古代朝廷に仕え、埴輪、土器などをつくる職にあった部民。
またはハニシベとも読みます。
乖仁天皇の代に初めて土師部が定められた。
『日本書紀』(巻六)によれば、乖仁天皇の三十二年7月、皇后日葉酢媛命が亡くなった時、殉死が問題となりました。
この時野見宿禰は出雲の土部を召して、土で人馬や種々の器物をつくらせ、墓のそばに立てて人の代わりとしてこれを埴輪と呼び、殉死を禁ずることを提案しました。
天皇は宿禰の案を入れ土部職に任じ、本姓を改めて土部臣としました。
これ以来土部連らは常に天皇の葬儀を掌ったと伝えています。
大宝律令は陵司の中に土部十人を置いました。
『令義解』諸陵司に「土部十人、凶礼を賛相することを掌る、凶礼とは終を送るの礼を謂う、すなわち土師宿禰の年位高進せる者を人連となし、その次を少連となし、みな紫衣刀剣、世々凶儀を執す」とみえます。
781年(天応元)6月土師宿禰古人、同道長ら十五人は、祖先は吉凶の祭事にあずかったが今は凶儀のみにあずかっている、できれば土師を菅原姓に改めたいと奏上しました。
天皇はその請願を許し797年(延暦一六)4月、官符によって、吉礼にあずからず凶礼のみにあずかるのは垂仁天皇の恩賞の意図したところではないとし、土師宿禰が凶儀にあずかることを廃しました。
(『日本書紀』『続日本紀』『令義解』)