日本陶史年譜 其の参

肥前陶滋史考
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鶴田 純久の章 お話

景延と唐津窯
 同天正十三年(1585年)八月十一日、筑後守景光卒(七十三才)せしが、長子四郎右工門景延又父に劣らぬ名陶家であつた。或時肥前唐津の浪士森善右工門なる者久尻へ来りし折、此地窯式の拙なるを難せしかば、彼は大いに覺る所あり、乞ひて善右衛門に伴はれて肥前に下り、親しく唐津窯の構造と其焚方及釉薬法等を學んで久尻に歸り、之より景延の陶技大いに進み、當時空前の巧者と稱せらるゝに至つた。瀬戸、飽津の陶家等此唐津窯の良好なるを聴き傅へ、往きて一見を乞へども景延秘して赦さなかつたのである。

飽津の陶家と唐津窯
 或る歲飽津の陶家打連れて景延方へ年始に來り、宴酣なる頃其中の一人松原仁兵衛(太郎臓の男)は、便所へ行く躰にて窃に高塀を乗越えて此秘窯を視察した。景延恚つて之を追ふや餘客者逃げ去った。之より瀬戸、赤津皆唐津窯に則りて尾濃窯式の革命を來たすに至つた。彼の瓶子窯の名物茶入の如きは此頃よりの作品といはれてゐる。

志戸呂復興
 同天正年間(1573-1593年)に於て、加藤景延の妹聟内藤五郎左工門景忠(五郎右工門景豊の子にて始加藤庄右工門)は、遠州の志戸呂焼を復興した。蓋し後年小堀遠江守政一「宗甫と號す、正保四年二月六日卒す六十九才」此地の工人を指揮して茶器を焼かしめしより志戸呂の名聲を揚ぐるに至った。序でに小堀好みの遠州七窯は、此志戸呂の外近江の膳所焼、豊前の上野焼、山城の朝日焼、大和の赤膚焼、攝津の古曾部焼、筑前の高取焼等をするのである)

小松谷焼
 同天正年間(1573-1593年)信樂の陶工元吉なる者、山城國澁谷に來り、深草製陶の古法に則りて釉罩のことを改良發明した。之が小松谷焼又澁谷焼とせらるゝものである。

丹波焼
 同天正年間(1573-1593年)丹波國今田村(多紀郡)立杭村に於いて、丹波焼が創製された。(寛永の頃に至りて茶器を造り、其器の外面に數十の絲あるものを稀品なし、後世之を古丹波と稱してゐる)

常滑復興
 同天正年間(1573-1593年)常滑焼が再興された。(元鐵砲窯にて眞焼といへる硬度の陶器を製せしが、元祿年間(1688-1704年)に於いて赤き甕類を製造し、享保(1716年)以後元功齋村田彌平藩命にて茶器 酒器、花器等を作り、養子元光齋長七又名手であつた。寛政二年(1790年)伊那長三郎火色燒朱泥、白泥等を發明し。同四年赤井豊入南寫しを製作し。又名工白上村八兵「天和三年卒七十九才」は拉車を用ひず指頭と竹箆とを以て雅品を製して一生面を拓き。享和年間鯉江方救は一の新窯を工夫し、其子方壽遺志をいで石器を完成した。文政年間伊那長三一種の白泥を考案し。明治年間(1868-1912年)陶然軒赤井新六火の如き雅品を製せが。後年には土管及火鉢或は低級の輸出品等盛んに製造され、今や全國中屈指の製陶地と成ったのである)

港焼復興
 同天正年間(1573-1593年)和泉國堺浦なる港焼が復興され、焙烙を以て専門に製作した。此地もと貞觀年中僧行基製陶の法を土人に教へて創業せしさの口碑あるも、事蹟詳でない。(文化年間(1804-1818年)酒井廣正交趾風の赤樂釉を製作した)

宗四郎焼
 同天正年間(1573-1593年)京都に宗四郎なる名手あて、焙烙土風爐を造る宗四郎焼なるものがあつた。そして秀吉より天下一のを授かりしていはれてゐる。

今戸焼
 同天正年間(1573-1593年)武藏國豊島郡に、今戸焼が創製された。元下總國千葉氏の族黨此地に移住し土器を造りしものが始であつた。(貞享年間(1684-1688年)白井七始めて抹茶用の風墟及火盆を製し。享保年間(1716-1736年)其子七に及んで施釉物を作り、又伏見人形に似たる塑像を造った、それが所謂今戸人形である。嘉永年間(1848-1855年)土風爐師の妙手として作根次郎があり。明治八年(1875年)瀬戸の東玉園井上良齋「良助」來つて橋場町にして、磁器を焼いたのである)

永樂焼
 同天正年間(1573-1593年)に於いて大和國奈良春日神社の器を作る陶工西村宗印(永祿元年(1688年)三月二十一日卒す)の男宗禪寧樂焼を創製した。彼は後年和泉の堺に轉せしが、孫善五郎宗全に至つて又京都に移窯したのである。(文化年間(1804-1818年)善五郎了全の男善五郎保全、代々土風爐を製する傍始めて磁器を製し、又赤繪を塗り上に金粉を以て古代の彩紋を描きしものがある。紀州徳川齊順甚だ之を愛し河濱支流の金印と永樂の銀印とを賞興した。之より代々永樂を姓となし、其子善五郎和全に至り加賀の九谷窯に聘せられて彩畫の技を教へしが、後年又三河國岡崎に移住した)

大佛瓦
 後陽成天皇の天正十四年(1586年)五月二十五日より、秀吉は京都方廣寺の大佛殿を造営するにあたり、山中山城守長俊を奉行として之に葺く可き屋根瓦を焼かしめしもの即ち大佛瓦の始めである。

勝負窯
 同天正十五年(1587年)頃加藤次郎左工門景乗(景春の末子勘六郎景の男)は、美濃國久尻に於いて勝負窯を開設した。

樂の金字銘
 同天正十五年(1587年)九月十三日、秀吉が聚樂邸完成し、此邱内に於て田中長祐の舎弟吉左工門常慶に命し、利休好みの茶器を焼かしめしが其聚樂に因みて樂の金字を銘せしめた。之より樂焼と稱し、諸侯の邸内に於いて斯法の施行を來たすに至った。
 樂焼をするところの原土は、白亜の上に黄土を塗りそれが赤である。又加茂川の礫石を探り碾磨して釉料に混和し焼きしもの其色黒くし滋潤てあり之を黒樂と稱せられた。常慶二代を継ぎ其子吉兵衛道入ノンコウと稱して又名工であつた。

光悦樂焼
 此外光悦樂焼なる物がある。本阿彌光悦(始片岡次郎三郎と稱す、寛永十四年(1637年)二月三日本行年八十一才)は元來刀剣類の鑑定家なるも茶を古田重勝に習ひ、長祐の式に則り洛外鷹ヶ峰に於いて崇高なる赤樂の名器を製作した。其他瀬戶光悦、膳所光悦、加賀光悦等の稱あるは、皆其所在の坏土に依って製せられし名稱である。(孫の空中齋光甫が信楽の坏土を以て製せし物を空中信楽と稱せらる)

北野大茶會
 同天正十六年(1588年)十月一日、秀吉は北野(京都市上京區の西北の地)に於て大茶會を開催すべく八月二日より大津、奈良、伏見、大阪、堺等の諸所へ高札を建て數寄の茶人を招くや、當日に到りて遠近の貴賤道俗群集して會場立錐の餘地なき中に夥しき名什珍器が飾られたのである。
 蓋し之を以て、秀吉が單なる道楽とのみ観るは早計であらう。彼は天下を鎮定して二つの平和政策を實行した。其一は永き戰亂の爲に荒廢せる佛寺の復舊と、其二は茶道の奨励であつた。それは茶の湯が和敬清寂を基準とせし平靜行爲なると共に、双デモクラチックである、此二つの施政は何れも製陶の發展を助成せしめし動機であつた。

茶道の熱心
 當時秀吉を始め、同好の諸が茶道に熱心なことは驚くほどであつた。或時彼は部下の某士を恩賞するに、汝へ數郡を興ふ可きか、はた名茶器を興ふ可きかを訊ねたるに、某は言下に土地よりも名茶器をきたしと答へしていふ挿話がある。

高原五郎七
 此頃又聚楽邸の御用陶師として、高原五郎七が召抱へられた。彼の父は難波の人高原道庵(與兵衛)と云ひ、五郎七或は織部と稱せし説あるも其素姓に就いては詳でない、而して彼の陶技に於ける手腕は非凡の持主であり、そして後年此五郎七が肥前の各山に出没する重要な人物である。

赤膚焼
 同天正年間(1573-1593年)秀吉の弟大納言秀長(天正十九年正月二十二日卒)は、常滑の陶工輿九郎を召し、領地大和國五條村(添上郡にて今の生駒郡都跡村)に於いて小氷裂を生する赤膚焼を創始せしめた。(正保年間(1645-1648年)野々村仁清に依って再興され。享保年間(1716-1736年)領主柳澤堯山「郡山城主甲斐守吉里」の獎勵にて盛業となり。天保年間(1831-1845年)には木白粕屋武兵衛なる名工があつた。そして多く灰白色釉に黒斑の施釉がある)

名物信樂
 千利休また好みの信樂焼を製作した之が世にいる利休信楽である。(寛永年間(1624-1645年)其孫宗旦「宗淳の子今日庵咄斎」の用ふるものを宗旦信楽稱せられた。小堀宗甫又信楽の陶工をして更に坏土を撰み、努めて渣滓を過せしに困り其造る所の物稍薄くして潤である。之を遠州信楽と稱した。其他仁清信樂、新兵衛信樂等製作者に困って稱呼を異にせられてゐる。

越中瀬戸
 同朝の文祿二年(1594年)四月、越中國上瀬戸村(新川郡)に於て、尾張瀬戸の陶工彥右工門なる者、領主前田利長に聘せられて、茶器を製作した之が越中瀬戸の創始である。

美濃の中興
 同慶長二年(1597年)久尻の加藤景延は、謹製せるところの白釉茶盤を正親町上皇に奉献して朝日焼の名稱を拝受し、そして同年七月五日筑後守に任せられた。(美濃焼中興の祖と稱せられし景延は寛永九年(1632年)二月二日卒し、大正四年十一月十日特に従五位に贈叙されたのである)

徳川氏江戸時代=大萱窯
 同慶長六年(1601年)景久の次男なる、加藤源十郎景成美濃國久々利村(可兒郡)大萓に開窯し、志野及織部等を製作せしといはれてゐる。

水上窯
 同慶長七年(1602年)景久の五男なる、加藤太郎右工門景俊は美濃國水上窯(恵那郡)を復興した。

義直陶家を召還す
 同慶長十五年(1600年)三月五日尾張侯徳川義直は、瀬戸の陶家が天正十年(1582年)後他國に離散せしを遺憾さし庄屋に命じて本國へ歸業すべき令を下だした。此時飽津へ帰りしは、美濃國郷の木(恵那郡)に製陶しつゝありし加藤唐三郎景貞と、弟仁兵衛景鄉(共に藤右エ門景頼の男)であつた。
 又同國水上村(恵那郡)品野へ歸業せしは、加藤新右工門景重と、舎弟三右工門重光(共に萬右工門基範の男)であつた。藩主は飽津へ歸来せし者に窯場八畝歩を興へ、品野へ歸來せし者に同七畝歩を興へ、なほ年金貳拾両を下附せしが、翌十六年正月十五日には用人格御窯司を命じて恩地二十石を給せらるゝに至つた。

清水焼
 同慶長年間(1596-1615年)茶碗屋久兵衛なる者、京都清水五條坂に於て色彩を施せる陶器を製作した。是が清水焼の濫觴とせらる。

笠原焼
 後水尾天皇の元和元年(1615年)、景久の六男加藤治右工門景繁及八男芳右工門景と共に、美濃國笠原(土岐郡)に開窯した。(或は天正十五年(1600年)源十郎景成の開窯とも稱せらる)

高田窯
 同元和二年(1616年)景久の七男なる、加藤與工門景一は美濃國高田 (土岐郡)に開窯した。

粟田焼 同元和年間瀬戸の加藤新兵衛景在(吉右エ門重の弟)は、京都粟田口三條蹴上なる華頂畑に開窯し三文字屋九左工門と改名した。そして其子工門、助冶工門及徒弟德右工門等と協力して粟田焼を創業したのである。 
多治見窯
 明正天皇の寛永十八年、彌左工門景賴(景光の子)の養子加藤左工門景增(鮑津の松原太郎の四男)美濃國多治見 (土岐郡)に開窯した。

朝鮮役後の慶長開窯は別に後段にゆづり、なほ京焼を始め其他無数の陶山全國に勃興せるも、何れも後年に属するを以て、左に其重なる産地と及開窯者等を摘録することゝした。
後年の製陶地
岩代の會津焼 正保二年 水野源左門成治
土佐の尾戸焼 承応二年 久野 宗伯
岩代の相馬焼 寛永七年 田代清治工衛門為教
加賀の九谷焼 萬治四年 磁後藤才次郎定
加賀の大樋焼 寛文六年 大樋長左エ門
出雲の樂山焼 延寶年間 倉橋權兵衛重義
伊勢の萬古焼 元文三年 沼浪五左工門重長
出雲の布志名燒 寛延年間 舟木與次兵衛村政
尾張の犬山焼 元禄年間 奥村傳三郎
石見の石見焼 寶曆十三年 森田 某
伊豫の砥部焼 安永六年 磁杉野 丈助
攝津の三田焼 天明八年 磁神田惣兵衛義重
但馬の出石焼 寛政十二年 磁林 村右工門
岩代の會津焼 寛政十二年 磁佐藤伊兵衛豊義
京都の清水焼 文化三年 磁宮田 熊吉
尾張の瀬戸焼 文化四年 磁加藤民吉保堅
羽前の平清水焼 文化年間 小野 藤治平
備前の蟲明焼 寛政年間 今吉吉蔵
紀伊の男山焼 文化十年 崎山利兵衛
淡路の淡路焼 文化十二年 賀集 珉平勝瑞
播磨の東山焼 安永年間 繁内 幸助
常陸の笠間焼 天保年間 山田甚兵衛
近江の湖東焼 天保十三年 小野田小一郎爲典
美濃の温故燒 嘉永二年 清水 清七
下野の益子焼 嘉永六年 大塚啓三郎忠治

京都の名陶家
 また京都に於いては天正以後、音羽、清閑寺、小松谷、清水、粟田等多くの名工輩出した。名ある者には有來新兵衛、竹屋源十郎、中田川光存、佐々竹庵、眼醫正意、正山、彌之助、宗三、源介、萬右工門、六左エ門、道味、茶磨屋小兵衛、茶臼屋等があつた。

野々村仁清
 就中清閑寺宗伯門より出たる野々村仁清(丹波國桑田郡野々村の人清兵衛後清右工門正廣と稱し、入道して仁清と號した。寛永中清水の産寧坂或は粟田口等に開窯し播磨大椽に叙せらる、寛文六年卒去す)の如き、稀世の名匠出て京焼の名声天下に冠絶するに至つた。
 其他清水の音羽屋六助、粟田の海老屋清兵衛、五條坂の水越奥三兵衛、同所の愚齋清水六兵衛、同所の龜亭和氣平吉、同所の三代清風與平、同所の眞清水蔵六、岩倉山の吉兵衛、粟田の錦光山喜兵衛、同所の帯山與兵衛、同所の伊東陶山、五條坂の三浦竹泉等の名陶家があつた。尚又著名の陶家としては

奥田頴川
 奥田頴川(茂市郎庸徳叉茂右工門と稱す陸方山の別號がある、海老清の門下にて五條大黒町に住す、文化八年四月二十七日卒五十九才)

青木木米
 青木木米(佐兵衛、宇佐平、八十八屋號は木屋、名は玄佐、別に聾米、九々鱗、古器觀、百六山人、停雲櫻の號がある、頴川の門人にて粟田に住す、天保四年四月十五日卒六十七才)

欽古堂龜祐
 欽古堂龜祜(頴川の門人にて攝津三田青磁の製作者である)

高橋道八
 高橋道八 (仁阿彌光時、露山又法螺山と號す、初代道八光重の長男にて二代目道入である。粟田の山の門下にて清水に住す、安政二年五月二十六日卒七十三才)

尾形乾山
 尾形乾山 (權平惟久稱し別號に深省尚古、習靜堂、紫翠、陶徳、霊海等があり、尾形宗謙の末子にて畫伯光琳の舎弟である。江戸入谷に住し寛保三年六月二日卒八十一才)

尾形周平
 尾形周平(前記二代高橋道入の舎弟にて、始熊藏後周平光吉と改む。淡路珉平焼の貢献者にて明治年間卒す)

西村保全
 西村保全(永楽善五郎了全の長子、始善五郎善一郎と改む。紀州焼の家元にて嘉永七年九月十八日卒六十才)

宮川香山
 宮川香山(木米門下なる首齋宮川長造の男にて寅之助と稱す、明治四年武藏國國久良岐郡太田村不二山下「今の横濱市南太田町」に開窯せし太田焼一名真葛焼の家元である。帝室技藝員に推選せらる、大正五年五月二十日卒六十九才)
 全國の陶史年譜はまづ此邊に止め、之より肥前陶史に入る大前提として、秀吉が朝鮮役につき陶史に關する概要を記述する。

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