日本の民族の種類
日本の陶磁器の歴史を語るには、先史時代の民族の起源を概念的にたどる必要がある。私たちの島国日本がもともとアジア大陸の一部であったことは、マンモスなどの動物の遺跡や平戸野島での蒲の瀬貝の発見によって証明されている。マンモスのような動物の遺跡や平戸野島での蒲の瀬貝の発見は、ここが大陸の一部である証拠である。かつて海底火山が上陸し、その一部が沈んだのかもしれない。
コロボックル人の縄文土器
最古の新石器時代の島民はコロボックルと呼ばれ、おそらくエスキモーと同じ種族が住んでいたと言われている。土器は縄や藁ではなく、葛や絡みつく蔓などの自然の植物で作られ、乾燥させると器に巻きついた。
アイヌ民族の到来
今から4、5千年前に間宮海峡を渡って日本に渡来したとされるアイヌ民族は、本州全域から中部地方にかけて分布している。海岸や山間部に住み、狩猟と漁撈以外は農耕を知らなかった。しかし、後に渡来民族に敗れ、奥州や北海道、千島列島に退いた。
アイヌ民族の祖先は、各地に当時の土器を残している。遠く日本の中央部、岩国や佐渡、伊豆、大島、初島などでも見られる。色は褐色で渦巻き模様があり、貝塚土器と呼ばれ、650度から750度で焼かれた。また、国栖族や蝦夷白味族はすべてアイヌ民族であったと考えられている。
ツングース系民族
次にやってきたのは、北アジア、東アジア、西アジア、中央アジアのツングース系民族である。彼らは西樺太から満州を占領し、春秋戦国時代には万里の長城を築くなど、常に中国を脅かしていた。これがいわゆる先住民族である。
奥羽の人々
アイヌとともに間宮海峡を渡り、出羽や越後に住んだ人々。-第二は、満州から朝鮮半島に渡来した出雲族といわれ、その一部は日本海を渡って出雲の国に定住した。
天孫族
第3の集団は、大陸や朝鮮半島から対馬海峡を渡って九州に上陸し、日向地方に勢力を拡大したヒト族である。最初と2番目の部族は古代史では国津神(クニツカミ)と呼ばれ、最後に日本にやってきたのが天津人(天孫族)である。
これら3つの部族は、狩猟と漁撈から農業へ、そして金属の使用へと移行した。また、アイヌ民族と戦い、アイヌ民族を打ち負かし、アイヌ民族を山間部や奥地に追いやった。三国志の3つの時代のうち、最大の知恵と武力を持った天孫族が九州から東進し、他の部族を征服して中国に都を構え、日本建国の基礎を築いた。大和・橿原を中心に作られる弥生式土器は「高天原土器」と呼ばれる。
苗族
次に日本にやってきたのは、中国の先住民族である苗族である。インドや中国から追い出された彼らは、農耕に加え、陶器作りや青銅器の使用にも精通した漢民族の台頭のためである。これらの部族の一部は、海路で九州北部に渡って社会を築き、わが国に農耕をもたらしたと言われている。
隼人族
九州南部に定住し、印度支那人と長く争った薩摩隼人の祖先である。-インドから南洋に追われ、その一部が日本に流れ着いた。(彼らの多くは奴隷として出発し、次第に絶滅していったと言われているが、現在ではその子孫を見かけることも少なくない。
漢民族
漢民族(中華帝国の始祖)は、紀元前1000年以前に朝鮮半島北部に勢力を拡大した民族であり、拉班、凌遅、玄原、甚馬の一部をわが国に伝えた。以上のような人種関係から、当時の日本ではさまざまなスタイルの土器作りが試みられていたことがうかがえる。つまり、日本の土器は、食器に加えて祭器(祭祀に用いる器)としての起源を持ち、杯、皿、坩、埴輪、棺桶など、常に無釉であった。こうした日本式土器のほか、甕などの朝鮮式土器もあった。後年、河内地方から出土した土器は、3000年以上前の遺物として調査された。
神代=アマノミカヅチ
神代の歴史には、海辺の砂に付着している白い物質を味わったアマノミカヅチが、真砂を水で掘って土器を作り、その中に海水を入れ、真砂を火であぶったところ、水が固まって塩になることを発見したと『開明記』に記されている。
簸の川上で作られた甕
第7代イザナギノミコトの子、スサノヲノミコトが八岐大蛇に毒酒を注いでクシナダヒメを救ったという話は有名である。
このとき使われた八甕は、出雲国(大原郡)川上の芦名寺と手名神社から焼却を命じられたという。彼らは漢杭島(朝鮮半島)にいたとき、すでに製陶技術を習得していたという。
その後、孫の素盞鳴命(スサノヲノミコトの子、天照大神神社の養子)を葦原の中つ国に派遣したことから、わが国(筑紫)の西部は、近隣の中国や朝鮮の影響を受けていたはずで、そのため、この地域には陶器作りの技術を習得した人々がいたはずである。当時の陶器は、筑紫、出雲、大和の3地域が発祥の地と言われている。
弥生土器
弥生人の最古の土器は茶色がかった黄色で、一般に無銘、丸みを帯びた形で高台がない。わずかに刷毛目があり、600~700度の高温で焼かれたものもあり、現在では弥生式土器または高天原土器と呼ばれている。
陶祖
素盞鳴尊(すさのおのみこと)が六世孫の天孫降命(あまのとうのみこと)の子であったころ、千屋国(ちやくに)というところで陶器を作っていた陶秩(とうじ)という人がいたと『古事記』に記されている。舅(しゅうと)の有力な部族であり、「陶槌命のジオ」と呼ぶべき人物である。(和泉国の深坂村、田園村、辻村、大村村、北村、福田村、高村、岩室村は陶器の里、大鳥郡と呼ばれていたという。)
天日槍の伝来
陶工が後を追ってこの地で陶器を作ったという碑文がある。(天一流が但馬に住み、その子但馬守介とその子孫が代々この地に住んでいる」という碑文がある。(天日槍は新羅の皇子ともいわれるが、新羅の建国は崇神天皇37年、漢の宣帝元年(武侯5年)なので、やはりかなり遅い)
大和建国時代
神武天皇が即位する前3年、大和の反乱軍を討伐した際、水根津北らに命じて香久山(かぐやま、大和国磯城郡香久山村角下)の土を探させ、酒殿や神酒醸造用の土器80点、多宝器80点、土師器80点を作らせた。陶器は祝部地区で作られた。
宿部焼
これが器(=忌み)の起源で、灰褐色の粘土で作られた器である。粘土は灰褐色で、当初は粘土であったが、後に弥生式よりやや硬い末土になったといわれる。焼成温度は900度から1000度で、平安時代から平安時代にかけて使用された陶器である。
徐福の帰化
孝霊天皇72年、秦の始皇帝は道士の徐福に不老不死の霊薬を求めて東方の蓬莱に行くよう命じた。彼らが持ち帰ったものの中には数種類の陶器があり、中国から直接陶器の製法を伝授した陶工がいた。この陶工の子孫が、陶器を姓とする人々の祖先だと言われている。
垂仁天皇28年10月5日、弟の和具比丘尼が亡くなり、12月2日に埋葬したところ、従者全員がその土地に生き埋めにされ、あまりの惨状に天皇は殉死しないように命じたという。
野見宿禰の埴輪墓像
殉死の身代わりとして、埴輪で人偶を作り焼いた後、陵墓の半周の地中に埋め、円形に並べた。
土工職の設置
天皇は陶工の職を定め、国中に陶器作りの場を定め、陶工長に神官を任命した。出雲から大和に百人の陶工を連れて行き、埴輪を作らせた。この時から13の国を陶器の産地と定めた: 出雲、備前、大和、河内、和泉、伊勢、近江、但馬、阿波、讃岐、淡路、播磨、筑前の13州に、山城、摂津、尾張、三河、美濃、上野、下野、丹波、因幡、周防、長門、筑後を加え、25州で土師の地位を確立した。これが土師姓の由来である。
社前には人馬像が建立された。
肥前国(のちの栄郡)の山中に景行天皇の御代、悪神があり、この地に来た人を殺した。それを燃やして神社の前に祀れば、必ず神意を和らげることができる」。大荒田は言うとおりにした結果、神は鎮まった。これが、神前に人馬像を建てた日本最古の例といわれている。
三韓侵攻の時代=唐津焼の始まり
仲哀天皇9年、神功皇后は三韓(当時の朝鮮は馬韓、辰韓、弁韓に分かれていた)に遠征軍を派遣し、同年12月、肥前の上松浦港(後の唐津)に帰港した。日本における朝鮮式土器の最も正確な創始者と言われている。
この戦争以来、日本と朝鮮は頻繁に交流し、現地の陶工は日本に移され、独自の陶芸技術をさらに発展させた。朝鮮半島における北宋陶磁の影響は後世のものだが、地理的な条件から中国の陶法を自国に伝えることができた。特に陶磁器の分野では、国名が陶磁器の代名詞となるまでに進歩した。
金窯磁器
允恭天皇4年9月9日、「姓名(しょうみょう)詐称を正す」という詔(みことのり)が出された。これは当時の迷信であり、人々は詐称されない証として沐浴して神に祈り、熱湯に手を浸した。
百済の高僧を招く
天皇7年、吉備の斎韓大師から、朝鮮には陶器作りに長けた者が多いとの伝令があった。そこで、天皇は代官の吉備守道真芋人を遣わし、百済から高貴な陶工を連れ帰らせ、河内桃原(交野郡飯地村)で陶器を作らせた。
芋部焼
同王朝の時代、備前国須恵村(大久保郡鎌ケ原町)で「芋兵衛焼(いもべやき)」が焼かれた。同王朝の時代、備前国須恵村(大久保郡釜ヶ原町?この地はもともと能美宿禰(のみのすくね)が出雲から土人を招いて埴輪を作らせた土師郷であった。
祭祀土師部
同十七年三月二日、野見宿禰は土師連らに命じて清浄な器を作らせた。こうして童子連の祖先である阿児筍(あごたけのこ)は、摂津・但馬・伊野波・舳幡(へばた)の陶工や、山背国摂津・宇治・伏見の各村(宇津)、摂津とその周辺の内村(宇治)、伊勢国不二方(伏見)の陶工を使って、祭祀用の清めの器を作った。これが贄窯部の始まりである。(生け贄とは、神や人に新しいものを与えることであり、また自らも新しいものを食べることである。)
曲水の宴会用食器
文武天皇元年正月三日、初めて曲水の宴が催された。
蘇我善行時代の仏教伝来
欽明天皇13年10月13日、百済の晴明王から仏典が献上され、それに伴って儀式に使う陶器や建築用の瓦が必要となった。
瓦職人は寺に奉納された。
崇峻天皇の元年、百済の威徳王は、仏国寺の塔を建てるために、宮大工のタロミデブン・カエコジャ、鑢医のチャンドク・ベジュン、瓦医のマナムン・ヤンギブン、リンギブン、ムカエヤ、瓦工のハッカなどを寄進した。を奉納した。屋根葺き用の瓦を焼いたのは、日本ではこれが初めてである。インドを経由して中国に入り、六朝時代の芸術となった盧芸の文様が、朝鮮を経由して日本に輸入されたのであろう。
遣唐使の始まり
推古天皇15年7月3日、小野妹子が遣隋使として遣わされ、遣唐使一行が隋に渡った。
大化の改新期における箱星の成立
孝徳天皇の大化の改新の際、朝廷の四寮に13の官職制度が設けられたが、そのなかに箱年(はことし)という役職があり、これを廃止して土師(どじ)という役職を設け、土師連が監督する陶工を土師の管轄下に置き、土師が陶磁器の製造を担当することになった。これは陶磁器史上、特筆すべき出来事である。
高麗陶器と布目瓦
斉明天皇の御代、肥前国上松浦に朝鮮の陶工が来て高麗焼を作った。この時からこの地は「陶の里」と呼ばれるようになった。仲哀天皇の時代に初めて作られた唐津焼はまだ無釉だったが、このとき日本で初めて釉薬がかけられたといわれている。また、肥前国で瓦焼が始まったのもこの頃と言われている。
窯元の設立
文武天皇元年、詔(しょう)一人、佑(たすく)一人、霊士(れいし)一人、遣唐使六人、直人(なおと)十一人という陶工(とうじ)職が設けられた。(箱殿は陶工であり、泥器(瓦職人)とは珍しい区別である)
奈良時代=行基が瓦を焼かせた。
元明天皇4年、僧行基が近江国瀬田で堂宇造営のために瓦を焼かせた。(和泉三才頭陀会によれば、行基は天智天皇の御代に和泉国大鳥郡陶村で焼き物を焼く法を説いたという)
豊間の留学
聖武天皇元年七月、童子は豊間の朝鮮土の陶法を研究するため、豊間に派遣された。土師にとって初めての外国留学であった。同年11月8日、太政官から宮殿建築の茅葺に瓦を、絵付けに丹を使用することが許可された。
唐三彩の制作
同年、奈良朝廷は河内国交野の土を探し、唐三彩(麹焼に似た鉛釉陶器)の製造を禁止した。
吉備津窯の開窯
天平7年3月10日、遣唐使多治比広重、遣唐使吉備真備、僭主玄蕃が帰国。
行基の土器
山背国(愛宕郡)清閑寺村丸山には、高僧行基も土器作りを指示したという碑文がある。(行基は和泉国大鳥郡の俗姓高志の人で、天平元年2月2日に82歳で没した。
瑠璃瓦で葺かれた
神護景雲元年4月14日、東院玉殿の屋根に瑠璃瓦が葺かれた(この時代の瑠璃瓦とは、屋根葺き用の瓦のこと。) (この時代の「瑠璃」は「青釉」ではなく「ガラス」を意味するという説があり、玉殿のこの古物が当時の遺物なのか、後の改築時に葺き替えられたものなのかは不明である)
生活用具に陶器が使われる
みなかめ元年8月4日、百舌鳥天皇が西の宮で崩御された際、朝廷は台所、厨房、酒造、陶工の各1人に命じて大和県漆上郡高野に陵を上げ、当時作られた陶器を食器や日用品として使用した。
平安時代=仏具と青磁
延暦13年10月22日、桓武天皇は都を山背国乙訓郡長岡から平安(京都)に移し、仏事に使う陶磁器はすべて中国から青磁を取り寄せるよう要請した。これ以降、中国産の陶磁器が盛んに使われるようになった。
青瓦葺き
同15年、大極殿(皇居の中心である朝堂院の正殿)を造営し、京都北部の鷹峯で焼かれた碧瓦(へきかわら)で屋根を葺いた。しかし、当時はまだ民家に瓦を葺くことは許されていなかった。
筥陶司の合併
延暦24年(または大同3年)12月10日、筥陶司は大膳商行に合併され、以後、陶工は大膳商行の支配下に置かれ、瓦工は木工に合併された。
酒甕の封鎖
平城天皇の元年(大同元年)、酒甕の禁酒令が出されたが、これは陶磁器産業の発展にとって挫折であった。
窯業の祖・乙麻呂
嵯峨天皇6年正月、嵯峨天皇は在唐留学生として入唐し、在家の学問を修めた後、下級在家となった。小野焼の元祖であり、日本を代表する陶工である。
平安時代の藤原時代(794~1185)=青磁の輸入統制
光孝天皇の元年10月20日、大宰府から中国製品の購入を禁じられた。しかし、儒教や仏教の伝来以来、中国の青磁は祭器として民衆に大いに愛され、高官から裕福な庶民に至るまで、客人をもてなすための花瓶や香炉を買い求めた。博多の海岸にある、中国船から割れた破片が捨てられた無数の裂地が、元寇の際に元軍に破壊された船の残骸であるかどうかは定かではないが、当時からいかに多くの青磁が輸入されていたかは明らかである。
サークルとしての土器
醍醐天皇の5年(延喜5年)、陶磁器を朝廷に献上し、輪に指定する制度が制定された。大和、河内、摂津、和泉、美濃、近江、三河、淡路、播磨、筑前、讃岐、備前の12カ国が朝貢国に指定された。(萬は、生産された陶磁器の原価を役務に充当する方法であり、価格はその国の正規の税金によって決定されることになっていた)。
朝廷の儀式用陶器
当時、貢進の最高位は青磁と呼ばれる光仁式青磁で、普通の陶器はその中間、土器はそれ以下であった。そのため、当時の宮中の儀式では、土器には黒漆器、陶器には朱漆器が合わせられ、陶器に至っては土器の代わりに銀器が使われた。
土師左エ門
同じ延喜年間、尾張国(知多郡)常滑村に土師左衛門という陶器作りにやや成功した人物がいた。天慶2年11月21日、平将門に討たれ、同月、藤原純友が伊予に反旗を翻し、伊予への陶磁器の輸送が途絶えたという。
平安時代(794~1185)=猿投硯の献上
堀河天皇2年、尾張国(のちの山田郡春日居村)の陶工が朝廷に素焼きの猿投硯20個を献上した。
後鳥羽上皇の元年、山城国(紀伊郡)深草村の陶工が釉薬のない焼き締めの陶器を作った。
鎌倉源氏の時代、源平が武力闘争のためにこの地に侵攻してくると、必然的に焼き物産業は衰退した。こうして源頼朝が全国を支配し、建久3年7月12日に鎌倉に政権を樹立したにもかかわらず、その軍事政権はあえて美術工芸の振興を図らなかったため、優れた陶芸家は現れなかった。
原文
日本陶史年譜 其の壱
我邦民族の種別
我邦の陶史を記述するには、先づ有史以前の民族について、概念的にも其發祥を辿る可き必要が生じて来る。元來我が日本島國がもと亜細亜大陸の一端なりしことは、マンモスの如き動物の遺骨や、平戸野島のガマノセ貝發見等にても證明されしさころにて。幾萬年かの往古に於いて、地變の爲めに分離されて島國を形成せしものと見る可く、彼の隠岐や佐渡及壹岐、對馬の如きは其中間に残留して、水平線上に現はし小片であらう。或は海底火山が一旦陸起後、其一部が沈降したのかも知れぬ。
コロボックル人の縄文土器
而して新石器時代に於いて、最古の島民としてコロボックルと稱せらる、小人種が住ひしと傳へらるゝは、或はエスキモー人と同種かも知れぬが、此人種が製作せし遺陶とてコロボックル 縄紋土器(又縄目土器といふ)なる物がある。蓋し當時は未だ穀物の栽培を知らざる時代とて、勿論縄や藁などを用ひて印花せしものにはなく、天然植物の葛や撚蔓などを器の生乾きの際に巻きつけし如く見らるゝのである。
アイヌ人の渡来
次は四・五千年以前、間宮海峡を渡りて我邦に來りして稱せらるゝアイヌ人種に分布は本州の中國邊にまで延びてゐる。彼等は海岸や山間に住して狩獵及漁獵の外農耕の道を知らず、そして又土器を製して使用した。然るに其後渡せる人種の為に打破られて、奥州や北海道又は千島等へ退したのである。
貝塚土器 此アイヌ人の祖先が、其造りしころの土器を各地へ遺してゐる。それは北海道は勿輪中國は岩國邊まで及べるが、尚佐渡、伊豆、大島及初島等にも發見されたのである。此土器の胎色は褐色を呈し渦模様のある即ち貝塚土器と稱せらるゝ物にて、まづ六百五十度より七百五十度位に焼成されし物といはれてゐる。又國栖、蝦夷白み などの種族は、何れもアイヌに属する者との説がある。
ツングース人
次には北東西比利亞に任せしツングース人が渡した。此人種は古代支那の歴史に於いて、東胡或は匈奴と呼ばれし大民族にて、西比利亞より満洲に占據し、當時の支那を絶えず脅かして春秋戰國時代萬里の長城を築造せしめし種族である。そして是が先住民族とするところのであらう。
奥羽族
而して此種族の渡來に就いては三つの時期ありと稱せられ、第一はアイヌと共に間宮海峡を渡りて出羽や越後に住居せし者であり。―出雲族―第二は満洲方面にありし者が朝鮮に入り來り、其一部が日本海を渡って出雲の国を中心地として殖民せしところの出雲民族であるといはれてゐる。
天孫族
第三は大陸地方及朝鮮半島に殘留せし一民族が、對馬海峡を渡って九州に上陸し、日向地方を中心地として勢力を伸張せし者にて。第一第二の渡來族が古代史にいはゆる國津神にあたり最後に渡來せしものが 天孫族則ち天津神であらう。
此三つの種族は、狩猟、漁獵の外農耕生活に入、そして金屬使用時代に移りしものゝ如く。彼等は又アイヌと戦うて之を破り、且此種族を山間や奥地に追込んだのである。此三期の渡来族中、天孫族が最優秀なる智力を武力を有し、九州より東上して他族を征服して都を中國に定め、我が日本建國の基礎を築きしものにて―高天原土器―その大和橿原を中心として造りし彌生式土器が、則ち高天原土器と稱する物である。
苗族
次に我國へ渡せしは、支那の先住民たる苗族である。彼等は漢族の勃興の爲め印度支那方面へ驅逐されし者にて、此種族は土器を造るの外農業を知り、又青銅器の使用を解してゐた。而して斯族の一部が海路九州北部に渡り一社會を建設せし者の如く、そして彼等が我邦へ稻の栽培を齎らせし稱せらる。
隼人族
次には南洋方面より海潮に乗って渡來せしインドネシアン族にて、彼等は九州の南方に根據を据ゑ印度支那族とも長く闘争せし薩摩隼人の祖先である。―ネグリート族―次に渡せしは黒人系に旅するネグリートにて、印度より追はれて南洋に渡り一部が日本に漂着した。(短かい体軀の縮毛にて扁平なる鼻の所有者)是等の大部分は最初奴隷級にありしが如く、そして漸減少し絶滅せしと稱せらるゝも、今何其遺系の面貌を見ること少くない。
漢民族
次には漢民族(支那帝國の創立者)にて、我神武紀元前約千年以前に於いて、朝鮮北部に勢力を伸ばし樂浪 臨屯、玄苑、眞蕃等の一部が我邦に移入せし者である。以上の各人種關係より考察するも、當時我邦の製陶が各種の様式に於いて試みられことが推せらる。要するに我邦の焼物は、始め食器の外祭器(即ち齋瓮)として發祥せしものゝ如く、何れも素焼物にて其他は埴輪、陶棺の外、杯、皿、坩の如きがあり、此倭製土器の外に甕類などの朝鮮式土器があつた。又渦土器と稱するは須惠母乃に丸き木口を印花せし物である。後年河内の國府より發掘されし土器の如きは、三千年以前の遺物と鑑査されたのである。
神代=天御中主神
我神代史に徹するに、天御中主命が海濱の真砂に白き物の附着してゐるを嘗めて味を知りたまひ、眞土を水にて掘り凹める土器を造り、それに海水を入れ火を焚きて眞砂を煎し、其湯固まりて塩となることを発見し給ひきっと開闢記に記載されてゐる。
簸の川上の製甕
それより天神七代伊弉諾尊のいざなぎ御子素盞鳴尊(天照皇大神の御舎弟)が、彼櫛名田媛を救はせ給ひしとき、八岐入頭の大蛇に毒酒を盛り給ひしことは人口に膾炙せる故事なるが。
そのとき用ひ給へる八個の甕は、足名椎と手名椎に命じて、出雲國簸の川上(大原郡)に於いて焼かし給ひし由傳へらる。夫れは嘗て尊が韓郷島(朝鮮)にましませし時、すでに製陶の法を会得さ居り給ひしと推せらる。
其後天孫天忍穂耳尊(素盞鳴尊の御子にて天照皇大神宮の御養子)を葦原の中つ国へ下し給ひてより、我邦の西端(筑紫)は近き支那及朝鮮の薫化を享け、従つて同地方にはその製陶の技を習得する者があつたであらう。當時の陶技は筑紫、出雲、大和の三方面より發せしといはれてゐる。
彌生式土器
而して我が民族が、最古に用ひしさいばし土器(土師器)は褐黄色を呈し、形状は多く鍋底式の丸くして高臺なく、概して無文とされてゐる。中に僅に刷毛目を存する物があり、火度は六百度より七百度位に焼成されしが如く、之が今彌生式土器又は高天原土器と稱せらるゝところのものである。
陶祖大陶祇
素盞鳴尊六世の孫天冬衣尊の御子大已貴尊(大國主神)の御時、茅渟の縣といふ此處に大陶祗(陶津耳命)なる者ありて、陶器を造りしよし古事記にある。此大陶祗は大巳貴尊の舅にて土地の豪族なりしが如く、之が我邦の陶麗と稱すべきであらう。(茅淳は難波の浦方面の名にて其縣なる和泉國の深坂村、田園村、辻の村、大村、北村、府久田村、高村、岩室村以上を陶器莊「大鳥郡」と言ひ傳へらる)
天日槍の渡来
此頃韓鄉島の天日槍我邦に歸化し、暫らく近江吾名邑なる鏡谷に在りしが、當時從ひ来れる陶工ありて此地に於いて焼物を焼きしの口碑がある。(天日槍は其後但馬に住し、其子但馬諸助以下代々此地に在り、此處の伊豆志神社は天日槍を祀れるである。又天日槍を新羅の王子とするも、新羅の建國は崇神天皇の三十七年、漢の宣帝五鳳元年にて、尚甚だ後世のことである)
大和建国時代
神武天皇即位前三年、大和の賊八十梟師(一群の夷族の長)を討平の際、推根津彥及び弟猾等に命じ天の香具山(大和國磯城郡香久山村戒下)の埴土を探りて、平迦(淺き瓮)八拾個、手抉(手指を以て剔抉せる小壺) 八拾個及び厳瓮(酒殿にて神酒を醸す甕或は祭神の酒器ともいふ)等を造らしめた。
祝部土器
之が齋瓮(伊波比閇又祝部或は祝瓶の土器)即ち忌部(忌)の始にて、胎土は灰色茶褐色とあり。最初の陶質は埴土物なりしならんも、後には彌生式よりも稍堅固なる須惠母となりし如く。そして焼成されし火度は九百度より千百度のものにてあり、之が王朝より平安朝まで繼續された物である。
徐福の帰化
孝霊天皇七十二年秦の始皇帝は、道士徐福に命じて東方蓬莱國に不老不死の霊薬を求む可く派遣した。それは男女五十八人大船四十八艘に分乗し、米穀金帛數萬石を搭載して紀伊國熊野浦に着きしが、其齎らせる中に數種の焼物があり、又陶師ありて、茲に支那直傳の陶法を享けし口傳された。そして此陶師の子孫が陶を姓氏とする者の祖といはれてゐる。
垂仁天皇の二十八年十月五日、皇弟倭彥命薨せらるゝや、十二月二日命を葬るに當り、近習者の悉くを其陸域に生埋めにして甚だ惨状を極めしかば、天皇乃ち詔して爾後殉死を禁せられた。
野見宿禰の埴輪
而して同三十二年七月六日皇后日葉酢媛薨去せらるゝに及び、出雲の人野見宿稲の建策を容れ給ひ、殉死に代ふるに埴土を以つて人偶像を造り焼き、そして墓陵を繞り半ば地に埋めて輪の如く樹て列ねしより、之を埴輪又立物と稱するに至つた。
土師職を置く
天皇之より土師の職を置きて諸國に製陶の地を定め、宿禰をして土師の長たらしめ給ふ。彼は出雲の土師(陶工)一百人を大和へ連れて埴輪を製作した。之より製陶地を出雲、備前、大和、河内、和泉、伊勢、近江、但馬、阿波、讃岐、淡路、播磨、筑前の十三ヶ國に定められしが、更に又山城、攝津、尾張、三河、美濃、上野、下野、丹波、因幡、周防、長門、筑後の十二ヶ國を加へて二十五ヶ國に土師職を置くこと成った。これ土師を姓とする者の濫觴である。
神前に人馬の像を建つ
景行天皇の御宇肥前國の山中(後の佐嘉郡)に、往來の人を暴殺する魔神ありて此地の大荒田大いに憂へるを、山田村(川上川の畔)の土蜘蛛(一種の夷族)大山田、狭山田の姉妹ありて建策するに、下田村(今の松梅村)の埴土を探りて大形なる人馬の像を造り、焼きて祠前に祀らば必ず神意を和らぐ可し。大荒田其言の如く行ひしに果して神鎮まるに至つた。これ本邦に於いて神前に人馬の像を建立せし最古の事と稱せらる。
三韓出兵時代=唐津焼の始
仲哀天皇の九年、神功皇后三韓(當時の朝鮮は馬韓、辰韓、辨韓に分立)を出兵せられ、其年の十二月肥前の上松浦の港(後の唐津)に御凱旋あるや、従ひ来りし韓土の陶工此地に帰化して製陶せるもの、これ後年唐津焼と稱するものにて、朝鮮式の製法を我邦に扶植せし最も精確なる始祖と稱せられてゐる。
此戦役以來日韓の交通頻繁なり、彼地の陶工渡して我邦の陶技を長せしむるに至つた。朝鮮に北宋の陶技が浸入せしは何後代の事に属するも、彼等は地理の關係上尻に支那の陶法を傳へしもの如く。而して支那は五千年近き國て東西文化の源泉地と稱せられ、殊に陶技に於いては其國名が焼物の代名詞れるまでに風に進歩せしものであつた。
深湯瓷
允恭天皇の四年九月九日、詔して探湯(誓湯)に依って各人姓氏の詐胃を正すことなつた。それは當時の迷信思想にて人々沐浴齋戒の上神に盟ひ、決して詐らざるの證として中の熱湯に手を浸して験する法にて、此頃より又弘く民間に行はるゝに至り探湯瓮の需要を加ふることゝなったのである。
百濟の高貴を招く
雄略天皇製陶を盛んにすべしの聖旨あり天皇の七年歸化人西漢才伎(テビトは工人の意)歡因知利より、斯技に巧なる者韓土に多き由を奏聞す。天皇仍つて吉備の上道臣弟君に副使として遣はし、百済の陶部の高貴なる者を連れ帰り、河内國桃原(交野郡私市村)に於いて陶器を焼かしめたのである。
忌部焼
同朝の御代に於て備前國須惠村(邑久保郡釜ヶ原?)に於いて忌部焼なる陶器が創始された。此邊りは元野見宿禰が出雲の土師を招きて、埴輪を造らしめし土師鄉である。
贄の土師部
同朝の十七年三月二日、土師連等に詔して清器を進め造らしむ。是に於いて連の祖吾筍は攝津國來狹々村、山脊國内村(宇治)、同國俯見村(伏見) 伊勢國藤方村其他丹波、但馬、因おはにへ幡の陶工をして御贄の御清器を作り私民部を進む。これ贄の土師部の始めである。(贄は新物を新物を神にも人にも饗し自らも食する事である)
曲水宴の盤器
顕宗天皇の元年三月三日、始めて曲水の宴(御溝水に羽觴を流して詩歌を作るの興、めぐりみづのとよのあかり)を設け給ふや、瓜を酒魚として盤に盛り以て宴席に供せらるゝとあるは、既に此時皿を御器に用ひ給しことが證せらる。
蘇我氏專横時代佛教の渡来
欽明天皇の十三年十月十三日、百済の聖明王より佛教經論の贈献と共に、其式典に用ふ可き陶器と、建築用瓦の必要が生するに至った。
瓦工を献し奉る
崇峻天皇の元年百濟の威徳王より、佛寺堂塔建立の用に供するため、寺工―太郎未太文賈古子、鑢盤博士―將德白味淳、瓦博士―摩奈文奴陽貴文、陵貴文、昔麻帝彌、及び工―白加等を献じった。之より本邦に於て始めて瓦を焼きて屋根を葺くことが創められた。蓋し此頃より希臘藝術の模様が印度を経て支那に入り六朝美術となりしものが、又朝鮮を経て我邦へ輸入されしものであらう。
遣唐使始まる
推古天皇の十五年七月三日、大禮小野妹子を隋に派遣されしが、爾來我邦より遺唐使なる者の一行屢彼地に渡航することゝなり、之より又製陶の發展を促かす媒介となったのである。
法政改革時代筥陶司を置く
孝徳天皇の大化改新の際に於いて、宮廷の大膳職に四寮十三司の制を設けられ、其中に筥陶司を置きて土師の官職を廢し、土師の連の督する陶工を以つて之が所管となし、土工司を置きてを造ることを掌らしめしが、此革新に於いて土師の世襲業を解廢せられしは、陶史上特筆すべき事柄である。
高麗焼と布目瓦
齊明天皇の御代に於いて、韓土の陶工肥前國上松浦の地に渡来して高麗焼を創製した。之より此地方を陶村させらる。蓋し仲哀天皇の時唐津焼の始と稱するものは、未だ無釉陶なりしも、此時より始めて施釉陶か我邦に於いて製作されし稱せらる。又其頃肥前國に於いて瓦焼が始められしが、それは彼の布目なるべしといはれてゐる。
陶工の戸を定む
文武天皇の大寶元年、筥陶司の職制を正一人、佑一人、令史一人、使部六人、直十一人を爲し、陶工人の戸を定められた。(筥戸は陶工にて、泥工即ち瓦工と區別せし名稀である)
奈良朝時代=行基敷瓦を焼かしむ
元明天皇の和銅四年、僧行基は堂宇建立に用ふるため、近江國瀬田に於いて敷瓦を焼かしめたのである。(和泉三才圖會には、之より先天智天皇の朝和泉國大鳥郡陶村に於いて、行基法を教へて陶器を焼かしむとあり)
豊磨の留學
聖武天皇の神亀元年七月、土師の豊磨韓土の陶法を學ぶ可く彼地に派遣さることなつた。蓋し土師の外国に留學せしは此時を以つて始めと稱せらる。又同年十一月八日太政官の奏請により、宮屋を葺くに瓦を以てし、塗るに丹を以てすることを許された。
唐三彩の陶器を作る
同朝の天平六年奈良の禁廷に於いて、河内國交野の土を探りて原料とし、唐三彩(交趾焼の如き鉛釉土器なるべし)の陶器を製作せしめられた。
吉備津の開窯
同天平七年三月十日、入唐大使多治比廣成、留學生吉備真備、僭玄昉等歸朝するや、彼地より伴ひ來りし陶工菜、備中國吉備津に於いて開窯し施釉の陶器を作りし傳へらる。
行基焼
大僧正行基は又山背國清閑寺村字丸山(愛宕郡)に於いて、鄉人を指揮して土器を焼かしめたとの口碑がある。(法相宗の高僧大菩薩行基は俗姓高志氏和泉國大鳥郡の人にて天平元年二月二日卒去した行年八十二才であつた)
瑠璃瓦を葺く
稱徳天皇の神護景雲元年四月十四日、東院玉殿成るにあたり、瑠璃瓦を用ひて屋根を葺かしめたとある。(此時代の瑠璃とは碧釉でなく、玻璃の意味ならんとの説があり、今玉殿の古なる物あるも、果して當時の遺物なりや、或は後代改作の際に葺替へしにあらざるか詳でない)
陶器を日用の雑器に充つ
箕亀元年八月四日、稱徳帝西宮殿に於いて崩じ玉ふや宮廷は大膳職、大炊寮、造酒司、陶工司の監物等各一人に命じて役夫を養ふ司と為し、以て山陵(大和國漆上郡高野)を起さしめ、當時製陶の器を以て役夫の食器及日用の雑器に充てられことを記載されてある。
平安朝時代=佛具と青瓷
桓武天皇が延暦十三年十月二十二日、山背國乙訓郡長岡より、更に同國平安(京都)に御遷都あるや、佛具に用ふる陶器を凡て支那の青瓷に仰ぎ給うた。此頃より彼國の該器を齎らすこと頗る多きを加へしさ稱せらる。
碧瓦を葺く
薄いで平安城を築き、同十五年大極殿(大内裏入省院の中央にて即ち朝堂院の正殿おほやすみごのといふ、即位朝賀の國儀大禮所)の建立にあたり、洛北鷹ヶ峰に於いて焼きし碧瓦を以つて屋根を葺かしめられた。蓋し當時民屋に於いて瓦を葺くことは未だ許されざる時代である。
筥陶司合併さる
同朝の延暦二十四年十二月十日(或は大同三年とも)制して諸司の穴員を省き筥陶司を以つて大膳職に合併し、爾来陶器は此職の掌るところとなり、又土工司(瓦工)を木工に合併さるに至った。
酒甕の封鎖
平城天皇の大同元年、詔して酒甕の封鎖を行はれしが、一面陶業の發展に一頓挫を来たすの止を得なかった。
中興陶祖乙麿
嵯峨天皇の弘仁六年正月、嚮に造瓷生となりて入唐し、彼の瓷器傳習を終へて准雜生に出身せし三人のうち、尾張國山田郡(今春日井郡地方)の人三家人部乙麿、彼地より原料の陶砂を齎らして郷里主惠郷に来り、我邦に於いて始めて硬度の瓷器(青瓷)を製作した。之が尾濃陶業の元祖であり、そして又本邦中興の陶昶であらう。
平安朝藤原時代=青瓷の輸入を制す
光孝天皇の仁和元年十月二十日、太宰府にして私に唐物を買ふことを禁ぜられた。蓋し儒佛の傳來以後其祭具として支那青瓷の我邦人に愛さること甚だしく、上士太夫より下冨格の庶民に至るまで、花瓶、香壇の類を購入し以て賓客を待つのとした。當時より如何に多くの青瓷が輸入されしかは破損物を唐船より投棄せし博多海岸の夥しき残缺が、彼の元寇役に於ける元軍破船の遺物とのみは断定されぬのにしても明である。
陶器を輪となす
醍醐天皇の延喜五年、陶器を朝廷に奉り之を輪となす制度が發布され、大和、河内、攝津、和泉、美濃、近江、三河、淡路、播磨、筑前、讃岐、備前等十二ヶ國を調貢國と定め別に尾張と長門より瓷器若干を民部省に納貸せしむることゝなった。(輪とは其製する陶器を役に充費をするの法にて、其價は國の正税を以てしめたのである)
焼物の朝廷儀式階級
又弘仁式の瓷器即ち青瓷は、當時朝貢品中の上位であり、普通の陶器は中に位し、土器は下位であつた。故に其頃朝廷儀式の節は土器は黒漆器に相當され、陶器は朱漆器に相當されしが、瓷器に至つては銀器に代用されたのである。
土師左エ門
同延喜年間尾張國常滑村(知多郡)に於いて、土師左衛門なる者ありて稍勝し陶器を作りも。降つて天慶二年十一月二十一日平將門下にを起し、いで此月藤原純友伊豫に叛せ戰め、―陶輸絶ゆ―交通全く絶ゆるに及んで輸送の道なく、此頃より朝廷への陶楡こゝに斷絕せしといはれてゐる。
平安朝院政時代=猿頭の硯を献ず
堀河天皇の長治二年、尾張國瀨戶村(山田郡後の春日井郡)の陶工にて、朝廷へ猿頭の硯二十口(無釉陶)を奉献する者があつた。
後鳥羽天皇の元暦年間、山城國深草村(紀伊郡)に於いて陶器を製する者ありしが、それは釉薬なきものにて俗に焼締といふのであつた。
鎌倉源氏時代=保元治の頃より源平の兵権争奪屢行はれ、引き兵亂の影響は陶業の衰退を招くの止むを得なかつた。斯くて源頼朝天下を一統し、建久三年七月十二日府を鎌倉に開きしも、彼の武斷政治は工藝獎勵の如き敢て願みざりしもの如く、従つて何等出色の陶工も現出するに至らなかったのである。