日本陶史年譜 其の弐

肥前陶滋史考
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鶴田 純久の章 お話

鎌倉・北条時代=加藤景正
 後堀河天皇2年4月、深草の陶工・加藤四郎左小門景正が、越前国の僧・角元禅師(せいげんぜんじ、54歳、 建長5年8月28日生まれ)に従って天童山に赴き、近くの窯(南の九江浜の舟山窯とも、舟山諸島の舟山窯とも、寧波の蔵窯ともいわれる)で釉薬の技術を学び、安貞6年3月に帰郷した。
 良質の粘土を求めて14年間、堺の十日村、近江の信楽、伊勢の桑名、尾張の半田、末森を巡り、四条天皇3年、尾張瀬戸村の祖母の土蔵の母土を見て大いに喜んだ。馬ヶ城、小曽根、椿に窯を開き、堅牢な釉薬を施した陶磁器を生産した。塩壷、仏花立、おろし鉢、小鉢、一升瓶、大小の皿や壷などを焼いた。晩年は肩衝の茶筒を作ったといわれる。

建盞天目釉
 伝統的な鉛釉、茶釉、緑釉に加え、彼は初めて建盞天目釉(茶碗に黒く発色する釉薬、素盞は後漢の皇帝の年号で、わが仲哀天皇の王朝である)を制作した。天目」とは、天目山に留学していた日本の僧が中国宋の天目山から持ち帰った黒茶碗の名前で、その釉色が珍重され、茶人の間で大人気となった。この景定時代の作品は「古瀬戸」と呼ばれ、後世に愛され続けている。

瀬戸物の総称
 この時代までは、陶器は一般的に貴族や裕福な人々のものであったが、後世に瀬戸焼が盛んになると、庶民にも広く使われるようになった。この深川神社の境内には、窯変法印が祀られている。瀬戸の発展により、現在では市制が敷かれている。

藤四郎
 加藤四郎左衛門の略称は藤四郎。大和国諸輪郡道影村の出身で、母は深草の人情風の女性だったという。かつては久我通親という大僧正に仕えていたが、深草に陶器を作りに行った際、通親の子である道元和尚に従って深草に入ることができた。弘安17年3月19日、82歳で没し、元治元年(1864年)11月18日、正五位下に叙せられ、特旨を賜った。

禁酒令
 後深草天皇の時代になると、財力のない北条氏の方針は勤勉・倹約にとどまらず、青砥藤綱が滑川で銭を拾うまでになった。その数が全国にいかに多かったかを見れば一目瞭然で、陶壺の生産に大きな打撃を与えた。

黄瀬戸
 亀山天皇の文永年間、景勝家の二代目加藤藤九郎元道は、猫田窯、板谷窯、南洞窯の三窯で、いかにも日本的で優美な青磁の黄瀬戸を生産した。これが今日「新中古」と呼ばれるものである。(寛永年間に幕府の医官であった宗谷白庵が所蔵していた黄瀬戸の茶卓が賞賛され、その時に再製されたものを同類項で白庵と呼んでいる)

信楽焼
 信楽焼は、後宇多天皇2年に近江国(甲賀郡)長野村で誕生した。黄赤釉の上に水色の斑釉を掛けた、非常に硬質の農民用の種壺や浸漬壺が多く作られた。

金華山陶器
 後伏見天皇の永仁年間、景勝の三代目である加藤藤五郎景国が、茨迫間窯、光琳窯、半東窯で金華山焼を作り、後に古陶と呼ばれた。また、金華山(渥美郡美濃山)から瀬戸に粘土を運んで金華山焼が作られた。金華山焼は、美濃の金華山(渥美郡江波山)から瀬戸に土を運び、黒斑のある茶褐色の釉薬を掛けて作られた。

經正の失敗
 同王朝の正安年間、製陶を任された倍經正は、深草の瓦師に製法を伝授して一種の陶器を作らせたが、火加減を知らなかったため、あまり多くの器を作ることができなかった。

丸柱焼
 丸柱焼(阿倍良郡、現在の阿讃郡)は、後醍醐天皇の建武年間(1392~1573)に伊賀国で作られた。釉薬の色は青黄や純白であったが、赤釉をかけたり、天然の吹き釉で優美さを演出することもあった。
 (天正年間には新次郎という名工がいた)。寛永年間に小堀藤右衛門盛政一が地元の陶工に図案を与えて茶器を作らせたが、その茶器は薄手で質が高く、遠州伊賀と呼ばれた)

破風手
 建武年間、加藤藤三郎正利(慶祥四代)が行き当たりばったりの手つきで茶壺を作った。釉薬が上までかかっていないため地質が露出しており、その形が家の破風に似ていることからこの名がついた。釉薬は茶褐色で、その上に黄色がかかり、割ったクルミが型押しされているものもある。他に「渋手」と呼ばれる名物もあり、いずれも後世「古陶」とも呼ばれる。
 吉野時代=この時代から南北朝時代に入り、戦争が相次いで起こり、九州北部の民は武器を持って朝鮮の地を脅かした。

室町・足利時代=伊部焼の復興
 後小松天皇の時代に南北朝が統一され、ようやく天下が平和になった。後年、「いもべやき」は「いべ」(「いまべ」とも)に改められた。生産品は、種壺、種浸壺などの農具、花器、酒壺、天正期からは茶道具などである。この地域の古備前焼には、緋襷(ひだすき)、松葉城(まつばじょう)、榎(えのき)などの名品がある。
 (後年、胡麻と呼ばれる黄釉を濃くした茶褐色の釉薬のものも作られた)。

青磁の渡来
 永祚10年8月3日、明の僧・契陽が貢物として詩書4冊と陶器数点を持参し、七官の青磁を初めて手渡した。また、北山館で明の皇帝に仕えていた武将・足利義持(正長元年正月十八日卒、43歳)にも、7人の青磁のうち最初のものを贈った。天正・文禄期のものを「中足」、延宝期のものを「後足」、あるいは「新渡戸」と呼んだのに対し、七官女の手は「小渡戸」と命名された。

能阿彌珠光
 後花園天皇の御代、将軍足利義政の家臣であった能阿彌(中尾)(延徳2年正月7日卒、56歳)は、古器に造詣が深く、珍しいものを天皇に勧めていた。南都の僧、村田珠光は點茶の名人で、唐宋の茶の湯を改良し、茶道そのものを確立した最初の人物である。
この頃から、一休門下の村田珠光(通称茂吉、独古庵南渓の別号、文久元年(1861年)5月15日卒、81歳)のような茶人が現れ、茶道の流行は茶道具を鑑賞するものとなった。芳正の優雅で洗練された趣味と、茶の湯の簡素さを求める趣味が結びつき、当時の美術工芸界に大きな変化をもたらしたのである。

美濃焼
 後土御門天皇の7年、武藏国倉木郡の加藤景信という人物が美濃国恵那郡大川村にやってきて、陶器を作り始めた。美濃焼の祖と呼ばれる。

志野様式
 明治時代、義政の家臣であった志野宗信は、瀬戸の宋の釉薬をこよなく愛し、これを「志野焼」と呼んだ。以来、この種の釉薬を志野焼と呼ぶようになった。後世に珍重される古い志野焼。後世に珍重された古い志野です。

正信春慶
 明治時代、山名宗全の家臣である山名湛増正信が作陶に興味を持ち、加藤春慶(春慶の67代目であろう)から技術を学んだ。

室町戦国時代=阿部屋
 後柏原天皇の時代、飴屋という朝鮮人の陶工が京都にやってきて、西洞院東口の北側にあった佐々木奈々の娘婿となり、再び京都に移り住んだ。彼はろくろを使わず、指頭で優美な土器を作ったが、技量がなかったため、あまり多くの作品は作らなかった。

紹鴎志学
 耕治元年(1868)閏10月29日、53歳で卒業した泉州堺の茶人、武野紹鴎によって紹鷗信樂が創設されたのもこの頃である。

志戸呂焼
 奈良天皇の御代、近江国(榛原郡)横岡村に志戸呂焼が誕生したが、主に葉茶壺や花瓶を生産していた。

平戸開港
 同年天文19年、ポルトガル人の需要に応え、松浦隆信が肥前式平戸港を開港。日本の商業に新時代の幕開けを告げると同時に、彼らの珍奇な陶磁器の輸入は、日本の陶磁器界に新たな刺激を与えた。

追覆手茶入
 同じ頃、尾張国山田郡赤津村(現・瀬戸市)で、今川義元の寵愛を受けた赤津三郎左門という陶工が、土が透けて見えるように「底の内側」に釉薬(ゆうやく)をかけ、表面に数条の焦げ目をつけた押手(おしで)の茶筒を制作した。後年「志川」と呼ばれるようになった有名な茶筒である。

八田窯
 天文年間(710〜794)、和泉国八田村に牛田焼が創業し、後に八田焼と呼ばれるようになった。(天正年間、この地の地名に由来する姓を持つ玄斎という人物が八田焼を作り始め、八田焼と呼ばれるようになった)。軽くて雪のように白く、精巧であるといわれ、秀吉は天下一の名を与えた)
松陰長天皇の元年(西暦1558年)、当時増毛にいたラルフ・フリッチというイギリス人が、「葡萄原人が中国や眞子から日本に来るときは、白絹、金、麝香、陶器を送り、銀以外は決して馬鹿にしなかった。

南蠻物
彼らは白い絹、金、麝香、陶器を送り、銀以外のものを馬鹿にしなかった。
 傀儡子たちが作った陶器は、中国、安南、魯迅、麹浜などの寄港地で作られたことは想像に難くない。この港は阿媽港、阿媽港、亞媽港、天川とも呼ばれ、香山湾とも呼ばれる。この港は中国広東省の珠江デルタ地帯にあり、古くからブドウの栽培が盛んな土地であった。ここには土器はないが、前述の華南地方の産物が交易されていたようだ。この不思議な土器に接した日本人は、少しでも真似をしたいという希望に満ちていたことが窺える。当時の日本では、このような陶器を南京焼、朝鮮焼を高麗焼、中国焼を南京焼と呼んでいた。

信長の瀬戸巡幸
 嘉禄6年12月、尾張の織田信長は鷹狩の途中、領内の瀬戸の窯業を巡視し、鎮守府において新たな租税や質草・抵当権(債務者が借金を滞納すると、その財産を差し押さえ、その財産がどこにあっても見つけ次第没収すること)を取ることを禁じた。さらに、郷の市場日に関係のないすべての物品の通行、商人や馬の自由な通行も禁じた。
 また、東郷の市の日には荷物の通行も禁止した。また、12代景勝の子孫である加藤万右衛門元則(藤兵衛元長の子)にも同様の命令を下した。
また、信長は茶の湯を嗜み、特に諸国の名茶道具を収集し、功績のあった武士に贈った。これにより、茶道の普及と茶道具の生産が促進された。

長崎開港
 元亀元年、肥前の平戸港と福田港が閉鎖され、同国の深江浦に移され、長崎港となった。以来、この港から外国製品が頻繁に輸入されるようになり、後年には輸出用の陶器が生産されるようになった。

織豊氏の安土桃山時代=大平焼
 天正元年、瀬戸坊津の陶工・景春の次男、加藤五郎左衛門景豊(改め奥三右衛門景久)が、弟の重右衛門景定(改め五百門)とともに美濃国久賀利村(加美郡)大平に来窯。

瀬戸の陶工の保護
 同年天正2年11月11日、多田信長は瀬戸の陶工の家系を調査し、窯数の制限や他所への開窯を禁ずるなどの保護令を出した。

瀬戸の名窯の窯印
 当時の瀬戸を代表する陶工といえば、印相右工門(加藤宗右工門慶春、号は春永、永禄9年正月28日卒)、口入一左工門(加藤一左工門慶重春厚、 景春の三男)、天仁重右衛門景貞(加藤重右衛門景貞、のち医光門、のち景山、「徳庵と称した説もある。(景春の四男)、長寿、十作門信長の子、高島藤兵衛元長の子、加藤重右衛門元村の子、景春の弟子。景春門下の加藤十右衛門元村の子、高島藤兵衛元長の子、十作門信長。瀬戸引き黒の祖である)、応院泰平(加藤源十郎景助、泰平とも白庵とも俊伯ともいい、与三右衛門景久の子)、丁銀新兵衛(不明だが加藤氏であろう)などがいる。
 上記の陶工はいずれも茶道具の製造に特に長けており、いずれも自分の作品に窯印を刻んでいる。
 自分の作品に銘を入れたのは、この6人が最初だと言われている。そのため、6人の陶工は「瀬戸六作」と呼ばれるが、これは後世の造語のようだ。

燃える明瓦
 同年、近江国に安土城を築いた信長は、天守閣の屋根に使う明式瓦を焼くため、明の時代に福州からやってきた肥前平戸の瓦職人を高島郡に呼び寄せた。これが日本初の明式瓦の使用であり、従来の布目瓦に代わる燻瓦の始まりであった。(後年、一閑の子・大久保石見守長安が佐渡奉行となる)

長助の楽焼
 天正5年、信長は佐々木宗慶の子、田中長助(長次郎ともいい、千利休を名乗って田中と改名、慶応4年9月7日、74歳で卒業)に、父の釉薬の作風を踏襲した黒釉と白釉の2種類の茶道具の制作を命じた。

郡尻焼
 同年、長男の加藤新右衛門景久が弟の源十郎景重とともに美濃国(土岐郡)郡尻に開窯。

利休は高禄を与えられた。
 同じ年、信長は茶人・千利休(琢野紹鴎の弟子で、俗名・小四郎、鵬仙斎といい、正親町天皇から家老の名を賜り、秀吉に命じられて1918年2月28日、71歳で没した)に3,000石の禄高を与えた。

猿爪窯
 天正6年春、加藤伊右衛門景定(1878年9月20日大平で没)が美濃国遠江村(恵那郡)猿爪に開窯。

秀吉、伊部六姓を召し上げる。
 天正10年3月、羽柴秀吉は中部探題のため備前に滞在していたが、ある日、伊部六姓の一人、左門大五郎の家に泊まった。そして秀吉は6人の陶工を保護し、この地に陣屋を構えることを禁じる勅令を出した。
 備前焼には伊部だけでなく、青備前(あおびぜん、青壁(あおかべ)とも呼ばれ、青灰色の還元窯で焼かれる)、色備前(いろびぜん、寶永年間に三代池田宗政が藩主綱政から請け負った素焼きの胡粉(こふん)加飾の作品)などがあり、江嶽時代には三日月六兵衛という名工もいた(『正徳』海野海野)。(正徳の雲定、延享の木村甚七、寶永の服部平四郎、明和の木村作十郎、安永の大平十郎、天明の木村庄八、享和の森嘉明、文化の茂一、嘉永の木村平八など)。

加藤景久
 天正11年、景久の娘婿である加藤奥三兵衛景光が美濃国郡尻にやってきて、白釉の器を制作した。また、瀬戸黒天目も作り、正親町天皇に献上し、時の名工として筑後守に託された。

陶製のマスケット銃
 天正12年、秀吉は瀬戸の陶工に命じて陶製の弾丸を作らせ、同年4月9日の尾張長久手の戦いで使用した。

茶道の隆盛
 茶道は隆盛を極め、三斎細川忠興(越中藩初代藩主・与一郎)、良庵小田長誉(有楽藩初代藩主・源五郎)、印西古田重勝(織部藩初代藩主・佐助)、安源金森長近(出雲藩初代藩主・五郎八)ら名だたる茶人が輩出した。

織部流
 このうち、古田重勝(むねほし・1868年6月11日、京都の放火で72歳の生涯を閉じた)は、尾張国鳴海(愛知郡)の陶工に命じて自作の茶壺を作らせた。黒褐色と緑色の釉薬に草花を多用したその茶壺は、のちに織部焼と呼ばれるようになる。
 (瀬戸では、この鳴海織部のほか、黒織部、青織部、赤織部、檜織部、志野織部など、多くの織部が作られた。後年、伊那備前守忠次が焼成を命じたものを伊那織部と呼ぶ)

織部の名窯
 天正13年、古田重勝は折に触れて瀨戶を訪れ、茶道具の生産を奨励し、優雅な織部様式を生み出した。当時の有名な陶工は、「カ」印八郎次(本村竹門の孫、加藤八郎次景清の次男、加藤八郎次景兼にちなんで八郎右衛門と号す)、「山」印吉右衛門(加藤吉右衛門景季、 本村四代目新右衛門景重の次男)、「山」印吉右衛門(加藤吉右衛門重喜、加藤四代目新右衛門景重の次男。)「田」印金九郎 (加藤金九郎は四代目五郎右衛門政経宗右衛門の長男、藤四郎元春の弟)、「セ」印加藤治兵衛(加藤治兵衛は五代目五郎右衛門政経の分家、惣兵衛惣兵衛の子)、)「サ」印の六兵衛、「?」印の佐介、「㊀」印友十、「イ」印丈八、上記10作は、織部の好きな10作とも言われている。上記6作と同様、これも後世の作品かもしれない。

原文

鎌倉北條時代=加藤景正
 後堀河天皇の貞應二年四月、深草の陶工加藤四郎左工門景正なる者て、越前國永平寺の開道元禪師(承陽大師建長五年八月二十八日寂五十四才)の入宋に從ひ天童山に至り、そして其附近の陶窯 (南方九江邊或は舟山列島の舟山窯又は寧波の象窯など諸説あり)に於いて施釉の陶技を學び、六年目なる安貞二年三月に至つて帰朝した。
 之より彼は良質の陶土を求めつゝ、堺の陶村、近江の信樂、伊勢の桑名、尾張の半田及末森等に試焼すること十四年を経て、四條天皇の仁治三年尾張國瀬戸村に於て、祖母懐の土蔵母懐(紅色の木節土)を使用せるを見て大いに喜び、此處の馬ヶ城、小曾根、椿等に開窯し堅緻なる施釉陶を製作した。其種類は塩壺、佛具の花立、おろし目、小鉢、瓶子形の神酒瓶、及び大小の皿、甕等なりしが、晩年に及んで肩附の茶入を製せしといはれてゐる。而して景正が此處に開窯せしより今年までに六百九十四年を経たのである。

建盞天目釉
 中にも従来の鉛色及褐色又は緑色等の釉陶の外に始めて建盞天目(鐡料に依る黒き着色釉、建盞は後漢の獻帝の年號にて我仲哀天皇の朝である)の施釉物を製作した。蓋し天目とは宋の天目山に留學せし我邦の禪僧が持帰りし黒手の下手物茶碗ありしを、其釉色が珍重されて茶家の間に大に流行するに至りしものである。そして此景正時代の作品が後世に愛さるところの古瀬戸である。

瀬戸物の汎稱
 此頃まで陶器なる物は、概ね貴族及富豪の器具として専有されし觀ありしも、後世瀬戸の製陶彌盛なるに及び、之より廣く民間に使用され、後には關東地方に於いて焼物を汎稱して瀬戸物といふに至り。景正は此地の深川神社の境内に陶瓷彥として祭祀された。而して瀬戸の發展は今や市制が布かるに至ったのである。

藤四郎
 加藤四郎左工門氏名を略稱して藤四郎といひ、後年春慶さ號した。元大和國諸輪の道蔭村の人左工門督基連(或は橘基安とも)の男に母は深草の人道風の女と言傳へらる。嘗て大納言久我通親に仕へしが、致仕して深草に製陶せる折、適々僧道元が通親の子なる縁故を以つて彼の入朱に從ひ得たのである。斯くて弘安七年三月十九日八十二才を以つて卒去せしといはれ、明治三十九年十一月十八日特旨を以って正五位を贈られたのである。

沾酒禁制令
 後深草天皇の朝に至り、財力欠乏せる北條氏の政策は勤儉質素を超越して、彼の青砥藤綱が滑川の錢拾ひにまで脱線せる程なりしが途に建長四年九月三十日、沾酒禁制をして一戸一壺を限り、其他の酒壺の悉くを破壊せしめたるもの鎌倉のみにても三萬七千二百七十四個と註せる。若しそれ全國に涉つては如何に其多数なしかを推して知る可く、之が爲に陶壺の製作上一大打撃を蒙ったのである。

黄瀬戸
 亀山天皇の文永年間、景正二世加藤藤九郎基通は、猫田、板谷、南洞の各窯に製陶し、青磁の粗製なる黄瀬戸といへる頗る日本化せし雅品を製作した。之が世にいる真中古と稱する名物である。(寛永年間幕府の醫員曾谷伯庵黄瀬戸の茶盤を秘藏す、時之を賞して當時又製作せし同種にも伯庵と稱するに至つた)

信楽焼
 後宇多天皇の弘安二年、近江國長野村(甲賀郡)に信楽焼が創製された。多く農家の種壺又種浸壺にて質頗る堅く、重に黄赤色釉の上に淡青の斑釉透を施せしものを良品させられ、此時代の製品が所謂古信楽と稱する物である。

金華山焼
 後伏見天皇の永仁年間、景正三世加藤藤五郎景國が茨迫間、古林、反の各窯にて製せしものが後世中古焼とせらる。又美濃國金華山(厚見郡稻葉山)の土を瀬戸に運びて金華山焼を創製した。それは茶褐色の施釉に斑の黒色釉を施せしものである。

經正の失敗
 同朝の正安年間、倍經正製陶に委はしと稱し、法を深草の瓦工に授けて一種の陶器を焼かしめしが、火力の調度法を詳にせざりし爲め多く器を成さなかつたのである。

丸柱焼
 後醍醐天皇の建武年間、伊賀國に丸柱焼(阿拜郡今の阿山郡)が創製された。或は天平宇年間の創始なりしも中絶せしといはれてゐる釉色は青黄又は純白にて偶々赤釉を施されしものがあり、或は自然の吹出し釉に雅致を生じ、又談青釉を厚く施されしが高火度にて黒色に焦げたる石器特に珍重され、之等を古伊賀稱せられた。
 (天正年間新二郎といへる名手があつた。後年藤堂和泉守高虎「寛永七年十月十五日卒七十五才」伊賀を領するに及び、京都の陶工孫兵衛、傳藏を招きて作らしめしものを藤堂伊賀と稱せられ、寛永年間小堀遠江守政一此地の陶工に意匠を授けて茶器を造らしめしが、其器薄うして質潤であり之が遠州伊賀させられてゐる)

破風手
 同建武年間景正四世の名工、加藤藤三郎政連破風手の茶壺を創製した。其器埀下せる釉が遍く高臺に及ばずして地質を露はす形が山狀をなし、又恰も家屋の破風のさまを成せるより其名がある。釉は茶褐色にて其上に黄色を施してあり、或は割胡桃を押印しものがある。此外に澁紙手なる名物があり、共に後世之をも中古焼と稱せらる。
 吉野朝時代=之より南北朝時代となりて戦亂相薄いで起り、九州は北部邊海の土民武装して韓土を脅す者絶えず、高麗國は使を派して倭冠の禁を乞ふこと屢なりしが、後亀山天皇の元中九年七月高麗國亡びて李朝の統世となり、此間我が製陶史上特に記す可き事項もなかつた。

室町足利時代=伊部焼復興
 後小松天皇の朝に至り、南北朝の合一成って天下漸く鎮静するに及び、應永年間備前國に忌部焼(和氣郡)が復興された。此地も忌を製せしより忌部焼とせしも、後年伊部(又印部)の字に改められた。製品は種壺、種浸の如き農具をせが又花瓶、酒壺を造り、天正頃より茶器を製作した。此處の古備前焼には火襷、松葉焦、榎なる名品がある。
 (後年又茶褐色の釉に更に黄色の濃釉を撒したるものに胡摩と稱する種類が製せられたのである)

七官青瓷の渡来
 此頃明との交通頻繁となり、同朝の應永十年八月三日、彼國の僧岐陽貢物とし詩四書及陶器數品を貢献せしが、此時彼の七官手青瓷なるもの始めて渡した。そして將軍足利義持(落飾して道詮と號す正長元年正月十八日卒四十三才) 北山亭に於いて盛んに明使を饗應せしものである。蓋し七官手とは、彼國第七の位階ある官人の乗船にて渡せしを以て名つけられしものにて、之を古渡りと稱賞し、天正、文祿年間の渡来品を中渡りと云ひ、延寶頃の渡来品を後渡又新渡り唱へられてゐる。

相阿彌能阿彌珠光
 後花園天皇の朝となり、將軍足利義政(落飾して道顧又道慶と號す延徳二年正月七日卒五十六才)の侍臣相阿彌(中尾氏名は真相號は鑑岳又松雪齋と稱す銀閣寺の庭者)頗る古器の鑑識に富めるより珍器奇什を奨め。又南都の僧能阿彌(中尾氏名は眞能鷗齋又春鷗さ號す周文門下の書家)は點茶に精通し、唐宋の茶法を改良して始めて茶の湯の式を定めたのである。
之より村田珠光(通稱茂吉別號は獨盧又香庵南星といふ一休の門人文亀二年五月十五日卒す八十一才)の如き茶匠輩出して斯道の流行は茶器の愛翫となり。斯くて驕奢なる義政が華美艶麗なる趣味と簡素なる茶道趣味とは、當時の工藝界に大なる變化を来たすに至った。

美濃焼
 後土御門天皇の文明七年、武藏國久良岐郡の人加藤景信美濃國惠那郡大川村に来りて陶器を製作した。之が美濃焼の始祖と稱せられてゐる。

志野風
 同文明年間義政の侍臣志野宗信(三郎左門とし香道の大永二年八月十二日卒八十二才)當時瀬戸に製作し宋の哥窯なる百坂碎の如き釉手を愛せしより、爾来此種の釉陶を志野焼と稱するに至つた。中に長石のみを以て厚く施釉せる乳白手に小罅を現はし、共釉際に赤き染み出しがあり、それに鐵釉にて給ともつかぬ稚拙極まる文様をなぐり書きせしものにて、之が後世珍重さるゝどころの古志野である。蓋し此種のものは、是より以前既に製せられるしを、後人が志野の名に依りて、價値をつけし作爲であらう。

正信春慶
 同文明年間、山名宗全の家臣山名彈正正信製陶を好み、加藤春慶(六七代目の春慶なるべし)に就いて技法を學びしが、其製作せるも正信春慶と稱せらる。

室町戰國時代=阿米耶
 後柏原天皇の永正年間韓土の陶工阿米耶(又飴爺)なる者京都に渡来し、西洞院東入北側なる佐々木菜の女婿となりて歸化し、彌吉宗吉と稱せしが後年宗慶(天正二年卒す八十二才)と改めた。彼は拉車(陶車)を用ひず指頭を以って風雅なる土器を造りしも、自ら巧ならずとして多く製作せず、其子長次郎をして渡韓修業せしめしより其技巧妙を極め、之より楽焼なるもの大いに流行するに至った。

紹鷗信樂
 又此頃泉州堺の茶人武野紹鴎(因幡守仲村弘治元年閏十月二十九日卒五十三才)によつて紹鵰信樂が創始されたのである。

志戸呂焼
 後奈良天皇の大永年間、遠江國横岡村(榛原郡)に於いて志戸呂焼が創始されしが、それは専ら葉茶壺及び花瓶等であつた。

平戸開港
 同朝の天文十九年葡萄牙人の需に應じて、松浦隆信肥前風平戸を開港した。これが我邦通商上の一新紀元を劃すると同時に、彼等が齎らせる珍奇なる陶器の輸入となり、我が陶工界に新たなる刺戟を奥へたのである。

追覆手の茶入
 同天文年間尾張國山田郡飽津村(今瀬戸市の一部)に於いて、赤津三郎左工門なる今川義元の好みに困り、追手(釉薬に焼き涙疲幾筋もあり、疊著「底の内」釉薬かゝりて土の見ゆる故に追覆りといふ)の茶入を製作した。之が後年思川と稱する名物である。

八田焼
 天文年間和泉國八田村に於いて、牛田焼が創業されしが之が後の八田焼である。(天正年間に及び、玄齋なる者地名を姓とせしより八田焼と稱するに至り、點茶用の焙烙「方六又炮碌或は炒鍋と書く」を作る。其質輕く雪白にして絶品と稱せられ、秀吉より天下一の號を授かりしていはれてゐる)
正親町天皇の永祿元年(西暦一五五八年)當時馬刺加にありし英人ラルフフリッチの言に依れば葡萄牙人の支那や媽港より日本に至るや、彼等は白絹、金及び麝香又は陶器を送り、而して銀の外一物を揄することなしにしてゐる。

南蠻物
 其際葡人がせし陶器は、彼等が航路の寄港地なる支那、安南、呂宋、交趾邊にて製造されし品なことを想像するに難くない。媽港又澳門と書きは阿媽港、亞媽港、天川と稱し、一に香山灣ともいはれてゐる。同港は支那廣東省珠江の三角洲にありて、古くより葡萄牙の地であつた。此地陶器はせざるも、前記南支地方の製品を貿易せしものであらう。此珍奇なる焼物に接せし我邦人が、如何にもして之を模作せんとの希望に満ちしことが察せらる。其頃我邦にて此種の陶器を南蠻物と唱へ、朝鮮焼を高麗物と呼び、支那焼を南京物として稱してゐた。

信長の瀬戸巡視
 同永祿六年十二月尾張の織田信長は、放鷹の途次領内瀬戸の陶業を巡視して、此地の新儀諸役(新しき課税)及鄉質又は所質(債務者が支拂の義務を果さゞる時に、其所有財産を差押へらるゝを鄉質と云ひ、又同じく何れの處を問はず見付次第其所有物を没収さる所質といふ)を取る事を禁じ、又商馬の交通を自由にする共に、當郷の市日にはそれにはりなき荷物一切の通行を禁制した。
 そして景正十二代の裔加藤萬右工門基範(藤兵基長の男)に並に制札を奥へたのである。
信長又大いに茶湯を好み、殊に天下の名器を蒐集して之を諸士の功勞ある者に賞興した。之より茶趣味の普及と共に、茶器製作が獎勵されたのである。

長崎開港
 同朝の元亀元年、先に互市場として開かれし肥前國平戸及福田の港は閉鎖されて、同國深江浦に移さることとなつた、之が即ち長崎港である。之より又外國の物は頻々として此港口より輸入され、そして此地に於いて後年輸出向陶器を大成したのである。

織豊氏安土桃山時代=大平焼
 同朝の天正元年瀬戸鮑津の陶工景春の次男加藤五郎左工門景豊(奥三右工門景久と改む)は、舎弟茂右工門景貞(伊右工門と改む)と共に、美濃國久々利村(可見郡) 大平に来りて開窯した。

瀬戸陶家の保護
 同朝の天正二年正月十一日田信長は、瀬戸窯元の系圖を調査して之を保護する爲めに窯數を制限し、他所より張りに開窯することを赦さざる布告を爲し、又重なる陶家に一町八反宛の地所を附興して運上を免じ、そして加藤市左工門景茂(景正十一世)に此朱印状を授けたのである。

瀬戸の名陶家の窯符
 當時瀬戸に於ける重なる陶家は印宗右工門(加藤宗右工門景春又四郎右工門稱し春永號した、永祿九年正月二十八日卒)口印市左工門(加藤市左工門景茂春厚と號す、後奥三兵衛景光と改む景春の三男也) 十印茂右工門(加藤茂右工門景貞後伊右工門と稱し景山と號す「一説に徳庵とあり」景春の四男)印長十(高島長十郎長元又正玄と號し、景春の舎弟加藤十右工門基村の男高島藤兵衛基長の子十左工門信長の男なり。瀬戸引出し黒の創始者)〇印太平(加藤源十郎景成又太平と稱し伯庵或は俊白と號す、與三右工門景久の男也) 丁印新兵衛(不明なるも必ず加藤族であらねばならぬ)等である。
 前記の陶家は、皆茶器製作の窯元として特に巧者なりしが如く、何れも窯符を製品に彫刻した。
 蓋し自己の作品に對する責任的記銘は之が嚆矢といはれてゐる。而して此六人の窯元を以つて瀬戸の六作などと稱するは、何れ後人の作意であるらしい。

明様の瓦を焼く
 同天正四年信長近江國安土城を築くに當り、明の福州より來りて肥前平戸に住へる瓦師一観を高島郡に召寄せ、明様の瓦を焼かしめて天守閣の屋根を葺くに至つた。これ本邦に於て明様を用ひし最初にて、従来の布目瓦に代りて燻使用の濫觴である。(後年一観の男大久保石見守長安は佐渡奉行となつた)

長祐の樂焼
 同天正五年信長は、佐々木宗慶の子田中長祜(通稱長次郎千利休の姓を授かり田中氏に改む、文祿元年九月七日卒七十四才)に命じ、父の煌瓮に傚ひ白と黒の釉を施したる二種の茶盌を製作せしめた。

郡尻焼
 同天正五年景久の長子加藤新右工門景高は、舎弟源十郎景成と共に、美濃國郡尻 (土岐郡)に開窯した。

利休に高禄を與ふ
 同天正六年信長は、茶道の巨匠千利休(武野紹鴎の門人にて名は宗易俗稱輿四郎又抛筌齋と號す、正親町天皇より居士の號を賜はる、天正十九年二月二十八日秀吉に死を命らる行年七十一才)に、食祿三千石を給興したのである。

猿爪窯
 同天正六年春、加藤伊右工門景貞(寛永十一年九月二十日大平に於て卒す)は、美濃國陶村(惠那郡)猿爪に開窯した。

秀吉伊部の六姓を召す
 同天正十年三月、羽柴秀吉中國の探題として備前にあるや、或日伊部の土師家六姓の内大五郎左工門の家に宿り、其他の五姓森、木村、頓宮、金重、寺尾等を召して茶怨及花瓶等を作らしめた。之より秀吉は六姓の陶家を保護し、以後何人たりとも此地に陣所を設くある事を禁する制札を下附したのである。
 備前焼には伊部の外青備前(青忌部ともいふ、式の窖窯にて焼きし青灰色の還元焼)、色備前(寶永中藩主綱政より三代池田宗政が、岡山の後樂園にて焼かしめし素焼胡粉の床置細工物) 等があり、元龜年間には三日月六兵衛と稱する名工があつた。(正徳には雲貞、延享には木村甚七寶曆には服部平四郎、明和には木村作十郎、安永には大平十郎、天明には木村庄八、享和には森良明、文化には茂市、嘉永には木村平八郎等があつた)

加藤景光
 同天正十一年景久の女婿なる、加藤奥三兵衛景光美濃の郡尻に来りて白釉器を製し、嘗て茶壺を信長に献せしより、賞せられて朱印を日本陶史年譜さい授けられた。又瀬戸黒の天目を創製し之を正親町天皇に奉献するや、當時の名工として特に筑後守に任せられたのである。

陶器の銃丸
 同天正十二年秀吉は、瀬戸の陶工に命じて陶器を以て銃弾を作らしめ、同年四月九日尾張長久手の合戦に使用せしといはれてゐる。

茶の湯の全盛
 斯くて豊臣秀吉天下を統一するや、千利休を重用して茶の湯の全盛を来たし、三齋細川忠興 (越中守始與一郎) 如庵織田長盆(有樂おりべのかみ齋始源五郎)印齊古田重勝(織部正始左助) 泰玄金森長近(出雲守始五郎八)等を始め斯道の名家多く輩出するに至った。

織部風
 中にも古田重勝(又宗寶居士と號す、元和元年六月十一日京都放火にて死を命ぜらる行年七十二才)は、尾張國鳴海(愛知郡)の陶家に命じて自己趣向の茶壺を製作した。それは黒褐色及緑釉を施したるものにて多く草花が描かれてゐる、之が後世織部焼と稱せらるものである。
 (此鳴海織部の外多くは瀬戸に於て製作されたものに黒織部、青織部、赤械部、檜織部、織部志野等があり。後年伊奈備前守忠次命じて焼かしめしものを伊奈織部と稱せらるゝのである)

織部の名陶家
 同天正十三年古田重勝折々瀨戶に遊びて茶器の製作を獎勵し、雅致ある織部風を作らしめた。當時の名陶家”カ”印八郎治(加藤八郎治景包後八郎右工門と稱す、十右工門基村の孫宗右エ門景盈の次男)”山”印吉右工門(加藤吉冶工門重機にて、基村の四代新右衛門景重の次男也)”田”印金九郎(加藤金九郎は藤四郎基治の弟五郎右工門政常四代惣右工門の長男)”セ”印治兵衛(加藤治兵衛は五郎右工門政常五代の分家惣兵衛の男)”七”印七、”サ”印六兵衛、”?”印佐介、”一”印元藏、”㊀”印友十、”イ”印丈八、以上拾人を織部好みの十作と稱することも、前記の六作と同じくこれ又後人の作意であらう。

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