藤堂伊賀 とうどういが

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鶴田 純久の章 お話

伊賀国(三重県)の国主藤堂侯が指導奨励した時代の伊賀焼を指します。
藤堂高虎は筒井定次のあとを受けて慶長年間(1596-1615)伊賀の国主となりましたが、陶器に関してはなんら事蹟を残していないようです。
世間には高虎を藤堂伊賀に関連させた記録が時々あるがこれは誤りで、伊賀焼の作興に意を注いだのは二代大通院高次・三代了義院高久でありました。
藤堂家古記録によれば、高次は寛永年間(1624-44)京都の陶工孫兵衛・伝蔵を呼び寄せて火加減などを教示させました。
当時つくったのは水指で、その数は百三十三個でありました。
『三国誌』に「先君大通廟(高次)の時命じて水指を作らしむ、その製閑雅なるを以て柳営の御物となります。
自余みな家の宝庫に蔵む、これを御家窯とも称す、また手大徳利ともいふ」とあります。
孫兵衛・伝蔵は火加減を教示し初窯で水指百三十三個をつくっただけで、このほかに二人の作品で残っているものはないようです。
これを藤堂伊賀の創始とします。
高次は1676年(延宝四)没。
そのあとを継いだ高久の時代には伊賀陶土の濫掘を禁じ御留山を設けるに至りました。
初期の藤堂伊賀には花入はほとんどみられず水指ばかりであります。
高久没後の伊賀焼はまったく振るわず、『三国誌』には「新次郎没後の伊賀は濫粗順なく僅かに遺韻を存し日用雑器を作るを主とせしが近時に至りまた漸く盛となれり」と記しています。
『三国誌』が成立したのは1761年(宝暦一一)ですから、高次時代に端を発しその継続時代をみずに以来粗製濫造が百余年続き、やっと宝暦(1751-64)になって再び復活のきざしをみたことになります。
それは藤堂高疑の指導啓発に負うところが最も大きいです。
高疑は1770年(明和七)に家を継ぎ1806年(文化三)に没しました。
趣味の深い茶入で、自分の好みを弥助・定八らの陶工に焼かせました。
すなわち宝暦より文化(1804-18)に至る五、六十年間は藤堂伊賀復興の時代に当たり、久光山久兵衛・弥助・定八・得斎らの陶工が輩出しました。
例の伊賀国丸柱村の銅印も恐らく高疑の与えたものであるでしょう。
なぜなら初期の藤堂伊賀にはこの篆字印はなく、この印のある作品は宝暦以後のものと考えられるからであります。
この時代の作品はあらゆる種類の雑器・茶器と共に、九谷焼・オランダ焼・万古焼の模作でありました。
つまり藤堂伊賀は1635年(寛永こI)の高次時代に始まり、孫兵衛・伝蔵が水指百三十三個を焼いたのみで寛永に咲いた花はその実を結ばず百余年が過ぎ、宝暦から高疑の奨励と努力によっていくらか復興の気運がみえたとはいえ、これも特色ある伊賀趣味の核心に触れた作品を出すには至らず、多くは模作に流れ、豊富な陶土を持ちながら陶工に人材がなく窯業はあくまで農家の副業に止まりました。
幸いに藩侯の保護奨励があった場合だけ、刺激を受けていくらか活動をしたにすぎないようです。
高疑没後はまた不振の時代になり、天保(1830-44)以後は有名無実になったといえます。

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