多久系 有田窯 四

肥前陶滋史考
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鶴田 純久の章 お話

徳見知愛有田戸長となる
 明治五年四月数町村を合併區割して、大區制となし、有田は中野原に大區扱所を設けられ、徳見知愛(小城藩士にて和歌を薄くした明治二十八年十月十二日卒す)が區長となった。後伊萬里の第五大區の區長(郡長格)
そして、井手野の大里正なりし菊地山海郞就任し有田は其十二小區と改まるに及んで、知愛は又有田戸長となった。

佐賀縣建つ
 而して五月二十九日伊萬里縣を廢して、佐賀縣(佐賀水ヶ江町)と成し、多久十二代の邑主なりし茂族が、其權令に就任した。

小學校の始
 明治五年四月(1872年)有田白川小學校(舊皿山代官所跡)が開始され、小城藩士江越禮太が校長として就職した。之が文部省令に依る、此地方小學校の嚆矢にて、そして又其校長の始めであつた。

谷口陶溪
 之まで有田皿山の教育は、全く寺小屋式なりしも、中に二三の私塾があり、白川に谷口陶溪があつた。彼の先祖は韓人の齢化しものにて、陶溪名は栗字は子寬諱は惟清、通稱を寛平と言ひ、曾て皿山所の主簿たりしことあり、多の子弟を教養した。而して彼が武雄の碩學清水門の姉を娶りて生める者、則ち鴻儒藍田である。

頑溪と藍田
 又前記の正司碩溪ありて業餘の薫陶に力め、次が藍田の私塾であつた。藍田とはアイタの音讀より稱せし號にて、當時盛んに講教せしも、後年鹿島に博居した。

秋月定藏と松尾寛一
 其他大樽の三空庵に秋月定臓の私塾があり、其跡には鹿島の藩士松尾寬一(吉田の副島茂右工門の兄)來つて句讀を講じた。

惠日と絶元藤山之其他の寺小屋
 寺子屋方面には、西光寺の住職松山惠日最古く、嗣子絶元(智雲の父)又之を継ぎ、中樽の天神社には大里の籐山緩之ありて、當時の新人であつた。其外泉山の辨財天には佐賀の浪人陣内房之助(島田與一が妹聟)があり。本幸平の八天社(今の警察署)には、土岐寛(田守の父)があつた。
 又白川の稲荷社下には、土岐天壽院(辰雄の父)があり。赤繪町の十六善神には、土岐龍風院(磐雄と稱し徳一の養父)があつた。次には中野原祗園神社には、八雲大定院(須賀志と稱し都留麻の父)があり。何れも手習師匠なりしが、白川小學校開始さるゝに及び、前記の八雲須賀志、土岐田守等は、其教員と成って永年勤務したのである。其他外尾、黒牟田、戶矢等にも寺小屋があつた。明治五年(1871年)十月には藤山之が有田鄉外尾小學校長として就職し、そして同十年には土岐徳一と交代したのである。

白川の母校
 白川小學校は明治十三年(1880年)洋舘式に改築せしが、當時の模範建築と稱せられ、(遊歩場敷地の大部分は、家永熊吉の宅地なりしを、後年に至りて田代助作の所有となり、助作より當町へ寄附せしものである)同十五年の西松浦郡教育檢定試験の如きは、此内に於いて執行された程である。而して明治五年(1871年)より同二十四年まで、此間二十ヶ年有田陶山の實業的教育は、此の江越禮太が薫陶を蒙りしものである。

第二の母校と坂本滿次郎
 今の有田小學校は、大正二年(1913年)六月校長浦江會一の考案に依って、新築せしものにて、工費四萬四千八百四拾六圓を要し舊校地の川向ひに敷地を博ぜしものであり。 大正三年四月坂本滿次郎校長として、爾来十二年間、陶山の新人を訓育せしものである。

幼稚園
 なほ幼稚園の創始は、明治三十四五年(1901年)頃、小學校教員古賀令次郎(多久人)の母が、幼兒を集めて獨力撫育せしに始まり、それも彼が轉任と共に中止となりしを、同四十年四月十二日より、白川の鷲尾好一(町役場吏員)が再興し、長女若江其任に當り、其頃小學校長住宅の裏家に在て、私立幼兒保育所さ稱せられしが、其後久しく廢絶せしを、大正八年(1919年)六月十七日深川六助叉之を復興して、私立有田幼稚園と稱し其後が、改革されて現在に及んでゐるのである。
 有田陶山の教育史は、基礎教學としてまづ前段の如くなるも、維新當時の有田人は、他の町村人士よりも、夙に文明の一角に接触するの機會を得た。

有田のインテリー教養者
 そして當時のインテリ教養せし者に、元治元年(1864年)英園に留學せし、石九虎五郎があり、又明治四年(1871年)十一月十日、岩倉大使に随行して、泰西各國を廻り、新知識を齎らして、屢々有田の有志と接せし久米丈一郎があつた。而して江越禮太に至っては、既にスペンサーの社會學や、ミルの經濟學の如き英書を學びし校長であつた。
 又一面産物貿易の關係上、有田人には夙に洋行比較的少からず、故に世界的見聞を弘め、従つて新文化の空氣を吸収せる彼等は、改革の氣風に富み、節季の取引勘定までいち早く新暦のみを應用し、又彼軒髪の如きさへ、平林伊平などが率先して、此地方では、最早く實行されしといはれてゐる。故に當時知識の淺深に拘はらず、有田人士の眼界には、何地の市人さへも、田舎者視するの弊風ありて、ただ文化の門戸なる長崎人を除くの外は、悉く在鄉者と呼んでゐたのである。
 明治五年(1872年)豫て洋卓食器の製造を研究しつゝありし平林伊平は、横濱の本町に支店を開設して、有田焼の貿易を開始した。

博覧會御用達
 明治五年(1872年)の新政府は、翌六年開さる墺太利世界大博覧會への出品準備として田代慶右工門、平林伊平に該博覽會御用達を命じ其製作監督として、博覽會事務局出仕納富介次郎(小城人)有田に出張して、各出品者の製作を指揮したのである。

澳國博覧會
 明治六年(1873年)二月二十五日、墺國博覧會副総裁工部大丞佐野常民(先きの榮壽左工門)は、日本の出品を搭載せる英船マラツカ號に便乗して、横濱を解纜した。此度は再度目であり、加ふるに當時東京大學南校に教鞭を執れる、ドクトル・ワゲネルとパロン・シーボルト(長崎にあり蘭學の大家同獨逸人)が同行せしを以つて、種々の便宜を得しことは申すまでもなかった。此際新工藝の研究者として、納富介次郎、大樽の川原忠次郎、京都の丹山陸郎等同乗し、一行七十餘人、四月十四日首都維也納に乗込んだのである。

有田の巨器
 此時の出品に於いても、有田焼は然として輝き、好評喧々たりしが、就中白川の家永熊吉製六尺の大花瓶と、五尺の壺、岩谷川内山口虎三郎製の五尺の花瓶、及び黒牟田梶原友太郎製の三尺の大鉢には、歐州人の眼を驚かしたのである。

歐州窯業の進路
 元來歐州の窯業進路は、東洋と其軌を異にせることは前にも述べし如く、曾て回々と共に、東羅馬の窯技を地中海方面に伸張し、西班牙に居りしアラビヤ族は、マジョルカ島を経て伊太利人に、其マジョリカ焼の技法を傳へ更にファエンザの地方に傅はりて佛蘭西に挟まりしより、陶器をフハイヤンスと稱するに至ったのである。
 尤も東洋方面へも、アラビヤ人に壓服されし波斯に、此マジョリカ焼の法傳はりて、途には交趾焼などが製作されしも、支那は古くより磁器の本場であり、歐州は漸く陶器にのみ追従し得し觀があつた。要するに彼には軽量にして、色彩の自由なる軟陶が發達せしものにて、一面には彼等の玻璃器製作が、其路連れであつた。故に東洋磁器の優秀なるを知るも、未だ容易く製作し得なかつたのである。

欧州の磁器製作
 歐州に於て、始めて天然磁石の發見せられしは、1765年(明和二年)佛國のリモージュの傍なるセンイリュのカレン破にて、之がマツケエの手に依つて、セーヴル磁器を完成せしは、尚頗る後代の事に属してゐる。 是より先獨逸マイセンに於て、ベツチヤーが磁器を作りしは、1710年(寶永七年)にして、之が歐州に於ける嚆矢と稱せらるゝも(一説には佛國は1730年乃ち享保十五年、維也納にては1720年乃ち享保五年、伯林にては1750年乃ち暦元年とあり)それが各地に普及されしは、尚多くの歳月をしものを見る可きであらう。

有田磁器に驚異
 故に歐州は未た陶時代にて偶々磁器を製作せるも、それは専ら小器のみであつた。然るときに此博覧会に於て、我が有田の硬質なる磁器が、青花と赤の絢爛なるは勿論、しかも六尺の高瓶や、三尺の巨鉢を仰ぎし彼等が喫せことは無理もなかつた。

ボヘミヤ製陶地の視察
 此博覽會へ御用掛の名に於て渡せる納富介次郎と川原忠次郎は、此機會を以て、欧州製陶上の新知識を探究して、我窯業に應用せんことを企圖し、彼等は此年の十二月同國のボヘミヤ製陶地に至り、石膏模型の至便なる製法に着目し、又上繪附の油伸ばし法等を習得して、翌七年に及んで帰朝したのである。(丹山陸郎も亦七年二月始て水金を携へて帰朝した)

陶業盟約成る
 明治六年(1873年)有田陶業の繁栄を期せんが爲め、當時の有志百田多兵衛、川原善入、深川榮左工門、深海墨之助、手塚龜之助、平林伊平及小學校長江越禮太等主腦者となりて、協議の結果に陶業盟約二卷を制定して町是となし、工商會議を開き、専ら陶業の改良發達を促したのである。

平林の電氣碍子
 明治六年(1873年)十月二十九日平林伊平製作の電気碍子が、電信寮の試験に合格して、工部省電信頭石丸安世(先の虎五郎)より、爾来専ら採用の資格ある可く布達されたのである。之より先尾張瀬戸に於て製せし鳶色及黄色の碍子を納入し居りしも、是と含氣試験の結果、平林製が絶縁耐電力に於て無比の強力にして、尾張製とは非常の差ある優良品なることを、英人技師モリスの報告に依って決定された。
 然るに伊平は明治十三年(1880年)此製造を中止することゝなり、爾来深川香蘭社のみ専ら之を製作し、其後諸種の附属器を始め、高壓碍子に至るまで、探算的に研究さるゝことゝ成った。而して前記の平林製碍子につき、當時の御雇技師モリスが、試験報告の英文手記を翻譯せしもの左の如くである。

一千八百七十三年(明治六年)第十月二十九日
於東京電信寮 モリス 手記
石丸電信頭殿
モリスの含氣試験
第四十四號之貴翰ヲ以テ下命アリシ趣旨二基キ現倉庫貯スル一切之陶器ヲ取集メ電氣術ヲ以テ檢査ヲ途ヶ其實驗ヲ得テ左=具狀ス今般肥前國ョリ納メシ新陶器眞二極上品ニテ當時落成セシ並ニ降後建築スル長遠線路之用必適スル故二降後建築スル新線長短ヲ論セス在來ノ和製鳶色黄色/陶器ヲ シ此陶器ヲ用ユル事ヲ必要トス
新陶器含氣ノ度實ニ高越卓出シテ現ニ余ノ有セル試験器ヲ以テ之ヲル不能ニ至ルト蓋其含氣ノ度猊利太尼亞器ヲ以テスレバ一千三百八十六億個トシ禅緬器ヲ以テスレバ一千四百五十二億三千九百零九萬四千零六十四個トス英領印度試験衡極度(即チ緬器/五百億個)ニ比スレ殆ント三倍ナリ實=極上品ト言ハズコンバ有ル可カラス
近來和製ノ鳶色陶器モ實ニ精良ニナリタレトモ其含氣力、唯夕貌利太尼亞器之二百七十三萬個ヲ以テ極度トス
余實肥前製之陶器/焼割豐人組造等識スル爲メ試験前五晝夜間水漬浸セリ一千八百七十三年十月二十七日於東京
對照試験表 陶器試驗表
品名 貌利太尼亞器上ニテ陶器一個人含氣力
肥前製 一千三百八十六億個以上
英國製(二重臺) 同
和製桃色 二百七十三萬個
同黄色 二百零六萬個
品名 禫緬器上ニテ陶器一個含氣力
肥前製 一千四百五十二億三千九百〇九萬四千〇六十四個
英國製(二重臺) 同
和製鳶色 二百八十七萬三千三百二十二個
同 黄色 二百十七萬〇七百二十一個
 但シ唯タ貌利太尼亞器ヲ以テ試験セット雖モ禪緬器大同小異ナル故ニ此ヲ推等比較校訂ノ爲メ二行表シ以テ其實験ヲ示スト云爾

佐賀亂と伊萬里の騒ぎ
 明治七年(1874年)二月一日征韓のを容れざりし政府を倒すべし元司法卿江藤新平、元開拓使長官島義勇等が佐賀城下に兵を繋ぐるや、政府の軍艦雲揚は伊萬里小島沖に来りて實彈を打放ち、以て叛徒の有無を警戒した。然るに伊萬里町民は、すは佐賀軍の攻來るものと誤認して大いに狼狽し、中にも黒牟田物一手間屋なる濱町の井上國助は、田代宗一方の空地を大がかりにて穴を掘り、陶器の有り丈を埋藏し始めより、他の陶器商又之に傚らひ、各自邸内の空地を掘りて有田焼の上手物は此時殆ん埋匿されしさいはれてゐる。

榮左エ門と龜之助の上京
 明治七年(1874年)深川榮左工門と手塚龜之助は東京に上り、嚮に歐米各画を巡歴して帰朝せる編修官久米邦武(先の丈一郎)を訪ひ、具さに海外諸國の形勢と、陶業の實況を聴取して大いに見るところ有った。偶々米國フィラデルフィヤ大博覧開設のあるを聞き、龜之助は内務省の業察に出頭し、其詳細を尋ねしころ、當時政府は臺灣事件問罪の帥起り國事多端にて未だ是等の事を處理する暇なき由を答ふるのみであつた。

費府博覧會出品運動
 而して二人は、僅かに臺灣一島程の問責の為、國益上此重大なる機會を失ふが如きは餘りに當路者眼孔の偏小なるを識せしが、一先づ榮左工門は帰国の途につき、龜之助より一通の願書を勤業寮に呈出して、速か該博覧會に闘する布告ある可きことを乞うた。政府も大いに動かされて、彌々其斡旋に盡すことと成ったのである。之より龜之助は書信を以て、榮左工門及深海墨之助、辻腺藏等と計り、此際大いに我が有田焼の眞償を、米國へ宣揚すべしとなし、直ちに出願して四人等しく出品の許可を得たのである。
 明治七年(1874年)平林伊平は、自邸の前面に陶器倉庫として石庫を建築した。此石材は白川谷の長尾より採取せしものであつた。(今の商品陳列館の前庭にあるもの)
 明治七年(1874年)七月十日柳ヶ瀬左工門卒去した。彼は大樽より率先伊萬里の濱町に移轉して有田焼の内地販賣に盡瘁せし一人であつた。

松村九助のコバルト販賣
 明治七年(1874年)十月有田新村字外尾村の農家松村九助は長崎の一商人よりコバルト青數百斤を購ひ、大阪の繪具商草場善兵衛にして色見をなせしに頗る良好なりしかば、彼は郷里に歸り再び数千の同品を購入して、更に名古屋の七軒町に居を構へ、之を尾濃の陶山に販賣することとなった。そして又同時に其稀薄土をも賣出したのである。之は中樽保屋谷のギチ土にて、一斤袋入七銭位なりしが後年其性質が判明せしより、何れも各地の原料を用ふるに至つたのである。蓋し九助とても、其質分上に就ては勿論不案内であつた。

瀬戸の地繪藥
 元來瀬戸は文化頃より陣屋川原の外四五ヶ所に於いて、小粒の呉湖を探取せしが中にも陣屋川原の産は、砂繪薬として頗る優良なりしも、他はゴロ又は瀬戸繪薬といへるものにて、其外面は全く石であり、中のみが釉薬を含め下等品であつた。文政八年(1825年)尾張徳川瘡莊が、城内にて御深井焼を創めし時、陳元が安南風の製陶に、此地繪楽を用ひ始めたのである。
 然し支那渡来の呉洲と比較して、砂繪薬の外何れも頗る劣等なるを以て、此地方磁器を製するに及んで、専ら高償なる支那吳洲を使用するの止むを得なかった。然るところへ安價なるコバルト應用の普及は、日用製作を主眼とする此地方にとつて、寧ろ有田よりも天來の福音であつた。之より尾濃は勿論京都、會津方面までも、携賣さるゝに至ったのである。

小田志との石場礦區爭ひ
 此頃小田志山の窯焼奥川太右工門(今の龜右工門の父)は、泉山石場續きにある杵島郡堺松方面の礦區採掘の許可を得て之を小田志山に運んで使用しつゝあつた。然るに此礦區の境界に就て、石場肝煎と争議を生じ小田志側は自己の區域なりと主張するに對し、石塲頭取百田恒右工門より交渉中、肝煎達は理否を言はせず押寄せて、既に暴力に訴へん氣勢なるより、太右工門は断然採掘を中止するに至り、斯く此の採掘権も全く放棄したのである。

溶造法及匣鉢重積法
 明治七年(1874年)墺太利より歸朝せし、納富介次郎と川原忠次郎は有田に於いて、新たに齎らせる石膏型に依る、泥漿溶造法、及び匣鉢(烟護墟)製作法並に共の重積法(従来は一個づつ蓋をなし、或は冠せ積をなせしもの)等を二三の斯業者に傅へて、大いに製作上の改良を促しつ、介次郎は上京したのである。然るに翌八年588忠次郎も命に依って上京するに至った。

香蘭社創立
 明治八年二月(1875年)香蘭社が創立された。先に東上の際久米邦武の所説に基づき、深川榮左工門と手塚龜之助は、時運の趨勢に鑑み、區々たる個人經營にては、到底事業の大なる發展を期し難しとなし、深海墨之助、辻勝臓と四人協同の製造會社を起すことに決し。工場は當分榮左工門と墨之助及び勝藏邸となし、榮左工門社長に推され社名を香蘭社と稱し、製品のマークには、蘭花を用ふることに定めたのである。
 此定款を、當時の佐賀縣令北島秀朝に示せしところ、秀朝大いに之を賞讃せしといはれてゐる。之が有田に於ける會社組織の濫觴にて、又我邦製陶會社の嚆矢であらう。而して従来辻家に於ける宮内省御用達も、香蘭社の名義を以つて調することなった。

竹治の含珠焼
 而して此會社中大いに技能を振ひしは、墨之助の舎弟竹治にて、彼は此年含珠燒を發明したのである。

澳國式陶法傳習所
 明治八年(1875年)四月二十八日東上を命ぜられし川原忠次郎は、太政官の勤業寮に奉職することと成り、彼は納富介次郎等と共に、官立墺國式陶業傳習所(内山下町なる海外工藝參考品陳列所内の一部に設けらる)に於いて、全国陶業者の子弟を教授することと成り、而して此招集に應じて入所せしは、佐賀、愛知、石川、京都、鹿児島等の諸陶家であつた。
 此際有田よりの傅習生としては、大樽の藤井寛藏、白川の中島儀三郎、同深川龜藏、本幸平の山ロ巳之吉等四人であつた。瀬戸の川本富太郎、加藤友太郎等も亦此の中にあつた。之より石膏模型の溶造法、及匣鉢重積法、又は水金使用法等が、全國に普及するに至つたのである。

納富介次郎の指導出張
 明治八年(1875年)內務省勸業寮出仕納富介次郎は、有田に來つて、米國費府大博覧会出品物の製造を指導すること成った。此時出品輸送上に開する要件を帯びて、上京せる手塚龜之助は、該博覧會に就いて、社員は勿論同業者一般にも良く其趣意を貫徹せしむる可く、政府員の出張を乞ふたのである。

鹽田眞石原豊来る
 依って内務省よりは、博覧會事務官擅田眞、石原豊を之に應せしむることゝなり、龜之助は同伴して有田へ歸山し、之より三河内山、大川内山等へも案内して、普く各山の美術工藝品を網羅すべく盡瘁した。

陶業盟約の範囲擴張
 明治八年(1875年)更に陶業盟約の條項を補足して、着々其効果を顯はしたる結果、有田内山の外陶業に關する條項は、外山同業者も其範圍に加盟して、制裁するに至り、之が支部を黒牟田山に設けて規定の行に努め、又大外山なる杵島、藤津の各山より長時縣三河内及び波佐見地方の同業者連絡して、粗製濫造と職工濫傭の弊を厳重に取締り、(前借にて年期契約の職工が他山に走る者)其他利害關係の問題は、普く各陶業地より委員を招集して、審議協定の上決行するこさと成ったのである。

石場借區額
 明治八年(1875年)六月內外窯焼協議の上、深海墨之助外二百六名より、来る十五ヶ年を一期さして石場を借區し、同九年一月聞届假券状を附興せられた。而して之は去る明治六年七月發布の工部省日本坑法土石掘採規則に依って手續を取りしものである。

借區開坑願
私共明治五年三月伊萬里縣ノ許可ヲ請ヶ肥前國松浦郡有田村字泉山=於テ陶器土掘探罷在候付引續別紙圖面之場所ニ於テ借區被差許此段奉願候
明治八年六月
佐賀縣平民松浦郡有田村住 深海墨之助
同 平民同 郡大木村住 中島森右工門
同 士族同 郡 新村住 樋口 太平
同 平民同郡大川内村住 富永文右エ門
外二百三名
前書願出之通御聞届相成度候也
佐賀北島秀朝代理
參事 野村維章
書面願之趣聞届証券下渡候事
明治九年一月二十三日
工部卿 伊藤博文
 明治八年(1875年)十月二日富村森三郎卒去した。彼は赤繪町十六軒赤繪屋の一人芳右工門の男にて、前記の如く改革派の運動に對抗し、赤繪屋一同の牛耳を執り、維新の解放に至るまで、舊盟約を固持した第一人者であつた。又長崎石灰町に支店を設け甥毛利常吉を置いて、貿易に従事した。(養嗣子富一の先代である)

費府博覧会の開催
 明治九年(1876年)三月米國費府に於ける、亜米利加獨立三百年祭記念大博覧會開催され、香蘭社より多数の出品と共に、社員手塚龜之助、深海墨之助、深川卯三郎等渡米するに至つた。そして彼地の陶業地を巡視し、或は夫れに關する一切の調査を終へ、滞在一ヶ年除、翌十年三月大いに新知識を齎らして帰朝したのである。
 此博覧會に於ける香蘭社出品磁器の精巧さは、佛國のセーヴル其他各国の製陶を圧し、深海が製せし花瓶の如きは、一個の價一千弗(二千圓)に或は深川製の碗一個三十弗(六十圓)にて賣却されしに徴しても、如何に製品が歓迎されしかを察するに足るのであつた。而して従来支那の市場を経由して輸出されし有田焼が、此博覽會後年々巨額の製品を直接米国に搬出するに至つたのである。

陶業盟約改正願連名
 明治九年三月(1876年)陶業盟約定則を改めて、有田内外山のみに限定すること成った。當時の定則及び連判者等左に掲す。(但し人名の下に括弧せしは、窯焼の後継者或は其遺族を調査して、著者が記入せしものである)


有田山
右有田字泉山璽坑及內外山窯連幡之儀舊殿密之規則ヲ以テ保護有之候處廢藩後諸規則相弛ミ貸借不融通ヲ生第一璽坑勝手掘等一山衰基付今般規ニ基キ潤色ヲ加置約定則議定仕即今ョリ執行致度奉存候然ル處私約ノミニ自然等閑習陷り候憂有之候條何卒御許可ス御達被下度奉願候然ル上一山愈確乎一同安堵營業可仕候依之盟約定則書相添此段御

明治九年第三月
第五大區十小區一ノ瀬山
惣代 岩崎團助
内外山惣代の連名
次に連名せ惣代左の如くである。

同區大川内山 惣代 柴田伊左工門
同同區應法山 同 久保國太郎
同區黑牟田山 同 益田峰助
同區外尾山松村甚九郎
届仕候也
同區南川良山同 樋口爲吉
同區廣瀬山 同 今泉福太郎
有田岩谷川内 同 山口虎三郎
同 中野原 同 久富鶴吉
同 稗古場 同 金ヶ江伊與吉
同 赤繪町 同 光岡勇治郎
同 白川 同 南里平一
同 本幸平 同 中村 勘富口泉口村
同 大樽 同 林康造
同 中樽 同 瀬戸口富右工門
同 上幸平 同 岩松龍一

592同 泉山同 北村徳兵衛

佐賀縣北島秀朝殿本書屈之趣從來之規定案亂致シ職業差支不少候付今般舊規=基聊潤色加へ協議結約ノ上御届仕候付何卒御聴届有御座度此段副書進達仕候也
第五大區副區長
菊地 山海郎
同十二小區戶長
徳見知愛
盟約定則の上款
盟約定則
緒言
松浦郡有田內外皿山陶業凡一萬餘人命ノ所繫也其維持ノ法一日モ忽ニス可カラス而〆廢藩以後
其法漸ク弛ミ其弊隨テ生ス故ニ皙法潤色盟共法弛ミ其約結ブ左ノ如シ
第一條
明治八年瓷聖借區開坑官許ヲ得タリ此規則ヲ奉スル無論タリ且限有ルノ物ヲ以テ限り無永世業保タントス故ニ礦中ヲ案シ瓷堊ノ原ヲ騰貴スルノ弊ヲ防ク事
第二條
一瓷堊掘探運搬節ハ窯焼人々ヨリ左式雛形之通(石場取締出納掛ョリ摺出ノ罫紙ヲ用フ)証券二課金手数料相添時々石場出納掛へ可納事
雛形
記 內山分
一境目(土名) 何拾俵
右之通被相渡度候則課金手數料金何圓錢相添候也
窯焼 何某
年號月日
何之何某殿
記 外山分
一辻土 何拾俵
右者何山窯燒何之何某へ被相渡度候則課金手數料金何圓錢相添候也
年號月日 惣代 何某
何々某殿
第三條
一瓷一俵八十五斤入之事
一壹俵ニ付課金手數料合金四厘宛之事
一上藥一俵ニ付同入厘宛之事
第四條
一石場頭取一名公選ス可シ月給金壹圓ノ事
第五條
一頭取肝煎諸係りノ勤惰並金銭出納其他百事ヲ監督ス可キ事
第六條
一肝煎取締兼出納掛一名公選ス可月給金五圓ノ事
第七條
一石場取締出納掛第二條窯焼人々ヨリ差人々ル運証券手扱料課金出納並罫紙立掌リ石場不時巡廻稼人掘探方法將々白亜他方へ濫出ヲ監護スル事
第八條
一肝煎定番係り一名選定ス可シ月給金五圓ノ事
第九條
一定番第十二十三條ニ揭ケタル石場稼人瓷亜運送時劵ェ捺印手數調理シ出入遺ナキヲ要スル事
第十條
一肝煎見ヶ稀係三名選定ス可シ(岩谷川内一名戸矢一名原明一名)壹人二付月給金五恰錢宛ノ事
第十一條
一見ヶ緑係無手數ニテ他方運輸見常次第相預ル儀勿論不時=近村巡視シ不審ノ筋逐一尋問へ尤預置タル物品其筋ノ分のフ可キ事
第十二條
一石場稼人掘探運搬時々左式券狀ヲ出シ肝煎定番係捺印手數受猥所行無之様嚴二可守事
雛形
運雰狀
何拾俵之内 窯燒
一辻土 拾俵 何之何某
丙子何月何日 泉山土塲之印
第十三條
一石場稼人無手數等都テ規約違背ノ人石場出入屹度可差留事
第十四條
一惣窯焼ヨリ一名宛毎日輪番ヲ以テ石場ノ事務監察シ獨ナラサル事件、惣代役へ協議ヲ可途事
第十五條
一第三條ノ集金二ヶ月毎二取纏メ頭取並惣代役立會頭取肝煎/月給並修繕費其他諸費一切出納係ニテ詳細計算ヲ途ヶ受拂金員及殘金一々檢印ヲ捺毎度殘金高頭取ニテ預リ其冊預髙金員へ受取印ヲ可捺事
第十六條
一石場小普請ノ儀第十五條/預ヶ豫備金ヲ以テ償却ス可キ勿論ナレ共大普請ニテ豫備金不足時内外皿山窯燒中へ分課シ且一時募金等方法共主任勿論其惣代役其外へ報告シ速ニ途協議ヲ大破=至ラシメサル事
第十七條
一每年六月石塲惣會計並頭取肝煎交代人選投票等百事理整可致事
第十八條
一頭取肝煎選定陟ノ時ニ扱所へ可届出事
盟約定則の下款
下欸
第一條
一窯一登(窯十三四口ヨリ乃至二十五六口一列ヲ登ト云)毎ニ支配人一名宛衆議公選ス可シ即今十二登二十二名ヲ可置事
第二條
一支配人事務一山盛衰關涉シ責任重大ナレパ其所掌ノ一登中萬事ヲ擔當シ窯焼ノ便不便ヲ考維持鞅掌ス可キ事
但一山中ノ義務タルヲ以テ給料ヲ議セス
第三條
一窯連燔狀議定ノ節ハ(窯連判又火入吟味ト云)支配人盟主トナリ所掌ノ窯焼中列座上期日確定左式雛形通定約書印調理ス可事
雛形
窯連燔狀
一何登 壹番 何某
    貳番 右同
右ノ通り壹番ヨリ何番迄當何月何日限り火入結約致候處相違無之候就テ盟約定則々堅ク可相守候萬一逹約候節ハ定則下欸第五條ノ通處分有之儀勿論ナリ淇期=及ど少モ異議無之候仍而連燔狀如件
年號月日
 某印
 某印
何登支配人
何ノ何某殿
第四條
一窯連燔議定ノ上一名違約人アレバ連幡一同ノ妨碍ヲナシ其害數千金ニ及故=嚴密盟約確定ス可キ事

第五條
一窯焼中、第三條確定ノ規約ヲ遵守期日過ル最厳禁タリ萬一違約人アレハ其違約ノ顚末ヲ記載シ各支配人エ廻達シ爾後十二登窯々貸方堅ク致間敷事
但金穀負債=係裁判所上告勿論ノ事
第六條
一石場修繕準備トシテ惣窯焼一人毎二一ヶ月金壹圓宛出金ス可キ事
第七條
一石場準備金毎月其地惣代ニテ取立テコレヲ支配人頭取渡頭取コレヲ受取貯蓄ス可キ事
第八條
一窯揚ノ節一支配人ョリ各自印鑑ヲ授ク可シ印鑑所持セズシテ窯ノ鎖ロヲ開ク厳禁タル可キ事
第九條
一一登二付窯番一名ッ窯焼中選ヲ以テ可置事
第十條
一窯揚ノトキ窯番ニラ支配人ノ印鑑の改ム可シシ所持セサル者へ開緘ヲ拒ムノ權アル可事 附窯番萬事支配人指揮二階と精實勉強ス可キ事
第十一條
一支配人頭取以下撰定/時扱所へ可届出事
外尾山以下十一登規約定例準之
右上十八條下欸十一條之盟約定則議定!上則官命ノ規則ト齊シク可相守一個ノ不便アルトモ全山ニ不關儀ハ決シテ變換不得後年ノ景況ニヨリ全山ノ不便アル更區戸長ニ乞ヒ一般協議ヲ途ケ改訂ス可シ萬一盟約ヲ破り暴行ノ所爲アル者ハ則官ニ訴へ裁判ヲ乞フ可シ仍テ連署シテ一山ノ規則ト成スモノ也
明治九年第三月
次に前記の惣代拾七名が連署し、そして又窯焼の連署がある。
連署窯焼人名
泉山窯燒
深海墨之助(峰一) 深海長藏(關治)
百田藤三(政助) 深海政之助(豊助)
鶴田善作(關太郎) 鶴田五太夫 (長七)
百田喜太郎(兵吾) 百田源次郎(ハマ)
深海市郎(光) 溝上五平(福一)
池田米太郎(駒太郎) 池田傳平(菊次郎)
百田米太郎(甚三) 百田理三郎(繁次)
百田房太郎(治右工門) 深江鶴次郎(兵之助)
伊藤甚三郎(五平) 青木福太郎(カメ)
鶴田次平(治一) 溝上竹太郎(丑之助)
百田喜代助(助) 溝上三郎(一郎次)
中島熊太郎(吉之助) 溝上爲市(カチ)
上幸平窯燒
山口長太郎(卯一) 宮田覺左エ門(文一)
福田仁助(サカ) 丸田權九郎(平)
松本平左エ門(政次郎) 岩松平吾(龍一)
川浪本太郎(俊入) 松本熊一(倉助)
小栗卯吉(虎三郎) 友重忠藏(長七)
田中房助(庄三郎) 畑江伊之吉(熊四郎)
楢崎藤吉(禮次) 楢崎熊助(倉助)
辻勝藏(喜右工門)辻幸次郎(熊次郎)
江副嘉助(八臓) 江副圓三郎(政臓)
松本利助(龜吉) 大町祐太郎(伊十)
岩尾勝三郎(傳一) 徳永徳助(徳一)
宮田嘉三郎(兼助) 瀬戸口蔵(彌蔵)
中樽窯燒
山口竹次郎(千之助) 山口鹿助(榮一)
山口實助(貞吉) 山口虎吉(孫太郎)
山口傳吉(一) 山口 菊藏(菊太郎)
山口政吉(慶四郎) 山口幸太郎(文一)
山口常七(喜兵衛) 山口龜市(榮助)
瀬戸口源吾(小一) 瀬戸口富右工門(勝太郎)
瀬戸口彌一(市太郎) 瀬戸口嘉三郎(長造)
瀬戸口兼太郎(元一) 瀬戸口駒一(治助)
溝上幸左エ門(源四郎)
大樽窯燒
岩尾兼太郎(芳助) 柳ヶ瀬茂平次(適太郎)
平林伊平(専一) 藤井直太郎(勇一)
江副嘉吉(鶴之助) 諸隈萬藏(コト)
藤井専七(寛藏) 井手貞助(ムラ)
富村嘉吉(五郎右工門) 富村兵助(虎之助)
林康造(龜一) 井手友七(文治)
林堅八(賴助) 森辰十(定作)
田代松太郎(丈助) 城島熊三郎(岩太郎)
森松次郎(藤太郎) 柳ヶ瀬六次(啓一)
百武伊六(伊八) 城島榮吉(虎吉)
大串清吉(政次郎) 河崎鶴助(德助)
本幸平窯燒
山口清吉(平四郎) 深川眞忠(榮左工門)
山口勇蔵(定一) 森友次郎(峰一)
諸隈徳造(甚一) 田代助作(作一)
諸岡菊太郎(虎助) 鶴田トク(ミツ)
小川濱次郎(儀助)
白川窯焼
家永熊吉(彌七) 家永繁三郎(木造)
中島儀平(精造) 中島孫四郎(鷹一)
中島長藏(清次郎) 久保時太郎(祐一郎)
山本柳吉(周藏) 深川常藏(六助)
南里嘉十(平一)
稗古場窯焼
相原瀬吉(平次郎) 中島政太郎(辰一)
藤本菊太郎(關助) 中島忠作(巳之作)
蒲原愛吉(秀之助) 蒲原長吉(太三郎)
金ヶ江伊與吉(新吾) 久間平三郎(巖三)
北島徳右工門(愛太郎) 北島愛太郎(謙次)
藤本仁惣太(滕四郎) 武富瀧藏(逞四郎)
諸隈又一(徳藏) 古賀種三郎(森太郎)
赤繪町窯焼 今泉藤太(熊一)
岩谷川内窯焼
小野市太郎(安次郎) 山口伊右工門(代次郎)
山口森七(米太郎) 山口森吉(兵太郎)
藤崎太平(清一) 小島惣吉(伊之吉)
松尾勝太郎(徳助) 山口虎三郎(徳一)
雪竹武助(豊吉)
外尾山窯焼
藤本覺助(和太夫)藤本孫平(治平次)
生田重吉(槿一) 藤本源藏(清兵衛)
青木太吉(嘉七)大串徳次郎(次平)
青木與一(榮一) 大串覺左工門(覺太郎)
松村甚九郎(清吾)
黒牟田山窯焼
梶原八百吉(貞一) 梶原良助(牧太郎)
梶原忠助(幸七) 梶原利吉(孫一)
梶原判平(與太郎) 梶原定次郎(重次郎)
梶原友太郎(菊太郎) 梶原才右工門(太助)
立林仁藏(丈吉) 福島幸次郎(性平)
福島春吉(祐太郎) 福島助五郎(紋次郎)
應法山窯燒
原田亀太郎(千三) 副島勘吉(長太郎)
徳永虎助(幸一) 久保徳之助(八十八)
古川徳之助(万之助) 武富政太郎(幸太郎)
古川熊助(松之助) 原田吉(伊勢太郎)
福島 多吉(彥太郎)久保國太郎(常一)
南川原山窯焼
樋口太平(爲吉) 藤信助(文一)
舘林兼助(卯藤次) 小藤伊與吉(今朝太郎)
廣瀬山窯燒
川久保熊三郎(ハル) 森繁吉(なし)
森福藏(龜四郎) 森半次郎(孫一)
川久保忠吉(千三) 森梅太郎(リン)
川久保定右工門(鶴太郎) 今泉松次郎(ツル)
森庄吉(周藏) 岩永元助(虎三郎)
富村忠三郎(カク) 中島森右工門(森吉郎)
田崎源七(惣右工門) 田崎虎藏(なし)
今泉福太郎(鶴吉)川久保定七(スマ)
大川内山窯焼
富永文右工門(卯之助) 八谷久平(繁太郎)
福岡六助(圓次郎) 古田又右工門(カト)
福岡嘉兵衛(竹之助) 富永喜左工門(清一)
森重左工門(雄)永瀬良七(虎六)
畑瀬武右工門(直太郎)光 武彥七(實太郎)
柴田定太郎(泰次郎) 富永徳太夫(なし)
一の瀬山窯焼
大串幸太夫(秀一) 竹下勝七(秀一)
岩崎久兵衛(榮助) 原友五郎(數衛)
宮崎重藏(儀平) 大串虎十(榮一)
前田鐵藏(貞太郎) 大串傳四郎(辰)
大串辰次(なし) 大串和惣次(勝次)
大串鹿藏(リウ) 大串茂左工門(和平太)
飯田市太郎(一二) 大串芳藏(清吉)
原 伊之助(寅之助)
登支配連名
窯登支配人
鶴田五太夫(泉新窯) 百田丑吉(泉窯)
藤井喜代作(大樽窯) 岩松平吾(中樽窯)
久富惣平(前登窯) 池田米太郎(西登窯)
藤井恵七(東登窯) 田代安吉(白燒窯)
深川眞忠(白川窯) 山口清吉(谷窯)
南里平一(稗古塲窯) 河內清平(岩谷川内窯)
松村丈右工門(外尾窯) 久富 太八(黑牟田窯)
梶原判平(局古窯) 久保國太郎(應法案)
樋口太平(上南川原窯) 藤信助(下南川原窯)
中島森右工門(廣瀨窯) 岩崎團助(一/瀬古窯)
福岡六助(古登窯)
頭取以下連名
石場頭取 百田恒右工門
肝煎取締须出納掛 北村德兵衛
石塲定番 福富半左工門
見ケ締 北島文六
同 岡本幸左エ門
同 吉永金四郎
肝煎 岩永源右工門
同 古賀財藏
同 岩永作次郎
同 古賀力太郎
同 岸川常四郎
同 納富三兵衛
同 河內光藏
同 山口伊右工門
同 瀬戸口源吾
右盟約定之條目誓言爲保證連署スル者也
副區長 菊地山海郎
戶長 德見知愛
副戶長 岩附銀太郎
書面届出之趣聞候各自結約之定則確守可致候事
明治九年三月二十七日佐賀縣
廻文
何町窯焼 何某
右之人石場準備金不納付内約之通り窯貸付無之機此段及廻達候也
年月日 惣代
何之某
何登支配人
何之某殿
 前記惣代の内松村甚九郎とあるは、定次の前名にて。久富鶴吉とは、彌平次の前名である。又登支配の内百田丑吉は、後の恒右工門の前名(多兵の養子には中村の舎弟)である。

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