多久系 有田窯 五

肥前陶滋史考
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鶴田 純久の章 お話

山口代次郎卒去す
 明治十九年(1886年)一月十六日岩谷川内の山口代次郎卒去した、行年四十七歳であつた。彼は先代伊右工門の長子にて、ワゲネルについて化學を實験し、陶業の改良に將貿易の伸張に薫すところ少くなかつた。

深海墨之助卒す
 明治十九年(1886年)二月二日深海墨之卒去せしが、而も行年四十一歳は、痛惜すべきここであつた。彼れ始め光次郎さ稱し、才略あり且氣骨稜々たるところ、先考左工門に彷彿たるものがあつた。曾て明治初年東京に於いて、帝室係の某官に參見せるとき、某は最も薄手の磁器に網代形の細工を施せる、精巧の珈琲器を示して日ふ、是は佛國セーヴルの官製品なり、有田に於いでも製し得べきやと、墨之助熟蔵しつゝに以爲らく、これ有田の榮辱に開はることなり、答ふるに可能なるを以てせしかば、直ちに試囑を命せられ、勢ひ辭退すること能はざるに至つた。
 歸山するや、彼は舎弟竹治と日夕工夫を凝らし幾多の失費を繰返せし渾身の努力は、終に原品に勝る、精巧微妙を極めし一組(一打)を謹製して以て帝室に献納したのである。某官賞措かす、特に何數組を注文するや、墨之助いふ此種の器値なし、再び製し難しさ、之より深海兄弟の非凡な技名、斯界に喧傳さるゝに至つたのである。
 明治十九年(1886年)先に皿山風土記を改訂せし横尾謙は、日本陶器史を編纂したのである。それには谷口藍田の序文がある。

窯焼工業會設立
 明治十九年有田窯燒工業會を設立し、引き田代呈一が會長となりて、粗製濫造の取締を爲し、又黒牟田山に支會を設けて、本會の議決を取次ぐことゝなった。而して又内外の赤繪屋よりも議員を選出して、加入せしむるに及びしが、それは職工雇入の如き、密接關係の部分のみを、協同することに定めたのである。

銅版轉寫法
 明治十九年(1886年)大樽の牟田久次が、紙型印書法は更に銅版轉寫法に變り、彼は盛んに彫刻印刷して、隣諸山にまで普及せしむるに至ったのである。而して外渲染の如き塗彩式には、線痕を朦朧ならしむる方可なりとするも、染附猫本位の筆跡が、細線をも鮮明を要するものには、コバルト調合に硬度の地土を要し、三ッ石の石を混用したのである。
 尾張に於いては、文久初年(1861年)米國より、銅版畫の陶器渡來せしを見て、加藤春岱(景正二十七代仁兵衛と稱す、明治十年三月十八日卒七十八歲)愛知郡川名窯にて研究し、二年にして完成せしものが、我邦陶器銅版の始めとせらるゝも、尚之より先き安政年間(1855-1860年)瀬戸の川本治兵衛の門人寺尾市四郎なる者、同じ川名窯にて創始せしとの説がある、蓋し尾濃地方に普及せしは、明治二十一年頃よりといはれてゐる。
 彼の地方に於いては、又赤銅判と稱し、上繪附の方にも多く應用さるゝに至りしも、薄塗を主とする西洋繪具と異り、濃釉具を使用する有田に於いては、轉寫糊に残る紙のケバが、彩釉の密着を妨くるより、此地方に於いては、終に流行するに至らなかったのである。

鍋島直大來山
 明治二十年(1887年)二月舊宗藩主鍋島直大(閑叟の長子)有田に來り、石場を視察して香蘭社に一泊した。此時全町の通行路は、各戸の軒先ごとに磁石の漉滓なる白砂を敷くこと半疊幅とし、其上に諸種の色砂を用ひ、型紙にて更紗模様を文飾して、何れも其圖案を競ひ、恰も精巧なる鍋島緞通を敷き連ねたるたるが如き壯観を呈し又白川勉脩學舎前の廣場には、陶器を以て種々の造り物が趣向されたのである。

肥前陶磁史考精磁會社の大製陶機
 明治二十年七月一日(1887年)青磁社は、最新式の大製陶機を据付たのである。是より先川原忠次郎は、佛國リモージにて買約せし該機を引取る可く協議せしところ之に要する代金壹萬圓の資金を固定せしむることは、目下の會社としては、甚だ困難なりとし、異識の論者が多かったのである。
 忠次郎曰ふ、吾既に購入を契約す、然るに今に及んで破棄するは、獨り我が社の不信義のみならず、延びて日本帝國の恥辱なり論じて背す依って社長手塚龜之助は上京し、時の農商務大輔品川彌二郎に面して、大いに説くさころあり、途に此代金を調達し得て、該機を佛より引取るに至り、同十九年六月機械は長崎へ到着したのである。
 然るに忠次郎は、前年頃より病に罹り、當時漸く起居する程なるを、押して東奔西走して止まざるより、家人は勿論社員等ともに大いに之を憂ひ屢々静養を勧めしも、彼は断乎として之を退けて日夜奮勞し、機械の据付けより試運轉に至るまで専ら自分其任に當つたのである。(彼が翌々年の死期は、實に此際に早めしと見るべきであらう)
 七月一日には、新築の機械館樓上より、粢の餅を投じて一般に披露し、盛大なる回轉式を擧行するや、農商務省よりは、技師山本五郎出張し、佐賀県知事鎌田景弼亦列席した。此完備せる機械と新築の大工場は、本邦各地より視察員を派するなど當時の世人を驚嘆せしめたのである。之より有田の斯業界は舊來の手工より覚めて、器械興行に進渉するの機運を増進し、年額七拾萬圓の製産を繋ぐるに至ったのである。

チャンポン刺身皿
 此外國貿易の進展と共に、業者者又復活して十八年頃より八十三戸の窯焼と成った。而して一面には下手物製作流行し、彼のチャンポン刺身皿(型打ゆり形七寸)盛んに製造さるに至り、細工人は皿板敷を以て競作し、畫工は請負にて數百個宛を描き飛ばした。蓋し概ね赤繪地にて、當時一個の値段貳錢餘りなるが、下物などは三厘位にて仕入られたのである。
 明治二十年八月海軍大臣西郷従道有田に來り、親しく泉山石場を視察するや、該場空地に於いて角力が舉行され、夜は勉脩學舍階上に歡迎の宴を開き、そして香蘭社へ一泊したのである。

筈代制度
 明治二十年十月石場消費金酸集法の公平を得んが爲め(十九年八月不公平の論議起り同九月より窯焼營業の大小に依って、等級割制度に改めしも、未だ其當を得ざるを以て)之を磁石の搬出に分課することゝ成り、盟約上款第三條の制限を改め、磁石一車乃ち五百斤に付、平等凡そ金四錢を課すること成った。これ則ち筈代である。

窯焼及赤繪屋の組合
 明治二十年(1887年)製造過剰のと、資金合理化の為に、窯焼及赤粕屋の非合經營を断行することゝ成った。當時有田皿山に於ける窯燒八十戶、赤繪屋百三十八戸の多数ありしを、三戸或は四戸宛に併合せしむるや、中には良結合者を得ずして、廢業せしものもあつた。斯くて何れも何々社、又は何々組させらること成りしが、岩谷川内の山口虎三郎、松尾徳助の如きは三人分の名義株を買収して一手社と稱した。要するに此結合に因りて、一時市償の気配を昂めたのである。

三業社と馬渡俊郎
 明治二十年(1887年)赤繪屋業者として併合せし、中野原の陶商犬塚儀十、蒲地倉之助等の三業社は、神戸田代商會(長尾景弼經營)の解散するに至りしを以て、同商會にありし馬渡俊朗を主任者となし、榮町四丁目に於いて貿易問屋を經營せしむることゝ成った。

富村富一の問屋
 而して、松本次郎、手塚政藏は今泉藤太と共に別に貿易問屋を開き、富村富一其任に當ることゝ成り、始め榮町に開店せしが後長狭通に移店した。此際北島榮助、諸岡新太郎等は内地向に轉換したのである。

村雲尼公殿下御巡錫
 明治二十年(1887年)九州御巡錫の村雲尼公殿下には香蘭社へ御來泊遊ばされ、工場御見物の上御染筆の短冊を下賜されたのである。

有栖川宮熾仁親王殿下御成
 明治二十一年(1888年)一月一日有栖川宮熾仁親王殿下は、佐世保軍港御視察の途次、香蘭社へ御宿泊遊ばされ、石場、勉脩學舍及び陶業御覧の後、御記念として御親筆を賜はつたのである。(今同家座敷に掲げある「琴酒相壽」の扁額である)
 佐賀長崎同業者聯合會規約 明治二十一年(1888年)一月二十九日佐賀縣全管内の陶山と、長崎縣管下東彼杵郡の諸陶山と、聯合の規約が設定さるゝことゝなり、其定められたる定款左の如くであつた。

規約定書
今般肥前國特有名産タル陶磁器ノ改良ヲ圖ルタメ製造人ト販賣者トヲ問ハス組合ヲ設ケ粗製濫賣ノ弊害ヲ矯正セントス因テ長崎縣下東彼杵郡ト聯合規約ヲ建テ其定款ヲ設クル事左ノ如シ
第一條
一陶磁業ニ従事スル者ハ製造人ト販賣者トヲ問ハス互ビ粗製濫賣ノ弊害ヲ矯正シ勉メラ肥前國特有名産ノ名ニ背カサラン事ヲ要ス
第二條
一陶磁業ニ關係アル職工ニシテ使雇セラレン事ヲ求ムル時ハ使雇者ニ於テ一應其事理ヲ同工ノ本簿事務所ニ通知シ其照會ヲ得テ後之ヲ進退ス可シ
第三條
一專製及專賣權附興ノ製品ハ互ニ之レヲ模造スルヲ得ス
第四條
一専製及專賣權附興ノ製品ト同一ノ種類ヲ製シ専製及專賣人ノ記號ニ紛ハシキハ勿論各自通常ノ記號ヲ僞用ス可カラズ
第五條
一專製及專賣權附興ノ品ハ互ニ注文ヲ受ク可カラス若シ其情ヲ知リ製造及販賣スルカ如キ各地規約ノ成文ニ照シ之レカ違約ノ處分ヲナスヘシ
第六條
一各地港津ヨリ輸出スルノ陶磁器ハ必ス其他ノ入荷證ヲ入ト置き荷物不正ノ物品ナラサルヲ保証ス可シ
第七條
一支那輸出製造品ハ各地互ニ低價濫賣ノ弊ヲ防ク爲メ長崎港ニ於テ一ノ問屋ヲ設ケ各地製造品ハ必ス此間屋ニ輸送ス可シ
第八條
一組合内製品(長崎問屋定書ニ制限スル品目ノ分)ヲ組合外ノ商人へ賣興スルトキハ第七條ニ揭クル問屋ニ差出ス旨ノ承諾書ヲ徴シ委員ヨリ迭狀へ加印運搬スペシ
但承諾ヲ拒ム者へハ賣渡ス事ヲ得ス
第九條
一支那輸出荷物ハ各地委員ヨリ送狀へ加印ヲナス可シ
第十條
一價格ハ荷主卜事務所ノ協議ノ上低價格ヲ定メ豫テ各取締所へ届置キ取締所ハ之レヲ長崎問屋へ通知スペシ
第十一條
一各地荷主ニシテ長崎港問屋ニ於テ競争鑑賣シ又ハ荷物不足ノ品ヲ入レ置ク者ハ問屋ニ於テ差押エ其事由ヲ各事務所へ通知ス可シ
但時宜ニ依リ取締所へ届出ル事アル可シ
第十二條
一第二條第三條第四條第五條第六條ヲ犯シタル者ハ各地侵サレタル者ノ請求ニ應シ其ノ規約ニ照シ違約處分ヲナサシム可シ
第十三條
一第七條ノ規約ヲ犯シタル者ハ金參拾圓以下五圓以上ノ違約金ヲ出サシム
第十四條
一第九條ノ手續ヲナサゝル者ハ金五圓以下壹圓以上ノ違約金ヲ出サシム
第十五條
一第七條ノ場合ニ於テハ其荷物ハ沒入シ既二賣拂タルハ金ヲ以テ之レヲ追徴ス
第十六條
一第十一條ノ場合ニ於テハ各地聯合會議ヲ開キ金五拾圓以下參拾圜以上ノ違約金ヲ出サシム
第十七條
一第十二條第十三條第十四條第十五條第十六條ノ徴収金ハ取締所ニ於テ保管シ事業上非常經費ノ爲メ備置クモノトス
第十八條
一此定数ヲ増加除スルトキハ各地聯合會議/上各地方管轄廳ノ認可ヲ請フモノトス
明治廿一年五月十六日再ビ
追加
一非常備且委員手當金トシテ荷物代金千分ノ五ヲ積置ク者トス
但積金ハ一ヶ月毎二問屋ニ於テ取纏メ銀行預劵ニシテ取締所ヲ經各所轄縣廳ノ保管ヲ請フ可シ
一非常備金ハ其郡内ヨリ積立ノ分ハ其郡内ノ所有ニ蹄ス可キ者トス
一長崎區市中賣品ハ荷物五俵以上ハ之ヲ外國輸出トス認メ必ス長崎一手問屋へ輸送シ其手數ヲ經可キモノトス
但五俵以下此限リニアラス
一各郡ノ委員トシテ組合中ヨリ壹名ヲ互選シ問屋へ派遣シ規約履行ノ成否ヲ監督セシム
一委員手當ハ月ニ金拾五圓ト定メ積立金ノ内ヨリ之レヲ支給ス
一委員ハ一ヶ月交代ニシテ各郡ヨリ壹名ヲ出ス者トス

洪益銀行
 明治二十一年(1888年)四月有田陶業の金融機關として、赤繪町に資本金式萬圓の洪盆株式會社創立され、同區の蒲地兵右工門(駒作の父)上幸平の松本庄之助(静二の養父)本幸平の嬉野為助(熊一の父)等が其發起人であつた。而して庄之助が社長兼専務として専心經營の任に當り、逐年増資して資本金五拾萬圓の洪盆銀行たらしめたのである。庄之助退隠後、蒲地駒作頭取となり、松本静二専務たりしが、今や駒作の男正頭取兼専務として鞅掌しつゝある。

長崎港一手問屋定款
 明治二十一年(1888年)五月二十六日、長崎榎津町に於いて、長崎港一手問屋開設さ肥前國產外國輸出陶磁器は、一切此問屋を經て販賣さることゝなり、定款二十三ヶ條は長崎佐賀兩縣聴の認可を経たのである。

長崎港一手問屋定款書
今般肥前國產外國輸出陶磁器ノ競争濫賣ヲ防ク爲メ長崎港ニ於テ佐賀縣長崎縣外國輸出陶磁器問屋ヲ設置シ兩縣下ノ陶磁業者ハ必ス其製品ラ此問屋ニ依り販賣セントヲ約セリ依ラ右陶磁業者組合取締所ト長崎港一手間屋トノ間ニ締結スル所ノ定款左ノ如シ
第一條
一一手問屋ハ長崎縣下長崎港榎津町拾九番地ニ設置シ肥前國陶磁器外國輸出問屋ト稱ス可シ
但一手問屋其位置換ヘタルトキ陶磁業組合取締所へ通知長崎廳及と佐賀へ届出へシ
第二條
一佐賀縣管轄諸陶山並長崎縣管轄東彼杵郡諸陶山トモ外國輸出ノ磁器(別ニ制限スル品目ノ分)ハ必ス一手間屋ニ輸送スヘシ
但直輸ヲ爲ストキモ弥一手間屋ニ委托スヘシ此場合ニ於テハ第十二條ニ揭クル手数料共半額授受スルモノトス
第三條
一一手間屋ハ身元保證金トシテ金壹萬圓ヲ積置ク可シ又タ陶磁業取締所ハ各荷主ニ於テ萬一損害ヲ問屋ニ蒙ラシムル場合アルトキ其ノ辨償ヲ爲シ得可キ爲メ積金ノ方法ヲ設ケ置ク可ソ且ツ何レモ所轄縣廳ノ保管ヲ受ク可シ
但保證金ハ五分利付以上ノ公債證書若クハ銀行預り券ヲ以テスルモ妨ケナシ
第四條
一此定款履行ノ期限ハ滿五ヶ年ト定メ満期ニ至リ尚之ヲ繼續スルヤ舌ヤハ更ニ協議スペシ
但年限内ト雖モ問屋ニ於テ不正ノ所業アリタルトキハ之ヲ變更スペシ
第五條
一一手問屋ニハ各荷主ノ手頭ヲ陳列シ購賣者ノ見本ニ供スル者トス
但手頭ハ各購買者ノ許へ携持セサルヲ要ス
第六條
一購買者ヨリ特別ナル注文品アルトキハ一手問屋ハ見本及代價其他定欲ノ要領ヲ添へ注文ヲ要スル組合事務所へ通知スペシ若シ注文品ニシテ定約期日後レ又ハ見本二相違シ受渡ニ故障ヲ生シ購買者ニ於テ請取ラサル節ハ其諸費ハ總テ組合事務所ヲシテ其賠償ヲ負擔セシメ陶磁業組合取締所ニ於テ之ヲ處理ス
第七條
一箱詰ノ節現損ノ分ハ荷主ヨリ負擔スペシ
第八條
一荷物賣込ノ節ハ豫テ取締所ニ於テ製シタル入荷證票ヲ問屋ニ備置キ荷物ニ入レ置カシメ且問屋ハ荷物箱外面二問屋捺印ヲナス可シ
第九條
一價格ハ豫テ各取締所ヨリ定格値段ヲ以テ一手間屋へ通知シ置ク可シ
第十條
一各郡輸出ノ磁器ハ選方ヲ甲乙丙丁ノ四段ニ精選シ(下物ハ九合八合七合)掛り委員檢查ノ上之ヲ認可シ入荷票ノハ選方荷師ヨリ調印シ之ヲ保證ス
第十一條
一長崎輸出荷物ハ各地委員ヨリ送り状へ加印輸送ス可シ
第十二條
一問屋口錢並爲替金利子其他ヲ定ムル左ノ如シ
一問屋口錢ハ水揚部屋持込箱詰厘金一切賣込代金ノ百分ノ四ト定ム
一藏敷ハ壹ヶ月壹俵ニ付四厘ト定ム
一荷物爲替金利子ハ日歩ハ四厘月二壹步ト定ム
第十三條
一爲替金ハ時々相庭ノ七懸ニシテ四ヶ月限リタルヘシ
但相庭ノ變動ヨリ賣上代金爲替金ヨリ減少シ不足ヲ生スルトキ組合事務所ヲシテ其補足ヲ負擔セシメ陶磁業組合取締所ニ於テ之ヲ處理ス
第十四條
一一手問屋ハ荷主ニ對シ賣込荷渡濟ノ上ハ直ニ仕切り金相渡ス可シ
但賣込品荷渡延期ナルトキハ内金九懸ヲ相渡ス可シ勿論荷主ハ一手間屋ニ對シ荷物受取期日迄ノ間ハ日歩ハ拂フ可シ
第十五條
一各郡荷主ニ於テ競争瀊賣シ又ハ荷中不正ノ品ヲ入置キ總テ規則ヲ犯シタルモノ問屋ニ於テ其品物代價ヲ差押エ共顚末ヲ詳記シ直ニ其組合事務所へ通知ス可シ
但時宜ニョリ陶磁業組合取締所へ通知スル事アル可シ
第十六條
一一手間屋ハ組合證票ヲ所持セサルモノ荷物ヲ取扱フ事ヲ得ス
第十七條
一荷物ノ駄賃運賃爲ノ爲替金ハ利子ヲ付スル事ヲ得ス
第十八條
一第六條ヲ犯シタルトキハ拾圜以上貳拾圓以下ノ違約金ヲ出サシム
第十九條
一第八條ヲ犯シタルトキ壹圓以上参圓以下ノ違約金ヲ出サシム
第二十條
一第十條ヲ犯シタル時ハ荷師ノ證票ハ之ヲ沒收ス
第二十一條
一第十一條ヲ犯シタルモノハ金五圓以下壹圓以上ノ違約金ヲ出サシム
第二十二條
一第十八條第十九條第二十一條ノ徵收違約金ハ總取締所ニ於テ保管シ非常經費ニ充ツルモノトス
第二十三條
一此定ハ佐賀縣廳及長崎縣應ノ認可ヲ受ケ將來増減加除スル時モ亦陶磁業組合取締所及ヒ一手問屋協議ノ上更ニ雨縣廳ノ認可ヲ經ヘシ
明治二十一年五月二十六日
追加
一長崎區市中賣品ハ荷物五俵以上ハ之レヲ外國輸出品ト認メ必ス長崎一手問屋へ輸送シ其手數ヲ經可キモノトス
但五俵以下ハ此限リニアラス
委托販賣約定陶磁品目書
一明治二十一年五月二十六日ヲ以テ締結スル所ノ定款ニ據り佐賀縣管内及ヒ長崎縣東彼杵郡諸陶山ノ荷磁業者ヨリ長崎港一手間屋ニ委托販賣スヘキ外國輸出ヲ目的トスル陶磁器ノ品目ヲ制限スル事左ノ如シ
一丸湯吞
一反湯吞
一辨當類
一反中奈良茶碗
一鳥繒奈良茶碗
一平奈良茶碗
一丸飯碗
一反茶漬
一馬繪飯碗
一口反丼
一丸丼
一口反蓋付井
一口反大碗蓋付
一三ッ組大平
一鉢類一切
一手引
一皿類一切
一重類一切
一匙 但染附並二錦手
一並付差身類
但鉢類皿類手引丼類西松浦郡製品ハ此限リニ非ラス最該注文アルトキモ之レヲ受クルヲ得ス
明治二十一年五月二十六日

有田銀行
 明治二十一年(1888年)七月有田貯藏銀行が設立された。先きに深川榮左工門、百田恒右工門、藤井恵七、同喜代作、川崎精一等に依って、横町に於いて營業しつゝありし貯蔵會社は、前記の外更に松尾良吉、田代興一、田代呈一、犬塚儀十、手塚政蔵、前田貞八等發起人となり、茲に資本金五萬圓の銀行組織に改め、現在の札の辻(醫師百田春静及書林武田權一宅地)へ移轉したのである。
 そして深川榮左工門頭取となり、後年有田銀行改称され、同二十九年七月佐世保濱田町(後松浦町より今常磐町に移轉す)に支店を開設し、泉山の古賀鐵六(海軍少將古賀峰一の父)が支店長であつた。之より逐年増資して五拾萬圓の銀行となりしが、此經營に就いては、専務取締役川崎精一の功績多きものがあつた。而して現今村部の協立銀行と合併して、百萬圓の資本となし、専務手塚嘉十擔當の任にある。

起産會社
 明治二十一年(1888年)稗古場頂譽庵跡に於いて、有田起産會社が創立された。従來泉山の磁石を粉砕するには、此地方の溪流を利用して、所々に水碓を設けたる、原始的の天然動力に頼るのであつた。故に一朝旱魃若くは豪雨至れば、全く休確するの外なかったのである。加ふるに燃料として濫伐の結果は、松林減少して水源湖渴に傾き、年と共に水碓小屋の發滅を來たしたのである。
 嚮にワゲネルの所説に感ぜし田代呈一は、泉山の徳見知敬と發起して、同志を糾合し、始めてクラッシヤー機を据付け、三十九馬力の動力を以て運用し、磁石の粉砕より、粘土搾成等を経営したのである。此會社は其後八年にして解散せしも、之より製陶上此種分業の利益、斯業の必要は一般に認識され、今は皆電氣動力を應用して各所に經營さるゝに至った。

竹治の堆土彫
 明治二十一年(1888年)精磁會社員深海竹治は、堆朱黒と稱する彫刻の漆器を見て、之を磁器に應用す可く研究し、數回の試験を経て全く完成するに至った。其方法は白色、錆色、栗色等原土を幾層も堆重し、之を彫刻すれは三色五色隨意に現出し得ることを発見した。

川原忠次郎卒す
 明治二十二年(1889年)一月二十六日川原忠次郎卒去した、行年四十一歳であつた。彼は大樽の酒造家川原善之助の四男に生れしも、長兄善八の嗣子として宗家を嗣ぎし者であつた。資性剛直事に営る熟誠にして倦まず、我邦窯業界に功績を残せしこと少からざりしに、齢漸く不惑を過ぎしのみにて、長逝せしは惜むべきであつた。

日本坑法の變更と石場
 明治二十二年(1889年)二月六日日本坑法變更の訓令出づ即ち農商務省令第四に據り、自今左記之礦物は日本坑法第三欵の所属として、取扱ふことゝなり、同省下附の試掘借區等更に願出つ可しとのことであった。其種目は
陶土 耐火粘土 石版 瑪瑙 金剛砂 雲母 鹹泉 石膏 石綿
 之に依って、内外山窯焼の石場借區は、こゝに消滅し、磁石も地表に附帯せる物なるを以て、此際有田町に於いては、石場を町有にすべしとの意見を胚胎せしむるに至つたのである。

精磁會社解散
 明治二十二年(1889年)二月十一日帝國憲法發布されしが、此蔵精磁會社が解散するに至つた。 由來同社の精巧なる製品は、内外に名高く、去る二十年開催の西班牙萬國博覧會にも、金牌を受領せし程なりしが、其後經營難の為に解散せしは、惜む可きの極みであつた。

組合事業の倦怠
 先きに組合結社となりし窯焼の営業が、頗る倦怠を生するに至った。それは最初より、一個人の經營に委するにあらずして、組合人相互同格の組織なるを以て、意見の融和を欠くのみならず、甲は終日仕事着にて、業務に勞働せるに對し、乙は生來自己營業時代より、羽織着の業務を監督するのみなるに、手當は甲と同一なるに及んでは、不平を起さゞるを得ざるものは甲であつた。
 況んや元來意氣投合し結合せしものにはあらすして、卒然他動的なる制度變更に依り、止を得ざりし出來合ひ夫婦式なれば、追々意見の衝突を來し、互に苦情絶えざるものがあった。故を以て事務の緊張ゆるみ、剰つさへ目下の不況に際しては彌々經營の困難を重ねるのみであつた。
 或不平者の如きは、元來此組合たるや、吾々小窯燒を困鏃自滅せしめ、結局斯業を五六人の大窯焼にて専有すべき、隠謀的計畫なりとまで憤慨するに至り、中には工業會事務所に田代呈一を訪ひ、激論して解社を逼るに及び、之より陶山社事務所や、松煙亭の集會となり、途に此不顛末を大書して、札の辻へ掲出するに至りしかば、川原善八、藤井喜代作、犬塚儀十等仲裁し、兎も角解社に盡力すべきを條件として、漸く之を剥き取らしめたのである。
 赤屋も同じく不調和を來し、如何にもして此組合を、分離せしめんさの希望切なるより、悉く工業會の幹部を恨み、不平の火は勃發して、逸に山林事件に燃え移り、此物議事件より伸びて石塲問題に関飾し、之が町民間に黨派を生じ、政治的にまで永く波及するに至ったのである。

山林事件起る
 元來有田窯業に、燃料として使用する薪材は、去る明治二十年頃平林伊平、西山孝造二人の名義を以て、拂下げの許可を受け、田代呈一専ら其管理に任せるを、一部の町民中には、伊平と呈一と結託して、代金を私に費消し居れりと唱ふる者生じ、又赤繪屋側に於いても、製陶の燃料として窯焼と同様に、共同管理の權利ありと主張し、兎も角山林方臺帳を閲覧すべしとて、一同皿山役場内の山林事務所に押掛けて、帳海を検査したのである。
 然るに其拂下げ山林中に記入すべき、現在の檜棒、楠の如き、重要なる立木を除外し居るは、甚だ怪しむ可しとなし、此始末を普く全町民に報告すべき必要ありて、大書して例の札の辻に掲出せしかば、斯くては全山の爲め、甚不体裁なりとて、有志数名の仲裁にて、撤回せしめたのである。
 次には此町民派より、山林部の精算報告を過るに及んで、呈一は敢然として一蹴した。元來山林の件につき、町民や赤繪屋なご窯焼以外の無闘係者より、質議を受くる筋合のものならず抗辯して相手にせず。依つて赤綿屋の大部町民の一部は結束し、佐賀の代言人大塚仁一さ、福地信敬を代理して、佐賀地方裁判所に訴訟を提起し、之より係数年に及んだのである。
 明治二十二年(1889年)町用係をし、総ての事務は工業會議所常議員及仝書記に引くこと成った。依て工業會の常設書記は、一名なりしも、右引きより之迄の常設用係一名を、工業會に加へることなり、二十三年まで引続き田代呈一が就職した。

内外山町村長就職
 明治二十二年(1889年)四月一日町村制發布に依り、平林伊平が初代の有田町長に就職した。そして同日松尾愛作大山村々長に就職し、五月十日に前田嘉右工門大川内村々長に就職し、五月二十六日に松村定新村(後有田村と改む)村長に就職し、六月十二日に西山十兵衛曲川村々長に就職したのである。

石場事件の發端
 有田町會始て成立するや、議員松本庄之助等は、泉山石場を有田町の基本財産として、其所有に属せしむ可しと提議するや、窯燒側議員は大いに之に反したのである。蓋し前記の如く明治七年地租改正の當時、有田町政は小島三郎次、久富太兵衛等に依って執行されしが、嚢に宗藩より有田内外山に拂下げし石場が、如何なる疎漏なりしか、土地臺帳に官有地として、登録され居る事を発見したるより、岩松平吾等を以て、地主の誤謬訂正を長崎に提出し、土地臺帳を有田皿山の共有地と改めたのである。
 然るに本年二月農商務省より礦業法令發布せら磁石も亦此法に依り土地所有の如何に拘はらす、茲に改めて措區願を提出する必要起り、樋口太平其他內外窯焼連署を以て、借區を請願し、礦法改正に則り磁石を除外せらるゝまで、一期五ヶ年其期限毎に、繼續請願せるを以て、所有権とも無論窯焼の權内にあるさいふ立場より、大紛擾を生するに至ったのである。

彫刻及席畫の天覧
 明治二十二年(1889年)四月二十二日皇后陛下には、東京上野の美術展覽會(會頭佐野常民)へ行啓遊ばされ、此際深海竹治は咫尺に侍して、有田磁器製作の彫刻技、及染附席書を天覧に供奉ったのである。

元老院へ建白書
 明治二十二年(1889年)横尾謙は、従來我國より清國へ輸出したる陶磁器類は、昨年同國に於いて課税法を改正し、禁止税に等しき多額の内地税を賦課することに定めたるより、自然我輸出品は減少して、非常の損害を被り、或は之が爲ね將來該品の輸出滅絶し、國益の一部分を失ふや計り難きを以て、今後同國との間に於ける條約改正さるゝ節は、右内地税増課の弊害を、矯正する様注意ありたしとの精神にて、元老院へ一の建白書を呈出したのである。

深川榮左工門卒す
 明治二十二年(1889年)十月二十三日深川榮左工門真忠卒去した、行年五十八歳であつた。彼は七代榮左エ門忠顯の長男にて、前名森太郎と稱し又龍阿さ號した。天資俊邁剛毅にして顔る謎巌であつた。其先は小城郡三日月村字深川の人、深川又四郎寛文年間(1661-1673年)有田に移せるを初代とし、爾來連綿として陶業に従事し、七代の孫忠顯に至り、宗藩の御用達を命ぜらるゝに至つた。其頃佐賀藩、鹿兒島藩との契約に係る、橋灰販賣の藩營を改むるや、忠顕及川原善之助をして、一手販賣をなさしめたのである。
 眞忠は、明治元年長崎出島パサールに支店を設け、蘭人との直接貿易を開始し、爾來斯業上の功横は勿論、公共事に貢献せしこと少からず。明治二十年海防費壹千圓を献じて、黄綬章を拝受したのであつた。彼卒する當時長子興太郎は、適々佛國巴里大博覧會に渡歐し、佛英獨の各地を巡視すること十五ヶ月、此間至便なる製陶機械及び陶器顔料等を購入し、歸途米国トレントの製陶地を視察中なる途上であつた。

川原善八卒す
 明治二十二年(1889年)十月二十九日川原善八速卒去した、行年五十五歳であつた。彼は藩許一手の酒造家(大樽の古酒場と稱す)及び構灰請元なる善之助清の長男にて、其先は杵島郡鳴瀬芦原の人、川原善助である。善助此地に來て酒造業を開始せしより起り、其子善右工門が善之助の父である。
 善八又始め善右工門と稱した、資性廉明起居優雅にして、當代有志者中の典型的長者であつた。
嘗て谷口藍田に學び、又茶事俳諧を好みしが、殊に漢詩を善くし、名を伯詢號を桃塢と稱した。己れ自ら經營せざりしも、陶業の發展に就いては、多大なる貢献者であり、又公共事の盡瘁者であつた。

ワゲネルの再遊
 明治二十二年(1889年)ドクトル・ワゲネルは、陶業視察の爲有田へ來り、久潤の知人と相會ふや、互に歓喜して談盡きるところを知らす而して勉脩學舍階上に於いて、盛大なる歡迎宴を開催せしが、彼は起つて稍馴れたる日本語にて、一場の演説をなせしが共大要を描く。

ワゲネルの演説 世界無比の磁質
 諸君本日は懇切なる饗態を添うし、其御芳志に封し偏に感謝するところなり。諸君も知らるゝ如く、余は十数年來日本に滞在せしが、將に明年を期して一旦故國へ歸省し、歐州諸邦陶磁器の景況を調査し來らんと欲す。依て其以前に於て、日本全國中重要なる陶磁業地を視察し置き、之を歐州諸邦に對照し、彼我の長短を比較して、以て折衷益々斯業の改良進捗を圖らんと欲し、先づ第一着に日本國中製陶地の主位にある、常有田町に來遊せし所以なり。抑も製陶の事業たる誠に多端雑にして、改良を加ふべき所も多々なりご雖も、余は茲に其焼成法に付て、聊か改良を施したきものあり。蓋し當地の磁質たるや、其堅緻なる余は断じて世界無比謂を憚らざるなり。

連續窯の便利と不便
 而して其堅緻なるに因つて、之が焼成法に於ても、他の磁質に比し頗る困難なるを免かれず、蓋しそれ丈又其製品に薀奥的美観か含まれてゐる。従來當地本焼窯の構造たるや、数個乃至拾數個の圓形なる窯の傾連接しものにて、此構造法たる質に完全無缺ご謂はざる可からず。如何さなれば、其下段の窯を焚くときに於て、其火焰上段の窯に貫通して、徒に外部に噴出せしめず、茲に於て下段の窯を焼き終るときは、上段の窯も聊か燃料を要せず、自ら幾分の焼成を受くるを以て、随つ其之を焼成する時間も速かに、且つ燃材を費すことも少なきの利あり。之當地磁器の如き、質堅牢なるものは、従つて焼成時間の長さを以て、此構造法の大いに適當なる所以なり。近西洋に於ても、此窯の築造法に傚うて、改良を企つるものあり。然り雖とも茲に一の不便なるは、此連接窯なるものは、多くは数人の製造家が共同して積入るものに係り、其内の一部分のみ積入れ、又は焼成する事を得ず。之を以ては、至急を要する注文品等を引受くる事ある時も、獨り其注文を受けたる製造家のみ、連接窯中の或る部分のみを使用する事能はず、必ず他の共同製造家に於て、最下段より最上段に至るまでの窯に入るに足る丈の器物出來揃ひし時にあらざれば、焼成する事を得ざるを以て、往々其注文の期限を愆まり、適々以て顧客の意に忤ふ事あり。

西洋窯の得失
 西洋に於ては、本焼窯の築造法たる、單獨唯一の物にして、其製造家は悉く一個、又は數個を所持するを以て、自己の都合第にて、何時たりとも勝手に積入れ、又は焼成することを得るも、之れ又其焼成に長時間を要し、薪材の消費従つて多額なるの不利あり。尤西洋にては、其窯の構造を、二層或は三層に築き、上層の所を以て素焼をなすの場所とするを以て、本焼素燒共に、同時に焼成する事を得て大いに手数を省略するの便利あるものにて、之れは當地邊にて、別に素焼窯を設けあるよりは幾層の利益あるべきかと考ふ。

東西折衷式
 之に依って推考すれば、今日の連接窯は、非常の利便ある物なれば、別に完全の發明改良あらざる限りは、容易に變改すべからすさ雖も、余は茲に日本と西洋の構造法を折衷し、更に二個の連接窯を製し、其上段を素焼窯とし、下段を本焼窯とし、製作家別にて之を建設するときは、上段の素焼は、下段の本焼を焚くと同時に其焼成を受け、一本の材を要せず、自ら下より貫通する火焰の力を以て、素燒を了することを得、且至急の製品あるときは、自由に積入れ焼成する事を得べしと信す。尚素焼窯の焼成は、本焼窯の二分の一火度にて焼成し得るものと思ふのである。

石炭窯の研究中
 又當今の燃料は、専ら木材を用ふれとも、近年薪木の價日を追うて昂騰し、其供給は霊用の度に充つる能はざるが如き景況あり。故を以て薪材に代ゆるに、石炭を以てせんと欲す、之其價格薪材に比して大いに低廉なるに依て、製造上幾分の原資を少うするを得べし。怒り難も之を代用せんと欲せば、先づ第一に窯の構造に改革を行はざるを得ざるを以て當時余は夙夕之を研究しつゝあるなり。

業務の分業
 尚諸君に向って一言したきは、即ち彼の経済上の分業なるものなり、是は如何なる業務に於ても必要且有益にして、此法の圓滑に行はるゝ時は、必ず其事業の發達旺盛を來すものなり。假令ば茲に一軒の磁器製造家ありとせんか 其主人たる者は先つ磁石の搗砕より、之を淘汰して粘土となし、以て種々の器を製種々の描画をなし、釉薬を施し、赤繪を附け或は素焼し又は本焼する等、複雑多端なる製造上渾ての業務一切を、一身にて成しけんとせんか、人の智能たる素より際涯なしと雖とも、此れ等の多件をして、一々圓満に處理し得る者果して幾人かある、人の体力には自ら限りあるを似て、各其業務の一部を分ち、互に一科一部を専務する時に於ては、其精神を一途に委ね、必す進歩改良する所少らざるべきを疑はず。諸君宜しく此點に着眼し、整然たる分業法を實行するに於ては、今より尚一層有田焼の名を發揚し、且各自諸君の事業をして、著しく進展せしめん云々

二十二年磁石採掘料
 明治二十二年(1889年)十一月十九日議決の泉山磁石採掘料左の如くである。(但千斤につき)
上樂石拾八錢、一等石拾五錢、二等石拾錢、三等石八錢、上藥修繕石八錢、堺目修繕石拾錢、堺目下等石八錢同賣捌定價(但五百斤につき)
上樂石參拾五錢、一等石貳拾參錢、二等石拾七錢五厘、三等石拾六錢、三平石拾貳錢四厘、上樂修繕石拾四錢式厘、堺目修繕石拾六錢四厘、堺目下等石拾四錢貳厘
尤も此當時米壹升の價四錢五厘位にて、荒仕子賃錢一日拾五六錢、畫工にて武拾錢の日給を得るは上の部に属し、細工人は貳拾五錢より參拾錢位であつた。

九代深川榮左エ門
 明治二十三年(1890年)二月十五日先きに佛國大博覧に渡歐せし深川輿太郎は、一等金牌を得て歸朝した。そして九代榮左工門を襲名したのである。是より香蘭社の事業なほ一層擴張され、今や東京市木挽町五丁目を始め、大阪市西區京町堀通三丁目に、門司市榮町四丁目に、小倉市京町三丁目に、福岡市川端町に、佐賀市呉服町に、佐世保市海軍橋通に、大連市眞弓町に、朝鮮京城府古市町等に支店を設け、又英京龍動ニューオックスホード街より、シドニー、孟買、カルカツタ、スラバヤ、スマラン、バタビヤ、香港、廣東、上海、大連、名古屋市等に代理店を置くに至り、資本金七拾萬圓の合名會社と成ったのである。

二十三年の東京春相場
 此年に至りて、陶價稍見直したるのを呈し、三月に於ける肥前物の東京相場は、左の如くであつた。(但百個の値段)
薄葉畫變り本皿貳圓五錢、同生盛貳圓拾五錢、同小皿壹圓四拾錢、同七寸皿參圓八拾五錢、同八寸皿四圓五拾錢、同尺皿八圓五拾錢、同尺二皿拾四園、同尺三皿貳拾五圓、同尺五皿四拾五圓、同尺八皿八拾五圓、同二尺皿百參拾圓、同角八寸皿六圓五拾五錢、同角尺皿拾壹圓、同丸中武圓五拾五錢、同九本參圓貳拾五錢、同九望料四圓八拾錢、同平中貳圓參拾錢、同平本武圓五拾錢、同平望料四圓八抬錢、同二五重參圓內外、同三寸重參圓八拾五錢、同三五重五圓七拾五錢、同四寸重七圓五拾錢、同五寸重拾五圓、同六寸重貳拾五圓、同三寸辨當五圓貳拾錢、同三五辨當六七拾錢、型入五寸井五圓五拾錢、同六寸丼六圆五拾五錢、同七寸丼八圓、同八寸井拾四回 同九寸丼貳拾圓、同尺井貳拾參圓

石場を有田町有に議決
 明治二十三年(1890年)三月有田町開するや、議員松本庄之助等は泉山石場を、有田町所有の基本財産にすべき提識を爲して之が議決さるゝに及び有田町長は石場全部を監督し、工業會書記と立會ひ、該收入は凡て有田町收入役に於いて取扱ぶことゝしたのである。其規約條目左の如し

町有規約
 泉山ノ磁礦場ハ我有田工業ノ基礎ニシテ三百年來舊慣ノ存スル所アリ然ルニ今般町村制發布ニ依り自治ノ精神基磁場ヲ以テ有田町基本財産トナシ之レヲ永遠維持シテ益々工業ノ擴張町村盛大圖ラットステ二規約ヲ設ヶ町會議員ト締盟スル事左ノ如シ
第一條
一泉山ノ磁職場ハ今般有田町ノ基本財産トナシ之ヲ町役場ニ於テ保管シ其出納ハ收入役ニ於テ擔當ス可シ
第二條
一磁礦場ニ於テ是迄負擔シタル所ノ舊債ハ之ヲ町役場ニ於テ擔任スル勿論其盡ス可キ義務ハ總テ町役場ニ於テ之ヲ擔當ス可シ
第三條
一磁礦場普請或ハ不時ノ需用準備トシテ金貳百圓宛年々積立テ貯蓄シ置ク者トス
第四條
一年々豫算ノ議案ハ總十名ノ委員ヲ以テ之ヲ編製シ町長ヲ經テ議會ニ報告スル者トス
附臨時石場ニ關スル者ハ本條同様タル可シ
第五條
一前條ノ委員ハ窯焼ヨリ十名ヲ互選スル者トス
但其任期ハ満三ヶ年トス
第六條
一石場切符ノ代價ヲ變換高低スル時ハ又前條ニ定ムル委員ノ組織ヲ以テ議會ヲ開キ之カ議決ヲ町會議へ報告ス可シ
第七條
一石場ニ於テ急遽修繕ヲ要スル場合アルニ於テハ又前條ノ手続ヲ以テ之ヲ執行スル者トス
但定期普請モ右同様タル可シ
第八條
一石場ノ變動ニ從ヒ頻年大土工ヲ起シ或ハ探鑿ノ便宜ニ依り一時器械設ヲ設置スル等ノ事ニ就テ町債ヲ募ルノ必要アル時ハ町會議員ノ議決ノミニヨラス第五條ノ委員ヲ以テ組織シタル會議ヲ以テ之ヲ決ス
第九條
一工業ハ有田ノ基礎ニ付工業會議所ヲ従來ノ通リ勉脩學舍內ニ設置スル者トス
第十條
一工業會議所ニ於テハ幹事書記小使各一名ヲ置キ總テ工業上ニ關スル事務ヲ擔任シ専ラ陶業盟約上ノ條件ヲ執行スル者トス
第十一條
一石場取締定番等ハ總テ工業會幹事ノ監督ヲ受ケ之カ任免ハ總テ工業會議員/權限タル可シ
第十二條
一工業會議所及石場ノ経費ハ第五條ノ委員豫算ヲ以テ永遠基本財産ヨリ支出スル者トス
第十三條
一此儘定メタル盟約ニシテ此ノ規約二抵觸スル者爾後自ラ消滅シ總テ其効用ナキ者トス
右規約ハ之ヲ永遠ニ保存シ渝ラサル爲メ工業者總代町會議員署名捺印置ク者トス

田代健町長となる明治二十三年四月十二日有田町長平林伊は、在職一年にして辭し、翌十三日先きに新村の助役たりし、多久の田代健代つて有田町長に就職し、白川の南里平一が助役となつたのである。

町役場を工業會議所へ移す
 之より有田町役場を、工業會議所即ち勉脩學舍建物へ移轉せんとするに方り、外山窯焼なる新村外尾の前田儀右工門、(前名貞入)應法の久保國太郎、黒牟田の梶原友太郎、福島幸次郎、曲川村南川原の酒井田柿右エ門等九人は田代町長に面接し、本舎は専ら内外窯焼の寄附を以て建築せしものなれば、能く熟議の上解決すべきことを交渉せしさころ、町長は既に石場を支配する以上、此處に移轉することの便宜なりて之に應せず、途に移轉を断行したのである。

松村定次の反對説
 此時新村々長松村定次は、石場町有決議の大いに不當なることを力説した。
其所論に依れば、元來泉山石場は、開坑以來數百年間、皿山内外の窯焼に依って、生産されつゝあることは、今更申すまでもなく、依つて明治四年八月廢藩置の際、藩主鍋島家より、内外皿山といへる名義を指定して、下附されたものである。然るに明治九年改租誤謬の際有田皿山のみの専断を以て、記名訂正を出願せし爲に、單に地券面に有田皿山記載され、又土地臺帳に有田町と記載されたるを好機として、有田町民の所有さして議決するが如きは、以ての外なる處置と云はざを得ぬ。
 石場が古來内外山同一の共有權内にあることは今更其歴史を論するまでもなく、舊藩主が下附されたる内外山中の四文字が、如實に證明を宣してゐる。故に石場は有田内山なる窯焼のみの専有物にもあらず、又勿論外山窯焼のみの所有権もない。抑も今日窯焼とするも變遷常ならず。故に今年燒倒れて明年には職人となり、又去年まで細工人なりし者や商人が、今年は窯焼として営業するに至ること、古來決して珍らしさせぬ。
 故を以て、永代固定的ならざる窯焼にも指名されず、内外皿山中にて、其時々の窯焼を含めし土地に下附されたるものと解すべく、則ち關係町村内外の共同權内に置く可きものにして、其町村民は、下附されたる趣旨に基づき、以て窯焼事業の繁茶を助け、而して其餘徳を承くることに依って、共存共榮の質を繋ぐ可きである。蓋し有田町は石場の地元なる所以を以て、年々數百圓宛石場筈代より町費を補助しつゝあるに係らず、手續上の誤謬ありしを、奇貨居くべしとして、有田町有となし、窯焼事業の筈代を横領せんとするは、奇怪千萬なりといふのであつた。

外山窯焼の町長詰問
 明治二十三年四月二十四日外山窯燒久保國太郎等五名は、田代町長に面接し、客月有田町會に於いて、石場を有田町の専有に議決せことを難じ、且明治十三年長崎の許可は不當なるを以て、吾々は此際之を訂正すべく既に村長松村定次より、内山窯焼と協議中なるに何故斯ゝる不法を決行せしやと詰問せるに、町長は該記名が有田町なるを以て、今回之を基本財産として編入したり、異議あらば監督官廳に訴へ判決を乞ふ可しさ答へしより、外山窯焼は愈よ有田町長を相手として、郡參事會に訴願を提出するこさゝなった。

荒木郡長の仲裁
 明治二十三年五月初旬、西松浦郡長荒木卓爾は、内外山に奔走して、和解を試みんとせしところ、有田町民派は、郡長が窯焼方に左袒して、偏倚の仲裁を爲さんする傾ありよなし、却って激昂せるの風あるより、郡長も未だ時期の至らざるを看破し、和解を中止したのである。

郡参事會へ訴願呈出
 明治二十三年六月二十四日外山窯は、郡參事へ、石場處分に開する長文の訴願を、荒木郡長に提出した。それには窯焼惣代として新村より久保國太郎、福島幸次郎、大山村より森孫一、立林興助、曲川村より藤文一名したのである。
 此訴願が提出さるや、荒木郡長は大いに憂慮し、成否は保し難きも、先に中止せし和解を再び履行すべきを以て、本訴願は三村長に於いて、預置くことを切望し、七月彼は郡書記高須悌一郎同大串誠三郎を同伴して、有田に出張し、百方和解を勤めしも、到底望みなきを以て蹄廳したのである。

岩松平吾卒す
 明治二十三年七月二十七日岩松吾卒去した、行年六十四歳であつた。彼は天和年間良器を製造して聲名ありし岩松三郎右工門の末裔にて、先代平太郎の長男である。彼亦製陶に長じ、角岩製して、食器茶器の名陶家であつた。殊に堅實なる彼の製品は、荷造の検査の要なきまでに信用されたのである。晩年事業を嗣子龍一に譲り、己は石場事務長として該礦の保持修に盡瘁せし事少からず、爲めに後年石場山の神境内に共功績碑が建立されたのである。

町會議決取消の請求書
 明治二十三年八月十三日田代町長の所爲を憤れる有田内山窯焼は、石場代金の収支取扱ひを工業會に復し、窯焼總代より先きの町會決議を取消すどの書面を交付した。
其惣代連名者は、百田理三郎、瀬戸口勝太郎、辻豚、藤井惠七、城島岩太郎、田代安吉、手塚龜之助、深川榮左工門、久保時太郎、今泉藤太、岩尾久吉、山口虎三郎、雪竹豊吉等であつた。

四町村の町長談判
 明治二十三年九月に至り、有田町民の一部は舉つて工業會を壓倒し、同會の帳簿を封して、町長に預けたのである。依つて内外窯焼より参考として意見書を作成し、亦四村長より、磁石場誤謬訂正願及辯明書を提出することへなり。西山曲川村長、松尾大山村長、大川内村助役前田新左工門、有田村助役勝屋玄九郎等は、田代町長に面接して、議決取消の談判を開き、此争議が産業上に禍根を印すべき杞憂を縷々陳辯せるも、到底其甲斐なさを以て、四村長は途に地方廳の裁決を仰ぐに決意したのである。
 明治二十三年十一月十四日外山四村長は、土地臺帳記名誤謬に付、訂正願書と、長文の辯明書を佐賀縣知事樺山資雄に提出したのである。

石場筈代を有田町へ収入
 明治二十三年十月田代町長は、松本庄之助、渡邊源之助、南里一、久富三保助等と相計り、工業會議所の帳簿一切を取扱ふと共に、石場筈代金を有田町有として収入することゝした。窯焼は大いに憤慨すると雖も、多數なる町民派に対しては、如何もする事が出多久系有田窯なかつたのである。

樺山知事に意見書呈出
 明治二十三年十二月有田町窯焼派は、石場舊來の歴史と、今回町有決議の不常なる所以とを指摘せる長文の意見書を樺山知事に提出した。其連名者は平林伊、田代呈一、辻勝藏、藤井寛造、鶴田吹平、徳見知敬、城島岩太郎、深海竹治、田代安吉、深川榮左工門岩松龍一、瀬戸口勝太郎、岩尾虎一、山口虎三郎松尾德助、藤崎太平、雪竹豊吉であつた。

町民派の改革的意見
 町民派に於いては、石場地券面に持主有田皿山と記載しあり、所有主は無論有田一般町民の共有物にて、窯焼は單に使用權のみ存在するのみである。而して従來其管理者なるものは、常に主の地位にある者と提携して、収入の使途を勝手にするの弊絶えず、故に此際町有に移管して以て一切の監督を正しふせんとするにあり。然るに内山窯焼は此真意を覺らず、外山窯燒と共同して、石場を専有せん策動するは、甚だ不埒なりなし、之より有田町民派内外窯燒派との軋轢は益々苦しく、殊に未だ解決せざる山林事件より、引続きての争議さて、一部町民の激昂はその極に達した。

威力捺印
 而して彼等は途に石場こと有田町の基本財産に相違なしの一の盟約書を作成し、多人數連行の威力を以て、有田窯焼を別に訪問して之に捺印せしめたのである。
 明治二十四年一月深海竹治と、深川左工門は農商務省に出頭し、同省秘書官内田康哉、同原敬及技師山本五郎等に面接し、山林事件につき具伸するどころあつた。.

縣官と常置委員との仲裁
 明治二十四年三月樺山知事は、書記官野尻邦基、福島輝世、同田中周榮を出張せしめ、常置員村岡致遠、永田佐次郎、松尾寛三等と同道して有田に來り、關係五町村長を招き、内外窯焼と有田町民派との間に往來し、懇々利害を説きて、切に和解を試みしも一部の人民は法元寺其他に集合し、此仲裁者が何れも窯焼を庇護するものなし、決して承服する意志なきことを示したるを以て、前記の人々は、空しく儲臆するの止を得なかったのである。

長崎縣の許可を取消す
 明治二十四年五月二日直第八七號を以て、佐賀縣知事樺山資雄は、暴に長崎縣が有田町の名義に許可したる石場を取消す旨、收長中島準を伊萬里郡役所へ出張せしめて之を有田町へ通達した。

直第八七號 西松浦郡有田町
泉山山林反別五町二反二畝六歩改租當時官民有誤謬付明治十三年四月中有田皿山共有總代岩松平吾ョリ訂正義願出長崎縣ニ於テ之レヲ許可地券下附セシ處右一證憑書類基キ關係人民協議ノ上更=地主申出ベシ
右達に対し直接關係者として窯焼は、直に地主を出願するに決し、大川内より來れる川原茂輔の草案に成る願書、及上申書に調印せんとするの時多数の町民其集會所に押掛けりしを以て、一時之を中止し、其後調整して田代呈一、鶴田次平、徳見知愛等佐賀縣臓へ出頭したのである。

収税長との論議
 然るに中島収税長は、今町民不穏の際輕卒には許可し難し、先づ採掘權丈を請うて、それが窯焼の手中に在れば營業上毫も差支なからん、故に地主の希望は暫く措き、採掘願のみを提出する方可然との説をなすや、折から川原茂輔又來りて、収税長と大いに論談せしも、彼頑として自説を固持するのみであつた。
 知事を行政裁判所に訴ふ一方町民派に於いては右直第八七號の達は本縣知事が、有田町の既得権を侵害したる越權非法の處置なりと憤慨し、久富三保助が上京して、代言人宮城浩、同合川正道及法學博士岡村輝彥等の鑑定を乞ひしが、遼に合川正道を代言人として、行政裁判所の裁定を仰ぐことゝ成ったのである。

窯焼の採掘願書却下
 明治二十四年六月二十二日内外窯焼協議を遂げ、磁石採掘願を提出するに方り、先に内山窯焼深川常藏外三十六名は、有田町一般と盟約したる記名調印を取消す通知書を發して、而して後此願書を呈出したのである。そさは内山窯焼總代田代呈一、藤井寛藏、外山より新村助役勝屋玄九郎等携帯し、郡役所より廳へ出頭して其意を纏述し速に許可あらんことを請願した。
 之より先き町民派の渡邊源之助、久富三保助は郡役所及縣磨へ出頭し、若し此際採掘願書の許可を窯焼へ興へらるゝに於いては、有田全町民は鼎沸して、大騒動を起さん恐れありと警告した。それかあらぬか縣廳は、六月三十日附を以て、前記窯焼の願書は附箋を以て却下したのである。

陶業盟約に依り採掘處理
 明治二十四年七月二日荒木郡長は、知事よりの達しして左の如く通告した。
有田町字泉山山林ノ儀ニ付本年五月二日直第八七號ヲ以テ相置候處今地主不申出候此儘荏再差置候トキニ特有物産ナル陶器製造上消長=關スル儀ニ付陶業盟約ニョリ採掘處理スルヲ得ル旨被相候條此旨關係人民へ相達スペシ
本書を以て、賣人百田恒右工門に照合し、恒右エ門より窯焼集會所當へ請取證を差出し、又集所より肝煎中へ傳達すべく、石場勤番所へ通知したのである。

参事官保安課長等出張
 此達に封して、有田町民中には大いに苦情を唱へ、頗る不穏の形勢あるを以て、七月九日佐賀孫参事官山岸観、保安課長神代澤身、縣屬田中周榮、伊萬里警察署長松見安次郎、郡書記高須悌一郎等出張し、懇々説論を加へたるも、千餘の反對町民集合して、大いにデモンストレーションをなし、中には窯焼にして不穏の言を愛する者さへあつた。而して共反の要旨は、文中陶業盟約の解釈に異議ありなし、「陶業に開する」云々とは決して窯焼のみに止まる可からずとの主張であつた。

桂雲寺の立會論議
 明治二十四年七月十日前記出張官、及五町村長立會ひ、陶業盟約疑義解の論談會を桂雲寺に開き、内外窯焼と有田町會議員及び區長と人員を限りて列席者を定め、又防聽者をも双方より制限を加へて開會することゝ成つた。先つ陶業者なる者の意義に就いて、町會議員犬塚儀十より陶器商人も亦陶業者なりと論ずるや黒牟田の窯焼梶原友太郎大いに怒って叱咤反駁せしより、會場騒然たるに至りしを以て、會議体に改め、大川内村助役前田新左工門(後の懸會議員)を議長に推選したのである。
 而して窯燒側は、陶業盟約なるものは、最初より窯焼を主体として、制定されし規約なりと辯するに対し、町民派は商人も赤繪屋も職工も陶業に關係する限り、悉く是陶業者の範圍にありと抗論し、いつ迄も果しなきを以て、三日目なる十二日に至り、窯焼派は自説を宣言して退會し、そして別座集會の席に於て、四村長(二人は助役)の臨席を乞ひ、之迄三日間辯明せるも到底當なる探掘の方法を、處理する見込なきを以て、断然明日より窯焼自身其衝に當り採掘すべく決したり。依て若し妨害する者あれば警察の保護を乞ふ旨陳述したのである。
 之に封して神代保安課長(後佐賀郡長)は、騒擾を警戒するは本職の任務なり、司法権を妨害すあらば、仮借なく捕縛すべしと諾ひたるも、参事官其他一同頻りに其危険を憂へ、何とか外に名案を工夫すべして、宴に移るや、酒間保安課長と、田代町長との間に、議論を生するなど、遂に纏まるところがなかつたのである。

町民派よりの要求
 依つて之より渡邊源之助と松本庄之助を招き、懇々利害を説き、遂に數行の要求を出さしむる事となり、窯焼より深海竹治、藤井寛蔵、梶原友太郎を招き左記の要求數件を示して、盟約に據る一人の頭取を罷め、陶業者たる内外窯焼より、關係五町村長に、管理の任を委託することゝりて、此場は終局するに至つたのである。

有田町民派より要求の件
一石場肝煎及と定番出石取締之件
一水確營業者へ磁石差遺土粉買入之件
一陶器商人へ窯燒ヨリ陶器販賣之件
一職工使役之件
右従前ノ通り窯焼ニ於テ承諾セン以上ハ話帳簿並ニ備品一切返戻スルトノ事
茲に於いて内外山窯焼は、各五人の町村長へ、委托書を差入るゝことゝなり、五町村長は之を知事に申告して、新たに石場管理申合せ規定を作成したのである。

石場管理規定
 石場管理方法陶業盟約二準據スルハ勿論タリト雖モ其盟約中規定セザル臨時ノ事件又ハ盟約中實地施行シ難キモノアル時ハ双方町村長協議ノ上便宜決行スペキモノト
一町村長ニ於テ協議ヲ要スル事件ハ決シテ多數決等ノ方法ヲ用セス双方熟議承認ノ上決行スベシ若シ意見協ハザル等ノ場合ニ於テハ郡長ノ意見ヲ聞き諸事差支ヲ生ビザル様決定ス可キモノトス
一筈代ハ現時ノ價格以内ニ於テ其時ト必要トニ應シ適當ノ額ヲ定ムルモノトス
一肝煎其他役員ノ義現在ノ分ハ其儘据置給料ヲモ變更セザルモノトス
但不得止事故アルトキ此限ニアラズ
一筈代ハ之ヲ確實ナル銀行若クハ信用アル人へ預ヶ置き給料及必須ノ經費修繕費ヲ除キ他ハ一金タリトモ消費スル事ヲ得ズ
斯くて五町村長は、石場頭取を受任し、事務取扱ひに係る規定を、確定したるを以て、四村長は田代町長に對し、最初要求約束の通り、諸帳簿備品一切の返戻を促したるところ、町長は意外にも石場に開する帳簿なりと稱して、承諾しなかったのである。

行政裁判所の判決
 明治二十四年七月九日行政裁判所の判決
裁决書
佐賀縣西松浦郡有田町長
原告 田代健
東京府東京市日本橋區
村松町三十九番地平民
代言人 合川正道
右原告人田代健ヨリ被告佐賀縣知事樺山資雄二對スル土地引上取消請求之件ヲ訴狀ニ就キ審査スルニ有田皿山土地五町二反二畝六歩地租改正ノ砌り誤テ官有地ニ編人セラレタル處同地ハ原告ノ共有ニシテ民有ノ證左モ明瞭ナルニ依リ明治十三年四月共有總代岩松平吾ヨリ其訂正方ヲ長崎縣廳願出同縣ハ其ノ請ヒヲ容レテ地券ヲ下附セシモノナルニ被告知事ハ本年五月二日直第八七號ヲ以テ長崎懸ノ處分ヲ取消シ明治十三年當時ノ姿ニ引戻セシハ權利ヲ毀損シタル違法ノ處分ナルニ依り明治二十三年法律第百六號二基キ其ノ處分ノ取消ヲ要求スト云フニ在リト雖モ原告ヨリ提出シタル右直第八七號達書文中ニ願出ノ當時添付セシ證憑書類ニ基キ關係人民協議ノ上更ニ地主申出ベシトアリ則チ被告ハ其ノ地ヲ以テ官有地トナサントスルニ非ラズシテ相當ノ地主ヲ申出サシムルニ在レバ本件ハ官民有區分ノ査定ニ關スルモノニアラザルニ依リ明治十三年法律第百六號ニ據リテ出訴スルヲ得ル限リニアラズ
右ノ理由ナルヲ以テ行政法第二十七條ニ依り本伴ハ之レヲ却下ス
明治二十四年七月九日行政裁判所ニ裁決ス
行政裁判所長 男爵 植村正直
仝 評定官六名 仝書記

輪番中止
 而して新任頭取の管理は、何れも町村長の責任常務上、時々石場へ出勤するを得ざるを以て、毎月一日を以て集會定日なし、必要のある時は、委任者たる窯焼の需に應じ、開する契約であつた。故に盟約中にある如く、内外窯焼二名宛輪番する事を定め、八月八日頭取臨時會をめ輪番するや、多数の町民押寄せ來り、如何なる理由ありて輪番するや、又頭取は誰の委託により受任せしやなど、口々に打罵る幕なれば、遂に引上くることゝなり、輪番は當分中止するの止むなきに至ったのである。
 面して磁石渡し筈は、客年九月以來有田町役場にて取扱ひたる儘、尚依然町長の手にあるを以て、其不當を論じ、今後は窯焼事務所より、改正筈を刷立て賣することに決し、石場勤番所、及右筈賣捌委任者百田恒右工門に通知したのである。然るに石場勤番所よりは、八月十一日其議に付、未だ決議相成居不申により、何れそれ迄は、従前の通り取扱可申とのことであつた。
 斯くて打綴ける不景気に、窯焼は目下營業困難を極むるも、燃料や工賃は依然として、製品價格と不擢衡なるより、せめて此損失を償ふべき一手段として、石場に係る諸雑費を減じ、地土代を廉ならしむるべく、筈代其他の値下を伏せしも田代町長は言を左右に託して、頭取會議に一致せしめず、依然筈代の發賣を取扱ひ敵の糧を占領して、戦陣を張るの軍法にしては、窯焼派も策の出づ可き様がなかつたのである。
 筈代取扱實行につき、八月二十二日郡書記小林武男出張し來りしも、新筈發行に至る能はず、窯焼は無念に堪へず、不平を縣吏に訴ふれば、結局此處に至らしめし過失は、窯焼にありとなし、却つて其不甲斐なさを責めらるゝのみであつた。
 明治二十四年八月三十一日窯焼總代川浪俊入外四名より、石場頭取宛に、新筈發行の事、及び先きに議決の採掘料實施の件につき、願書を差出しるに對し、肝煎青木民藏其外より、逆に探掘料値上願書を提出するに至り、問題は彌々紛糾を重ぬるのみであった。

常光寺の仲裁會
 明治二十四年九月五日西松浦郡長福島輝世は、伊萬里町々長石丸源左エ門、大坪村々長前田虎之助、二里村々長藤山徳太郎(雷太の長兄)、西山代村々長田尻武七、南波多村々長向爲等と相談して、石場事件仲裁の方針を建て双方を伊萬里町に招じ、常光寺に於いて協議會を開くに至り、まづ福島郡長より、其方針につき、意中を披瀝するや、田代町長は忽ち憤然として退場せしより、遂に此勢も水泡に歸するに至つた。此際出席せしは町民派より渡邊源之助、松本庄之助、辻利吉にて、窯焼派よりは田代呈一、藤井寛藏、松本倉助、岩尾虎一であつた。

出石料値上
 明治二十四年十月八日石場方は、内外窯焼とは何等の交渉なく、左の出石代價表を作り、即日より実施する旨、窯焼へ通知したのである。(五百斤値)
等級 筈代 採掘料 合計出石料
上藥 六錢八厘 貳拾九錢貳厘 參拾六錢
る。
一等 五錢六厘 拾四錢 拾九錢六厘
二等 參錢八厘 拾四錢 拾七錢八厘
三等 參錢 拾參錢五厘 拾六錢五厘
三平 參錢 拾錢 拾參錢
堺目修繕 參錢八厘 拾參錢貳厘 拾七錢
上藥修繕 參錢 拾壹錢八厘 拾四錢八厘

明治二十四年十一月一日の石場臨時會は、管理者中故障ありて、獨り新村の勝屋助役のみ出席せしも、開會に至らず、彼は退場して棚外に出るや、多數の町民押寄せ來りて復席を請求し、そして各村長の管理解任を逼りしを以て、助役は、吾等は內外窯燒より、委託を受けて就任せるを以て、それ以外の者より、解任さる理由なしと拒絶せしに、彼等は今後は絶對に解任すると言捨て退去しそして石場委員の名を以て、更に四ヶ村長に解任書を送りたるも、何れも受附けなかつたのであ。

出石料再度の値上
 明治二十四年一月二日石場方は、又々出石代の値上を強行し、上薬石を參拾八錢五厘、一等石を貳拾銭八厘、二等石を貳拾錢三等石を拾七錢七厘、三平石を拾四錢に改正の通知を發した。而して實權を把握しつゝある、肝煎に對しては、當時の場合如何ともする能はず、窯燒は徒に切扼腕するのみであつた。
 明治二十四年十一月田代町長は、先きに手續上の疎漏にて、佐賀地方裁判所より却下されしが、町の決議を経て、大塚仁一を代言人をなし、再び同裁判所へ訴訟を提起したるを以て、樺山知事は米倉經夫を代言人として、辯論することゝ成つた。然るに仁一は本件の事情に通せざる處ありて頗る隔靴掻痒の恨あるに依り、中途にて補佐人久富三保助出廷して、大いに討論せしが、判決の結果は左の如くであつた。
地方裁判所の判決
佐賀縣肥前國西松浦郡有田町長
原告 田代健
佐賀縣知事
被告 樺山資雄
右 被告代言人 米倉經夫
右當事者間ノ處分取消請求事件ニ付當地方裁判所ハ檢事秋田政徳立合判決スルコ左ノ如シ
訴訟費用ハ原告人之レヲ負擔ス可シ
事實
原告ノ被告ニ對シ被告ガ明治二十四年五月二日佐賀縣直第八拾七號ヲ以テ爲シタル處分並ニ明治二十四年七月二日西松浦郡長ヲ經テ達シタル西松浦郡勸第十六號ヲ以テ爲シタル處分ヲ取消サンコヲ請求スル者ニシテ其理由ナリトスルトコロハ第一佐賀縣西松浦郡有田皿山三百八十番字境松山林五町二反二十一歩ハ地租改正ノ際改正總代ニ於テ誤テ民有地タルベキ申立爲サリシ爲メ一時官有地二編入セラレタリシガ元來該地所ハ原告有田町ノ共有二属スペキ物ニシテ明治十三年四月中當時ノ所轄長崎縣訂正ノ儀出願甲第一號證ノ如ク地券ノ下附ヲ受ケ爾來原告有田町ハ純然タル該地所ノ所有主トナリ納税ノ義務ヲ負擔シ來リシトコロ被告ハ明治二十四年五月二至り突然甲第二號證ノ通り佐賀縣直第八十七號ノ達交ヲ以テ囊ニ長崎縣廳ガ爲シタル訂正處分ヲ取消シ更ニ關係人民協議ノ上地主申出ベシトテ處分ヲ爲シ土地臺帳ニ於テ該地所ノ地主未定爲シタリ是レ即チ被告ガ漫ニ行政處分ヲ以テ該地所ニ於ケル所有權ノ所在ヲ判定セントシタルモノニシテ原告ガ該地所ニ於ケル既得所有權ヲ侵シタルモノナリ依テ被告が爲シタル甲第二號證ノ處分ヲ正當ナルモノトスルモ該地所ノ地主未定トナリタル今日ニ於テハ現實ノ占有權ヲ有スルモノハ原告町ナルヲ以テ該山林ニ於ケル占有者タル利益ハ獨り原告於テ之レヲ享有シ得ベキモノナルニ被告ハ甲第三號證ノ通り西松浦郡長ヲシテ達ヲ爲サシメ現ニ該地所ハ所有主ニモアラズ又占有者ニモアラザル無關係ナル陶業者一般ニ該地所ニ於ケル唯一物産タル陶土ノ採掘處理ヲ許シ從ッテ原告町ガ該地所ニ就テ從來有シタル陶土採掘上ノ收益ヲ奪ヒタル是又行政處分ヲ以テ原告ノ既得権ヲ侵シタル越權不法ノ處分ヲ爲シタルモノナリ依テ被告ガ西松浦郡長ヲシテ爲サシメタル甲第二號證ノ處分ヲ取消サンコトヲ請求スルコト是ナリ又被告答要旨ハ本訴地所ニ就キ長崎縣ガ甲第一號證ノ地券ヲ下附シタルコトニ及ビ被告ガ甲第二三號證ノ達ヲ爲シ若シクハ爲サシメタルハ事質ナリトス然レトモ被告ガ甲第二號證ノ達ヲ爲シタル明治二十三年十一月中西松浦郡新村外三ヶ村ヨリ乙第五號證ノ通り土地臺帳記名誤謬ニ付願ト題シ乙第一二六號證ヲ副へ出願シ來リシニ付乙第一號乃至乙第六號證其他ノ書類ニ就テ本訴地所ニ關スル事ヲ調査シタルトコロ囊ニ長崎縣廳ガ乙第一號證ニ於ケル地所名稱更正願ヲ受理シ甲第一號證ノ地券ヲ下附シタルハ到底誤謬ノ處分タルヲ免レザルコトヲ發見シ而シチ此誤謬ヲ取消スハ被告ノ當ニ爲スベキ事タルヲ以テ甲第二號證ノ達ヲ爲シ長崎處廳ノ處分ヲ取消シタルモノニシテ敢テ原告ガ従來該地所ニ付正當ニ有スベキ権利ヲ侵害シタルモノニアラス唯長崎縣廳ノ相緻者タル被告が職權上正ニ爲シ得ベキコトヲ爲シタルニ過ギザルナリ又甲第六號證ノ達ヲ西松浦郡長ニ爲サシメタルハ被告ガ甲第二號證ノ處分ヲ爲シタル結果トシテ陶業者等ニ恐慌ヲ來シ陶業消長ニ關係スルアランコトヲ慮り古來ノ慣例ニ依り陶業者ノ規約二基キ平和ニ陶土ノ採掘處理ヲ爲シ安心其業ニ従事スルコトヲ得ル旨達シタル迄ニシテ是又被告ガ職務上當ニ爲スベキコトヲ爲シタルニ過ギズ依テ原告ノ請求ニ應ズベキ限リニアラズト云フニ在リ
理由
行政官ガ其職權ヲ以テ爲シタル處分ニ付後日其誤謬ヲ發見シタルトキハ其處分ニ關スル職權ノ消滅シ居ラザル限りハ後其ノ職權ヲ以テ其誤謬ナリトスル前ニ爲シャル處分ヲ取消スコトヲ得ルハ論ヲ俟タズ而シテ被告長崎縣廳ノ継承者タルコトハ明白ナル事實ナルヲ以テ長崎除廳ガ嘗テ爲シタル行政處分ノ誤謬タルコトヲ發見シタルト同一ノ職權ヲ以テ之レヲ取消スコトヲ得ルハ是亦論ヲ俟タズトス蓋シ長崎縣廳ニシテ乙第一號證ノ更正願ヲ受理シタルノ時之レニ對シ甲第一號證地券下附失當タリシコトヲ知ラパ必ス之レヲ下附セザリシナルベシ之レヲ下附シタル後其處分ノ誤謬タリシコトヲ發見シタラソニ叉必ス之レヲ取消シタルナルベシ然ラパ則チ被告ガ長崎懸廳ノ處分誤謬タルコトヲ發見シ直ニ之レヲ取消シタレバ迚其年月ノ差違コソアレ其職權ヲ以テ之レヲ爲シ得ルコトハ同一ナリト謂ハザルベカラス此點ニ關シ原告ハ既二一旦長崎縣ガ爲シタル處分ハ司法裁判ノ結果ニ依ルニアラザレバ確定動カスベカラザルモノニシテ被告ハ之レヲ取消シ得ベキ職權ヲ有セズト主張スルト雖モ土地ノ官民有編入訂正願ニ對シ事實ヲ調査シ相當ノ處分ヲ爲スノ職權ハ長崎縣ガ乙第一號證ノ更正願ニ對シ處分シタル當時ト同シク府縣知事が現ニ有スル職權ノーニシテ知事ヲシテ此職権ヲ有セザラシメザル法律規則ハ未ダ之レアルコトヲ見ズ知事ニシテ既ニ官民有誤謬訂正願ニ對シ相當ノ處分ヲ爲スノ職權アリトセバ共職權ヲ以テ長崎懸廳ガ嘗テ乙第一號證ノ願二對シ爲シタル處分ヲ誤謬ナリトシ被告ニ於テ甲第二號證ノ通り之レヲ取消シタルハ之ヲ不法越權ナリトスルヲ得ズ是故ニ原告ハ本訴ノ地所ニ付甲第一號証ニ依リ即ニ動カスベカラザル權利ヲ得ルモノナルヤ否ヤ又被告ガ爲シタル甲第二號證ノ處分ニ依り原告が本訴ノ地所ニ付従來有シタル既得権ニ異動ヲ生スベキヤ否や姑ク措キ要スルニ行政官ガ其職權上爲シ得ベキコトヲ爲シタル處分ヲ非難シ其取消ヲ訟求スルハ不當ナリトス又原告ハ被告ガ爲サシメタル甲第三號證ノ達ヲ以テ越權不法ナリト主張スルト雖モ甲第三號證が本訴地所ニ於ケル陶土採掘ノ舊慣ヲ變スルノ意思ニ出タルニアラスシテ單ニ甲第二號證ノ結果ニ依り陶業者等ニ恐慌ヲ來タシ從テ縣下一ノ特有物産タル陶器製造業ニ消長ヲ來サンコトノ慮アリ陶業者ヲシテ安心其業ニ就カシムルガ爲ニナシタル行政官ノ老婆心ニ出夕ルモノタルコト被告 主張スルトコロニシテ實際上陶土採掘ニ關スル舊慣ヲ變スルノ結果ニ生シタルニアラザルコトハ原告ノ自認スルトコロニアラズヤ既ニ然ラバ甲第三號證ノ達モ亦原告ニ於テ取消ノ請求ヲ主張スペキ理由アルコトナン原告ハ此點ニ付き原告ガ陶土採掘ヨリ生スル收益ヲ失セタリト主張スト雖モ這ハ是甲第二號證ノ處分結果ニシテ而シテ甲第二號證ノ處分ハ行政官ガ職權内ニ於テ正當ニ為シ得ベキコトヲ爲シタルモノナルコトハ前述スル如クナルヲ以テ之ガ爲メ原告ニ於テ多少不利益ヲ受ケタルモ未ダ俄ニ原告ト被告トノ人間ニ或ハ行爲ヲ爲サシメザル人権ノ生ジ得ベキモノニアラズ况ンヤ本訴地所ニ於ケル探掘上ノ収益ノ如キハ甲第三號證ニ於テ盡ク之ヲ陶業者ニ興ヘタリトノ廉ノ見ルヘキモノナク其之レヲ採掘處理スルニ於テモ亦陶業規約二攸ルベシトノ條件アル以上ハ原告ニ於テ若シ本訴地所ノ占有者トシテ其收益上ニ於ケル權利ヲ主張スベキ者ニアラズ况ンヤ他二之ヲ主張スルノ途ナキニアラザルベキニ於テオヤ是ヲ以テ當地方裁判所ハ原告ノ訴ヲ不當ナリトシ却下シタルモノトス
佐賀地方裁判所民事部
判事長 判事 遠山正綱 判事 楠本 東一 判事 神崎東蔵
原本ニ依リ此正本ヲ作ルモノナリ
明治二十四年十一月二十八日 書記 鍋島房澄
 明治二十四年十二月有田町民派は、前記佐賀地方裁判所の判決を不當なりとなし、丸毛兼通を代言人として、又々長崎控訴院へ上告したのである。

臨時博覧會評議
 明治二十四年十二月十五日より、農商務省臨時博覽會(米國市俄古)評議につき、深海竹治は評議員に推選され、名古屋の瀧藤萬次郎等と共に、東京上野の同臨時事務所に参會した。此時の總裁は農商務大臣陸奥宗光にて、副總裁は九鬼隆一、事務官山高信雄、柳谷謙太郎であつた。

有栖川威仁親王殿下御成
 明治二十四年十二月三十日露國皇太子殿下御來朝に封し、御出迎の爲め長崎市へ御下向の有栖川宮威仁親王殿下には、御歸途香蘭社へ御臨場相成り、工場及石場御見物の上、御歸京遊ばされしが、其際香蘭社へ銀盃一個を下賜されたのである。

露國皇太子殿下に召さる
 そして此際社長深川榮左工門は、露國皇太子殿下へ大花瓶一個を献上せしところ、大いに嘉賞せられ、御乗艦内へ榮左工門を召されて、親しく優諚を賜ひ、なほ亦金剛石入指環一個を下賜されたのである。

ワゲネル再び來朝
 明治二十五年一月ドクトル・ワゲネルは、ゼーゲル式の三角錐(焼陶の熟度計)及粘土の耐火度を檢するデウイルレーの焼爐等を携へて、再び東京へ來朝した。蓋し彼は去二十三年九月一日、一旦鄉里獨逸へ歸國せしが、具さに欧州の陶業を視察して、日本の斯業に資する所あるべく再び來朝し、そしてゼーゲル等の使用を普及した。今やパイロメーター(高熟度計)の如きが使用されゐるも、當時に於ける前記の諸器械は特に珍重されたのである。

江越禮太卒す
 明治二十五年一月三十一日江越禮太道容が、長崎市丸山の假寓に卒去した、行年六十六歳であつた。彼は去る二十四年十月二十一日、有田小學校長及勉脩學舍長の職を辭して、長崎へ去るや、有田町は彼が盡瘁せし功績に報ゆるに、生涯年金貳百圓を贈ることゝしたのである。
 斯くて遺骸は、上白川の墓地に葬りしが、尚後年有志及門下生等は、陶山社境内に共頌徳碑を建設した。
 由来有田の地、陶業發展に就いての貢献者決して乏しからず。然れども禮太の如き、晩年他郷よ移住し來り、己れ其斯業者にもあらず、従つて何等利得の目的もなく、家産を投じて實業學校の設立に盡瘁し、現今の縣立工業學校たる基礎を築きたるは、我が陶山の恩人として、忘る可からざるところ、宜なる哉共誠徳を追慕せる町民子弟は大正三年より共忌日をし(大正六年より四月十五日と定む)毎年其碑前に於いて、町祭の式を執行することゝしたのである。

石灰釉の普及
 明治二十五年石灰釉薬普及さるに至った、之より先ワゲネルの首唱に基づきて既に梶原幸七、深海竹治等の試みし者ありしも、未だ一般に用ふるに至らざりしが、目下の行き詰り打開に腐心せる城島岩太郎は、愛知、岐阜兩縣の陶業観察中、名古屋の松村八次郎に就いて、深く其得失を質し、従來の灰釉法に比して頗る簡易にて、且經濟的なることを會得せしかば、歸山後獪質地施用につき、再三試験の結果、彌々其良好なるを認め、之を一般同業者に傅習するに及び是より日用品の施釉には、皆此石灰を使用するに至ったのである。

協立銀行創立
 明治二十五年三月新村外尾宿に於いて資本金貳萬圓の協立銀行が創立され、前田儀右工門が其頭取であつた。而して専務取締としての功労者に、黒牟田の盆田權平があり、次に桑古場の正司久和一があつた。後年資本金拾萬圓となり、逐次五拾萬圓に増額し、昭和四年二月一日有田銀行と合併して、其支店と成ったのである。
 明治二十五年四月二日中野原幸恩の久富龍圓卒去した、行年七十二歳であつた。彼は與兵衛昌常の五男にて、前名倉助と稱し始め大神の手塚氏を嗣ぎしが、幾許もなく本姓に復歸し、龍右工門と稱せしも後又龍圓と改めたのである。貿易商として斯業に貢献せしこ少からず、又俳諧を好んで五明と蹴した。

控訴院の判決
 明治二十五年四月六日先きに長崎控訴院に上告せし、石場事件の判決左の如くであつた。
判決正本
佐賀縣西松浦郡有田町長 控訴人 田代健
佐賀縣知事 被控訴人 樺山資雄
長崎市興善町四十一番戶寄留
熊本縣士族代言人

訴訟代理人 則元由庸
右當事者間明治二十四年民第一八八號處分取消ノ請求控訴事件檢事林誠一立會ノ上審理ケ遂ケ判決スルコト左ノ如シ
事實
控訴人ハ原判決ヲ不當ナリシト被控訴人ノ爲シタル直第八七號達達シ第一六號及ヒ土地臺帳ヲ變更シテ地主未定ト爲シタル處分ノ取消ヲ求メ被控訴人原判決ヲ至當ナリトシ各原判決書二記載スル所ノ事實ト同一ノ申立爲シタリ
理由
控訴人ハ直第八七號達ヲ不法ナリント一旦控訴町ニ得タル所有権ハ司法裁判結果ニ由ルニ非ラザレバ其交詞二見ユル如ク明治十三年長崎縣廳力爲シタル錯誤ノ處分ヲ取消シタルニ過ギズシテ新タニ各自ノ所有權ヲ判定セシ者=非ラス而シテ地所名稱更正願ニ對シ事實ヲ調査シ之レヲ許スル縣知事ノ職權内ナレバ随テ其處分ニ錯誤アルコトヲ後日發見シ之ヲ更正スル爲メ該處分取消シタルトテ敢テ不法越權之所爲ニ非ズ又土地臺帳ヲ變更シテ地主ヲ未定ト爲シタルノ如キ右誤謬處分取消ニ附隨スル自然ノ結果ナレバ是又越權ノ所爲ナリトナスヲ得ズ又控訴人ハ甲五號證物達第一六號ハ控訴町ノ占有權ヲ毀損シタルモノナリト主張スルモ該達ハ畢竟陶業者ニ疑惑ヲ生シ業務ニ躊躇セン事ヲ慮リ之ヲ安心セシムル爲メ地主確定迄テ會テ認可ヲ請ケタル陶業盟約ニ依り従前ノ通り陶土ノ採掘ヲ爲シ得ル旨ヲ論述シタルニ過ギズシテ陶土採掘上ノ舊慣ヲ變シタル者ニ非ザレハ控訴町權利ヲ毀損スベキ理由ナシ要スルニ佐賀地方裁判所ガ言渡シタル第一審裁判ハ事實相當ニシテ本控理由ナシトス控訴費用ハ民事訴訟法第七十二條ニ依り控訴人ニ負擔セシムルヲ相當トス
長崎控訴院民事部 裁判長 人見恒民
判事 宇都宮英信
仝 兒玉武寛
仝 竹中 知敬
仝 田上省三
原本依り此正本ヲ作ルモノ也
明治二十五年四月八日
長崎控訴院 書記 石原逸太郎

再度地主願の返却
 明治二十五年六月二十日樺山知事より、石地主の儀來る二十六日限り申出づべしとの達しにより、内外窯焼協議の上、先きの願書を改めて調印を整へ、各町村長の加印を副へて呈出した。それは前田大川内村長を始め、有田町助役南里平一、新村助役勝屋玄九郎、曲川村助役關和一郎、大山村助役廣川柳平等にて、別に石場地主追願として各村代の連名せしは、外尾山青木甚一郎、橋口節之助、黒牟田山益田權平、684福島虎一應法山原田和吉、南川原山酒井田柿右工門、廣瀬山副島重助、田崎源七、一ノ瀬山宮崎龍藏、大川内山川原武七等であつた。
 前記の願書は福島郡長の加印を添へ、久保國太郎、藤井寛藏、徳見知敬等に持參せしところ中島收長は本願書は直に正當の熟議を避けしものとは、認め難して却下した。依って國太郎等は、然る上は、地主は内外皿山と認めらるゝやさ問ひ返せば、否それは未だ確定せしにあらず、吾々は唯其納税を得れば足れりとして、遂に要領を得さしめず、そして七月一日願書は、郡長よ五町村長へ返却し、左の通り通告したのであつた。
泉山磁石場地主之義ニ付願書提出之處右ハ關係人民協議之上申出ベキ筈ニシテ窯焼ノミニテ出願スベキ事件ニ無之候條願書及返却候也

納税義務者の達
 明治二十五年七月一日樺山知事の達し左の如くなることを、郡長より示達した。
西松浦郡有田町三百八十番字境松山林反別五町二反二畝六歩ニ對スル納税義務者ハ同郡元内外皿山稱スル有田町、新村ノ内外尾、黒牟田應法、曲川村ノ内南川原、大山村ノ内廣瀬、大川内村内大川内、一ノ瀬ノ一町七字トス右關係町村へ其旨示達スペシ
 明治二十五年九月十五日窯燒一同より、町村長の石場頭取委托を解任することゝなった。斯くて有田町は、二十五年度も亦、引続き歳入追加豫算案に石場收入六百圓を計上し、そして山林訴訟費にも参百圓を支出したのである。

鹿江秀敏の石場頭取
 明治二十五年十月一日內外山窯焼は、元有田分署長警部たりし、佐賀郡北川副村の鹿江秀敏を、石場頭取に選任した。

松村辰昌の仲裁
 新任佐賀縣知事永峰彌吉は、大いに此事件を憂慮し、幸ひ有田の郷人松村辰昌は、舊友る關係あるを以て此解決の方法を相談せころ、辰昌は早速東京より馳せ下りて、仲裁を試みたのである。此時は鹿江秀敏頭取として既に石場に乘込みしより、町民一派の人心又々不穏を誘發せしかば、若し輕擧の事あらんには窯焼に於いても彌々防禦の覺悟中、辰昌大いに其利害を説きて、一應頭取及大勢の窯焼を石場より引上げさせたのである。
 明治二十五年十月十四日百餘の町民は、磁業會事務所に押寄せ來り、鹿江頭取に對して種々の質問を發せしが、或は石場事務所に集りて大いに酒宴を張り、又は戶別に町民を招集し、若し應せざる者は、過怠金を課すといふ觸廻しであつた。而して之等の費用は凡て石場の収入を以て支辨さるゝも、窯焼は如何んともすることが出來なかつた。
 而して鹿江秀敏が、頭取就任の儀につき、町民派は南里助役をして、郡役所へ故障を申立てたるを以て、一面窯焼よりの届出に對し、十月十九日附を以て、第二科長より受理難相成旨にて、届書を返却せしかば、町民派は萬歳を唱へたのである。

田邊知事の赴任
 之より松村辰昌は種々和解に奔走せしもに解決せず、永峰知事は彼を西松浦郡長たらしめて、圓満なる方法を畫策せしむべく、先づ以て本懸勤業課長に任用せしが、永峰知事卒かに死去し、翌年一月田邊輝實佐賀縣知事として赴任したのである。

ワゲネル卒す
 明治二十五年十一月八日 ドクトル・ワゲネル、東京市神田區駿河臺鈴木町の寓居に卒去した、行年六十一歳であつた。彼先きに大南校の教授を避するや、京都醫學校の教師となり、傍ら舍密局(化學研究所)にて、美術工藝上にすところ少なからず。明治十四年再び東京に歸りて、大學の化學教授を擔當し、同十六年教務の餘暇を以て、植田豊橋(後工學博士)を助手として、江戸川に旭燒を創始し、農商務省より千五百圓を下賜されたのである。
 而して明治十七年藏前の東京職工學校(高等工業學校の前身)に教師となり、同十八年農商務省技師を兼ねしが、同二十三年リウマチスにて休職し、保養の爲一旦歸國したのである。同二十五年彼は歐州の新智識や、有益なる標本を買入れて再び來朝せしが、其蔵の九月より心臓病を併發して途に卒去したのである。畏くも陛下には其功勞を追賞し給ひ、特に勳三等旭日章を下賜されたのである。
 實に彼れワゲネルは、本邦固有の文化事業を、一般外人に披露して、東洋日本の何物なるかを悟得せしめし第一人者なりしのみならず、我が特色ある工業美術を、科學的技巧に抱合せしめて、將來各國の間に對峙せしめんとの、抱負の持主であり、そして又それを努力し呉れた大いなる恩人であつた。

後年の前川焼
 明治二十五年十一月二里村江湖の辻なる伊萬里銀行員前川善一は、大川内より工人を招き、自邸に築窯して前川焼を創製した。善一は囊に前川焼の名に於いて名陶を販賣せし、五代善三郎の後裔にて、九代善太夫の長男である。製するところの食器、及茶器頗る優雅にて、就中隣家明善寺住職の舎弟なる、神林實城(支山と號す)の描ける物に逸品があり、そして製品には角前の銘がある。同二十八年に至り廢窯し、此窯具伊萬里町の上田米蔵が買取つて椎の峯に運び、彼地に於いて始て白磁を製造せしものであつた。

百武兼貞卒す
 明治二十五年十二月十一日鍵に有田代官より郡合たりし百武作十秉貞(始作右工門)卒去した行年七十三歳であつた。彼は皿山名代官たりし成松萬兵衛信久の三男にて、文政四年有田に於いて生れ、出でて百武家を継ぐに至つた。百武家も亦龍造寺四傑の一人百武志摩守賢兼の後齋である。
 兼貞會て京都留守居役を勤務するや、當時の國士と相語り、殊に薩藩の家老小松清廉(帶刀)と親交した。後佐嘉郡川副代官となり、次に皿山代官として赴任したのである。(男安太郎兼行は伊太利公使館書記官たりしが、徐技として我邦初期の洋書を完成し、中には國賓として蔵せられしものがあり、後農商務省商務局長であつた。今の歩兵大佐兼文、同大尉俊吉は共孫である。)

山林事件落着
 明治二十六年一月(1893年)係争数年に涉りし山林事件は、途に田代呈一の勝訴に歸した。理由は元來此地の山林拂下げなるものは、舊藩治の御山方時代より、窯焼のみの名義を以て執行せし歴史を有し、赤綸屋は御用窯の外、直接手續せし前例なし、なほ又西山孝藏は赤繪屋としての代表者にあらで、地元有志として出願人の名前を出せしのみである。明治十二年以來官省も亦、其主意に於いて拂下げしものにて、赤繪屋や町民よりの精算報告要求に對しては、敢て其義務を認めずといふのであつた。

深川忠次郎市俄古へ渡米
 明治二十六年二月二十六日深川榮左工門舎弟忠次は、米國市俄古に開催せる世界大博覧會へ、其製品を齎らして出發したのである。

北白川能久親王殿下御成
 明治二十六年三月三日北白川宮能久親王殿下、泉山石場へ御成の後香蘭社へ御立寄遊ばされ、親しく製陶工場を御参觀あらせられたのである。

渡邊源之助町長となる
 明治二十六年四月十五日上幸平の渡邊源之助が有田町長に就職した。
彼は大樽の古酒場川原善之助の三男である。

平林伊平卒す
 明治二十六年七月三日平林伊平忠卒去した、行年五十三歳であった。彼は大樽の窯焼三代鐵左工門の長男にて、前名鹿吉又伊兵衛と稀し、年少十七歳にして家督を継ぎ、爾來長者の間に交つて、大いに新知識を輸入した。氣宇廣量果斷に富み、才略衆に秀でし當代のインテリであつた。明治の初年横濱に支店を開設し、或は洋食器を製作する等、斯業に貢献せしこと少くなかつたのである。

石場事件の倦憊
 明治二十六年石場係争事件も既に五ヶ年の久しきに亘り、其間互に萬般の施設を放擲し、全町を繋げてたわいなき爭闘に没頭する状態にて、益々斯業の進歩を阻害し、なほ此上に無理解者の血気に逸りて、動もすれば不測の禍害を起さん憂あるを以て、両派ともある者は斯業の前途全山の安寧を深慮して、和平を希ふ念漸く起りつゝあつた。

高須郡長の解決
 此時本年五月西松浦郡長に赴任せし高須は、熱心に和解を勤め、一月新任せし知事田邊輝實と協議するところありしが、遂に兩派とも断然無條件にて郡長へ一任すること成つた。而して此和解の方針も要するに舊來の歴史を尊重し、陶業盟約に基づきて、處理されたのである。
 則ち石場は内外皿山の共有となし、持分權利を有田町十區、新村三區、曲川村一區、大山村一區大川内村二區合計十七區に別ちて一町四ヶ村の組合を組織し。其組合議員數を有田町十人、新村五人、曲川村一人、大山村二人、大川内村二人合計二十人とし、そして管理者を有田町長と定め、別に實際の事務を処理する頭取を、事務長と改称して、窯燒より之に任じ、肝煎は管理者の推薦に依つて、定むること成った。實に此解決は今より四十三年前の事柄である。

神戸の肥前問屋
 明治二十六年深川榮左衛門、藤井喜代作等主張者となり、有田焼輸出一手問屋神戸に設置することゝなし、馬渡俊朗と富村富一街に當りて、之を肥前屋さ稀し、神戸よりの輸出陶器は向後七ヶ年間、決して此問屋の外に委せざることを結約した。此組織に就いては、田代呈一、藤井寛臓等之を斡旋せしが、三ヶ年にし任意解散するに至ったのである。

辻重之助の唐石製造
 明治二十六年赤繪町の辻重之助は、赤釉附顔料の熔和劑なる唐石製作に成功した。該品は之まで筑後若津の倉橋嘉助製造し此地方へぎつゝありしが、之より漸々重之助製の唐石を使用するに至った。

松尾徳助の石炭素焼
 明治二十六年岩谷川内の窯焼松尾徳助は、石炭を燃料としての素焼の焼成に成功した。彼は去二十二年頃、始て之を試みしところ、煤煙浸色して、彩畫は勿論、施釉さへ不可能であつた。同業者は餘りに其無謀なるに驚き中には切に諌止する者ありしも、彼は頑として素志を翻へさず、失敗を反復すること十数回、一時は家産を蕩盡せしが、不屈遂に其目的を達したのである。

渡邊源之助卒す
 明治二十六年九月五日有田町長たりし渡邊源之助裕卒去した。行年五十二歳であつた。彼は川原善之助清の三男なるも、同家の郷里杵島郡芦原の渡邊家を嗣ぎ、同地に於いて酒造業をした。資性剛毅當時明達の士として、明治十一年杵島郡より推されて長崎縣會議員に當選した。後有田上幸平に移轉して、同業を営みつ傍ら公事に盡すさころ少なくなかった。
 明治二十六年十一月十二日應法の久保園太郎卒去した。行年五十七歳であった。彼は先代末吉の長男にて、性俊明且つ達識あり、當時外山窯焼中の重鎮として、斯業界の功績者であつた。
 明治二十六年十二月五日片岡侍從香蘭社に來社し、工場及製品を視察した。
 明治二十七年六月二十八日有田町外四ヶ村磁石場組合設置許可され、渡邊町長卒去後なるを以て町長代理として、助役南里平一之を管理すること成った。

入札販賣の創始
 明治二十七年(1894年)有田窯焼は、従來資本主の地位にある商人との個人取引より脱して、純然たる獨立の有田磁器合會社を設立し、自ら共經營者となり、取引上相互間の便宜を計る為、同業者の製品見本を一堂に集めて、毎月二回の入札版をなし、商工間の金融機闘を棄て、大いに成績を擧ぐるに至つた。而して翌二十八年に至つて登記をせしが、此磁器合資會社と、入札販賣は其後彌々發展するに至り、就中商人は、二ヶ月支拂延期の資金運轉に便宜を得、窯焼も亦原料及燃料代等を該社より前借して融通し得ることであつた。斯くて製品を選別して入札に附し、其百分中九十五%を窯焼の所得とし残り五%を會社の利得に納入せるを以て、窯入の焼成頻繁なるだけ、會社も利益を得ることは勿論である。

長九郎の天草焼
 明治二十七年泉山の窯焼なりし深海長九郎は、天草石の原産地小田床に於て、製陶業を起し、染附の火入を製作して、本幸平の陶商川島祐一(大一の父)之を伊萬里市場に販賣しつゝあつた。然るに三十一年三月長九郎死去せしに困り、廢絶されたのである。

有田徒弟學校
 明治二十八年十月一日有田徒弟學校の開校式が舉行された。これ嚮に江越禮太の主唱に成れる勉脩學舎さ稱せしを、一般實業教育の普及に伴ひ、有田町、新村、曲川村、大山村、大川内村一町四ヶ村の組合設立となし、共維持費は、石場より生する純益金を基本となし、縣費及國庫の補助を仰いで、茲に徒弟學校と改むるに至つた。そして此時より石場事件の敵對心理が、双方共に融和をしたのである。

川崎千虎 山寺容麿
 徒弟學校は、岐阜の川崎千虎を校長に聘し、そして理化學教師には梅田音五郎、繪書教師には安藤時藏、實技教師に深海竹治、及び白川の江口米助が捻細工を、上幸平の檀崎武吉が轆轤細工の實習に當り、之に製陶上必須の學科を授け、分科は製杯と陶書の二科目であつた。其後千虎辭任せしより、工學士山寺容麿(應用化學家にててワゲネルの東京職工學校在任中の助手であつた)が任せられた。

小松宮妃殿下御成
 明治二十八年小松宮妃殿下には、佐世保海軍病院内に收容の日清役傷病兵御慰問の爲め御來保の御歸路、香蘭社へ御宿泊の上親しく工場を台覧延ばされたのである。

伊萬里窯の創始
 明治二十九年二月六日伊萬里郊外大坪村の金星登に初火入を舉行した。本年に至り日清戦役後の人氣稍引立てる氣配あるを以て伊萬里町川端の本岡佐吉(二代本佐にて前名祐太郎)等は、志田西山の窯焼江口有三を招きて支配せしめ、茲に始めて伊萬里の地に於いて磁器製造工場を建設したのである。(尤此以前に江湖の辻に前川焼あるも期間極て短かゝりし)然るに支相償はざりしを以て、共後社組織となして再興し、伊萬里町々費より一千圓の補助を受けたのである。

大隈重信來る
 明治二十九年三月二十四日伯爵大隈重信來つて泉山の磁石場を視察し、大いに有田焼の發展を激して香蘭社へ一泊した。
 明治二十九年三月三十日基肄、養父、三根三郡を合併して、三養基郡と改稱し、従來佐賀縣管轄の十郡は愛に八郡と成ったのである。

南里平一町長となる
 明治二十九年四月十五日白川の南里平一有田町長に就職した。彼は名陶家二代嘉十の養子にて、實は宗傳傍系の窯焼深海元右工門の次男である。

有田品評會の創始
 明治二十九年(1896年)深川榮左工門は、自費を投じて、西松浦郡同業者の製品々評會を、桂雲寺に於いて開会せしめた。之が爾後毎年開會さる、有田陶磁器品評會の嚆矢である。

新村を有田村と改稱
 明治二十九年新村々長松村定の時に於いて、新村の名稱をして、自今有田村と改稱したのである。
 明治二十九年有田徒弟學校に於いて、ワゲネル式石炭焼成の一間窯を築造した。此頃より本校の製品も稍進歩の徴を示し、三十年より二三年までの製品には、黌の窯銘がある。

香蘭社の宮内省御用達
 明治二十九年香蘭社長深川左工門は、宮内省御用品の製作を命ぜらるいに至った。

山本柳吉卒す
 明治三十年七月二十日白川の窯焼山本柳吉卒去した、行年六十八歳であつた。彼は先代萬次郎の男にて、巨器の角物製作に於いては、獨歩の名人であつた。當時未だ石膏の使用など知られぬ時代とて、彼は粘土を板状に伸べ之を継ぎ合せて大燈籠を製作した。曾て藩主閑叟が青花の大燈籠製作を命するや、自ら夫人と共に、柳吉の工場へ臨場せしこあつた。
 又堺市住吉神社の大燈籠の如きは、長子周臓と協力して製せしものにて、高さ七尺五寸の器に赤繪附が施されてある。此燈籠成りて漸く神社に運び、特に建立の工事に着手せんとする折、伏見の戰ひ起りしかば、柳吉は、一旦之を境内の地中に埋匿して、有田へ歸り、戰雲收まつて後、再び上阪して、此据付を了せしものであつた。 明治三十年本幸平の中村龍一(勘藏の次男)は精磁社解散後に於ける、製具の一部をして、白川の中島孫四郎宅に移し、稗古場の相原源吉を監督として、宮内省御用品を製作しが、同三十七年頃に至つて慶絶したのである。此時の製品には中村謹製の銘がある。

有田驛開通
 明治三十年七月十日(1897年)九州鐵道長崎線延長され、早岐まで開通さるこく成った。而して有田は、將來伊萬里線と接續の關係上及び地域の勾配を考慮して、其停車場を有田村外尾に設置するや、有田町東部の町民は、是本町陶業の利害を無視するものとして憤激し、中には線路の敷地買収を拒む間に、有田村は迅速に買収に應じて、豫定の通り有田驛を建設せしめたのである。
 此停車場位置問題に就いて、藤井喜代作大いに之を非なりとし、大隈重信に訴ふるに至り、重信は九州鐵道會社長高橋新吉に説くところあり、殊に松本庄之助等の努力の結果は、別地中樽に貨物上下を新設せしめしが、規模狹小にて、到底本町の要望を満たすに足らず、依って後年九鐵が官有經營となるに及び、時の有田町長正司碩讓、松本庄之助等と請願且奔走し、川原茂輔又之に應援して、明治四十二年に至り漸く上有田驛を開設するに至ったのである。
 明治三十年頃に於ける製陶材料相場は、灰印一箱貳圓八拾錢、同羽印一箱貳圓七拾錢、同余印一箱壹七拾銭であり。又馬印コバルト一斤五貳拾錢、日ノ岡壹式、對州土百斤貳拾四錢金茶一斤六拾錢、正丹子十匁參であつた。

堺松伐木事件
 明治三十年稗古場の起産會社解散されしより、該機械一切を譲受け、有田町及四ケ村の磁石組合にて、經營することゝなり、泉山石場門前に移轉した。此時機械の敷板用として、田代呈一等は、豫て拂下げおきし兩郡堺の、一巨松を探伐したのである。
 然るに此年の十一月入江林務官の申告に依り、伊萬里駐在の山村所長は、官林盗伐として佐賀地方裁判所に告發せしより、呈一及城島岩太郎(病氣の爲出頭せず)藤井寛藏、岩尾彥次郎等召喚され、未決室にあること二週間に及んだ。斯くて辯論の結果は、呈一等の勝利となり、山村、入江は轉任を命ぜられたのである。此間前記の三人に對し、内外窯焼及知人より、差入の見舞金夥しく數百圓に達せしさいはれてゐる。
 此製土組合事業も亦、經營困難となり、明治三十八年四月より、本幸平の深川乙太郎之を買収して、経営することゝなりしが、同四十年七月に及んで、又他に譲渡したのである。

深海竹治卒す 明治三十年一月二日深海竹治卒去した、行年五十歳であつた。彼は宗傳嫡系平左工門の次男にて、宗竹又英山と號し、畫を小城の柴田琴岡(納富介次郎の父)に學び、又長崎の僧釋鐡翁に就いて南畫を修めた。慶應年間京都の人露外なる者、筑前に在りしが、偶々有田に來りしかば、密かに倉庫内に築窯し、彼に就いて上繪彩色の法を習得せしも、當時藩制により、赤繪屋業の定數限られるを以て、之を試用すること不可能であつた。
 故に竹治は、之を本窯彩料に用ふべく、舍兄墨之助と共に研究して、途に數種の釉下彩料を完成したのである。彼れ窯技は勿論意匠圖案或は彫刻に至るまで、巧妙ならざるなく、當時第一の名匠と稱せられ、その製品には宗竹の銘ある物に逸品多しといはれてゐる。

江越如心の紀念碑
 明治三十一年六月、如心江越禮太の門下生發起と成りて、恩師の頌徳碑を陶山神社境内に建設した。そして題額は小城舊藩主を子爵鍋島直虎にして、文學博士久米邦武選文し、書は同藩の入木道なる 梧竹中林隆經の揮毫である。

伊萬里鐵道開通
 明治三十一年八月七日私設伊萬里鐵道開通して、有田驛に接続するに及び、之より陶磁器取引上密接の關係ある兩町間に、多大の便宜を生するに至った。該鐡道の企畫は去る明治二十八年八月にて、資本金參拾五萬圓を募集し發起人は田中藤臓(石丸源左工門舎弟)本岡儀八(伊萬里銀行頭取)藤田與兵衛(多額納税者)松尾廣吉(貞吉の男多額納税者)中村千代松(後伊萬里町長縣會議員)柳ヶ瀬六次(濱町陶器商)山崎文左工門(同上)等にて田中藤臓が社長であつた。而して此建設に就いては、時の郡長高須欽の斡旋亦尠少ならざるものがあつた。(明治四十年七月代議士松尾寛三の盡力にて國有線に買収されたのである)
 従來有田より伊萬里間の俥代は、片路壹圜を要せしゅへ、多くの有田商人は草鞋履きにて往復しつゝあつた。然るに此開通に依つて、今や四拾二鏡にて往復され、然も歩足六時間を要しものが、僅か一時間餘にて往來し得るに至つたのである。

清韓地視察員
 明治三十一年秋百田恒右エ門(恒工門の養子前名健三)犬塚兵次(儀十の長子)及び藤津郡吉田山の副島八十八等は、佐賀縣廳の嘱託として、清韓地方の陶磁器販賣情況視察の途に上ぼり、釜山、京城、仁川、營口、太沽、天津 芝栗等を巡廻したのである。

巴里博覧會出品協會
 明治三十一年は、來る三十三年に開催さるべき、佛國巴里大博覧會への出品製作の為、有田の営業者は、多額の地方費補助を仰ぎ、佐賀縣知事武内維績を會長に推して、佐賀縣陶磁器出品協會本部を、有田町へ置くことゝ成った。而して當時愛知縣技師たりし納富介次郎を技師長に聘し、繪畫には東京の荒木探令(ワゲネル創始の朝日焼の描畫者、後年狩野氏を襲ふ昭和六年一月九日卒七十四歳)、金澤の和田重太郎(石川縣山代の人、繪畫及圖案に長ず)彫刻には、山口縣人寺内信一(伊太利彫刻家ラグーザ門下)圖案には徳見知敬(納富介堂門人)等を技師として、各出品者製器の完成を指導せしむることゝなり、各技師は出品製作の陶家を巡回督勵することゝなったのである。

今泉の陶窯事件
 明治三十一年十一月二十六日今泉藤太が、陶窯新築場所にし、赤繪町近隣九戸より辯護士神崎東臓を代理として、工事差止請求の訴訟を、佐賀地方裁判所に提出するに至つた理由とするところは、第一に人家櫛比の場所に火災を起す危険あり、第二煤煙四方に飛散して之に接近する原告等は、爲に家具を損し、且又衛生上至大の危害を蒙るといふのであつた。
 之より先き前記原告等は、有田町役場に至り右につき異議を申立てしところ、役場にては慰撫説明し、斯くの如き築窯は、尚他にも現存せり、元地域狭隘にして、而かも將來は、又益々此傾向あるべきを覺悟せざる可からず、是れも我が有田産業發展の爲なれば、多少の不安と煤烟散布は、用捨するの止むを得ざる可きを諭すや、一同不満なりし、松本庄之助を頼みて藤太に交渉せしも彼れ敢へてせざりしかば、訴訟沙汰となりしが遂に仲裁にて和解することなり、藤太より若干の金子を提供して、問題は解消されたのである。
 明治三十二年重要輸出品同業組合成り、之迄の有田窯燒工業會の規定は、皆此組合に継承するこどゝ成った。

横尾謙町長となる
 明治三十二年四月二十八日横尾謙有田町長に就職した。彼は川原善之助の次男にて、町長選に對し再度之を固辭せしも、周園の事情に承諾するの止むなきに至つた。

青木兄弟商會
 明治三十二年六月、有田村外尾山の貿易商青木甚一郎は、青木兄弟商會(資本金拾五萬圓の合名組織)を組織した。其製品のマークには最初實珠狀の青を用ひしことありしが、後専ら角青を用ふることゝなつた。製品ば、内外向の高級品及普通品にて、あらゆる巨器より小盃に及びしが、現在は主として輸出向の外 内地向鐵鉢、圓鉢、組丼、肉皿等が大量的に製産され、そして益々工場の設備を擴張し、多く新式の機械が應用されてゐる。
 明治三十二年松尾德助は、有田に於いて始めて便器を製作し、長崎三菱造船所、福岡大學病院、佐世保海軍病院等へ納入したのである。

徒弟學校の縣立運動
 有田徒弟學校の維持費は主として石場の収入より支辨され、又縣費や国庫の補助を仰ぎ居りしも、年々經費の膨脹に伴ひ、維持易ならず、同時に又設備を完成せんには、縣立に移管するに如くはなしと認め、横尾町長及代議士川原茂輔等大いに盡力し、關係議員亦之に賛して議案を通過せしめたのである。依つて明年度に於いて、校舎の新築を計畫し、其敷地として泉山金比羅山西麓新道の地をトし、田畑、林野、池等を整理して平夷に仕上げ、敷地全部を有田町より寄附することゝなり、そして此整地費は石塲費中より支辨すること成ったのである。

田代紋左エ門卒す
 明治三十三年二月二日田代紋左エ門守義卒去した、行年八十四歳であつた。彼は先代慶十の長男にて前名愛吉と稱し、資性不剛毅、頗る果断に富んでゐた。嘗て外貿易を獨占して、内外諸港に商權を擴張し、天保饑饉の際有田窮民に賑給せる米穀の如きは、三百俵なりしさ傳へらる。晩年家運拙なく、就中一子助作の卒去に及んで、途に挽回の鋭氣を沮喪するに至つた。
 晩年佐賀廳の紹介にて、朝鮮王宮建築用の線釉瓦の注文を引請け、早岐の廣田にて製作納入せしところ、数年を経て釉面に氷裂を生やして異議を持込まれ、頗る損失を招くに至つた。蓋し凡ての陶磁器は焼成と共に、脂質の膨張を起す故に軟釉面には必ず氷裂を生するのが當然である。然るに注文者製作者も此認識なかりしは、當時に於いては是非もなかつた。
 然れども紋左工門が海外に支店を設けて、國家的貿易の進出を試み、又有田に來れる外人の為に始めて洋舘(今に横町にある古色蒼然たる建物、當時之を異人館と稱して珍重した)を建築し、或は長崎に於いて藩内志士に運動費を貢ぎしが如き(慶應三年大隈八太郎に貸せし五拾圜の證書などありしよし)彼亦、我有田が生める一偉人であつた。
 明治三十三年三月一日、五二會長前田正名來り桂雲寺に於いて陶磁器業發展につき、獎勵的熱辯を揮ったのである。

手塚龜之助卒す
 明治三十三年三月四日手塚龜之助卒去した、行年五十九歳であつた。彼は先代清三郎の男にして、天資英俊頗る談論に長じた。先きに精磁會社々長として、敏腕を揮ひ、其他斯業に公共事に貢献せしこと少なくなかつた。(次子英四郎今小倉精陶商會主として、東京に支店を設けてゐる)

西松浦郡陶磁器同業組合
 明治三十三年三月十四日西松浦郡陶磁器同業組合(窯燒九十一名、赤繪屋五十四名、陶磁器商八十七名)組織され、深川榮左工門其の會長に推選された。而して先きの佐賀縣陶磁器出品協會を、西松浦郡陶磁器品評會と改め、同業組合の主催に移したのである。

忠次巴里博覧會出發
 明治三十三年三月十四日佛國巴里大博覽會視察のため、佐賀縣出品者總代として、深川忠次出發渡した。而して彼は此の機會を利用して、欧州各地の陶況を巡視して歸朝したのである。

エイログラフ
 忠次は佛國よりの歸途英國に立寄り、同地のエイログラプ(吹掛器械)を購入し其中一個を有田工業學校へ寄贈せしが、之より一般に使用さるに至った。従來の繪藥振掛描畫法は、刷毛の穂先へ繪楽をつけ、針に掛けて振り飛ばせしものにて、微分子は散布し得るも、刷毛の尖端忽ち磨滅して、直ちに取替へを要し、到底日用品には悪用し能はざりしが、該器は蒸氣力による壓縮空気にて噴霧せしむるものなるを以て、替刷毛を要せず、下手物製作にも頗る便利であつた(東京にても河原徳立佛國より輸入した)

工業學校有田分校となる
 明治三十三年三月三十一日有田徒弟學校廢せられ、四月より新たに佐賀縣立佐賀工業學校有田分校として設立され、泉山新道の新校舎へ移博した(敷地四千二百八十七建坪五百九十八坪)而して本縣視學官柴崎鐵吉校長事務取扱を任命されしも、幾許もなく鳥取へ轉任せしを以て、教諭飯河三角校長代理を命せられ、寺内信一主席教諭の職に就いた。そして此年の十月には、両陛下の御真影を奉戴した。

故榮左エ門記念碑
 明治三十三年十月關係有志發起人となり、深川榮左工門眞忠の記念碑を、陶山社境内に建設した。題額は大隈重信、選文は文學博士久米邦武にして、筆者は元長崎控訴院長西岡逾明(宜軒)である。
 明治三十四年三月十五日熊本縣主催の、九州沖繩八縣聯合共進會に於いて、時の農商務大臣は、先代深川榮左工門眞忠へ、左の追賞を授興したのである。
故榮左エ門追賞
追賞授與證 故 深川榮左工門
一金貳拾圜也
夙ニ意ヲ陶磁器ノ改良ニ注キ率先斯業ノ發達ヲ企圖シテ勵精倦マス又香蘭社ヲ興シ終二今日ノ輸出アルヲ致ス其効績永ク芳シ
右審査長ノ薦告ヲ領シ熊本ニ於テ之ヲ授輿ス
明治三十四年三月十五日
農商務大臣正三位 林有造

納富介次郎の佐賀工業學校長
 明治三十四年四月佐賀縣技師たりし納富介次郎が、佐賀縣立工業學校長として就任するに至った。
 明治三十四年五月二十四日四代鶴田次平卒去した、行年四十八歳であつた。彼は三代次兵衛(始巳之吉)の男にて、鶴芝の孫であり、前名勝太郎と稱し、資性俊敏又斯業の貢献者であつた。
 明治三十四年六月七日松村定次有田村村長を退職した。彼は明治六年飴二十五歳にして有田郷新村々長となり、同十一年新村戸長となった。同二十二年町村制實施に依る新村々長に就職すること又十二ヶ年二ヶ月であつた。

昇焰式竪窯
 明治三十四年佐賀工業學校有田分校に於いて、納富本校々長は、金澤より松田半右工門を招き、昇焰式竪窯を築造せしが、結果は充分の成績を揚ぐるに至らなかつた。

有田工人の浦鹽行
 明治三十四年十二月露西亞皇帝ニコライの支族・グリゴリーウオッチ・ペルミキン來つて有田の陶業を視察した。蓋し彼氏の渡來は、浦鹽斯徳より約二十里北方のガンゴーザに於いて、製陶起業の爲め工人雇用と、材料購入の目的であつた。
 之より先き、日清戰役後浦盥近傍なるピケヤチンに於いて、露西亜の富豪セベルフなる者製陶を始め、其製造主任を託されたる上幸平の岩松龍一(平吾の男)は、山口安一、深江柿次郎等職工若千名を連れて渡航せしが、後年龍一は歸朝して、大樽の中村國助之に代ったのである。
 而して此度、別地ガンゴーザに於いて斯業を經畫し、長崎にありし北島榮助(似水)の斡旋にて有田より雇者を詰めしが、之に應せし窯方及細工人には、泉山の江上房五郎、橋口三次郎、岩谷川内の中島政助、畫工には大樽の牛島定七、窯積方には泉山の諸岡岡太郎、事務員として赤町の今泉茂左工門等があり、翌三十五年該地へ渡航したのである。
 此製陶原料として、泉山石及天草石を購入し、其他一切の材料は、凡て有田より取寄せたのである。斯くて製品の重なるものは、クルシカ(厚手の手附コップ)肉皿、砂糖入、便器等にて、事業彌々横張の計畫中 日露國夜の風雲益々險悪を感するに至りしを以て、翌三十六年十一月一同は有田へ引揚げたのである。

田代呈一卒す
 明治三十四年十二月二十八日田代呈一卒去した、行年五十六歳であつた。彼は先代峯助の長男にて、資性剛膽敢て衆を慣れず、且頗る果斷であつた。嘗て町用係となり、或は山林方管理、同業組合長、又は収入役等功績少からず而して共職務を管掌するや、甚だ峻厳にして、一紙と雖も忽せにする者には大聲叱咤し、何人と雖とも忌憚せざしを以て、頗る畏敬されたのである。

かなや
伊萬里柳ケ瀬工場
 明治三十五年一月伊萬里の柳ヶ瀬六次は、町裏なる金屋の陶窯を引請けて、資本金五萬圓の柳ヶ瀬製陶所を起し、天草石を原料として朝鮮向を製造し、大正十五年の如きは年額參萬六千餘を繋げしが、昭和三年より男啓一代表者となりて合名會社に改め、今末石喜左エ門(啓一の姉聟)に依って繼続され、染附の皿、丼類が製造されつつある(近年又古川幸右工門が伊萬里焼計畫中である。)

名工金作
 明治三十五年稗古場の窯焼井手金作は、生積禁止制度の爲め、黒牟田山に移轉するこどゝなつた。彼は元大樽の細工人、國太郎の一男に生れしも、國太郎夫婦は一人の妹娘を連れて、明治十年姫路の永世社に雇用され儘蹄山せず、此時残されし金作は十二歳であつた。
 彼は本幸平の窯焼、山口勇造方の細工見習に住込みて、教育されしが、孤獨の境遇は自己一身の外に、頼む者なき涙ぐまし試練を受け、奮闘努力の結果、茲に天性の器用を發揮して大いに轆轤の妙技に熟達し、十八九歳の頃には既に當時の名手と並んで、遜色なきまでの大物細工人となったのである。
 修業年期を終ゆるや、彼は特等職人として雇用された。後年獨立して製造を經營するや、性來の粗放と驕奢な生活は、常に五侯のに斗酒を傾くるも、一度びトッポウ着(筒袖衣)と成りて車壺に入るや、螺旋に踊る泉山の粘土は、立きごころに三尺五寸口徑の大瓶掛(二つぎ)數個を捻り出す妙技を持つてゐたのである。
 後年窯技上につき剛氣の黒田工業學校長を相手にして、學間や學説が何になるかと、實驗學の名論を吐ぎて、流石の校長を凹ませしことへあつた。而して彼が造るところのもの、十中の九個までも、窯取れする手腕ある上に、然も生積みにて元價を低下し、どしどし燒出されては、現今の如く、石膏型製作技の進歩せざる時代に於て、他の窯焼の身に成っては、洵に迷惑千萬であつた。

金作の外山移轉
 遂に之が問題となり、粗製濫造防止の名を以て、尺口以上の器物は、一切生積を禁する規定を設け、尚此の違犯者へ、窯を貸したる者も、同様巨額の違約金を徴することゝ成つた。故に金作は止むなく去って黒牟田山にありしが、一ヶ年にして應法山に移轉した。此處にて二ヶ年間製造せるうちに、前記の制裁消滅し、再び有田に歸つて製造すること成った。而して是迄小花瓶など製作し居りし應法山は、金作が造其手型に依って、石膏型を作り、之より此地の製技頗る向上せしといはれてゐる。

石丸安世卒す
 明治三十五年五月六日石丸安世卒去した、行年六十九歳であつた。彼の遠祖は興賀龍造寺氏の支族にて、右京亮胤直の曾孫、石丸喜左エ門常興である。彼は佐賀郡本庄村大井に生れ、藩主の知遇を得て、同藩馬渡八郎共に英國に留學し、明治元年歸朝するや彼地の文化を齎らして有田に來り、彼の虎五郎時代より陶業の發展に貢献し、且有田有志を教育せし一人であつた。明治四年工部省に入りて、電信頭となり當時芝區櫻川町に住して櫻水號した。同七年大阪造幣局長に任じ、後年元老院議官に列せられ病革まるや従三位に叙せられたのである。

松村式一間窯
 明治三十五年(1902年)有田村に於いて、始めて松村式一問窯が築造されたのである。在來の連結式丸窯にては、焼成に時日を要し、且つ燃料なる松材の價格益々騰貴するを以て、名古屋に轉せる松村九助は、嗣子八次郎共に多年之が改良に腐心し、種々研究の結果、薪材石炭何れにも應用し得る、南面焚口式の一間窯を案出せしは、此年の八月であつた。之より九助は郷里有田村外尾に來り、宗家松村定次邸の前庭に於いて、梶原孝七、中島浩氣を手傳ひとして始めて該式の一間窯を築造し、次に青木兄弟商會と香蘭社へ築窯せしめたのである。
 折しも三十四年、巴里博覽會の業務を終べて、獨、栗、白、英、丁、米等各國の陶業を視察して歸朝せる八次郎、亦來つて築窯の缺點を補ひしが就中青木兄弟商舎は、技師梶原幸七をして、該式窯に就いて大いに盡瘁せしめたのである。
 斯くて黒牟田の窯焼梶原貞一等、該式築窯に因り、好成績を示せしかば、各人又之に傚らひ、是より肥前地方は勿論、全國中此様式に則りて、大同小異の一軒窯が築造さるに至ったのである中には自己が新工夫の如く吹聴する者あるも、要するに皆此松村式を模倣せしことは申すまでもない。

松村八次郎
 松村八次郎は、有田鄉曲川村藏宿の酒造家西山吉兵衛の五男に生れ、明治二十四年東京藏前の高等工業學校を卒業し、翌年名古屋松村家の養嗣子となりし者にて、同二十九年十月二十八日純白なる硬質磁器の特許(二七九七號)を得しが、時期尚早として製作を見合はせ、同三十五年我國に於いて始て硬質陶器の製作に成功し、大いに輸入品を防止するを得た、其他種々斯業の功大なりて、昭和三年十一月十日綠綬褒章を拝受したのである。

小松宮彰仁親王殿下御成
 明治三十五年十一月十三日大元帥陛下御名代として、小松宮彰仁親王殿下有田町へ御來臨に相成り、特に斯業御獎勵の聖旨を御傳へ遊ばされたのである。

谷口藍田卒す
 明治三十五年十一月十四日谷口藍田東京の私塾に卒去した、行年八十一歳であつた。彼は白川の儒陶溪の男にて、名は中秋字は大明通稱を秋之助、俊一又莊と稱した。五歳の時孝經を父母に受け、十二歳にて武雄の叔父清水龍門(俊平豊道嘉永五年卒五十八歲大審院判事清水孝の祖父)に學び、十八歳の時周易を彦山の玉坊に學んだ。或は廣瀬淡窓の塾長となり、又江戶の羽倉簡堂、古賀洞庵(精里の三男昌平校の儒官)伊東玄朴(長春院法印)佐久間象山、鈴木春山、坪井信道等と交はり、嘗ては頼醇(三樹三郎)と、勤王の議論を上下して盟を訂し、深く約するところあつた。
 彼れ蹄郷して白川に家塾を開くや、令名諸方に聞こへ來り學ぶ者陸績として絶えず、塾舍狭隘を告ぐるに至りしを以て、上幸平に轉じ、後更に杵島郡住吉村に新築して梶山書院(黒髪山下なる故)稱した。此僻阪に在って、講敬すること十餘年なりしが、此間笈を負うて受敬する者一千餘人であつた。
明治元年伏見の役起るや、彼は舊つて力を王事に致さんと志し、大隈重信と興に、京師より江戸野州に至りしが途上病を得て空しく歸國するや、鹿島藩主鍋島直彬請うて弘文館の教授となし、權大参事を兼ねしめたのである。廢藩置縣の後長崎に出て瓊林舘を開くや、米人フルベッキ及ウヰルヤムス等教を受くる外來り學ぶ者三百餘人であつた。會鹿島の有志又義塾を設けて、藍田を邀ふるに及び、再び鹿島に來り数ふること十ヶ年であつた。

北白川宮殿下へ侍講す
 明治二十三年東京に遊ぶや、門人高崎五六(東京府知事)篤信を設けを乞う。然るに幾許もなく、第六師團長北白川宮能久親王殿下は、藍田を熊本へ召して經を講せしめ給ふた。殿下第四師團長に御轉任あらせれるゝや、藍田亦従つて大阪に往つた。而して殿下御學問所を東京の官邸に設けさせられ、藍田をして王子をへしめ給ひ、小松宮彰仁親王殿下亦藍田を招きて聽講せさせられたのであつた。能久親王殿下に於いて薨せらるゝに及び、彼自ら藍田書院を建て、子弟に講致したのである。

著者と一家
 彼れ經史に於いて殆ん究めざるなく、就中最も深く易理に達してゐた。著はすところ咬雪遊稿、圖南蛛、儲詠放言、修養秘訣、周易講義錄、詩文集若干卷、日記數十巻がある。明

治四十四年十一月特に正五位を追贈されたのである。後年鹿島に記念碑が建設された。長子精一双大造と稱し、字は允中號を渭腸といつた。 次子八重次郎後研太郎と稱し、王香さ號した。四子復四郎字は季雷號を琴慮といひしが、何れも青春にして殘した。

鹿洞
 五男豐五郎字は季章鹿洞とし、又詩文を薄くした。彼は有田小學校に於いて、江越如心の下に教鞭を執りしが、後年學習院教授と成ったかくて我が有田陶山の人士にして、陶溪、藍田、鹿洞の、谷口家三代に就いて學びし者多きは勿論である。

川崎千虎卒す
 明治三十五年十一月二十七日初代の徒弟學校長たりし川崎千虎卒去した。行年六十八歳であつた。彼は岐阜の人にて、名古屋の大石真虎に就いて繪書を学び、狩野派の歴史儘に長せしが、就中有職故質に精通した。(今の小虎伯の父である)

佐野常民卒す
 明治三十五年十二月七日伯爵佐野常民卒去した、行年八十一歳であつた。彼は佐賀郡中川副村早津江なる下村苞替の五男にて、佐賀市枳小路の佐野常徴の養子となり、前名榮壽左エ門當時より、有田陶業の發展に盡瘁せしこと少くなかった。後年大藏卿、農商務大臣、樞密院顧問官に歴任し、殊に大日本赤十字社々長としての偉勲は周知のことである。雪津は彼の號であつた。
 明治三十六年一月宮内省御用達窯元辻勝藏は、資本金五萬圓の、辻合名會社を組織した。

有田工業學校の獨立
 明治三十六年四月四日工業學校有田分校は、茲に獨立して佐賀縣立有田工業學校と改稱し、主席教諭寺内信一を校長心得として、授業を開始するに至った。
 明治三十七年陶祖李参平の記念碑、及び記念公園設計の趣意書成り、手塚五平、後藤祐一、川崎精一、德見知敬等斡旋するところあつた。
 明治三十七年三月十五日馬渡俊朗卒去した、行年年四十五歳であつた。彼は泉山の古賀熊吉の男にて前名濱吉と稱し、明治十年松村辰昌が姫路永世社を創設するや共事務員として雇用され、後年神戸榮町に於いて肥前物の貿易問屋として、謹直精勵盡すところ少なくなかつた。

寺内信一の初代工業學校長
 明治三十七年四月十一日(1904年)寺内信一、有田工業學校初代の校長に任命され、従來の陶書、製品、模型の外に商業及圖案の二科目を増設した。彼は山口縣吉敷郡宮野村の人にて、半月は共號である。

有栖川宮栽仁親王殿下御成
 明治三十七年五月二十八日有栖川宮栽仁親王殿下、有田町へ御來臨に相成り、石場 工業學校及び各陶業を御見學遊ばされた。

忠次聖路易博覧會へ渡米
 明治三十七年九月二十四日深川忠次は、佐賀縣同業者の推選にて視察を囑託され、米國セントルイス大博覧會へ向け出發した。そして彼は歸英國へ回航し、同國のワット商会を、欧州総代理店とする契約を爲し、更に英、佛、獨、伊、白の五ヶ國に副代理店を設置することとした。

正司碩譲町長となる
 明治三十八年六月二十三日岩谷川内の正司碩讓有田町長に就職した、彼は先代碩齋(碩溪の三男)の長子にて、俳號を笑之と稱した。

前田儀右エ門の有田村々長
 明治三十八年七月十八日前田儀右工門が、有田村長に就職した。彼は外尾村の豪農儀右工門昌利(久富與次兵衛昌常の舎弟にて、里青と號し、明治二十一年八月二十五日卒六十五歳)の男にて前名貞八と稱し、俳名を里風と號した。
 此頃日露戰役後の好況に連れ、内地向の販賣頗る活氣を呈し、殊に朝鮮向輸出又大いに發展して佐賀長崎兩縣の大外山は、其特産地たるの觀があつた。中にも此販賣者として、岩谷川内の馬場虎藏大いに活躍したのである。

女兒陶畫練習所
 明治三十九年有田町は、婦人協会を組織し、先きに學生養成會を主張せし、片淵文逸の提案に基づき、曾務として女兒の壽工練習所(本幸平田代安吉方)を設立し、陶業技藝の養成に努むることゝなつた。そして石橋瀧男(有田工業學校第一回卒業、後年伊太利に留學し我邦にて始めて琺瑯看板を製す、後岡本姓に改め又東京市會議員たりしこあり)を其の教師に囑託した。

辻勝藏に賞状下附
 明治三十九年四月農商務大臣男爵松岡康毅は、上幸平の辻勝臓が多年斯業に盡瘁せし勞を多とし、賞狀及金子若干を下附したのである。

辻清の硬質タイル
 明治三十九年五月前記勝の次男辻清は、舶來品に遜色なき、硬質タイルの製作に成功した。之より先き此年一月佐世保海軍工廠の内意に基づき、彼は軍艦用磁器タイルの研究を起し、従來の舶來品を驅逐すべく努力を重ね、数十回の試験を経て、漸く之を完成したのである。
 そして軍艦三笠の修理用として拾數萬個を納入し、其後四十年十二月艦政本部の採用證明を得るに至り、呉工廠の建造艦伊吹及び義勇艦櫻丸等の用材を始め、三菱、川崎の兩造船所及び大阪鐵工所等の注文を受くるに至りしが、此際大阪の和久榮之助に出資を仰ぎしより、愛に協同して中樽にタイル製造所を設立するに至つたのである。

陶製忠魂碑
 明治三十九年六月一日陶山社境内に、日露役戰歿者の爲め、巨砲形の磁器製忠魂碑を建設した。筆者は陸軍大将伯爵乃木希典で、製造者は稗古場の江上熊之助であつた。而かして熊之助の男熊一と、中島政助の二人また此の製作に従事した。

横尾謙卒す
 明治三十九年九月二十五日橫尾謙卒去した行年七十一歳であつた。彼字は子盆號を介石さいひ、始め謙吾と稱した。 川原善之助清の次男にして、出でて横尾氏を継いだのである。
嘗て谷口藍田に師事し、焼きに日本陶器史を編纂せしが、殊に有田の舊制度に精通せし篤學家であり、又公事に盡せしもの少なくなかつた。
 明治四十年四月女兒書工練習所をして、女子實業補習學校と改稱するに至つた。

池田大九郎の有田村々長
 明治四十年七月十二日外尾村の池田大九郎有田村長に就職した。彼は舊庄屋たりし池田善吾の一子である。
 明治四十年十月二十三日當時陶山社境内にありし、有田町役場火災に遭ひ、此際戸籍籍、其他の重要書類、又は高官知名の揮毫物一切烏有に歸し舊事の調査をして全く困難ならしめたのである。

石場面積と搬出高
 石場磁碾地は明治四十年末調査に於いて、一萬五千六百二十一坪と宅地其他三百十八坪を有し、之に宮野の樋口親易所有地、(後年買收す)六千坪を加へ、石場よりの採掘高二萬七千百四十車(一車五百斤)、樋口分六千七百三十五車、合計三萬四千二百七十五車を搬出するに至り、當時の原料價格表左の如くであつた。
等差 筈代 採掘料
上藥石 拾貳錢 六拾六錢
一等石 拾錢 參拾八錢
二等石 九錢 參拾六錢
三等石 六參 参拾貳錢
四等石 五錢 參拾錢
 此筈代は、石場に納める通券の如きものにて十五人の肝煎は之を販賣所より購入して、一車(五百斤)を構外に輓出す毎に、構門の事務所に筈の通券を納める規定である。そして其門外石置場に搬出せし原料は、之を水碓業及水車業等の所謂賃替や、又は直接窯焼へ賣渡すのである。

賃代え
 此賃替(又唐確替)は原料なる石塊を鐵槌にて小割(今はクラッシャー機を用ふる者もある)して、天日に乾燥せしめ、次に水確又水車スタンプ機にて粉砕し、坂篩にかけしものが篩粉さ稱して、其儘窯焼へ賣渡すものと、或は土締機にて粘土として、賣渡す者とがある。

篩粉
 はたり粉の値段は、壹圓單位にて二十荷位の時もあり、或は安き時は二十五荷、又高き時は十一荷の時代もあつた。此一荷の容器は、一尺一寸角にて深さ四寸八分の木箱である、此二箱を擔いで一荷と稱するものにて、又七合五勺箱と稱し、長さ一尺六寸五分横一尺一寸の長方形箱にて深さ五寸六分あり此二箱が一荷半の容器である。
 此水確床には夏碓と秋碓がありて、大谷の如きは夏期の水量が豊富にて、一日に三度位替へらるゝ故に一碓三百五十斤として、三度にて千〇五十斤程の篩粉を得るのである。されば昔より唐碓一丁所持すれば、親子五人口樂に喰へるさいはれてゐた。

蒸氣力より電氣力へ
 蓋し逐年水量の減少と、一面加速度の必要より、蒸氣力にてスタンプミルを使用する時代と成って來た。四十年度の調査に依れば、之に用ふる蒸気機闘は、石場組合三十九馬力、香蘭社十六馬力、宮野の樋口機十五馬力、岩谷川内の正司瀬平機九馬力であり、此外に尚百三十餘の水碓があつた。而して此水碓は漸々廢滅するに至り、そして機械所有者は、壓搾機に依つて脱水せし粘土を窯焼へ供給することゝ成った、次に此蒸氣力應用も、大正年間より、多く電力化するに至ったのである。

倒焰式竪窯
 明治四十一年農商務省は、石炭窯奬勵の爲めを國費を投することゝなり、同省技師工學博士北村彌一郎の設計に成る、倒焰式竪窯を、香蘭社第三工場内に築造し、有田窯焼の共同經營して下附すること成った。それは下室本焼の餘熱を以て、階上室の素焼を成す設計にて、此築材料なる耐火煉瓦は、三ッ石より購入し、粘土は瀬戸の木節を用ひ、匣鉢もモルタルも全部他より移入し、東京の煉瓦師を雇ひて築かしめたのである。
 此模範的築窯落成するや、彌一郎は自ら焼成試験を行ひしも成績甚だ不良であつた。其後深川榮左エ門専ら此試焼の任に當り、多くの費用を投せしも、好結果を得ず、後年底部を大改築して、漸完成を告げたるは七ヶ年目であつた。

有田の窯道具土
 此頃より匣鉢重積の経済的なるを認め、益々之を悪用する者多きに至った。而して従有田の窯道具土として使用せるは、小樽の山土、祇園堂の土、白川谷の土、墾きの土等あるも、匣鉢製造原料としては甚有効ならず、而かも他に良土なきを以て、城島岩太郎の刺皿焼成には、止むを得ず墾さの土を以て、匣鉢をせしが、大正以後は石炭を燃料とせるより、益々良質匣鉢の必要生じ、愛知岐阜の粘土木節を用ふるに至ったのである。
 尤も明治年間より天草原料が、尾張地方への輸激増するに伴ひ、該船の儲荷して、彼地の耐火粘土の積取行はれ、それに破匣鉢を粉砕して、シャモットを調成せる地土に、耐火粘土(木節)を加へて、使用さるゝに至った。而して後年には、築窯にも戸畑の耐火煉瓦を購入して之を用ひ、又棚板の如きにも、煉瓦會社にて燒成せるものを重に購入することゝなつたのである。

上有田驛開設
 明治四十二年五月一日中樽貨物驛を擴張さるゝに至った。之より先き松本庄之助正司町長等が、大いに運動することありしかば、當時の鐡道院参事(貨物係長兼石炭係長)たりし石井良一(武雄の人後若松市長現留萌鉄道取締役)は、總裁後藤新平及九州管理局長植村俊に陳情して、只管盡力せし結果、遂に其目的を達したのである。大正五年に至り、又共設備を改めしが、今や再び、擴張の必要を迫る勢を呈するに至った。
 明治四十二年六月四日犬塚儀十卒去した、行年六十八歳であった。彼は先代龜右工門の長男にて斯業の貿易家として、貢献するところあり、又公共事に盡力せこと少なくなかった。(長子兵次は今神戸の朝日海上火災保險株式會社監査役である)

辻勝藏町長となる
 明治四十二年六月二十六日上幸平の辻勝藏有田町長に就職した。彼は十代常陸大椽喜平次の男である。

榮左衛門賞状を下附さる
 明治四十二年香蘭社長深川左工門に對し、公私事業の改良發達に、貢献せし功からずとなし、農商務大臣子爵大浦兼武より賞状を下附されたのである。

忠次宮内省御用達となる
 明治四十三年一月深川忠次は、御食器並びに御陪食用器を謹製し、引続き宮内省御用達を拝命したのである。

和久の製陶所
 明治四十三年辻勝臓の長子喜一は、大阪の商賈和久榮之助と共同して、上有田驛前に有田製陶所を創立し、専ら建築用の磁器タイルを製造したが、幾許くもなく榮之助單獨の事業となり、四十四年九月拾萬圓の資本金となし、新式の機械を据付けて規模を拡張し、内外壁タイルの外、床敷タイル及びモザイク等を製作して、年額拾餘萬圓を繋ぐるに至つた。
 なほ大阪市北區茶屋町に出張所を設け、製品のマークには俳號久榮を用ひてゐる。彼又寺崎廣業の風をびて畫を善くし、酒問興に乗する時、戯筆を跳らす妙技がある。長子良一は、昭和七年十月十二日第九七七四五號を以て、二枚合せ焼成による、タイル製造法の特許を得し工學士である。
 明治四十三年有田赤綿屋專業者の多數は、深川六助の力にて、深川左工門の保證を得ることとなり、佐賀勸業銀行より、壹萬五千圓の資金を借りて、丸錦組合を設け、大樽の富村愛助宅に於いて、盛んに赤繪物を販賣することゝ成ったのである。

金摺機械
 明治四十三年藤津郡の人吉田藤市來り、此地の金摺作業を見て、之を機械化すべくエ夫を凝らし、研究努力途に聾するに至りて、漸く完成した。そして赤檜町の杉原三太夫之を据付て營業するに至り。大正三年七月稗古場の川崎龜一赤藤市に依って繪具摺機械を据付たのである。

深川製磁株式會社創立
 明治四十四年一月(1911年)本幸平の深川忠次は、資本金拾五萬圓の深川製磁株式會社を組織して、専ら高級品の製造をなし、製品には富土流水をマークした。斯くて後年には福岡市東中洲に支店を設け、又東京前丸ビル階下に、佐賀市松原町に、長崎市鍛冶屋町に、佐世保市上京町に、熊本市上通町に出張所を置き、其他大阪、神戸、小倉、別府、唐津の各市より、或は英國パーミンガムにまで手を伸ばしてゐる。
 製品に於ては、各方面の藝術的意匠を試み、一面新式の機械を据付て工場の設備を張せしも彼氏近年健康勝れざるを以て、社長を長子進に譲りて、己れは顧問の名義となり、次子勇を常務取締役たらしめた。尚他の取締役には唐津の大島小太郎、佐賀の稲田慶四郎、福岡の伊藤金次就任し監査役は鹿島の森田判助である。

伊萬里磁器株式會社
 明治四十四年五月伊萬里の柳ヶ瀬次六、平井卯七、末石喜左工門等發起して、資本金六萬圓の伊萬里磁器株式會社を創立し卯七その社長となり喜左工門は専務となった。業務としては波佐見、木原、江永諸山の製品委託販賣にて、大正九年六月更に拾貳萬圓に増資し、此年の如きは四拾五萬圓を取引したのである。

購買販賣組合
 明治四十四年八月一日、先きの磁器合資會社は、今回の産業法に據り、陶磁器信用購買販賣組合と改稱された。そして其商標には丸輪の中に磁の字を用ひしより、之を丸磁會社と稱せらるゝに至つた。なほ同月二十四日には、錦附業信用購買組合が創立されたのである。

有田物産陳列舘
 明治四十四年九月かねて大樽の林邸跡に新築中の有田物産陳列館落成し、此日を以て開館式が舉行された。(昭和十年四月從の板間を廢して、全部土間式に改築されたのである)
 明治四十四年寺内工業學校長は、教諭大谷謙一(杵島郡武内村眞手野の人)の設計に擦り、耐火材料を三ッ石に注文して、従來の昇焰式竪窯を倒焰式に改築し、石炭焼成の好結果を繋ぐるに至つた。

巨智部博士の地質調査
 明治四十四年理學博士巨智部忠承は有田に來り、此地方一帯の地質を調査して、陶磁器製造に使用すべき、一切の原料完備し居ることを報告した。而して此案内者として同行せしは、中野原の金ヶ江頼四郎(利平の次男)であつた。
 明治四十四年十月三日有田工業學校長寺内信一休職となつた、彼は後年支那湖南省長沙高等學校窯業課々長として聘せられ、大正五年東京帝國ホテルの建築に際しては、其窯業部材料技師であつた。大正七年愛媛縣砥部工業學校長に就任して貢献少からざりしが、昭和三年職をし、今有田町上白川の李莊居に自適しつゝある。

後の蔵春亭
 明治四十四年十一月久富季九郎は蔵春亭を再興して中野原幸恩に工場を建設し、諸種の優秀なる磁器を製作したのである。彼は金ヶ江利平の三男にして、外戚の叔父久富喜作(與兵衛昌常の末弟)の繼嗣となりし者である。

侍従香蘭社へ令旨を傳ふ
 明治四十四年十一月十三日 明治天皇陛下大演習御統裁のため九州行幸に際し、實業奨勵の爲め侍従男爵米田虎雄を香蘭社へ御差遣の上、親しく事業の現状を視察せしめられ、優湿なる聖旨を賜はつたのである。

黒田政憲工業學校長となる
 明治四十四年十一月二十日黒田政憲有田工業學校長に任命された。
 彼は東京藏前の職工學校(高工の前身)出身にて中國成都工業試験所部長より、當校へ赴任したのである。

松村九助卒す
 明治四十五年三月二日名古屋の松村九助卒去した、行年六十九歳であつた。彼は有田村外尾の農治左工門の長男にて、資性敢勇機略あり、豫て事業の経営を好み、農事を棄てコバルト販賣に従事せしより、風に名古屋に轉住し、更に横濱住吉町に支店を設けて、尾濃製陶の貿易創始した。明治十一年舎弟田代市郎治と提携し市郎治は辨天通に開店し、九助は名古屋に在りて専ら仕入に従事した。
 同十三年染附物貿易にて失敗せし、米國紐育の開洋を引受けて之を支店をなし、江副廉造をしてその經營の任に當らしめた。而して九助は米國輸出向磁器が當時燦爛たる赤繪物にあらずんば成功せざることを看破し、始めて水金を陶彩に用ひて上繪を施す可く、名古屋竪杉ノ町に、巾五間長さ三十八間の赤繪附工場を設立し、又神戸榮町の支店には、末弟松村雄治をして貿易に従事せしめた。同十三年三月には、名古屋南武平町に製陶所を起した、之が同市に於ける製陶の濫觴である。今養嗣八次郎千種工場に於いて硬質陶器を製作しつゝある。(都市煤煙除避の爲め近々郊外へ轉場のよし)

片淵陶畫練習所
 明治四十五年片淵陶練習所が設立された。先きに婦人協會に依って設立されし、女子實業補習學校絶するに及び、大樽の醤師片淵文逸は、頗る之を遺憾とし、自費を投じて再び女子の技藝敷習に盡瘁せしものにて、泉山(今の徳見宅)に於いて之を継承し、副島某其の教師となった。

岩太郎の石場普請
 大正元年泉山磁の普請を始むることとなった。暴きに岩松平吾の督勵にて中央に水道を開鑿したるに拘はらず、再び採掘の困難を來たせしかば、石場事務長城島岩太郎は、管理者町長辻勝藏及助役久富三保助と協力して、同礦組合議に計り、多額の公債を起して、遂に諸般の設備を整理したのである。

丸錦事件
 大正元年赤繪屋組合の丸錦事業を、本幸平の田代雄一引請けて經營するに及び、店舗を札の辻岩永傳次宅(今の萬成堂)に移し、伊萬里の田代正太郎ら其店務に當りて、大いに販賣したのである。然るに赤繪屋荷主の中には、見本を提供して、規定の内金を領受しながら、商約成るも、現品を引渡さざる者生しかば、帳簿上には利益あるが如きも、取引の不實行に因って大缺損を生するに至ったのである。
 之より丸錦管理者は、組合赤繪屋てを相手に訴訟を提起せしより、一方亦団結して之に反抗し係争を續くること數年に涉りしが、赤繪屋側は鶴田森一、鷹巣又四郎、池田儀右工門等爭議費取立係十人を選撃し、一召廷毎に要する経費を調達し對抗久しかりしも、遼に有耶無耶に終ったのである。

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