉助(八臓) 江副圓三郎(政臓)
松本利助(龜吉) 大町祐太郎(伊十)
岩尾勝三郎(傳一) 徳永徳助(徳一)
宮田嘉三郎(兼助) 瀬戸口蔵(彌蔵)
中樽窯燒
山口竹次郎(千之助) 山口鹿助(榮一)
山口實助(貞吉) 山口虎吉(孫太郎)
山口傳吉(一) 山口 菊藏(菊太郎)
山口政吉(慶四郎) 山口幸太郎(文一)
山口常七(喜兵衛) 山口龜市(榮助)
瀬戸口源吾(小一) 瀬戸口富右工門(勝太郎)
瀬戸口彌一(市太郎) 瀬戸口嘉三郎(長造)
瀬戸口兼太郎(元一) 瀬戸口駒一(治助)
溝上幸左エ門(源四郎)
大樽窯燒
岩尾兼太郎(芳助) 柳ヶ瀬茂平次(適太郎)
平林伊平(専一) 藤井直太郎(勇一)
江副嘉吉(鶴之助) 諸隈萬藏(コト)
藤井専七(寛藏) 井手貞助(ムラ)
富村嘉吉(五郎右工門) 富村兵助(虎之助)
林康造(龜一) 井手友七(文治)
林堅八(賴助) 森辰十(定作)
田代松太郎(丈助) 城島熊三郎(岩太郎)
森松次郎(藤太郎) 柳ヶ瀬六次(啓一)
百武伊六(伊八) 城島榮吉(虎吉)
大串清吉(政次郎) 河崎鶴助(德助)
本幸平窯燒
山口清吉(平四郎) 深川眞忠(榮左工門)
山口勇蔵(定一) 森友次郎(峰一)
諸隈徳造(甚一) 田代助作(作一)
諸岡菊太郎(虎助) 鶴田トク(ミツ)
小川濱次郎(儀助)
白川窯焼
家永熊吉(彌七) 家永繁三郎(木造)
中島儀平(精造) 中島孫四郎(鷹一)
中島長藏(清次郎) 久保時太郎(祐一郎)
山本柳吉(周藏) 深川常藏(六助)
南里嘉十(平一)
稗古場窯焼
相原瀬吉(平次郎) 中島政太郎(辰一)
藤本菊太郎(關助) 中島忠作(巳之作)
蒲原愛吉(秀之助) 蒲原長吉(太三郎)
金ヶ江伊與吉(新吾) 久間平三郎(巖三)
北島徳右工門(愛太郎) 北島愛太郎(謙次)
藤本仁惣太(滕四郎) 武富瀧藏(逞四郎)
諸隈又一(徳藏) 古賀種三郎(森太郎)
赤繪町窯焼 今泉藤太(熊一)
岩谷川内窯焼
小野市太郎(安次郎) 山口伊右工門(代次郎)
山口森七(米太郎) 山口森吉(兵太郎)
藤崎太平(清一) 小島惣吉(伊之吉)
松尾勝太郎(徳助) 山口虎三郎(徳一)
雪竹武助(豊吉)
外尾山窯焼
藤本覺助(和太夫)藤本孫平(治平次)
生田重吉(槿一) 藤本源藏(清兵衛)
青木太吉(嘉七)大串徳次郎(次平)
青木與一(榮一) 大串覺左工門(覺太郎)
松村甚九郎(清吾)
黒牟田山窯焼
梶原八百吉(貞一) 梶原良助(牧太郎)
梶原忠助(幸七) 梶原利吉(孫一)
梶原判平(與太郎) 梶原定次郎(重次郎)
梶原友太郎(菊太郎) 梶原才右工門(太助)
立林仁藏(丈吉) 福島幸次郎(性平)
福島春吉(祐太郎) 福島助五郎(紋次郎)
應法山窯燒
原田亀太郎(千三) 副島勘吉(長太郎)
徳永虎助(幸一) 久保徳之助(八十八)
古川徳之助(万之助) 武富政太郎(幸太郎)
古川熊助(松之助) 原田吉(伊勢太郎)
福島 多吉(彥太郎)久保國太郎(常一)
南川原山窯焼
樋口太平(爲吉) 藤信助(文一)
舘林兼助(卯藤次) 小藤伊與吉(今朝太郎)
廣瀬山窯燒
川久保熊三郎(ハル) 森繁吉(なし)
森福藏(龜四郎) 森半次郎(孫一)
川久保忠吉(千三) 森梅太郎(リン)
川久保定右工門(鶴太郎) 今泉松次郎(ツル)
森庄吉(周藏) 岩永元助(虎三郎)
富村忠三郎(カク) 中島森右工門(森吉郎)
田崎源七(惣右工門) 田崎虎藏(なし)
今泉福太郎(鶴吉)川久保定七(スマ)
大川内山窯焼
富永文右工門(卯之助) 八谷久平(繁太郎)
福岡六助(圓次郎) 古田又右工門(カト)
福岡嘉兵衛(竹之助) 富永喜左工門(清一)
森重左工門(雄)永瀬良七(虎六)
畑瀬武右工門(直太郎)光 武彥七(實太郎)
柴田定太郎(泰次郎) 富永徳太夫(なし)
一の瀬山窯焼
大串幸太夫(秀一) 竹下勝七(秀一)
岩崎久兵衛(榮助) 原友五郎(數衛)
宮崎重藏(儀平) 大串虎十(榮一)
前田鐵藏(貞太郎) 大串傳四郎(辰)
大串辰次(なし) 大串和惣次(勝次)
大串鹿藏(リウ) 大串茂左工門(和平太)
飯田市太郎(一二) 大串芳藏(清吉)
原 伊之助(寅之助)
登支配連名
窯登支配人
鶴田五太夫(泉新窯) 百田丑吉(泉窯)
藤井喜代作(大樽窯) 岩松平吾(中樽窯)
久富惣平(前登窯) 池田米太郎(西登窯)
藤井恵七(東登窯) 田代安吉(白燒窯)
深川眞忠(白川窯) 山口清吉(谷窯)
南里平一(稗古塲窯) 河內清平(岩谷川内窯)
松村丈右工門(外尾窯) 久富 太八(黑牟田窯)
梶原判平(局古窯) 久保國太郎(應法案)
樋口太平(上南川原窯) 藤信助(下南川原窯)
中島森右工門(廣瀨窯) 岩崎團助(一/瀬古窯)
福岡六助(古登窯)
頭取以下連名
石場頭取 百田恒右工門
肝煎取締须出納掛 北村德兵衛
石塲定番 福富半左工門
見ケ締 北島文六
同 岡本幸左エ門
同 吉永金四郎
肝煎 岩永源右工門
同 古賀財藏
同 岩永作次郎
同 古賀力太郎
同 岸川常四郎
同 納富三兵衛
同 河內光藏
同 山口伊右工門
同 瀬戸口源吾
右盟約定之條目誓言爲保證連署スル者也
副區長 菊地山海郎
戶長 德見知愛
副戶長 岩附銀太郎
書面届出之趣聞候各自結約之定則確守可致候事
明治九年三月二十七日佐賀縣
廻文
何町窯焼 何某
右之人石場準備金不納付内約之通り窯貸付無之機此段及廻達候也
年月日 惣代
何之某
何登支配人
何之某殿
 前記惣代の内松村甚九郎とあるは、定次の前名にて。久富鶴吉とは、彌平次の前名である。又登支配の内百田丑吉は、後の恒右工門の前名(多兵の養子には中村の舎弟)である。

地石所有者
 次に肝煎連名の末に、大窯焼山口伊右工門と瀬戸口源吾との名前あるは、前者は岩谷川内大谷石(原料の加台料及釉薬料)を所有し、後者は中樽保屋谷のギチ(釉薬料及コバルト調合料)を所有せし爲らしく。又白川の川内光藏は、當時白川谷の山石を支配せしものであらう。
 此盟約署名の窯焼中に、南川原の酒井田柿右衛門、泉山の深海長九郎、一の瀬の大串城五郎等の名前なきは、當時休業中にあらざりしか、兎も角維新の解放より、一時に多数の同業者が勃興せしものにて、此最多の窯焼が現在まで繼續し、又は復興せし者を數ふれば、僅かに二十餘人に過ぎぬであらう。

盟約後の開業者
 此陶業盟約後に開業せし窯焼の重なる者には、泉山の深海惠吉、江上房五郎、橋口三次郎、上幸平の徳永利太郎、中樽の和久榮之助、西村文次郎、青木幸平、大樽の高島三次郎、本幸平の山口熊三郎、田代安吉、深川忠次、稗古塲の岩尾久吉、篠原房助、江上熊之助、中島文四郎、井手金作、相原善吾、中島政助、松本米助等があり。白川には竹重良助、大串庄之助、中野原には久富季九郎、岩谷川内には上瀧鹿之助等であつた。
 又外尾には前田儀右工門 青木甚一郎、松村藤十、應法には武富貞六、廣瀬には市川喜代七、館林輿助、一の瀬には藤本大助、古田惣七 前田常次郎、大川内には小笠原八助、市川卯兵衛、瀬戸口猪之助、川副泰五郎、金武重太郎、富村嘉市、光武萬太郎、樋口長三郎、川副虎次郎等がある。

自家築造の登窯
 其後規模の大運搬其他の經濟打算より、多くの陶家は各自邸内に登窯を築造するに及び、前記の共同積登窯は、全く廢滅に帰したのである。此の自家専用の登窯を築造せしうち、有田に於けるもの而已を繋ぐれば、橋口三次郎の年木谷窯、瀬戸口勝太郎の中樽奥の窯、松本倉助の松本窯、辻腺臓の辻の窯、藤井寛臓の中島の窯 城島岩太郎の城島窯 深川忠次の新宅の窯 深川榮左工門の第一工場の窯 及其川端の窯、中島清次郎の下道の窯、竹重良助の川向の窯、今泉藤太の工社の窯、小島伊之吉の小島の窯、中島政助の巌下の窯、久富季九郎の藏春亭の窯、上瀧鹿之助の上瀧窯、山口徳一の山徳窯、雪

竹豊吉の天神町の窯、松尾徳助の山越えの窯等であった。
 此内藤井寛藏は、其頃瀬戸式古窯に則りて、登窯の改良を試みる為め、佐賀縣會に於いて五百圓の補助を議決し、寺内信一の設計に基つきて改窯せところ、窯具の材料未た調はざるうち、廢業するに至ったのである。而して又前記の中には、後年一軒窯に改築し、或は之を併用せしものあることは申すまでもない。

肥前全部長崎縣となる
 明治九年(1876年)四月十八日佐賀縣は、三潴縣に編入されしが、同年五月二十四日杵島、松浦の二郡を長崎に分属せしめ。同年六月二十一日又藤津郡を割きて、長崎に併合するに至つた。而して同年八月二十一日三潴縣廢せらるゝに及んで、佐賀、神埼、基肆、養父、三根、小城の六郡も、長崎に編入され終つたのである。

梶原友太郎の四尺鉢
 明治九年(1876年)黒牟田の梶原友太郎は、始めて徑四尺の大鉢を製作した。此地型製作は、小林恵七さいへる器用なる大工の手に依つて、木材を以て接合せしものにて、其轆轤地伸べは、福島利次郎の細工であつた。此四尺鉢は其後他に製作せし者なく、今尚梶謙工場に、其木製地型が保存されてある。

有田焼の神戸貿易
 明治十年(1877年)二月十五日西南の役起り、世は騒然たるに至りしも五月二十四日西郷隆盛以下城山に自刃して、人心稍鎮静するや、中野原の久宮源一(龍園の男)は神戸元町に於いて有田焼の貿易を開始した。種類は重に花瓶類にて、未だ多額ならざりしも、蓋し神戸に於ける有田焼貿易の嚆矢であらう。

姫路の永世社
 明治十年(1877年)有田新村郷外尾村の松村辰昌は、姫路に於いて、永世社と稱する製陶工場を創立した。之より先、但馬國出石町外楊枝谷に於いて、櫻井勉が士族の祿券を以て、盈進社なる製陶所を起すや、辰昌又之を斡旋するところあつた。而して彼又永世社を創立するや、當時兵庫縣租税課長の職にありしを以て、長子虎雄をして其事業に當らしめしが、後職を辭して自ら此經營に従事したのである。
 永世社の事業は、舊藩士授職の傍ら殖産の目的に出でしものにて、最初姫路郊外山の井村なる、舊藩主酒井氏の御庭焼の跡を工場とせしが、諸事不便なりとし、市内大藏前町(藩の米廩跡)に移轉して、洋式の竪窯大小二個を築造した。
 そして事務員工人全部有田より呼迎へ、石膏型機械部には、深川龜藏、轆轤細工人には、井手國太郎(金作の父)井手佐太夫、捻細工人には、當時出石にありし大川内の柴田善平、書工には、金子文之助、松尾卯吉、古田倉之助、荷造方は、西村榮臓があり、事務員として馬渡濱吉(後の俊朗)、岩尾榮一、森熊一等を雇用した。斯くて男女の工人二百八十餘人、三日目毎に窯入れする盛況を呈したのである。
 最初製陶原料を、姫路近在御着驛附近より採取せしも、良質ならざるを以て、天草小田床の産石を使用した。又窯具土は始江州信樂より取寄せが、明治十一年(1878年)虎雄が備前三ッ石を通過の折當時石板用の石筆を製作せる蠟石を見て、之を窯土に試みところ、始めて耐火強度の良質なるを見した。(之より此蠟石を大阪天満の硝子會社「社長伊藤某」や、東京品川の白煉瓦會社「櫻組靴の西村勝三經營」等に勤めて使用せしむるに至つた)

永世社へ侍從差遣
 其頃宮内大輔杉孫七郎、侍従堀河康隆の一行は、山陽道各縣の士族授産所狀況を観察するに當り、具さに永世社を参観し、個人の私財を以て、士族授産を經營せしもの、當時全國に此工場あるのみと賞し、上奏復命の末宮内省御用達を命ぜられたのである。

田代組
 蓋し製品の多數は、外国貿易品を主とし、長崎なる甥の田代剛作(慶工門の男なり、慶右工門の妻は辰昌の姉)共同して田代組を組識し、三井物産會社の紐育支店に委託し、江副廉造を主任して販賣せしめたのである。

日本商會
 愛に佐賀藩士丹羽雄九郎(藥學博士丹羽藤吉郎の兄)は、英國に渡りて一等造船技師となりしが、官途に就職するを潔よしとせず、東京神田須田町に朝日屋なる洋酒問屋を開きて蓄財した。而して彼は松尾儀助が工藝品貿易に反して日用品陶器の貿易を企畫し、松村辰昌及び佐倉藩の佐藤百太郎(大醫佐藤尚中の男)清水徳川家の家令朝比奈一等と、日本商會なるものを創立して、別に米國へ輸出すること成った。同十五年辰昌は又神戸長尾景弼の田代商會へ托して貿易せしが、同十八年永世社は解散するに至ったのである。

田代慶右衛門卒す
 明治十年(1877年)七月二十一日田代慶右工門卒去した。彼は本幸平田代慶十の次男にて、舍兄紋左工門と協力して、長崎西濱町に在て貿易を伸展し、又上海及び横濱(明治七年)等に支店を設け、當時有田焼の貿易は田代の名義を冠せざれは、外人間に信を得る能はざるまでの、覇権を把握したのである。

田代屋の分布
 而して晩年田代屋の暖簾は、彼が義子二人に依つて分布された。一は田代源平(明治廿六年六月二十六日卒)にして、長崎戎町の田代屋として暖簾を分ち。一は田代市郎冶(松村辰昌の甥、明治三十五年十二月十三日卒五十三歳)にして、横濱辨天通の田代屋として貿易に従事し、市郞冶の義子(實は甥)田代平太郎(昭和三年五月二十一日卒六十四歳)又名古屋榮町に田代商會を経営し、陶磁器輸出年額百萬圓と稱せらる。

紙型捺染陶畫
 明治十年(1877年)大樽の牟田久次は、紙型捺染陶書の彫刻業を始め、之を薄葉と稱せられた。それは薄葉紙を、其型器へ幾枚も貼り重ねて澁引をせしものであつた。彼は福岡縣朝倉郡甘木町の人にて、豫て郷里に於いて染布の捺染に用ひる型紙の彫刻師であつた。
 此頃久は有田に来り、共繪模様を彫刻せる紙型を素燒地の上にあてがひ、それに繪藥を塗り以て諸種の模様を顕はす法を弘めしが、此簡單なる技法忽ち流行し、下手物の皿、鉢、丼及び辨當又は重箱の如きは、生杯の上に生コバルトにて應用さるゝに至つた。

古製の捺染印畫
 蓋し此捺染印書法は、古き以前にも試みられしもの、如く、柿右工門の緣紅長皿には、四方劔菱繋ぎにて、一見捺染とは思へぬ程精巧の物があり。又前登の窯跡より發掘せし残缺には、細点にて亀甲文を現はせし優秀なる物や或は稗古場の發掘破斤にも、手際良く捺染されて、そして呉湖の發色見事なるものがあつた。

巴里大博覧會
 明治十一年(1878年)佛國巴里に於いて、世界大博覧の催しあるより、佐賀の大塚琢造は既に其前年より出張を命ぜられてあつた。此度は深川榮左工門が、單身許多の製品を齎らして、渡歐せしが、數回の経験を踏習せるを以て、出品の選擇に周到を盡し、益々我が有田焼の真價を高め巨利を博せしのみならず、審査の結果今回も亦金牌賞を得たのである。

佛國式製陶機購入
 此際榮左工門は、欧州各地の陶業を観察して、機械運用の必要を感じ、簡單なる佛國式製陶機一式を購ひて帰朝した。之が我國の斯界に於ける、製陶機應用の嚆矢である。

朝鮮向日用品の輸出
 明治十一年(1878年)朝鮮在勤の旗島勝興の報告に基づき、伊萬里の陶商石丸善藏、(龜屋源左工門の舎弟)柳ヶ瀬六次(左工門の養子カネ六)は相携へて彼地へ渡航し、親しく實狀観察の結果、下手物食器の需要大いに有望なるを認め、之より直ちに各窯焼に製作せしめて、前記朝鮮向の輸出を開始するに至った。
 彼の韓人等も此頃に至り、衛生の思想稍發達し古来より慣用せる合金食器は、漸次此清潔にして堅緻なる磁器に轉換するに及び、年を追うて使用の範圍壙張さるゝに至つた。 回顧すれば秀吉が朝鮮役より渡して、吾に製磁法を敷へし韓人が、今や刧つて我國産の輸入を仰ふぐに至れるは、洵に今昔の感に堪へぬものがある。

山畝與次兵エ卒す
 明治十一年(1878年)六月二十一日久富與次兵衛昌保卒去した、行年六十七歳であつた彼は先代昌常の長男にて、始め三保助と稱し、指作品には藏春亭三保の銘欵があり、有田製薄手碗の如きは、驚くべき精巧な物がある。又彼の俳諧は、當時京都花の本宗匠の准位たる資格を有し、二條家より特に衣冠及末廣を拝受した。晩年祇園山に隠棲して、専ら風月を友とし、笑々庵山畝と號して餘生を送つてゐた。

郡制を布く
 明治十一年(1878年)七月大小區制廢せられて、新たに郡制を布き、府縣會及町村會を設くること成った。そして内海忠勝(後内務大臣)が長崎縣令に任せられたのである。(尤此議會開設されしは、翌十二年三月よりであつた)
 明治十一年(1878年)七月香蘭社は、當時我邦の陶磁器が未だ海外の用に適せざるもの多く、従つて販路狭隘なるを慨し、社員等が先きに歐米に於いて、探究せる種々の洋器を製作して、之が試賣を計畫し、手塚龜之助は内務省勧商局長河瀬秀治に面接して、同省の保護を願し、而して既設の貿易商會を通じて、大いに海外輸出の道を交渉したのである。

有田町用係の設置
 明治十一年(1878年)十一月郡區改正に依り、惣代廢止せられ、忽ち陶業盟約の執行者を缺ぐに至りしを以て、新たに町用係なる盟約の執行者を設け、傍ら惣代役の職務を襲き、公務を取扱はしむること成った。其手當として有田町より僅少の報酬を興へ、重に内外窯焼より職務一切の費を辨じつゝありしが、同十四年有田町よりの手當を廢し、全部窯焼の積立準備金を以てすること成った。而して同十六年官選戶長を置くにあたり、爾来租税徴収の如き公務に干與せず、専ら陶業工務のみを擔當する一機關と成ったのである。
 明治十一年(1878年)十二月先きに商局に對する、香蘭社よりの交渉は、東京府下京橋區木挽町六丁目の起立工商會社の手を経て、製品を歐米各國へ試賣すること成った。工商會社長松尾儀助は元佐嘉藩の足軽にて、始め野中元右工門の手代なりしが後東京に出で明治九年内務卿伊藤博文を説き、大藏卿大隈重信より、四十萬圓の巨資を拝借して、我邦の工藝品貿易を企畫せし者にて、(明治三十五年卒す)之より香蘭社の製品を販賣すること成り、勧商局は代金として、五千圓の下附を許さるに至つた。其時の指令及國證文左の如くであつた。

勧商局の指令
香蘭社より出願にする指令
書面ノ趣聞届先以本年限五千圓分ノ陶器試賣トシテ製造及注文候條金額相當ノ精巧品數種致製造元價書相添東京府下起立工商會社工送付可致本局檢査上若不具ノ品有之候差戻可申且該品來明治十二年十二月二十日限無相違皆出可致尤歐米各地於試賣ノ上其販賣上損盆都ラ申立ノ通負擔致勘定相立可申因別紙金圓請取証書案相逢候事
明治十一年十二月六日 勸商局印
五千圓の國證
國證
一金五千圓
但當製造之陶器御注文代價
一右當製造所ノ陶器御局ノ試賣トシテ御注文相成仕入金トシテ書面ノ金額御下附相成正ニ奉受取候然ル上ハ左ノ件々後證ノ爲御請申上候
一製造陶器/儀ハ精巧ノ品ヲ以テ御渡金相當ノ品位數種製造致シ候元價書相添東京府下起立工商會社迄送致御局御檢查ノ上若不具ノ品御座候ハバ御差戻相成ル共違背仕間敷事
一右陶器精々取急ギ製造仕明治十二年十二月二十日限無相違皆出來可仕尤モ該品歐米各地ニ於テ御試賣ノ上其販賣上ノ損益當社ニ於テ負擔致御勘定相立可申事
右ノ件々履行聊遠背仕間敷候若御渡金御勘定不相立節ハ保證人ニ於テ辨金仕決シテ御損毛相掛申間數候仍後證如件
明治十一年十二月
長崎縣下有田香蘭社惣代
手塚龜之助 印
宿所
保證人 何之誰印
勧商局長
内務大書記官河瀬秀治殿

香蘭社の分離
 明治十二年(1879年)三月巴里の大博覧會に於て、好結果を得し香蘭社長深川榮左工門歸朝するや、土産代りとして、彼は白川小學校へ壹千圓を寄贈したのである。時に手塚龜之助は此機を以て、大いに該社の組織を變更し、其業務を擴張せんことを計りしに、榮左工門との意見投合せす、爰に於て在朝の佐野常民、河瀬秀治を始め、其他の顯官並に有田の諸有志は、其間に立ちて百方斡旋せしも其甲斐なく、途に分離することゝ成り、龜之助等は別に會社を組織すること成った。

精磁會社の創立
 之が則ち精磁會社にて、深海墨之助兄弟、辻勝藏の外百田恒右工門、川原忠次郎が入社することと成り、そして亀之助が社長であつた。忠次郎は嚮に、明治十年九月工部省工作局を辭し、納富介次郎、塩田眞の江戸川製陶所(牛込區新小川町二丁目)に、其事業を共にせしが今回精磁會社に投じたのである。而して工場は上幸平の辻邸を擴張することと成り、商標は靑改め又宮内省への御用達は、精磁會社より調進すること成った。

香蘭社獨營
 此年七月深川榮左工門は、獨立して香蘭社を經營することなり、資本金式拾五萬千五百圓の合名會社を組織し、専ら外國貿易の製品を主とし、或は長崎出島戴拾壹番地及橫濱本町四丁目五拾六番地に支店を開設するに至り、今や田代屋に代って深川時代の有田と成ったのである。

伊萬里に汽船入る
 明治十二年(1879年)七月、西山代村楠久津の川窪雄平(谷口藍田に學ぶ、諱は永康字は公民號を豫章といふ、明治四十二年二月二十四日卒、七十六歳)は、伊萬里の一番ヶ瀬富助と計り、始めて伊萬里に汽船運賃丸を入れて、大阪及博多間の定期航海を開いたのである。
 かくて汽船入港の先例を開きしより、之まで帆船に托せる陶器荷は、汽船積にて迅速に運送する便を得るに至り、同二十一年には伊萬里洗切に運輸會社が設立されたのである。而して同三十年九州鐵道線の有田驛開通は、伊萬里より楠久の汽船乗場へ達する、艀の時間を以て、有田より博多へ着するに至り、陶器荷も亦有田より各地へ汽車積となり、伊萬里汽船の航路は、今や唐津方面及平戸近地への定期へ短縮さるに至つたのである。

習工社
 明治十二年(1879年)岩谷川内の山口代次郎は、同區の醫師正司碩讓、拓きの正司敬造、外尾宿の福島喜兵衛(三井物産の福島喜惣次の父)外尾村の松村九郎等と、習工社なる製陶組合事業を創立し、代次郎が其社長となり、製造及販賣の衝に當つたのである。

三代道八卒す
 明治十二年(1879年)八月二日三代高橋道入卒去した、行年六十九歳であつた。彼は二代の名匠道八の男にて、名を光英と稱し、華中亭道害又は道翁と號した。嚮きに明治二年有田に来て京都式の上繪附法其他を傳習せしめたのである。

窯立賣
 明治十二年(1879年)頃窯立賣なるものが流行した。それは燒上げられし陶窯の口を開かずして、其儘なる成器を賣却する法にて、如何にも當時の窯焼風らしき、粗放な取引法であつた。尤もそれは日用品のみ専業とする者にて、上手物を製造する窯焼には勿論行はる可くもなかったのである。
 それが途には、一登りを窯立賣することさへ行はれた。中には天秤倒れなどありとしても、結局購買者に利得があつた 商人は面々之を手選(選方荷師を要せず)して、背上げを作り、そして伊萬里方面へ賣捌くうち、世は轉々として、無類の好景気を来たし、此特種購買にて巨利を得たるは大樽の藤井彌九郎、手塚政臓、中野原の犬塚儀十及伊萬里へ轉居せし柳ヶ瀬六等であつた。

百田多兵衛卒す
 明治十三年(1880年)四月二十六日百田多兵衛卒去した。行年六十三歳であつた。彼始め貞七叉恒右工門稱せしが、後多兵衛と改めた。先代多兵衛の男にて、宗一(理三郎の父)の含弟である。天英明才智衆に勝れ、當代の識者であつた。陶業及公共事の功績少くなかつたのである。(孫工學博士百田貞次は今東京芝浦電氣製作所の技術部長である)

匣鉢研究
 明治十三年(1880年)深海竹治は、理想に近き匣鉢製造に成功した。瀬戸の如きは、既に安政年問(1855-1860年)加藤市右工門が烟護墟(冒子)代りに、烟蓋(棚板)を發明せしも、元有田は耐火粘土の良質なく、地元製該器にては、磁器を培する火度に堪ずさして、研究屢々頓挫せしが、川原忠次郎が墺國式の重積法を齎せるより、非常なる便利となし、又此成功に依って匣鉢を重積する者、漸く多きを加ふるに至った。竹治は又米國に主用する、楕円形の大皿を製することを研究し得て、斯形の匣鉢を製し、大いに輸出を試みたのである。
 明治十三年は好景気の絶頂に達し、陶工雇傭の前貸金に、百圓位のさへ少くなかつた。折しも造營改築中の陶山神社(後代大里より分遷せし八幡宮)は、當時泉山石場の山の神社(元石場各坑內に祀りありし、文久年間(1861-1864年)勤番所脇の丘山に合祀せるものゝ如し)を改築して、假殿として此處に鎮座され、大樽本殿の竣工を待ちしさころ、九月に至つて彌々遷宮の式を擧ぐること成った。

遷宮の賑ひ
 遷宮の催しこそ、有田陶山の豪華版なる一の繪卷物であつた。近郷の各村よりは此賑ひを見る可く群集し、全山十區は思ひ々に趣向を凝らして、山車や屋臺を仕立たのである。中にも泉山は厘文錢にて大梵鐘を造りて押出だし大樽は天保銭にて作りし巨龍を練り廻はし、陶山社境内の舞臺には銅貨や其他の貨幣にて、鶏數羽を作りしが、とりわけ莊觀華麗な山車は、稗古場の龍宮世界であつた。
 此好景氣なる、あぶく餘財を覗つて、岩崎には四五軒の女郎屋が開業された。折節は遊興中の親方と抱え職工と鉢合せするナンセンスがあり或は沈溺する職工の身受け騒ぎをする親方もあつた。

土締機の瀬戸使用
 明治十三年(1880年)瀬戸の大窯焼加藤杢左工門と、同川本桝吉は有田へ來り、親しく當地の陶業を視察せしが、就中香蘭社に使用せるフイルタープレス(粘土壓搾機)を見て、甚だ其便利なるを感じ、早速之を需めしと稱せらる。蓋し長崎邊にて、注文製作せしものであらう。

金屋の始
 明治十三年(1880年)佐賀の山口弘助は、始め藥液溶解の金粉販賣業を開き、妾おリウを白川に置いて營業せしめた、之が有田金屋の元祖にて其後赤檜町の北島榮助、本幸平の嬉野爲助、大樽の嬉野鹿吉等の金屋が出来たのである。

石場地所名稱更正願
 明治十三年(1880年)四月二十八日泉山石場の地權が、當事者の粗漏に依り、借區場官有地となりゐる事を發見して大いに驚き、其名稱更正願を呈出せしもの左の如くである。

地所名稱更正願
今般本廳地理係郡島十等屬殿磯山借地御調査トシテ派出相成有田皿山字泉山亜礦ノ地官民ノ部分御尋間ニ付私共傳聞ノ儘皿山共有地ト答辯仕猶亦改正新帳簿披見候處豈ニ計ランヤ借區場官有地ト記載有之候ニ付始メテ承知致シ一般愕仕候然ル處第一主任ノ改正總代小島三郎次妻ヲ携へ栃木縣轉籍依之該地之舊役々古老輩ト集會ヲ候處明治四年舊佐賀藩改革中土場番地並ニ土穴庄屋其外廢止ノ際同人月內外皿山請地二被差出候受書別紙寫ノ通記錄有之其他開礦相調候處同所中樽字保屋谷瀬戸口源吾ト記シ夫レヲ取消シ瀬戸口富右工門(其時の小頭役)是叉取消シ改メテ官有地ト記載有之源吾ノ名目全ク消滅致居候依之考之改正總代小島ニハ先年工部省ヨリ御下渡相成候借區開坑免状ヲ披見シ地所迄モ借區地ト誤解致一己ノ陋見ヲ以テ官有地ノ部分ニ編入仕候者ト想像仕候我々モ改正總代而巳ニ委任致シ改正新帳簿ハ檢不仕等閑ニ打過候段奉恐縮候得共前陳ノ次第二付御手數ナガラ右泉山石場五町二反二畝六歩ハ皿山共有地同字保屋谷ノ箇所ハ瀬戸口源吾所有地二御更正被成下候樣仕度但舊佐賀藩へ受書其他ノ寫相添申候記録簿ハ御入用次第何時差上申候條願之通御更正被下度此段奉願候也
明治十三年四月二十八日
松浦郡有田皿山
瀬戸口 源吾
同 共有總代
岩松平吾
右戶長
中村勘藏
渡邊源之助
長崎縣令內海忠勝殿
改第貳百四號
書面願之趣聞届候事
明治十三年八月四日
令内海忠勝代理
長崎縣少書記官 金井俊行印

松浦郡を東西南北に分つ
 明治十三年(1880年)五月五日松浦郡を、東西南北の四郡に分割することゝ成つた。乃ち唐津方面が東松浦郡と稱し、伊萬里及有田地方が西松浦郡と稱せられ、北松浦郡が平戸方面にて、南松浦郡が五島である。而して後年長崎縣より分離して佐賀縣の獨立となるや、東西松浦は佐賀縣に属し、南北松浦が長崎にしたのである。

フレンヂ来朝
 明治十四年(1881年)三月第二回内國勤業博覧合が、東京に於て開催せらるるや、手塚龜之助は精磁會社の出品を携へて上京せしが、其閉場の頃來朝せる米國ボストン府の陶器商フレンヂを訪ひ、大いに得るところあつた。而して大藏卿佐野常民、同大輔品川彌二郎も亦ホフレンヂを招じて我邦陶磁器の米國輸出に就いて、大いに助力せんことを依頼したのである。

フレンヂの有田滞在
 明治十四年(1881年)十月手塚亀之助は、フレンヂを同伴して有田に帰山し、之より實地に就いて、彼の意見を叩き、それに困つて外國輸出品第一號より、第百七十號迄の雛形を製作し、之が爲にフレンヂを滞在せしむること實に五十餘日であつた。此間彼は有田磁器の品質を験じて、世界無比と稱揚し、而して其製作上模様及形容の欠点につき種々の意見を開陳したのである。

標本を天覧に供し奉る
 斯くて亀之助は、前記百七十種の標本製品を携へて上京し、品川彌二郎に面會して、之が一覧を乞ひしところ、彼氏賞讃措かず、終に上野精養軒の一室を借りて之を陳列し、普く要路顕官の観覧に供するに及び、宮内卿徳大寺實則頻りに之を賞揚し、更に該品を宮内省内に移して陳列し、辱くも乙夜の覧に供し奉ったのである。而して此フレンヂ型標本中の一種は、特に同省御用命の榮を蒙ったのである。
 明治十四年(1881年)十月十二日自治制實施せらるゝに當り、陶業盟約中行政に属する條項は改廢することゝ成り、陶業上の制裁は、範圍を縮少して、更に有田窯焼磁業會を組織し、舊盟約の趣旨を踏襲することゝ成った。

不景気と生積
 而して此年より景氣は逆轉し、各職工は賃錢二割五分の値下げと成った。此經營難は、自然略式の製法が産み出され、素焼を廢し生杯の本燒する者多きを加ふるに至った。蓋し支那景徳鎮の製陶は上物とても全く生積なりしものゝ如く、下手物製品に就いては取扱ひを省略する丈にても、生積の方法甚だ便利なるも、當時は未だ斯る研究なく、斯くては有田焼製品の聲償を失墜せしむると成し、之を磁業會規則に記入して一部特種品の外、一切生積を禁制することゝなり、本幸平の田代呈一會長として、厳しく監視したのである。

竹治の石灰釉研究
 明治十四年精磁會社に来りし久米邦武は、曩にワゲネルの主唱に基づき、高價なる檮灰の代りとして石灰の試用を勤むるや、深海竹治之が研究の任に當り、漸く完成の域に達せしも、一般窯焼には未だ應用するに至らなかつたのである。

平吾の石場普請
 明治十四年(1881年)石場頭取岩松平吾は、現在の磁石坑が、採掘困難なるを除去す可く古坑内に停滞せる排水の必要を唱へ、肝煎を督勵し、中央に水道を開整して、大いに採取の便を計るに至つた。此時より従来の肝煎六人を、十五人に改むることゝ成りしが、それは地土穴持十三人上藥穴持二人となった。

勉脩學舎
 明治十四年(1881年)有田小學校長江越禮太が、多年の素志貫徹し、深川榮左エ門の壹千圓を始め、其他有志の寄附金合計壹萬参千五百圓を以て、白川小學校と共に其下場に於て、一大校舎(後有田町役場となり、又幼稚園にも使用されしが、今川端に移動されて公民學校と成つてゐる)が新築され、之を勉脩學舍と稀した。それは曾て有栖川宮熾仁親王殿下の給はり大額の御親筆に因って命名せしものにて、これ洵に本邦陶業界に於ける實業教育の濫觴である。

江越禮太
 江越禮太道容は、小城新小路の藩士仁兵衛道須の男にて、幼名を愛吉郎さ稱し、號を如心又は陶翁、白溪 九十九溪翁、竹山人、三酌翁等の別號があつた。資性宏量恬淡敢て人と逆はず、夙に草場佩川の門に入り、後江戸の昌平校に學ぶや、傍ら古賀謹堂(精里の三男洞庵の男謹一郎又茶溪)及津田眞道に就いて英學を脩め、又詩文に長じ且書畫を善くした。其頃諸藩の名士交はり、就中奥州の河井秋義(継之助)と親交するところあつた。

露使プーチヤチン
 嘉永六年(1853年)七月十七日露西亞の使節、海軍中將布廷悟が長崎に来り、樺太所領の件につき、幕府に商談を求むるや、之に接すべ大目附筒井肥前守政憲、勘定奉行川路左衛門尉聖謨、目附荒尾土佐守成允、及び儒臣古賀謹一郎增等下向すること成り、此際尚一人の鑑臣を要せしさころ、昌平校よりは禮太を選択して、是に随行せしめたのである。斯くて政憲等は不得要領なる返答を以て、布恬廷を追返したのである。
 禮太が此時の功績に依り、小城藩主鍋島直堯は私領松浦郡の久義島(又釘島といふ、伊萬里港内にて元山代領なりしが又小城領となり、今黒川村に編入)を禮太に興へたのである。文久元年(1861年)彼は小城藩學興譲館の教職にありしが、同六年竹音社なる家塾を開いた。

久原の經倫舎
 其後小城藩領なる、松浦郡山代鄉久原に移住し、經倫舍なる英語塾を開きしこさ二ヶ年であつた。慶應二年(1866年)宗藩主閑叟の命に依り石丸虎五郎、久米丈一郎は、英人技師モリスを雇ひて此地に来り、山代郡令梅崎源太郎と協力して竪坑山を開くや、禮太も亦大いに斡旋するころあつた。之より虎五郎は傍らモリスを經倫舍の英語教師なし、禮太は舎長として多くの子弟を教育した。(此炭鉱は後朝日炭坑と稱し、藤津郡多良村の退役海軍少將山崎景則が經營し、後村井炭坑と成って廢坑した)
 此經倫舍の英語學生より出でて、後年知名の士となりし者少くない、中にも多久の志田林三郎(工務局長、電信學校長兼工科大學教授、工學博士)小城の中野宗宏(逓信省通信局次長)同舎弟中野初子(工科大學教授、工學博士)長崎の巨智部忠承(理科大學教授、理學博士)有田の中村無一(歩兵第四旅團長、陸軍少将)等があつた。
 明治四年七月十四日(1871年)適々廢藩置縣となり、凡て藩の事業を中止するに當り、モリスも經倫舍を去りしかば、禮太は有田に來り、同五年四月前記の如く、白川小学校の校長として、就職したのである。

禮太の實用主義
 而して禮太は尋常儒者の如く徒らに字義の講説を喜ばす、只管實地の應用を奬勵し、常に生徒をして、郷土の産業に従事せしむ可く慫慂した。そして學生に此陶業地の比類なき歴史を知らしむると共に、如何せば此就業に興味を持ち得可きかを腐心した。其頃同藩出身の徳見知愛と協力にて、皿山風土記なるものを作り一般生徒に讃ましめたるは、左の如きものであつた。

皿山風土記
それ長崎の縣廳を 北に距ること二十餘里
西松浦郡皿山は 戶數一千三百餘
人口凡そ六千人 陶器を産する土地にして
以前藩治のころ迄は 百數十戸の窯焼に
十六軒の赤繪屋と 其有り数も限りしに
明治の始め辰の年 古昔にかへる王政の
他人の権利を妨げず 民の自由も立伸びて
同職稼業商賣業も 次第に廣く成りにけり
偖て焼物の始めより 今に三百七十年
永世頃のむかし 五郎太夫祥端とて
伊勢の人でも支那人とも云ふは慥に知らねども
支那の陶器の製造を 習ひ覺えて此郷の
善き土を發見し 餘多の品を造りたる
古雅高等の染附は 世に比類なき器なり
其後慶長年中に 朝鮮攻の歸陣の時
連歸られ韓人の 金ヶ江村の李参平
小城郡多久に住居して 焼物造り始めしに
宜しき土のあらざれば 家を移して此郷の
曲川なる蹴れ橋 此處へ来りて遠近と
たどり歩きて見出しし 其石土の比類なき
たから有田の泉山 このごろまでは皿山も
木蔭小暗き山手にて 田中の村といひしとぞ
金ヶ江氏を始めとし 百田深海岩尾など
皆韓人の末ぞかし 皿山よりは程近き
里の畑中野原より 掘出す古風の土焼は
何の時代に何人の 埋めて置き物ならん
唯堀出しと唱へつゝ 舊きを好む風雅男の
貴び愛づる器なり 赤繪といふは伊萬里津の
東島氏が長崎にて 支那の人より習ひしを
喜三右工門といふ人に 敷へ傅へて附くれども
未だ色取もよからぬを 呉須權兵衛が苦心して
宜敷ほどを得たりさぞ 其品物を長右工門
又吉太夫といふ人が 長崎に出てりしこそ
おそれながらも外國に 輸出をなしゝ始めなり
其権兵衛といふ人が 更に歳月工夫して
色ことことに繪書して 正保三年六月に
酒井田氏の柿右工門 また長崎に持出だし
賣弘めしも今は早 二百餘年の古昔なり
此時赤釉も染附も 大いに業や進みけん
窯燒畫書細工人 数千餘人もありしとぞ
世に名も高き古伊萬里は此年頃の品ならん
其後外國貿易の 道も暫く絶えたるを
久富與次兵衛藏春亭 深く欺きて我家の
力の限り盡しつゝ 終に和蘭支那までも
かけて商賣開きしは 實に中興と申すべし
禁裡御用の来歴は 寛文のころ奥州の
仙臺侯の伊達氏が 江戸の商人伊萬里屋の
五郎兵衛といふ者を 此皿山に遣はして
陶器を誂らへ造れども 是ぞと思ふ品もなし
時に辻氏二代目の 喜右工門にて造り得し
器の膨れてありけるを 五郎兵衛携へて
仙臺侯に進めけり 侯の喜悦限りなく
大内にこそ捧げしが 實に清らかに潔ぎよき
器なりとて其後は 絶ず御用を進めよと
かしこき仰蒙りて 御所の器を辻氏が
捧げ奉ることゝなり 又四代目の喜平次は
安永午の六月に 常陸の様に任せられ
名に顯はれし陶器職 玉の器の極真は
掛此喜平の發明ぞ 陶器を窯にて焼く時は
只一面に並べしを 天秤又はちみにて
積み重ねたる其上に 又一と際の工夫して
二段重ねの天秤は 百田辰十始めたり
日耳憂國のワグネール 暫く此地にありしより
造れる品や釉薬の 使ひ方など進みたり
博覧會の始まりは 未だ維新の以前にて
佛蘭西國に開きし時 我邦よりの出品は
僅なりしに係はらず 此處の陶器の産物ぞ
巨藦ならんと第一に 稱せられしは慶應の
三つの卯年の五月なり 次は明治六年の
墺太利の博覧會 命せをうけて平林
伊兵衛田代慶右工門 出品方を掌り
高さ六尺除りある 花瓶は名立ちの品なれや
名譽の賞を得たりける 深海深川手塚辻
陶器の珠を取添えて 國の光を萬國に
輝かさんと眞心に 四人力を戮せつゝ
上に願のゆるされて 結び固めし約束は
名も薫ばしき香蘭社 御所の御品は此社より
捧げまつれの仰さへ 受けしは明治八年なり
費府の博覧會 四人は互に励まして
家の財は盡すとも 名譽は餘所に譲らじと
自費出品の勉強は いかで目途の違ふべき
名譽の賞を取てけり 此會場に臨みしは、
手塚氏の龜之助 深海氏の景之助
深川氏の卯三郎 外國渡航の權輿なり
同十年の内國の 博覧會にも該社より
名譽の品を陳列し 審査の評も満足に
生徒の手して風紋の 賞牌こそは得たりけれ
頷いて翌年佛蘭西の 博覧會の出品は
又一層の手際にて 四尺に近き大鉢や
一丈餘りの花瓶まで 取陳ねたる其中に
白川學校生徒等が 書畫合作の額鉢は
文部省より特別に 御買上さは成にけり
受けたる賞の金牌は  さても著しき名譽なり
深川氏の榮左エ門 佛蘭國より英國に
渡り視察し製品の 凡ての繪柄形式等
西洋向を研究し 多くの製造器械をも
誂らへ明治十二なる 年の春にぞ歸國せり
元より此處の學校も 其工業の始めとて
場局も開けゆく程に 機械も未だ備はらす
年稍長けし生徒等の 餘力に依りて年々に
就學の功や奏すらん
 斯の如く小學校生徒には、實修科を設けて陶業の教養基礎を建てたのである。此風土記は當時の生徒にて、今の六十路婆さへ、なほ暗誦せる者少くない。而して此時代の博覧會なるものは、各園競うて美術工藝品を出品して、名譽の賞牌を得ることが主眼であり、後代の勤業的とは頗る異なりし獎勵であつた。それは各國互に其文化を誇る一種の代表的ともすべきものにて、出品者は採算のみに拘らず、悉く政府の補助に依って、製作することが當然させし中に、「自費出品の勉強」などは、日本兵が銭出して買物せるを、支那人が驚異的に感じた位であつたらしい。

祥瑞の誤入
 然るに此風土記作者たる徳見知愛も、協力者たる江越禮太も、其頃小城藩より移住せし人とて、元来此地の陶史に精しからず、多少の誤謬は止むを得ざるも、就中祥瑞を此處の陶祖となし、且有田の磁石は、李参平以前既に祥瑞なる者に依って、發見されし如く作られてある。其後兵庫縣屬たりし、大樽の横尾謙吾、致仕して歸鄉するや、此風土記を見て大いに不可なりとし、則ち祥瑞の記事を削除して、改作せしものが左の如くである。そして此時は佐賀縣の管轄となりしころにて、蓋し此改作を知る者は稀であつた。

横尾謙の改作風土記
佐賀縣廳を西に距る 十有一里十餘町
有田のさとは今こゝに 戸数千百七十四
人口五千五百にて 人皆陶器の産をもて
其なりほひを營めり さて窯焼の其数は
百二十軒赤繪家は 十六軒とおほよそに
限りなりしを明治年 王政維新のそのはじめ
人の権利を妨けぬ ならひさなりて貿易も
次第に繁昌なせしより 御代の榮りと諸共に
其數限りなかりけり むかし文祿慶長の
朝鮮陣の其時に まつろひ來つる韓人の
金ヶ江村の李参平 小城の郡の多久村に
焼物造り始めしに 良き土のあらざれば
移りし有田の亂れ橋 漸く谷間にさかのぼり
今の有田の地に来り 始めて得しはいつまでも
盡せぬ石の泉山 其頃有田は深山にて
田中村てふ稱へあり 其後追々人民も
つどひ来りて月に日に 今の繁華なしつらむ
百田深海岩尾など みな韓人の末ぞかし
扨赤粕屋は伊萬里津の 東島氏が長崎の
來泊人に敷へられ 喜三右工門に傳へしが
未だ成らぬをこん限り 呉須權兵衛と共々に
あまた年月工夫して 終に發明なしつるを
賣渡せしが此里の 異國通商のはじめにて
實に正保の三つの年 壬辰のみなつきの
始つころの事となむ それより追々長右エ門
吉太夫なご長崎に 通ひて貿易なしつるも
僅ばかりのことなるを 茲に名高き富村が
大商法を起せしは 後故ありて打絶えぬ
その後安永年中に 焼物つくり始めしが
此時有田の赤檜家は 其方法を天草の
人には傅へざらましと 十六人の同盟は
いとも嚴かなりしとぞ それより長く十六と
數限りありつるは この故さこそ知られけれ
天保年中王の 辰の年より中野原
久富與兵衛色々と 力をし和蘭や
支那に通商なさんとて つとめ励みし甲斐ありて
終に開けし貿易は 年月長く榮えゆく
そが中奥さ稱へらる 禁裡御用のそのはじめ
昔寛文のころとかや 仙臺藩の伊達侯が
江戸の商人伊萬里屋の 五郎兵衛といふ人に
陶器を頼み造りしに 二とせ除り止まれど
心に叶ふものもなし その頃辻は三代目
喜右工門にてありつるが 其造りたる物をもて
仙臺侯に贈りけり 其品所々に傳はりて
ついに大内へ捧げしを 其清らけき潔きよき
器なるにぞ其後は 絶えず大内へ貢げとの
命せ賢こみ年々に 捧け來りし辻氏の
その孫喜平次安永の 庚午て六月に
常陸の椽に拜命す 喜平次世にも勝れたる
陶器造りに名を得しが、 今たゝへなす極真は
此喜平次の發明ぞ 扨又陶器を窯に入れ
積み重ぬるも其昔 ひら一面に並べしを
追々天秤とちみもて 又其上に積み重ね
様ざま工夫に工夫して 二段天秤なるものは
百田辰十始めけり 今此明治の頃よりは
殊に花瓶の製造も 多かる中に癸の
酉の六年皐月より 墺太利に始めたる
博覽會に持出して 各國諸邦に名も高き
名譽の賞をとりたるは 六尺有餘の花瓶なり
その製造の主はこの 白川山の人にして
家永熊吉なるぞかし もとより有田の焼物は
日耳憂國のワグネール 来られしより色々と
發明せしも多かれど 留まる月日僅かにて
成らざることも又多し そのもと石の質分は
極めてよきを製法の まだ至らぬをいかにせん
日進月歩の科學こそ 此焼物の基なれや
工業學をまなばずば 如何に工夫をなしつるも
猶暗闇の手さぐりぞ もとをただしていやましに
我皇國の産物を 世界の上にかがやかし
國の爲にも利をおこし かねて有田の名を揚げよ

禮太の運動
 陶業實修學校建設に、熱烈なる江越禮太は、専ら其創立につき、賛助資金を得るこに奔走した。明治十三年(1880年)彼は、所有する唯一の財産公債證書を賣却して、参百六拾餘圓の運動費を得しより東都へ上り、本縣出身の先輩副島種臣、大隈重信、大木喬任、佐野常民等を訪問して、賛同或は寄附を求め、又三條實美、柳原前光、伊藤博文等の揮毫を得たのであつた。有栖川宮熾仁親王殿下の御親筆も亦此際に拜受せしものである。
蓋し此運動に就いては、薩摩出身の前外務卿寺島宗則が亦頗る斡旋せしといはれてゐる。
 之より歸山して、彌々有田有志の該校創立を決意せしめしものにて、彼が熱誠なる希望は、漸く七ヶ年目に於て達成されたのである。斯くて多額の寄附を得て開校するや、此時第一期學生として彼は長子孝太郎(海軍機關少将)大子米次郎(後逓信省事務官、今の有田町長)を入舍せしめたのである。

手塚五平縣會議員に當選
 明治十五年(1882年)三月西松浦郡より、縣會議員として、白川の手塚五平が選擧された。當時の長崎縣令は内海忠勝で、縣會議長は小城の松田正久(後の衆議院議長、又司法大藏大臣)であり、副議長は武雄の松尾芳道(後佐賀縣會議長)であつた。

伊萬里銀行の創立
 明治十五年(1882年)三月伊萬里銀行が創立された。是より先明治十一年三井家は、丹波昇三を伊萬里支店長として、始めて此地に貯金及び爲替機闘を設立せしも、未た此地方の金融を充たすに至らなかった。折から翌十二年佛國より歸朝せし深川榮左工門は、陶業金融上、大いに銀行設立の必要を主唱せしより、此地の有志石丸源左衛門(亀屋本家)松尾貞吉(札場本家)等之に賛成して上京することゝなり、其間鍋島宗家の後を始め、小城鍋島家及び大隈重信等が大株主となりて、斡旋の勞を執ったのである。
斯くて十五年に及び、弦に參拾七萬圓の伊萬里銀行が洗切(今相生橋脇)に設立され、佐嘉藩士たりし下村忠清其の頭取となりしが、當時に於いては全國中有数の大資本銀行であつた。同十七年十二月唐津町民の懇請を容れて、同地へ出張所を設け、同十九年六月更に横濱南中通に支店を設置せしも、財界の恐慌に逢着して経営難に陥りしを、小城藩士蓑田助之允頭取に就任して、善く之を整理したのである。當時の取締役は前記の源左エ門貞吉さ、榮左エ門であつた。同三十年八月資本金増加して五拾萬圓となし、大正十年百萬圓に増資し、今や貳百萬圓の銀行と成ったのである。後年の経営者としては頭取本岡儀八、同藤田與兵衛、同大串誠三郎等の功労者があり、現頭取は池永榮助である。

有田貯藏會社
 明治十五年(1882年)深川榮左工門は、百田恒工門、藤井惠七、同喜代作、川崎精一等と計り、我有田陶業の金融を、獨り伊萬里銀行のみに仰ぐは甚不便なりし、泉山の玉屋(深海光之助宅後鶴田次平住し次に徳見知敬住宅)に於いて、貯藏會社なる小金融機闘を創立せしが、位置餘りに東方へ偏するを以て、後横町の山口勇藏方に移轉し、本幸平の中村勘臓が共主任であつた。之が後の有田銀行の前身である。

長尾の田代商會
 明治十五年(1882年)東京の長尾景弼は田代屋の手塚五平と相識る關係より、神戸町に於いて、田代商會の名義を以て、肥前陶磁の貿易問屋を開業した。景弼は元播州龍野の藩士股野琢(藍田)の舎弟にて、先に同藩の大参事たりし、識見高き有爲の士であった。鑠て漢詩に長じて大沼枕山等と詩交あり、曾て共著書があつた。己れは東京銀座四丁目壹番地にて、博聞社と稱する出版業を経営し、明治八年九月太政官布の法令印刷を引受けて、巨利を博しが、此頃有田焼の優秀なるに着目し、傍ら神戸に於て此貿易を開始したのである。(景弼は明治二十八年二月六日卒、五十六歳)
 而して彼の雑貨貿易品中磁器のみは、友人松村辰昌が永世社製品の外、全く有田物事業と定め、景弼の姉聟吉田有雄が、其主任者であつた。そして店員として、姫路の米光源之助、山本某及加藤盆吉等ありしが、永世社解散後、有田の馬渡俊朗(前の濱吉)が入店した。此田代商會の問屋開始より、こゝに有田焼の神戸貿易が、大量的に行はる>に至ったのである。

金ヶ江と金玉均
 此時有田よりの荷主には、中野原の金ヶ江徳一(正司碩溪の四男、金ヶ江利平鎮守の長子)が、其主なるものであつた。彼は屢上神して、貿易の伸張に努めしが、其重なる種類は、花瓶壺及蘭弗台等であつた。そして彼が當時神戸に亡命中の朴泳孝や金玉均と相識りしは此時である。

楠公社の大燈籠
 徳一の外有田の荷主には、上幸の松本次郎、中野原の犬塚儀十、大槍の藤井喜代作、同手塚政臓、赤繪町の富村富一、同北島榮助、同丸田城之助等であつた。之より逐年肥前物の神戸貿易彌盛大になり、此等有田荷主が協同して、同地の湊川神社に磁器の大燈籠(白川の山本柳吉製)を奉献したのである。

陶榮會 明治十五年(1882年)伊萬里町に、資本金拾萬圓の陶磁器販賣社陶榮組が創立され、上土井町の西喜左工門(土井忠)が社長となり、有田白川生れの小山丈太郎が支配人であつた。そして有田の仕入部は、中野原の庄村藤十之に當り同藤吉之を補佐し、横濱尾上町の支店は、庄村富助(藤十の舎弟)之に當り、神戸榮町の支店は、伊萬里の立石利右工門之に當り、朝鮮仁川の支店は、西某其主任であつた。一時非常に盛大なりしも、明治二十餘年に至つて解散したのである。

佐賀縣獨立
 明治十六年五月九日(1883年)長崎縣より分立して、又佐賀縣に復し、佐賀、神埼、小城、基肆、養父、三根、藤津、杵島、東松浦、西松浦の十郡全部を管轄することなった。そして佐賀縣知事として鎌田景弼が赴任したのである。彼は元熊本神風連の一人にて、醉石さ號し能書であり、當時有田に来りて紙素及陶器に揮毫を残してある。

山中規約
 明治十六年(1883年)七月十日有田山中規約なるものが制定された。此地舊來民間に起る諸種の争議や捫著に就いては、概ね土地の侠客なるものが、仲裁和解に當り、就中白川の窯焼家永繁三郎の如きが、其第一人者であつた。然るところ時代の思潮は従來の如く、繁さんの裁きのみにては、解決彌々困難となるに至った。
 維新後未だ幾許も經ざる、開明の過渡期とて、生半可なる自由を叫び、或は猥りに権利のみを主張して、瑣事と雖も法廷に出でて、爭ふもの多きを憂ひ、或は又舊來の弊風を矯正して、社交を簡易ならしむ可く川原善八、深海墨之助、深川榮左工門、久富瀧圓、平林伊平、江越禮太、手塚五平等の有志合して、規約二十九ヶ條を制定した。是は直接陶業には關係なきも、又其時代の一端を識る料として左に掲げたのである。

西松浦郡有田皿山規約協議決定スル條款
第一條 人生最モ貴フ可キモノ一生命二財産三居村之ヲ護持スル一人一己ニテ能クスルモノニ非ス多數人民ノ集合力ニルモノナレ各自舉村内の安寧鞏ナラシム是生命財産ヲ貴重スル所也故ニ此規約ヲ設置ス
第二條 一山中別テ親睦ヲ旨トッ吉凶相助ヶ患難相救と善ヲ賞メ悪ヲ懲ラシ各自品行ヲ正クシ刑法治罪法共他法律規則ヲ遵守スル無論其條目ヲ誤解セサルョウ注意ス可シ最モ其條則ニ低鯛シ易キモノ二三の左ニ揭ク
一他人ノ山林二入竹木其他ヲミ或田畑ノ果物、野菜類及池沼ノ養魚ヲムモノ或賭博類似スルモノ
一道路磁石其他ノ干物或下水流シ通行ノ妨ヲナス者或旅籠屋ニ非スシテ濫ニ人ヲ北宿セシムルノ類
第三條 冗費省キ質素倹約ヲトシ相競フラ職業ヲマシ一山中ノ洪福ヲ受ルヲ此規約ノ本旨トス
第四條 十戸組ヲ一伍トシ一山中泉山、上幸平中樽、大稔、本幸平、白川、赤繪町、稗古場、中野原、岩谷川内ノ十ヶ山之ヲ町トシ更ニ之ヲ東西分チ之ヲ部トシ伍ニ伍長置町町用掛リヲ置キ部二部長ヮ置クモノトス
第五條 博徒ノ集合スル場所=立寄或見等ヲナスカラス
第六條 旅人依頼受ヶ或不正ノ物知り之ヲ質入し之ヲ買ヒ或ハ質使ヒ又ハ其保證人タル等ノコトアルベカラス
第七條 歌舞伎及相撲等諸興行ヲ爲サント欲スルモノハッ伍長町用係承諾ヲ得ルニ非レハ出願スルヲ得ス
附り諸興行節語元其他ヨリ懇意向々へ通券配付スルハ之ヲ廢止スペシ
第八條 葬式加勢成ルヘク減少 十三戸ョリ超過スペカラス
第九條 死亡者有リタル跡へ忌中見舞トシテ餅菓子類配贈シ來リタルヲ自今以後全ク廢止スヘシ
第十條 死亡者・年忌供養等成ルベク節縮シ無用ノヲナス可カラス
第十一條 金錢其他貸借上ョリ紛議ヲ生シ訴訟及節先之ァ伍長町用係ニ詢リ而後止ヲ得サルニ於テ自分訴へ出ッルカ或他二依頼スル事アルモ猥リニ代言人等ニ誘惑セラレ其手敷經ス委任へカラス
但シ金銭貸借上而已ナラス一戸内或他人對シタル事件モ本條ノ手ヲ經ルニ非レ委スペカラス規約内人民本件ノ手数ヲナサレ依頼ヲ受ルヲ得ス
第十二條 耶蘇教或ハ他ノ外教ヲ信仰スヘカラス
第十三條 俗人ニシテ加持祈麟ヲナス者稻荷或弘法ナト唱フルモノ又い手相人相家相見等人ヲ感スルモノァ信スペカラス
第十四條 茶講及彼岸團子或夏祭/際餅饅頭團子等配物一切廢止スヘシ
第十五條 川祭觀音講等從水慣習或諸加善ノ綱ト稱スルカ如キモ此際廢止スヘシ
第十六條 結婚/媒酌人以後双方の近隣三名ッニ限ルモノトス
但シ親戚及格別懇意ノモノ表向ノ手数ヲ要セサル者此限ニ非ス
第十七條 他方ノ人該地=寄宿スル者其ノ本籍ノ寄留證書ヲ携帯スルニ非レ借屋貸シ或一日雇と又礪寓サスルヲ得ス
第十八條 證書面ヨリ前利息引落シ等高利貸借ヲナスへカラス
第十九條 家屋新築勿論河線水道道路ニス場所先以町用係道路係り届出共點ヲ經ルニ非しい建築スルヲ得ス
第二十條 出火無論窯火事山火事節袖手傍観等ノ事アル可ラス
第二十一條 書入質入及籍入籍其係り町用係リノ手数經テ戸長公のスペシ
第二十二條 伍長町用係常二町内人民品行注意シ喧嘩、口論等和解規約取締ヲ施行スペシ
第二十三條 大小ノ事件一己ノ量見任セサルノトキッ之ヲ伍長=諮り伍長之ヲ辯解スル能サルトキ町用係り部長等ノ順序ヲ經テ之ヲ詢ルモノトス
第二十四條 伍長町用係部長選擧伍長其伍内ニ於テッ町用係、其町內=於テッ部長、其部內ニ於テ何レモ投票ヲ以テ之ヲ選定スルモノトス
第二十五條 伍長町用係り部長選舉被選人トモ町内二戸籍ヲ有現今居住スル者議員及長次男ヲ別タスト雖トモ一人一戶ニ限ルモノトス
但長任期三年トシ三年毎之ヲ改選ス任務ルモノが再選スルコトヲ得又伍長町用係リヲ兼務スルモ妨クナシ
第二十六條 此ノ規約工業會議々員任之ヲ議セシム若規約中ニ於テ是ヲ増減改正セント欲スルトキ臨時開會ヲ乞フヘシ
但此規約議スルトキ伍長町用係リトモ出店伍長 二就き町用係部長議席二列シ識スルノ欄ヲ有ス
第二十七條 伍長部長トモ一山中義務タルヲ以テ俸給議セス但集會費金町會議議定任ス第二十八條 違約者ヲ置スルニ伍長町用係リニ於テ事實ヲ取調へ該規約中條目=觸ル、モノト認ムルトキハ左ノ定例=據り處置スペシ
一第五條六條十一條十三條十六條十七條ヲ犯ス者や違約金五圓ヲ課スス一第十二條ヲ犯者交際ヲ絶ス
一第七條同附書犯ス者違約金参圓課ス
一第八條九條十條十四條十五條犯スモノが違約金武園課ス
一第十八條十九條ヲ犯スモノや違約金拾圓ヲ課ス
第二十九條 右ノ規約ヲ犯スモノ其則ヲ以テ違約金ヲ出サシム而悔悟質ヲ表セサルカ或三犯ニ及フモノ一山中ノ交際ヲ絶ス但違約金之儲之山中公用費ニ支消ス
右之條目中外教忌避の重課は、島原切支丹の戦亂より耶蘇教に對する邪念の惰力にて、當時未だ信教の自由には、全く理解なかりし時代であつた。又他國の旅人を警戒せしは、往時他山の工人が潜入して、屢陶法を竊み去りしてふ、是又因襲的觀念の残りものであらう。次に貸借上の争議に就いては、當時モグリ代言人頗る多く、今の選擧ブローカーの如く斡旋し、原被兩告を誘惑しては、法理に暗き民衆を喰物にする徒少らざりしを以てゞあつた。そして田代呈一が此町用係として、斯法を勵行したのである。

忠次郎の製陶機購入契約
 明治十六年(1883年)には、和蘭のアムステルダムの世界大博覧會と、米風ボストン世界大博覧會とが同時に開催されて、両社は出品に忙はしく、中にも精磁會社々員川原忠次郎は、此年の三月許可の出品物を齎らして、歐洲に渡り、好成績を修めて金牌を受領せしが、鯖途佛國の製陶地リモージに到り、先にフレンヂが勧めたりし、當時の最新式製陶機を購べく、契約して帰朝したのである。

石場準備筋問題の交渉
 此頃打續く不景氣に、小資金もて營業しつある中位下の窯焼には、嚮に陶業盟約に規定されたる、月壹圓宛の石場準備金を納付することが、苦痛を訴へる者多く成り此際同志を糾合して、決議せる内外山の斯業者は本年八月までに、準備金の納付を停止するのみでなく、是迄七ヶ年納入せし該金の収支計算を調査して、其残額の大部分は、目下窮乏せる製造資金に充たすべく返金を逼ること成ったのである。

伊勢屋の合説明
 然るに此交渉にして、當事者の返答一向要領を得ざるなし、同志の窯焼は本幸平の旅館伊勢屋(今郵便局)に集合し、計算報告を追窮すること成り、中樽の瀬戸口小一(源吾の男)が質問の先頭に立つことゝ成った。彼は豫て辯論に長じ、嘗て盲者ながら将棋を善くする程の男であつた。
 此時石場定番なる久間平三が来て答せる説明に依れば、去明治十二年米國前大統領グランド將軍が、來遊すべしとの其筋の内訓に接し、石場勤番所を新築するに、千餘圓を要したのである。
(時夏季にて、伊萬里地方に疫病旅行の爲グランドの來遊は見合せさなつた)翌十三年には、石場の大修繕を起工し、之迄山を迂回しつゝ徑路を辿りて纔かに牛馬の通行し得るのみなりしを縦横に車道を通するやう改善を施し又最寄の山林田畑を買収して、石場の附属地となしたのである。

有田川運河の測量費
 次に二千餘圓は、周知の如く、勉脩學舍建築費に寄附せしもの、而して其残餘の金額は、其頃平林伊平の發案に依り、有田川筋全部を深く掘下げて、伊萬里より船舶の往來を自由ならしめ、以て陶器荷運其他一切の便宜を計畫すべく、之が測量費として大部分費消せられたりとの説明に、窯焼一同をして唖然たらしめたのである。

大川内窯焼の組合脱退
 之より同志の窯焼は、測量費問題につき大いに不承知を唱へ、彌々結束を堅くし糺明の上、責任者に辨償せしむ可く飽くまで目的を貫徹せんとの誓約なりしも、何分鳥合心理と、目下悲境の際運動費の支出に窮し、途に泣寢入に終ったのである。此時より大川内窯焼一統は、一切泉山の原料を使用せざるべしと憤慨し、これより地元の粘土のみを以て、粗雑なる氷裂燒を濫造し、斯くて二束三文に賣崩して、途に其需用を閉塞せしむるに至つたのである。
 明治十六年(1883年)九月より、石場準備金の名稱を消費金と改稱し、従来の金額を半減して、月五拾餞宛酸集することゝ成った。之は石場地税及修繕費、其他石場取締費、窯焼集會費等に充つることゝ定め、尚別に地元有田皿山の公費へ、毎年百圓乃至武百圓を補助すること定めたのである。

準備金精算報告
 明治十六年十月三十日計算報告に基き、石場準備金の分配左の如くであつた。
一金八千六百拾九圓五拾錢
明治九年四月ヨリ十三年五月マデ内外皿山
一金千九百五拾七圓六拾四錢七厘
明治十年一月ョリ同十四年一月マデ利子月受込惣高
其他合計壹萬六千四百拾七六拾四錢七厘
支出 同十二年一月ョ
壹萬六千八百四拾四五拾銭五厘
内貳千〇武拾六圓 勉脩學舎寄附
殘髙金百七拾參〇六厘
窯焼百三十六人ニ分配
内山窯燒八十五人へ百〇八拾七九厘五毛
外山窯焼五十一人へ六拾四九拾錢七厘五毛
一人前分配額金壹岡式拾七錢貳厘七毛

大樽と岩谷川内との製品協定
 明治十六年頃に至り、各區窯焼の製品分野亂脈となり、就中日用品種目に於いて、岩谷川内にて丼を製する者あれば、大榕叉辨當重箱を焼く者生するに至った。斯くては互に濫賣の弊を生するの憂ありとなし、舊来の傳統に則とり、辨當重箱類は岩谷川内のみに限定し、大樽は必ず丼類のみに改む可く、特に雨區の窯焼間に、堅く誓約を結び、萬一違犯せしものは、参百圓の過料金を徴収さるゝことに定めたのである。

現場差押へ
 然るに其後中樽の彫型師仁戸田熊造が、毎日山越えの間道を、岩谷川内に通勤せるは、必定丼の型を製作し居るに相違なして、密々探偵せしところ、果して雪竹豊吉と小島伊之吉が違犯しつゝある事が分明した。依つて大樽區の窯焼は、一同打連れて、岩谷川内へ乗込み、現塲を差押さへたのである。
 此時伊之吉は大いに恐縮して、只管謝罪せしを以て、當分保留し置くこと成りしも、一方は豊吉の舍弟彦助大いに抗辯し、此器元來甚だくして皿類たる可く、決して丼の部類に属すべきものにあらずと論じて止まず。是より全山窯焼總會を開くに及ぶや、深川榮左工門該器を一覧していふ斯くの如き抗辯は、彼の馬を捕へて鹿と成すに等断然これ丼なりと宣言するや、衆議一決し、豊吉一言の文句を云はず、參百圓の違約金を呈出せしは頗る奇麗であつた。

極度の不景氣
 此頃に至り不景氣は極度に通り窯焼の休業するもの續出し、従つて各職工は生活の脅威となり、彼等は途に自家用の焼物を持出して、杵島郡白石地方の農家を廻はり、若干の穀類と交換して、糊口を支へる者少くなかつた。

戸長の民選
 明治十七年(1884年)七月戶長は、民選法に依る制度改まり、有田皿山は、上幸平の酒造家渡邊源之助推選さるに至った。
 明治十七年加賀の古物商高田源右工門が、神戸元町五丁目に肥前物陶器問屋を開き、新村外尾の前田貞八が其出荷者であつた。其頃貞八は外尾山にて製陶を創め、又自邸内に於て盛んに上繪附を營したのである。

梶原幸七の石炭窯
 明治十七年(1884年)黒牟田の窯焼梶原幸七が、一軒窯を築造して、石炭を試用することを聽傳へ、東京藏前の職工學校(高等工業學校の前身)の生徒十數名は、松村八次郎、深川忠次の案内にて、之が参観に来つたのである。

上野の五品共進會
 明治十八年(1885年)三月東京上野に於いて五品(繭、絹糸、織物、陶器、漆器)共進會開設につき、本郡出品人総代として、手塚五平が推選されたのである。 最初明治十二年長崎博覽會の際は、本郡の陶器出品者三十名なりしが同一六年佐賀縣管内共進會にては四十名となり、そして今回は六十名に達したのである。

田中審査長の報告
 同年六月八日上野の五品共進會褒賞授與式に於ける、審査長田中芳男の報告概要左の如くであつた。
陶器は偶本の旨趣に適せざる器物あり。或は漫に輸出のみ着目せる物あり。或は飲食器を製するに不熟なるものあり。其他十中八九は従前の内國用器に聊改良を加へたるに過ぎず。概するに陶器の製造は近來較進歩の物ありと雖モ其産額頻年頗る多數に至り、自然需給の權衡を失ひ、彼我相傷くの狀あるが如し云々。

受賞者人名
 勿論今回は東京の共進會とて、出品者に於いても相當の意を盡したるべきも、未だ當路者の認め得るまでに、進歩を見ざりしものゝ如く、斯くて結果は、全国陶磁器出品者の授賞せるものに、一等賞なるものなく。又二等賞は香蘭社のみにて、他に一人もなく。次の三等賞四人の内、精磁會社があり。四等賞十人の内、佐賀縣には一人もなく。五等賞三十三人の内四人田代助作、岩尾兼太郎、深江鶴次郎、黒牟田の梶原友太郎があり。六等賞四十四人の内六人瀬戸口富右工門、田代安吉、岩松平吾、外尾の松村定次、小田志の松尾喜三郎、同樋口平兵衛があつた。
 次に七等賞九十五人の内、十七人があり、それは深海長九郎、溝上三郎、溝上竹太郎、川浪俊入、林堅八、藤井惠七、江副御之助、山口清吉、南里平一、山本周藏、深川瀝藏、今泉藤太、岩尾久吉外尾の前田貞八、杵島郡芦原の副島三、養父郡白壁の協力會社等であつた。
 而して農商務卿は、初代酒井田柿右工門へ金參拾圓を追賞し、又斯業の功労者として手塚龜之助と、小田志の松尾喜三郎へ、同じく金參拾圓宛を賞興したのである。

手塚龜之助へ功勞賞
功勞賞授與證
佐賀縣西松浦郡有田皿山
精磁會社々長
手塚龜之助
一金參拾圓
近年市場ノ景況ヲ熟察日用器皿ヲ製スルノ切要ナル事ヲ悟り主トシテ磁質形状ヲ改良シ便益廉価ヲ勉メ以テ内外ノ販路ヲ壙張ス其功大ナリ因テ之ヲ賞ス
明治十八年六月五日
農商務卿従三位勳一等伯爵 西郷従道

全国陶業者代表會
 同月十一日農商務省は、木挽町の厚生館に於いて、全國の重なる陶磁器業者二十六名を召集して、斯業の諮間會を開催せしが其人名は、兵庫縣の加集珉平、田中利右工門、石川の綿野吉次、松本佐平、圓中孫平、竹田吟秋、岩田以貞、福島縣の岸庄吉、岩田新吾、滋賀縣の北村竹造、東京の松尾儀助、加藤友太郎、島田惣兵衛 熊本縣の村上義平、鹿兒島縣の沈壽官、岐阜縣の西浦清七、加藤五助、愛知縣の加藤重吉、三重縣の川村又助、高知縣の市村定直、岡山縣の木村一郎、神奈川の井村蒼四郎、山口縣の坂田鈍作等にて、佐賀縣よりは手塚龜之助、手塚五平、田中英一の三人であつた。

四尺大鉢の献納
 此共進會出品中に於いて、観者の眼を欹たしめしは、黒牟田山梶原友太郎製なる染附四尺の大鉢(代償貳百五拾圓)であつた。
而して該品の如き未曾有の巨器は、我が有田焼の硬質を示す權威として、主都へ陳列し置く可しとなし、七月八日之を上野の博物館に献納したのである。斯くて此共進會の肥前物殘品は、内地向を日本橋區蠣殻町の日比野與三郎に、又外國向は、横濱天通の田代市郎治に、販賣を委託したのである。

築地の龍池會
 明治十八年(1885年)専ら美術振興の目的を以て、佐野常民等の主唱に困り、築地本願寺に於いて、龍池會なるもの組織せられ、有栖川熾仁親王殿下を總裁に推戴した。そして手塚龜之助は其陶器部委員に囑託されたのである。(此龍池會が明治二十一年より上野の華族會館に移りて、日本美術協會と改稱されたのである)

巨器生積の創始
 明治十八年(1885年)岩谷川内の窯燒松尾徳助は、神戸のオツペネメール商會と取引を開始し、始めて二尺のずんど(アンブレラスタンド)を生坏の儘本焼し得ることを発見した。蓋し其安價なる注文に應せんが為に外ならず。之が有田に於ける巨器生積焼の創始であらう。
 明治十八年(1885年)伊萬里堀端の武富熊助は、横濱に於いて、肥前物陶器の貿易を開始せしが、三年餘にして閉店した。此時店員なりし森永太一郎(伊萬里古賀の人)は、其後再度米國へ渡り、オークランドの菓子製造所に研究すること十ヶ年、途に今日の森永製菓會社を築き上げしものである。

連續素焼の便法
 明治十八年(1885年)黒牟田の梶原幸七は、本窯の前後を素焼窯となし、本窯への練らし焚きと、そして本窯より洩れ去る火力を利用して前後に素焼することの便法を発見した。此改良に依つて、従来の燃料五割を節約し得るに至り、之まで別個に築造され、素焼窯なるものが、全く廢止さるゝに至つたのである。

石場坪數更願
 明治十八年(1885年)十二月十七日、先に同十七年七月石場坪数の更正願に對し(元坪數一萬二千五百六十六坪へ二千四百十二坪增區)借第三千三百十五號を以て聞届られたのである。そして出願者は辻勝藏外二百六名の窯焼であつた。

肥前國西松浦郡有田皿山村字泉山民有地
陶土場一萬四千九百七十八坪
但坑區税五百坪ニ付金五拾錢
前書之通り當分借區開坑差許候追而實地點檢之上相當之坪數税額共相定本證券ト引換可相成尤モ此證券坑法ニ相記シタル借區ヲ不可得者ノ手ニ渡り候節ハ其日ヨリ可爲廢物者也
明治十八年十二月十七日
工部卿伯爵 佐々木高行

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