日本陶史年譜 其の参

肥前陶滋史考
Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

景信と唐津窯
 長男の四郎右衛門景信もまた、父譲りの名陶工であった。ある日、肥前唐津から森善右衛門という浪人が久尻にやってきて、この地の拙い窯風を見て大いに落胆し批判した。景信は善右衛門に頼んで肥前へ行き、唐津窯の構造とその焚方、及び釉薬の製造方法を学んで久尻に帰り此より景信が作る陶器が大きく変わりました。
瀬戸や飽津の陶工たちは唐津の優れた窯のことを聞きつけ、見学を求めたが、景信は秘密主義でそれを許さなかった。

唐津焼の陶工たちと唐津焼の窯
 あるハレの日、年始に佐津の陶工たちが景信を訪ねてきた。宴もたけなわの頃、そのうちの一人、太郎の松原甚兵衛がトイレに行くついでに高い塀を乗り越えて秘窯を訪ねた。景信が後を追い、客たちは逃げ出した。以後、瀬戸窯、赤津窯は唐津窯に倣い、小野窯の様式に革命をもたらした。有名な平子窯の茶筒もこの時期の作といわれている。

志戸呂復興
 天正年間、加藤景義の妹である内藤五郎作右衛門景忠(五郎作右衛門景豊の子)が遠州志度窯を再興。1871年2月6日、69歳で死去。地元の職人を率いて茶道具を作り、志戸呂は一躍有名になった。(ちなみに小堀が好んだ遠州七窯には、近江の絶松窯、豊前の上野窯、山城の朝日窯、大和の赤膚窯、摂津の古曽部窯、筑前の高取窯などがある。)

小松谷焼
 天正年間、信楽の陶工・元吉が山城の渋谷にやってきて、深草焼の古法にならって釉薬を改良・発明した。これを小松谷焼または渋谷焼という。

丹波焼
 天正年間に丹波国(多紀郡)今田村立久井村で作られた。(茶道具は寛永年間から作られ始め、外側に数十本の糸があるものは珍重され、後に古丹波と呼ばれるようになった)

常滑の復興
 天正年間に常滑焼が復興。(かつては鉄砲窯で蒔絵と呼ばれる硬質の陶磁器を生産していたが、元禄期には赤壺、享保期以降は元興斎の子・長七元興斎の村田弥兵衛の命により茶器、酒器、花器などが生産された。伊奈長三郎は、1791年に火釉赤釉磁器と白磁器を発明。同年、赤井豊猪留南和菓子を制作。天和3年卒の名工・白上八兵衛(79歳)はろくろを使わず、指先と竹べらで生涯、優美な面を作り続けた。享和年間、鯉江芳助は息子の芳樹の遺志を継いで新しい窯を考案し、石器を完成させた。文政年間(1818~1830)には伊奈長蔵が白土を発明。明治時代には東仙軒赤井新六火などの優美な作品を生み出した。後年、土管、火鉢、低級輸出品などの生産が盛んになり、全国有数の陶磁器産地となった)

湊焼の復興
 天正年間、和泉県坂井浦の湊窯は焙烙(ほうろく)を専門に復興した。貞観年間、僧行基が土着民にあえて行基の製陶法に倣い、この地に窯業を興したという碑文があるが、詳細は不明。(文化年間には酒井宏昌が朱楽釉の杜氏作陶を行っている)

曽代焼
 天正年間(1615-1626)、京都に曽代焼という焙烙を焼く窯元があった。秀吉から天下一品を与えられたといわれる。

今戸焼
 今戸焼は天正年間に武藏国豊島郡で作られた。もともとは下総の千葉氏の一族がこの地に移り住み、土器を作ったのが始まりとされる。(貞享年間、白井七が茶碗や火皿を作り始める。享保年間には、息子の七が釉薬をかけた焼き物や伏見人形に似た塑像、いわゆる今戸人形を作った。嘉永年間、佐久根次郎は土炉の名手であった。1875年(明治8年)、瀬戸・東玉園の井上 “亮介 “了斎が橋場町に来て磁器を焼いた。

永楽焼
 天正年間、大和国奈良春日神社の器を作っていた陶工西村宗因(永禄元年3月21日卒)の子、西村宗胤が長楽焼を作った。後年、和泉の堺に移るが、孫の善五郎宗全が京都に戻る。(文化年間、良善の子・善五郎は代々土器を作るかたわら磁器を作り始め、金粉で古代の文様を描いた。また、初めて磁器を作り、赤絵の後に金粉で古代の文様を描いた。息子の善五郎一忠は加賀の九谷窯に招かれて色絵を学んだが、後に三河の岡崎に移った)

大仏瓦
 秀吉は京都の法興寺に大仏殿を建立する際、山中山城守長利を奉行とし、大仏に使用する瓦を焼かせたのが大仏の始まりである。

勝利の窯
 同じ天正15年頃、加藤次郎左衛門景頼(勘六郎景の子、景春の末子)が美濃国玖尻に勝窯を築いた。

樂の金銘
 天正15年9月13日、秀吉は聚楽第を完成させ、田中長助の弟子であった吉左幸門常慶に命じて利休好みの茶器を焼かせ、聚楽第にちなんで金で「楽」の銘を入れた。その後、樂焼は茶の湯の名称として使われるようになり、徳川幕府の大名屋敷でも掟が施行された。
 樂焼に使われる粘土は、チョークに黄土を塗ったもので、赤い色をしている。鴨川の砂利を粉砕し、釉薬と混ぜて濃くしたものである。常慶の二代目を継ぎ、息子の吉兵衛通も名陶であった。

光悦楽焼
 もうひとつ、光悦楽焼という焼き物がある。もともと刀剣の目利きだった光悦(片岡治郎三郎、81歳)は、古田重勝から茶の湯を学び、京都郊外の鷹峯で長助の作風にならって気品のある赤楽焼を作った。瀬戸場光悦、善正光悦、加賀光悦など、いずれも土の名前にちなんだものである。(長介の孫の鴻臚斎は信楽焼を作り、「鴻臚しがらき」と呼ばれている)。

北野大茶会
 天正16年(1615)10月1日、秀吉は北野(京都市上京区北西部)で大茶会を催し、8月2日からは大津、奈良、伏見、大阪、堺などに檄を飛ばし、多くの茶人を招いた。
 しかし、秀吉が単なるお気楽者だったと考えるのは早計だ。彼は国を落ち着かせ、2つの平和政策を実行した。ひとつは長い戦乱のために廃寺となった仏教寺院の復興、もうひとつは茶道の振興である。この2つの政策はいずれも、和敬清寂の精神に基づく静かな修行であり、二重民主主義の一形態でもある陶磁器製造を発展させる動機があった。

茶道への熱意
 当時、秀吉たちは驚くほど茶道に熱中していた。ある日、彼は秀吉に、いくつかの郡を作るべきか、有名な茶室を作るべきかと尋ねた。秀吉は、土地よりも有名な茶室がいいと答えた。

高原五郎七
 高原五郎七は、聚楽第の御用陶工として再び召し抱えられた。父は難波出身の高原道安(与兵衛)で、五郎七とも織部とも呼ばれたという説もあるが、姓は定かではない。

赤膚焼
 天正年間、秀吉の弟・大納言秀長(天正19年22月22日卒)が常滑の陶工・越九郎を招き、所領の大和国五條村(現生駒郡東相馬村)で小氷割れの赤膚焼を作らせた。(正保年間に野々村仁清が再興。(正保年間、野々村仁清によって再興され、享保年間には郡山城主柳沢魚山、郡山城主吉里魁利によって盛業となった)。天保年間には糟屋武兵衛喜博という名工がいた。(天保年間には糟屋武兵衛喜四郎という名工がおり、灰白色の釉薬に黒点がある作品が多い)

有名な信楽焼
 千利休が好んだ信楽焼として知られる。(寛永年間には、宗純の子である孫の休庵竹斎が信楽焼を使用している。同じく信楽焼の小堀宗甫は、さらに土を選び、残渣を少なくする工夫をした。彼はこれを遠州信楽と呼んだ。信楽焼の別名には、仁清信楽、新兵衛信楽などがある。

越中瀬戸
 同年4月、尾張瀬戸の陶工・彥右工門が藩主・前田利長に招かれ、越中国(新川郡)上瀬戸村で茶道具を製作したのが越中瀬戸の始まり。

美濃の勃興
 慶長2年、楠尻の加藤景信が正親町天皇に白釉の茶卓を献上して朝日焼の名を賜り、同年7月5日、筑後守に預けられた。(美濃焼の祖と呼ばれる景信は寛永9年2月2日卒、特に大正4年11月10日従五位下に叙せられた)

江戸時代・徳川氏=大谷窯
 徳川家が日本で最初に生産した陶器は「志野」「織部」と呼ばれた。

水上窯
 慶長7年、景久の五男・加藤太郎右衛門景春が美濃(恵那郡)の水上窯を復興。

義直は窯元を召し抱えた。
 慶長15年3月5日、尾張侯徳川義直は、天正10年以降、瀬戸の窯元が海外に散ってしまったことを惜しみ、庄屋に帰郷を命じた。佐津に戻った陶工は、美濃国(恵那郡)五ノ木で作陶していた加藤唐三郎景定と、その弟の二瓶景定(ともに景盛藤右衛門の子)であった。
 また、加藤新右衛門景重と弟の三右衛門重光(ともに万右衛門元則の子)も、恵那郡水上村信濃に帰ってきた。藩主は、佐津に来た者には八座の窯場を、信濃に帰った者には七座の窯場を与え、約八千両の年金を与えたという。

清水焼
 同じ慶長年間に、茶碗屋久兵衛という人物が京都の清水五条坂で色絵陶磁器を焼いた。これが清水焼の起源とされている。

笠原焼:元和元年、後水尾天皇の御代、景久の六男・加藤景久が八男・加藤景とともに美濃国(土岐郡)笠原に開窯。(あるいは、天正15年に源十郎景重が開いた窯とも呼ばれる)。

高田窯
元和2年、景久の七男加藤横紋景一が美濃(土岐郡)高田に開窯。

粟田焼 同年、瀬戸の加藤新兵衛景斎(吉右衛門繁の弟)が京都粟田口三条菊上角畑に開窯し、三次屋九左小紋と改名。その後、息子の九左小門助治、弟子の徳右衛門らと粟田焼を創業した。 
多治見窯
明正天皇18年、加藤作小紋景重(阿波呂津の松原太郎の四男)は、弥左小紋景来(景光の子)の養子となり、美濃国多治見(土岐郡)に窯を開いた。

朝鮮出兵後に開窯された慶昌窯については後述するが、京焼をはじめ全国各地に無数の窯元が誕生し、そのすべてが後世のものであるため、以下に重複する産地と開窯者を列挙する。
後世の窯業地
会津の岩代焼、正保2年、水野源左衛門貞治
土佐の大戸焼、正応2年、久野宗伯
相馬焼 岩代・田代清治幸右衛門為教 17 寛永7年
加賀九谷焼 西次郎定正 寛政3年(1791年
加賀の大樋焼 1716年
出雲楽山焼 倉橋権兵衛重義 延宝年間
伊勢萬古焼 元文3年
出雲ふしな荘焼 寛延年間 舟木与次兵衛村正
尾張の犬山焼
石見焼(石見産
伊予・砥部焼 安永6年
摂津の三田窯、文政元年(1818)
但馬出石焼 寛政12年
岩代会津窯 寛政12年 磁器 伊兵衛 佐藤豊吉
京都清水焼 文化3年
尾張瀬戸焼 文化4年
羽前平清水焼 文化4年
備前虫明焼 寛政年間 今吉蔵
男山焼 紀伊・文化10年
淡路焼・文化12年 加州・炭平勝瑞
播磨東山焼 安永年間 重内幸助
常陸国笠間焼 天保年間 山田甚兵衛
近江の湖東焼・天保13年・小野田耕一郎 為則
嘉永2年 美濃温石そば 清水清七
下野の益子焼 嘉永6年 大塚慶三郎忠晴

京都の名窯
天正以来、京都は音羽、清閑寺、小松谷、清水、粟田など多くの名陶工を輩出した。有名なところでは、有頼新兵衛、竹屋源十郎、中田川光村、佐々竹庵、巌仔小井、松山、彌之助、宗蔵、源助、万右衛門、六左衛門、道見、茶々屋小兵衛、茶臼屋など。

野々村仁清
野々村仁清(清兵衛、丹波国桑田郡野々村出身、のち清小紋政広と号す)は、神職に入り仁清と号した。稀代の名工であり、京焼の名声は天下に認められた。
 その他、清水の音羽屋六助、粟田の海老屋清兵衛、五条坂の水越奥三兵衛、同地の清水六兵衛、同地の覚亭和敬平吉などが有名である、 同地の三代清風与兵衛、同地の清水蔵六、同地の岩倉山吉平、粟田の西小山喜兵衛、同地の帯山与兵衛、同地の伊東遠山、五条坂の三浦竹園などである。その他の著名な陶芸家は以下の通り。

奥田鮎川
奥田鮎川(五条大黒町在住、海老清門下、昭和30年文化8年4月27日卒、59歳、茂一郎養徳茂右近とも号し、陸鳳山とも称す)

青木木込
青木木米(佐兵衛、宇佐兵衛、八十八、木谷、源佐、聾米、鯨林、木簡、百六三人、貞雲桜とも)湯川門下、粟田在住、明治4年4月15日卒(67歳)

青梧堂亀遊
(湯川の門人、摂津三田青磁の製作者)

高橋道八
初代道八光重の長男で、道入の二代目。粟田の山の門人で、清水に住んだ)

緒方乾山
緒方乾山(権平忠久、別名:新勝小・静道・紫水・東徳・霊海など)は、緒方宗賢の末子で光琳の弟子。江戸入谷に住み、寛政3年(1791年)6月2日、81歳で卒業(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

緒方修平
緒方周平(前述の二代目高橋周平の弟子で、熊蔵肇から光吉周平と改名)は、淡路珉平焼の発展に貢献した。淡路珉平焼の功労者であり、明治時代に卒業)

西村宗衛
(永楽善五郎亮善の長男。紀州窯の当主で、明治8年9月18日、60歳で卒業)

宮川香山
宮川香山(木米寅之助門下の蔵元宮川長蔵の子)は、明治4年(1871)に武藏国倉敷郡太田村藤山下(現横浜市南太田町)に開窯し、真葛焼の代表格である太田焼の窯元となる。帝室技芸員に推挙され、1916年5月20日、69歳で卒業)

 日本陶磁史の年表はここまでとし、肥前陶磁史に入る前提として、秀吉の朝鮮出兵における陶磁史の概略を述べる。

前に戻る
Facebook
Twitter
Email