鎌倉北條時代=加藤景正
後堀河天皇の貞應二年四月(1223年)、深草の陶工加藤四郎左工門景正なる者ありて、越前國永平寺の開祖道元禪師(承陽大師建長五年八月二十八日寂五十四才)の入宋に從ひ天童山に至り、そして其附近の陶窯 (南方九江邊或は舟山列島の舟山窯又は寧波の象窯など諸説あり)に於いて施釉の陶技を學び、六年目なる安貞二年三月(1229年)に至つて帰朝した。
之より彼は良質の陶土を求めつゝ、堺の陶村、近江の信樂、伊勢の桑名、尾張の半田及末森等に試焼すること十四年を経て、四條天皇の仁治三年(1242年)尾張國瀬戸村に於て、祖母懐の土─祖母懐(紅色の木節土)を使用せるを見て大いに喜び、此處の馬ヶ城、小曾根、椿等に開窯し堅緻なる施釉陶を製作した。其種類は塩壺、佛具の花立、おろし目、小鉢、瓶子形の神酒瓶、及び大小の皿、甕等なりしが、晩年に及んで肩附の茶入を製せしといはれてゐる。而して景正が此處に開窯せしより今年まで實に六百九十四年を経たのである。
建盞天目釉
中にも従来の鉛色及褐色又は緑色等の釉陶の外に始めて建盞天目(鐡料に依る黒き着色釉、建盞は後漢の獻帝の年號にて我仲哀天皇の朝である)の施釉物を製作した。蓋し天目とは宋の天目山に留學せし我邦の禪僧が持帰りし黒手の下手物茶碗ありしを、其釉色が珍重されて茶家の間に大に流行するに至りしものである。そして此景正時代の作品が後世に愛翫さるゝところの古瀬戸である。
瀬戸物の汎稱
此頃まで陶器なる物は、概ね貴族及富豪の器具として専有されし觀ありしも、後世瀬戸の製陶彌盛なるに及び、之より廣く民間に使用され、後には關東地方に於いて焼物を汎稱して瀬戸物といふに至り。景正は此地の深川神社の境内に陶彥社として祭祀された。而して瀬戸の發展は今や市制が布かるゝに至ったのである。
藤四郎
加藤四郎左工門氏名を略稱して藤四郎といひ、後年春慶と號した。元大和國諸輪の庄道蔭村の人左工門督基連(或は橘基安とも)の男にて、母は深草の人平道風の女と言傳へらる。嘗て大納言久我通親に仕へしが、致仕して深草に製陶せる折、適々僧道元が通親の次子なる縁故を以つて彼の入朱に從ひ得たのである。斯くて弘安七年三月十九日(1284年)八十二才を以つて卒去せしといはれ、明治三十九年十一月十八日特旨を以って正五位を贈られたのである。
沾酒禁制令
後深草天皇の朝に至り、財力欠乏せる北條氏の政策は勤儉質素を超越して、彼の青砥藤綱が滑川の錢拾ひにまで脱線せる程なりしが途に建長四年九月三十日(1252年)、沾酒禁制をして一戸一壺を限り、其他の酒壺の悉くを破壊せしめたるもの鎌倉のみにても三萬七千二百七十四個と註せる。若しそれ全國に涉つては如何に其多数なしかを推して知る可く、之が爲に陶壺の製作上一大打撃を蒙ったのである。
黄瀬戸
亀山天皇の文永年間(1264-1275年)、景正二世加藤藤九郎基通は、猫田、板谷、南洞の各窯に製陶し、青磁の粗製なる黄瀬戸といへる頗る日本化せし雅品を製作した。之が世にいふ真中古と稱する名物である。(寛永年間幕府の醫員曾谷伯庵黄瀬戸の茶盤を秘藏す、時人之を賞して當時又製作せし同種にも伯庵と稱するに至つた)
信楽焼
後宇多天皇の弘安二年(1289年)、近江國長野村(甲賀郡)に信楽焼が創製された。多く農家の種壺又種浸壺にて質頗る堅く、重に黄赤色釉の上に淡青の斑釉透を施せしものを良品とせられ、此時代の製品が所謂古信楽と稱する物である。
金華山焼
後伏見天皇の永仁年間(1293-1299年)、景正三世加藤藤五郎景國が茨迫間、古林、反の各窯にて製せしものが後世中古焼とせらる。又美濃國金華山(厚見郡稻葉山)の土を瀬戸に運びて金華山焼を創製した。それは茶褐色の施釉に斑の黒色釉を施せしものである。
經正の失敗
同朝の正安年間(1299-1302年)、僧經正製陶に委はしと稱し、法を深草の瓦工に授けて一種の陶器を焼かしめしが、火力の調度と法を詳にせざりし爲め多く器を成さなかつたのである。
丸柱焼
後醍醐天皇の建武年間(1334-1338年)、伊賀國に丸柱焼(阿拜郡今の阿山郡)が創製された。或は天平寶宇年間(757-765年)の創始なりしも中絶せしといはれてゐる釉色は青黄又は純白にて偶々赤釉を施されしものがあり、或は自然の吹出し釉に雅致を生じ、又談青釉を厚く施されしが高火度にて黒色に焦げたる石器特に珍重され、之等を古伊賀稱せられた。
(天正年間新二郎といへる名手があつた。後年藤堂和泉守高虎「寛永七年(1630年)十月十五日卒七十五才」伊賀を領するに及び、京都の陶工孫兵衛、傳藏を招きて作らしめしものを藤堂伊賀と稱せられ、寛永年間(1624-1645年)小堀遠江守政一此地の陶工に意匠を授けて茶器を造らしめしが、其器薄うして質又潤であり之が遠州伊賀させられてゐる)
破風手
同建武年間(1334-1338年)景正四世の名工、加藤藤三郎政連破風手の茶壺を創製した。其器埀下せる釉藥が遍く高臺に及ばずして地質を露はす形が山狀をなし、又恰も家屋の破風のさまを成せるより其名がある。釉は茶褐色にて其上に黄色を施してあり、或は割胡桃を押印しものがある。此外に澁紙手なる名物があり、其に後世之をも中古焼と稱せらる。
吉野朝時代=之より南北朝時代となりて戦亂相尋いで起り、九州は北部邊海の土民武装して韓土を脅す者絶えず、高麗國は使を派して倭冠の禁を乞ふこと屢なりしが、後亀山天皇の元中九年(1392年)七月高麗國亡びて李朝の統世となり、此間我が製陶史上特に記す可き事項もなかつた。
室町足利時代=伊部焼復興
後小松天皇の朝に至り、南北朝の合一成って天下漸く鎮静するに及び、應永年間(1394-1428年)備前國に忌部焼(和氣郡)が復興された。此地も忌瓷を製せしより忌部焼と稱せしも、後年伊部(又印部)の字に改められた。製品は種壺、種浸の如き農具を製せしが又花瓶、酒壺を造り、天正頃より茶器を製作した。此處の古備前焼には火襷、松葉焦、榎肌なる名品がある。
(後年又茶褐色の釉に更に黄色の濃釉を撒したるものに胡摩藥と稱する種類が製せられたのである)
七官青瓷の渡来
此頃明との交通頻繁となり、同朝の應永十年(1403年)八月三日、彼國の僧岐陽貢物とし詩四書及陶器數品を貢献せしが、此時彼の七官手青瓷なるもの始めて渡來した。そして將軍足利義持(落飾して道詮と號す正長元年(1428年)正月十八日卒四十三才)北山亭に於いて盛んに明使を饗應せしものである。蓋し七官手とは、彼國第七の位階ある官人の乗船にて渡來せしを以て名つけられしものにて、之を古渡りと稱賞し、天正、文祿年間の渡来品を中渡りと云ひ、延寶頃の渡来品を後渡り又新渡りと唱へられてゐる。
相阿彌能阿彌珠光
後花園天皇の朝となり、將軍足利義政(落飾して道顧又道慶と號す延徳二年(1490年)正月七日卒五十六才)の侍臣相阿彌(中尾氏名は眞相號は鑑岳又松雪齋と稱す銀閣寺の造庭者)頗る古器の鑑識に富めるより珍器奇什を奨め。又南都の僧能阿彌(中尾氏名は眞能鷗齋又春鷗齋と號す周文門下の畫家)は點茶に精通し、唐宋の茶法を改良して始めて茶の湯の式を定めたのである。
之より村田珠光(通稱茂吉別號は獨盧又香庵南星といふ一休の門人文亀二年(1502年)五月十五日卒す八十一才)の如き茶匠輩出して斯道の流行は茶器の愛翫となり。斯くて驕奢なる義政が華美艶麗なる趣味と簡素なる茶道趣味とは、當時の工藝界に大なる變化を来たすに至った。
美濃焼
後土御門天皇の文明七年(1475年)、武藏國久良岐郡の人加藤景信美濃國惠那郡大川村に来りて陶器を製作した。之が美濃焼の始祖と稱せられてゐる。
志野風
同文明年間(1469-1487年)義政の侍臣志野宗信(三郎左門と稱し香道の祖大永二年八月十二日卒八十二才)當時瀬戸に製作し宋の哥窯なる百坂碎の如き釉手を愛せしより、爾来此種の釉陶を志野焼と稱するに至つた。中に長石のみを以て厚く施釉せる乳白手に小罅を現はし、其釉際に赤き染み出しがあり、それに鐵釉にて繪ともつかぬ稚拙極まる文様をなぐり書きせしものにて、之が後世珍重さるゝところの古志野である。蓋し此種のものは、是より以前既に製せられるしを、後人が志野の名に依りて、價値をつけし作爲であらう。
正信春慶
同文明年間、山名宗全の家臣山名彈正正信製陶を好み、加藤春慶(六七代目の春慶なるべし)に就いて技法を學びしが、其製作せるも正信春慶と稱せらる。
室町戰國時代=阿米耶
後柏原天皇の永正年間(1504-1521年)韓土の陶工阿米耶(又飴爺)なる者京都に渡來し、西洞院東入北側なる佐々木菜の女婿となりて歸化し、彌吉又宗吉と稱せしが後年宗慶(天正二年(1574年)卒す八十二才)と改めた。彼は拉車(陶車)を用ひず指頭を以つて風雅なる土器を造りしも、自ら巧ならずとして多く製作せず、其子長次郎をして渡韓修業せしめしより其技巧妙を極はめ、之より楽焼なるもの大いに流行するに至った。
紹鷗信樂
又此頃泉州堺の茶人武野紹鴎(因幡守仲村弘治元年(1555年)閏十月二十九日卒五十三才)によつて紹鵰信樂が創始されたのである。
志戸呂焼
後奈良天皇の大永年間(1521-1528年)、遠江國横岡村(榛原郡)に於いて志戸呂焼が創始されしが、それは専ら葉茶壺及び花瓶等であつた。
平戸開港
同朝の天文十九年(1550年)葡萄牙人の需に應じて、松浦隆信肥前國平戸を開港した。これが我邦通商上の一新紀元を劃すると同時に、彼等が齎らせる珍奇なる陶器の輸入となり、我が陶工界に新たなる刺戟を奥へたのである。
追覆手の茶入
同天文年間尾張國山田郡飽津村(今瀬戸市の一部)に於いて、赤津三郎左工門なる今川義元の好みに困り、追覆手(釉薬に濃き涙疲幾筋もあり、疊著「底の内」釉薬かゝりて土の見ゆる故に追覆りといふ)の茶入を製作した。之が後年思川と稱する名物である。
八田焼
天文年間(1532-1555年)和泉國八田村に於いて、牛田焼が創業されしが之が後の八田焼である。(天正年間(1573-1593年)に及び、玄齋なる者地名を姓とせしより八田焼と稱するに至り、點茶用の焙烙「方六又炮碌或は炒鍋と書く」を作る。其質輕く雪白にして絶品と稱せられ、秀吉より天下一の號を授かりしていはれてゐる)
正親町天皇の永祿元年(1558年)當時馬刺加にありし英人ラルフフリッチの言に依れば葡萄牙人の支那や媽港より日本に至るや、彼等は白絹、金及び麝香又は陶器を送り、而して銀の外一物を輸することなしと稱してゐる。
南蠻物
其際葡人が齎せし陶器は、彼等が航路の寄港地なる支那、安南、呂宋、交趾邊にて製造されし品なりしことを想像するに難くない。媽港又澳門と書き或は阿媽港、亞媽港、天川と稱し、一に香山灣ともいはれてゐる。同港は支那廣東省珠江の三角洲にありて、古くより葡萄牙の属地であつた。此地陶器は産せざるも、前記南支地方の製品を貿易せしものであらう。此珍奇なる焼物に接せし我邦人が、如何にもして之を模作せんとの希望に満ちしことが察せらる。其頃我邦にて此種の陶器を南蠻物と唱へ、朝鮮焼を高麗物と呼び、支那焼を南京物と稱してゐた。
信長の瀬戸巡視
同永祿六年(1563年)十二月尾張の織田信長は、放鷹の途次領内瀬戸の陶業を巡視して、此地の新儀諸役(新しき課税)及鄉質又は所質(債務者が支拂の義務を果さゞる時に、其所有財産を差押へらるゝを鄉質と云ひ、又同じく何れの處を問はず見付次第其所有物を没収さるゝを所質といふ)を取る事を禁じ、又商馬の交通を自由にすると共に、當郷の市日にはそれに関はりなき荷物一切の通行を禁制した。
そして景正十二代の裔加藤萬右工門基範(藤兵基長の男)に並に制札を奥へたのである。
信長又大いに茶湯を好み、殊に天下の名器を蒐集して之を諸士の功勞ある者に賞興した。之より茶趣味の普及と共に、茶器製作が獎勵されたのである。
長崎開港
同朝の元亀元年(1570年)、先に互市場として開かれし肥前國平戸及福田の港は閉鎖されて、同國深江浦に移さることとなつた、之が即ち長崎港である。之より又外國の物は頻々として此港口より輸入され、そして此地に於いて後年輸出向陶器を大成したのである。
織豊氏安土桃山時代=大平焼
同朝の天正元年(1573年)瀬戸鮑津の陶工景春の次男加藤五郎左工門景豊(後興三右工門景久と改む)は、舎弟茂右工門景貞(後伊右工門と改む)と共に、美濃國久々利村(可見郡)大平に来りて開窯した。
瀬戸陶家の保護
同朝の天正二年(1574年)正月十一日織田信長は、瀬戸窯元の系圖を調査して之を保護する爲めに窯數を制限し、他所より猥りに開窯することを赦さざる布告を爲し、又重なる陶家に一町八反宛の地所を附興して運上を免じ、そして加藤市左工門景茂(景正十一世)に此朱印状を授けたのである。
瀬戸の名陶家の窯符
當時瀬戸に於ける重なる陶家は□印宗右工門(加藤宗右工門景春又四郎右工門と稱し春永と號した、永祿九年正月二十八日卒)口印市左工門(加藤市左工門景茂春厚と號す、後興三兵衛景光と改む景春の三男也)十印茂右工門(加藤茂右工門景貞後伊右工門と稱し景山と號す「一説に徳庵とあり」景春の四男)□印長十(高島長十郎長元又正玄と號し、景春の舎弟加藤十右工門基村の男高島藤兵衛基長の次子十左工門信長の男なり。瀬戸引出し黒の創始者)〇印太平(加藤源十郎景成又太平と稱し伯庵或は俊白と號す、與三右工門景久の男也)丁印新兵衛(不明なるも必ず加藤族であらねばならぬ)等である。
前記の陶家は、皆茶器製作の窯元として特に巧者なりしが如く、何れも窯符を製品に彫刻した。蓋し自己の作品に對する責任的記銘は之が嚆矢といはれてゐる。而して此六人の窯元を以つて瀬戸の六作などと稱するは、何れ後人の作意であるらしい。
明様の瓦を焼く
同天正四年(1576年)信長近江國安土城を築くに當り、明の福州より來りて肥前平戸に住へる瓦師一観を高島郡に召寄せ、明様の瓦を焼かしめて天守閣の屋根を葺くに至つた。これ本邦に於て明様瓦を用ひし最初にて、従来の布目瓦に代りて燻使用の濫觴である。(後年一観の男大久保石見守長安は佐渡奉行となつた)
長祐の樂焼
同天正五年(1577年)信長は、佐々木宗慶の子田中長祜(通稱長次郎千利休の姓を授かり田中氏に改む、文祿元年(1595年)九月七日卒七十四才)に命じ、父の爐瓮に傚ひ白と黒の釉を施したる二種の茶盌を製作せしめた。
郡尻焼
同天正五年(1577年)景久の長子加藤新右工門景高は、舎弟源十郎景成と共に、美濃國郡尻 (土岐郡)に開窯した。
利休に高禄を與ふ
同天正六年(1578年)信長は、茶道の巨匠千利休(武野紹鴎の門人にて名は宗易俗稱輿四郎又抛筌齋と號す、正親町天皇より居士の號を賜はる、天正十九年(1591年)二月二十八日秀吉に死を命らる行年七十一才)に、食祿三千石を給興したのである。
猿爪窯
同天正六年(1578年)春、加藤伊右工門景貞(寛永十一年九月二十日大平に於て卒す)は、美濃國陶村(惠那郡)猿爪に開窯した。
秀吉伊部の六姓を召す
同天正十年(1582年)三月、羽柴秀吉中國の探題として備前にあるや、或日伊部の土師家六姓の内大饗五郎左工門の家に宿り、其他の五姓森、木村、頓宮、金重、寺尾等を召して茶盌及花瓶等を作らしめた。之より秀吉は六姓の陶家を保護し、以後何人たりとも此地に陣所を設くる事を禁する制札を下附したのである。
備前焼には伊部の外青備前(青忌部ともいふ、舊式の窖窯にて焼きし青灰色の還元焼)、色備前(寶永中藩主綱政より三代池田宗政が、岡山の後樂園にて焼かしめし素焼胡粉塗の床置細工物)等があり、元龜年間には三日月六兵衛と稱する名工があつた。(正徳には雲貞、延享には木村甚七寶曆には服部平四郎、明和には木村作十郎、安永には大平十郎、天明には木村庄八、享和には森良明、文化には茂市、嘉永には木村平八郎等があつた)
加藤景光
同天正十一年(1583年)景久の女婿なる、加藤奥三兵衛景光美濃の郡尻に来りて白釉器を製し、嘗て茶壺を信長に献せしより、賞せられて朱印を授けられた。又瀬戸黒の天目を創製し之を正親町天皇に奉献するや、當時の名工として特に筑後守に任せられたのである。
陶器の銃丸
同天正十二年(1584年)秀吉は、瀬戸の陶工に命じて陶器を以て銃弾を作らしめ、同年四月九日尾張長久手の合戦に使用せしといはれてゐる。
茶の湯の全盛
斯くて豊臣秀吉天下を統一するや、千利休を重用して茶の湯の全盛を来たし、三齋細川忠興(越中守始與一郎)如庵織田長盆(有樂齋始源五郎)印齋古田重勝(織部正始左助)泰玄金森長近(出雲守始五郎八)等を始め斯道の名家多く輩出するに至った。
織部風
中にも古田重勝(又宗寶居士と號す、元和元年(1615年)六月十一日京都放火にて死を命ぜらる行年七十二才)は、尾張國鳴海(愛知郡)の陶家に命じて自己趣向の茶壺を製作した。それは黒褐色及緑釉を施したるものにて多く草花が描かれてゐる、之が後世織部焼と稱せらるゝものである。
(此鳴海織部の外多くは瀬戸に於て製作されたものに黒織部、青織部、赤織部、檜織部、織部志野等があり。後年伊奈備前守忠次命じて焼かしめしものを伊奈織部と稱せらるゝのである)
織部の名陶家
同天正十三年(1585年)古田重勝折々瀨戶に遊びて茶器の製作を獎勵し、雅致ある織部風を作らしめた。當時の名陶家”カ”印八郎治(加藤八郎治景包後八郎右工門と稱す、十右工門基村の孫宗右エ門景盈の次男)”山”印吉右工門(加藤吉冶工門重機にて、基村の四代新右衛門景重の次男也)”田”印金九郎(加藤金九郎は藤四郎基治の弟五郎右工門政常四代惣右工門の長男)”セ”印治兵衛(加藤治兵衛は五郎右工門政常五代の分家惣兵衛の男)”七”印半七、”サ”印六兵衛、”?”印佐介、”一”印元藏、”㊀”印友十、”イ”印丈八、以上拾人を織部好みの十作と稱することも、前記の六作と同じくこれ又後人の作意であらう。