帖佐焼 ちょうさやき

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鶴田 純久の章 お話

大隅国姶良郡帖佐村字宇都(鹿児島県姶良市)にあったものです。
慶長の役後の1598年(慶長三)に島津義弘に従帰した金海(星山仲次)によって、1601年(同六)に開創されたもので、実に薩摩藩窯の根元であります。
この窯は義弘の茶道への執心から出て、その帖佐在城の間継続し、1608年(同コ二)同国加治木移城と共に終わりました。
その間前後八年、しかも関ヶ原合戦などのため、義弘が自ら仲次らを指揮して製陶させたのはわずかの間のことであるでしょう。
製品は茶碗・茶入・水指・花入などが多く、いずれも伸次が伝えた高麗伝の太白・刷毛目・三島手・宋胡録など一八種の製陶法によっています。
その特徴的なものに蛇蝸釉・太白焼・黒褐釉のものなどがあります。
蛇蝸釉の製品には水指・花生などが多く、茶碗・茶入はまれであります。
胎土がよく焼け締まり、岩石のような感じがします。
素地に青・黄・黒の釉薬を重厚に掛け、その上に白色の凝釉があります。
いわゆる古帖佐の虎斑釉・玉麟変・松皮変・鬼肌・ドンコ肌・掟焼などと呼ばれるものであります。
太白焼はまた白高麗ともいいます。
この手には茶碗が多く、香炉・高坏などもあります。
胎土が荒く黒ずんで鈍い白釉が掛かり、作行は厚手で、荘重なものであります。
黒褐釉はまた紫薩摩とも呼ばれ茶入・茶碗にあるようで、硬焼厚手で一体に不器用なつくりであります。
古帖佐の作品は総じて装飾のない無地ものが多いですが、まれに朝鮮伝来の素朴な鉄絵のものもあります。
また古帖佐焼には原土と釉薬を朝鮮から持って来て製作したと伝えられるいわゆる「火計り」があります。
なお義弘は御判手などのことをして製作を奨励しました。
(『薩摩焼総鑑』)

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