人類と土器づくり

肥前陶滋史考
Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

原始人と土器
 青銅器時代以前に人類が土器を作っていたことは非常に遠い話だが、ネアンデルタール人(25万年前)の前期旧石器時代の長い原始生活がようやく終わったことが、今になってわかる。クロマニヨン人やグリマルデス人の後期旧石器時代には、絵画や彫刻の技術ともいうべき遺物が見られるが、土器に関しては、粘土をこねて塑像を作り、それを天日で乾燥させただけのようだ。

新石器時代
 アズール人または地中海イベリア人の新石器時代、それに続く身近な民族(アウリニャーキア時代、ソルトレアン時代、マグダニア時代)を経て、ようやく陶器を焼くことが発見された時代で、現在より2万5千年から1万2千年前に起こった可能性が高いと言われている。

火を起こす原始人
 火打石を使うようになったのがハイデルベルク人(30万年前)だとすると、土器が作られたのはそれよりもっと前の可能性がある。このような原始人が、物と物との摩擦によって初めて火を作り出すことができたという発見は、彼らにとって大きな驚きであり喜びであったに違いない。次に、彼らは火を使って飲食する方法を知り始め、その結果、飲食用具の必要性に惑わされたのである。

原始人による土器の焼成
 彼らが最初に行ったのは、粘土を水で練って手でひねり、天日で乾燥させることだった。そして、粘土が火に焼かれることで硬くなることを発見した。好奇心からさまざまな工夫を凝らし、野外の薪の熱で固めたのが始まりと考えた。日本では、弥生土器を地面に置いて砂を敷き、四方から燃料を積み上げて焼いた。
 次の弥生土器は、地面を掘って窯の周囲に石垣を築いて焼いたのだろうが、まだ窯の作り方を知らなかった時代の粗末なものなので、燃えにくく割れやすい。また、釉薬がかけられていないため、液体を注ぐと浸入したり、中の料理の味付けが変わったりすることは避けられなかった。

陶器の窯
 後の時代になると、斜面に細長い穴を掘り、粘土で天井を作ったアーチ型の窯が作られるようになる。これが焼き物の窯の起源であろう。(鎌倉時代や足利時代の有名な陶磁器の多くは、このタイプの窯で焼かれた) また、窖窯(あながま)を四五室に分割した長窯(なががま)や、丸窯を連ねた登り窯(のぼりがま)も作られた。

原始人の成形法
 最初の陶器の成形法は、古代朝鮮の甕や壺などの立体的な器を作る方法で、縄を棒に巻いて太くし、粘土を棒に押し付け、少し乾いたら縄を器の中心から離す。また、粘土をらせん状に巻き、その上部を手で加工する方法もある。その後、ろくろの使用が発見され、手ろくろと蹴ろくろに分かれたり、押し型や石膏で成形する方法、動力で回転するろくろが使われるようになった。

釉薬の始まり
 外面からの水の浸入を防ぎ、光沢のある滑らかな外面をつけるために、釉薬という薬が塗られるようになるまでには長い時間がかかり、その起源は中国六朝時代といわれている。彼の首府土器に代表されるように、当時の釉薬のかかった土器には人工的な装飾が施されていたといわれる。
 最初に釉薬が施されたのは、窯で高熱で焼かれた器に窯の灰が付着し、器の表面が化学変化を起こしてガラス質の被膜ができたことから発見された。この偶然の出来事から、灰を使った釉薬の方法が発見され、灰を使った釉薬は素地にアルカリ性の溶媒を加えるため、熱で溶けやすくなることがわかった。

陶器の進歩
 こうして、赤褐色で多孔質の軟質土器から、青焼きの陶器が作られるようになった。次いで、滑らかな釉薬を施した釉薬陶器が登場し、水分を吸収しない炻器(せっ器)が作られた。そして、堅牢で美しい磁器へと進化していく。近年、日本陶磁協会が試みているように、超硬質磁器が広く生産される時代が来るに違いない。
 磁器の焼成温度は、セーゲル三角錐の8番から16番、すなわち1250度から1460度、最も硬い有田焼では1370度から400度といわれている。つまり、日用品には最高レベルの耐火性が求められる。それは、原料の耐火性と燃料の安さを経済的に研究して初めて可能になる。
 しかし、装飾的な器物には、ある程度の磁器があれば十分というだけでなく、軟質磁器の方が、着色や彫刻など好きなように焼成できるため、生産面でも都合がよい。硬質磁器は焼成温度が高いため、割れることが多く、下絵の彩色も薄くなったり、完全に失われてしまうこともある。そのため、主に染付を用いる磁器は、陶磁器に比べて釉薬の色がシンプルで、一度焼成した磁器にさらに色を加えることができる。
 社会の進歩が単純なものから複雑なものになるにつれ、かつての焼き物は素焼きのシンプルなものだった。そのため、この時代の酒器は吸水性がよく、すぐに飲まれていた。大内裏で使われた器も、神社で使われた祭器も、使うたびに捨てられていたのだから、完全に清潔な器だったのだろう。インドでも、食べ物が腐りやすいため、素焼きの土器を使う習慣があり、人類と土器作りはあまり進歩していないと言われている。

世界の陶器製造
 陶器の製造は、人類が住む世界のどの国でも古くから行われてきた。古代アッシリア(アジアの古代王国)からは、涙壺をはじめとする精巧な土器が出土することも珍しくないし、ほこりや盧溝橋の古代遺跡からも、数千年前の土器が出土している。中国の徽宗の時代(紀元前2,120年頃)には火を使った食事を始めたと言われていることからも、この時代にはすでに土器を使っていたことが確認できるはずだ。

土器と人類
 フランスのルイ・ゲイエが「土器は人類とともに生まれた」と言ったように、各国の土器作りの進歩は遅く、貧しいものであったが、どの民族も生活の必要に駆られて土器を作ってきたことは間違いない。したがって、土器作りの進歩や製作様式は、有史以前の人類の生活の程度を検証するのに利用できるし、後世においても、土器の発達が単純なものではなかったことを示すのに利用できる。最も重要なことは、後年発掘された自作の破片から当時の文化を探ることである。

原文

人類と燒物製作

原始人と土器
 抑人類が青銅器時代より以前に於て、土器を造り創めたることは頗る遠きものゝ如く、今之を考察するに、初期古石器時代のネアンデルタール人(二十五萬年前)の長き元始生活漸く終り。クロマニヨン人種や、グリマルデイス人種の後期古石器時代に至り、絵書と彫刻の技能は稱見る可き遺物の發見さるゝも、土器に至つては只粘土を捏ねて何かの塑像を造り、之を天日に乾燥せものゝ如く、所謂古代アーセンウエアを稱する物の外嘗て焼成されし遺物を発見せぬ。

新石器時代
 次の馴鹿人種(オーリニヤセアン時代ソリュトリアン時代マグダニアン時代)を經て、アズイリヤン乃ち地中海イベリアス人種の新石器時代に至り、漸く土器を焼くことを創見せしもの如く、今より殆と二萬五千年乃至一萬二千年以前のことゝいはれてゐる。

原始人火を造る
 蓋し燧石を應用せしは、ハイデルベルグ人(三十萬年前)より始まるとの説に従へば、土器創作は前記の年代より尚繰上ぐ可きやも計られぬ。此原始人が物と物との摩擦に因つ始めて火を造り出せし大發見は、彼等に大なる驚異と歓喜でありしに相違ない。次には其火を用ひて火食を知り始め、従つて飲食器の必要に騙られし境遇を考察するに、彼等が土を以て土器を焼くに至りしこさは當然の歸結である。

原始人の土器焼成
 此必要が發見の母となり、最初は土を水にて捏ね手捻りにて物を造り、それを天日に乾かせしうちに。或機會に之が火に焼けし爲に堅くなることを発見した。更に好奇心は爾來色々と工夫を凝らし、始めは開放氣中におつ冠せる薪の熱を用ひて焼固めしものと推考さる。又我邦の彌生式土器などは、製器を地上に据ね其上に砂を以って掩ひ匿くし、四方より燃料を積み重ねて焼上げしものさいはれてゐる。
 次には地面を掘り凹め、周園に垣石を築きて焼きしかも知れぬが、未だ陶窯を築くことを識らぬ時代の粗製品なるを以って、火度弱くして破損し易く。又釉薬(上藥、わくすりといふアルミナを含有する硝子の如きもの)を施さざる為に其器に液体を盛れば之が浸潤し、或は中なる食物の調味に變化を來すの止むを得なかつた。

焼物の窯
 漸く後代に於て工夫されしは、斜面の土地に細長く穴を掘り、天井だけをを苆を離せし練土にてアーチ形に構造されし窖窯なるものであつた。蓋し之が焼物窯の鼻祖であらう。(又大窯及鐵砲窯など稱するは此型らしく、鎌倉、足利時代の有名なる陶器は多く此窯式にて焼かれてゐる)或は其室内を四五間に仕切りし長窯が出来、又丸窯の連鎖せる登窯が構成され、後年に至つて竪窯や徳利窯及びトンネル窯など種々の様式が築造されたものである。

原始人の成形法
 又最初の焼物成形法は、壺や甕の如き立体器を作るには、棒に縄を巻き太めて其上に粘土を押し當てがひ、成器稍乾燥せる頃縄の中心より解き出す古代の朝鮮式があり。又粘土を紐狀に細長く続伸してそれを螺旋状に巻き重ね而して後其上を手工せる紐造りの手法などありしものゝ如く。後には轆轤の使用が発見されてそれが手車と蹴車とに別れ或は押型や石膏型込法又は動力廻轉機等が應用さるに至ったのである。

釉薬の創始
 而して此容器に、外面より浸入する水分の吸収を防ぎ、旦光滑なる外被を纏はす釉藥の施さるゝまでには長き歳月を經しものゝ如く本場の支那に於てさへ六朝時代より創始されして言傅へられてあり。そして又當時の施釉物称せられし彼祝部土器の如きも、質は人工的に塗飾せしものといはれてゐる。
 此施釉法の最初の發見は、或時窯入れせし器に窯内の降灰が附着して、それが高熱にて焼上げらし爲に、器の表面に化學的變化を起して硝子狀の被覆物が生じたのである。此偶然の出来事より灰を混じて釉薬を施す方法が創見されたので、即ち釉質が灰を混すれば、素地料にアルカリ性の熔媒を加へて熱に解け易きことが模索的に知得さるるに至ったのである。

焼物の進歩
 斯くて赤褐色の氣孔に富める軟質土器より、青色に焼締られし陶器となり。次には光滑なる釉薬が施され、或は水分を吸収せぬ炻器となり。途には堅牢美麗なる磁器にまで進歩せしものである。なほ此上には近來日本陶器會社に試みられ超硬質磁器が、普及的に製作さるゝ時代が来らねばならぬ。
 而して磁器の焼成火度は、ゼーゲル三角錐熟度計八番より拾六番、即ち攝氏千二百五十度より千四百六十度の範圍と稱せらるゝも、最硬質なる有田焼に於て千三百七十度乃至四百度以内といはれてゐる。要するに日用の器具としては出来得る丈け高火度の磁器が必要である。蓋しそれは原料の耐火性と、燃料の低價方法が經濟的に研究された後であらう。
 尤も装飾用器に至つては、或程度の陶質にて足りる而已ならず、製作上に於いても軟陶の方が彩色や彫刻等凡て意の儘に焼成し得る便利がある。硬磁を焼くには無論高火度を要する丈け破損物の生すること多く、且釉下の發色が稀薄となり或は全く失色する彩料がある。故に磁器は青花(染附といふ)を主彩とするも、陶器に比して釉色の單調なるを以て、一度焼成されし器に何彩色を補ふ可く、―上繪附―茲に上繪附(赤繪附又錦附或は繪附)なるものが發達せしものであらう。
 凡べて社會の進歩が單純より複雑となるが如く往古の焼物は全く單調の無釉土器であつた。故に此時代酒盃の如きも甚だしく水分を吸収するを以て、手早く之を飲み干されしものと謂はれ。又大内の御器や神社の祭器などは、毎にうち棄てらしものにて全くの清器に相違ない。而して印度に於いても、食物の腐敗し易き氣節の關係より素焼物の一度使用を習慣とせしを以て、此地の製陶人類と焼物製作はに進歩を見ざりしといはれてゐる。

全世界の製陶
 此焼物製作は、全世界人類の棲息せしところ、何れの國も古くより行はれしと見る可く。古代アッシリヤ(亞細亞の古代王國)の涙の壺を始め、埃及や希臘に於ける數千年前の古蹟より、可成り精巧なる土器が發掘さるゝこと珍らしくない。支那は燧人氏(我神武紀元前二千百二十年頃則ち神農氏也)の時始て火食を行ひしと傳へらるゝは、此時代既に土器を用ひし事を立證すべきであらう。

焼物と人類
 佛人ルーイ・ギュエーの「焼物は人と共に生れたる物なり」と謂ひし如く、各國其製技の進歩に就いては遅速巧拙ありとするも、何れの種族も其生活の必要に駆られて焼物を造りしことは疑ふの地なく。而して此製陶の進歩及作風によりて有史以前の人類が生活程度を考証し。又後代に於いても發掘されし殘缺を観て、其時代の文化を考察するに重大な役目を持つてゐるのである。

前に戻る
Facebook
Twitter
Email