うーたん通り天草陶石研修旅行

元うーたん通り会員天草陶石研修旅行

先日2018年5月27日・28日一泊二日で、元うーたん通り会員十一名で長崎県天草市へ天草陶石の研修と慰安旅行に行ってきました。
天草陶石は有田町に限らず磁器を生産する地域にとって欠かせない原料ですが、天草陶石採掘現場は険しい山を分け入り大変なところにありました。あの白い有田焼きの基礎には天草の人々のご苦労があるのだと感銘しました。
私ども唐津焼の作家は自分で土を採取し土造りをするのは当然ですが、また違った土造りの大変さを垣間見ることが出来、歴史的にも科学的にも勉強になる旅行でした。

上田陶石さんの資料

天草陶石と上田陶石の沿革

「天草陶石」鉱床は熊本県天草下島西部に分布し、海岸線に沿って海岸脈と村山脈、それらの、東方の皿山脈から成っている。総延長は南北約13kmに及び、海岸脈と村山脈は脈幅3~4mから8~10m、最大幅は約15m、延長距離は約1.2kmから4kmでほとんど直立している。皿山脈の脈幅は膨縮に富み8~15m最大幅25m、脈の総延長は約7kmである。
これらの陶石脈は、上部白亜紀層及び古第三紀層中に貫入した流紋岩(石英祖面岩)岩脈が熱水変質作用により陶石化したものと考えられている。陶石試料によるK-Ar法による年代測定によると年代は中新世中期(1500万年前)でこれは陶石の生成の時期を示すと考えられている。
天草陶石が発見が発見されたのは、かなり古く元禄年間に旧高浜村皿山及び旧下津深江村で採掘されていたと伝えられるが定かでない。正徳2年頃(1712年)に佐賀県嬉野市吉田の製陶業者に、天草陶石を供給したのが製陶原料として使用した始めとされている。
上田家代々の累記を見ると、高浜村上田家の祖、第3代伝右衛門が享保13年(1728年)に採掘し享保15年に中止している。その後第5代勘右衛門達賢が宝暦4年(1754年)に再開採掘しており、当時は砥石または硯石として出荷されていた。第6代目伝五右衛門武弼は、天草陶石が陶磁器原料として最も優良であること聞き、肥前長与の陶工山道喜右衛門を招き宝暦12年(1762年)高浜村鷹の巣山で焼物を焼き始めた。これが高浜焼の元祖とわれている。元来、天草はいたるところ山岳が起伏して平野に乏しく田畑が少なく、村民は農耕をすることにも非常に困難であった。伝五右衛門武弼は深くこれを憂い土地の民に新しい産業を与えようと種々研究し陶石を利用することを考えた。多大の経費をかけたが利益は出なかったそこでしばしば陶業を止めるようとしたが、土地の民が失業し生活が困窮することを考えるとどうしても廃業できなかった。欠損を省みず事業を継続して、ついに鷹の巣山一郷数百人の生業とすることができた。安永6年(1777年)には、長崎奉行柘植長門守の勧めにより、五島に居留していたオランダ人と貿易をしていた。
上田家代々の中の傑出者の一人、第7代上田源太夫宜珍は、父伝五右衛門武弼より陶業を受継いだがその経営は困難を極めていた。しかしこの盛衰は実に高浜村民の死活問題であり村民に生活の糧を与えようとするものであった。
家財をなげうつことが多いにも拘らず、励みに励んで苦心惨たんしこの事業を継続して経営に当たろうと決心した由来である。陶業が他の事業に勝るとも劣らない立派な事業であり年寄りも幼い者もそれぞれ働く場あり寄る辺のない窮民もこの職につくことができ不具の身であっても絵を描き絵薬を摺り縄をないコモを編むなどの仕事をして衣食の糧を得ることができる。又農民も農閑期の稼ぎに松の大束を伐出し陶石を掘出し荷を海岸まで運んで日雇い稼ぎをしその対価で生計をたてることができる。本当に窮民を救う慈恵の事業を計画したものである。宜珍はこの事業の繁栄は高浜村および近辺の村落における村民の生活に利便をあたえるだけでなくあまねく全群の産業としたいと図ったのである。国内向けの焼物の製造に力を入れ高浜焼の最盛期を向えた。この頃瀬戸の磁祖、加藤民吉に錦手の秘法を伝授している。その後、代々焼継がれたが、明治32年(1899年)製造を廃している。
天草陶石は代々上田家の事業として、江戸時代、明治中期を経てその間陶石脈の探査開発を行い、明治45年(1912年)高浜皿山に馬車軌道並びに自転巻軌道を施設し本格的な量産体制に入り、大正11年(1922年)3月に合資会社上田商店を創始し、その後、合名会社上田商店と改称、昭和23年(1948年)5月さらに組織を変更して、上田陶石合資会社とした。

万治1年(1658年)第2代勘右衛門定正第一代高浜村庄屋を命じられる
正徳2年頃(1712年)佐賀県嬉野市吉田の製陶業者に天草陶石を供給
宝暦4年(1754年)第5代勘右門達賢砥石山の採掘を始める
宝暦12年(1762年)第6代伝右門武弼高浜皿山(鷹の巣)で焼物を始める
明和8年(1771年)平賀源内「陶器工夫書」の中で天草陶石を称賛する
安永7年(1778年)長崎出島で高浜焼の販売を始める
文化4年(1804年)第7代源太夫宜珍瀬戸の陶工加藤民吉に高浜焼の技法を授ける
文化7年(1807年)伊能忠敬一行天草測量を開始する。第7代源太夫宜珍世話役を任される
明治32年(1889年)第12代上田松彦陶窯経営を断念し陶石採掘に専念する
大正1年(1912年)陶石運搬馬車軌道・索道開通
大正11年(1922年)3月 合資会社 上田商店を創始
昭和23年(1948年)5月 上田陶石合資会社と改称
昭和27年(1952年)高浜焼を再開する
昭和47年(1972年)8月天草陶石中の鉄分を塩酸を用いて脱鉄する脱鉄工場を新設しその後昭和53年9月、57年4月に増設
昭和53年(1978年)1月陶土工場を新設し昭和59年5月に増設
昭和63年(1988年)1月焼物工場を改築
平成7年(1995年)10月展示即売所完成
平成9年(1997年)10月上田資料館完成

従業員数の推移
昭和30年150名
昭和38年200名
昭和40年~55年160名
昭和60年120名
平成10年代60名
平成14年~現在30名

天草陶石の構成成分

天草陶石の構成鉱物は、石英、セリサイト及びカオリナイトでありその他鉄化合物(水酸化鉄、炭酸塩)を若干含んでいる構成比率は、だいたい石英45~55%、セリサイト25~35%、カオリナイト15%前後ある

天草陶石の特性

天草陶石の中でも皿山脈から産出する陶石は特に
・粉砕が比較的容易
・岩石、ケイ酸質でありながら可塑性があり、成形性良好
・単味で磁器が作れる
・若干の鉄分含有により、洋食器に白く、和食器用に適度な青みがつけられる
・強度が高く、硬い製品ができる
・チタンの含有量が少ないので、還元焼成した場合「くすみ」がでない
・焼成温度を上げずに透光性が出せる
・耐火度が磁器はい土に近いので調合に幅がとれる

天草陶石の鉱量

陶石の埋蔵量 2~6億トン
耐火度26番以上の高品位陶石埋蔵量 2,300万トン
耐火度26番以上の高品位陶石の可採量 300万トン

主な納入先

肥前陶土鉱業協同組合(有田焼、波佐見焼)
共立マテリアル㈱
日本ネットワークサポート㈱・㈱香蘭社・光洋電器工業㈱等の碍子会社

高浜焼の歴史

初代の作品(1762~1798年)

上田家第六代上田傅五衛門武弼時代の作品である。
宝暦一二年(1762年)皿山に窯を始めた。初め肥前大村領長与の陶工を雇って陶窯を開いたのである。当初は失費多端、多大の経費をかけてもその効果は少なかったが事業を継続しついに鷹の巣山地区に数百人の生業となすに至った。
染付錦手焼でオランダ人と交易したのはこの時代のものである、皿、鉢、花瓶、酒器等の錦手を焼いている。皿類はスープ皿の形をなし大きさは12寸、8寸、6寸のものが残っている。
上絵は鉄による赤、銅による青緑色、マンガンによる紫色、及び一部泥金を使用している。その色の調子がかなり厚く絵付されているあたりは全く九谷焼製品に似ている古伊万里風の壷もある

第二期の作品(1789~1818年)

第七代上田源太夫宜珍翁時代の作品で平戸三河内より陶工を招き自身平戸に伝習に行き大いに工夫、研究するところがあった、その作品は前期に比して一層の進歩をなしている三河内系統を多分に加味している高浜焼としては最も精彩を放った出来栄えである。「清玩」銘かあり染付をもって細密なる山水や人物を描き食器茶器その他の細工物等を作った。呉須の火度に至っては三河内焼とほとんど同一であるがその格好、図柄は三河内焼よりやや見劣りがある。
作品は三河内焼即ち平戸風のものが多い。平戸焼風の彫刻のある錦手の茶碗、染付の大皿、鉢類、徳利等、多数残っている。
「清玩」の銘があり三河内焼系統のものが多く細密なる山水や人物を描いた食器・茶碗類が多くのこっている。

第三期の作品(1823~1861年)

第十代上田源太夫定行の時代の作品で肥前の亀山より陶工を招いて焼いたものであるので亀山焼とほとんど同様の作品である
釉面の大なる貫入、呉須の鮮やかにして濁りがなく冴えたる色で、繊細なる下絵を描いたもの等は逸品と称される。「東肥天草」と銘を付したものが多い。
亀山焼は文化元年(1804年)長崎奉行の勧めにより始まったものでその絵付けなどは有名な絵師によって描かれているので亀山焼は日本の磁器中最も精巧なる染付を行ってる。
この頃の高浜焼は亀山焼を模倣せしめた為、中には殆ど見分けがつきにくい作品がある強いて両者の相違を比べれば釉薬がかなり異なっておりしたがって呉須の色も多少相違を生じたと思われる。高浜焼の愛好者中最も喜ばれるのはこの部類のものである。「東肥天草」の銘が書かれている。
亀山焼とほとんど同様の作品であり精巧な染付を行っている。

明治時代(1869年~1889年)

十一代上田定珍~第十二代上田松彦時代の作品です。
明治2年(1869年)上田源太夫定珍か再び高浜焼を始めその後-盛一衰があったが明治22年(1889年)頃まで焼いている。
その後、皿山地区の赤崎傅三郎、柳本松三郎、野口鶴一等が窯を借りて明治32年(1899年)まで継続した。
明治時代の製品は安価な製品を大量に生産したようで品物の気品が非常に落ち、唐呉須の代用として酸化コバルトが使用さ付の着色が著しく派手になった。

現在の作品

明治中期に一度途絶えたが、昭和27年に復興して以来、その火を絶やすことなく発展、守り続けられている。その間、陶土工場の新設、昭和63年には焼物工場の改築をおこない陶石の採掘、製土から焼物の生産までの体制を整え現在に至っている。
最上級の天草陶石を使用しどこまでも白く、薄く、透明感のある磁器を目指して日常食器を中心に生産している。また、江戸時代中期の高浜焼の復刻、ユニバーサルデザインの食器の開発等現在の生活様式に調和した製品の開発に日々研究をかさねている。

上田家屋敷

上田家は東信濃の時代は滋野と称していた。大阪冬、夏の陣で大阪城落城後、我が高浜の地に隠栖した。
天領天草の代官、鈴木伊兵衛重辰(しげとき)は万治元年八月(1658年)上田家第二代勘右衛門定正に庄屋を命じた。これが庄屋上田家の祖であり、その後代々庄屋を幕末まで受け継がれた。現在は十五代当主上田萬壽夫社長へと受け継がれています。
この建物は、七代目当主上田源太夫宜珍(よしうず)の時代、文化十二年(1815年)に建築されたものである。
約六百坪の土地に南向きに建てられ、大広間(十七畳)、中ノ間(十二畳)、居間(十二畳)表座敷(十二畳)、奥座敷(八畳)裏座敷(九畳)、離座敷(十二畳)など、約百畳の広さと部屋数は約二十室におよんでいる。
天井は非常に高く、二間半(4. 5m)ほどの高さである。家の材料は、シイ、マツ、などの雑木を使い、がっしりと構築され海からの強い西風や、台風にもビクともせず、長年の風雪に耐えて来た。
山を背景に斜面を生かした庭園は、天草の中でも第一級のものである。この様な旧役宅がそのまま現存しているのは、歴史学的、建築学的にも、実に貴重な文化財である。

第12回(平成11年度)くまもと景観奨励賞受賞
平成18年3月27日  文化庁登録有形文化財登録指定

About the author: Yoshihisa Tsuruta

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