多久系 有田窯 五

肥前陶滋史考
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鶴田 純久の章 お話

山口代次郎卒去す
 明治十九年(1886年)一月十六日岩谷川内の山口代次郎卒去した、行年四十七歳であつた。彼は先代伊右工門の長子にて、ワゲネルについて化學を實験し、陶業の改良に將貿易の伸張に薫すところ少くなかつた。

深海墨之助卒す
 明治十九年(1886年)二月二日深海墨之卒去せしが、而も行年四十一歳は、痛惜すべきここであつた。彼れ始め光次郎さ稱し、才略あり且氣骨稜々たるところ、先考左工門に彷彿たるものがあつた。曾て明治初年東京に於いて、帝室係の某官に參見せるとき、某は最も薄手の磁器に網代形の細工を施せる、精巧の珈琲器を示して日ふ、是は佛國セーヴルの官製品なり、有田に於いでも製し得べきやと、墨之助熟蔵しつゝに以爲らく、これ有田の榮辱に開はることなり、答ふるに可能なるを以てせしかば、直ちに試囑を命せられ、勢ひ辭退すること能はざるに至つた。
 歸山するや、彼は舎弟竹治と日夕工夫を凝らし幾多の失費を繰返せし渾身の努力は、終に原品に勝る、精巧微妙を極めし一組(一打)を謹製して以て帝室に献納したのである。某官賞措かす、特に何數組を注文するや、墨之助いふ此種の器値なし、再び製し難しさ、之より深海兄弟の非凡な技名、斯界に喧傳さるゝに至つたのである。
 明治十九年(1886年)先に皿山風土記を改訂せし横尾謙は、日本陶器史を編纂したのである。それには谷口藍田の序文がある。

窯焼工業會設立
 明治十九年有田窯燒工業會を設立し、引き田代呈一が會長となりて、粗製濫造の取締を爲し、又黒牟田山に支會を設けて、本會の議決を取次ぐことゝなった。而して又内外の赤繪屋よりも議員を選出して、加入せしむるに及びしが、それは職工雇入の如き、密接關係の部分のみを、協同することに定めたのである。

銅版轉寫法
 明治十九年(1886年)大樽の牟田久次が、紙型印書法は更に銅版轉寫法に變り、彼は盛んに彫刻印刷して、隣諸山にまで普及せしむるに至ったのである。而して外渲染の如き塗彩式には、線痕を朦朧ならしむる方可なりとするも、染附猫本位の筆跡が、細線をも鮮明を要するものには、コバルト調合に硬度の地土を要し、三ッ石の石を混用したのである。
 尾張に於いては、文久初年(1861年)米國より、銅版畫の陶器渡來せしを見て、加藤春岱(景正二十七代仁兵衛と稱す、明治十年三月十八日卒七十八歲)愛知郡川名窯にて研究し、二年にして完成せしものが、我邦陶器銅版の始めとせらるゝも、尚之より先き安政年間(1855-1860年)瀬戸の川本治兵衛の門人寺尾市四郎なる者、同じ川名窯にて創始せしとの説がある、蓋し尾濃地方に普及せしは、明治二十一年頃よりといはれてゐる。
 彼の地方に於いては、又赤銅判と稱し、上繪附の方にも多く應用さるゝに至りしも、薄塗を主とする西洋繪具と異り、濃釉具を使用する有田に於いては、轉寫糊に残る紙のケバが、彩釉の密着を妨くるより、此地方に於いては、終に流行するに至らなかったのである。

鍋島直大來山
 明治二十年(1887年)二月舊宗藩主鍋島直大(閑叟の長子)有田に來り、石場を視察して香蘭社に一泊した。此時全町の通行路は、各戸の軒先ごとに磁石の漉滓なる白砂を敷くこと半疊幅とし、其上に諸種の色砂を用ひ、型紙にて更紗模様を文飾して、何れも其圖案を競ひ、恰も精巧なる鍋島緞通を敷き連ねたるたるが如き壯観を呈し又白川勉脩學舎前の廣場には、陶器を以て種々の造り物が趣向されたのである。

肥前陶磁史考精磁會社の大製陶機
 明治二十年七月一日(1887年)青磁社は、最新式の大製陶機を据付たのである。是より先川原忠次郎は、佛國リモージにて買約せし該機を引取る可く協議せしところ之に要する代金壹萬圓の資金を固定せしむることは、目下の會社としては、甚だ困難なりとし、異識の論者が多かったのである。
 忠次郎曰ふ、吾既に購入を契約す、然るに今に及んで破棄するは、獨り我が社の不信義のみならず、延びて日本帝國の恥辱なり論じて背す依って社長手塚龜之助は上京し、時の農商務大輔品川彌二郎に面して、大いに説くさころあり、途に此代金を調達し得て、該機を佛より引取るに至り、同十九年六月機械は長崎へ到着したのである。
 然るに忠次郎は、前年頃より病に罹り、當時漸く起居する程なるを、押して東奔西走して止まざるより、家人は勿論社員等ともに大いに之を憂ひ屢々静養を勧めしも、彼は断乎として之を退けて日夜奮勞し、機械の据付けより試運轉に至るまで専ら自分其任に當つたのである。(彼が翌々年の死期は、實に此際に早めしと見るべきであらう)
 七月一日には、新築の機械館樓上より、粢の餅を投じて一般に披露し、盛大なる回轉式を擧行するや、農商務省よりは、技師山本五郎出張し、佐賀県知事鎌田景弼亦列席した。此完備せる機械と新築の大工場は、本邦各地より視察員を派するなど當時の世人を驚嘆せしめたのである。之より有田の斯業界は舊來の手工より覚めて、器械興行に進渉するの機運を増進し、年額七拾萬圓の製産を繋ぐるに至ったのである。

チャンポン刺身皿
 此外國貿易の進展と共に、業者者又復活して十八年頃より八十三戸の窯焼と成った。而して一面には下手物製作流行し、彼のチャンポン刺身皿(型打ゆり形七寸)盛んに製造さるに至り、細工人は皿板敷を以て競作し、畫工は請負にて數百個宛を描き飛ばした。蓋し概ね赤繪地にて、當時一個の値段貳錢餘りなるが、下物などは三厘位にて仕入られたのである。
 明治二十年八月海軍大臣西郷従道有田に來り、親しく泉山石場を視察するや、該場空地に於いて角力が舉行され、夜は勉脩學舍階上に歡迎の宴を開き、そして香蘭社へ一泊したのである。

筈代制度
 明治二十年十月石場消費金酸集法の公平を得んが爲め(十九年八月不公平の論議起り同九月より窯焼營業の大小に依って、等級割制度に改めしも、未だ其當を得ざるを以て)之を磁石の搬出に分課することゝ成り、盟約上款第三條の制限を改め、磁石一車乃ち五百斤に付、平等凡そ金四錢を課すること成った。これ則ち筈代である。

窯焼及赤繪屋の組合
 明治二十年(1887年)製造過剰のと、資金合理化の為に、窯焼及赤粕屋の非合經營を断行することゝ成った。當時有田皿山に於ける窯燒八十戶、赤繪屋百三十八戸の多数ありしを、三戸或は四戸宛に併合せしむるや、中には良結合者を得ずして、廢業せしものもあつた。斯くて何れも何々社、又は何々組させらること成りしが、岩谷川内の山口虎三郎、松尾徳助の如きは三人分の名義株を買収して一手社と稱した。要するに此結合に因りて、一時市償の気配を昂めたのである。

三業社と馬渡俊郎
 明治二十年(1887年)赤繪屋業者として併合せし、中野原の陶商犬塚儀十、蒲地倉之助等の三業社は、神戸田代商會(長尾景弼經營)の解散するに至りしを以て、同商會にありし馬渡俊朗を主任者となし、榮町四丁目に於いて貿易問屋を經營せしむることゝ成った。

富村富一の問屋
 而して、松本次郎、手塚政藏は今泉藤太と共に別に貿易問屋を開き、富村富一其任に當ることゝ成り、始め榮町に開店せしが後長狭通に移店した。此際北島榮助、諸岡新太郎等は内地向に轉換したのである。

村雲尼公殿下御巡錫
 明治二十年(1887年)九州御巡錫の村雲尼公殿下には香蘭社へ御來泊遊ばされ、工場御見物の上御染筆の短冊を下賜されたのである。

有栖川宮熾仁親王殿下御成
 明治二十一年(1888年)一月一日有栖川宮熾仁親王殿下は、佐世保軍港御視察の途次、香蘭社へ御宿泊遊ばされ、石場、勉脩學舍及び陶業御覧の後、御記念として御親筆を賜はつたのである。(今同家座敷に掲げある「琴酒相壽」の扁額である)
 佐賀長崎同業者聯合會規約 明治二十一年(1888年)一月二十九日佐賀縣全管内の陶山と、長崎縣管下東彼杵郡の諸陶山と、聯合の規約が設定さるゝことゝなり、其定められたる定款左の如くであつた。

規約定書
今般肥前國特有名産タル陶磁器ノ改良ヲ圖ルタメ製造人ト販賣者トヲ問ハス組合ヲ設ケ粗製濫賣ノ弊害ヲ矯正セントス因テ長崎縣下東彼杵郡ト聯合規約ヲ建テ其定款ヲ設クル事左ノ如シ
第一條
一陶磁業ニ従事スル者ハ製造人ト販賣者トヲ問ハス互ビ粗製濫賣ノ弊害ヲ矯正シ勉メラ肥前國特有名産ノ名ニ背カサラン事ヲ要ス
第二條
一陶磁業ニ關係アル職工ニシテ使雇セラレン事ヲ求ムル時ハ使雇者ニ於テ一應其事理ヲ同工ノ本簿事務所ニ通知シ其照會ヲ得テ後之ヲ進退ス可シ
第三條
一專製及專賣權附興ノ製品ハ互ニ之レヲ模造スルヲ得ス
第四條
一専製及專賣權附興ノ製品ト同一ノ種類ヲ製シ専製及專賣人ノ記號ニ紛ハシキハ勿論各自通常ノ記號ヲ僞用ス可カラズ
第五條
一專製及專賣權附興ノ品ハ互ニ注文ヲ受ク可カラス若シ其情ヲ知リ製造及販賣スルカ如キ各地規約ノ成文ニ照シ之レカ違約ノ處分ヲナスヘシ
第六條
一各地港津ヨリ輸出スルノ陶磁器ハ必ス其他ノ入荷證ヲ入ト置き荷物不正ノ物品ナラサルヲ保証ス可シ
第七條
一支那輸出製造品ハ各地互ニ低價濫賣ノ弊ヲ防ク爲メ長崎港ニ於テ一ノ問屋ヲ設ケ各地製造品ハ必ス此間屋ニ輸送ス可シ
第八條
一組合内製品(長崎問屋定書ニ制限スル品目ノ分)ヲ組合外ノ商人へ賣興スルトキハ第七條ニ揭クル問屋ニ差出ス旨ノ承諾書ヲ徴シ委員ヨリ迭狀へ加印運搬スペシ
但承諾ヲ拒ム者へハ賣渡ス事ヲ得ス
第九條
一支那輸出荷物ハ各地委員ヨリ送狀へ加印ヲナス可シ
第十條
一價格ハ荷主卜事務所ノ協議ノ上低價格ヲ定メ豫テ各取締所へ届置キ取締所ハ之レヲ長崎問屋へ通知スペシ
第十一條
一各地荷主ニシテ長崎港問屋ニ於テ競争鑑賣シ又ハ荷物不足ノ品ヲ入レ置ク者ハ問屋ニ於テ差押エ其事由ヲ各事務所へ通知ス可シ
但時宜ニ依リ取締所へ届出ル事アル可シ
第十二條
一第二條第三條第四條第五條第六條ヲ犯シタル者ハ各地侵サレタル者ノ請求ニ應シ其ノ規約ニ照シ違約處分ヲナサシム可シ
第十三條
一第七條ノ規約ヲ犯シタル者ハ金參拾圓以下五圓以上ノ違約金ヲ出サシム
第十四條
一第九條ノ手續ヲナサゝル者ハ金五圓以下壹圓以上ノ違約金ヲ出サシム
第十五條
一第七條ノ場合ニ於テハ其荷物ハ沒入シ既二賣拂タルハ金ヲ以テ之レヲ追徴ス
第十六條
一第十一條ノ場合ニ於テハ各地聯合會議ヲ開キ金五拾圓以下參拾圜以上ノ違約金ヲ出サシム
第十七條
一第十二條第十三條第十四條第十五條第十六條ノ徴収金ハ取締所ニ於テ保管シ事業上非常經費ノ爲メ備置クモノトス
第十八條
一此定数ヲ増加除スルトキハ各地聯合會議/上各地方管轄廳ノ認可ヲ請フモノトス
明治廿一年五月十六日再ビ
追加
一非常備且委員手當金トシテ荷物代金千分ノ五ヲ積置ク者トス
但積金ハ一ヶ月毎二問屋ニ於テ取纏メ銀行預劵ニシテ取締所ヲ經各所轄縣廳ノ保管ヲ請フ可シ
一非常備金ハ其郡内ヨリ積立ノ分ハ其郡内ノ所有ニ蹄ス可キ者トス
一長崎區市中賣品ハ荷物五俵以上ハ之ヲ外國輸出トス認メ必ス長崎一手問屋へ輸送シ其手數ヲ經可キモノトス
但五俵以下此限リニアラス
一各郡ノ委員トシテ組合中ヨリ壹名ヲ互選シ問屋へ派遣シ規約履行ノ成否ヲ監督セシム
一委員手當ハ月ニ金拾五圓ト定メ積立金ノ内ヨリ之レヲ支給ス
一委員ハ一ヶ月交代ニシテ各郡ヨリ壹名ヲ出ス者トス

洪益銀行
 明治二十一年(1888年)四月有田陶業の金融機關として、赤繪町に資本金式萬圓の洪盆株式會社創立され、同區の蒲地兵右工門(駒作の父)上幸平の松本庄之助(静二の養父)本幸平の嬉野為助(熊一の父)等が其發起人であつた。而して庄之助が社長兼専務として専心經營の任に當り、逐年増資して資本金五拾萬圓の洪盆銀行たらしめたのである。庄之助退隠後、蒲地駒作頭取となり、松本静二専務たりしが、今や駒作の男正頭取兼専務として鞅掌しつゝある。

長崎港一手問屋定款
 明治二十一年(1888年)五月二十六日、長崎榎津町に於いて、長崎港一手問屋開設さ肥前國產外國輸出陶磁器は、一切此問屋を經て販賣さることゝなり、定款二十三ヶ條は長崎佐賀兩縣聴の認可を経たのである。

長崎港一手問屋定款書
今般肥前國產外國輸出陶磁器ノ競争濫賣ヲ防ク爲メ長崎港ニ於テ佐賀縣長崎縣外國輸出陶磁器問屋ヲ設置シ兩縣下ノ陶磁業者ハ必ス其製品ラ此問屋ニ依り販賣セントヲ約セリ依ラ右陶磁業者組合取締所ト長崎港一手間屋トノ間ニ締結スル所ノ定款左ノ如シ
第一條
一一手問屋ハ長崎縣下長崎港榎津町拾九番地ニ設置シ肥前國陶磁器外國輸出問屋ト稱ス可シ
但一手問屋其位置換ヘタルトキ陶磁業組合取締所へ通知長崎廳及と佐賀へ届出へシ
第二條
一佐賀縣管轄諸陶山並長崎縣管轄東彼杵郡諸陶山トモ外國輸出ノ磁器(別ニ制限スル品目ノ分)ハ必ス一手間屋ニ輸送スヘシ
但直輸ヲ爲ストキモ弥一手間屋ニ委托スヘシ此場合ニ於テハ第十二條ニ揭クル手数料共半額授受スルモノトス
第三條
一一手間屋ハ身元保證金トシテ金壹萬圓ヲ積置ク可シ又タ陶磁業取締所ハ各荷主ニ於テ萬一損害ヲ問屋ニ蒙ラシムル場合アルトキ其ノ辨償ヲ爲シ得可キ爲メ積金ノ方法ヲ設ケ置ク可ソ且ツ何レモ所轄縣廳ノ保管ヲ受ク可シ
但保證金ハ五分利付以上ノ公債證書若クハ銀行預り券ヲ以テスルモ妨ケナシ
第四條
一此定款履行ノ期限ハ滿五ヶ年ト定メ満期ニ至リ尚之ヲ繼續スルヤ舌ヤハ更ニ協議スペシ
但年限内ト雖モ問屋ニ於テ不正ノ所業アリタルトキハ之ヲ變更スペシ
第五條
一一手問屋ニハ各荷主ノ手頭ヲ陳列シ購賣者ノ見本ニ供スル者トス
但手頭ハ各購買者ノ許へ携持セサルヲ要ス
第六條
一購買者ヨリ特別ナル注文品アルトキハ一手問屋ハ見本及代價其他定欲ノ要領ヲ添へ注文ヲ要スル組合事務所へ通知スペシ若シ注文品ニシテ定約期日後レ又ハ見本二相違シ受渡ニ故障ヲ生シ購買者ニ於テ請取ラサル節ハ其諸費ハ總テ組合事務所ヲシテ其賠償ヲ負擔セシメ陶磁業組合取締所ニ於テ之ヲ處理ス
第七條
一箱詰ノ節現損ノ分ハ荷主ヨリ負擔スペシ
第八條
一荷物賣込ノ節ハ豫テ取締所ニ於テ製シタル入荷證票ヲ問屋ニ備置キ荷物ニ入レ置カシメ且問屋ハ荷物箱外面二問屋捺印ヲナス可シ
第九條
一價格ハ豫テ各取締所ヨリ定格値段ヲ以テ一手間屋へ通知シ置ク可シ
第十條
一各郡輸出ノ磁器ハ選方ヲ甲乙丙丁ノ四段ニ精選シ(下物ハ九合八合七合)掛り委員檢查ノ上之ヲ認可シ入荷票ノハ選方荷師ヨリ調印シ之ヲ保證ス
第十一條
一長崎輸出荷物ハ各地委員ヨリ送り状へ加印輸送ス可シ
第十二條
一問屋口錢並爲替金利子其他ヲ定ムル左ノ如シ
一問屋口錢ハ水揚部屋持込箱詰厘金一切賣込代金ノ百分ノ四ト定ム
一藏敷ハ壹ヶ月壹俵ニ付四厘ト定ム
一荷物爲替金利子ハ日歩ハ四厘月二壹步ト定ム
第十三條
一爲替金ハ時々相庭ノ七懸ニシテ四ヶ月限リタルヘシ
但相庭ノ變動ヨリ賣上代金爲替金ヨリ減少シ不足ヲ生スルトキ組合事務所ヲシテ其補足ヲ負擔セシメ陶磁業組合取締所ニ於テ之ヲ處理ス
第十四條
一一手問屋ハ荷主ニ對シ賣込荷渡濟ノ上ハ直ニ仕切り金相渡ス可シ
但賣込品荷渡延期ナルトキハ内金九懸ヲ相渡ス可シ勿論荷主ハ一手間屋ニ對シ荷物受取期日迄ノ間ハ日歩ハ拂フ可シ
第十五條
一各郡荷主ニ於テ競争瀊賣シ又ハ荷中不正ノ品ヲ入置キ總テ規則ヲ犯シタルモノ問屋ニ於テ其品物代價ヲ差押エ共顚末ヲ詳記シ直ニ其組合事務所へ通知ス可シ
但時宜ニョリ陶磁業組合取締所へ通知スル事アル可シ
第十六條
一一手間屋ハ組合證票ヲ所持セサルモノ荷物ヲ取扱フ事ヲ得ス
第十七條
一荷物ノ駄賃運賃爲ノ爲替金ハ利子ヲ付スル事ヲ得ス
第十八條
一第六條ヲ犯シタルトキハ拾圜以上貳拾圓以下ノ違約金ヲ出サシム
第十九條
一第八條ヲ犯シタルトキ壹圓以上参圓以下ノ違約金ヲ出サシム
第二十條
一第十條ヲ犯シタル時ハ荷師ノ證票ハ之ヲ沒收ス
第二十一條
一第十一條ヲ犯シタルモノハ金五圓以下壹圓以上ノ違約金ヲ出サシム
第二十二條
一第十八條第十九條第二十一條ノ徵收違約金ハ總取締所ニ於テ保管シ非常經費ニ充ツルモノトス
第二十三條
一此定ハ佐賀縣廳及長崎縣應ノ認可ヲ受ケ將來増減加除スル時モ亦陶磁業組合取締所及ヒ一手問屋協議ノ上更ニ雨縣廳ノ認可ヲ經ヘシ
明治二十一年五月二十六日
追加
一長崎區市中賣品ハ荷物五俵以上ハ之レヲ外國輸出品ト認メ必ス長崎一手問屋へ輸送シ其手數ヲ經可キモノトス
但五俵以下ハ此限リニアラス
委托販賣約定陶磁品目書
一明治二十一年五月二十六日ヲ以テ締結スル所ノ定款ニ據り佐賀縣管内及ヒ長崎縣東彼杵郡諸陶山ノ荷磁業者ヨリ長崎港一手間屋ニ委托販賣スヘキ外國輸出ヲ目的トスル陶磁器ノ品目ヲ制限スル事左ノ如シ
一丸湯吞
一反湯吞
一辨當類
一反中奈良茶碗
一鳥繒奈良茶碗
一平奈良茶碗
一丸飯碗
一反茶漬
一馬繪飯碗
一口反丼
一丸丼
一口反蓋付井
一口反大碗蓋付
一三ッ組大平
一鉢類一切
一手引
一皿類一切
一重類一切
一匙 但染附並二錦手
一並付差身類
但鉢類皿類手引丼類西松浦郡製品ハ此限リニ非ラス最該注文アルトキモ之レヲ受クルヲ得ス
明治二十一年五月二十六日

有田銀行
 明治二十一年(1888年)七月有田貯藏銀行が設立された。先きに深川榮左工門、百田恒右工門、藤井恵七、同喜代作、川崎精一等に依って、横町に於いて營業しつゝありし貯蔵會社は、前記の外更に松尾良吉、田代興一、田代呈一、犬塚儀十、手塚政蔵、前田貞八等發起人となり、茲に資本金五萬圓の銀行組織に改め、現在の札の辻(醫師百田春静及書林武田權一宅地)へ移轉したのである。
 そして深川榮左工門頭取となり、後年有田銀行改称され、同二十九年七月佐世保濱田町(後松浦町より今常磐町に移轉す)に支店を開設し、泉山の古賀鐵六(海軍少將古賀峰一の父)が支店長であつた。之より逐年増資して五拾萬圓の銀行となりしが、此經營に就いては、専務取締役川崎精一の功績多きものがあつた。而して現今村部の協立銀行と合併して、百萬圓の資本となし、専務手塚嘉十擔當の任にある。

起産會社
 明治二十一年(1888年)稗古場頂譽庵跡に於いて、有田起産會社が創立された。従來泉山の磁石を粉砕するには、此地方の溪流を利用して、所々に水碓を設けたる、原始的の天然動力に頼るのであつた。故に一朝旱魃若くは豪雨至れば、全く休確するの外なかったのである。加ふるに燃料として濫伐の結果は、松林減少して水源湖渴に傾き、年と共に水碓小屋の發滅を來たしたのである。
 嚮にワゲネルの所説に感ぜし田代呈一は、泉山の徳見知敬と發起して、同志を糾合し、始めてクラッシヤー機を据付け、三十九馬力の動力を以て運用し、磁石の粉砕より、粘土搾成等を経営したのである。此會社は其後八年にして解散せしも、之より製陶上此種分業の利益、斯業の必要は一般に認識され、今は皆電氣動力を應用して各所に經營さるゝに至った。

竹治の堆土彫
 明治二十一年(1888年)精磁會社員深海竹治は、堆朱黒と稱する彫刻の漆器を見て、之を磁器に應用す可く研究し、數回の試験を経て全く完成するに至った。其方法は白色、錆色、栗色等原土を幾層も堆重し、之を彫刻すれは三色五色隨意に現出し得ることを発見した。

川原忠次郎卒す
 明治二十二年(1889年)一月二十六日川原忠次郎卒去した、行年四十一歳であつた。彼は大樽の酒造家川原善之助の四男に生れしも、長兄善八の嗣子として宗家を嗣ぎし者であつた。資性剛直事に営る熟誠にして倦まず、我邦窯業界に功績を残せしこと少からざりしに、齢漸く不惑を過ぎしのみにて、長逝せしは惜むべきであつた。

日本坑法の變更と石場
 明治二十二年(1889年)二月六日日本坑法變更の訓令出づ即ち農商務省令第四に據り、自今左記之礦物は日本坑法第三欵の所属として、取扱ふことゝなり、同省下附の試掘借區等更に願出つ可しとのことであった。其種目は
陶土 耐火粘土 石版 瑪瑙 金剛砂 雲母 鹹泉 石膏 石綿
 之に依って、内外山窯焼の石場借區は、こゝに消滅し、磁石も地表に附帯せる物なるを以て、此際有田町に於いては、石場を町有にすべしとの意見を胚胎せしむるに至つたのである。

精磁會社解散
 明治二十二年(1889年)二月十一日帝國憲法發布されしが、此蔵精磁會社が解散するに至つた。 由來同社の精巧なる製品は、内外に名高く、去る二十年開催の西班牙萬國博覧會にも、金牌を受領せし程なりしが、其後經營難の為に解散せしは、惜む可きの極みであつた。

組合事業の倦怠
 先きに組合結社となりし窯焼の営業が、頗る倦怠を生するに至った。それは最初より、一個人の經營に委するにあらずして、組合人相互同格の組織なるを以て、意見の融和を欠くのみならず、甲は終日仕事着にて、業務に勞働せるに對し、乙は生來自己營業時代より、羽織着の業務を監督するのみなるに、手當は甲と同一なるに及んでは、不平を起さゞるを得ざるものは甲であつた。
 況んや元來意氣投合し結合せしものにはあらすして、卒然他動的なる制度變更に依り、止を得ざりし出來合ひ夫婦式なれば、追々意見の衝突を來し、互に苦情絶えざるものがあった。故を以て事務の緊張ゆるみ、剰つさへ目下の不況に際しては彌々經營の困難を重ねるのみであつた。
 或不平者の如きは、元來此組合たるや、吾々小窯燒を困鏃自滅せしめ、結局斯業を五六人の大窯焼にて専有すべき、隠謀的計畫なりとまで憤慨するに至り、中には工業會事務所に田代呈一を訪ひ、激論して解社を逼るに及び、之より陶山社事務所や、松煙亭の集會となり、途に此不顛末を大書して、札の辻へ掲出するに至りしかば、川原善八、藤井喜代作、犬塚儀十等仲裁し、兎も角解社に盡力すべきを條件として、漸く之を剥き取らしめたのである。
 赤屋も同じく不調和を來し、如何にもして此組合を、分離せしめんさの希望切なるより、悉く工業會の幹部を恨み、不平の火は勃發して、逸に山林事件に燃え移り、此物議事件より伸びて石塲問題に関飾し、之が町民間に黨派を生じ、政治的にまで永く波及するに至ったのである。

山林事件起る
 元來有田窯業に、燃料として使用する薪材は、去る明治二十年頃平林伊平、西山孝造二人の名義を以て、拂下げの許可を受け、田代呈一専ら其管理に任せるを、一部の町民中には、伊平と呈一と結託して、代金を私に費消し居れりと唱ふる者生じ、又赤繪屋側に於いても、製陶の燃料として窯焼と同様に、共同管理の權利ありと主張し、兎も角山林方臺帳を閲覧すべしとて、一同皿山役場内の山林事務所に押掛けて、帳海を検査したのである。
 然るに其拂下げ山林中に記入すべき、現在の檜棒、楠の如き、重要なる立木を除外し居るは、甚だ怪しむ可しとなし、此始末を普く全町民に報告すべき必要ありて、大書して例の札の辻に掲出せしかば、斯くては全山の爲め、甚不体裁なりとて、有志数名の仲裁にて、撤回せしめたのである。
 次には此町民派より、山林部の精算報告を過るに及んで、呈一は敢然として一蹴した。元來山林の件につき、町民や赤繪屋なご窯焼以外の無闘係者より、質議を受くる筋合のものならず抗辯して相手にせず。依つて赤綿屋の大部町民の一部は結束し、佐賀の代言人大塚仁一さ、福地信敬を代理して、佐賀地方裁判所に訴訟を提起し、之より係数年に及んだのである。
 明治二十二年(1889年)町用係をし、総ての事務は工業會議所常議員及仝書記に引くこと成った。依て工業會の常設書記は、一名なりしも、右引きより之迄の常設用係一名を、工業會に加へることなり、二十三年まで引続き田代呈一が就職した。

内外山町村長就職
 明治二十二年(1889年)四月一日町村制發布に依り、平林伊平が初代の有田町長に就職した。そして同日松尾愛作大山村々長に就職し、五月十日に前田嘉右工門大川内村々長に就職し、五月二十六日に松村定新村(後有田村と改む)村長に就職し、六月十二日に西山十兵衛曲川村々長に就職したのである。

石場事件の發端
 有田町會始て成立するや、議員松本庄之助等は、泉山石場を有田町の基本財産として、其所有に属せしむ可しと提議するや、窯燒側議員は大いに之に反したのである。蓋し前記の如く明治七年地租改正の當時、有田町政は小島三郎次、久富太兵衛等に依って執行されしが、嚢に宗藩より有田内外山に拂下げし石場が、如何なる疎漏なりしか、土地臺帳に官有地として、登録され居る事を発見したるより、岩松平吾等を以て、地主の誤謬訂正を長崎に提出し、土地臺帳を有田皿山の共有地と改めたのである。
 然るに本年二月農商務省より礦業法令發布せら磁石も亦此法に依り土地所有の如何に拘はらす、茲に改めて措區願を提出する必要起り、樋口太平其他內外窯焼連署を以て、借區を請願し、礦法改正に則り磁石を除外せらるゝまで、一期五ヶ年其期限毎に、繼續請願せるを以て、所有権とも無論窯焼の權内にあるさいふ立場より、大紛擾を生するに至ったのである。

彫刻及席畫の天覧
 明治二十二年(1889年)四月二十二日皇后陛下には、東京上野の美術展覽會(會頭佐野常民)へ行啓遊ばされ、此際深海竹治は咫尺に侍して、有田磁器製作の彫刻技、及染附席書を天覧に供奉ったのである。

元老院へ建白書
 明治二十二年(1889年)横尾謙は、従來我國より清國へ輸出したる陶磁器類は、昨年同國に於いて課税法を改正し、禁止税に等しき多額の内地税を賦課することに定めたるより、自然我輸出品は減少して、非常の損害を被り、或は之が爲ね將來該品の輸出滅絶し、國益の一部分を失ふや計り難きを以て、今後同國との間に於ける條約改正さるゝ節は、右内地税増課の弊害を、矯正する様注意ありたしとの精神にて、元老院へ一の建白書を呈出したのである。

深川榮左工門卒す
 明治二十二年(1889年)十月二十三日深川榮左工門真忠卒去した、行年五十八歳であつた。彼は七代榮左エ門忠顯の長男にて、前名森太郎と稱し又龍阿さ號した。天資俊邁剛毅にして顔る謎巌であつた。其先は小城郡三日月村字深川の人、深川又四郎寛文年間(1661-1673年)有田に移せるを初代とし、爾來連綿として陶業に従事し、七代の孫忠顯に至り、宗藩の御用達を命ぜらるゝに至つた。其頃佐賀藩、鹿兒島藩との契約に係る、橋灰販賣の藩營を改むるや、忠顕及川原善之助をして、一手販賣をなさしめたのである。
 眞忠は、明治元年長崎出島パサールに支店を設け、蘭人との直接貿易を開始し、爾來斯業上の功横は勿論、公共事に貢献せしこと少からず。明治二十年海防費壹千圓を献じて、黄綬章を拝受したのであつた。彼卒する當時長子興太郎は、適々佛國巴里大博覧會に渡歐し、佛英獨の各地を巡視すること十五ヶ月、此間至便なる製陶機械及び陶器顔料等を購入し、歸途米国トレントの製陶地を視察中なる途上であつた。

川原善八卒す
 明治二十二年(1889年)十月二十九日川原善八速卒去した、行年五十五歳であつた。彼は藩許一手の酒造家(大樽の古酒場と稱す)及び構灰請元なる善之助清の長男にて、其先は杵島郡鳴瀬芦原の人、川原善助である。善助此地に來て酒造業を開始せしより起り、其子善右工門が善之助の父である。
 善八又始め善右工門と稱した、資性廉明起居優雅にして、當代有志者中の典型的長者であつた。
嘗て谷口藍田に學び、又茶事俳諧を好みしが、殊に漢詩を善くし、名を伯詢號を桃塢と稱した。己れ自ら經營せざりしも、陶業の發展に就いては、多大なる貢献者であり、又公共事の盡瘁者であつた。

ワゲネルの再遊
 明治二十二年(1889年)ドクトル・ワゲネルは、陶業視察の爲有田へ來り、久潤の知人と相會ふや、互に歓喜して談盡きるところを知らす而して勉脩學舍階上に於いて、盛大なる歡迎宴を開催せしが、彼は起つて稍馴れたる日本語にて、一場の演説をなせしが共大要を描く。

ワゲネルの演説 世界無比の磁質
 諸君本日は懇切なる饗態を添うし、其御芳志に封し偏に感謝するところなり。諸君も知らるゝ如く、余は十数年來日本に滞在せしが、將に明年を期して一旦故國へ歸省し、歐州諸邦陶磁器の景況を調査し來らんと欲す。依て其以前に於て、日本全國中重要なる陶磁業地を視察し置き、之を歐州諸邦に對照し、彼我の長短を比較して、以て折衷益々斯業の改良進捗を圖らんと欲し、先づ第一着に日本國中製陶地の主位にある、常有田町に來遊せし所以なり。抑も製陶の事業たる誠に多端雑にして、改良を加ふべき所も多々なりご雖も、余は茲に其焼成法に付て、聊か改良を施したきものあり。蓋し當地の磁質たるや、其堅緻なる余は断じて世界無比謂を憚らざるなり。

連續窯の便利と不便
 而して其堅緻なるに因つて、之が焼成法に於ても、他の磁質に比し頗る困難なるを免かれず、蓋しそれ丈又其製品に薀奥的美観か含まれてゐる。従來當地本焼窯の構造たるや、数個乃至拾數個の圓形なる窯の傾連接しものにて、此構造法たる質に完全無缺ご謂はざる可からず。如何さなれば、其下段の窯を焚くときに於て、其火焰上段の窯に貫通して、徒に外部に噴出せしめず、茲に於て下段の窯を焼き終るときは、上段の窯も聊か燃料を要せず、自ら幾分の焼成を受くるを以て、随つ其之を焼成する時間も速かに、且つ燃材を費すことも少なきの利あり。之當地磁器の如き、質堅牢なるものは、従つて焼成時間の長さを以て、此構造法の大いに適當なる所以なり。近西洋に於ても、此窯の築造法に傚うて、改良を企つるものあり。然り雖とも茲に一の不便なるは、此連接窯なるものは、多くは数人の製造家が共同して積入るものに係り、其内の一部分のみ積入れ、又は焼成する事を得ず。之を以ては、至急を要する注文品等を引受くる事ある時も、獨り其注文を受けたる製造家のみ、連接窯中の或る部分のみを使用する事能はず、必ず他の共同製造家に於て、最下段より最上段に至るまでの窯に入るに足る丈の器物出來揃ひし時にあらざれば、焼成する事を得ざるを以て、往々其注文の期限を愆まり、適々以て顧客の意に忤ふ事あり。

西洋窯の得失
 西洋に於ては、本焼窯の築造法たる、單獨唯一の物にして、其製造家は悉く一個、又は數個を所持するを以て、自己の都合第にて、何時たりとも勝手に積入れ、又は焼成することを得るも、之れ又其焼成に長時間を要し、薪材の消費従つて多額なるの不利あり。尤西洋にては、其窯の構造を、二層或は三層に築き、上層の所を以て素焼をなすの場所とするを以て、本焼素燒共に、同時に焼成する事を得て大いに手数を省略するの便利あるものにて、之れは當地邊にて、別に素焼窯を設けあるよりは幾層の利益あるべきかと考ふ。

東西折衷式
 之に依って推考すれば、今日の連接窯は、非常の利便ある物なれば、別に完全の發明改良あらざる限りは、容易に變改すべからすさ雖も、余は茲に日本と西洋の構造法を折衷し、更に二個の連接窯を製し、其上段を素焼窯とし、下段を本焼窯とし、製作家別にて之を建設するときは、上段の素焼は、下段の本焼を焚くと同時に其焼成を受け、一本の材を要せず、自ら下より貫通する火焰の力を以て、素燒を了することを得、且至急の製品あるときは、自由に積入れ焼成する事を得べしと信す。尚素焼窯の焼成は、本焼窯の二分の一火度にて焼成し得るものと思ふのである。

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