岩太郎の石場普請
大正元年泉山磁の普請を始むることとなった。暴きに岩松平吾の督勵にて中央に水道を開鑿したるに拘はらず、再び採掘の困難を來たせしかば、石場事務長城島岩太郎は、管理者町長辻勝藏及助役久富三保助と協力して、同礦組合議に計り、多額の公債を起して、遂に諸般の設備を整理したのである。
丸錦事件
大正元年赤繪屋組合の丸錦事業を、本幸平の田代雄一引請けて經營するに及び、店舗を札の辻岩永傳次宅(今の萬成堂)に移し、伊萬里の田代正太郎ら其店務に當りて、大いに販賣したのである。然るに赤繪屋荷主の中には、見本を提供して、規定の内金を領受しながら、商約成るも、現品を引渡さざる者生しかば、帳簿上には利益あるが如きも、取引の不實行に因って大缺損を生するに至ったのである。
之より丸錦管理者は、組合赤繪屋てを相手に訴訟を提起せしより、一方亦団結して之に反抗し係争を續くること數年に涉りしが、赤繪屋側は鶴田森一、鷹巣又四郎、池田儀右工門等爭議費取立係十人を選撃し、一召廷毎に要する経費を調達し對抗久しかりしも、遼に有耶無耶に終ったのである。
石場組合規約の改訂
大正二年三月二十九日泉山磁石場組合は、従來有田町長の管理なしを、西松浦郡長の管理に移し、暴きに制定せし組合規約をも、多少變更して、左の如く改訂されたのである。
有田町外四ヶ村磁石場組合規約
第一條 本組合ハ有田町外四ヶ村磁石場組合ト稱ス
第二條 本組合ハ有田町曲川村有田村大山村大川内村ヲ以テ組織ス
第三條 本組合ハ有田町ノ内泉山區中樽區上幸平區大樽區本幸平區白川區赤繪町區稗古場區中野原區岩谷川内區有田村ノ内外尾山區黒牟田區應法區曲川村ノ内南川原區大山村ノ内廣瀬區大川内村ノ内一ノ瀬區大川内山區十七ヶ區ノ共有財産タル磁石場ノ維持經營ニ關スル事務ヲ共同處理スル爲メ之ヲ設クルモノトス
第四條 本組合役場有田町役場=置ク
第五條 組合會議員ノ定数ヲ二十人トシ組合各町村ニ於テ選擧スル議員数ヲ左ノ如ク定ム
有田町十人 有田村五人 曲川村一人 大山村二人 大川内村二人
第六條 組合議員ノ任期四ヶ年トシ定期改選ノ第一日ヨリ起算ス
第七條 議員ニ缺員アルトキ一ヶ月以内ニ補欠選擧ヲ行フモノトス
第八條 組合議員ハ組合各町村會ニ於テ其町村公民中町村會議員ノ被選擧權ヲ有スル者ヨリ之ヲ選擧スルモノトス
第九條 本組合管理者副管理者助役收入役事務長技手各一名書記若干名ヲ置ク管理者ハ西松浦郡長ニ囑託シ副管理者ハ有田町長助役ハ有田町助役收入役ハ有田収入役ヲ以テ之ニ充テ事務長ハ管理者ノ推薦ニ依ㇼ組合長之ヲ定ム其任期ハ四ヶ年トス技手以下、管理者之ヲ任免ス
第十條 副管理者助役事務長ハ名譽職トス
第十一條 管理者ハ會議事務ノ外一切常務ヲ副管理者ニ委任ス
第十二條 管理者故障アルトキ副管理者之ヲ代理シ管理者副管理者共ニ故障アルトキハ助役之ヲ代理ス
第十三條 組合ニ關スル費用ハ組合財産タル磁石塲ヨリ生スル収入及其他ノ収入ヲ以テ之二充テ仍不足アルトキ組合各町村二對シ左ノ割合ヲ以テ分賦スルモノトス
有田町十七分ノ十 有田村十七分三 曲川村十七分ノ一 大山村十七分ノ一 大川内村十七分ノ二
第十四條 管理者組合會ノ議決ヲ經ラ磁石場事務施行闘スル細則ヲ定ム可シ
附則
第十五條 本規約ハ認可告示ヲ發シタル日ヨリ三日ヲ經テ之ヲ施行ス
第十六條 現在ノ議員ハ大正二年四月三十日限り全部改選ス
以上規約ノ下ニ共有地面積八町三反五畝二十四步採掘年額凡ソ千五百五十萬斤
而して當時磁石賣渡値は、釉薬石五百斤壹圓四拾壹錢武厘、一等石同壹圓四拾錢六厘、二等石同九拾壹錢四厘、三等石同七拾貳錢五厘 四等石同六拾貳錢七厘であつた。
深川六助の石場事務長
斯くて時の西松浦郡長樫田三郎管理者となり、副管理者に深川榮左工門事務長に深川六助が推薦されたのである。六助は親しく磁坑の現状を視察し、従來の不定則なる坑道より濫掘するのは、度々修繕を繰り返へすの愚を看破し、茲に積極的大改革工事を施し、凡べ従來の坑皮を破壊して、全然露天掘式となすの有利なるのみならず、採掘及び運搬能率の如きも非常に増加すべきことを案出したのである。
九州陶業者大會
大正二年五月西松浦郡陶磁器組合の主催にて、九州陶業者大會を有田町に開催し、五二會々頭前田正名、九州帝國大學教授工學博士中澤岩太等臨席し、斯業に關する有益なる講話あり、そして各製造地の代表者より提出されし利害問題に就いて、討議決定するところあつた。
久富三保助町長となる
大正二年七月一日久富三保助有田町長に就職した。彼前名三保太郎と稱し中村公世(梧道稱す、久富奥次兵衛昌常の四男)の四男にて、宗家久富興平昌起の遺籍をいだのである。
松村定次卒す
大正二年十一月三日松村定次卒去した、行年六十八歳であつた。彼れ前名甚九郎と稱し、有田郷の大庄屋丈右工門の子に生れ、俳號を山宇と稱した。資性剛毅恬澹にして、敢て小事に拘泥せず、良く民心を統治した。明治六年糧米窮乏して、外尾山窯焼を始め、甚だ困難を極むるや、彼は懸廳に交渉して、懸米三百五十俵を購ひ、以て補給するに及んで、各自皆其事業に安んすることを得た。
同十一年新村を十三區に別ち、各温に總代を設けて土木、治水及徵税上の便宜を計る等當時既に自治の範を示したのである。同十八年村内の金銭貸借及私事に關して、公裁を煩はし、且冗費を投するを遺憾とし、有田鄉六ヶ村規約なるものを制定した。其他陶家の燃料なる官林の拂下及石場事件の解決等盡瘁せしところ少からず、歿後有志等其功績を頌して、外尾山八幡社境内に、其記念碑を建設したのである。(大隈重信題額武富時敏の選文である)
大隈重信來山講演
大正三年十一月十四日伯爵大隈重信は、歸郷の序香蘭社に來り、石場、工業學校、深川製磁會社等を巡覧し、翌日は新築の有田小學校(此年六月十日落成)の講堂に於いて、全町民に呼かけて有田焼の地位を自慢し世界的に進展すべく大講演を試みたのである。
此際井手金作は大いに感激するところあり、手づから二尺八寸の大金魚鉢を精製(相島喜助孔雀醤を描く)し、佐賀市古賀製次郎の手を経て、之を大隈家へ寄贈したのである。蓋し伯の演説が大いに氣に入ったとは、金作らしい述懐であつた。
泉山磁礦區を買増す
大正三年五月九日有田町は、泉山磁石礦區二町九反一畝二十三歩を、伊萬里町の原茂七より、代價四千七百圓を以て買收すること成った。元來此礦區は、去る明治三十七年頃に於いて、兩郡堺松の隣地に、深海墨之助等が石場借區々域擴張を出願せしとき、なほ原料埋臓の見込める東方隣地が、鶴田次平の所有地となり居りしものありしが、明治二十七年三月三十一日次平より杵島郡住吉村宮野の中原親長に賣渡されたのである。
親易の製土事業
親長は、同三十九年一月十五日同地の樋口親易に轉賣した。而して親易は、該區を山の東部より採掘して宮野へ運び、此處に蒸氣機關を据付けて製土工業を起せしところ、豫て泉山原料の使用を希望せる小田志山は、早速之を購入して製作に資することゝなり、自然石場は競爭者を生じて大いに迷惑せしが、仲裁に依り所有權は其儘とし、採掘事務を一切石場に於いて取扱ひ、其手数料として賣上代金の一割を、石場組合に納入することゝして解決した。
而して該區は同四十一年十二月、一旦有田町の久富三保助の名義となりしも、同四十三年又再び親易の所有に復したのである。然るに此礦區は採掘するに從ひ漸々侵入して、本礦區の御用坑に及ばんとするに至り、将來必ず起るべき區域上の悶着を杞憂せる折、同年十一月十五日、前記原茂七の名義に移轉せしを機會として買收登記したるものにて、大正十年更に磁石業組合の名義に譲渡したのである。
正司碩讓卒す
大正三年七月四日正司碩讓卒去行年六十三歳であつた。彼れ壯年佐賀の産科醫赤司道哉に學ぶや、共蘊奥を極め、當代斯科の名醫として近隣に名高く、難産悉く彼の手腕を仰ぎしは勿論にて、たとひそれまでに至らざる者も、萬一の場合は彼を恃みとして出産せしといはれてゐる。彼れ資性直にして、情義頗る厚く公私に盡瘁せしこと少なからざりしを以て、岩谷川内區民は其徳を追慕して、猿川苑に頌徳碑を建設したのである。
大正三年九月一日大樽の片淵文逸卒去した、行年六十六歳であつた。彼は元杵島郡福富村の人先代梅三郎の男にて、資性勁直人に交はる頗る篤實であつた。本業刀圭の傍公事に盡せしこ少からす、就中自費を投じて女子陶畫練習所を繼續せしめし事業も、惜しいかな彼の死去と共に廢絶した(後陳列館前石庫内に於いて、徳見知敬が之を教授せしことがあつた)
松村辰昌卒す
大正四年一月二十八日松村辰昌東京に於いて卒去した、行年七十八歳であつた。
彼は外尾村松村丈右工門の末弟にて、幼名平吉後太夫或は俊平とし、又秀軒とし、好んで和歌を詠じた、資性俊邁能辯にして創業の機才あり曾て壯年の頃大川野の郡代役だりしことあり、後兵庫縣一等屬(租税課長)となりしが、明治十年致仕して、姫路に永世なる製陶事業を起せし外幾多の事業を經營せしが、晩年佐賀勸業課長を奉職した。又有田に寓居中、明治三十七年四月有田小學校に、補習科を創設しめたのである。
南洋視察員派遣
大正四年二月佐賀縣に於いては、南洋方面へ販路開拓の陶磁器業者より、視察員を派遣することゝなり、外尾山の青木甚一郎(松永卓二同伴)は、香蘭社店員蒲池徳一と共に、上海、香港、新嘉坡、古倫母、甲爾多、孟買等を視察し、電氣碍子其他多くの注文を得て、掃朝したのである。
品評會と藏さらへ
大正四年五月(1915年)陶磁器品評會(毎年五月一日より一週間)開催に際して有田之友を發行せる深川六助は、同人中島浩氣及徳見知敬と計り、此際陶祖祭を執行することを協議し、同時に各陶器店の一齊藏ざらへを擧行せしめんとの議を提出した 知敬は大いに賛成せしも、浩氣は同意するに頗る難色があつだ。蓋し古來より相當の陶佑に於けるペケ物や端物の如きは、多く嫁子供等の小遣ひ料とされ、買馴染のシガト(市外人の意かペケ物商人のこと)來つて一度に買へるものなるに、今一々之を洗掃して、店頭へ羅列せしめんには、頗る面倒がりて迷惑するならんというのであつた。
六助いふ、決して然らず、これ未だ市賣の興味を知らざるが故である、従來とても一部には實行されてゐるも、之が茶市の如く一齊に舉行されて例年の行事と成るに及べば、共間又準備工夫あるべく、若し方法宜しきを得ば、或は意外の發展を見るやも計られずと主張して止ます。浩氣に於ても、単に自家のローズ物を取出す程度のみなれば兎も角試みるも可ならんと賛同した。
然らば如何にして近縣地方人の群集を圖るか、是が先決問題たるべしといふことになり、其誘引策として、各種の催し物を興行するの方法を協識した。
協賛會員の活動
之より六助は主催者となりて営業者を勤誘し、就中有田青年會員は協賛を組織して、大いに助力活動せしものが、逐年の發展を築き上げた原因であつた。
斯くて全町の本通筋は装飾され、各店の前面には見切賣の陶器市が開催された。或は壹圓單位の福引券を發行し、又購買品は協賛会員無料にて、上下兩驛に運搬し、驛長驛員之に協力して、顧客の乗込みを助くる等サーヴィス至らざるなく、後年には臨時列車を發着せしむるに至り、顧客全町に群集して、今や賣上げ代約拾萬圓を突破するの盛況を示すに至ったのである。
諸種の餘興催し
又最初は來客誘引策として、當時の發案に基づき、開期中は劇場及び社寺等にて各種のアマチュア演藝や、催ほし物を舉行せしが、共餘興の種類には、例の義太夫大會を始め、謡曲會、俳句會、短歌會、歌留多會、圍碁會、將棋會、古陶陳列會、普畫骨董會、生花會、盆栽會、蓄音機會、三曲合奏會、筑前琵琶會、大弓會、撃剣會、野球、庭球、マラソン競技等何れも近隣郡の天狗達をして、吾と思はん者は飛入勝手たる可く歡迎したのである。
中にも職工競技會は、圖案と製作及着畫に分ち、有効且興味ある施設をなし、審査の結果優秀者へは、本縣知事より授賞したのである。要するに此陶器市は逐年發展し、今や工業學校の大運動會(最寄の佐賀長崎兩縣各小學生徒の優勝旗争奪競技)石場の大角力(九州大力士組と片屋佐世保る。
海兵團及艦隊より選択水兵との取組)と共に有田町年中行事の三大催ほしと成ったのである。
藏春亭の石炭大窯
大正四年藏春亭工場は、内徑十四尺に三十尺、高さ十一尺五寸の大型石炭窯を設計し、窯師田中喜代作を頭梁として築造を始めしが、其餘りの大形なるに、手傳ひ職人の中には、焼成の結果を危惧して、工事中辭し去りし者さへあつた。同業者中にも亦頻りに懸念するものありしが、工場主久富季九郎は次子二六と共に築造を指揮し、斯くて完成するや、第一回の試焼にさへ三畫夜を以て焼成せし好結果を示したのである。
藏春亭は又其後登窯を築造し、諸種の機械を装置して、工場の設備完成するや、年々各地より多くの参観者があつた。蓋し工場の表面に縦覧随意と掲出せしは、内外山の製陶工場中此處のみであつた。然るに主任者二六は八幡市久富合名會社理事として事務するに至り、昭和元年十二月に工場作業を中止するの止むを得なかつたのである。
大正四年十月東京市の陶器商團体は、陶業視察として有田町へ來山した。
久富三保助卒す
大正四年十二月三十日有田町長久富三保助卒去した、行年五十二歳であつた。彼れ資性恬淡にして、清素朴實、嘗て謂ふところ屢々衆人の意表に出ることあるも、良く其要締を失はなかつた。又頗る俳才あり瘦仙は其號であつた。
榮左エ門町長となる
大正五年二月十五日深川榮左工門有田町長に就職せしを以て、郡書記立川彌次郎の町長職務管掌を解任した。
大正五年五月有田工業學校に佐賀縣技術員出張所を設け、縣下一般陶業に關する質問に對し説明を興へ、諸材料の試験、礦物分拆等の依頼に應す便宜を與ふることゝ成った。
大正五年六月十一日後藤祐一卒去した、行年六十歳であつた。彼は稗古場の産科醫祜盆の男にて前名鯉太郎と稱し、資性英敏機才あり殊に辯論に長した。常に公務に斡旋して町政上の功績少なからず、又西松浦郡會議員となり其議長であつた。
榮左エ門緑授章を拝す
大正五年六月二十六日深川榮左工門緑綬褒章を拝受した。
佐賀縣西松浦郡有田町 深川榮左エ門
資性篤賓夙ニ祖業ヲ継ギテ陶磁器業ニ従事シ明治二十二年歐州ニ航ジテ製陶地ヲ視察シ歸來工場ヲ改築シ設備ヲ改善シ竪窯ヲ築キ大ニ製造法ニ改良ヲ加へ以テ海外輸出ノ發展ヲ圖リ又内内國産地ヲ巡歷シテ棚積法ノ改良ヲ行ヒ或ハ多額ヲ投ジ苦心研鑽新式改良ノ一軒窯ナルモノヲ創造シ以テ斯業ノ發達ニ資シ率先電信用高壓碍子ノ製造ヲ始メテ外國品ノ輸入ヲ防ギ其他徒弟學校設立品評會ノ開設等ニ竭力シ西松浦郡陶磁器同業組合長ニ擧ゲラレテ克クカヲ盡ス洵二實業二精勵シ衆民ノ模範タルモノトス依テ明治十四年十二月七日
勅定ノ緑綬褒章ヲ賜ヒ其善行ヲ表彰セラル
大正五年六月二十六日 賞勳局總裁従二位勳三等伯爵 正親町實正此證ヲ勘査シ第三百九十號ヲ以テ褒章簿冊ニ登記ス 賞勳局書記官正五位勳二等 藤井善言
舘林源右エ門の有田村々長
大正五年十一月二日舘林源右工門有田村長に就職した。彼は丸尾の農喜助の次男にて、元來斯かる職務には得意ならずとせしも、其誠意朴直にして赤裸々たるところ村民の悦服せしものであつた。
故榮左エ門に贈位
大正五年十一月十五日大正天皇陛下九州大演習御統栽に際し、先代深川榮左工門真忠が、生前斯菜の改良發展に盡瘁し、且公事に貢献せし功績に依り、特旨を以て從五位を贈らるゝに至った。依って深川一家は、故人の墓前に於いて奉告祭を執行した。又此際産業獎勵の思召を以て、松浦侍從を香蘭社及び深川製磁會社へ御差遣に成ったのである。
大正六年三月十九日雪竹豊吉卒去した、行年六十五歳であつた。彼は岩谷川内の釜焼武助の長男にて、資性快潤一見粗放なるが如きも、交はるに及んで厚情あり、衆に對して懇切であり、又能く財を投じて、公共事に盡せしこと少なくなかつた。
大正六年四月十二日富村富一卒去した、行年六十八歳であつた。彼は曲川村藏宿なる廣川柳平の舎弟にて、赤繪町なる富村森三郎の遺籍を嗣き、肥前物の神戸貿易商として、盡瘁せし一人であつた。
李参平紀念碑成る
大正六年十二月(1917年)我邦陶磁の始祖たる李参平の記念碑落成した之より先き徳見知敬は或衝動を受けて、陶租建碑の實行甚だ急なるを感じ、一日中島浩氣を誘ひ、二人は報恩寺裏に其墓碑を発見して大いに喜び、之より深川六助を計り、大正六年には陶祖李参平の三百年祭(死去の年より二百七十六年となるも當時不明なりし)を舉行すると共に、是非該碑を竣工せしむべく協議した。
之より六助と知敬は、各有志の賛助を得て、務委員として建碑の街に當り、深川榮左エ門をその委員長に推薦し、大樽の林源吉を工務委員となし、藤井寛藏をして會計を掌らしめた。其他協賛委員として辻勝臓、松本庄之助、城島岩太郎、川崎清一、蒲池駒作、後藤祐一、江頭累太郎、雪竹豊吉等を繋げたのである。
而して舊藩主鍋島侯、及び縁故深き多久男を始め、蓮池の鍋島子、鹿島の鍋島子、武雄の鍋島男等の賛助を得て、李氏頌徳會を組織し、大隈重信侯を名誉総裁に推戴した。斯くて巨額の寄附を酸集し得しかば、茲に長しへに其偉功を傳ふ可く、陶山社の後背蓮華石山の地をトし、以て一大顔徳碑が建設されたのである。なほ碑面「陶祖李參平之碑」の書は侯爵鍋島直映の揮毫に成り、裏面の銘は佐賀中學校長千住武次郎(今の肥前史談會長及佐賀圖書館長)の撰文にて、澤井如水の書するところである。
裏面の撰文
我カ陶祖李参平氏ハ朝鮮忠清道金江ノ人ナリ文祿元年豊公征韓ノ役方リ我軍ノ爲ニ盡瘁スル所尠カラサリシカハ慶長元年藩祖直茂公凱旋ノ際携へテ歸化セシメ参謀多久安順氏屬セシム金江ノ人ナルヲ以テ金ヶ江ノ姓ヲ胃ス初メ小城郡多久村ニ住シ其習熟スル所ノ陶ラ創メシモ良土ヲ獲ス元和年間松浦郡有田郷亂橋ニ來リテ陶業二從ヒ途ニ泉山ニ於テ最良ノ磁石ヲ發見シ白川移住シ初メテ純白ナル磁器ヲ製出ス此レ實二本邦ニ於ケル白磁器製造ノ嚆矢ナリ爾來其製法ヲ継承シテ以テ今日ノ盛ヲ見ルニ至レリ顧フニ李氏ハ我有田ノ陶祖タルノミナラス本邦窯業界ノ大恩人ナリ苟モ斯業ニ従事シテ其餘澤ニ浴スル者孰レカ其遺功ヲ欽仰セサランヤ
従六位 千住武次郎撰
建碑の地最も景勝に富み、眼を放てば質に全町を瞰下するに足る。一度びこの勝地に立たんか、黒煙濛々として空に昇り、陶窯點々として玉器を焼成するの狀得て言ひがたきものがある。會て西松浦郡長樫田白巖(三郎)の詩に
眼底家如櫛 窯煙起脚間
松風自萬古 李祖鎮陶山
とあり、すべてを言び盡して残すところがない。
又此際泉山磁礦地内に李参平の發見標を建て、尋報恩寺裏なる彼の墓地にも、改修を施す等、茲に有志多年の懸案を完成したのである。
納富介次郎卒す
大正七年三月九日納富介次郎東京芝公園内の寓居に卒去した、行年七十五歳であつた。彼は小城藩の國學家にて、神道實行教を開きし、柴田花守(琴岡明治二十三年七月卒八十二歳)の次子に生れ、父に就いて繪畫を學び介堂と號した。達識なる圖案家であり、曾て石川、佐賀、香川等の工業學校長であつた。幼年父に従ひて有田に寄寓し、特に此地の斯業發展に盡すころ少なくなかつた。(嗣子磐一工學博士の學位を有し、今東京芝浦電氣製作所の専務取締である)
帝國窯業會社
大正七年四月八日外尾村に於いて、資本金五拾萬圓の帝國窯業株式會社が創立された。之は辻清が、神戸の豪商内田信也(現茨木縣代議士前鐵道大臣)をして起業せしものにて、清は専務取締となり、松村清吾(定次の男)が常務取締として鞅掌し、そして古市熊太郎が技師長であつた。
又應法山にも第二工場を新築せしが、本工場は總坪數七千坪、内建坪五千坪にて、二百貫入トロンミル及び二十臺のスタンプ機を始め、最新の學理を應用せる萬般の設備を整へ、天草石を原料として、當時至難とされし硬質陶器の外國向食器類を製造したのである。
硬質陶器の研究
佐賀縣に於いても、有田工業學校技術員出張所に命じて、硬質陶器の専門的研究を行はしむるに至り、数諭押谷鐵三郎(滋賀縣人)は、其坏土調合に開する四千八百餘の試験に互り、一ヶ年内外の成績を発表して、共蒙を啓いた。
大正七年四月白川の窯焼山本周臓は、徑二尺五寸巾一尺二寸、深さ二尺の角形電槽の雛作に成功して、數百個を製造したのである。
黒田政憲卒す
大正七年十月九日有田工業學校長黒田政憲卒去した、行年四十九歳であつた。彼は福岡縣朝倉郡野鳥の人にて、静軒と號し、元秋月藩主黒田氏の支族と稱せらる。資性剛直不羈共一度ひ主張を成すや、自説を固持して屈せざれしも、一面には又寬宏恬淡たるものがあつた。明治三十三年一月瀬戸陶器學校長に就任し、四十二年四月清國四川省成都工業學堂教習、及び工業試験所部長であつた。曾て英國のダブルユージャクソンの著書 ケラミック・カルクレーションを和譯し窯業計算書と題して公にせる等、斯界に於ける篇實なる研究者であつた。
北白川・東伏見兩宮殿下御成
大正七年北白川宮成久王殿下有田町へ御成り遊ばされ。次に東伏見宮恢仁親王殿下御成りあり。御二方とも。香蘭社及び深川製磁社の工場を台覧遊ばされたのである。
大正八年八月深川六助主催となり、有田内外山窯業用の燃料として、地元山林拂下げの許可を其筋へ申請した。
大正八年十月愛知及岐阜兩豚の陶業者團体は、斯業視察の爲め有田町へ來たのである。
肥前陶磁器株式會社
大正八年十月肥前陶磁器株式會社を、有田町に設立した。従來は有力なる一部の製造家を除くの外、郡内の生産品は凡べて入札に依って、仲買人に販賣せられ、有田町の製品は有田陶磁器組合に、有田町以外の製品は伊萬里陶器株式會社に委託されしを、有田町仲買商人と製造家の一部は之を不便なりして、該社の設立を見るに至つたのである。
山階宮武彦王殿下御成
大正八年十一月十二日山階宮武彥王殿下には、香蘭社及深川製磁會社へ御成遊ばされたのである。
大正八年度には、西松浦郡内陶磁器製造業百十五戸、職工男千二百十三人、女七百三十四人、生產高貳百四抬壹萬五千四百五拾貳圓、内內地向貳百〇七萬七千七百貳拾壹圓、輸出向參拾參萬七千七百參拾壹圜といへる盛況を呈したのである。
肥前古陶展覧會
大正九年四月佐賀市の佐賀縣物産陳列館に於いて、肥前古陶展覧會を開設し、下より優秀なる個人の職品を蒐集して一般に公開した。中にも鍋島家内庫所出品の大川内青磁麒麟の置物(副島勇七作)、深川榮左工門出品の錦手鳳凰の大丼、野中萬太郎出品の古今里の大壺伊丹彦次郎出品の鍋島焼臺皿、山下卯一出品の古伊萬里奈良茶碗等三百數十点、何れも相當の品位と価値とを具備せる逸品揃ひであつた。而して肥前磁器の眞價をして、眞に郷土の地方人に味はしめたるは、實に此時よりといはれてゐる。
深川製磁會社は此頃より色鍋島や、柿右工門風の様式を試みて、種々の逸品を製作せしが、此刺戟に因りて、他の陶家にも亦研究的に、此種の意匠と製作に大いなる注意を拂ふに至つたのである。
泉山磁礦は三百年間濫掘せし爲に、其面を覆へる泥土は崩壊せる横坑へ侵入して、或は採掘不能となり、又平面以下に掘下くるには、放水路なき爲め、僅に修理の傍ら採掘するに過ぎなかつた。
従つて採掘料も彌々高償となり、今や五百斤にて一等壹圓四拾錢六厘、二等九拾壹銭四厘の石代を要求さるに至つた。故に日用品製造家は其質分を措きて、安く且製し易き他の原料を多く加用することゝなつたのである。
石場の大工事
深川六助は石場事務長就職以來此問題を研究し、來の姑息修繕を排して一大英斷的計畫を建てゝ組合員の協賛を求め、大正九年度より同十一年迄に完成せしむる豫定を以て、百八十間の放水墜道と、崩落部亜土排除に約拾萬圓投して、大工事を起すべく主張し、測量技師として平方藤次郎を雇用したのである。
該礦は之まで永年の雨と霧の爲に、風化されたる單味磁石と稱されしが、専門家の調査に依れば硫化鐡の含有と裂隙に明礬の如き硫酸塩の成生せる外、採掘場に硫黄臭を發することにして、此變化作用は主として硫黄瓦斯の作用と、温泉作用とに由って、新火山後陶土化したものといふのである。
有田磁石の埋藏容積
而して此埋臓量に就いて農商務省地質調査局なる伊原技師の測定に依れば現在泉山石場と稱する一丘阜地の面積五町歩に就いて観るに、往年堀下げたる竪坑既に百尺の地下に及びたるさへあるに推し、約三百尺乃ち海水準までは之を採掘し得ると認め、將來品質の等分を約五割と算せるも、百八十四萬六千噸を得べ~而して現在の年採掘高千七百五十萬斤して、向後尚七十五年間は採取し得べきものと算定されたのである。
而して有田町有田村の大部、及び大川内村大山村に連績せる山地は、新火山後の石英粗面岩より成る地質とて、現在此磁石系統と見るべきもの、尚數十町を隔てし山間より露出しつゝあるを以て、横面に於ける埋蔵量は實に莫大なるを想像すべく、たゞ是を如何に經濟的に探收し得るかは後人の工夫に待つの外ない。
大正九年九月二十五日名古屋市日本碍子株式會社常務取締役江副孫右工門(上幸平の窯焼なりし江副八藏の長子)は、第三七一六六號を以て碍子焼成法の特許を得たのである。
梨本宮守正王殿下御成
大正九年十一月二十八日梨本宮守正王殿下、同妃伊都子殿下(鍋島直大第二女)は、石塲採掘場に台臨遊ばされ、縣知事澤田牛麿及び管理者たる郡長樫田三郎が説明或は御下間に奉答した。尋で工業學校、物産陳列館深川製磁會社、香蘭社等へ成らせられ、そして前二社へ御紋章入の銀盃を下賜されたのである。
大戦後の好況
歐州大戦後の影響と、米價騰貴の結果、大正六年以來頗る好景氣を來し、諸種の富豪緻出せしさ共に、我有田の陶商にも亦此際産を起せし者少なくなかった。大正七年度の全國陶磁器の製産額は約四千四百萬圓に上り、而して此五十%が、外國市場へ輸出さるに至りしは、畢竟するに獨逸他の生産國が、此大戦の爲め南洋方面への貿易一時閉塞するの止むを得ざりし結果であつた。
大正九年度統計
大正九年度の有田町統計に依れば、窯燒五十五戸、赤繪屋四十餘戶、商估彙赤繪屋三十六戸であり。陶磁器商中輸出向は十四戶なるも、内地向は百三十戸に上り、産額百抬萬六千圓にして、此中の五十%を外國へ輸出せしものである。
大正九年度の西松浦郡製陶産額は、貳百拾四萬七千圓、内有田町百抬萬六千圓、有田村七拾五萬圓、大川内村拾壹萬九千圓、大山村拾貳萬參千圓、曲川村四萬圓であつた。而して大正元年よりの年別統計表は左の如くである。
大正各年別統計 西松浦郡年別統計表
大正元年度製產額 計一三〇四、〇二二
製造戶數一三〇 職工男七七七 女五三五
輸出向九二六、五三〇 内地向三七七、四九二
大正二年度同 計 一三〇九、五八六圓
製戶一三一 工男七六六 女五三三
輸出三四、〇〇三 内地三七五、五八一
大正三年度同 計 一〇〇五、一一九圓
製戶 五五 工男七六四 女五六五
輸出七五二、三六九 内地二五二、七五〇
大正四年度同 計 一〇七四、四三〇圓
製戸 五六 工男七八〇 女五四〇
輸出六五一、三七〇 内地三〇九、三〇〇
大正五年度同 計 一五〇一、五二三圜
製戶一〇三 工男八一九 女五三七
輸出四〇八、五〇〇 内地一〇九三、二七三
大正六年度同 計 一七三一、三四〇圓
製戶一一三 工男一〇三 女六一六
輸出四三四、九二〇 内地一二九六、四二〇
大正七年度同 計 二一一七、一五五圓
製戶一一一 工男一一六七 女六二三
輸出五八一、二六〇 内地一五三五、八九五
大正八年度同 計 二四一五、四五二圜
製戶一一五 工男一二二三 女七三四
輸出三三七七三一 内地二〇七七七二一
大正九年度同 計 二四七、八三六圜
製戶一一五 工男一一一二 女六四四
輸出二五〇、〇八八 內地一八九七、七四入
香蘭社の擴張
大正の製産額は、八年度を以て最たりしものゝ如く、此間香蘭社は六年五月に第二工場を、同年九月に第三工場を増設して、種々の設備と新式の機械を補充したのである。現在其重なるものは、ジョー・クラッシャー(粗割機)の外、ストーン・ローラー・ミル(回轉粉碎機)には、フレッド(細碎機)及び濕式トロンミルミューレ(轉碎機)七基の外 ミキシング・マシン(又ミッキサーといふ攪拌機也)フヰルター・プレス(壓機則ち土搾り機)ニーヂング・マシン(獨逸語のクネット土練機)パッグ・ミル(粘土精練機)ポット・ミル(繪具摺機)等である。尚従來製品の外、磁管、化學用品、蒸氣皿、高壓碍子等の新製品を加ふるに至った。
各工場の發展
又深川製磁會社も、同様新式の機械を据付けしは勿論、青木兄弟商會、久富藏春亭も益々工場を擴張して設備を完成し、辻工場は帝室御器調製を復興し、今泉の色鍋島漸く世に喧傳さるゝがあり、帝國窯業の硬陶彌々精製され、或は柿右工門會社が創立さるゝに至つた。
此他中樽の和久製陶所のタイル、瀬戸口勝太郎の膳附物を始め、上幸平は有田陶業所の南洋向護謨碗、大樽は城島岩太郎の刺綠皿、岩尾芳助の電氣用品、白川は山本周臓の化學用品、竹重良助の火鉢、深川六助の木捻シーリング、稗古場は中島政助の瓶掛類、岩谷川内は山口徳一、上瀧鹿之助の機械皿、松尾徳助の投入等何れも盛んに製造されたのである。
有田の舊商估
過去に遡って重なる陶商を列擧すれば、泉山の諸岡新太郎、上幸平の仁戸田源七、古賀長助、大樽の藤井彌九郎、井手廣作、井手長作、林源吉、本幸平の松本重助、川島祐一、赤繪町の北島榮助、中野原の庄村藤十、岩谷川内の角熊太郎、馬場虎臓、外尾宿の福島末一等があり。
伊萬里移住者には柳ヶ瀬六、川内愛作、田代宗一、小山丈太郎等があつた。
又外國向商估としては上幸平の松本次郎、大の藤井喜代作、手塚政藏、中野原の蒲地倉之助犬塚儀十、江頭累太郎、岩谷川内の山本壽作、外尾山の青木甚一郎等があり。外住者には田代市郎治、雪竹仁藏、馬渡俊明、富村富一、庄村富助等であらう。
近代の赤繪屋
次に金績業者として、優秀なる技術家には左の人々があつた。
今泉 藤太
昭和二年九月二十七日卒八十歲
赤糸町十六軒赤繪屋の一家にて、色鍋島の、藩用附今右工門の養子である。此十代藤太より自邸内に築窯して、素地を製造することゝ成つ
西山盛太郎
明治二十八年九月二十八日卒五十二歲
中野原の赤繪屋にて、十六軒の一家なる孝職の男で、斯技に就いては他の追従を赦さぬ獨特な手腕があつた。
庄村 健吉
昭和二年二月十三日卒六十九歳
赤繪町の赤繪屋にて、中野原なる先代勝三郎の四男である。斯業に就いては一隻眼を有し、古伊萬里及び支那附に新機軸がある。後年自邸に築窯して素地を製するに至つた。マークの晩香は彼の俳號である。
近代の窯技家
次に窯技家としては
梶原 幸七
大正十年十一月十一日卒七十一歳
黒牟田の窯焼にて窯業上の凡てに精通し、發明改良せしこと少なからず、近代の高麗人といはれてゐた。後年には青木兄弟商会の技師であつた。
橋口三次郎
大正十四年三月二十日卒六十一歳
泉山の窯焼にて、宗傳の傍系深海虎三郎の三男である。會て有田工業學校の教師たりしが、後年東京高等工業學校又は支那福建省工業専門學校に教鞭を執りしことがあつた。
山口 照次
大正十二年五月十二日卒四十四歳
本幸平の窯焼勇造の三男である、徒弟學校の出身にて有田工業學校の助手たりしことあり、窯技に秀で就中辰砂の發色に得意であつた。製品には角内に照字の銘がある。
辻 九郎
昭和三年一月二十六日卒三十八才
中野原久富源一の次男にて、辻勝臓の義子と成つてゐる。東京高等工業學校の出身である。
近代の名工人
次に近代の名工人を擧ぐれば(死去順)
古川 森吉
明治二十三年八月九日卒五十五才
赤膾町の轆轤細工人にて、特に小間物作りの名工であつた。後年には徒弟學校の教師として勤務した。
藤本源九郎
明治二十三年九月二十五日卒四十六才
外尾山の轆轤細工人にて、平鉢造りして獨歩の名人であつた。
深江藤一
明治二十四年二月十九日卒四十八才
白川の轆轤細工人にて犬塚民藏門下である、大は花瓶壺より小は酒杯に至るまで善くせざるなき名手で、香蘭社専属の工人であつた。
杉原三郎
明治二十四年三月二十三日卒六十歳
本幸平の轆轤細工人にて丼造りの名人にて、山口清吉の専屬工人であつた。
永松 甚三
明治二十五年四月二十一日卒四十四才
赤繪町の畫工にて、前に掲出せし爲吉の次男である。凡ての陶畫に堪能なりしが、殊に人物畫に長じ、運筆豪健硬毛なれば敢て筆を選ます、若穂先大に過ぐれば分ちて軸に括り、立ところに描なぐりし名工であつた。
金ヶ江常助
明治二十五年十二月十四日卒
泉山の轆轤細工人にて、小間物造りの名人である。辻家の禁裡御用品を製作した。
野口節之助
明治二十九年二月二十九日卒三十六才
白川の轆轤細工人にて、口物器造りの名工であり、犬塚民藏門下第一の高弟といはれてゐた。
四十六才
犬塚 新助
明治二十九年六月二十二日卒
中野原の轆轤細工人にて鉢造りの名人であつた。
佐々木七郎次
明治三十年九月十七日卒四十四才
大樽の畫工にて、辻家の禁裡御用品の御紋章描きである。
江原清四郎
明治三十一年六月三十日卒五十六才
上幸平の畫工にて紫山と號し、花鳥及人物畫の名工であつた。彼れの描くや常に筆を選みて一毛も忽にせず、而して畫くところの線細やかにして頗る精密であつた。
梶原愛太郎
明治三十一年八月三日卒五十六才
黒牟田の畫工にて、動物畫を善くし、松浦齊友松號し、江頭松助の門下であつた。
友永清九郎
明治三十二年六月三日卒三十六才
本幸平の轆轤細工人にて、小間物造りの名工であつた。
楢崎 武吉
明治三十二年七月十七日卒六十七才
上幸平の轆轤細工人にて、小形口物造りの名人であつた、徒弟學校の教師たりしこさがある。
江口 米助
明治三十二年十月十三日卒四十九才
白川の捻細工人にて、特に動物を得意とした、又徒弟學校の彫塑科教師であつた。
福富 作助
明治三十四年五月六日卒五十四才
佐賀郡中川副村早津江の士族にて、同地の村長である。唐人を善くし、折々來つて岩谷川内の藤崎太平方の大花瓶に描きしものにて、小遣銭を得れは瓢然として歸り、乏しくなれば又卒然として來り執筆した。海軍大尉福富敬次郎の父である。
松尾 定七
明治三十五年一月二十八日卒六十二才
白川の赤繪屋商人にて、武者繪の大物猫の名手であつた。
篠原 房助
明治三十五年八月二十一日卒五十七才
稗古場の窯焼にて轆轤細工に長じ、就中花器及壺の如き巨器が得意であつた。
中原伊之吉
明治三十六年六月九日卒五十六才
稗古場の工にて南岳と號し、唐子繪描の名人であつた。伊平の父である。
金ヶ江長作
明治三十八年八月二十二日卒六十二才
稗古場の捻り細工人にて、獅子仙佛等に長し、特に角物細工の名手であつた、又俳諧を好み有山と號し、香蘭社専屬の工人であつた。
西山萬次郎
明治三十八年 十月二十七日卒七十一才
黒牟田の工にて、江頭松助の門人である。
久間 貞次
明治三十九年七月十八日卒五十才
泉山の畫工にて前に掲出せし平吉の長男である納富介堂の門下にて叉高柳快堂に就いて南畫を修め、花鳥繪を得意とせし當時の名工であつた。
松田 皎山
明治四十年頃卒
三養基郡田代村の畫師にて又器東號し、有田に來つて陶畫を描き後歸郷して卒した。
江原 傳吾
明治四十四年十月二十日卒五十六才
泉山の畫工にて巨溪と號し、嘗て南畫を學び且圖案に長じた、始め深海年木庵の工人なりしが後徒弟學校より引つづき有田工業學校の陶畫教師であつた。
福島利次郎
大正二年一月二十二日卒七十二才
黒牟田の轆轤細工人にて、立林仁藏の門下である。梶原友太郎が製作せし四尺の巨鉢を地伸べせは此の利次郎であつた。
山口 由藏
大正二年十月二十七日卒八十才
黒牟田の工にて江頭松助の門下である。
諸隈 万藏
大正四年三月五日卒
大樽の元窯焼にて轆轤細工の口物造りの名手であり、工業學校の教師であつた。
原 助作
大正四年五月十日卒七十才
中樽の轆轤細工人にて、奈良茶碗造りの名手であつた。
廣川惣一
大正四年六月七日卒七十才
中樽の轆轤細工人にて小間物造りの名人で、香蘭社の専屬工人であつた。
江上熊之助
大正五年六月十二日卒七十九才
稗古場の窯焼にて染附の山水繪を善くし、共畫風枯淡にしてる雅趣があり、世に熊一山水の稀があつた。蓋し熊一は其子である。
江上 熊一
大正七年十月三十日卒五十八才
稗古場の窯焼にて前記熊之助の男である。製陶に巧みにして特に角物細工に長し、燈籠造りの名人であつた。
小山直太郎
大正八年二月四日卒七十九才
白川の轆轤細工人にて、口物巨器造りであり犬塚民臓の門下にて、後年徒弟學校の教師であつた。
福地辰一郎
大正八年五月二十三日卒七十六歳
本幸平の畫工にて、元佐賀郡高木瀬村三本松の人、故に三松と號した。諱は弘範又白友生の別號があり、畫を小城の柴田琴岡に學び、就中人物及動物が得意なりしが、特に鯉を描くに妙を得て鯉堂と號し、香蘭社専屬の名工であつた。
相原 源吉
大正九年五月九日卒五十八歲
稗古場の捻細工人にて、人物及動物の彫塑に長じてゐた。金ヶ江長作の門下にて重に香蘭社に勤務せし工人であつた。
橋本 惣六
大正十一年二月五日卒七十七歳
大樽の轆轤細工人にて鉢丼何れも練達せしが、特に玉緑細工の名人であつた。
深江兵之助
大正十三年二月十六日卒七十二歲
泉山の窯焼鶴次郎の男である、轆轤細工に長じ、奈良茶碗造りの名手であつた。
北島榮四郎
大正十五年七月九日卒五十五歳
岩谷川内の轆轤細工人にて、花瓶造りなるも、亦大形の高碍子の製作に長じ、香蘭社専属の工人であつた。
山本 源四郎
昭和二年四月二十四日卒六十二歲
本幸平の捻細工人にて人物及動物が得意であり金ヶ江長作門下にて香蘭社専属の工人であつた。
中島 政助
昭和七年十月三十日卒六十五歳
稗古場の窯焼にて器の轆轤細工人であり、殊に瓶掛造りの名手であつた。
井手 金作
昭和八年八月二十九日卒六十八歲
白川の窯焼にて、轆轤細工に於ける巨器製作に於いて近代比類なき名工であつた。
相島 喜作
昭和九年十月三日卒七十一歳
上幸平の工にて貴學と號し、特に山水繪の名手であつた、元大川内の出身である。
北川 福治
昭和十年二月十二日卒五十三歲
大樽の轆轤細工人にて小間物造りの名手であつた。後年作陶新人會員の陶家として創作がありその製品には北川の銘がある。
此外學校粕書部の教師なりし寄寓者には、淺井松湖、佐藤鶴舟、藤井紫水、藤卷直治、腹卷丹丘等があつた。
大正十年三月二十日藤井喜代作卒去した、行年八十歳であつた。彼は先代貞吉の次男にて惠七の舎弟である。陶商の外公共事に於いても盡瘁するごころ尠なくなかった。
深川六助縣會議員に當選
大正十年四月二十一日深川六助佐賀縣會議員に當選し、縣參事會員に選擧されたのである。
地元山林の輪伐計畫
現今我邦の製陶産額四千萬圓、其の約三分の一を燃料代を見れば、千三百萬圓の價格となる。而して我西松浦郡の製陶(赤繪屋を加へ)用薪材の使用量は、一ヶ年約四千萬斤である。此數量を生産せんには、四千町步の林野を要する。今之を三十ヶ年毎に、輸伐するとして千二百町歩の林野を経営することに依って、漸く之を充たし得る勘定となる。
而して現在有田地方の國有林野は、岩越二百二十三町步、八幡本百六十五町歩、大繪本三百十九町歩、大川内二百六十八町歩、外に若干の私有林あるを以て毎二十ヶ年伐採して八百町歩あれば産地附近の林野のみを以て其の供給を充たすに足る。故に政府は我邦の陶業を保護する見地より、宜しく先づ敕令を改訂して、陶磁器燃料の爲めに特賣拂下げの範圍を擴張すべしさは、深川六助が主張する意見であつた。
敕令改訂
故に彼は先づ有田同業組合の賛意を得、此組合の名義を以て、全国の同業組合へ檄を飛ばし、協力一致して、敕令改正の運動を爲すべく慫慂せしが、何れも之に應せざるを以て、六助は本縣知事、熊本大林區署長及び代議士西英太郎等の懇切なる壺力を得て單獨運動を爲し、途に大正十年度より、地方産業に必要なる新材の特賣には、金高の制限を撤廢する敕令の改正を見るに至りしが、この西松浦郡陶磁器同業組合の運動達成の結果、全國の同業者も亦其恩恵を蒙むるに至つたのである。
間野内務部長
大正十年佐賀縣内務部長間野一は、有田焼の刷新に留意し、豚の主催の下に、縣費を以て有田磁器の懸賞圖案を募集し、之を佐賀市の商品陳列館に於いて展覧に供した。又先きに舉行せし古陶展覽會の企畫の如き、いづれも將來有田焼を畫策研究するには、古代よりの歴史を識ると共に、又其殘缺に由つて古陶を見直すの必要ありなし、更に板野川内百間窯の舊趾を發掘し、其破片を蒐集して、有田工業學校に陳列せしめ、以て斯道研究の資料たらしめたのである。
岩尾合資會社
大正十年七月資本金五萬圓の岩尾合資會社が創立された。岩尾家は元來韓人の直系と稱せられ、代々大樟に於て営業しが、大正八年當主芳助卒去せしより、舎弟卯一が業務擔當者となり、當工場の外上幸平の有田陶業所を買收して改築し、之を第一工場になし、大樽を第二工場に改めた。斯くて耐酸磁器碍子及び磁製ローラ等、専ら化學的特許品を製造するに至つた。
就中超耐酸磁器中に於ける、バッキン管類に至つては、良品を廉質へのスローガンの下に、他の追従を許さざる特長品といはれてゐる。従來此種の磁器は、外國製品、又は高山耕山会社の獨製品させられしも、當社は獨逸製品との競争を目標として、苦心研鑽の結果は、大いに将來を嘱望されつゝある。そして目下トロンミル八臺、スタンプミル四臺其他新式の機械を設備し、年産額拾貳萬圓を擧げつゝある。
小沼直工業學校長となる
大正十年七月二十七日まで校長心得であつた小沼直は、有田工業學校長に任命された。彼は長野小諸町の人にて、元兵庫縣試験所の技手であつた。
波佐見陶磁器會社と合併
大正十年先きに有田町に創立されたる肥前陶磁器株式會社は、其営業の目的を同しうする長崎縣波佐見陶磁器會社と合併し、佐賀長崎雨の製品を、毎月二回宛交互に入札販賣することゝなつた。
大正十年十月二十六日黒牟田の梶原友太郎卒去した、行年八十歳であつた。彼は先代菊三郎の長男にて、資性淡快衆望あり、又斯業並びに公事に盡力した。嘗て花瓶壺の如き口物に至つては、他山に於て、丈餘の巨器さへ製し得べきも、巨大な平鉢は容易に造り得べからずとなせしが、彼は徑四尺の大鉢を製作して以て我泉山の原料が、如何に強靭性の硬質なるかを社會に示したる第一人者であつた。
梶原幸七卒す
大正十年十一月十一日梶原幸七卒去した、行年七十一歳であつた。彼は前記友太郎の弟にして同地の窯焼忠助の養子であつた。
性温厚篤賓敢て人と争はず、青年より斯業の研究を以て無上の娯楽とした、故に數里の旅行にさへ必ず其地方の礦石土塊を採集して歸り、其用途について種々試驗せしものであつた。 明治三十一年外尾山に移轉營業せしも、常に研究に耽りて、遂に家産を蕩盡したのである。
同三十五年より青木兄弟商會の工場技師となり大正八年に至るまで勤務しが、其間諸種の研究發見に由つて、斯業に貢献せしこと甚だ少からず即ち陶窯の改良に、素焼窯の不用に、又は石炭の使用、石灰釉の研究、及び釉下彩料の發見等を始め高壓碍子、罅焼製作、京人形、硬質土鍋、耐火目砂等世に知られざるもの頗る多く、大正十年三月三十一日實業功績者として、郡長より表彰されたのである。
肥前陶報發刊
大正十年十一月十五日肥前陶報第一號が發刊さるゝに至つた。本紙は當時の青年商估なる赤繪町の庄村吉郎(二代晚香)本幸平の松本臺太郎(重助の長子)同松本榮治(政次郎子)大樽の浦田林一(住吉村長丸田源一の弟)岩谷川内の馬場森作(虎臓の養子)等に因て發企さ大宅經三主筆となり、古賀勇事務を擔當し、庄村吉郎が其發行人となりて之を斡旋せしが、同十二年末より上幸平の松本静二(庄之助の男實は渡邊源之助の次子)に由て担任継承さるに至った。
大正十年度西松浦郡陶磁器生産額は、従來の最高八年度を少しく凌駕し、貳百四拾參萬七千八百七拾九圓を示すに至った。尚佐賀縣下に於ける磁器及陶器の十年度産額表を擧ぐれば左の如くであ
佐賀縣陶磁器製産額
佐賀縣二、七〇〇〇神埼郡五。五五五小城郡九八五、三養基郡一一、八五○杵島郡一四四、八八〇藤津郡八五九、四一三西松浦郡二四三七、八七九合計三四七一、六六二圓であつた。
大正十一年一月四日川崎精一卒去した、行年七十一歳であつた。彼は大樽の窯焼金子安吉の四男にて始め清一郎と稱した。田代紋左工門の末弟川崎右工門の養子となり、有田銀行の専務として今日の大をなさしめたものである。又公私の事に盡すや、剛直猥りに雷同せず、蓋し一度び口約するに及んでは、再び其是非を問はず必ず履行せし責任の自覺者であつた。
大隈重信卒す
大正十一年一月十日侯爵大隈重信卒去した、行年八十五歳であつた。彼は藩祖直茂の侍臣大隈安藝守茂隆入道茂了の後胤にて、佐賀會所小路なる興左工門信保の男である。八太郎の往時より大勳位首相の顯職に至るまで、常に我有田焼の發展に盡力せし一人であった。而して又有田有志にて、彼の知遇をうけし者少からざる中に田代紋左エ門、先代深川榮左工門、瀬戸口富右工門等は其尤なるものであつた。
徳見知敬卒す
大正十一年二月二十五日徳見知敬卒去した、行年七十歳であつた。彼は小城藩士にて有田戸長たりし知愛の長子であり、通稱半之助といひ英南又荻村と號し、資性温厚篤實良く衆と和した。幼年長崎廣遠館に皇學を修め、又畫を納富介堂に學び、特に古伊萬里式の圖案に長じた。明治三十二年徒弟學校教師となりしより引つづき有田工業學校教諭として在職するこ十七ヶ年であり、其間公事に盡瘁せしこと少なくなかつたのである。
大正十一年四月五日有田商工者一同は、外尾、黒牟田及び中尾、江永の同業者数名の参加を得て京都、尾張の陶業地視察團を組織し、同勢四十七人松本静二、那須惠(工業學校教諭)幹事となり出發した。斯くて観察を終へし一行は、十三日東京に着し、折から上野開催中の平和博覧見物を以て解散した。
大正十一年四月十八日御來朝の英國皇太子ウエールス親王殿下に對し、製磁社長深川忠次は、自製の二尺七寸の花瓶及珈琲器一揃を献上した。
小畑秀吉の窯業會社
大正十一年帝國窯業會社は、經營意の如く成らざるを以て、社長内田信也は之を買却するに至り、小畑秀吉譲り受けて營業することとなり、取締役として松村清吾の外、金ヶ江賴四郎、廣川真澄、酒井田柿右工門等之に就任し、釣村芳が技師長となった。斯くて對州白土三ッ石蠟石、本土等を混合して、一種の新硬質陶器を完成し、製品は熊本市紺屋町の陶器商鳥居嘉七郎が特約販賣者さなつて引き受けたのである。
大正十一年六月十七日京都陶磁器商陶友會員四十九名、名古屋窯業新聞の水野破琴等と共に、肥前陶業視察の爲め伊萬里に來り、同地商人の歡待にてセッ島に鯛網を見物し、二十日有田に來り石場、工業學校、香蘭社、製磁會社、藏春亭、山徳工場等を縦覧し、尋で陳列館階上にて歡迎宴が開催されたのである。
有田商工會
大正十一年九月一日有田商工會長(元は田代呈一)に深川榮左工門、副會長に松本静二、幹事には深川六助、手塚嘉十(政藏養子)が推薦されたのである。(現在會長は松本靜二)
青木の職工追悼會
大正十一年十一月一日青木兄弟商會は報恩寺に於いて、同工場創立以來雇用期中に死去せ技師梶原幸七外職工三十二名の追悼會を執行し、其遺族及び現在職工百五十餘人を招待して慰安會を催したのである。
大正十二年一月福岡市境製陶所に勤務中の梶原彌七(幸七の男)は佛國式素地製型機を發明し小沼有田工業學校長の證明に依り、京都陶磁器試験所に於いて試作せしところ、其有効なることを認められ、同市平井鐵工場にて製作することを表した。
大正十二年二月一日より深川六助の發起にて、名古屋の竹内敬二を講師に聘し、物産陳列館内に於て油繪轉法、印畫着色、盛繪等の赤附講習會を開きしが、授講者三十名にして二十八日終了した。
磁器卓子
大正十二年二月井手金作が研究的製作せる徑二尺五寸及三尺の磁器卓子完成し、大樽の藤井紫朗(喜代作の男)之が登賣元であつた。
深川忠次有田町長となる
大正十二年二月二十三日深川忠次は、有田町長に就職したのである。
深川六助卒す
大正十二年三月五日深川六助卒去した、行年五十二歳であつた。彼は藍山と號し白川の窯焼常藏の次男に生れ、幼にして英敏俊才の聞へありしが、明治二十年一月文部大臣森有禮が、有田小學校巡魂の際、校長江越禮太の推薦に困り、彼は十六歳の少年を以て選択生として東上し、有禮の書生となりて美術學校へ通學すること>成った。
同二十二年二月二十一日不幸有禮兇徒の爲め遭難せしかば、彼は横濱の叔父田代市郎治の經營せる田代屋に入り、同三十八年六月農商務省囑託の視察員として、米國聖路易博覽會に出張した。其後横濱より名古屋へ轉せし舍兄平太郎が設立せる田代商會の取締役となりしも、不治の病に罹り静養の爲め、故山へ歸臥するに至つたのである。
斯くて同志と有田之友を發行しつゝありしが、病少しく怠るや再び起つて陶業の傍公共事に盡瘁し、町會議員となり、或は西松浦郡陶磁器組合員同山林組合議員を始め、大正八年郡會議員となり同十年縣會議員に當選し、同十一年佐賀縣地方森林會議員に選舉され、其他産業組合、道路改築、公設市場等實に短期間の活動に於いて幾多の事業完成したのである。
伏見宮博恭王殿下御成
大正十二年三月十八日伏見宮博恭王殿下には、香蘭社及深川製磁會社へ御成遊ばされたのである。
鍋島直映來山
大正十二年三月二十九日侯爵鍋島直映(直大の長子)は、夫人禎子及び令嗣直泰と共に有田に來り、香蘭社、泉山石場、工業學校、深川製磁會社等を参観した。
大正十二年四月三十日雪竹仁藏卒去した、行年七十一歳であつた。彼は岩谷川内の先代唯吉の長男にて、少年より香蘭社の店員となり、嘗て渡米せこともあった。後年獨立して横濱元濱町四丁目に貿易を開始せるうち、米人ビーグンバイツに其俊才を認められ、明治三十七年名古屋東區主税町に、コンミッション商會を設立して之が支配人となり、同時に名古屋陶磁器貿易商同業組合副長なつた。又同市千種町松軒に於いて製陶業を經榮したのである。
大震災の給恤品募集
大正十二年九月一日關東大震災起り、帝都は焦土と化したる大惨事の悲報に接せし有田町は、六日有田在鄉軍人分會(分會長滿松惣市)、有田青年團と協力し、各戸より日用食器の磁器を蒐集することに決議し、惣員二百三十餘人、七日より大活動を起し、食碗、皿、鉢 丼、湯吞等三萬餘個を募集し得たれば、之を二百八十三棚に荷作した。
而して愛國婦人會員又等しく奔走し、各戶より募集せる衣類二十七梱、及び小町民の手に由つて集め得る梅干十五樽と共に十三噸貨車に満載し關東地方震災救護事務所へ向けて輸送した。就中深川忠次、松本静二、岩尾卯一の如きは何れも莫大の陶器を提供せしといはれてゐる。
此青年達の活動は、婦人會員及少年達ともに熱誠なりしと共に、應募者の同情又極はめて甚深なりしは勿論なるも、中には赤貧の家計より許多の陶器を購入して提供せし者や、或は自家日用器の大部分を提出せし職人の如き、眞に涙ぐましきまでの人情美を發揮せし者少なくなかったのである。
手塚五平卒す
大正十二年十二月二十二日手塚五平卒去した、行年八十歳であつた。彼は先代嘉七の長男にて、青春より田代本家の陶業に従事し内外の支店を管掌したのである。明治十五年縣會議員となり、嘗て有田の公共事に於ける概ね彼の興らざるものなき程であつた。大正七年三月三十一日永年の學務委員たる功績者として、郡長より其精を表彰されたのである。大正二年五月より石場定番として通勤し、傍ら各區の講話會に講演せる等、常に利得に敏からざる謹直の人格者であつた。
松浦陶磁報發刊
大正十三年五月二十五日平林専一松浦陶磁報を發刊した、彼は先代伊平の長男にて、孤嘯又紅溪と號し、久しく上海に在りしが今や故園に歸りて、縦横の筆劔を挿ふに至つた。
大正十三年八月十四日有田陶磁器購買組合復活され、組合長に深川榮左工門専務理事に山口徳一が推薦されたのである。
森窯業會社
大正十三年九月一日森峰一は、帝國窯業會社を小畑秀吉より買収して、森窯業會社改稱し、建築材料のタイルを製造することなつた。彼は元大橋の窯焼友次郎の男にて、久しく満洲にありて磯山事業を経営しつゝありしが、今や郷里に於いて、父祖の事業を復興した。
久邇宮邦彦王殿下御成
大正十三年十月久邇宮邦彦王殿下には、香蘭社及び深川製磁會社へ御成遊ばされた。
本邦陶磁器製産額表
大正十三年本邦陶磁器府縣別產額表
愛知縣 二七、八九七、四二六圓
岐阜縣 一二、四〇二、六九四
京都府 四、〇四二、〇六四
佐賀縣 三、五六二、六九二
三重縣 三、二五五、八〇八
石川縣 二、四四一、七五七
福岡縣 一、九五六、〇六七
長崎縣 一、八八六、〇四三
大阪府 一、八二二、五三四
兵庫縣 一、六六八、二六四
滋賀縣 一、六二八、二三〇
山口縣 一、一四七、六一七
福島縣 一、〇一六、一六三
其他 三、八〇六、九一七
合計 六八、五三三、二七六
博恭王殿下再度の御成
大正十四年春伏見宮博恭王殿下、同妃殿下には、香蘭社及深川製磁會社へ台臨あらせられ、香蘭社に於いて素焼坏器へ御染筆遊ばされたのである。
小泉角五郎工業學校長となる
大正十四年六月十一日有田工業學校長として小泉角五郎任命された。彼は長野縣の人にて、明治二十二年東京藏前の職工學校(高工の前身)を卒業し、同三十二年高等工業學校助教授兼農商務省技手に任じ、同三十四年十二月石川縣立工業學校教諭となり、大正五年四月より愛知縣工業試験場長たりし斯界のオソリチーであつた。
大正十四年山本周臓は、大瓶掛を匣鉢積にて焼成することに成功した。是より先き十一年、彼は此法に由りて、二尺の瓶掛を焼成せしに残り少なく破損せしが、其失敗を重ねる毎に工夫研鑽して遂に九十%の好成績を擧ぐるに至り今や二尺六寸合計まで、此匣鉢積に依って完成し得るに至つたのである。
大正十四年十月二十三日有田工業學校は縣立さなりしより茲に二十五周年の祝典を繋ぐるに至つた。去る明治三十七年三月、第一回の本科卒業生を出せしより、本年三月まで二十三回に及ぶ卒業生四百〇八名、別科卒業生百五十二名、併せて五百六十名であつた。
大正十四年事業の発展に連れて、有田町住宅の不足を生じ、従つて他村より通勤の工人等は不便からざるを以て、有田町は五萬圓を投じ各區に別ちて、町営住宅四十二軒を新築したのである。
本邦陶磁器輸出國別表
大正十四年度本邦陶磁器輸出國別表
米國 一二、〇二二、〇四七圓
蘭領印度 五、八二五、九四五
支那 三、四七六、八一七
印度 三、四七五、五九三
濠洲 一、〇三二、二一九
海峽殖民地 二、六三三、四四一
其他 六、八〇六、六七六
合計 三五、二七二、七三八
大正十四年十一月九日名古屋市日本碍子の江副孫右工門は、第六六四九〇號を以てトンネル窯の改良につき特許を得しが、昭和四年一月二十二日第八〇〇五五號を以て、再びトンネル窯改良の特許を得るに至つた。
白川石の山道成る
大正十五年八月白川石運搬の山道開築が落成した。該石は白川谷の奥なる黒髪山の西部より産出する長石質にて、主として釉薬に用ひられ、間々素地料に併用さるのである。明治三十五年頃までは、田代彥四郎(呈一の男)が國有林中を借區して採掘せしが、其後町營に更されたのである。
而して此白川石を、墓場送りまで搬出するには一駄十五錢宛を要するを以て、石場事務長上瀧鹿之助は、頗る之を不便なりとし、石場より壹千圓を支出し、又山林部に交渉して壹千回を支出せしめ、合計貳千圓の経費を以て車力運搬の道路を築造し、斯業の爲め大いに便宜を得るに至つたのである。
大正十五年九月九日松尾徳助卒去した、行年七十歳であつた。彼は先代勝太郎の長男にて、資性剛膽不羈其研究に對するや、不屈ほれて後止むの氣骨があつた。而して製陶上種々の有益なる發見を残したのである。
大正十五年十月二十二日城島岩太郎卒去した、行年七十二歳であつた。彼は先代熊三郎の一子にて資性明達にして識見あり、常に同業者中の牛耳を執り、斯業の發展に盡瘁するのみならず、且公共事に貢献せしこと少なくなかつた。
海江田侍の來有
大正十五年十一月肥筑平野大演習に於ける 大元帥陛下御名代の閑院宮載仁大將宮殿下には、産業奬勵の思召を以て、侍従子海江田幸吉侍従武官蓮沼蕃とを、有田工業學校並に西松浦郡陶磁器組合へ御差遣遊ばされたのである。
此際辻勝藏は、佐賀御泊所に参上して、閑院宮殿下に拝謁を請ひ、御前に於いて持参せる窯出しの儘なる極真焼の外被を破壊して、御實檢に供し奉り、親しく御説明申上たのである。
李王垠殿下御成
又大演習御見學の李王垠殿下には、香蘭社及び深川製磁會社へ御來駕あらせられ、製磁會社に於いて、素焼器へ御染筆遊ばされたのであつた。
摂政宮殿下へ献上品
大正十五年十一月大演習御統監のため、御下向あらせらるべく仰せ出されたる摂政宮殿下へ、佐賀縣より香蘭社謹製の、鳳凰彫刻桐模様尺五寸の花瓶一對を献上した。
森峰一代議士に當選
昭和二年二月二十日森窯業會社々長森峰一は、本縣第三區選出の衆議院議員に當選したのである。(窯業會社は同四年に至り廢窯に歸せしかば、同十年再び小畑秀吉に買戻され、秀吉は自己經營の岡山なる明治窯業所の分工場として、筒江の原石等を混用して、製するこざゝなったのである。)
昭和二年三月二日名古屋市日本碍子の江副孫右工門は、第七一二五二號を以て、陶磁器用繪附窯の特許を得たのである。
江越米次郎有田町長となる
昭和二年三月二十三日江越米次郎有田町長に就職した。彼は先代禮太の次男にて、永年逓信省に奉職し事務官たりしが、今や先考の遺業地に於いて、町政を管掌するこざゝなったのである。
青木甚一郎の有田村々長
昭和二年四月一日青木甚一郎有田村長に就職した、彼は先代茂助の長男にて兄弟商會の主人である。
今泉藤太卒す
昭和二年九月二十七日十代今泉藤太卒去した、行年八十歳であつた。彼は白川の窯焼稲富武の次男にて、九代今右工門の養子である。内地向は勿論て工趾を組織して外国貿易を盛んにせことあり。累代色鍋島の藩用赤屋とて、斯業に就いての造詣頗る深く、當時ワゲネルにつき、家傅の顔料調製を科學的に研究して大いに發明するところがあった。
赤釉窯の焼上げ色見法につき、其頃までは、ただ上部より火色のみを見て、焼成度を測り居りしを頗る不便なりし、藤太工夫して掩ひ板の間に筒穴を装置し、色見の破片を針金に括りて、之を取出す法を創始したのである。
高取家の寄附
昭和二年冬佐賀縣會に於いて、窯業試験場設立案議決され、經常部より九千九百七拾参圓、臨時部より參萬七千圓を支出するこなり、唐津の特志家高取伊好の遺志に由り、同家より五萬圓の寄附を受くるに及びて、有田町に第一試験場を、藤津郡撫田町に第二試験場を設立することと成った。而して之が何れに設置さるも一ヶ所として、研究に全力を傾注せしめざるは遺城であつた。
高取伊好
高取伊好は、小城郡多久の藩士鶴田斌の三男にて、高取厚の養子となりし者である。
始め生三郎、深造、又節之助とした。經史を草場佩川に受けて造詣最深く、字は好郷號を西溪さ云ひ、邑主多久茂族の侍識となった。明治七年學寮(慶應義塾)を終へて、直に炭礦に従事し、刻苦精すること前後四十年間であつた。
斯くて富數千萬を累ぬるや、神戸の岡崎藤吉と並んで本縣出身の兩長者と稱せられ、社會公共の爲めに貢献せしことからず、明治四十四年一月緑綬褒章を下賜さるに至った。昭和二年一月行七十七歳を以て卒去せしが、功を以て特に従六位に追叙せられた。今多久公園に銅像として、其雄姿が建立されてゐる。而して養子盛及嗣子九郎共遺志に從ひ、國産陶磁器向上の爲めに、巨額の研究費を寄贈せしものである。
昭和三年二月二十三日江頭累太郎卒去した、行年六十三歳であつた。彼は白川の先代助吉の長子にて、資性明敏機才あり、少年時代より香蘭社の店員となり、横濱支店長の頃、店務を帯びて渡米せことあった。後年獨立して中野原に於いて貿易事業を始め、昭和二年一月には南米、濠洲、伊土、白、匈、南阿等に直輸を開始し、傍ら公共事に盡瘁せしこさ少なくなった。又俳句を好んで白川と號したのである。
昭和三年四月二十五日黑牟田の梶原清藏は、第七六五三〇號を以て白色模様を有する陶磁器製造法の特許を得たのである。
久富の教育資金寄附
昭和三年四月中野原の久富季九郎(既に八幡市大藏へ轉任)は、有田小學校に於ける陶技の實習教育基金として、公債壹萬寄附したのである。
褒狀
八幡市大藏 久富季九郎
昭和三年四月佐賀縣西松浦郡有田町有田尋常高等小學校技藝獎勵資金トシテ四分利國庫債券額面壹萬圓寄附ス仍テ褒章例ニ依リ之ヲ表彰セラル
昭和三年九月二十五日
賞勳局総裁 従四位勳二等 天岡直嘉
昭和三年五月十二日有田工業學校長小泉角五郎病を得て辭職したのである。
藤木保道工業學校長となる
昭和三年九月十日有田工業學校教諭藤木保道が、同校々長に任命された。彼は東京本郷區真砂町の人にて、明治三十九年八月岐阜県土岐郡立陶器學校の教諭なりしが、大正十五年より當校内技術員出張所に於いて、縣技師として原料試験及び陶窯の設計に従事しつあつた。
昭和三年九月二十日歐米陶業視察の途にありし香蘭社副社長深川隆(九代榮左工門の嗣子今の十代榮左工門)歸朝した。彼は昨二年十月佐賀縣技師大須賀眞と同行し、英、佛、獨、墺、匈、伊、チェッコスロバキア等を巡回して米國に渡り、具さに各地の陶業を見學したのである。
御大典献上品
昭和三年十月御即位大典奉祝として、佐賀産業協會より、香蘭社謹製の雲龍浮彫二尺五寸の花瓶を献上した。而して深川製磁會社は別に富嶽繪三ッ扇形足附尺四寸の名刺受鉢を謹製献上したのである。
鋼鐵電熱窯
此頃電熱を以て赤繪窯を焼成することとなった。之より先き大正十三年名古屋の日本陶器社に於いて創始せしより、同地田代商會の如きは拾數個を設置するに至り、有田に於いても亦香蘭社と深川製磁會社とに試みるや、燃料の如く煙などの鯛るものなさを以て、彩釉の光澤漆蒔の如く焼上がり。且従來七百度を要せ火熱は、電熱使用に由つて、六百度餘にて焼成し得ることが発見された。
庄村の電熱窯研究
然るに此鋼壁の窯一個を据付くるには、千餘圓の設備費を要するを以て、庄村吉郎は之を従來の粘土壁に依って、應用し得る構造を研究して、好結果を得るに至った。勿論熟度の調節に於いては、鋼鐵の方勝れるとするも焼成後の冷却に長時間を要する缺點あるを以て、寧ろ粘土壁の冷め易さに如かざる事を発見した。
故に近來敷板に鋼板を用ふる得失に就いても、經費と實用上大いに考慮を要するに至つたのである。
昭和三年度本邦製陶統計
昭和三年度西松浦郡製陶事業統計表
本窯數 赤繪窯數 職工數 生產額
有田町 四八 九二 八二六 一、〇〇一、一五三圓
有田村 四〇 五 七八〇 八五〇、〇〇〇
大川内村 一一 〇 二三六 一三五、〇〇〇
大山村 二 二 一三一 一二八、〇〇〇
曲川村 六 一 八六 六八、〇〇〇
計 一〇七 一〇〇 二〇五八 二、一七二、一五三
昭和四年一月有田窯業試験場敷地代として、久富季九郎貳千圓、深川榮左工門壹千五百圓、深川忠次、上幸平の青木幸平、大樽の井手虎治の壹千圓宛を始め、其他有志の多額なる寄附ありて其速成を計ることゝなった。
昭和四年三月二十日泉山の松本勝(米助の三男)は、第八〇九九四を以て、磁器本燒に於ける着色釉の、上繪盛上模様を附する方法の特許を得しが、同年十月八日第八三六〇一號を以て再び追加特許を得たのである。
辻勝藏卒す
昭和四年三月二十日辻藏常明卒去した、行年八十三歳であつた。彼の祖は武雄領主後藤氏の傍系辻左近太夫豊明(藤津郡辻城主)より出でしさ稱せらる。有田移住後三代喜右工門より代々禁裡の御用品を調達せる斯道の精通家にて、勝臓亦其の技に練達し、彼のフレンヂ型に依つて種々の優器を製せしものがある。嘗て東京目黒に於いて、有田より原料を取寄せて製陶せしことがあつた。その卒するや三月二十九日特旨を以て正七位に追叙されたのである。(次子清は今東京柏木に於いてノーラスターオイルペイント類の研究製作を成しつつある)
辻略系 辻家の略系左の如くである。
辻 市右工門 初代有田へ移住ス―市右エ門 二代―喜右工門 三代 釋常圓 享保元年九月二十二日卒―喜右エ門 四代 釋教圓 享保十二年正月二十一日卒―喜右エ門 五代 釋淨柱 明和二年二月十二日卒―喜平次 六代 釋教蘇雲居士 享和三年十月二十七日卒―喜平次 七代 釋常光居士 常陸大榛源朝臣愛常―喜平次 八代 徳翁常喜居士常陸大 愛常弘化二年正月十四日卒七十歲―喜平次 九代 常陸大愛常 始名伊勢吉ト稱ス 天保八年十月三日卒 釋淨嶺信士―喜平次 十代 常陸大條釋正海信士 明治四年九月十日卒―勝藏 十一代 常明最勝院釋覺念居士 昭和四年三月二十日卒八十三歲―喜右工門 十二代 始喜一ト稱ス 昭和七年四月四日卒五十九歲―常喜 十三代 有田工業學校教諭
川原茂輔卒す
昭和四年五月十九日川原茂輔卒去した、行年七十一歳であつた。彼は大川内村岩屋の人川原茂兵衛の長男にて、元大川内城主川原連の末葉と称せらる。嘗て伊萬里なる草場船山の家塾に學びしが、天資英邁剛毅風に佐賀縣々會議長と成り、明治二十五年以來代議士に當選し、政友會の顧問となり衆議院議長在職中卒去したのである。彼亦我有田陶業の爲め盡瘁せしことなくなかったのである。
昭和四年九月先きに帝國公債壹萬圓を寄附せし久富季九郎は、又再び現金壹萬圓を寄附し、以て有田小學校實習科の教育費に充てしめた。蓋し彼は恩師江越禮太の遺志を継いで、陶業教育にせしものである。
白川の窯焼竹重周次(良助の長子)も、前記小學校生徒實習教室一棟(建築費千五百圓)を寄附したのである。
高博士の硫化鐵排除法
昭和四年十月六日前九州大學採礦科教授たりし工學博士高莊吉は、招られて泉山の磁礦を視察し、そして該磁石中に含有せる硫化鐵分を除去するには、フローテーション・マシン(浮遊選礦機)を應用すべきことを教示し、以て有田焼を清白ならしむる改良に資するところあつた。
小學校の窯業實習
昭和四年十一月有田小學校(校長古川邦司)に於いて、窯業質習科を復興することとなり陶窯一個を建築したのである。
伏見若宮妃殿下御成
昭和四年十一月二十四日伏見若宮妃殿下には、佐世保より御成の上、香蘭社に於いて素焼坏器へ御染筆遊ばされたのである。
陶磁器工業組合
昭和四年十二月六日西松浦郡陶磁器工業組合認可され、組合長に深川榮左工門を推薦し、理事には青木甚一郎(外尾山)今泉幸
次郎(廣瀬)森林太(廣瀬)岩尾卯一(上幸平)古賀米助(上幸平)等が就任した。(同五年三月十七日實施組合員百拾六名)
泥漿溶作法の流行
此頃石膏型泥漿熔作法益々多く應用さるに至った。蓋し小口物を製作するには、轆轤細工や押込型物よりも、薄壁にして平均せる厚味は、焼損じ物少なきことを認識せしためである。而して赤繪町の辻重之助の如きは、三寸五分角にて高さ尺二三寸まで此方法に依って製作し得ることを發表した。
昭和五年一月有田高等小學校に於ける石炭窯落成して、生徒製作品の展覧會が開催されたのである。
昭和五年二月二十一日藤井寛藏卒去した、行年七十五歳であつた。彼は先代惠七の長男にて、前名三四郎と稱した。斯業の爲盡瘁せしこと少からず、晩年收入役又は石場定番を勤務せしこあつた。
季九郎紺授章を拝授す
昭和五年三月十九日先きに公益の爲巨財を寄附せし久富季九郎は、紺綬褒章を拝受したのであつた。(先に初等製陶實習科教育基金として貳萬圓を寄附せしが、其後又壹萬圓を寄附し、更に貳萬圓を加へて合計五萬圓を寄贈したのである)
第一窯業試験場落成
昭和五年六月十三日中樽奥の第一窯業試験場落成式を舉行した。該建築は縣費及高取家寄附金の外、地元有田町より壹萬貳千圓を出して完成を告げたのである。此際久富二六は、十馬力モーター機一臺を寄贈したのである。
大須賀眞蔵の校長と場長
そして本縣技師大須賀眞藏試験場長として就任し、有田工業學校長を兼ねるに至つた。彼は福島の若松市瀧澤町の人にて、東京高等工業學校を卒業し、京都市陶磁器講習所長より本縣技師に轉任せしものである。
重役の私財提供
昭和五年七月有田陶磁器信用購買販賣組合が、經營不振の爲め解散することゝ成った。此組合事業も後年には商人の代金不拂や破産者或は窯焼への貸出資金の返済停滞相次いて生じ、剰さへ事務員の不正費消等より、遂に資金借入となり、再度の整理も徒に債務の増加するのみなるを以て、断然解散することに決し、其缺損補填の爲め、重役より私財を提供することゝなり組合長深川榮左工門は、四萬貳千五百圓を提供し次に山口佐雄(徳一の男)と竹重周次は貳萬四千五百圓宛を、久富二六と山本賴一(周藏の男)は七千五百圓宛を辨じたのである。
昭和五年七月二十七日より三日間、有田工業學校に於いて、日本金液株式會社の高原技師等出張して、ラスター水金スタンプ上繪附、石版轉寫法の講習會を開催した。
西英太郎卒す
昭和五年八月四日多久の西英太郎卒去した、行年六十七歳であつた。彼は同藩士西嘉吉慶雅の長男にて、資性温健篤厚衆望高く、數衆議院議員となり、又民政黨総務たりしことあつた。曾て永(佐賀農工銀行頭取として、又縣會議員として有田陶業の爲め貢献せしこと少なくなかつた。
昭和五年十月二十八日山本周藏卒去した、行年七十四歳であつた。彼は父柳吉以來角物製作の名人として度々至難の製器を完成し、本年九月には資本金五萬圓の山本合名會社を組織したのである。彼れ適々遊漁に出づるの外多く門を出です、常に斯業の工夫にいそしんでいたのである。
昭和五年末泉山磁石中の硫化鐵分を除去すべくフローテーション機を第一窯業試験場に据付くることゝなり、高博士及九州大學の塩谷助教授の指導を受け、大須賀場長と技手松林鶴之助が之に當ることになった。
此頃に至り不況は益々深刻化し、陶家の休業するもの相いで生じ、従つて多くの工人には失業者を増加するに至り、商人にも亦破産する者少なくなかつた。抑も歐州大戦後の不健全なる起業機構の缺陷が、世界的に反響して、行詰まりの波動を起しするも、差詰め目下の有田は、此挽回策を如何に講す可きかが、大急務の問題であつた。
窯業振興相談會
昭和五年十一月三日佐賀縣知事井上央は、下の陶業關係有志一同を縣麗に招集して、窯業振興相談會を開催した。此時の出席中、有田よりは町長江越米次郎、窯業試験場長大須賀眞藏、松本靜二、手塚嘉十、岩尾卯一、松本臺太郎、松本榮治、諸隈光四郎、深海龍一等の外、有田村長青木甚一郎、甕田の杉光貞雄、武雄の宮原忠直、鹿島の甲斐芳造、縣會議長野口三多久系有田窯郎、佐賀縣信用組合聯合會々長中村寛治、佐賀市商業會議所會頭福田慶四郎、勧業銀行佐賀支店長白石憲郎、佐賀商品陳列所長松村松平等其他多数であつた。
昭和五年十二月十九日有田町第一窯業試験場に於いて、再び前記振興相談會を開催した。今回は特別委員のみの集會にて、深川榮左エ門 江越米次郎、青木甚一郎、松本裕二、松本臺太郎、久富二六、大須賀眞藏、宮原忠直、甲斐芳造、杉光貞雄等にて、内務部長萬富次郎が議長であつた。
深川忠次表彰さる
昭和五年十二月製磁會社々長深川忠次は、日本產業協會長伏見宮博恭王殿下より、産業上の功績を表彰されたのである。
昭和五年度より、縣立有田工業學校の修學年限三ヶ年なりしを、五ヶ年に延長することとなた。従前は小學校の高等科卒業生を収容し、四ヶ年の修業程度なりしころ、黒田校長の時三ヶ年に短縮した。斯くては窯業上必須の學課を充實せしむるに足らずなし、普通實業學校に傚らひ、尋常科卒業生を入せしむるに若かずとして熱心運動の結果、當局者も共意を諒して、改正することなったものである。
本邦陶磁器特産地産額表
昭和五年度本邦陶磁器特產地縣別產額表
愛知縣 三〇、四八九、〇〇〇圓
岐阜縣 八、九二二、〇〇〇
京都府 四、二五〇、〇〇〇
三重縣 三、八四八、〇〇〇
佐賀縣 二、五八九、〇〇〇
京都府
知縣
昭和六年一月有田工業組合の保管倉庫を建設することゝなり、商工省より壹萬千五百圓の補助を仰ぎ、全工費四萬四千五百七拾圓を以て、有田町中樽に一ヶ所、有田村外尾に一ヶ所、大川内村大川内に一ヶ所、同村一の瀬に一ヶ所を分築することゝ成った。
久米邦武卒す
昭和六年二月二十四日文學博士久米邦武卒去した、行年九十三歳であつた。彼は佐賀八幡小路の藩士、外五郎邦郷の三男にて、幼名泰次郎後丈一郎と稱し易堂とした、我邦の古文書學者として、嘗て東京帝國大學の歴史科教授であつた。
安政二年頃父邦鄉有田皿山代官たりし縁故より屢々有田に來り、泰西の文化を紹介して、此地の先覺者を教導せし而已ならず、又斯業の爲め盡力せこと少なくなかつたのである。(嗣子桂一郎は東京美術學校教授及び帝國美術院幹事であつた)
有田焼振興懇談會
昭和六年三月二日佐賀縣知事半井清(後神奈川縣知事)は、有田焼不振の打開を計り、窯焼、赤繪屋、商人の代表者として深川左エ門(昭和十年五月二十六日卒す行年七十二歳)松本静二、手塚嘉十等を始め總員參拾餘人を招じ、縣廳會議室に於いて、有田焼振興懇談會を開いた。而して當日半井知事より、五ヶ條の問題を提出して、各員の腹藏なき意見を求めたるに對し、終始熱心なる協議の結果、之に對する五十餘條の答案を具申したのである。
知事半井清
半井知事は岡山縣の出身にて、大阪府内務部長より榮轉し來れる人、歴代知事中稀に見る産業者と稱せられ、就中縣下の特産して、我有田焼の振興に就ては、熱心なる主張者であった。
昭和六年四月一日有田實科女學校及小學校の高等科をして、有田公民學校(今の實業青年學校)に併合し、實業教育に窯業科を加へることゝなつた。(古川邦司専任校長に就き、小學校長には吉岡喜助就職した)
帶止の大量製作
昭和六年四月京都の水町和三郎(深川榮左エ門の女婿にて現京都陶磁器試験所技師)は、香蘭社へ見本として、象牙彫刻の帯止を送りしより、同社は江原熊雄をして、試みに磁器にて數百個を製作せしめしが、其後寺内信一及前記和三郎の圖案に由つて、種々の構圖が製作された。勿論少数の製品は久しき以前より之を見しも、一時に数百個を製作しは此時を以て嚆矢といはれてゐる。
昭和六年山本賴一は、磁器製萬年酒槽を發明して、新案特許を得るに至った。該器は耐酸性なる有田磁器の硬質を應用して、酒量の減少と、外氣の侵入を防ぎ、従來の酒槽使用の勞費を省く、經濟的製品と稱せられ、容器一組にて五石より百石までを醸造し得るといふのである。
昭和六年七月十二日柳ヶ瀬六次卒去した、行年八十才であつた。彼は元白川の窯焼久保幾藏の次男にて、出でて柳ヶ瀬平左工門の養子となった。性明敏商機に通達し、嘗ては朝鮮向を開拓し、或は伊萬里町裏に製陶所を復興し、又伊萬里銀行の取締役たりしこさあつた。常に斯業の發展に貢獻せしが、大正八年三月二十二日伊萬里町自治制の功労者として、郡長より表彰されたのである。
昭和六年有田窯業統計
昭和六年八月統計に依れば、有田町戸數千三百二十一戸、人口六千四百二十六人、陶磁器製造業三十六戸、赤繪屋業四十八戸、陶磁器販賣業五十九戶、職工八百五十七人製産額百貳拾八萬餘圓であった。
和田三造を聘す
昭和六年八月十日知事半井清は、有田焼圖案改善の目的にて、畫伯和田三造を招聘して有田に來り、親しく各工場を視察せしめたのであつた。そして當日松煙亭の歡迎席上に於いて三造より其感想談を披瀝したのである。
陶磁器見本市
昭和六年十月十八日より二日間有田町に於いて、全國始めての陶磁器見本市を開催することとなった。而して有田町の陶磁器商は是まで長年の努力と巨額の放資をなして、各地の營業地盤を開拓しものなるに、其中の有力なる客筋を引抜きて、直接産地に招待し、製造家と打混つて、正札賣を決行する境地を推測すれば、此種の商人としては必ず反對せざるを得ざりしことは決して無理ならず、然れども途に此大勢に順應するのやむなきに至り、商人側が之に協賛せしは大英断といはねばならぬ。
斯くて第一會場として小學校々舍を充て商品を陳列し、第二會場として仲買各自の店舗に於いてサーヴイスすることゝなつた。そして招待客は殆んど全國に涉り、北海道より台灣及び満洲に至るまでの重なる陶磁器卸商四十餘人であつた。
前夜は物産陳列舘階上に於いて歡迎會を催せしが、翌夜は武雄町小櫻屋に於いて懇談會を開き、主人側は半井知事、萬内務部長等にて、主客百二十余人打解けての盛宴であつた。
有田焼批判座談會
三日目は陳列館階上にて半井知事、村山商工課長列席し、各地の代表商人のみを招じて、有田焼批判座談會の催しがあつた。
之にして東京の山田清太郎、中島富次郎、大阪の辻惣兵衛、富山の吉田外次郎、山形の市村彌兵衛、函館の闘兵之助、彦根の奥村松平、奉天の若尾準三、博多の林慶次等の顧客より、腹痛なき意見を聴き得ることは、本會開催中第一の成功であつた。
佐賀縣の献上品
昭和六年十一月熊本に於ける大演習御統裁の 今上天皇陛下へ、佐賀縣より香蘭社謹製の色鍋島風尺二寸の盛鉢、及び深川製磁會社謹製の御紋章浮彫松竹梅模様二尺五寸の花瓶を献上したのである。
昭和六年十一月十七日松本庄之助卒去した、行年七十五歳であった。彼は先代庄三郎の男にて、資性英敏頗る辯論に長し、其一度び起つや其主張せる意見を貫徹せざれば止まざるのがあつた。
青年より斯業の窯仕込をなし、嘗て公共事に盡瘁せしこと少なからず、大正七年三月三十一日、自治制の圓満保維者として、郡長より表彰されたのである。不幸にして晩年失明せしより、一切世俗と絶ち、只管敷島の道を楽んでゐたのである。
肝煎の世襲廢止
昭和六年十二月二日久しく解けざりし、石場肝煎退職問題漸く解決するに至つた。元來此磁礦採掘は、最初の發見者李参平が開掘以來、其次子清五左工門の一手權内にありしも此累代世襲の弊は、殆と自己所有の如き観を呈するに至りしより、幾許もなく六人の伐立支配人の藩許と改まりしを、明治十四年岩松平吾が頭取にて、磁坑普請の時より十五人の肝煎世襲となつたのである。
而して此世襲を買収することゝなり、此内二人は前年既に退業せるを以て、跡十三人に對して、退業手當として壹萬参千圜を給興することに依って解決し、出費は現在積立金五千圓の残額を、有田町七分、有田村三分、曲川村一分、大山村一分大川内村一分として、分割負擔するに至つたのである。而して此時より磁礦の所有権を擴張して、従來の如く各山を限定せず、以上の各村内は何れの地域に於いても、築窯製造し得ることに改められたのである。
護謨捺印畫
此頃より、護謨捺印書法の應用彌々盛んとなり、安價製品には頗る便利を得ることゝなつた。蓋し水金に、舶來の金粉を練り合はして、瑠璃素地の上に捺畫せる法は、既に四十餘年前に試みられしが、染附に應用せらるゝのは近年のことである。
昭六の本郡製陶及販賣額
昭和六年度西松浦郡製陶及販賣額
内地向製造高 一、三〇七、五八九圓
外國向製造高 二八五、二八九圓
合計 一、五九二、八七八圓
內地向販賣高 一、九五六、二七六圓
外國向販賣高 三九六、九五八圓
合計 二、三五三、二三四圓
前年度に比して、製造高拾七萬千九百拾參圓、販賣高拾九萬七千百四拾五圓の減少額を示せるは、蓋し不況と市價下落の結果に外ならぬ。
本縣製陶額及種目大別
尙佐賀縣下陶磁器生產總額は、貳百參拾八萬八千九百拾四国にて、此製品の種類を大別すれば左の如くである。
飲食器 一、四一七、五六一圓
家具及裝飾品 六六七、五八七圓
工業用品 五六、二三〇圓
電機碍子 一七〇、二九七圓
玩具類 一四、九三〇圓
其他雜器 六二、三〇九圓
前年度に比較して貳拾萬千〇四拾貳圓の減少額を示してゐる。
昭和七年三月十九日有田工業學校は、講堂及び二教室増築落成式を舉行した。嘗て江越禮太が熱誠の宿望成りし、勉脩學舍創立より、既に五十二年の星霜を経るに至り、當時の皿山風土記を、口號びし時代を追想すれば、洵に隔世の感がある。
小城の高田保馬(京都大學兼九州大學教授文學博士)の作に成る、有田工業學校の校歌左の如くである。
工業學校々歌
一
朝風清き泉山 瀬の音高き白川や
地は西海の涯なれど 我等が誇り思ひ見よ
二
史に見えたる名は永く 海の彼方に輝ける
譽れ普き陶業の 道は我等の身を傳ふ
三
傳統のすぢ高けれど なほも積みゆく創造の
苦み日々に盡きざれば 工みは永きわれらなり
四
あゝ柿右工門何人ぞ この日本の工藝の
精を双手に集むべき 我等が望み誰か知る
有田町道路大改築
昭和七年四月十日有田町道路改築の完成式が舉行され、全町各區は仮装行列にて道踊を競ひ、全日不況忘れの大阪ひを呈したのである。抑も有田町幹線道路は、長崎縣に通ずる國道なるも、元來磁礦の發見より山間の溪流に沿ひて、不規則に開鑿せる徑より變遷せし町路とて、狭隘且曲折高低甚だしく、産業上車馬の交通に障碍少なくなかった。
故を以て昭和二年より四ヶ年繼續事業として、工事に着手中、不況緊縮の爲め一時中止の止むなきに至りしも、同四年一月より再び工事を起すこどゝなり、六年末漸く成就せしものにて、其後又エムラス鋪装工事を施し、茲に彌々完成を告げたのである。而して此間江越町長、助役井手虎治、収入役岸川英一郎を始め町役場吏員亦頗る斡旋せしものなるが、蓋し此起工に就いては、前町長深川忠次(昭和九年二月廿三日卒去行年六十四歳)
の盡力亦少からざるものがあつた。
なほ改築せし道路は、全町の内八百三十五間、幅員五間、橋梁三ヶ所、鋪装面積三千五百五十坪引込宅地買收費共總工費貳拾八萬圓、内地元有田町より七萬圓を支出し、残額貳拾壹萬圓は折半的に國費と縣費の補助を受けたのである。而して此際道路面の家屋中、取毀て改築せしもの少から有田町の外観は全く革命的に一新されたのである。
昭和七年度本縣製陶關係統計
昭和七年度全國製陶産額は、六千五百萬圓(內愛知縣參千五百萬圓)その内佐賀縣の産額は、武百貳拾五萬千九百參拾九圓にて、製陶場數二百四十三、本焼窯數二百三十四、赤繪窯數百二十一、素焼窯數百四十九、職工數男千八百九十人、同女九百九十八人、合計二千八百六十八人である。而して此陶磁器製産額を前年度に比較すれば、拾参萬六千九百七拾五圓を減じてゐるが、勿論不況の結果たることは申すまでもない。
なほ此製品種類を大別すれば左の如し
飲食用器 一、四一二、四二〇圓
家具及裝飾品 四九二、〇六三圓
工業用品 一一九、七一一圓
電機碍子 一五二、六七五圓
玩具類 一四、八七〇圓
其他の雑器 六〇、一〇〇圓
此中重なる産額地を擧ぐれは左の如し
西松浦郡 一九二五、五五八圓
藤津郡 二六四、二五〇圓
杵島郡 四四、六四〇圓
製陶材料相場
製陶材料相場左の如し
天草石一等(一万斤)一三五〇〇
二等八五、○○
三等五、五〇〇
四等四、○○○
木節土瀬戸(百斤)一、五〇
二等一、三〇
大牟田一、〇〇
調の川七〇
三ッ石蠟石(百斤)三、〇〇
石炭新入塊炭(一噸)一四、四〇
田川塊炭一四、四〇
篠原炭一四〇〇
田川炭一三、五○
貴船炭一四〇〇
多々良木(一噸)一一〇〇
石膏姫路(一樽)一四〇〇
秋田梅印一三、○○
東京一四〇〇
對州土粉(百斤)壹圓〇五錢
檮灰余印一八入圓五拾錢
コバルト青ライオン印一封度五拾四圓
海碧一封度六圓五拾錢
上々吳須一斤百圓より入拾圓
並上吳須貳拾圓
中呉須入圓より五圓
兎の糞貳拾五錢
唐石一斤六拾錢
唐土一斤四拾五錢
肥前陶磁史考(終)
畑打の無心で放る破片かな
猫の子の古き合器に見惚れけり
蝸牛や石碑の文字へ雨宿り
古皿の藍に澄みけり秋の水
時雨るるや漁り暮たる陶窯の趾
食み出せし古書物や破襖
櫻溪