我邦民族の種別
我邦の陶史を記述するには、先づ有史以前の民族について、概念的にも其發祥を辿る可き必要が生じて来る。元來我が日本島國がもと亜細亜大陸の一端なりしことは、マンモスの如き動物の遺骨や、平戸野島のガマノセ貝發見等にても證明されしさころにて。幾萬年かの往古に於いて、地變の爲めに分離されて島國を形成せしものと見る可く、彼の隠岐や佐渡及壹岐、對馬の如きは其中間に残留して、水平線上に現はし小片であらう。或は海底火山が一旦陸起後、其一部が沈降したのかも知れぬ。
コロボックル人の縄文土器
而して新石器時代に於いて、最古の島民としてコロボックルと稱せらる、小人種が住ひしと傳へらるゝは、或はエスキモー人と同種かも知れぬが、此人種が製作せし遺陶とてコロボックル 縄紋土器(又縄目土器といふ)なる物がある。蓋し當時は未だ穀物の栽培を知らざる時代とて、勿論縄や藁などを用ひて印花せしものにはなく、天然植物の葛や撚蔓などを器の生乾きの際に巻きつけし如く見らるゝのである。
アイヌ人の渡来
次は四・五千年以前、間宮海峡を渡りて我邦に來りして稱せらるゝアイヌ人種に分布は本州の中國邊にまで延びてゐる。彼等は海岸や山間に住して狩獵及漁獵の外農耕の道を知らず、そして又土器を製して使用した。然るに其後渡せる人種の為に打破られて、奥州や北海道又は千島等へ退したのである。
貝塚土器
此アイヌ人の祖先が、其造りしころの土器を各地へ遺してゐる。それは北海道は勿輪中國は岩國邊まで及べるが、尚佐渡、伊豆、大島及初島等にも發見されたのである。此土器の胎色は褐色を呈し渦模様のある即ち貝塚土器と稱せらるゝ物にて、まづ六百五十度より七百五十度位に焼成されし物といはれてゐる。又國栖、蝦夷白み などの種族は、何れもアイヌに属する者との説がある。
ツングース人
次には北東西比利亞に任せしツングース人が渡した。此人種は古代支那の歴史に於いて、東胡或は匈奴と呼ばれし大民族にて、西比利亞より満洲に占據し、當時の支那を絶えず脅かして春秋戰國時代萬里の長城を築造せしめし種族である。そして是が先住民族とするところのであらう。
奥羽族
而して此種族の渡來に就いては三つの時期ありと稱せられ、第一はアイヌと共に間宮海峡を渡りて出羽や越後に住居せし者であり。―出雲族―第二は満洲方面にありし者が朝鮮に入り來り、其一部が日本海を渡って出雲の国を中心地として殖民せしところの出雲民族であるといはれてゐる。
天孫族
第三は大陸地方及朝鮮半島に殘留せし一民族が、對馬海峡を渡って九州に上陸し、日向地方を中心地として勢力を伸張せし者にて。第一第二の渡來族が古代史にいはゆる國津神にあたり最後に渡來せしものが 天孫族則ち天津神であらう。
此三つの種族は、狩猟、漁獵の外農耕生活に入、そして金屬使用時代に移りしものゝ如く。彼等は又アイヌと戦うて之を破り、且此種族を山間や奥地に追込んだのである。此三期の渡来族中、天孫族が最優秀なる智力を武力を有し、九州より東上して他族を征服して都を中國に定め、我が日本建國の基礎を築きしものにて―高天原土器―その大和橿原を中心として造りし彌生式土器が、則ち高天原土器と稱する物である。
苗族
次に我國へ渡せしは、支那の先住民たる苗族である。彼等は漢族の勃興の爲め印度支那方面へ驅逐されし者にて、此種族は土器を造るの外農業を知り、又青銅器の使用を解してゐた。而して斯族の一部が海路九州北部に渡り一社會を建設せし者の如く、そして彼等が我邦へ稻の栽培を齎らせし稱せらる。
隼人族
次には南洋方面より海潮に乗って渡來せしインドネシアン族にて、彼等は九州の南方に根據を据ゑ印度支那族とも長く闘争せし薩摩隼人の祖先である。―ネグリート族―次に渡せしは黒人系に旅するネグリートにて、印度より追はれて南洋に渡り一部が日本に漂着した。(短かい体軀の縮毛にて扁平なる鼻の所有者)是等の大部分は最初奴隷級にありしが如く、そして漸減少し絶滅せしと稱せらるゝも、今何其遺系の面貌を見ること少くない。
漢民族
次には漢民族(支那帝國の創立者)にて、我神武紀元前約千年以前に於いて、朝鮮北部に勢力を伸ばし樂浪 臨屯、玄苑、眞蕃等の一部が我邦に移入せし者である。以上の各人種關係より考察するも、當時我邦の製陶が各種の様式に於いて試みられことが推せらる。要するに我邦の焼物は、始め食器の外祭器(即ち齋瓮)として發祥せしものゝ如く、何れも素焼物にて其他は埴輪、陶棺の外、杯、皿、坩の如きがあり、此倭製土器の外に甕類などの朝鮮式土器があつた。又渦土器と稱するは須惠母乃に丸き木口を印花せし物である。後年河内の國府より發掘されし土器の如きは、三千年以前の遺物と鑑査されたのである。
神代=天御中主神
我神代史に徹するに、天御中主命が海濱の真砂に白き物の附着してゐるを嘗めて味を知りたまひ、眞土を水にて掘り凹める土器を造り、それに海水を入れ火を焚きて眞砂を煎し、其湯固まりて塩となることを発見し給ひきっと開闢記に記載されてゐる。
簸の川上の製甕
それより天神七代伊弉諾尊のいざなぎ御子素盞鳴尊(天照皇大神の御舎弟)が、彼櫛名田媛を救はせ給ひしとき、八岐入頭の大蛇に毒酒を盛り給ひしことは人口に膾炙せる故事なるが。
そのとき用ひ給へる八個の甕は、足名椎と手名椎に命じて、出雲國簸の川上(大原郡)に於いて焼かし給ひし由傳へらる。夫れは嘗て尊が韓郷島(朝鮮)にましませし時、すでに製陶の法を会得さ居り給ひしと推せらる。
其後天孫天忍穂耳尊(素盞鳴尊の御子にて天照皇大神宮の御養子)を葦原の中つ国へ下し給ひてより、我邦の西端(筑紫)は近き支那及朝鮮の薫化を享け、従つて同地方にはその製陶の技を習得する者があつたであらう。當時の陶技は筑紫、出雲、大和の三方面より發せしといはれてゐる。
彌生式土器
而して我が民族が、最古に用ひしさいばし土器(土師器)は褐黄色を呈し、形状は多く鍋底式の丸くして高臺なく、概して無文とされてゐる。中に僅に刷毛目を存する物があり、火度は六百度より七百度位に焼成されしが如く、之が今彌生式土器又は高天原土器と稱せらるゝところのものである。
陶祖大陶祇
素盞鳴尊六世の孫天冬衣尊の御子大已貴尊(大國主神)の御時、茅渟の縣といふ此處に大陶祗(陶津耳命)なる者ありて、陶器を造りしよし古事記にある。此大陶祗は大巳貴尊の舅にて土地の豪族なりしが如く、之が我邦の陶麗と稱すべきであらう。(茅淳は難波の浦方面の名にて其縣なる和泉國の深坂村、田園村、辻の村、大村、北村、府久田村、高村、岩室村以上を陶器莊「大鳥郡」と言ひ傳へらる)
天日槍の渡来
此頃韓鄉島の天日槍我邦に歸化し、暫らく近江吾名邑なる鏡谷に在りしが、當時從ひ来れる陶工ありて此地に於いて焼物を焼きしの口碑がある。(天日槍は其後但馬に住し、其子但馬諸助以下代々此地に在り、此處の伊豆志神社は天日槍を祀れるである。又天日槍を新羅の王子とするも、新羅の建國は崇神天皇の三十七年、漢の宣帝五鳳元年にて、尚甚だ後世のことである)
大和建国時代
神武天皇即位前三年、大和の賊八十梟師(一群の夷族の長)を討平の際、推根津彥及び弟猾等に命じ天の香具山(大和國磯城郡香久山村戒下)の埴土を探りて、平迦(淺き瓮)八拾個、手抉(手指を以て剔抉せる小壺)八拾個及び厳瓮(酒殿にて神酒を醸す甕或は祭神の酒器ともいふ)等を造らしめた。
祝部土器
之が齋瓮(伊波比閇又祝部或は祝瓶の土器)即ち忌部(忌)の始にて、胎土は灰色茶褐色とあり。最初の陶質は埴土物なりしならんも、後には彌生式よりも稍堅固なる須惠母となりし如く。そして焼成されし火度は九百度より千百度のものにてあり、之が王朝より平安朝まで繼續された物である。
徐福の帰化
孝霊天皇七十二年秦の始皇帝は、道士徐福に命じて東方蓬莱國に不老不死の霊薬を求む可く派遣した。それは男女五十八人大船四十八艘に分乗し、米穀金帛數萬石を搭載して紀伊國熊野浦に着きしが、其齎らせる中に數種の焼物があり、又陶師ありて、茲に支那直傳の陶法を享けし口傳された。そして此陶師の子孫が陶を姓氏とする者の祖といはれてゐる。
垂仁天皇の二十八年十月五日、皇弟倭彥命薨せらるゝや、十二月二日命を葬るに當り、近習者の悉くを其陸域に生埋めにして甚だ惨状を極めしかば、天皇乃ち詔して爾後殉死を禁せられた。
野見宿禰の埴輪
而して同三十二年七月六日皇后日葉酢媛薨去せらるゝに及び、出雲の人野見宿稲の建策を容れ給ひ、殉死に代ふるに埴土を以つて人偶像を造り焼き、そして墓陵を繞り半ば地に埋めて輪の如く樹て列ねしより、之を埴輪又立物と稱するに至つた。
土師職を置く
天皇之より土師の職を置きて諸國に製陶の地を定め、宿禰をして土師の長たらしめ給ふ。彼は出雲の土師(陶工)一百人を大和へ連れて埴輪を製作した。之より製陶地を出雲、備前、大和、河内、和泉、伊勢、近江、但馬、阿波、讃岐、淡路、播磨、筑前の十三ヶ國に定められしが、更に又山城、攝津、尾張、三河、美濃、上野、下野、丹波、因幡、周防、長門、筑後の十二ヶ國を加へて二十五ヶ國に土師職を置くこと成った。これ土師を姓とする者の濫觴である。
神前に人馬の像を建つ
景行天皇の御宇肥前國の山中(後の佐嘉郡)に、往來の人を暴殺する魔神ありて此地の大荒田大いに憂へるを、山田村(川上川の畔)の土蜘蛛(一種の夷族)大山田、狭山田の姉妹ありて建策するに、下田村(今の松梅村)の埴土を探りて大形なる人馬の像を造り、焼きて祠前に祀らば必ず神意を和らぐ可し。大荒田其言の如く行ひしに果して神鎮まるに至つた。これ本邦に於いて神前に人馬の像を建立せし最古の事と稱せらる。
三韓出兵時代=唐津焼の始
仲哀天皇の九年、神功皇后三韓(當時の朝鮮は馬韓、辰韓、辨韓に分立)を出兵せられ、其年の十二月肥前の上松浦の港(後の唐津)に御凱旋あるや、従ひ来りし韓土の陶工此地に帰化して製陶せるもの、これ後年唐津焼と稱するものにて、朝鮮式の製法を我邦に扶植せし最も精確なる始祖と稱せられてゐる。
此戦役以來日韓の交通頻繁なり、彼地の陶工渡して我邦の陶技を長せしむるに至つた。朝鮮に北宋の陶技が浸入せしは何後代の事に属するも、彼等は地理の關係上尻に支那の陶法を傳へしもの如く。而して支那は五千年近き國て東西文化の源泉地と稱せられ、殊に陶技に於いては其國名が焼物の代名詞れるまでに風に進歩せしものであつた。
深湯瓷
允恭天皇の四年九月九日、詔して探湯(誓湯)に依って各人姓氏の詐胃を正すことなつた。それは當時の迷信思想にて人々沐浴齋戒の上神に盟ひ、決して詐らざるの證として中の熱湯に手を浸して験する法にて、此頃より又弘く民間に行はるゝに至り探湯瓮の需要を加ふることゝなったのである。
百濟の高貴を招く
雄略天皇製陶を盛んにすべしの聖旨あり天皇の七年歸化人西漢才伎(テビトは工人の意)歡因知利より、斯技に巧なる者韓土に多き由を奏聞す。天皇仍つて吉備の上道臣弟君に副使として遣はし、百済の陶部の高貴なる者を連れ帰り、河内國桃原(交野郡私市村)に於いて陶器を焼かしめたのである。
忌部焼
同朝の御代に於て備前國須惠村(邑久保郡釜ヶ原?)に於いて忌部焼なる陶器が創始された。此邊りは元野見宿禰が出雲の土師を招きて、埴輪を造らしめし土師鄉である。
贄の土師部
同朝の十七年三月二日、土師連等に詔して清器を進め造らしむ。是に於いて連の祖吾筍は攝津國來狹々村、山脊國内村(宇治)、同國俯見村(伏見)伊勢國藤方村其他丹波、但馬、因おはにへ幡の陶工をして御贄の御清器を作り私民部を進む。これ贄の土師部の始めである。(贄は新物を新物を神にも人にも饗し自らも食する事である)
曲水宴の盤器
顕宗天皇の元年三月三日、始めて曲水の宴(御溝水に羽觴を流して詩歌を作るの興、めぐりみづのとよのあかり)を設け給ふや、瓜を酒魚として盤に盛り以て宴席に供せらるゝとあるは、既に此時皿を御器に用ひ給しことが證せらる。
蘇我氏專横時代佛教の渡来
欽明天皇の十三年十月十三日、百済の聖明王より佛教經論の贈献と共に、其式典に用ふ可き陶器と、建築用瓦の必要が生するに至った。
瓦工を献し奉る
崇峻天皇の元年百濟の威徳王より、佛寺堂塔建立の用に供するため、寺工―太郎未太文賈古子、鑢盤博士―將德白味淳、瓦博士―摩奈文奴陽貴文、陵貴文、昔麻帝彌、及び工―白加等を献じった。之より本邦に於て始めて瓦を焼きて屋根を葺くことが創められた。蓋し此頃より希臘藝術の模様が印度を経て支那に入り六朝美術となりしものが、又朝鮮を経て我邦へ輸入されしものであらう。
遣唐使始まる
推古天皇の十五年七月三日、大禮小野妹子を隋に派遣されしが、爾來我邦より遺唐使なる者の一行屢彼地に渡航することゝなり、之より又製陶の發展を促かす媒介となったのである。
法政改革時代筥陶司を置く
孝徳天皇の大化改新の際に於いて、宮廷の大膳職に四寮十三司の制を設けられ、其中に筥陶司を置きて土師の官職を廢し、土師の連の督する陶工を以つて之が所管となし、土工司を置きてを造ることを掌らしめしが、此革新に於いて土師の世襲業を解廢せられしは、陶史上特筆すべき事柄である。
高麗焼と布目瓦
齊明天皇の御代に於いて、韓土の陶工肥前國上松浦の地に渡来して高麗焼を創製した。之より此地方を陶村させらる。蓋し仲哀天皇の時唐津焼の始と稱するものは、未だ無釉陶なりしも、此時より始めて施釉陶か我邦に於いて製作されし稱せらる。又其頃肥前國に於いて瓦焼が始められしが、それは彼の布目なるべしといはれてゐる。
陶工の戸を定む
文武天皇の大寶元年、筥陶司の職制を正一人、佑一人、令史一人、使部六人、直十一人を爲し、陶工人の戸を定められた。(筥戸は陶工にて、泥工即ち瓦工と區別せし名稀である)
奈良朝時代=行基敷瓦を焼かしむ
元明天皇の和銅四年、僧行基は堂宇建立に用ふるため、近江國瀬田に於いて敷瓦を焼かしめたのである。(和泉三才圖會には、之より先天智天皇の朝和泉國大鳥郡陶村に於いて、行基法を教へて陶器を焼かしむとあり)
豊磨の留學
聖武天皇の神亀元年七月、土師の豊磨韓土の陶法を學ぶ可く彼地に派遣さることなつた。蓋し土師の外国に留學せしは此時を以つて始めと稱せらる。又同年十一月八日太政官の奏請により、宮屋を葺くに瓦を以てし、塗るに丹を以てすることを許された。
唐三彩の陶器を作る
同朝の天平六年奈良の禁廷に於いて、河内國交野の土を探りて原料とし、唐三彩(交趾焼の如き鉛釉土器なるべし)の陶器を製作せしめられた。
吉備津の開窯
同天平七年三月十日、入唐大使多治比廣成、留學生吉備真備、僭玄昉等歸朝するや、彼地より伴ひ來りし陶工菜、備中國吉備津に於いて開窯し施釉の陶器を作りし傳へらる。
行基焼
大僧正行基は又山背國清閑寺村字丸山(愛宕郡)に於いて、鄉人を指揮して土器を焼かしめたとの口碑がある。(法相宗の高僧大菩薩行基は俗姓高志氏和泉國大鳥郡の人にて天平元年二月二日卒去した行年八十二才であつた)
瑠璃瓦を葺く
稱徳天皇の神護景雲元年四月十四日、東院玉殿成るにあたり、瑠璃瓦を用ひて屋根を葺かしめたとある。(此時代の瑠璃とは碧釉でなく、玻璃の意味ならんとの説があり、今玉殿の古なる物あるも、果して當時の遺物なりや、或は後代改作の際に葺替へしにあらざるか詳でない)
陶器を日用の雑器に充つ
箕亀元年八月四日、稱徳帝西宮殿に於いて崩じ玉ふや宮廷は大膳職、大炊寮、造酒司、陶工司の監物等各一人に命じて役夫を養ふ司と為し、以て山陵(大和國漆上郡高野)を起さしめ、當時製陶の器を以て役夫の食器及日用の雑器に充てられことを記載されてある。
平安朝時代=佛具と青瓷
桓武天皇が延暦十三年十月二十二日、山背國乙訓郡長岡より、更に同國平安(京都)に御遷都あるや、佛具に用ふる陶器を凡て支那の青瓷に仰ぎ給うた。此頃より彼國の該器を齎らすこと頗る多きを加へしさ稱せらる。
碧瓦を葺く
薄いで平安城を築き、同十五年大極殿(大内裏入省院の中央にて即ち朝堂院の正殿おほやすみごのといふ、即位朝賀の國儀大禮所)の建立にあたり、洛北鷹ヶ峰に於いて焼きし碧瓦を以つて屋根を葺かしめられた。蓋し當時民屋に於いて瓦を葺くことは未だ許されざる時代である。
筥陶司合併さる
同朝の延暦二十四年十二月十日(或は大同三年とも)制して諸司の穴員を省き筥陶司を以つて大膳職に合併し、爾来陶器は此職の掌るところとなり、又土工司(瓦工)を木工に合併さるに至った。
酒甕の封鎖
平城天皇の大同元年、詔して酒甕の封鎖を行はれしが、一面陶業の發展に一頓挫を来たすの止を得なかった。
中興陶祖乙麿
嵯峨天皇の弘仁六年正月、嚮に造瓷生となりて入唐し、彼の瓷器傳習を終へて准雜生に出身せし三人のうち、尾張國山田郡(今春日井郡地方)の人三家人部乙麿、彼地より原料の陶砂を齎らして郷里主惠郷に来り、我邦に於いて始めて硬度の瓷器(青瓷)を製作した。之が尾濃陶業の元祖であり、そして又本邦中興の陶昶であらう。
平安朝藤原時代=青瓷の輸入を制す
光孝天皇の仁和元年十月二十日、太宰府にして私に唐物を買ふことを禁ぜられた。蓋し儒佛の傳來以後其祭具として支那青瓷の我邦人に愛さること甚だしく、上士太夫より下冨格の庶民に至るまで、花瓶、香壇の類を購入し以て賓客を待つのとした。當時より如何に多くの青瓷が輸入されしかは破損物を唐船より投棄せし博多海岸の夥しき残缺が、彼の元寇役に於ける元軍破船の遺物とのみは断定されぬのにしても明である。
陶器を輪となす
醍醐天皇の延喜五年、陶器を朝廷に奉り之を輪となす制度が發布され、大和、河内、攝津、和泉、美濃、近江、三河、淡路、播磨、筑前、讃岐、備前等十二ヶ國を調貢國と定め別に尾張と長門より瓷器若干を民部省に納貸せしむることゝなった。(輪とは其製する陶器を役に充費をするの法にて、其價は國の正税を以てしめたのである)
焼物の朝廷儀式階級
又弘仁式の瓷器即ち青瓷は、當時朝貢品中の上位であり、普通の陶器は中に位し、土器は下位であつた。故に其頃朝廷儀式の節は土器は黒漆器に相當され、陶器は朱漆器に相當されしが、瓷器に至つては銀器に代用されたのである。
土師左エ門
同延喜年間尾張國常滑村(知多郡)に於いて、土師左衛門なる者ありて稍勝し陶器を作りも。降つて天慶二年十一月二十一日平將門下にを起し、いで此月藤原純友伊豫に叛せ戰め、―陶輸絶ゆ―交通全く絶ゆるに及んで輸送の道なく、此頃より朝廷への陶楡こゝに斷絕せしといはれてゐる。
平安朝院政時代=猿頭の硯を献ず
堀河天皇の長治二年、尾張國瀨戶村(山田郡後の春日井郡)の陶工にて、朝廷へ猿頭の硯二十口(無釉陶)を奉献する者があつた。
後鳥羽天皇の元暦年間、山城國深草村(紀伊郡)に於いて陶器を製する者ありしが、それは釉薬なきものにて俗に焼締といふのであつた。
鎌倉源氏時代=保元治の頃より源平の兵権争奪屢行はれ、引き兵亂の影響は陶業の衰退を招くの止むを得なかつた。斯くて源頼朝天下を一統し、建久三年七月十二日府を鎌倉に開きしも、彼の武斷政治は工藝獎勵の如き敢て願みざりしもの如く、従つて何等出色の陶工も現出するに至らなかったのである。