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久我肩衝

久我肩衝(こが・かたつき)

中国製 大名物(最高級の茶道具) 伯爵 松浦厚氏 蔵

名称の由来
曹洞宗大本山永平寺の開祖である道元禅師(久我大納言通親の子供)が、日本の陶祖とされる加藤四郎左衛門景正(藤四郎)を連れて中国(宋)へ渡り、安貞元年(1227年)に日本へ帰国した際、この茶入を持ち帰りました。それを実家である久我大納言の家に贈ったため、「久我」という名が付けられたと伝えられています。

寸法
高さ:約8.5cm(2寸8分)
胴の直径:最も太い部分で約7.5cm(2寸4分7厘)
口の直径:約4.1cm(1寸3分6厘)
底の直径:約4.7cm(1寸5分5厘)
首(甑)の高さ:約1cm(3分2厘)
肩幅:約1.4cm(4分5厘)
重量:約133.5g(35匁6分)

付属品
・蓋(ふた):1枚(象牙製)
・御物袋(大切に保管するための袋):紫色の羽二重(なめらかな絹織物)
・仕覆(しふく:茶入を入れる袋):4つ
 (それぞれ「笹蔓純子」「太子広東」「日野広東」「下妻純子」という名物裂で作られており、結び紐の色などが異なります)
・袋を入れる箱:2つ(古い桐箱と新しい桐箱)
・挽家(ひきや:茶入を納める木製の筒):黒塗り、蓋の裏に「久我」と書かれた紙が貼られている。白羽二重の袋入り。
・内箱:白木の桐箱(書いた人物は不明だが「御茶入久我肩衝」と記されている)
・外箱:白木の桐箱(書いた人物は不明だが「御茶入久我」と記されている)
・総箱:杉材で鉄製の錠前が付いている箱

雑記(過去の記録)
久我肩衝は、京都の針屋紹珍から、のちに織田信長、そして尾張徳川家へと渡った。
(『名物帳』および『御名物御道具記』より)

歴史的文献における「久我肩衝」の記述

・「久我肩衝は、尾張中納言(尾張徳川家)が持っている。」(『東山御物内別帳』より)

・「久我肩衝は、九州の豊後にある。」(『山上宗二記』より)

・「久我肩衝は、豊後の宗悦(宗况)の所持。高さ約8.6cm、横幅約7.3cm強、口の直径約4.5cm、首の高さ約0.9cm、底の直径約4.5cm。」(『大名茶入極秘伝正図式』より)

・「久我は尾張殿の所持。」(『古今名物類聚』および『古名物記』より)

・「久我は中国製の大名物。尾張公が持っていたが、今は甲州公(柳沢吉保のこと)の所持。鍋屋から出た素晴らしい品。」(『麟鳳亀龍』より)

・「久我は中国製である。残月、国司茄子、北野肩衝、松山といった名物茶入と同じ時代のもので、釉薬(うわぐすり)の掛かり方や作りは北野肩衝や松山と同じ手法である。」(松江藩主・松平不昧が著した『瀬戸陶器濫觴』より)

・「久我は豊後の宗况が所持していた。サイズに関する詳細な記録があり、下部の釉薬は薄い柿色、上部は膏薬のような色や茶色があり、蛇のウロコのような模様(蛇蝎)も見られる。土は薄い朱色できめ細かい。」(『万宝全書』より)

・「永禄11年(1568年)9月4日の昼、宗三彦右衛門のところで、初めて久我肩衝を拝見した。形がとても良く、北野肩衝などに比べると少し小さく感じた。釉薬は黒色で、土が見える部分まで薄く釉薬が掛かっている。釉薬の垂れ(露)が一筋あり、底まで回っている。壺の内側にも釉薬が掛かっており、口造りは薄く感じられ、肩の張りが少しなで肩である。」(『津田宗及茶湯日記』より)

・「寛永5年(1628年)6月11日、徳川秀忠(前将軍)が尾張徳川家のお屋敷へお成りになった際の茶会記録。掛け軸は圜悟克勤の墨跡、花入れは『杵の折れ』、そして茶入に『久我』が使われた。」(『東武実録』より)

・「元禄6年(1693年)4月28日、尾張大納言が将軍家から賜ったものを披露する会で、正宗の刀や圜悟の墨跡とともに『久我肩衝』が記録されている。」(『諸家遺物得物献上記』より)

・「元禄10年(1697年)3月11日、5代将軍徳川綱吉が柳沢吉保の屋敷を訪れた際、吉保に則重の刀と『久我肩衝』が与えられた。」(『柳沢文書』より)

・「久我肩衝は最高級の茶器(大名物)である。道元禅師が帰国した際に持ち帰り、久我家へ贈ったという。のちに豊臣家の大阪城の宝物となったが、大坂落城後に尾張徳川家のものとなり、そこから幕府に献上された。その後、将軍から柳沢吉保に下賜され代々受け継がれたが、明治維新の頃に伏見の豪商の手に渡り、さらに小浜の士族の手を経て、橋本抱鶴のあっせんによって最終的に松浦家が入手した。津田宗及の日記にも登場する歴史的名器である。」(『松浦家道具帳』より)

茶会の記録(明治34年)
明治34年(1901年)5月26日の正午、心月庵(三畳台目)にて。
主催者:伯爵 松浦詮(まつうら あきら)
お客:佐藤進、馬越恭平、前田香雪、大住清白、山本麻渓
・床の間の掛け軸:梁楷(りょうかい)筆「寒翁馬上図」(一山一寧の賛あり)
・茶入:久我肩衝(若狭盆に載せて、掛け軸の前に置かれた)
 盆の箱書き:金森宗和の筆
 仕覆(袋):太子広東

久我肩衝は最高級の茶入(大名物)です。大坂城から尾張徳川家へ渡り、そこから幕府に献上され、元禄年間に5代将軍・徳川綱吉から柳沢吉保に贈られたものです。『山上宗二記』を見ると、一時期は九州の豊後(大分県)にあったと記されており、『津田宗及日記』に登場する宗三彦右衛門という人物は豊後の人だったと考えられます。その後、豊臣秀吉(太閤殿下)に献上されたと推測されます。また、万治年間の名物記には「尾張殿が所持している」と書かれた上に、後から朱色の筆で「柳沢吉保に下賜された」と書き加えられています。
ちなみに、この茶入は安貞元年(1227年)8月に道元禅師が中国(宋)から帰国した際に持ち帰ったものなので、陶祖である藤四郎が中国滞在中に制作した器であることは明らかです。また、道元禅師は久我家の出身で仏門に入った方であるため、その実家の名前を器の名称にしたのでしょう。(『山本麻渓筆記』より)

伝来のまとめ
道元禅師が中国から持ち帰り、実家の久我大納言家に贈りました。その後、宗三彦右衛門、京都の針屋紹珍、織田信長を経て、豊後の宗况へと渡り、宗况が豊臣秀吉に献上しました。大坂城が落城した後は尾張徳川家の所有となり、元禄6年(1693年)4月28日に尾張大納言から幕府へ献上されました。そして元禄10年(1697年)3月11日に将軍・徳川綱吉がこれを柳沢吉保に与え、それ以降は長く柳沢家に伝わっていましたが、明治維新の頃に伏見の豪商の手に渡り、さらに小浜の士族を経て、橋本抱鶴の仲介により、最終的に松浦家のコレクションに収まりました。

実見記(実際に見ての記録)
大正8年(1919年)10月21日、東京市浅草区向柳原町にある松浦厚伯爵のお屋敷で実際に拝見しました。
口の作りは浅く折り返されており、全体に掛かった飴色の釉薬の中に、黄色い小さな点が星のようにポツポツと散らばっています。同じ色の釉薬が二箇所(一つは肩から、もう一つは胴の途中から)流れ落ちて途中で一つに合流し、一筋の線となって底の縁まで掛かっています。その底の釉薬が溜まっている部分には、わずかに青い瑠璃色が見えます。
胴の周りにはくぼんだ筋(沈筋)が一周していますが、一部途切れているところがあります。下部(裾より下)は釉薬が掛かっておらず、鼠色の土の地肌が見えています。底の糸切りはすり減っており、茶入のあちこちに人が触れて擦れた跡があるのは、長い年月を経た古さを自然に物語っています。
口の内側や首(甑)の全面にも釉薬が掛かっており、一筋だけ底のほうまでなだれ落ちている部分もあります。底の裏側にも一部釉薬が掛かっており、釉薬がカサカサに変化(カセ)しているところもあります。
道元禅師が陶祖・藤四郎とともに、中国にある数多くの茶入の中から選び抜いて持ち帰ったものだと実感できるほど、形も釉薬の色も上品で美しく、中国製の茶入(漢作茶入)の中でもトップクラスの素晴らしい逸品であるとお見受けしました。

【原文】

久我肩衝

漢作 大名物 伯爵 松浦厚氏蔵

名稱
永平寺の開山道元禪師(久我大納言通親の子)、陶祖藤四郎を伴ひて入唐し安貞元年歸朝の際此茶入を持歸りて、久我大納言家に贈りたるに依り此名ありと云ふ。

寸法
高 貳寸八分
胴徑 帶にて貳寸四分七厘
口徑 壹寸參分六厘
底徑 壹寸五分五厘
甑高 參分貳厘
肩幅 四分五厘
重量 參拾五匁六分

附属物
一 蓋 一枚 象
一 御物袋 紫羽二重
一 袋 四つ
 笹蔓純子 緒縒り紫(玉あり)
 太子廣東 緒縒り黄
 日野廣東 緒縒り海氣
 下妻純子 緒縒り紫黄交
一 袋箱 二つ
 一 桐 古 書付筆者不詳
  久我肩衝 御茶入袋
  笹蔓純子の袋を入る
 一 桐 新
  久我肩衝袋 三
  太子廣東、日野廣東、下妻純子の三つを入る
一 挽家 黒塗 蓋裏に張紙 久我
 袋 白羽二重
一 内箱 桐 白木 書付筆者不詳
  御茶入久我肩衝
一 外箱 桐 白木 書付筆者不詳
  御茶入久我
一 總箱 杉 鐵錠前附

雜記
久我肩衝 京針屋紹珍、後信長公、尾張公。
(名物帳及び御名物御道具記)

久我肩衝
久我肩衝 尾張中納言殿に有之。
(東山御物内別帳)

久我肩衝 九州豊後にあり。
(山上宗二之記)

久我肩衝 豊後宗悦。高二寸八分半横二寸四分強口徑一寸五分甑高三分、底一寸五分。
(大名茶入極秘傳正圖式)

久我 尾張殿。
(古今名物類聚及び古名物記)

久我 漢大名物 尾州公、今甲州公(松平甲斐守柳澤侯なり)鍋屋より出來すぐれ。
(麟鳳龜龍)

久我 漢なり、殘月、國司茄子、北野肩衝、松山と同時代なり、又北野肩衝及松山とは同手同薬立なり。
(不昧公著瀬戸陶器濫觴)

久我 豊後宗况所持。堅二寸八分半横二寸四分強、廻り七寸七分底一寸五分、口一寸五分、同堅三分半、膨一寸三分、下薬薄柿、上薬膏薬色あり、茶色あり、又蛇蝎あり、土薄朱色にしてこまやかなる(茶入圖あり)。
(万寳全書)

永祿十一年九月四日晝、宗三彦右衛門所にて、久我かたつき始て拜見申候なり、形り能く候也、ころ北野などよりすこしちひさく覺え候、薬黒色なり、土てうすに薬かゝりたる也、つゆさき一筋あり、但し底へまはり申候、壺の内へも薬かゝりたるなり、口薄く覺え申候、肩すこし撫肩なり。
(津田宗及茶湯日記)

寛永五年六月十一日 公(秀忠前將軍)尾張亞相卿の亭へ渡御。
御相伴 頼宣 頼房 二卿
藤堂高虎 丹羽長重 豫參
一 掛物 圜悟墨蹟
一 花入 杵のをれ
一 茶入 久我
一 茶碗 暦手
(東武實録)

元祿六年四月廿八日、尾張大納言殿得物會、津正宗御刀懸幅、圜悟墨蹟、御茶入久我肩衝。
(帝大史料本諸家遺物得物獻上記)

元祿十年三月十一日、綱吉臨亭、例如吉里の室に入る。妾、町、繁、兩人初て謁す。吉保に則重の刀、久我肩衝、吉里に貞宗の刀、金二百枚拜領。
(柳澤文書)

久我肩衝 大名物なり、永平寺開山道元禪師歸朝の時持來の者なり、久我へ遣はせしといふ、豐臣家大阪の寶物たりしが、落城の後尾州家の物となりて幕府に奉りたるを、柳澤吉保に被下、相傳の末、維新伏見の豪商某の家に入りたるを、小濱士族某の手より、橋本抱鶴の周旋にて入手せり、宗及日記にも出でたる名器なり。
(松浦家道具帳)

明治三十四年五月二十六日正午 心月庵三疊大目
主 伯爵 松浦 詮
客 佐藤 進  馬越恭平
  前田香雪  大住清白
  山本麻溪
一 床 梁楷 寒翁馬上圖 寧一山賛
一 茶入 久我肩衝 若狭盆に載せ軸先に置く
 盆 箱書付 宗和筆
 袋 太子廣東
久我肩衝茶入、大名物なり、但し大阪城より尾州徳川家へ傳り、同家より幕府へ上り、元祿年間五代將軍綱吉公より柳澤出羽守へ贈りたるものなり、山上宗二の記を閲するに、此頃は九州豊後にありと記しあり、付ては津田宗及日記に見ゆる宗三彦右衛門は豊後の人なるべし、此の後に太閤殿下へ上りしと被考候、又萬治年間の名物記には尾州殿にありしに柳澤出羽守に賜はりし事は、朱書にて加筆ある也。因に云ふ、この肩衝は安貞元年八月道元禪師宋より歸朝のせつ携へ來りしものなれば、藤四郎入宋中製作せし器なる事も明けし、且禪師は久我家より出て佛門に入りし御方に付、姓氏を器の名に致せしなるべし。
(木全本山本麻溪筆記)

傳來
道元禪師支那より持歸りて實家久我大納言家に贈りたる者なるが、其後宗三彦右衛門、京の針屋紹珍、織田信長を經て、豊後の宗况に傳はり、宗况(一本宗悦に作る)之を秀吉に獻せり。大阪落城後、尾張公の所持となり、元祿六年四月廿八日尾張大納言の得物として之を幕府に獻上せしが、元祿十年三月十一日將軍綱吉、之を柳澤出羽守吉保に賜ひ、爾來久しく柳澤家に出傳はりしに、維新の頃伏見の豪商某之を取出し、小濱士族某、橋本抱鶴を介して終に之を松浦家に納めたりと云ふ。

實見記
大正八年十月二十一日東京市淺草區向柳原町松浦厚伯邸に於て實見す。
口作拈り返し淺く、總體飴色釉の中に黄色の小點星の如くポツ/\と散亂し、置形共色釉にて、一は肩先より、一は胴中より流れ合ひ終に一筋と爲りて底縁に掛り其底に面したる釉溜中に少しく青瑠璃色を見る、胴を繞れる沈筋一線、一部に途切れたる所あり、裾以下鼠色土を見せ、底は板起にて磨り減しあり、茶入處々に手摺れあるは自から其時代の古きを示せり、口内甑一面に釉掛り、又一筋なだれて底の邊に達する者あり、底面にも一部釉掛り、又カセたる所あり、道元禪師が陶祖藤四郎と共に支那に於て幾多の茶入中より選拔し來りたる者と覺しく、形狀釉色共に雅美にして、漢茶入中有數の逸品と見受けらる。

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